俳句と和歌の鑑賞

        「俳句と和歌の鑑賞」

 

 小学生の頃に百人一首を始め、中学・高校時代には夢中になった。百首全部を暗記し競技の腕を上げた。国語の時間の、和歌や漢詩の講義が好きになったのはその影響であり、就職後もときどき和歌や漢詩の本を読んできた。

(1)最近読んだのは、大岡信の著作「詩歌遍歴」、「うたの歳時記-恋のうた 人生のうた」、「うたの歳時記-夏の歳時記」、井上靖「額田女王(ヌカタノオオキミ)」、白州正子「西行」など。その他、毎週月曜に載る朝日新聞の「朝日 俳壇 歌壇」(毎回80首)には必ず目を通すようにしてる。

 いくつか、魅かれた歌を挙げてみよう。

 

○ 朝日新聞「朝日 俳壇 歌壇」より

・山桜 山にけぶりて 人を恋ふ(2016/5/16付)

・向日葵(ヒマワリ)は 金の油を身にあびて ゆらりと高し 日のちひささよ(5/16付。前田夕暮、ゴッホを詠った大正3年の作)

・山開(ヤマビラキ) 祝意の晴を 賜りし(7/25付)

・霧にかすむ 落葉松林を抜けてきて 着きたる小屋は 濃い霧の中(7/25付)

・夏休み 近づくほどに 輝く子 (8/1付)

・海の青 空へ返して 梅雨明くる(8/15付)

・母のもとに 還る流灯 爆心地 (8/15付。原爆では多くの子供たちが亡くなった。流灯とは流し灯篭のこと)

・みほとけに 委ねし命 菊枕  (9/26付・あの世での平安)

・冬木立 貝になりたい 人ばかり(9/26付・俳句時評。黙々と歩く勤め人を現代の象徴と見ての一句か)

・秋蝶の地に落ち歩む息遣い(10/17付・落ちた蝶に自分をなぞらえて)

・「卒寿とふ 自負も自戒も 遠ざけて 誰かに甘えてみたき 秋霖」

 (10/24付・私も傘寿に近い。忍耐とねばり、「ほんの少しは世のために」という自負などで生きてきた。でも、ときどき無性に誰かに甘えたくなる)

・「太陽光 パネルの並ぶ 関ヶ原の 何処に鎮むや 鬨(トキ)の声ごえ」

 (10/24付・芭蕉の「夏草や 兵(ツワモノ)どもの 夢のあと」を思う。昔と今とで、感じ方に大きな違いがあるようだ。最近、中仙道を歩く)
・「熟成す 命の重み 葡萄かな」(10/31付)
・『「ほら見て!」と 言う相手亡き さみしさよ 秋明菊(シュウメイギク)が 

 咲き始めたのに』(11/13付)
・「便利さは 歩きスマホに 見るごとく 人の人たる 所以(ユエン)揺るがす」(11/28付)
・「歩いては 抱っこをせがむ子 冬日和」」(12/11付・日々平穏) 

・「いたはりの 一ト゚言抱き 冬ぬくし」(12/11付)
・「漁の舟 小春日和に 眠りをる」(12/26付)
・「蕨手は 夜見の手 それも幼き手」(12/26付・俳句時評・高野ムツオ。蕨手-野に生える蕨、夜見-黄泉。震災で津波に呑まれた幼子を悼む歌)

・「誕生日 迎えし朝に 「泣かないで」と 言い残し逝きし 十歳の君」(2017/1/16付)

・「永遠と いふ幻とゐる 日向ぼこ」(1/16付)
・「孤独こそ 大きな贅沢 年守る」(1/16付)

・「七草の うつわの中の 山野かな」(1/23付)

・「去年去年 100年持たす 命かな」(1/23付)

・「厳寒の 北海道に 生き伸びん」(1/30付)
・「日脚伸ぶ この一枚の 紙の上」(1/30付)
・「大寒の 影の食い込む 商店街 ひとり花屋の あたり春めく」

                     (2017/2/12付)

・「井月の 如く果てけり 冬の蝶」(2017/2/12付・「井月(セイゲツ)」は放浪の俳人)

・「バーバ」「ブ-ブ」 語尾少し上げ 背なの子の ぬくしいとおし 帰途は夕焼け(2/20付)

・「もう春を 待ってゐられぬ 野の光」(2/20付)

・「きさらぎや 死にゆくひとへ 梅開く」(2/20付)

・「自立とは 小さき革命 春立ちぬ」(いろいろな「自立」。中一の我が孫は苦しみながら自立中。小学校では楽しさを満喫。今は自信過剰と自信喪失の間(ハザマ)にあり、いじめっ子と見られて悩んだり。2/27付)

・「耕せば ただひたすらの 人となる」(黙々と耕す。2/27付)

・「白梅の 香り残して 閉校す」(2/27付)
・「母という 宝は天に 春の空」(3/6付)
・「久方の 天に春立ち 曾孫(ヒマゴ)抱く」(3/6付)
・「雛飾り 止めて媼(オウナ)の 余生かな」
(3/6付)

・「歯がゆさが 電池不足の リモコンを 押すのと似てる 君の返信」(3/6付)
・「いのちとは ひらかながよし はるがきた」(3/13付)
・「池の面に 微笑み少し 春浅し」(3/13付)

・「耕して 耕して耳 遠くなり」(3/20付)

・「梅香る 風にも色の あるような」(3/20付)

・「いつもより ながくてすこし きつかった そつえんのひの せんせいのだっこ」(4/9付)

・「中庭の ロープが解かれ 心臓と 一緒にさがす 受験番号」(4/9付。ピッタリ。私のときは他校を受験の日で、父が見に行った。父もそんな思いだったかも)

・「早蕨や 優しき人は 裏切らず」(4/9付。そんな人、いいな)
・「振り仰けて(フリサケテ) 若月(ミカヅキ)見れば 一目見し 人の眉引(マヨビキ
) 思ほゆるかも」(4/9付。「短歌時評」?より。大伴家持。言葉遣いがまるで音楽のように美しいとの評あり)
・ 「一身に 流れて海へ 放たるる 生死の際の やうなる河口」(4/9付。北久保まり子。上に同じ)
・ 「両膝(モロヒザ)を ついてしまえば 土は春」 (4/17付)

・「吉野から 京都醍醐寺 花吹雪」(4/26付。豪華絢爛。どちらも行ったことがある

・「道徳という 教科無き フランスは 小学生より 哲学学ぶ」(4/26付。人間の深さに違いがでる?)
・「壁越しの 深いためいき 受けとめて 眠りに落ちる 深夜病棟」(4/26付。何となく分かる気持)
・「耕人の しばらく雲を みつめおり」(5/7付)
・「てて」は手に 「あんよ」は足に 背も伸びて さくらさくさく 子の入園式(5/7付)

・「雨脚も 染めんばかりの 牡丹かな」(5/22付)

・「聖5月 人には青の 時代あり」(5/22付)
・「平和こそ 山川草木 皆笑う」(5/29付。平和だからこそ山を楽しめる。国内が戦場になったら、家族と逃げ惑う日常が来る)
・「地響きに 滝の重さの ありにけり」(5/29付)

・「緑陰の 座ってみたくなる ベンチ」(6/5付)
・「膨大な 時と深さに 息をのむ 五体投地で 進みゆく人」           

                  (7/10付。チベット仏教)
○ 「折々のうた」(大岡信著)

 

「薦(コモ)着ても 好きな旅なり 花の雨」⦅田上菊舎(キクシャ)。江戸後期の女性俳人。各地を旅して句作。旅への賛歌と決意を「乞食になってでも旅に出たい」と詠んだ。「薦」は乞食の着物。⦆

 
・「肩車 上にも廻る 風車」(武玉川・ムタマガワ。「武玉川」は江戸時代の雑多な形式と内容をもつ俳句集のこと)
 
・「見ていたい 花火を見上げる 君だけを」(和田香澄)
 
・「月天心 貧しき町を 通りけり」(与謝野蕪村)

 
 ○ 「うたの歳時記・第5巻-恋のうた 人生のうた」(大岡信著)

 以下の4首は平安中期の歌人・和泉式部の作。 恋に人生をかけた情熱の人であるが、人生の深みを見つめる、はっとするような歌もある。この本で和泉式部という歌人を初めて知った。

・黒髪の 乱れも知らず 打伏せば 先づ掻き遣りし 人ぞ恋しき

(解説:「先づ掻き遣りし 人ぞ恋しき」は、「いとしげにこの黒髪を撫でてくれたあの人が恋しい」の意)

・あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの あふこともがな(百人一首)

・とことはに あはれあはれは 尽くすとも 心にかなうものか 命は

(解説:「いとしい」という一言がほしいとあなたは言うが、かりにあわれを永久につくしてみても、限りある人間の身で、この心の無限の渇きをいやすことなどできるものでしょうか)

 ・もの思えば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる 魂(タマ)かとぞ見る

「額田女王(ヌカタノオオキミ)」(井上靖著)2016年に読む。

 著者は「額田女王は天皇に仕える巫女であり、天智天皇とその弟・大海人皇子(のちの天武天皇)に愛された」と見て、この物語を描いた。

 ・ 熟田津(ニギタヅ)に 船(フナ)乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(唐・新羅連合軍と戦うために<後の白村江の戦い>、朝廷軍が筑紫へ向かう途中、伊予の熟田津に立ち寄ったときに額田女王が詠った雄々しい出陣の歌) 

 ・あかねさす紫野行き(ユキ) 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る   

                        (額田女王)

○「西行」(白州正子著) 2016年に読む。

 著者は伯爵家令嬢として明治43年に生れ、平成10年に88歳で没した。能や古寺、骨董等への造詣が深く、「能面」(15回読売文学賞)、「かくれ里(近江の古い寺社の巡礼記)」(24回読売文学賞)など、関連の著作が多い。吉田茂首相の側近・白州次郎氏はその夫。数年前、白州夫妻を主人公にしたドラマがNHKで放映されたが、二人の強烈な個性が今も印象に残っている。

 この本は西行の足跡をたどりながら、その人柄と生き方への思いを語ったもの。西行は俗名・佐藤義清(ノリキヨ)。鳥羽院を守護する北面の武士であったが、23歳のときに出家。原因は鳥羽天皇の中宮・待賢門院へのかなわぬ恋にあるとの説もあるが、不明。高野山、伊勢などで長く草庵を結び、吉野、四国、東北を廻る。73歳没。自選の歌集として「山家集」(1560首)あり。花の歌、恋の歌、亡き人を思う歌、贈答の歌(親しい人との歌のやりとり)、旅の歌など。

・伏見過ぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 日野まで行きて 駒試みん(武者であった西行の若き日の歌)

・春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり(著者の好きな歌という。はるかかなたの、いにしえの世界へと心が誘われる)

・吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき(在原業平も「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と詠んでいる)

・春ごとの 花に心を なぐさめて 六十路(ムソジ)あまりの 年を経にける

・願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃

・諸共に 我をも具して 散りね花 浮世をいとう 心ある身ぞ

・惑いきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり

・心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮(「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮(定家)」と共に「三夕(サンセキ)の歌の一つ」)

・嘆けとて 月やは物をおもはする かこち顔なる わがなみだかな(百人一首)

○「百人一首」(大岡 信著)2016年に読む。 

 小学生の頃代から「かるた競技」に夢中になり、すべての句を覚えたが、歌の意味には全く関心がなかった。関心を持つようにになったのは高校生時代。特に恋の歌に惹かれた。

○「定家 明月記私抄」(堀田善衛著・新潮社・1986年2月20日発行)-2017.3.13記

 著者には「ゴヤ」や「ミシェル・城館の人」(モンテーニュの生き方を書いたもの)などの著作があり、昔、興味深く読んだことがある。今回、図書館でこの本を見つけて堀田善衛は「藤原定家」のことも書いているんだと興味を惹かれて借りてきたものである。

 藤原定家は鎌倉初期の人。「新古今集」の撰者。父は俊成。兄弟姉妹は27人。
「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 嶺に別るゝ 横雲の空」
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮」
等の歌あり。

 この本は、多くの煩雑な公家世界の行事に追われて疲労困憊する一方で、官位が低いために貧しかった家計のやりくりに追われる定家の日常を、当時の世相(京の町は荒廃。強盗が横行。隣家も襲われた)を交えながら描いたものである。
 定家の嘆きは多い。たとえば、
貧乏(雨漏りがひどいとか、着るものがなくて祭り見物に行けない、傘がこわれて雨の日は外出できない、必要にせまられ尻尾のない安い馬を買ったなど)や病苦(脚気、腰痛、胃痛など)、官位昇進の遅さ、荘園からの地代の少なさ、宮仕えでの煩雑な行事の多さなど。

 この本で平安末期から鎌倉初期の世の現実を初めて知った。中学時代に授業でこんなことを教えてもらっていたら、和歌の読み方がもっと変わっていたかもしれない。

(2)私の好きな歌

・あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり(百人一首)
・岩ばしる 垂水の上の 早蕨(サワラビ)の 萌え出づる春に なりにけるかも(志貴皇子)
・哀しみは 生きの命が 生めるなれば 子としおもひて 疎か(オロソカ)にせじ (窪田空穂)
「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 
 秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう」(八木重吉)             
 これらは昔から大好きな歌だったが、
こんな歌にもっともっと会いたいものである。

 

(3)記憶に残る歌

・天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

百人一首。唐に渡った阿部仲麻呂は帰る船が遭難し、一生日本に帰れなかった。唐の都・長安ではるかに奈良を偲んでうたったもの。長安に旅行した時にこの句を刻んだ石碑に出会った) 

・願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ(西行)

・旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る(芭蕉)

・閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声(芭蕉。「岩にしみ入る」という一言にとても惹かれる)

・箱根路を 我が越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ(源実朝。雄大な一句。万葉調と言われる)

・年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣のたては ほころびにけり
(「前九年の役(1051‐1062年)の衣川の戦いで、源義家が逃げる敵将・阿部貞任に下の句で呼びかけ、貞任が上の句を返したという)

・風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとかせん(忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の辞世の句)

・不来方(コズカタ)の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心(石川啄木。少年時代がなんとも懐かしく思い出される)

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2017年の山とウオーク

                 2017年の山とウオーク
 
 今年は山やウオークに行ける自由な時間が週に2回、取れるようになった。妻がこれまで通り、週に2回、デイサービスに通うほかに、娘が1月17日から、ウイークデイの毎日、9時30分-15時30分の間、就労移行支援事業所(職業訓練を受け、1年後に就職を斡旋してもらえる)に通うようになったからである。それまでは家にいる娘につきあって、風呂やウオークに付き合うことが多かったのだが。
 
(今年の山とウオーク一覧)
 ○ 1月20日・水泳・30分・1000m。火事があって閉鎖していたプールが再開した。午前中ならいつでも泳げるフリー会員、月3500円。
 ○ 1月23日・水泳・同上。
 ○ 1月26日・ウオーク・取手-手賀沼・4時間。
 ○ 1月28日・ウオーク・取手(戸田井橋)-成田。久しぶりに成田まで歩く。9時間を要した。2年前は7時間で歩けたし、病後でも8時間で歩けたのだが。足が弱くなったことを実感。脚力の回復をはかりたいとの思いが強い。
 なお、朗報は、靴のつま先に痛みを和らげる市販のパッドを入れたところ、足裏があまり痛まなくなったこと。5回目のサンチャゴ巡礼への挑戦に希望が出できた。
 ○ 1月30日・高尾山 六つ星の9人で。久しぶりに山に登った。
 ○ 2月 2日・水泳・1500m(取手スポーツセンター)
 ○ 2月 4日・健康相談(取手スポーツセンター。足裏の痛みについて)
 ○ 2月 5日・三浦半島の鷹取山。六つ星定例山行 参加33名(うち視覚障害6名)
 ○ 2月 6日・水泳・1000m 
 ○ 2月11日・府中・郷土の森。六つ星定例山行 参加31名(うち視覚障害10名)
 ○ 2月12日・深大寺植物園(昔の職場の登山仲間・女性3人と)
 ○ このあとは、週に1回の水泳と1-2回の3-4時間ウオークを心掛けている。
 ただし、日々の家事や週に1-2回の妻の病院への付き添いなどがあって、日常に埋没してしまい、山には、思い切って行かないとなかなか行けない。
 ○ 3月19日・大野山。六つ星臨時山行 参加30名(うち視覚障害6名)
 ○ 3月21日・稲毛海浜公園。六つ星の仲間6人で、全盲のご夫婦(幼児と赤ちゃんが一緒)の散歩をサポート。普通のサポートとは異なり、サポートの仕方には工夫が必要。サポートをされる側とする側が事前によく話し合うことが大事と強く感じた。
 ○ 3月28日・高尾山。六つ星の5人で。いろはの森-山頂。
 ○ 4月 1日・流山市の「運河」散策。六つ星定例山行 参加31名(うち視覚障害9名)
 ○ 4月15日・久しぶりに長めの散策。
利根川の堤沿いに我が家から市内の小文間までを4時間で往復した。春爛漫である。
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○ 4月16日 北高尾縦走(八王子城跡-堂所山-景信山-バス停・小仏)・単独行
 一か月ぶりの登山。歳のせいで脚力が弱ってきているが、それでも、アップダウンがきついこのロングコースが歩けるかを試したくて、家事の合間を見て、やや無理をして出かけた。
 早朝5時に起床。登山口は9時スタート、17時バス停着。休憩を含み8時間を要した。
 何とか完走はできたが、たいへん疲れた。歩いているときは何とか足が前に出たのだが、家にたどり着いくと、どっと疲れが出て、動くのがつらくなった。何とか、もう少し、脚力アップを図れないものだろうか。運動強化?
 でも、晴れて気温が20度を越え、久しぶりに山の春を満喫できた。
 
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○ 4月23日(日) ロングウオーク 取手-成田。一人で。 
 早朝に起床。7時30分、戸田井スタート。晴れ、利根川堤を行く。春たけなわ、土手一面に新緑が映える。それと、田植え時期の水田に映るのは青空と白い雲。成田線の木下駅、印旛沼の遊歩道などを通って成田ニュータウンへ。写真を撮りながら、ゆっくりと歩いたので、9時間を要した(ニュータウン内はバスで移動)。最後は足裏が痛くなり、靴下を脱いで歩く。

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○4月28日・隣町の利根町散策(バス終点の北方車庫周辺ほか)
○5月3日・直子一家来る。4日・娘と銀座散歩。
        5日・妻と娘と車椅子で手賀沼散歩。
        6日・娘と風呂「湯楽の里」。
○5月7日・水海道駅-「福岡堰」-つくば新線「みらい平駅」散策。一人で。
 (下:「福岡堰」。桜の名所だが、すでに桜は終わっていた)
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○5月12日・房総風土記の丘(成田線・下総松崎)。
  六つ星の仲間5人で(うち視覚障害1名。盲導犬1) 。歩行6時間。100を越える古墳を廻り、709年創建の「龍角寺」跡まで足をのばす。
○5月14日・八王子市の都立長沼公園(視覚障害の初心者登山講習会) 
 六つ星定例山行 参加12名(うち視覚障害2名)
○5月30日・高尾山(高尾山口-山頂-城山-小仏峠-バス停・小仏)
   六つ星の仲間12人で(うち視覚障害4名)。
○6月17日・八国山(東村山)。六つ星の仲間26名(うち視覚障害11名)。
○6月20日・高尾山。六つ星の9人で。景信山。
○7月25日・高尾山。六つ星の11人で。蛇滝-高尾山。
○8月 6日・横瀬川ウオーターウオーキング。六つ星定例山行。参加19名(うち視覚障害4名)。
○8月 7日・明治神宮散策。六つ星の仲間4人で、全盲の奥さん(赤ちゃんと一緒)の散歩をサポート。
○9月19日・高尾山。六つ星の12人で。日影-高尾山。
○9月24日・高尾山(稲荷山-高尾山。下山はリフトを利用)。六つ星の仲間等7人で、全盲のご夫婦(幼児と赤ちゃんが一緒)の登山をサポート。
○9月29-30日中山道(和田峠)。単独行。
 最近、数か月、和田峠を歩きたいと狙っていたが、用事があったり、天気が悪かったりして、なかなか行けなかった。それが、やっと、条件に恵まれた。天気予報は2日とも晴れ。妻の介護を一時離れても問題なし。上野から新幹線で佐久平へ。そこから9時01分発の千曲バスで八幡へ。念願のウオーキング。中仙道はほぼ歩き終わったが、和田峠が残っていた。
 初日は9時30分に八幡宿をスタート。望月宿、長久保宿を通り、和田宿手前にある「民宿みや」泊り。17時30分着。2食付き6500円。
 2日目は7時スタート。和田宿の中心を9時30分に通過。和田峠(標高1531m)14時30分着。16時10分樋橋(トヨハシ)着。丁度来た循環バスに乗り、下諏訪駅16時30分着。
 下の写真は「和田峠の頂」、「峠の頂にある案内板」、「あと少し。頂の案内板が望める」、「峠への道」。
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1)和田峠への登りは傾斜がゆるやかで歩きやすい。
 標高1100mの「和田峠口」から車道を離れて山道に入る。これが旧道。上記の写真に見るように幅広でゆるやかな登り。歩きやすい。時間はかかったが、頂までこんな歩きやすい道が続く。江戸時代、この峠は中山道最大の難所と言われていたが、そんな感じは全くしなかった。ほとんど人に会わず。すれ違ったハイカーは3組7人のみ。熊注意の立て札あり。
2)宿場風景(4枚目は高札場)
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3)珍しいものあり(藁ぶきのバス停、苔むした石仏、ミミズを称える碑)。
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4)疲れた。
 民宿から和田峠まで7時間30分。予想以上に時間がかかった。要因は歩行スピードがかなり落ちてきたこと、ひと月前から左膝に痛みが生じたこと(ただし、歩くときはほとんど痛まない。座ると痛む)、前夜の宿が和田宿からかなり離れていたこと(和田宿手前2時間の距離)など。
 疲れた。疲れは峠の頂でピークに達したが、それでも足を前に出して下山道を下った。ともかく足を前に出すことに神経を集中。下諏訪まで歩かずに、途中でバスに乗る。歩行時間は9時間。
5)これからはマイペースの単独行でゆっくりと歩かざるを得ない。
 歩くスピードが落ちたので、これからは山仲間の登山スピードに付いて行くことは難しくなった。「登山は単独行にしぼろう」とあらためて強く感じた。
 
(生き方、さまざま) 2017.9.18
   最近、知人からいろいろと話を聞いた。
○ 広島・長崎の原爆反対集会や国会を取り巻く政府への抗議集会などに、長年参加し続けてきた人。日常生活の中でそのような一人一人の個人の政治行動こそが大事だと思っているようだ。その生き方の真剣さ。
○ 青年時代から山に熱中し、最低限の生活費以外、給料のほとんどを山につぎ込んできたという。私は40歳からなのに、この人は20才前から。同じ70歳台だが、登山にかける情熱と登山の質と量は私のはるかに上だ。
○ 障害のある子供に、農業を通して物を作る喜びを教えてきたという。今、その子は親と一緒に作った野菜を売り歩いている。障害のある子どもへの接し方が私より数段上だ。「物を作る喜びを教える」という発想は私には思い浮かばなかった。
 
 
 

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2016年の山とウオーク

2016年の山とウオーク

 今年は山やウオークを楽しむ時間が大幅に減少した。  

 それは主に、妻が膝痛で歩くのが困難になり、代わって私が家事全般を担当するようになったことによるが、その他に、私のほうも3月に軽い脳梗塞を発症し、これに加齢による体力・脚力の低下も加わって、病後は歩行について不安定さと疲れ易さが増したことも影響している。

 病後にも時間を見つけて、山やウオークを行っているが、9月の北岳以外は、それを楽しむというよりはむしろ、体力と脚力の維持・回復を図ることを主な目的としたものである。

 

 今後も山やウオークを楽しむ時間を増やすことは難しいだろう。 

 40歳代に入って以後、主に楽しんできたのは「登山とサンティアゴ巡礼」であり、その他では、読書と囲碁を楽しみとしてきた。

 これからは山と巡礼に代えて、絵画や短歌・俳句について鑑賞の世界を広めるほかに、ときには絵を描いてみたいと思っている。

 

1.山とウオーク

 3月18日に脳梗塞を発症。幸い、軽かったものの、「ふらつく」という後遺症が残ったほかに、医者から再発の恐れを指摘され、視覚障害の方をサポートする登山は、軽いものを除いてはできなくなった。更にこれに加え、妻の膝痛が悪化して、毎日、3食の食事作りや買い物等に追われ、山やウオークを楽しむ時間も大幅に減少した。

 一方、毎日、脳梗塞の再発を予防する薬を飲んでいるためか、登山でもロングウオークでも疲れ易くなり、たとえば、1日の登山行動が4時間を超えると急に疲れが増して、スピードが落ちてしまうし、家に帰ってからも疲れが抜けずに、だるくて気力が減退することが多くなった。これは水泳についても同じである。  

 

 今後もウオークや水泳を続けて、体力、脚力の強化を図るつもりでいるが、78歳(年末には79歳になる)という年齢を考えると、あれこれと運動に力を入れても、数年前の体力、脚力への復活は難しいかもしれない。

○1月17日  六つ星山の会・初詣山行・鎌倉八幡-錢洗弁天

                参加42名(うち視覚障害16名)

○1月31日  六つ星山の会・会山行・伊豆ヶ岳-天目指峠

              参加30名(うち視覚障害8名) 

○2月14日  思い出のウオーク・中仙道・本庄-倉賀野 

○3月4-6日 第15回視覚障害者登山全国交流会・広島宮島の弥山へ。帰途、神戸・六甲山にも登る。

                 六つ星の参加21名(うち視覚障害9名)。全体参加は12団体・211名。

○3月18日   脳梗塞発症

 3月23-30日 入院

○4月23日 病後初めてのロングウオーク・取手-成田(単独。詳しくは後記参照)

(○4月25-5月20日 妻が腰部脊椎間狭窄症の手術で入院)

○4月29日 病後初めての山行・高尾山-陣場山(単独。詳しくは後記参照)

○5月2日  病後2回目の山行・鍋割山(単独。詳しくは後記参照)

○5月28日 六つ星山の会・臨時会山行・鍋割山(9月北岳の準備山行)。参加17名(うち視覚障害5名) 

○6月12日 思い出の個人山行・鍋割山

○6月22日 ロングウオーク・取手-成田

○6月29日 ロングウオーク・取手-成田

○7月3日  ロングウオーク・取手-成田

○7月16日 ロングウオーク・取手-下総松崎

○7月24日 単独山行・陣馬山-高尾山

 その他、最近は週に2-3回、プールに通い、1回に1,000mを泳いでいる。これまでは月に1-2回だったが、体力回復のために回数を増やしたのである。7月8日にはクロールで連続して1,500mを、7月23日には2,000mを泳いだ。ただし、水泳でも後に疲れが長く残る。

○8月11日 水泳1,000m(3食の食事作りの合間に約30分間)。13日 水泳1,000m。14日 水泳1,000m。16日 ロングウオーク・取手-手賀沼(妻の朝食を用意した後、早朝から約5時間を歩く)。17日 水泳1,500mなど。

○8月26日 単独山行・北高尾山稜(蛇滝口-堂所山-底沢峠-陣馬高原下・バス停)

○9月3-5日 六つ星山の会・会山行・北岳(リーダーとして)参加17名(うち視覚障害5名)(詳しくは後記参照)

○9月14-24日 娘と二人でニューヨークの息子を訪問。 

○10月8日  六つ星山の会・会山行・小金井公園参加17名(うち視覚障害7名)

○11月26日 六つ星山の会・会山行・森林公園参加25名(同8名)
○12月4日  六つ星山の会・忘年山行・吾野-子の権現ほか
 参加52名(同14名)
○12月18日 六つ星山の会・会山行・野火止用水ほか
参加25名(同6名)
○12月24日 六つ星山の会・個人山行・流山運河 参加5名(同2名)

 

2.脳梗塞と妻の膝痛

二人ともこれまで重い病気にかかったことはなかった。今回がはじめてのこと。

1)妻の膝痛

妻は1年半ほど前に右膝を痛めて変形性膝関節症と診断され、歩行が困難となった。家の周辺を杖をついて(またはシルバーカーを押して)ゆっくりと10分ほど歩くのがやっと。これに加え、昨年夏頃には、腰部脊椎間狭窄症でもあると診断された。

そんな中、膝関節症の治療を担当する医者から「膝の運動のためにプールで水中ウオークをするとよい」と勧められ、今年2月1日に30分ほど水中ウオークを行ったところ、以前からの右膝痛とは別に、左足のももからふくらはぎにかけても激痛が走って、歩行がいっそう困難になってしまった。家の中を移動するのもはっていくという状態。別の医者の診断によると、これは水中ウオークが原因となって腰部脊椎間狭窄症を悪化させたためとのこと。

これらを受け、3月末にJAとりで総合医療センターの腰部脊椎間狭窄症専門の医師を訪問。詳しい診察の結果、左足の痛みを取るために、4月26日、脊椎の手術を行い、5月20日までリハビリのため入院した。この間、娘と私は下記のウオークと登山以外の日は毎日、妻の病院にかよった。

退院後は、左足の痛みは取れた。しかし、変形性膝関節症による右膝痛は残っており、

2)家事を担当

 昨年の12月頃から妻の膝痛が進み、介護保険により電動ベッドや車いすを導入したり、玄関や風呂場に手すりを付ける一方、食事の仕方を床に座る方式から食卓と椅子方式に改めた。

また、その頃から、私が食事作りや買い物、洗濯物干し、ゴミ出しなどの家事全般を担当するようになった。脊椎間狭窄症の手術で左足の痛みはなくなったが、右膝の痛みは続いており家事は今も担当おこなしている。

一方、その結果、それまでは自由に行っていたロングウオークや登山に使う時間がかなり減って、今は1-2週間に1回位となってしまった。しかも行くときは、早朝に朝食の支度をするなどしてから出かけている。

また、9月には、妻を残して娘とニューヨークの息子のところに行く予定だが(生まれた孫の顔を見るため)、妻についてはその間、老人施設に入所する手続を取った。

3)脳梗塞を発症

私も3月18日に軽い脳梗塞を発症して、23-30日と入院。脳の一部血管が詰まり、その周辺の脳神経が死滅したために、体のバランス感覚がやや失われて、体がふらつくという後遺症が残った。医者からは、これを治すには半年か1年の長期リハビリが必要と言われ、現在は週1回リハビリのために通院するほか、自宅でも毎日、医者から言われたリハビリを行っている。

今後の課題は二つ。「リハビリによる後遺症の克服」と「再発の防止」である。特に重要なのは後者。私の場合、動脈硬化が進行しており、再発の恐れはかなり高いと医者から言われている。対策は薬による治療と食事療法。これを今後、一生続けなければならない。

また、その結果、視覚障害者のサポート登山を続けることは難しくなった。登山中にふらつく恐れがある、皆のスピードに付いていけない、などが理由である。

付記)これとは別に3月4日、5日と激しいめまいに襲われ、頭を床につけ動かずにじっとしていないと吐き気がした。医者に行こうとタクシーに乗ったが、途中で降りて吐いてしまい、30分ほど一歩も動けず路上に寝ころんでいたほどだった。こんなことは20年ぶり。前回は、残業続きの中、脳出血で倒れた父の看護(病院での夜間の付き添いが必要で、母と一晩おきに泊り込み、病院の長椅子で寝た)と風邪を引いたことが重なって、職場での会議中に天井が回り始めたのである。

 今回も前回同様、東大病院へ。3回受診。結局、「慣れない家事全般を担当したほか、妻の通院に付き添ったりと気を使いすぎたための、ストレスによる良性のめまい」と診断され、数日で回復した。脳梗塞とは無関係という。「発作の時はこれを飲みなさい」と酔い止め薬(トラベルミン)を渡され、今はいつも持ち歩いている。

 

3.ロングウオークと登山を試す。

 ウオーキングについては家事の合間に、30分、1時間と歩く距離を伸ばして、4月23日に成田まで初めてのロングウオークを試みた。何とか完歩。

次いで4月29日には病後初めて単独で山に登り、高尾山-景信山-陣馬山を縦走。これも所要時間が7時間40分と標準よりは遅かったが、完走できた。ただし、バランスが悪くなったために、急な下りに難渋したほかに、病気前よりはスピードがややダウン。

更に、5月2日には丹沢・鍋割山、9月3-5日には北岳へ。

○ 2016.4.23 病後初めてのロング・ウオーク(取手-成田)

 利根川沿いを取手から成田山・新勝寺まで歩いてみたが、ほぼ8時間で完走できた。ただし、以前は7時間で歩けたので、スピードはまだ、元の状態に戻ってはいない。

 利根川沿いは田んぼが多い。水を張った田植え前の田んぼの眺めがなかなか良かった。

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(左:風土記の丘。右:新勝寺)

 

○2016・4・29 病後初めての登山 高尾山-景信山-陣馬山縦走

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  脳梗塞後、初めての登山。やや体がふらつくという後遺症が残ったが、その自分がどこまで登山が可能かを知りたくて単独で高尾山に出かけた。5時30分に起床。新宿経由で京王線・高尾山口駅へ。8時30分に歩き始め、稲荷山コースと平行して走る6号登山路(登りにのみ利用できる道)を高尾山頂へ。10時着。ゴールデンウイーク・10連休の初日なのに登山者は少ない。天候は晴れだが、雲、やや多し。遠くに真っ白な富士山。日差しに映えて新緑がまぶしい。10時10分山頂発。城山-景信山-陣馬山と縦走し、陣馬山頂に2時50分着。高尾山頂-陣馬山頂を昭文社地図の所要時間(4時間30分)とほぼ同じ時間で歩けた。

ただし、ここから陣馬高原下・バス停への下りが大変だった。そこは急で真っすぐに下りる道。木の根や岩角に足を載せ、飛び降りるように下るのだが、後遺症に加え疲れが重なって体が不安定となり、ふんばりが効かずに転びそうになった。結局、ゆっくりと慎重に下り、バス停に着いたのは山頂から1時間20分後。標準時間の1時間をかなりオーバーしていた。

試し登山の結果、分かったのは、

・「ゆるやかな登山道はほぼOK」

「ただし、平らなところでも油断をすると横や後ろに20cmほどよろけることがある(よろけないように意識してゆっくりと歩けば大丈夫だが)」

「急斜面の下りでは不安定さが増し(疲れてくると更に不安定さが増す)、注意をしながらゆっくりと下りる必要があり、それだけ時間がかかる」

・「安全にサポートができるかは問題」

・「また、集団行動では皆のスピードに付いていけなくなることがある」  

・「これらから、六つ星のサポ-トは軽登山を除いては無理」、

・「ただし、単独行か、親しい人に付いてもらっての、マイペースでの登山は可能」、などのことだった。

 

○2016・5・2  丹沢・鍋割山往復

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Dsc07494 5月28日に六つ星の会山行のリーダーとして鍋割山に行くことになっているが、そのリーダ-がやれるかをはっきりさせるために一人で鍋割山に行き、本番と同じコースを歩いてみた。大倉バス停を9時スタート。そこから後沢乗越を経て鍋割山頂までは、地図上の標準時間(3時間30分)で行けた。12時30分着。山頂から「金冷ノ頭」へ。ここで塔が岳からの下山道「大倉尾根」に合流。1時40分、「金冷ノ頭」スタート。木の階段や急な下りの砂利道が続き、ゆっくりとしか下りられなかった。それに足の裏が痛くなったことも重なり、大倉バス停までは地図上で所要2時間のところを、2時間40分もかかった。

 結局、登りはサポートをしないで行けば、遅れずに登れそうであり、下りは遅れそうだが、視覚障害の方も手こずりそうなので、付いていけるだろうと判断し、リーダーをおりることはしないで、グループの先頭をサポートをせずに歩くこととした。

 

○2016・7・24 陣馬山-高尾山・単独行

 

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 年齢と病気による脚力の衰えをすこしでも回復させたいとの思いで高尾山に出かけた。起床は5時00分。5時30分発の電車に乗り京王線の新宿経由で高尾駅へ。8時10分発のバスで神馬高原下へ。9時に歩き始めた。

 はじめは快調。しばらくぶりに山に入り、ウキウキしながら歩く。ヒグラシの声、せせらぎの音。夏にしては、気温が低く心地よい。急な斜面を1時間20分で一気に登る。やや疲れた。

 道端の花を撮りながら、景信山、城山、高尾山へ。ほぼ地図上の時間通りで歩く。そのあと、3号路を通り琵琶滝へ下る道を探ったが、その道の入口には「上級者専門の危険なコース」との立て看板があったので、結局、リフトを利用して下山した。

 今回のコースは休憩(20分×2)を含めて約7時間と、ほぼ標準時間で歩けた。ただし、帰宅してからどっと疲れが出たのは問題。

 

○2016・8・26 単独山行・北高尾山稜

 9月3-5日にリーダーとして北岳へ行く予定(六つ星の定例山行・参加17名)。その足慣らしとして一人で北高尾山稜に出かけた。この山稜のノーマルルートは八王子・城山から富士見台を経て陣馬山へと標準で約6時間をかけて歩くもので、途中、急なアップ・ダウンが数時間ほど続くところがあり、高尾山ルートの中ではきついほうである。今回は蛇滝口から登り、富士見台でこのルートに合流することにした。

 まず、バスで蛇滝口へ。ここから山に入り、富士見台-堂所山-底沢峠を経て陣馬高原下・バス停までを歩いた。

 その中での特記事項は滝口からの最初の20分がこれまでにないほどに暑くて、とてもきつかったこと。そこは廃道に近い道だった。草ぼうぼう。日陰が全くなく、30度を越える強い日差しが照り付ける中、背丈ほどの雑草を踏み分けながら進む。その上、顔や手足に蜘蛛の巣が次々とまとわりつき、拾った棒で打ち払うのに神経をすり減らした。これまでに経験したことがないほどに、どっと汗が溢れて、脳梗塞が再発しないかとちょっと怖くなるほどで、やや、パニック状態に。体が一層熱くなり、暑さでふるえがくる感じ。動悸が高まる。あとからあとから、いくらでも汗が溢れた。

 何とか森の中へ。「ここが大事。あせらないこと」と自分に言い聞かせ、腰を下ろして大休止。なかなか動悸が収まらない。たっぷり水を飲むと、やっと動悸が収まりパニック状態を脱した。こんなに汗が出たのは初めての経験。

 ここから富士見台へは1時間以上の急登。ゆっくり、ゆっくりと登る。

 やっと富士見台へ。ここからは城山から来るノーマルルートだ。更に2時間は急登、急下降の連続だったが、森の中の日陰を行く中で風も通っていて涼しかったので、本来の自分を取り戻し、普通のスピードで歩くことができた。

 これを越えると後半は、道はゆるやかな登りに代わる。ときどき小休止。涼風が気持ち良い。「生きているって、森の中でこの涼しい風が感じられることなのだ」とふと思う。死んだら何も感じなくなるはず。それらを意識する自分の存在も感じる。

 底沢峠から下山路へ。

 バス停はもう間もなく。谷川に下りて、顔を洗う。あたりには誰もいないので、上半身、裸になって体も拭く。ついでに汗まみれのシャツも洗い、そのまま身に着けた。気持よい。

 このコース、結局、すれ違ったのは女性2人組のみ。バスの客も2人だけだった。暑いときは、高尾に来る人は少ないようだ。所要時間は休憩を含め、7時間30分。

 最初は暑さで苦労したが、全行程をほぼ地図上の標準時間で歩けたので、北岳登山は山頂まで歩けると判断した。

 

○2016・9・3-5 六つ星山の会・会山行・北岳 参加17名(うち視覚障害5名) リーダーとして参加。

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(上・北岳山頂を望む。撮影・市角順子さん)

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(上・山頂はすぐ。撮影・新海吉治さん)

 

 月曜が入った3泊の日程なので直前までサポーターが集まるかと心配したが、最終的にはしっかりとしたサポート体制を組めるだけの仲間が参加してくれた。また、前日までの天気予報は「雨、午後は雷」と最悪で、「雨だけなら登頂は可能だが、雷を伴っては登頂は危険で無理」と思っていたが、こちらは予報がはずれて登頂当日の午前中は快晴となり、山々が見渡せる大展望が満喫できた。そして登頂に成功し、山頂で一人一人としっかりと握手を交わす。みんな、生き生きとして、大満足の表情。 

 

4.ニューヨーク行-息子のところに孫の顔を見に行く-

 9月14-24日、同居の娘と二人でNYの息子のところに、3月に生まれた二人目の孫の顔を見に出かけた。妻は老人施設に入ってお留守番。

 目的は二つ。孫に会うことと娘のNY見物をサポートすること。孫の写真をいっぱい撮ったほかは、娘に毎日付き合ってNY中を歩き回った。娘は日本では楽しみがほとんどなくて、日中も部屋にいることが多い。そんな娘を楽しませたかったのだ。

 一方、今回は自分の楽しみを追うことはしなかった。もっともNYで自分が楽しめることはあまりない。せいぜい、公園散歩。前回来たときは、セントラル・パークをジョギングで一周したり、マンハッタン島を上から下へと一日で歩いてみたりしたが。

 

 娘とは徹底して付き合った。ほぼ毎日、朝10時頃に家を出て、帰宅は夕方5時過ぎ。日本で買った観光案内書をみて、地下鉄の路線図と町の詳細図を調べては、娘が行きたいNY市内のブティックに出かけた。ソーホー、ノーリタ、ブルックリン、34丁目ストリートなど。

 

 その他では、息子一家とレンタカーでハドソン川をさかのぼり、近郊の農場と彫刻公園へ。NYは車で1時間も行けば丘陵地帯に入り、自然が豊か。
 また、別の日にNY市内、ハドソン川沿いの散歩道「ハイライン」へ。

 

(下:ハドソン川)

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(下:農場。レストランにて食事、トラクターで農場周遊)
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(下:彫刻公園。広い。端から端まで徒歩で1時間)
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 別の日にNY市内、ハドソン川沿いの散歩道へ。
 (下:散歩道「ハイライン」。貨物線跡を利用して造る。2009年に公開。2.3km)
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(下:息子夫婦と孫が住むまち)
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5.人生の転機を迎えたように思う。

脳梗塞発症後、歩くバランスがやや悪くなり、また、歩くスピードも落ちた。

・加齢で疲れやすくなった。再発予防の薬を毎日、服用しているが、その影響もあるように思う。

・妻の介護があって、登山やウオーキングの時間が取りにくくなった。

 

 これらのために、ほぼ40年間続けてきた登山とウオーク中心の生活を見直さざるを得なくなった。

 もっとも、私の余生は長くても10年、90歳までだろう。人生はあっという間に終わるかもしれず、「転機を迎えた」などと感慨にふける余裕はないかもしれない。

6.趣味の世界を広げたい。

 山とサンティアゴ巡礼に代えて、趣味を広げることを考えている。一つは和歌と俳句。もう一つは絵画。それに映画など。

 なんでもそうだが、それらを深めるには数年を要する。私も日常的に関心を持ち続け、少しづつ深めていきたいと思っている。 


1)俳句と和歌の鑑賞(別記)

2)絵画

 最近、明治・大正を生きた版画家「吉田博」(南北アルプスに何日も入り込み、その風景を油絵や版画で表す)と「川瀬巴水」(全国を旅する。江戸時代の情緒に溢れた版画が多い)の画集を買って見ている。また、永年の夢だが、いつかは絵を描いてみたいとも思っている。 

 

3)映画

 なお、映画も好きだ。この夏は、ロング・ウオークと登山を題材にした映画を続けて見た。「ロング・トレイル!」、「わたしに会うまでの1600キロ」、「奇跡の2000マイル」、「ヒマラヤ-地上8,000メートルの絆」の4本である。

・「わたしに会うまでの1600キロ」

 2015年8月、日本公開。北米の山野を3か月かけて1人で歩き通した若き女性のヒューマンドラマ。人生を見直し第二の人生を歩むために、自然歩道のパシフィック・クレイスト・トレイルに挑んだ。このトレイルはアパラチアン・トレイル、コンティネンタル・ディバイド・トレイルと並ぶ北米三大長距離自然歩道のひとつであり、アメリカ西海岸沿いにメキシコ国境からカナダ国境まで続く、総延長4,000kmの道である。彼女が歩いたのはその一部、1,600km。山中と荒野を歩く厳しさがたいへんよく実感できる映画だった。

・「ロング・トレイル!」

 2016年7月末、日本公開。ロバートレッドフォード主演。こちらはトレッキングの経験がない中年男性二人組が思い立って、アパラチアン・トレイルを歩くもの。全長は北米東海岸沿いの3500km。足の痛みあり、豪雨や大熊(グリズリー)との遭遇ありの中、全行程の約1/2を歩き通す。ただし、筋立てはコミカルで、ロング・トレイルのつらさはあまり伝わってこなかった。

 

「奇跡の2000マイル」 

 2015年7月、日本公開。愛犬を連れてラクダと共に3000kmに及ぶオーストラリア砂漠をたった1人で踏破した女性の物語。

 

「ヒマラヤ-地上8,000メートルの絆」

 2016年7月末、日本公開。韓国映画。韓国の登山隊がエベレストの8750m地点で遭難した仲間の遺体を探し出し収容するために命を懸けて苦闘する物語。男の熱い友情を描いたものである。


(追記2016.12.10。DVD「星の旅人たち」を見て)
 息子がサンティアゴ巡礼の途中で亡くなり、その遺灰を蒔きながらサンジャン・ピエド・ポーからサンチャゴまで追悼の旅をする父親の物語。途中で一緒になった3人の巡礼者と少しづつ心が通い合い、絆をはぐくむ物語でもある。

 風景も良い。昔行った時の記憶がよみがえり、とても懐かしかった。
 お勧めしたい秀作である。

 
 ところで、あらためて、私の巡礼記を振り返ってみて感じるのは、精神性が欠けており、「星の旅人たち」に比べれば内容がぜんぜん軽いなということ。歩くのに夢中で、人生についてとか、自分の人生の中での巡礼の意味についてとかを考える余裕がなかったとも言えようか。
 でも、ときどき、この巡礼記を読んでコメントを寄せてくれる方がいる。「行くに当たって、とても参考になった」と。そんなコメントがあると私はとても嬉しくなり、心が満たされる。というのは、私の狙いは他の巡礼記以上に「行く人の役に立つような旅行案内」を書くことにあり、それが少しは証明されたように感じるからだ。
 

<参考>

 アメリカのロング・トレイルの全貌

 -インターネット「アメリカの長距離トレイル」より-

 

その1) ナショナル・シーニック・トレイル (National Scenic Trails)


アメリカのナショナル・シーニック・トレイル(PCT公式マップ&ガイドより)

 アメリカ合衆国の条例によって最も豊かな自然の景観を楽しめる部分をつなげたトレイルである。 ディスカバリー・トレイルやロード・ウォークとは異なり、町から離れた自然の守られたところを通っていて、多くはハイカー専用(中にはPCTのようにトレイル・ライディング(馬)が許されているところもある)になっている。   

  1. アパラチアン・トレイル [Appalachian Trail] (AT)   東海岸をジョージア州からメイ-ン州まで14の州をつなぎ、2,160マイル(1・6㎞/マイル)と長い、アメリカで最も人気のあるロングトレイル。 毎年2,000人ちかくがスルーハイクを試みる。 高度はニューヨーク州のハドソンリバーの海水面の高さから、最も高いグレート・スモーキー・マウンテン国立公園の6,642フィート(0.3m/フィート)にまで達する。トレイル自体はよくマークされていて、スルーハイカーは地図を必要としないらしい。雨は多く、トレイルは急だがPCTやCDTのような厳しい環境条件はほとんどない。 http://www.atconf.org/

  2. パシフィック・クレスト・トレイル  [Pacific  Crest Trail] (PCT)  西海岸の3つの州、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンをメキシコからカナダまでつながる唯一完成済みのトレイル。2,650マイル(1・6㎞/マイル)のこのトレイルは、最も低いオレゴンのコロンビアリバーの180フィート(0.3m/フィート)から、カリフォルニア、シエラネバダ山脈に位置するフォーレスターパスの13,180フィートまで、はばひろい高度の変化が伴う。 カリフォルニア南部の砂漠地帯やシエラネバダの高山地帯など、環境条件が特に厳しい。 http://www.pcta.org

  3. コンティネンタル・ディバイド・トレイル [Continental  Divide Trail] (CDT)   ナショナル・シーニック・トレイルのうちでノース・カントリー・トレイルに次いで、二番目に長い未完成のトレイル。 ロッキー山脈を南北に走っており、大陸をまっぷたつに割くため「コンティネンタル・ディバイド」と呼ばれる。 メキシコからカナダへと続く全長3,100マイル(1・6㎞/マイル)にもおよぶトレイルのうち、約2,000マイルほどが完成し、スルーハイカーは残りの1,100マイルについては自分で選んだトレイルを歩く。 トレイルは古いマークのない道路や、茂みの中などとにかく地図を読む技能が不可欠。 自然環境はPCTと似て、コロラドから北の雪の多い地帯や、ニューメキシコやアリゾナの砂漠地帯など非常に変化に富んでいる。 http://www.cdtrail.org

  4. ノース・カウントリー・トレイル

  5. アイス・エイジ・トレイル

  6. ポトマック・ヘリテージ・トレイル

  7. ナチェス・トレイス・トレイル

  8. フロリダ・トレイル

 これらのほかにもナショナル・シーニック・トレイルには、

・ ジョン・ミュア-・トレイル

 アメリカの長距離自然歩道。カリフォルニア州内を、ヨセミテ峡谷ヨセミテ国立公園)からマウント・ホイットニー(マッキンリーのあるアラスカ州を除けば、北米の最高峰)まで、340キロメートルにわたって縦走する。トレイルの大部分はパシフィック・クレスト・トレイルの一部になっている。アメリカにおける「自然保護の父」と呼ばれるナチュラリスト、ジョン・ミューアにちなんで命名されたもの。

・  ノース・ウエスターン・トレイル

・ アリゾナ・トレイル

・ コロラド・トレイル などといろいろある。

その2)ナショナル・ディスカバリー・トレイル (National Discovery Trail)

 
American         Discovery Trail (www.backpacker.com/adtより)

・アメリカン・ディスカバリー・トレイル   [American Discovery Trial] (ADT)    

 このトレイルはカリフォルニアからデラウェア-まで続く唯一のアメリカ横断トレイルである。 ナショナル・シーニック・トレイルとは異なり、アメリカの歴史をたどったトレイル。 途中トレイルが2つに分かれるが、どちらを選ぶかはハイカーの好み。 途上では、シカゴやサンフランシスコのような大都市や、昔使われていた鉄道線路、UCバークレーのような有名な大学など、さまざまなところを見ることができるだろう。 ただ自然の中でのハイキングという感じには少々欠ける。http://www.discoverytrail.org

 以上の北米のロング・トレイルは私のあこがれの一つ。いつかは歩いてみたいと長年、夢見てきたが、体力の衰えがあり、果たせないで終わりそうだ。

(最後に)

今後の私の大きな夢は5回目のサンティアゴ巡礼として「南仏・アラゴンの道」を歩くことである。

毎日の妻の介護と家事を考えると、行くのは難しそう。でも、「アラゴンの道」の地図(フランス語版?)だけは図書通信販売のアマゾンから購入した。

歩ける自信はある。「いつか行く」という夢は持ち続けたい。

「家にいて 夢は地球を かけ廻る」(猛)

 

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2015年12月・今年の山と旅

2015年12月・今年の山と旅

 

・今年登った山は、夏の北岳、仙丈岳、上州武尊山など。いずれも視覚障害の方と一緒である。

・旅では中仙道を5回歩く。

 3月に六つ星の仲間と中仙道の「妻籠-馬篭-中津川-鵜沼」を、10月末には「鵜沼-関ケ原-醒井(サメガイ)-愛知川(エチガワ)」を歩いた。昔、「贄川-妻籠」(六つ星・全盲のFさんと二人で)を歩いたことがあるので、これで「贄川-愛知川」間が繋がった。目的地の京都へはあと50km。

 なお、中仙道の前半(日本橋-贄川)はまだ歩いていなかったが、これについても、11月16日に「軽井沢-碓氷峠-松井田」を、11月29日に「熊谷-鴻巣-北本」を、12月4日に「浦和-大宮-上尾」を、12月22日に「熊谷-本庄」を単独で歩き、中仙道完歩への一歩を踏み出している。

・サンティアゴ巡礼については5回目をと思っているが、いつ行けるだろうか。妻が膝の関節を痛めて、長時間キッチンに立つことが難しくなったために、代わって私が食事作りやあと片付け、買い物など、ほぼ家事全般を担当することになったために、山と旅に回せる時間が少なくなった。でも、行く夢を捨ててはいない。

1.登山

 ここ数年、大きな山に登ることはなかった。今年の北岳、仙丈岳は2012年の木曾駒と焼岳以来、久しぶりの高山である。膝の半月板を損傷し、しばらく大きな山に行くことを控えていたが、六つ星の役員会に来年の会山行として「北岳」を提案し、リーダーとして行くことになったために、北岳と仙丈岳に登ってみた。「はたして、疲れることなく登れるか、リーダーの役割を果たせるか」を試すためである。高い山に登ることは誰にとっても大きな夢。この企画は、会員の中でまだ登ったことのない方々への「北岳登頂への夢をご一緒に実現しましょう」という私のメッセージとも言えようか。なお、6月に六つ星の仲間と、日本百名山で最後に残る「草津白根山」にも出かけた。

以下、写真で紹介する。

<北岳> 六つ星の会員3人による来年の下見山行。前日、白根御池小屋へ。翌日、頂上を目指す。天気は「午後が雨、明日も雨」との予報だったので、一日で山頂を往復することとし、午前4時40分に小屋を出発。大樺沢を登り、八本歯のコルを経て山頂へ。眺めは抜群。肩の小屋まで降りて昼食休憩。この頃から雲が出て眺望がなくなった。一気に白根御池小屋に下る。15時小屋着。すぐに雨となった。 

        (大樺沢を登る。背後に鳳凰三山、遠くに八ヶ岳)

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         (下:八本歯のコルから、北岳山荘と間ノ岳)

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            (下:左後方、塩見岳)

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仙丈岳> 六つ星の20名(うち視覚障害の方6名)で、早朝4時20分に北沢峠の小屋を出発。山頂を往復し14時に峠に帰着。

 (前方に仙丈岳山頂)

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(下:後方は甲斐駒ヶ岳)

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(下:中央が北岳、その後方に富士山)

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<草津白根山>

 日本百名山は99座に登り、残るは草津白根のみ。六つ星の高橋さんに記念の旗を作っていただき、6月に仲間6人と出かけた。山頂近くまでは車。ただし、霧が出て寒く、山頂へ徒歩30分の駐車場で登頂を断念。

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(カラマツの実)

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(今年の山・一覧)

・1月11日 初詣山行・高幡不動 六つ星・定例(参加32人、うち視覚障害13人)

・1月21日 小網代の森     六つ星・臨時(20人、うち視障6人)

・2月14日  三浦富士    六つ星・臨時(31人、うち視障11人)

・3月26日  等々力渓谷   六つ星・臨時(31人、うち視障9人)

・4月5日 相模嵐山 サポート講習会 六つ星・会山行(25人、うち視障5人)

・5月17日 視覚障害初心者講習会 六つ星・会山行(35人、うち視障9人)

・6月7-8日 草津白根山  高橋(徳)、町田、塩野、市角(順)

・7月4-5日 上州武尊山  六つ星・会山行(26人、うち視障6人)

・7月25-26日 仙丈岳  六つ星・会山行(20人、うち視障6人)

・8月8日 奥多摩・矢沢・ウォーター・ウォーキング 

六つ星・会山行(17人、うち視障4人)

・9月15-17日 北岳   来年秋の下見  葛貫、町田、田村

・10月10日 高尾山 忘年山行の下見(G2コ‐ス) 三谷、宮本、田村

・11月8日  高尾山 忘年山行の下見(G1コ‐ス) 三谷、横山、堀行、田村 

・12月13日  忘年山行・高尾山  六つ星・会山行(70人、うち視障23人)

 

2.旅

 主に中仙道を歩いた。

 (中仙道) 

 中仙道は東海道、奥州道中、甲州道中、日光道中と並び、徳川幕府が江戸・日本橋を起点として整備した五街道の一つであり、高崎、軽井沢、諏訪、木曽、中津川等を経由して江戸から京都に至る街道である。

 また、この道は奈良・平安時代の古道「東山道」にほぼ沿っている。

 (東山道) 

 東山道は奈良時代の7世紀後半から8世紀にかけて整備された古代の官道「七道駅路」の一つ。他に東海道、山陽道、北陸道、山陰道、南海道(四国)、西海道(九州)がある。また、これらの詳細は平安時代に策定の「延喜式」(当時の法令の施行細則を記載したもの。927年の完成)に記載されているが、道幅は6-12mと大幅であり、駅家(宿場)は16kmごとに置かれていたという。

 うち、東山道はまず、京都から中仙道沿いに中津川市(以下、現在の地名を使う)に至り、ここから中仙道の木曽谷と分かれて、神坂峠を越え伊那谷に入る。更に松本市を経て保福寺峠(標高1345m)を越え、上田市へ。次いで碓氷峠を越え前橋市に至り、宇都宮市の東を通って、那須のJR黒川駅に至る。更にこの先、郡山市、福島市を通り、白石市を越えたところで、陸奥路(盛岡へ)と出羽路(秋田へ)に分かれる。

 なお、中仙道を歩く中で、「これより右、東山道」などの説明板を見かけ、東山道を将来は歩いてみたいと思ったが、専門書を読むと、中仙道のように道筋は明確ではなく 東山道は歩くには適していないようである。

 

・3月28日(夜行バス)-31日 中仙道(妻籠-中津川-鵜沼)  松本(梢)、町田、塩野、岩下、田村

 ご一緒した全盲の松本梢さんはすごい人。足だけでなく、精神もたくましい。以前、単独で中仙道を歩いたという。12月の今は子育てに忙しい。

 以下、気に入った風景を写真で紹介する。

(下:中津川宿の夜明け)

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10月25-27日 中仙道(鵜沼-醒井-愛知川)  町田、塩野、岩下、田村

 皆さん、足が早くて、付いていくのがやっと。かなりきつい旅だった。

 3月に歩いた妻籠-御嶽の間は山の中の登り下りや山村と田んぼが続き、自然を満喫できたが、今回は都会や両側に民家が続く里歩きがほとんどで、自然を味わう機会はあまりなかった。

 そんな中で印象に残った見どころを写真でいくつか紹介したい。

 

(下4枚:最も印象に残ったのは醒井宿の清流。湧き水が豊富で宿場に沿って1kmほど清流が流れている。「古事記」にも載っており、名水の里として有名。ハリヨが泳ぎ、白い花をつけた梅花藻が水中にゆれる。流れの中には石灯籠。野菜を洗うおばあちゃんの姿も。思いがけず、すばらしい清流に巡りあった。もう一度、ぜひ、訪れてみたいところである)

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(上・梅花藻:宿場に飾られていた写真を複写したもの。見ごろは7月)

 

(下:垂井宿「旅籠亀丸屋」に泊る。1777年の建築。脇本陣格だったという。今は83歳のおばあちゃんが一人で切り盛りをしており。お手伝いさんはいない。中仙道で今も人を泊めている旅籠は少ないが、ここはその一つ)

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(上:私達はお殿様が泊る最上級の部屋に泊った。江戸時代、部屋に丸窓を付けるにはお役人の許可が必要だったという)

 

(下:美江寺宿・小簾紅園。皇女・和宮がここで揖斐川を渡ったことを記念して造られた公園。今でも毎年、記念のお祭りが開催されている。私達は祭りの当日にそこを通った。写真はその幔幕)

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 (下:番場宿。各家に立つ旗は、地元・蓮華寺の1400年祭を祝うもの

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(上「岐阜県・美濃(今須宿)」と「滋賀県・近江(柏原宿)」の県境)

(下:高齢者のための珍しいデイ・サービス施設)

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(お地蔵さん)

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(彦根市・入口の碑)

Dsc07061 (下:「街道筋・柏原」と「伊藤忠と丸紅の創立者・伊藤忠兵衛生家。愛知川」)

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11月16日(月) 中仙道(軽井沢-碓氷峠-松井田) 単独で。

 中仙道の贄川から先はほぼ歩き終わった。残るは江戸からの前半の道。その中で厳しいのは和田峠と碓氷峠のようだ。

 きょうは単独、日帰りで、軽井沢-碓氷峠-松井田間を歩いてみた。

 早朝、上野発6時34分の新幹線に乗車し7時36分に軽井沢に到着。「このルートにはどんな風景が待っているのか」、わくわくしながら駅前をスタート。お店はどこもまだ閉まっており、人気なし。町はずれで中仙道を離れ、遠回りの遊歩道を登り、3時間で碓氷峠の頂きへ。朝日がまぶしい。

 そこまでは快調だった。しかし、下り道でももの筋肉が痛くなり、下りきった時には、歩くのが苦痛になるほどに。原因は、5時間の間、休憩を取らずに一気に歩いたこと、長く続く石ころと赤土の下りが、履いてきたよれよれのウオーキング・シューズ(昨年のサンティアゴ巡礼以来、履き詰めのものだった)と合わなかったこと(ここは靴底がしっかりした登山靴がよい)、脚力の衰えがかなりあることなどにある。そのため、後半の松井田までは足の痛みをこらえての苦しい道中となった。松井田駅16時30分着。

 そんな中で楽しんだのは、昔の街道の雰囲気や妙義山の風景。

 特によかったのは、平安時代の関所跡(899年に設置。坂本宿から山中を2.5㎞登ったところにある)、横川にある江戸時代の関所跡(1622年に設置。坂本宿の手前にある)、足利時代末の新田義貞の古戦場跡、山中に10軒の茶屋が栄えた「山中茶屋」の跡、小林一茶が泊って句会を開いた旅籠跡など。それらの前で、解説の立て札をゆっくりと読み、はるか昔に思いを馳せた。

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・11月29日(日)中仙道(熊谷-鴻巣-北本) 単独で。

 11月21日に激しい目まいに襲われ、11月27-30日に六つ星の仲間と行く予定だった「中仙道(愛知川-京都)」の旅への参加は取りやめた。

 一方、昔からわずらっていた妻の足の痛みが一層ひどくなり、最近は三食の食事作りや病院通いの付添い、介護保険の相談などで、日常はかなり忙しい。

 そんな中、何とか息抜きがしたいという思いが強くなって、日帰りで中仙道歩きに出かけた。幸い、めまいは翌日にはおさまり、今は頭が重いだけ。軽いウオーキングは体調を整えるのに効果があるかもしれない。

 沿道ぞいの史跡や川に寄り道をし、説明板を読みながら、約20kmをゆっくりと歩いた。 

 いくつかを以下に紹介する。

       (下:熊谷、元荒川。透き通った川。ムサシトヨミの生息地)

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(下:熊谷のはずれから約3km、街道は荒川沿いを行く。対岸はるかに、奥武蔵と秩父の山々)

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(下:熊谷のはずれ。歌舞伎で有名な白井権八に由来する権八地蔵)

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(下:吹上。忍藩の領界碑。1780年建立)

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(下:北鴻巣・箕田は箕田源氏発祥の地。その説明板)

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     (下:雛の里、鴻巣「人形町」。雛人形のお店が並ぶ)

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・12月4日(金)中仙道(浦和-大宮-上尾) 単独で。

 この辺りは大都会。案内書に「本陣はTデパートの辺り、脇本陣はKビルの辺り」とあっても、案内板や石碑はなく、見るべき史跡は少ない。

 そんな中で寄り道をしたのはいくつかのお寺と史跡。

(浦和・玉蔵院の石庭)

 

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(浦和・成就院。寒桜を通して見る観音様)

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12月22日(金)中仙道(熊谷-本庄) 単独で。

・12月21日は78歳の誕生日。それを記念して22日にウオーキングに出かけた。
・歩いたのは中仙道。今回は熊谷-本庄。毎日、三食の食事作り、買い物、妻の病院への付き添いなどの家事に追われる中で、朝食の用意をすませて、早朝に出かけた。
・今回の道筋で気に入ったところを以下にいくつか紹介する。
(見どころ)
○ 秩父巡礼への道しるべ
 秩父札所巡りは室町時代に始まる。江戸時代に盛んになり、最盛期には年に数万人が訪れたという。秩父へは、江戸から中仙道をたどり、ここ、熊谷郊外にある道しるべのところを左に曲がるが、碑には「秩父観音順禮道・
一ばん・四万部寺へたいらみち11里」(一里は約4km)とある。

 はるか昔の江戸時代、秩父巡礼を目指して、町人や武士が、単独で、あるいは友人同士や夫婦連れで、時には子供を連れて、私の眼前にあるこの道しるべの前を通って行ったのだ。

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○ 平忠度(たいらのただのり)の墓
 忠度は清盛の異母弟。武人で歌人。「さざなみや 滋賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」の歌は「平家物語」(鎌倉時代に作られた)
に載っており、たいへん有名。この歌は、平家が源氏に攻められて都を落ちていくときに、後白河院の命により勅選和歌集「千載集」の編集に携わっていた藤原俊成を忠度が訪ねて掲載を頼んだもの。俊成は忠度が朝敵になっていたので、「読み人知らず」としてこれを載せた。このあたり、高校時代の授業で習っている
 忠度はその後、源平・一の谷の合戦(1184年)で、深谷郊外・岡部に領地のある源氏側の岡部六弥太忠澄に打ち取られた。
 この石碑と桜(写真)は岡部の「清心寺」にある。ここに、忠澄は忠度の菩提をともらうために、五輪の塔を建立し、桜を植えた。
 

 なお、「勅選和歌集」とは天皇や上皇の命により編まれる歌集。醍醐天皇による古今和歌集がその最初。

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○ 深谷シネマ
 この崩れかっかった建物の写真は、深谷にある酒蔵を改造した映画館への入口(中仙道沿いにあり)。2016年1月はほぼ連日、「天空の蜂」、「ボーイ・ソプラノ ただひとつの歌声」、「岸辺の旅」などの映画を上映している。詳細はインターネットに「深谷シネマ」と入力してご覧ください。一度は入ってみたいところである。。

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○ 「初冬、夕暮れ近くの川辺の風景」

 本庄の入口、小山川にかかる滝岡橋から。周辺は田畑。今回のコースで唯一の大きな川だった。

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付記-「年末はとても忙しかった」

○ 12月は、妻の膝と腰の痛みが進み、数回の病院受診への付き添いや介護保険利用によるベッドの借り入れと玄関・風呂等への手すりの取り付け、食事を座卓利用から椅子利用へと転換するためのテーブルの購入などを進める中で、食事作りや買い物、洗濯物干し、ゴミ出しなどの家事全般を担当するようになった。

 妻の腰の痛みは脊椎の2ヶ所の圧迫骨折による。12月10日に慈恵医大柏病院で検査し、14日に告げられた。「治療には安静が第一。完治は数か月先」とのこと。でも、床に寝て長期間安静にしていれば、足の筋肉が衰え、立てなくなる恐れがある。これらについて「セカンド・オピニオン」を求め、15日、朝6時に起床して東葛病院へ。更に17日、慈恵が遠いため、取手協同病院を訪問し、受診の窓口をそちらに移す手続きをした。3病院の診察結果を総合すると、「安静にしつつ、運動し足も動かすことが必要」のようだ。また、膝の治療は脊椎が完治してから、とのこと。

 24日と28日に脊椎治療のための注射を打ちに病院へ。

○ 12月13日は高尾山での六つ星の忘年山行。約60名が参加 。直前に風邪をひいたが、6名の担当の一人として行かざるを得ず、強い風邪薬を飲みつつ参加。

○ 年末の雑事が沢山重なった。年賀状作り、早稲田の穴八幡への年末恒例のお参りなど。

○ 娘の職業訓練について、受入先と連絡、相談を数回行った。

○ 海外に住む息子が運転免許更新のために12月9日-19日に帰国。レンタカーでの妻の移送を依頼。

○ これらを終えて大晦日を迎え、やっとやや落ち着くことができた。

 

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私の生い立ちと歩んできた道

<私の生い立ちと歩んできた道>

(はじめに)

自分が亡くなる前に日記も含めて全てを燃やして、あとには何も残さずあの世に旅立つ人がいる。一方、自分史を書いて家族に残す人もいる。私は後者。書き残すことにどんな意味があるのか、それを深く考えたことはない。書くことが好き。ただ、書いてみたいだけである。それは「何か物を作りたい」、「完成させたい」という思いに通じる。読む人はほとんどいないと思うが、「孫に残せばいつか読んでくれるだろう」と思って書くことにする。

 

1.私の生い立ち

1)生れたのは1937年、東京都牛込区(現在の新宿区)西五軒町。

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  母方の私の祖母(ハナ)は茨城の農家の出身で、祖父(猪之助)は大阪のお菓子屋の出身と言う。二人は牛込区西五軒町(JR・飯田橋駅の近く。今の新宿区西五軒町34番地)の2階建て長屋の一軒を借りて、紙箱を作る小さな商店を開いた。それは細い路地を入ったところにあり、向こう三軒両隣も家族経営の小さな商店だった。

  母(元・もと)は大正2年(1913年)の生れ。その家の二人姉妹の長女である。父(正男)は明治44年(1911年)の生れ。倉敷の出身。父の祖先は江戸から明治にかけて瀬戸内海で廻船問屋を営んできた。父の父親は吉村勝三郎、母親は京都のお公家さんから嫁いできた人と聞く。しかし、この廻船問屋は明治に入って没落。一人息子だった父は小さな商家に奉公に出ていたが、紹介する人があって母と結婚し、入婿として田村の家を継いだ。

(明治21年8月1日、山口県熊毛郡室積浦の「平民」吉村勝三郎が警察署の新築費7銭を寄付したときにもらった県知事の感謝状)
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 二人の結婚は昭和12年。新婚旅行は江ノ島。St001_001
  私は昭和12年(1937年)12月、長男として生れ、その後、昭和16年に長女・節代が、昭和17年に次女・満枝が生れた。でも節代は残念ながら3歳のときに百日ぜきで亡くなっている。

この家は一階が仕事場、2階が家族の寝室。2階には物干し用のベランダがあった。

仕事は、まず鉄製の型抜き機を使って紙箱の型を抜き、次に人の手でその型紙の表面に紙を貼って箱に仕上げるというもの。祖母の実家がある茨城県岩井から出てきた農家の「若い衆」(農家の若者を母は「若い衆」と呼んでいた)を数人使って、お菓子や玩具用のボール箱を作っていた。私の幼い心が鮮やかに憶えているのは、箱に貼られていたのが有名な画家「竹久夢二」の絵だったこと。

2)母の思い出

母は平成17年(2005年)5月15日、老衰のため91歳で亡くなった。ちょうど入院中の母を病院に残し家族で旅行中だったために、連絡を受けて私達が病院に駆けつけたのは16日の午前1時過ぎ。母の死に顔は、呼びかければ返事をしそうなほどに安らかで、胸のあたりは触るとまだ温かかく、思わず「ほら、さわってみて。まだ暖かいよ」と家族をうながしたほどだった。母は大正2年の生れなので、大正、昭和、平成の三代を生きたことになる。

第二次大戦前の母は何の不自由もない生活をおくり、楽しいことが多かったようである。後に、実家周辺にある神楽坂、早稲田、山吹町などの地名を母からよく聞かされたが、多分、妹とその辺りに買い物などに出かけて青春を楽しんでいたのであろう。母は歌舞伎ファン、その妹は宝塚ファン、祖父は浪曲や講談と相撲見物が好きだった。

 

昭和16年に日本は世界大戦に突入し、昭和20年(1945年)、私達はB29による東京大空襲で家財のすべてを失った。私と祖父母は川崎に疎開していたが、母は家が燃えたとき、次女を背負って父とともに火の中を逃げ回ったという。

 戦後しばらくは母にとって苦労の連続だった。

父母と祖父と私、妹の5人は川崎市郊外の溝の口にある6帖二間のあばら家(トタン屋根が剥がれた染物工場の片隅にあったもの)に住み、その狭い一間に三つのふとんを敷いて寝た。私は祖父と一緒のふとん、妹は母と一緒。祖母は昭和21年に病死している。 

030(写真:屋根がはがれたおんぼろ工場の右手裏に屋根のみが少し見えるのが、我が家。田んぼの向こうには遊びにいった裏山。現在は田んぼも裏山も、開発されて住宅がびっしりと並んでいる)


  そして、終戦直後は食料難の時代。誰もが食料の入手に苦労したが、父母も同様だった。夫婦で近郊の農家や神奈川、千葉、茨城の農家にまで出かけていき、戦前にあつらえた母の着物などと物々交換をして食料を手に入れてきたが、それでも、米はほとんど手に入らず、大豆、じゃがいも、さつまいも、とうもろこしなどが我が家の主食であり、たまに手に入る米はコウリャンやさつまいもをまぜて食べた。私が覚えているのは、じゃがいもと大豆だけの食事が何日も続き、あごが痛くなったこと、近所の小川でたらい一杯のザリガニを取り茹でて食べたこと、家の周りの荒れ地で農業に不案内な母がとうもろこしや野菜などを作っていたことなどである。

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                   (商店の作業場にて)

 また、戦後しばらくして父が勤めていた会社が倒産したために、夫婦は二人で親戚の小さな紙箱作りの商店に勤めることになったが、薄給のために土日も含めて毎日残業をして生活費を稼がなければならなかった。両親が帰ってくるのはいつも夜の10時頃。「寝るは極楽。起きるは地獄」というのが母の口癖で、母はそうつぶやきながら、疲れ果てて布団にもぐりこんでいた。

この頃は、父母が夜遅くにしか帰ってこないので、夕食は祖父と私が作り、妹と3人で食べるというのが毎日。そんな中で、家族の大きな楽しみは、月に一度の父母の給料日に東急・大井町線の自由ケ丘駅の改札口で待ち合わせをして、近くの食堂でかつ丼やたぬきうどんを皆で食べることだった(祖父は昭和29年に老衰で死去)。033                        (妹と)

  それと、母が高齢になってからの思い出は「母の手のぬくもり」。

母は商家に育ち、若い頃から毎朝、自宅の神棚にお灯明を灯して拝むのが日課だったためか、神様、仏様への信仰心がとても厚く、老いて我が家で一緒に暮らすようになってからも、毎朝、10分以上お経を読み、また、毎月のように品川・青物横丁の千体荒神さま(江戸時代からの「火の神さま」。火事を防いでくれる)にお参りに出かけていた。母はいつもおだやかな顔をしていたが、それは性格でもあり、信心の深さの現れでもあったように思う。

また、母は歌舞伎見物や銭湯・温泉が大好きで、高齢になって足を捻挫し歩くのがやや不自由になってからは、私が母の手を引いて荒神さまや歌舞伎座、あるいは箱根の温泉などにお供をして歩いた。

そんなときのことだ。駅まではタクシーで行き、手を引いて階段をゆっくりと昇り、また、道を歩くときも手をつないで歩いたが、ふと感じたのが「やわらかくて温かい母の手」、「母の手のぬくもり」である。幼いときに手をつないだはずなのに、そのときの感触は全く残っていない。あのとき感じたはずの手のぬくもりを、このとき生れて初めて感じたのだ。母の手はやわらかくて、ほんのりと温かかった。

母は、苦難を乗り越え、生活を支えてきただけに、我慢強い人だった。腰が低く、いつも、ニコニコしていた。怒ったり、文句を言ったりする姿を見たことはほとんどない。私が怒られたのは一度だけ。小学校低学年の頃、母が畳もうとする布団の上に何度も飛び乗って遊んでいたら、「邪魔」ととても怒られたことがある。今、振り返ると母が懐かしくて、思わず涙がにじむ

また、寝たきりになってからの2年間は、1ヶ月のうち、半月は施設に預け、あとの半月は私が自宅で食事を食べさせ、下(しも)の世話をしていたが、世話をするときは、自分の息子なのに「ありがとう、ありがとう」といつも感謝の言葉を口にしていた。とてもやさしい人だった。

 夫は昭和58年9月に亡くなり、次女は平成3年にガンで亡くなった。母の妹も亡くなっており、今頃は天国で夫と娘二人と妹に会って、談笑していることであろう。

(左から:「新婚旅行・江ノ島」「私の誕生・母の妹も一緒」「亡くなった妹・節代と」)

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(上、左から:「川崎の自宅にて・温泉旅館で撮ったと父が自慢していた」「妹が小学校に入学」)

(下、2枚目「娘と孫と」、3枚目「息子の孫と」

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3)父の思い出 

 父は旅行が好きだった。

 小学生の頃はよく父と一緒に汽車に乗り、大阪や岡山の親戚の家に泊まりに行った。奈良にも寄った。妹が一緒だったこともある。汽車は蒸気機関車が引っ張っていたので、窓を開けたままでいると目に石炭の燃えカスが入って、こすってもなかなか取れずに涙目になったのを憶えている。

 その他、行ったのは大森海岸や江ノ島の海水浴、連絡船で木更津から横浜へ、など。029

 父は賭け事が好きだった。特に好きだったのは競馬。休日にはよく溝の口に近い府中競馬場に連れて行かれ、ゴール前で一緒に観戦。買った馬券を知らされていたので、4コーナーを回ってのゴール直前の競り合いでは、買った馬が一着にはいるかどうか、とても興奮したものである。

 そんな父の影響であろう。後年、私も賭け事が好きになり、就職後の一時期は職場の人達と毎夜12時近くまで麻雀をし、また、仕事に疲れるとパチンコ屋に入るのが常だった。今はどちらも卒業しているが。

 父が60歳頃のことだったと思う。残業で体を酷使してきたために、ある日、心臓発作を起こし、胸をかきむしって苦しがったことを憶えている。そして、70歳頃に脳内出血を起こし痴呆状態のまま、72歳にしてあの世に旅立った。終戦後に勤めていた会社が潰れ、零細商店に勤め始めたのだが、給料が安かったために、土曜・日曜も、また夜遅くまでも働かざるを得ず、本当に働きづめの一生だったように思う。

(左から、「父とその母」「父の小学時代」「お祭りで仮装」)

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4)祖父の思い出

 小学生の頃はいつも私が自転車の後ろに載せて、祖父を溝の口駅に近い銭湯まで連れて行ったが、その帰りにはよく駅前にある闇市の本屋で講談本を買ってくれた。粗末な藁半紙(ワラバンシ)作りの「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」である。本に馴染んだのはこれが最初。中学時代にメガネを掛けるようになったのは、これらの本を寝床で読んで目を悪くしたためである。でも、おかげで、私はとても読書好きになった。

 祖父は浪曲や講談と相撲見物が好きだった。祖父と一緒に私もラジオで広沢虎造の浪曲(「旅ゆけば駿河の国は茶の香り」で始まる「清水の次郎長」など)や宝井馬琴の講談(愛宕神社の石段を馬で駆け上がった「曲垣平九郎」など)を聞いていたのでその節回しは今でも覚えている。

 祖父は晩年、家の裏手の田んぼの溝に仰向けに倒れているのが見つかり、以降寝たきりとなった。家が狭くて、私はいつも同じ布団で寝ていたが、祖父が夜中に亡くなった時も、私は同じ布団の中にいた。

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(真ん中が祖父、西五軒町にて)(川崎の自宅前にて)

5)戦争の記憶

  当時は遊びに夢中。戦争が怖かったという記憶は全くない。

 祖父母と小学一年の私は川崎市溝の口に疎開。父母と妹は東京に残ったが、空襲を受けて、火の中を逃げ惑ったという。数日後、父に連れられてJRの飯田橋駅に行ったが、そこには見渡す限り何もない真っ黒な焼け野原が広がっており、道端の黒焦げの木材をひっくり返すと、まだ赤い火が残っていた。

  疎開先の川崎では、空襲で燃える東京の夜の空が真っ赤だったこと、同じく昼の横浜の空一面が真っ白な煙で覆われていたことを鮮明に覚えている。

 川崎の家の裏は田んぼ。その向こうに横に連なる丘陵。そこには日本軍の高射砲陣地があり、米軍機が被弾し、キラキラ光りながら落ちてきたという記憶もある。

 また、高射砲陣地を狙った爆弾のフタであろうか、直径1mほどの丸い鋼鉄製の物体が工場の屋根を直撃し、屋根と地面に大きな穴を開けたこともあった。

 終戦を告げる天皇の詔勅を隣家のラジオで聞いたのは、小学校1年のとき。真夏の昼、明るい真っ青な空の下に近所の人達が集まって直立不動で聞いていたが、私は何が起こったのかがよく分からず、皆のうしろに立っていた。大人は泣いていたが、私は全く悲しさを感じなかった。

2.青少年時代

 小学1年は牛込区の江戸川国民学校だったが、その年に祖父母と川崎市に疎開し、川崎市立高津小学校の1年生となった。

 卒業後、目黒区の攻玉社中学(目蒲線・不動前駅近くの男子校)に入学し、高校も攻玉社へ。

 次いで1年浪人し、四ツ谷の駿台予備校へ通った後、東大法学部に運良く合格。前年の入試の結果があまりにも惨めだったので(その頃は入試の成績を大学で教えてくれたが、成績は次年度に受験しても受かる可能性はないというレベルのものだった)、合格したのは実力というよりは、合格線上すれすれのところでたまたま引っかかったという運の良さによるものと思っている。そのため、これまで東大入学を誇らしく思ったことはないし、自慢したこともない。

 

(上から「中学1年」、「高校1年」、「就職1年目」、「大学の卒業式(父母と妹と)」)

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3.10代・20代の私を育ててくれたもの(2013年1月19日記)

1)楽しかった少年時代

 小学生の頃は魚取りや百人一首などに夢中になり、毎日がとても楽しかった。夢中になって遊んだこと、それは自分を形成する上でたいへんプラスになったと思う。

 今の自分の性格に「明るいところ」や「優しい部分」が少しでもあるとすれば、それは、この頃、遊びに熱中したことで養われたものであろう。また、同時に「物事への集中力」もその中で養われた。

 (魚取り)

 まずは魚取り。

 小学生の頃、近所の小川で魚を石の下に追い込み手掴みで採ったり、小川をせき止めて水をかい出して採ったりした。また、多摩川の急流であんま釣りという方法で1日に100匹を釣りあげたこともある(道具は簡単。細い竹の棒に2-3mの釣り糸と釣り針と餌の川虫を付け、ウキは付けずに竹の棒を急流の中で上下に動かすという釣り方)。夏休みはそれらに夢中になり、いつも午前中に家を出て、帰るのは夕方だった。

 魚取りで一番興奮したのは、台風の接近で多摩川から水を取り入れる水門が閉まり、近所の小川(農業用水路)の水位が下がったときである。いつもは子供の背丈ほどもある小川が足首の浅さにまでなり、魚がいっぱい採れた。小学生の頃だが、台風が接近してくるときは、学校にいても勉強に身が入らない。いつ水位が下がるか、他の子供に先を越されないかと、居ても立ってもいられなくなり、授業が終わると家まで飛んで帰り、雨が降っていても網を持って川へと駆け出していった。

 小川は幅3mほど。その片端に玉網(子供用の、虫取りの網。小さくて底が浅い)を据え、足で魚を上流に追い上げていくと、魚は逃げようとして川の端を矢のような速さで下ってくる。黒い影が網に入った一瞬をとらえて網を上げるのだが、遅ければ網の底が浅いので反転して逃げてしまう。全身全霊を集中してこの一瞬にかけるのだが、この「一瞬の魅力」がたまらない。黒い影が下ってくるその一瞬、「とてもわくわくしたその一瞬」が今でも鮮明によみがえる。

 また、魚は追われると30-50cmほどの石の下に隠れることが多い。こんな魚は石の下に両手を入れて掴んで採る。手を石の奥に入れたときに指先で感じる「ビビビビ」という魚の躍動感はたまらない。心が踊る一瞬である。もっともときには、とげのある「げばち(なまずに似ている)」や「ざりがに」が潜んでいて、刺されることもあったが。

 採るのは主に「うぐい」。

 「鮎」もいる。鮎が上流へ遡るときは川の端を水面に波を立てて進むので、「鮎だ」とすぐに分かる。鮎を採ったときの喜びは特に大きい。採れたての鮎は甘い「すいか」の匂いがする。

 

(百人一首)

 百人一首にも夢中になった。

 近所の家で、小学生5-6人(その家の千恵子ちゃん、武ちゃん、それに私の妹も)を集めての「百人一首」が始まり、それがいつしか冬の年中行事となった。読み手が句を読み上げ、取り手は下の句が書かれた札を取るという競技。初めは撒いたカルタを皆で丸く囲んで取るやり方だったが、上達するにつれて1対1で対戦する正式なやり方に代わった。千恵子ちゃんと私がその中心。下の句が書かれた100枚の取り札のうち50枚を使い、これを更に自分と相手と半分づつに分け、それぞれの持ち札25枚を3段に並べて前に置く。相手の札をとれば自分の札から1枚を相手に渡し、自陣にないのに自分の札に手を付けば「お手つき」として相手から1枚をもらう。これがルールで自分の札が早くなくなったほうが勝ち。

 その家の奥さんが読み手。独特の節回しで朗々と100首の歌が読み上げられ、上の句を聞いて取り札の下の句が何かを判断して取る。取り札の並べ方には各人で特徴があり、読み上げられた句の下の句が何かを判断した上で、「何処に置かれているか、それとも50枚の中にはないのか」を一瞬で判断し、瞬時にその札に手を伸ばす。もちろん、50枚に含まれず、その場にない句が読まれることもある。

 読み出しの最初の一字が「むすめふさほせ」のどれかで始まる札はその一字を聞いただけで取れる「一字取り」の札だ。たとえば、読み出しの最初が「む」の場合「むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆうぐれ」が読み札で、「きりたちのぼる あきのゆうぐれ」が取り札。また、句の冒頭が「あさぼらけ」とあるのは2枚で、そのあとに「うじのかわぎり」と続くか、「ありあけのつき」と続くかで取り札が決まる。私の場合、一字取りは右手下、17枚ある読み始めが「あ」の札は左上、読み始めが「い」(全部で3枚)と「う」(2枚)と「き」(3枚)の札は2段目左などと決めてあって、勝負に入る前に記憶しておき、勝負中は相手の札のみを見て対応する。相手の札の置き方が自分とは異なる場合もあり、下の句の最初の一文字を基準に置く人もいるので、相手の札の位置を憶えるのはたいへんなことだ。

 正座した体をやや前に浮かせて、全心全霊を集中させ、上の句の読み出しを待つ。ほとんど無我の境地だ。

 札が読まれると相手の指先が瞬時に伸びてくる。こちらも一瞬の判断で素早く札に手を伸ばす。この研ぎ澄ました一瞬の判断が勝負を分けるのだ。札を払うと、勢いよく飛んだ札が障子に突き刺さることもある。

 百人一首は冬の遊び。終わって外に出ると興奮した体からは湯気が立ち上るほどであり、風呂上がりのように冬の夜の冷たい空気が心地よかった。

 「あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり」はこのときに最も好きになった句であり、今でも好敵手の千恵子ちゃんと共に思い出す。

 中学・高校時代に和歌と漢詩の授業が好きになったのも百人一首の影響だと思う。

  百人一首以外でいくつか気に入った歌を掲げておこう。

   

「岩ばしる垂水の上の早蕨(サワラビ)の 萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子)  

「哀しみは生きの命が生めるなれば子としおもひて疎か(オロソカ)にせじ」 (窪田空穂) 

「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば  

   秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだらう」             (八木重吉)

「鬚(ヒゲ)欲しや 藜(アカザ)の杖を 突くからは」      (後藤比奈夫)

 

「岩ばしる」の歌からは谷川の絢爛とした春の息吹が伝わってくる。また、「琴はしずかに鳴りいだすだろう」の歌は振るい付きたくなるほどに透明で美しい。どれも心に残る歌。最後の句は、藜(アカザ)の杖が大好きで、ご自分でも藜を栽培し杖を作っている六つ星の清水さんにぴったり。私もアカザの杖を1本もらった。

(その他の遊び)

 近所の年下の子供達7―8人のガキ大将として活躍。

長屋の周りでは、缶蹴り、S回戦(二組に分かれ、地面にS字を書き陣地を取り合う遊び)、水雷母艦(二組に分かれ、各組で艦長と水雷と鉄砲を決め、陣地を取り合う遊び。艦長は鉄砲には勝つが、水雷には負けるなど)といったゲームをやり、田んぼでは高さ2mほどに積み上げられた稲わらに乗って遊んだ(よく、これを崩して農家のおじさんに追いかけられた)。麦畑では麦笛を作ったり、畝の間に身を潜ませてのかくれんぼ。また、紙工場の2m四方にくくられた古紙の中でも遊んだ。今もあの古紙の独特の臭いがなつかしい。また、裏山ではツタにぶら下がってターザンごっこをやり、竹を切って弓矢を作った。まだまだ沢山ある。ベイゴマ、凧揚げ、けん玉なども。私は毎日、家の外の遊びに夢中だった。

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 (上は近所の遊び仲間)

(下は小学校の同級生。我が家の前の小川にて課外授業の写生のとき)

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 幼少年期に夢中になって遊ぶことはその子の心を健全に育てる。私は、孫が3歳の頃から小学校の低学年まで、ほぼ毎週1回、孫と遊んできたが、いつも意識したのはこのことである。水泳、アスレチック、スケート、雪遊び、ザリガニ釣り、蝉採り、だんご虫採りなどに一緒に行き、孫が嬉々として遊んでいるのを見守ってきた。

 

2)神経症で自信喪失-この経験が自分を育てた。

 1年の浪人生活を経て難関の東京大学・法学部の入試に合格。合格を知って多摩川の土手を我が家に帰るときは、有頂天になって、足が宙に浮いているように感じたことを思い出す。

 しかし、大学生活は無味乾燥だった。神経症にかかったからである。

 自信満々、むしろ、自信過剰の状態で、新しい一歩を踏み出した頃、人間関係につまずいて精神的に大きな打撃を受け、自信を失って、人の前に出ると顔がこわばり、話ができなくなるという神経症にかかってしまった。神経症というのは、治そうと努力をすればするほど深みにはまるもの。初めは自信満々で何とか抜けだそうと懸命に努力をし続けたが、それが悪く、かえって深みにはまり、自信過剰は一転して、完全な自信喪失へと落ち込んでしまった。人前に出るのが怖い。気は強いほうなので、それでも「なにくそ」と無理をして人前にでるようにしたが、それが状態を一層悪くした。人前に出るとドキドキし、言葉が出てこない。そのことばかり考えて、昼も夜も悩んだ。

 結局、この状態から抜け出すには10年を要した。10年間悩んだ末に、やっと「治すのはあきらめよう。努力をしても自分にはできないことがあるのだ。その弱さを素直に認めよう。でも、別の面で自分にできることは沢山あるはず。それをやっていけばそれでよいのだ」という境地にたどりついたのである。それがストンと心に落ち、そこからゆっくりと自信を取り戻していった。単純なことだが、「やれることをやる一方、やれないことはあきらめる。無理はしない」「自分は強くもあり、弱くもある」というバランス感覚を会得したということである。

 以後、「一定の限界を超え、無理をして何かをやろうとはしない。自分はそれほど強くはない。やれる範囲でやる」-これが自分の行動基準の一つになった。六つ星山の会の事務についても自分に「完全」を求めない。やれる範囲でというやり方でやってきた。

 でも、ある程度、自信は取り戻しており、力を尽くすべきときには自信をもって取り組むことができるようになった。たとえば、六つ星の「創立25周年記念事業」のときには、事務局長として全力投球をした。会場に日大の講堂をお借りし、全国から13の視覚障害者登山団体をお呼びした上で、登山家の田部井淳子さんの講演会を開き、視覚障害者登山を考えるシンポジュウムを開き、コーディネーターにNHKのアナウンサー山田誠浩氏をお願いし、と大忙しの毎日。すべてが終わり会場の後片付けに最後の1人になるまで残り、それも終わったときは、連日の気疲れが重なってクタクタとなり、その場に座り込みたくなるほどに疲れてしまったが、やり終えたという充実感はなんとも言えず快かった。もちろん、これらの成功は自分の力によるものではなく、各分野の責任者が力を尽くしたことにあるのだが。自分が全力投球をしたのはそれらの陰の調整役としてであった。

  

 

3)恩師のはがき

 神経症になったのは「治そう」という執着心が強すぎたからだが、「物事に執着する」という性格は「粘る」ということにも通じ、プラスの面もあった。

  高校生の頃、心ひかれる先生から、「よし歩みは遅くとも、ねばり強く、牛のように」という年賀状をもらい、「ねばり強く、牛のように」という生き方は、確かに自分に合っているように感じた。もともと粘り強い性格だったが、この言葉を頂いてからは、「粘ること」を強く意識するようになった。恩師の一言のおかげである。

022_2 名前は奥井先生。英語の担当。背が高くて、顔がフランケンシュタインに似ていたので、あだ名は「おばけ」。やや足を引きずっていたが、第二次大戦中、硫黄島に戦闘機で出撃し機銃で足を撃たれたためという。たくましくて、また知的な雰囲気を持っていたので、とても心ひかれた先生である。

 ときどき皆で家に伺い、先生の指導で、サマセット・モームの「The Outstation(奥地駐屯所)」を原文で読んりしたが、ウオーバートンという主人公の名前は今も鮮明に憶えている。また、先生の提案で英語劇を演じたが、これには、私はせりふがたった一言だけの兵士役で出演した。

 「粘り」の例を二つ。

1)中学の国語の授業で、毎日、日記を書いて提出するという宿題が課され、家で日記を書くのが日課となったが、結局、中学を卒業し、書くという義務が無くなっても、それを毎日続け、20歳代前半まで日記を書き続けた。そして、このことはその後、自分の内面にいつも目を向け、自分を見つめるということに繋がり、また、それは文章を書くのを苦にしない自分を作った。これは、「粘って日記を書き続けた」お陰である。そう言えば、指導を受けた国語の西田先生も恩師の1人。顔つきから、あだ名は「般若」。授業はとても面白かった。特に和歌や漢詩の授業が素敵で心に残り、今でもそれらを口ずさんだり、和歌や漢詩の本を読んだりしている。

2)例示の二番目は「牛野 歩」という、なつかしい名前。「粘り」を意識して付けた私のペンネームである。30代の頃、10年ほど使っていた。毎日、社会運動のチーフとして忙しく活動し、家に帰らずに外泊することもあって、疲れて駅の階段を上るのも辛かったが、心に「疲れ」という重い鎖をつけながら、それでも何とか活動を続けた。その頃に自分を励ますために付けたのがこのペンネームである。

 その運動のチーフは辛い役なので、引き受ける人はほとんどなく、また、引き受けても短期間でその役を下りるのが普通だったが、それを見ていた私は意地もあり、「10年間は絶対にチーフをやめない」と心に決めてこの役を引き受けた。チーフを下りたのは結局、身も心もボロボロに疲れ果てた10年後のことだった。

 六つ星の役員になったときも「10年は続けよう」と心に決めたが、こちらは15年近く続いている。

 ただし、このような場合、自分の活動には特徴がある。組織を超低空でいつまでも墜落しないように飛ばすことには向いているのだが、組織を上昇気流に乗せ、活発にし、大きくすることは不得意なのだ。組織活性化のために思いがけないアイデアを出したり、また周りの人の心をしっかりと掴んで組織全体を動かしたりということはうまくできない。それらがとても得意な人が何人かいるが、私はその人達には全く及ばない。

 

4.「視覚障害者登山」-それは私の後半生をたいへん豊かにしてくれた。(2013年1月25日・記)

 注)別途、このブログに掲載した「視覚障害者登山・六つ星山の会」に六つ星山の会の概要を記したので、それらも参照されたい。

 人生後半の25年間、六つ星山の会(視覚障害者と登山を楽しむ会・会員約200名・うち視覚障害者80名。1982年創立)に1989年11月、51歳で入会し、年間10-20回、視覚障害の方と山に登り、また、後半の約15年間は役員として組織の運営に携わってきたが、それは私にとって新しい経験であり、辛かったことも含めて、私の後半生をたいへん豊かにしてくれた。

1)第一は、視覚障害の方々と登山の喜びを共有できたこと。

 「喜び」は共に味わう人がいれば倍加する。視覚障害の方が山頂に立って「登った」、「私にも登れた」と嬉しそうにする、その笑顔を見るときはこちらも嬉しくなる。風を感じ、「ワア、涼しい」と言われると、こちらもほっと一息つく。

2)そんな中で視覚障害の方々と親しくなり、また、サポート役の山好きの方々とも親交を深められたこと。

 ポンと肩をたたいて「ご苦労さん」と握手をしてくれる人、また、問題が生じたとき、電話で「どうですか。大丈夫ですか」と励ましの言葉をくれる人、そんなすばらしい人達が周りにできた。彼等の顔を思い浮かべるだけで、元気が出る。

 一方、人の冷たさに接して、辛くて何度か六つ星を辞めたいと思うこともあった。私は負けん気が強い反面で、意外と繊細。ちょっとしたことで、心が傷つく。六つ星に入った頃は、「六つ星のようなボランティアに携わっている人は暖かくて親切な人達だけで、冷たい人はいない」と思っていたが、そうではなかった。冷たい人もときにはいる。

3)組織運営のあり方についても、いろいろと学ぶところが多かった。

 40年間務めていた元の職場では、組織全体を見渡す立場に立つことはなかったが、職場を辞めて初めて、15年の間、小さいながら、組織運営というものの一端を担い、新しい経験をした。

① ボランテイア組織には、その中心に「何が何でもこの組織を支えていこう」という人がいることが大事。中心にいる人が動揺すれば、種々の事務を担当するなどして周りから組織を支えている多くの会員は、その組織の将来に疑問を感じて、やる気を失いかねない。

 特に組織が混乱しているときは、中心にいる人はじっと我慢し、泰然自若としていることが大切である。

② 誰かに何かを頼むとき、会社組織とボランティア組織では基本的な違いがある。会社では給料をもらっており、上司の指示命令があれば一般的に必ず従うが、六つ星は無給であり、活動は自発的なものなので、やって欲しいことがある場合は、言葉でお願いしその人の心を動かす以外に方法はない。

 ボランテイア活動にたずさわる人はすべて「善意を提供し、世の中の役に立ちたい」と思っている。しかし、ほとんどの人は「少しだけ」であって、「日常生活にかなり食い込む形で運営にたずさわってもよい」と思っている人は少ない。「少しだけ」であろうと「世の中の役に立とう」という思いはたいへん大切なことであり、ボランティアはそれで成り立っているのだが、役員になってほしいとか、恒常的に事務を担当してほしいとか、を頼む場合は、尻込みする人が多くて、承諾を得るのがたいへんである。何しろ、私は人に頼むことが苦手。断られるのではと、ドキドキしながら頼むのだが、断られて結局、自分がやってしまうことが多かった。

 しかし、それでは組織は育たない。会の運営に携わり「六つ星は自分の会」「他人ごとではない」と思う会員が一人でも多くなることが組織の維持・発展には必要なのだ。

 もっとも、あまり大きなことは言えない。自分もかっては「少しだけ」の部類の一人であり、機会があれば役員を降りたいと、いつも思っていたのだから。

③ 私の場合、六つ星にかかわったのは「やらねばならない」という「義務感」からである。

 ボランティア活動をする人の中には、生涯のすべてをそれにかけている信念の人、活動を楽しみながら嬉々としてやっている人、義務感でやってはいるが精神力が強かったり、楽観的だったりして私のようには悩まない人、などがいるが、私の場合は「今の仕事を引き受けてくれる人がいないので、やめたいのだが、やめられない」という消極的な面が強かったし、人間関係で何かあるとすぐに辞めたくなるような弱い面があった。

 ただし、今は会の雰囲気が変わった。やろうという人達が沢山いて、ほとんどの事務を引き継いでもらい、いつでも辞めることができる状態になった。

④ 私に向いている組織運営のやり方は、「粘って」超低空飛行で組織を維持し続けることにある。逆に苦手なのは、組織を上昇気流に乗せ活性化し大きくすることである。活性化のために皆の気持をしっかり掴むことやすばらしいアイデアを出すことなどは苦手である。もっとも、苦手なので、そんな努力をしなかったという面もあるのだが。

⑤ 自分にとってボランテイア活動に意欲を持ち続ける鍵は、「行動の意義付け」について確固とした「座右の銘」を持つことではないかと思ってきた。そして、10数年を要してやっとたどりついたのは、「自分の活動が、誰かが山を楽しむことに少しでも役に立っていればそれでよい」ということだった。こんな平凡な境地に達するのに10年もかかった。でも、今では、どんなにいやなことがあっても、この言葉を思い出せば耐えることができるようになった。

4)また、視覚障害者登山のあり方についてもいろいろと考えさせられた。

 たとえば、

 ① 視覚障害の方々と「対等の立場」で山に登るとは何か、

 ② 「ボランティア」とは何か、

 ③ 危険を冒して山に登ることの是非、

 ④ 事故対策のあり方、

 などである。

 

① 2009年まで六つ星の会則には、視覚障害者と晴眼者が「同等の立場で山に登る」という文言が入っていたが、翌年の総会で「共に登る」と改定された。

 このときの議論の中で、私が考えたのは以下のことである。

 視覚障害者と晴眼者は金銭面、運営面、情報面という三つの面で「同等の立場にある」。即ち、

・山行への参加費(交通費、宿泊費)は同額の負担、会費も同額等、金銭面では同等である(六つ星結成以前は視覚障害者がサポーターの交通費、宿泊費、ときには日当までも負担するのが一般的だったが、六つ星が同等負担という新しい原則を確立した)、

・役員の晴盲同数等が保証されていて会の運営面でも同等の立場にある、

・山行案内等の情報伝達については、活字版、Ëメール版のほかに、点字版とデイジーのCD版が作成され、すべての視覚障害者に情報を知る権利が保証されている。また、会山行については1件毎に触地図が作成されている、

というように三つの面で同等なのである。

 ただし、精神面ではやや異なる。登山のサポートは「する」、「される」の関係にあり、サポート者側は「面倒をみてあげる」という気持になりがちであり、一方、障害者の方も「助けを受ける」という受動的な気持になりやすい。そして、サポート中の晴眼者の行動は「指示し誘導する」ことが中心で、「同等の立場で登る」という精神が入り込みにくい。

 この精神面の平等をどう実現したらよいのであろうか。

 これについては、私は次の3点に留意している。

 a)視覚障害者は一個の人間として自立心が強く、「お情け」を受けることを極端に嫌う人が多い。そのことを常に留意する。

 b)「助けてあげる」という気持は大切。これを無理に否定しなくてよい。

 c)視覚障害者の方と長くお付き合いをし、親しくなる中で、いつか「同等のお付合い」が自然できるようになるはず。

 

この改定が提案された2010年の総会では、数人の視覚障害の方から、「入会のとき、同等の立場という文言を読んでたいへん感銘を受けた。是非残してほしい」との要望が出されたが、結局、「当然のことで仰々しすぎる」「条文をもっと平易に」等の理由で可決された。

 しかし、この精神そのものが総会で否定された訳ではない。今もこの精神は生きていると思う。

②「ボランティア」の定義について

 視覚障害者の中には、「六つ星はボランティア団体ではない」という声が強い。積極的に活動に係わっている人ほど、そんな声が強く、晴眼者の中にも「この会はボランティア団体であってはならない」という人がいる。

 なぜか。六つ星山の会の視覚障害者は社会に出ることに積極的であり、自立心が強く、「目が見えなくて大変でしょう。助けてあげましょう」と言って手を取られることをたいへん嫌う。「お情けは受けたくはない」のだ。そのためだと思う。「ボランティア」という言葉に「お情け」を感じるので、抵抗感が強いようである。

 でも、ここには「ボランティアとは何か」について考え違いがあるように思う。ボランティアは、「お情け」ではないのだ。「無償での社会奉仕」と言えよう。私は、六つ星はボランティア団体だと考えている。

 

③危険を冒して登るのか、それとも安全を優先して中止するのか。

 視覚障害の方が、槍・穂高や赤石岳などの高くて比較的厳しい山や冬山を希望する場合、それに挑戦する意欲を大切にしてサポートを了承するのか、それとも安全を優先してサポートを断るのか、選択を迫られることがある。

 そんな場合、私はできるだけ「挑戦への意欲」を尊重し、安全対策をあれこれと考えた上でサポートを引き受けてきた。もちろん、その人の力倆と山の厳しさの程度を考慮した上でのことだが。また、天候悪化での撤退は必須要件。

 一例をあげよう。70歳に近い全盲で足が弱い方に頼まれて、槍や穂高、赤石三山縦走などに出かけたときのことだ。一部の人からは「あの人では危険が多すぎる。やめるべきだ」と言われたが、その人の熱意がとても強かったので、もう一人のサポーターとして私よりも強力な人を頼み(1人にサポーターは二人必要)、更に小屋に着けないで野営することも考えてテントも用意して、出かけたのである。結局この縦走は、どんなに疲れても歩き続ける、その人の粘りによって成功した。挑戦する気持ちがあれば、試みてもらう。たとえ、力倆不足でそれが失敗に終わったとしても、その人の心は満たされるであろう。

④事故を起こさないために。

 六つ星では過去30年の間に路肩からの転落事故が3件発生し(うち骨折1件、無傷2件)、その他、転んでの骨折や落石による切り傷、虫刺されなどの事故も数件発生している。 

 特に転落事故は死亡や大きな怪我につながるので細心の注意が必要である。 

 過去の例を見ると、道幅が狭く全員が注意をして慎重に歩くような危険地帯では事故が発生したことはなく(ときにはザイルで確保したり、特別に一人サポーターを配置したりして万全の注意を払っていることによる)、事故は安全と見られるような思わぬところで発生している。 

 油断をすれば事故はどこでも起きるということである。

 六つ星山の会として事故を起こさないために肝要なことは、安全と思われる登山道でも常に注意を怠らないこと、これが第一。

 第二は役員会としてエコーラインや例会で事故への注意を会員に常に喚起していくことである。

5)追記(総務部長を退任 2015.1.31記)

 六つ星の2月の総会で総務部長(事務局長的な役割を担う)を退任することになった。喜ばしいことである。かって、役員のなり手がいなくて、規約で定める定数を大幅に下回ったままで運営せざるを得ないときが長く続いた。「もし、これ以上役員が減ったら臨時総会を開いて組織の解散を提案しようか」などと考えたこともある。それが最近では運営に積極的な会員の方々が大幅に増えて、運営の中心を担う方が現れ、また役員も常に定数一杯の選任が可能となった。

 心置きなく退任できる。これまで、「永遠に組織を維持するにはそれを担う人が元気なうちに次の人に代わることが必要だ」と思ってきたし、代わってくれる人がいないかといつも周りを探していた。それが実現できたのである。もちろん、心の奥には、「総務部長の役はかなりの負担。早く代わってのんびりしたい」という思いもあったが。

 今後を考えると、役員を下りた後も、一生を視覚障害者登山の普及に捧げるという選択もあるように思う。視覚障害の方の希望をもっと深く掴んで、視覚障害者登山のあり方を深めることに尽くすという道だが。でも今は、それ以外のことをやる方向で考えている。

6)追記(2016.5.9記)

 誰かのために少しは力を尽くしたいという思いは誰にでもある。私もその一人。

 30歳代の10年間は、ある組織の支部のリーダーとなり世の中全体を変えたいという活動に力を尽くしたが、先頭に立って強気で組織の皆を引っ張るというような活動には、私は不向きだった。相手の気持を考えると「やるべきだ」と強くは出られず、また、宣伝活動で世間の人と相対したときは、「考えは人それぞれ」という思いが強く、「何が正しいか」という判断を無理に押しつけるような感じがして(本当はそうではないのだが)、うまく対話ができなかった。そして、不得意な任務を義務感だけで10年間、全力で続けた結果、身も心も疲れ果てて、リーダーを辞任した。運動には今も係わっているが、活動はかなりペース・ダウン。

 40歳代は疲れた心身の回復を図って「日本百名山」を始め、徐々に熱中して、ほぼ単独で過半数を登った。登山から帰ると、心が生き生きとし、仕事や日常生活に前向きになれたことを覚えている。

 次いで50歳代に入って始めたのが「六つ星山の会」の視覚障害者登山である。これは私にピタリだった。30代の社会運動では自分の力が生かせなかったが、ここではある程度、生かすことができた。それにここには、「喜び」があった。30代の運動では、運動が効果を発揮して世の中が変わり、皆の生活が豊かになるのは基本的に100年先であり、今、皆が喜ぶという姿を見ることはできない(その効果がすぐに発揮される分野も一部にはあるが)。それに対し、登山は自分の得意分野であり、義務感なしで前向きに取り組むことができる上に、視覚障害の方の喜ぶ顔がその場で見られるし、自分も嬉しくなる。。そんな「六つ星」を選択してよかったと思っている。

5.海外登山とサンティアゴ巡礼-人生を楽しんだ後半生

  人間、一生の間に「ワクワクする」ことなどめったにない。

 小学生の頃に味わった最高の「わくわく感」については、すでに上記3の1)「楽しかった少年時代」に書いたとおりであるが(「魚とり」と「百人一首」)、その他では、泊りがけの修学旅行に行く前夜、ワクワクしてなかなか寝つけなかったことや、いとこの敏夫ちゃんと清ちゃん(母の妹の子供)が我が家に遊びに来る日に、何度も外に出ては道のはるかかなたを見据えながら、「今か、今か」と到着を待ちわびたことなどを思い出す。

 また、青年時代には体が宙に浮くような、何とも言えない幸福感を2度、味わった。

 一つは難関の東京大学に合格したときのこと。それを家で待っている母に知らせればどれほど喜ぶかと思いながら、多摩川の土手を走って帰ったのだが、何か体が宙を飛んでいるような不思議な感じがした。あと一つは、ひそかに思いを寄せる幼馴染みがいたが、あるとき、彼女も自分を思っていると分ったときのこと。家に帰ってじっと座っていると、幸せ感が全身に広がっていくのが感じられた。もっとも、この関係は淡い思いのままで終わってしまったが。

 

 そして、50歳以降の後半生に入って、このブログを書く契機になった海外登山とサンティアゴ巡礼において、青少年時代に味わったそんな「わくわく感」を再び味わうという幸運に恵まれたのである。 

 

 1977年・40歳の頃から山に夢中になり、ほぼ単独で、初めは「日本百名山」を、次いで北アの全山縦走(西穂-親不知海岸。ジャンダルム、栂海新道、船窪-烏帽子などを越える)、南アの全山縦走(仙塩尾根、高山裏など)、北鎌尾根、転付峠越えなどを楽しみ、その一方で海外にも目を向けてツアーに参加し、1988年にモンブラン(ヨーロッパ大陸)、1991年にキリマンジャロ(アフリカ)、1993年にアコンカグア(南米)、58歳の1996年にはマッキンリー(北米)と、ワクワクしながら、七大陸のうちの四大陸最高峰に遠征した。そしてこのうち、キリマンジャロとマッキンリーは登頂に成功。特にマッキンリーの登頂成功は、山に素人の私にとって、今では、生涯最高の勲章と言える、何物にも代えがたい思い出となっている。

 他方、60歳代後半になると体力の低下を感じはじめ、重点を登山からウオーキングに移すこととし、海外を約1ヶ月間歩くサンティアゴ巡礼を始めた。最初の巡礼は65歳のときのスペイン「フランス人の道」。以降、フランスの「ル・ピュイの道」、ポルトガルの「ポルトガル人の道」、スペイン北部海岸沿いの「北の道」を歩く。「北の道」を歩いたのは2014年・76歳のときである。

 このはかに、シベリア鉄道のツアーもワクワクしながら参加した旅の一つと言えようか。

 これらを振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。行く前の「ワクワク感」と頂上に立ったときや目的地に着いたときの「達成感」がすばらしい。今でも、それらを思い出すと何とも言えない「幸せな気持」に心が満たされる。

 前半生に続き後半生でも、こんな気持を味わえるなんて…。

 もっとも、このようなことが可能だったのは、ある程度のお金と休暇と健康に恵まれるという運の良さがあってのことだが。 

6.子供と孫に恵まれて

 私は職場の水戸支店で同じ職場の和子(1941年生れ)と知り合い、1965年に結婚。

 その後、秋田、東京、大分等に転勤。1966年に長女、1967年に次女、1974年に長男が誕生。

1)娘と息子について(昔の「覚え書」から抜粋)

優子へ。「友達ができたらいいのだが」、「外国へ一人で行ければいいのに」、そうなってほしいといつも思っている。(その後、彼女は英検3級を取り、運転免許を取り、海外旅行にも数回1人で行ったが、今も友達には恵まれない。人付き合いが苦手なので、就職も上手くいかないでいる)

息子がさそうので、久し振りにキャッチボールをする。あたたかい冬の日差し。ストライクがよく入り、息子にほめられた。

彼は大学生になって、オートバイに夢中。危険なのでやめてほしいところだが、無理に止めることはしない。夢中になれることがあるのは、すばらしいことだ。

 オートバイでの外出中はなんとなく不安。いつも心の中で安全を祈っていて、帰ってくるとほっとする。

 彼から「面白いよ。お父さんも乗ってみたら」と言われた。   

彼は先日、「今に生きる」というビデオを借りてきた。イギリスの名門校が舞台。人生とは何かを、一人の教師が情熱をこめて生徒に語りかける映画である。息子が数年前に見たものだが、そのときの感動が忘れられずにまた借りてきたという。

 ゆっくりではあるが、心が成長していく子供を見るのは嬉しいことだ。

直子へ                                    

 誕生祝いありがとう。ひとり立ちをしてかなりになったね。ひとりで生きていける自信がついたことでしょう。子供がひとり立ちするのを見るのは、親にとってとても嬉しいことです。こんなときに、いくつか書いてみました。

 充実した人生だったと思えるような生き方をしてほしい。

 夢を持つこと。大きな夢を。夢は心を生き生きとさせる。

 挑戦をしよう。やるときは、やれるときは、思い切って、全力で。

 人間の本当の美しさとは、心の美しさ、やさしさのこと。外見じゃない。

 読書は人生の大きな楽しみ。そんな世界も知ってほしい。

 他の人の生き方にも関心を持とう。そこには自分の生き方の鍵が隠されている。

 結婚をして家庭を持つこと。家族を持つことは、喜び、楽しみであり、苦しみでもある。

 人間は本来は利己的なもの。でも、利己的にだけ生きていては満足できない。それを知ったうえで、できる限り他人のためにつくすこと。それは喜び。

2)孫の思い出 

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 振り返ってみると、孫について書いた文章はとても多い。

(2005・2・3) 孫の風ちゃんが生まれて、10ケ月が過ぎた。もう、掴まり立ちをする。とても可愛い。私をじっと見つめて、ニコッと笑う。音がすると、抱かれた腕の中から身を乗り出して、何とかそちらを見ようとする。

 孫が生まれて、とてもうれしい。人生でまたひとつ、すばらしい経験をさせてもらえる。

 一方、心配も絶えない。這っていく先に危険なものがないかとか、掴まり立ちをしたときはころんで頭を打たないかとか、絶えず注意をしなければならない。ときには疲れを感じることもある。家族が増えれば、それだけ心配も増える。

 約1ケ月間、風ちゃんが家に来ていた。風ちゃんの相手をしているうちに、日々はあっという間に過ぎる。

(2005.6.8) 風ちゃんは1歳2ケ月。

 玄関にある傘立てに10本ほど傘が入っているが、そこから1本づつ傘を取り出すのが大好きだ。背丈を超える傘を懸命に引き抜き、頭の上に持ち上げて取り出すのだが、その重さで体がふらつき、よろけたりする。取り出した傘を傘立てに戻してやると、飽きずにまた同じことを繰り返す。

 「小倉風奈チャーン」と大声で呼びかけると、小さな手を挙げて「ハーイ」と応える。何か得意気。声が可愛い。

 朝、風ちゃんが寝ている部屋のふすまがコトリと動く。ふすまが少し開いて、手が覗く。もっと開いて、顔が覗く。全身があらわれ、誰か居ないかとじっと居間の方を見る。風ちゃんのお目覚めである。

(2009年正月)

 私の今は幸福に満ちている。子供がいて、孫がいて、家族全員が健康であり、暖かい寝床があって、安定した収入があり、ときおり家族で外食も楽しめる。 

 今年の最大のお年玉は、アンジェラ・裕之の夫婦に子供ができたこと。昨年末に「来年の7月に生れる」と連絡があったときは、飛び上がって喜んだ。

 また、直子の二人の孫も元気一杯。風奈は4歳、爽太は2歳。3月には誕生日が来る。

 父親の実さんが仕事で海外に行っていて正月中は帰れないため、年末から泊りにきて我が家で初めて正月を過ごした。

 おかげさまで、楽しくもあり、疲れもした。

  二人は道路を駆けることが大好き。爽太は車に注意しないで駆け回る。車道に飛び出すので車に轢かれる恐れがあり、ハラハラして気が抜けない。

 二人はよく喧嘩をする。物の取り合いが多い。ぶったり、けったり、取っ組みあったりする。風奈は負けそうになると噛み付いて反撃するので、爽太の腕に歯形が残ることもある。ときには風奈が泣かされる。

 それでも、二人は仲が良い。お食事作りごっこをする。爽太がお母さん、風奈が赤ちゃんになって遊ぶ。

 隣の部屋で二人仲良く遊んでいるときは、危険なことをしていないか、ときどき覗いてみる。

 二人は甘えん坊。「ママ、ママ」と言って「だっこ」をされたがる。何かをしてもらうときも「ママじゃなければいや」という。爽太はママの姿が見えなくなると「ママ、ママ」と泣きながら探し回る。

 爽太は「最初から」といってわがままを言うことがよくある。ママが先に行ってしまうと、地面に座り込んで「最初から」(最初の地点に戻ってきてだっこをしろ)と言って大声で泣きさけび、ママが迎えにくるまで動こうとしない。ときには道路に大の字にひっくり返る。ジジが抱きかかえて連れて行こうとすると足をバタつかせて抵抗する。しつけのために、そのままにして、遠くに離れて「一人で起き上がって歩いてこないか」と見守っていると、泣き声が大きいので、通りがかりのおばさんが「どうしたの」と声をかけてきたり、ときにはお巡りさんがやってくる。迷子でないことを知らせるためには戻らなければならない。

 風奈はトランプの「しんけいすいじゃく」が得意。泊りにきていた間、毎夜、爽太とババと四人でやった。風奈が一番になることが多い。

 見るビデオは「どらえもん」「機関車トーマス」「アンパンマン」など。一時は「バンビ」「ダンボ」に夢中になった。

(2009年1月25日)

 爽太はきょうから車輪付きの自転車がこげるようになった(今までは誰かが押していたのだが、数日前に三輪車をこぐコツを会得して、きょうは自転車にも乗れたのだ)。綾瀬の公園の子供用自転車乗り場でのこと。爽太は嬉しくて夢中になり、いつまでも乗り回していた。右側通行や赤信号停止は無視。管理人のおじさんが注意をするのだが、振り向きもしない。お姉ちゃんの風奈が自転車に乗るのにあきてしまい、「爽太、ブランコに乗ろう」と言っても、これも無視。無言で前を見つめ、赤信号でも止まらずに、ときには左側を黙々と走り続ける。

(2009年3月31日)

 風奈が車輪の付かない自転車をこげるようになった。亀有の交通公園で3時間ほど一生懸命に練習をして10m位乗れるようになったのだ。

 プールでは、もぐって前回りを2回転して浮き上がったり、後ろ回りを1回転して浮き上がったりすることができるようになった。

(2009年4月27日)

 爽太は4月から幼稚園。まだ慣れない。幼稚園の入口の門までは行くのだが、入りたがらない。大声で泣き叫ぶ。先生はそんな爽太を無理やり教室に連れて行く。教室では皆から離れて門が見える窓際に座り、そこが爽太の定席になった。お弁当もそこで食べ、ママが来ないかといつも外を見ている。ときには「お弁当はおうちでお姉ちゃんと一緒に食べる」と言って食べないこともあるようだ。

 爽太のまんまるの目が可愛い。誰かに話しかけるときの目がまんまるだ。

 爽太はトランプに夢中。幼稚園から帰るとすぐにトランプを持ち出し、そばにいる相手と「神経衰弱」をやる。お姉ちゃんだったり、ジジだったり。札のありかを「ここだよ、ここ」と得意そうに相手に教えてしまうこともある。終わると「爽太、一番。お姉ちゃん、2番。ジジ、3番、ビリ」と大声で指差しをする。

(2009年を振り返って)

 孫3人(風ちゃん5歳、爽太3歳、リリー5ケ月)

<風ちゃん> 風ちゃんは「幼児」から「子供」へと成長中。

 運動が得意。ジジは鉄棒が苦手で前回りも満足にできないが、風ちゃんは自分の背丈ほどの鉄棒でも蹴上がりや逆上がりができる。また、棒のぼりも得意。幼稚園の屋根のひさしを支えている細い鉄の柱を天井まで登ってしまう。プールでは水中で、前回りなら2回転、後回りは1回転することができる。「ジジ、見てて、見てて」と得意げだ。

 でも、泣くことも多い。ころんだときや注射をされたときは、「わっ」と声を上げて大泣きする。また、弟の爽太と喧嘩をして負けたときも泣く。取っ組合いでは勝てるが、爽太にぶたれたり、かみつかれたりしたときは大泣きをする。そして、「ママ」と言いながら、ママの胸に飛びつき、泣きながら「だっこ、だっこ」と甘え、しばらく抱いてもらうと泣きやむ。

<爽太> 惣太は話し言葉がまだ幼児。

 元気はよい。下り坂をすごい勢いで駆け下りる。何かを要求するときは大声を出すし、要求が通らないと泣き叫ぶ。いつも精一杯、動き回っている感じだ。

 数ヶ月前まではジグソー・パズルに夢中だった。「寝よう」と言って電気を消しても、真っ暗な中でパズルのピースを持ってじっと座っているほど。

 今はトランプに夢中。娘の家に行くと、すぐに「ジジ、トランプやろう」とトランプをもってくる。裏返して撒いたトランプを2枚開けて、数字が同じなら自分のものになるという「神経衰弱」に特に夢中である。神経を集中させ、真剣な目つきで札をめくる。どれが同じ数字の札かが分かると素早く取る。

 爽太は行動を規制されるのが嫌い。スイミング・スクールに行かなくなった。プールで先生の指示通りに動くのが嫌なようだ。家族でプールに行き、水の中で自由に動き回るのは大好きなのだが。また、幼稚園の運動会でのこと、ママと一緒にいたのに、出番が来てママと引き離されると、ふてくされて「かけっこ」に出ず、競技が始まる前のコース内を1人でブラブラと歩き始めた。爽太の駆ける姿を見たいと来ていた家族はガックリ。

 おねえちゃんとはいつも張り合っている。おねえちゃんが注射をするとき、ママに抱かれているのを見ると、「おねえちゃん、ずるい。爽太もだっこ」と泣き叫ぶ。また、ケーキを分けたあと、見比べて「おねえちゃんのほうが大きい」と言ってテーブルに泣き伏す。「神経衰弱」のとき、おねえちゃんに好きな「ジョーカー」の札を取られると、泣いて飛びかかり、取り返そうとする。

<リリー> 息子がインターネットでリリーのビデオや写真をニュー・ヨークから送ってくる。まん丸な大きな目、笑顔、「ウーウー」というおしゃべり。どれもとても可愛い。妻はビデオのリリーに話しかけたりしている。

(追記) 

 リリーは2009年7月26日にニューヨークで生まれた。

 ジジとババが長女と一緒に初めてニューヨークのリリーに逢いに行ったのは、その年の9月28日から10月6日。目のまんまるな、とても可愛い女の子だった。そのとき、皆で一緒に列車に乗り、ニューヨーク郊外の、昔の風情を漂わせる小さな町を旅行したことを覚えている。

 そして、その後は、数回、パパ・ママと一緒に日本にやってきて、七五三の写真を撮ったり、日本の幼稚園に1ヶ月間、体験入学をしたりした。また、風ちゃん、爽太の家に泊まり、3人で仲良く公園で遊びんだりもした。

 遠くに住んでいるので、あまり会えないが、テレビ電話のスカイプで、ときどき会えるのを楽しみにしている。日本語ができて、話ができるともっと嬉しいのだが。

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(2010年6月26日)爽太4歳

 爽太が、幼稚園の七夕祭の短冊に「レイナちゃんとけっこんしたい」と書いた。ママは大笑い。幼稚園に見学に来ていたお母さんたちも、それを見て大笑い。皆がその写真をパチパチ撮っていた。それを聞いたババも大笑い。レイナちゃんは年上の6歳。おねえちゃんのお友達である。

 爽太はプールが大好き。大人用プールは背が立たないが、もぐったままで、くねくねと体をくねらせながら、息をつがずに3-4mは泳ぐ。プールの端からジジのいるところまで来て、また、端に戻っていくのだ。溺れそうになると手を差しのべてやるが、全く水を怖がらない。

 爽太はダンゴムシを採るのが大好き。幼稚園ではよく、バケツを持って日陰の湿ったところにダンゴムシを採りにいくが、一人ではない。子分を連れて行く。虫を掴めない3-4歳の園児がゾロゾロとその後を追っていく。

 ジジと二人で手賀沼公園に行ったときも、草を引き抜き、石ころをどけて、ダンゴムシを追いかけ、1時間ほどで、20匹のダンゴムシと3匹のナメクジを採った。指で摘まんで袋に入れる。

(風ちゃんと爽太が泊りに来た。2010年8月17日に記す)

 3人はきょう帰った。4歳の爽太は12日間ほど泊ったが、そのうち一人で泊ったのは6日位か。6歳の風ちゃんはチア・リーディングと水泳のお稽古があり、それらが終わったあとでママと一緒に泊りに来た。

 爽太はトランプに夢中。朝は6時過ぎに起き、夜は8時頃に寝るが、起きるとすぐに、まだ寝ているジジの枕元に来て「ジジ、起きて、起きて、トランプやろうよ」と私の体をゆり動かす。夜も寝るまで「トランプをやろう」と寄ってくる。いくらやっても、トランプに飽きるということはない。ジジは新聞もゆっくり読めず、一息つく時間がほとんどない。1日に20回位は付き合っただろうか。ゲームは、神経衰弱(トランプ全部を裏返しにして並べ、同じ2枚をめくって当てるゲーム)、大富豪、七並べ(三並べなどもやる)、ばば抜き(じじ抜きも)などで、爽太が強いのは神経衰弱である。これは記憶力が勝負。爽太はサッ、サッとすばやく札を開けていく。ときにはジジに「これだよ」と得意げに教えてくれる。72歳のジジは記憶力の衰えが目立ち、10回中9回位は爽太の勝ちだ。

 風ちゃんは小学校1年生。初めての夏休み。日記をつけるという宿題がある。

 運動が大好き。習っているチア・リーディングの動作を家でもやっている。水泳も大好き。我が家にいる間は毎日、4人で、ときには妻と優子も一緒で、プールに行った。風ちゃんはもう、泳ぎながら息継ぎができる。ジジの首まであるような深い所にもついて来る。二人で潜水をしたりして楽しむ。水中で前転を3回やったり、後転をやったりするのも得意。爽太の方は息継ぎはできないが、もぐったままで6-7mは泳げる。今までおぼれた経験がないので、怖いもの知らずだ。背の立たない所を平気で泳ぎ、ジジのところまでやってくる。

 そんなこと、こんなことで、ジジは疲れた。「孫と遊ぶ」のは「人生、至福のとき」と言われているが、一緒に遊んでいる間は、あまり「幸福」とは感じなかった。疲れながら付き合い、危険がないかを常に注意をしていたというのが実態。後日これらを思い出したときに初めて「幸福」を感じるのかもしれない。

(ジジとババ・二人だけの夕食。2010年8月21日に記す)

 優子は最近、夕食を取らない。いつも二人だけの夕食である。

 「風ちゃん、18歳位になったら、どんな女の子になっているかな。きっと、背は高くなるよ」とババが言った。「でも、僕らは生きていないかも」とジジ。二人ともはるかかなたの死後の世界を見る目になった。

(風ちゃんと爽太と思い切り遊んだ。2010年8月24日に記す)

 22-23日、風ちゃん、爽太、パパ、ママ、ジジの5人で勝浦のホテルに一泊。初日はホテルの前の波の穏やかな海で泳いだが、海の水が塩辛かったためか、翌日は真水のプールのほうがよいと2人に言われて、ホテルのプール(室内の流れるプールのほか、屋上に30mのプールがある)で泳いだ。

 二人に一番付き合ったのはパパ。二人はパパの首にしがみついたり、背中に乗ったりして大騒ぎ。二人は十分に楽しみ、それを見ていたジジの心も満たされた。

(2012年12月23日)

 風ちゃんと爽太がクリスマスにサンタにお願いの手紙を書いた。

 風ちゃん、「サンタさん、プレゼントをお願いします。私はあなたを信じています」。

 爽太は、欲しいものを10個並べて「このうちの一つをお願いします。でも、本当は全部欲しいです」。

(2012年8月5日・孫の風ちゃんがクロールで50mを泳ぎ、私も併泳)

 孫の風ちゃん(小学3年)がクロールで50mを泳げるようになった。私もそのあとを追って50mを泳いだ。二人並んで50mを泳いだのは初めて。風ちゃんがここまで成長してきたのが、とても嬉しい。しかも、一緒に泳げるなんて。小学高学年になれば、スピードはきっと私を上回るようになるだろう。

 爽太(小学1年)もクロールができるようになった。まだ、クロールの形が完全ではないが、何とか息をついて10mは泳げるようになった。爽太は誰かに指示をされて泳ぐのがきらい。教えようとしてもふざけて受け入れない。3歳の頃、水泳教室に入れたが、皆の泳ぎに加わらずに、プールの隅で泣いてばかりいたので、やめさせた。代わって、その頃から毎週のように2人でプールに遊びに行くことにした。爽太はプールは大好き。こちらから教えようとはせず、自然にできるようになるのを待つことにして、ここまできたのだが、今では背泳ぎはできるし、水中で前転や後転を連続して5-7回はできるようになった。クロールは小学校の水泳の時間に教わったようだ。

2012年12月31日)二人の水泳は更に上達した

 クロールでの競争。風ちゃんは50mを1分2秒で泳ぐ、じじは1分0秒。差がなくなってきた。爽太もクロールで100mは泳げるようになった。

2015年4月30日)

○5月は運動会の季節。先日、全校リレーに出る学年代表選手を決めるための選考会が行なわれたが、風ちゃんが走った1コースはでこぼこ道だったため、足を取られて早く走れずに落選。友達の一人も1コースを走ったが、転んで落選。風ちゃんは足が早くて、これまで毎年、代表になっていたのだが。二人で先生に「1コースは悪路。この結果で代表を決めるのは不公平」と抗議をしたが受け入れられなかった。家に帰ると、悔し涙をポロポロ流しながらママに報告。

 爽太は先日、サッカーで左手首を骨折。今、分厚い包帯を巻いている。でも、リレーには出たくて、先生に「包帯を巻いたまま、代表を決める選考会に出たい」と申し出た。治りかけてきたこともあって、先生は「転ばないように気をつけて」と言って許可してくれたという。こちらの選考会は5月に行なわれる。

 二人ともとても積極的だ。そういえば、風ちゃんは学級委員など、クラスのまとめ役を決める選挙にいつも積極的に立候補している。

○風ちゃんとプールに行く。

 クロールで25m競争。風ちゃんに負けた。

 風ちゃんの将来の希望は「水泳のコーチになること」。そのために毎週、水泳教室に通い、クロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳の泳力向上に励んでいる。

○爽太は本に夢中。

 今は、図書館の子供文庫から「三国志」全10巻を借りてきて読んでいる。家の中でも、レストランでも、時間があれば読んでいる。「面白い」と言いながら。

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2017年1月19日)

 

7.長女のこと

 同居している長女には生まれた時から軽い知的障害がある。

 彼女には一緒に遊ぶ友達がいない。小学生の頃からそうだった。学習に自信がなかったためだろうか、皆の中に入っていけず、教室でも校庭でも一人ぼっちだったし、たまたま付き合う人ができても気遣いに欠け、人間関係をうまく構築することができなかった。

 それでも、若いときはエネルギーにあふれ、たいへん積極的だった。20歳前後のときは、外国にあこがれて、新宿辺りのディスコに入りびたり、朝帰りが多かったし、30歳代になっても割りと活発で、運転免許を取り、英検3級を取り、また、海外ツアーに1人で参加し、フロリダのディズニー・ワールドやモロッコ、エジプト、スペインなどに出かけていた。

  一方、就職活動にも積極的だった。ウエイトレスの仕事が好きで、市内のレストランや食堂で募集の張り紙を見付けると物怖じせずに一人で店に入っていき面接を受けて、いくつかの店では採用され、また、新聞折り込みで市内の中小企業等の募集広告を見るとすぐに電話をかけてでかけていき、これもときには採用されることがあった。ただし、計算が不得意で動作がゆっくりしており、自信がないせいか、何か注意をされるとやめてしまい、どれも1ヶ月と長続きをすることはなかった。最後はハローワークに相談に行き、障害者枠で大手の会社に就職もしたこともあるが、これも、人間関係がうまくいかずに数ヶ月でやめてしまった。仕事のやり方で注意をされると委縮してしまい、翌日、会社に行こうとすると緊張感で気持が悪くなって吐いてしまい、会社に行くことができなくなったのである。

 このあとは就職への意欲を失った。40歳代になると、昼間も一日中、ベッドの中でじっとしていて、外に出ることのない日が多くなった。読書は漫画の本を時々読むだけ。テレビは見ない。散歩や買い物に誘っても乗ってこないという日々。

 彼女をどう育てるか、私達は娘の小さい頃から公立の障害者相談施設や入学した学校などに相談に出かけたが、適切な回答は得られなかった。重度ではない、軽度の心身障害児をどう育てたらよいかについては、公的機関での研究が進んでいなくて、はっきりした回答を示せるところはなかったように思う。また、県立や国立の障害者就業訓練施設にも入ったが、就職には成功しなっかった。

 そんな中で、私はしつけは大事と考え、人への対応の仕方や家での態度について、小さい時から彼女に強く注意をしてきたが、これは失敗だった。そのことが原因で彼女の私への拒否反応が強まり、彼女に徹底的に嫌われてしまったのだ。たとえば、外出するときはいつも「お父さんが行くなら、私は絶対行かない」と言われ、また、食事のときは私のそばには決して座ろうとせず、ときには食卓から遠く離れて一人で食事をするという状態で、この関係は彼女の10歳代後半から40歳代前半まで30年近く続いた。

 ただ、彼女が40歳を過ぎてから、私もこれではいけないとこの冷えた関係を改善しようと努力をした。一貫して貫いたのは次のこと。「注意をしたり、批判をすることは一切しない」「決して怒らない」「娘のいうことにはよく耳を傾け、望みはできるだけ叶える」ということである。

 そして、その努力は娘が48歳のときにやっと報われた。突然、「お父さん、一緒に散歩に行こうよ」と言われたのである。以下は当時の記録。

(娘と初めてのロング・ウォーク。2014年4月記

 急なことでびっくりしたが、希望通り、いくつかのウオークに付き合った。なお、私が一人で歩くときの昼食はコンビニのおにぎりですましたが、一緒の時はできるだけ、レストランや料理屋で昼食をとるようにして、娘へのサービスに努めた。

 以下、長女とのウオーク。4月19日14時、御茶ノ水(昼食)-銀座-新橋17時。20日、取手・戸田井橋11時-(利根川沿い)-安食16時。23日、戸田井橋10時30分-木下-小林-安食17時。25日、布佐11時30分-若草大橋-成田駅18時30分。26日、自宅9時30分-守谷の運動公園14時30分。29日、自宅14時30分-藤代駅17時。5月3日、次女一家(夫婦と孫二人)と長女と高麗の日和田山・物見山登山。16日、横山町問屋街散策。17日、戸田井橋10時30分-下総松崎18時。20日、妻、長女、次女と表参道で誕生祝いの食事(6月に、長女、次女の誕生日がある)。24日、池袋・サンシャインシティ-我が家のお墓-私の生まれた所・新宿西五軒町-飯田橋を二人で散策。

 これからは仲良くなれそうな気がする。ウオーキングが始まって、彼女は生き生きしてきて、家事の手伝いにも前向きに取り組むようになった。彼女がどう変わるかが楽しみである。ウオークに付き合いながらじっくりと見守っていきたい。

 それにしても、たった一人の人を育てるとか、その人との関係を作り上げるには、長い年月と根気が必要のようだとつくづく思う。

最近は-2016年7月記)

 最近、妻が足を痛めたことがプラスに働き、娘との関係は更によくなった。娘は、妻が家事ができないのを見て、私の食事作りを手伝ったり、昼食のあと片付けや洗濯を一人だけで担当したり、その他、頼まれたことを進んでこなすようになった。また、妻と3人で外出するときは、「お母さん、大丈夫」と気遣うことが多くなった。

 家族のために役に立つという役割が自分にあることに気が付き、嬉しそうに働いている。娘にとっては、妻が足を痛めたことがたいへんプラスに働いたように思う。

 このことは逆に我が家にも、たいへんプラスになっている。特に、外に出ることができない妻にとっては、話し相手がそばにいることは、たいへんなプラスである。

 長女は50歳。これまではいつも機嫌が悪くてむっつりとし、笑顔を見せることはなかったが、今は笑顔をよく見せる。怒ることもめったにない。外出をして近所の人に会うと、「こんにちは」と深々と頭を下げる。彼女にとっても私達にとっても、今は最もよいときを迎えているのではないかと思う。

 毎週木曜、妻がデイサービスで家を空ける日は、娘の希望で二人で近所のお風呂(極楽湯や満天の湯)に行き、1時間半の入浴を楽しんでいる。

 ところで、今後で気がかりなことは、私達2人が亡くなった後の彼女の身の振り方である。ワンルームマンションを購入して、一人暮らしをするのか、障害者施設に入るのか…。娘は、施設には入りたくないという。これについては私があの世に行く前に、具体的な方向を決めなければならない。

 まずは、きるだけ長生きをしたいと思っている。

8.軽い脳梗塞を発症。妻は膝痛で歩行困難に-2016年5月記

 

二人ともこれまで重い病気にかかったことはなかった。今回がはじめてのこと。高齢期を迎える中、人生の転機と言えるかもしれない。

1)妻の膝痛

妻は1年半ほど前に右膝を痛めて変形性膝関節症と診断され、歩行が困難となった。家の周辺を杖をついて(またはシルバーカーを押して)ゆっくりと10分ほど歩くのがやっとの状況。これに加え、昨年夏ころには、腰部脊椎間狭窄症でもあると診断された。

そんな中、膝関節症の治療を担当する医者から「膝の運動のためにプールで水中ウオークをするとよい」と勧められ、今年2月1日に30分ほど水中ウオークを行ったところ、以前からの右膝痛とは別に、左足のももからふくらはぎにかけて激痛が走って、歩行がいっそう困難になり、家の中を移動するのもはっていくという状況におちいった。別の医者の診断によると、これは水中ウオークが原因となって腰部脊椎間狭窄症を悪化させたためとのこと。

そして、3月末にJAとりで総合医療センターの腰部脊椎間狭窄症専門の医師の診察を受け、4月26日にその手術を行った。5月20日までリハビリのため入院。この間、娘と私は下記のウオークと登山以外の日は毎日、妻の病院にかよった。

2)家事を担当

 昨年の12月頃から妻の膝痛が進み、介護保険により電動ベッドや車いすを導入したり、玄関や風呂場に手すりを付ける一方、食事の仕方を床に座る方式から食卓と椅子方式に改めた。

また、その頃から、私が食事作りや買い物、洗濯物干し、ゴミ出しなどの家事全般を担当するようになった。

ただし、その結果、それまでは自由に行っていたロングウオークや登山に使う時間がかなり減って、今は1-2週間に1回となってしまった。しかも行くときは、早朝に朝食の支度をするなどしてから出かける。

3)脳梗塞を発症

このほか、私は3月18日に軽い脳梗塞を発症して、23-30日と入院。脳の一部血管が詰まり、その周辺の脳神経が死滅したために、体のバランス感覚がやや失われて、体がふらつくという後遺症が残った。医者からは、これを治すには半年か1年の長期リハビリが必要と言われ、現在は週1回リハビリのために通院するほか、自宅でも毎日、医者から言われたリハビリを行っている。

今後の課題は二つ。「リハビリによる後遺症の克服」と「再発の防止」である。特に重要なのは後者。私の場合、動脈硬化がかなり進行しており、再発の恐れはかなり高いと医者から言われている。対策は薬による治療と食事療法。これを今後、一生続けなければならない。

付記)これとは別に3月4日、5日と激しいめまいに襲われ、頭を床につけ動かずにじっとしていないと吐き気がした。医者に行こうとタクシーに乗ったが、途中で降りて吐いてしまい、30分ほど一歩も動けず路上に寝ころんでいたほどだった。こんなことは20年ぶり。前回は、残業続きの中、脳出血で倒れた父の看護(病院での夜間の付き添いが必要で、母と一晩おきに泊り込み、病院の長椅子で寝た)と風邪を引いたことが重なって、会議中に天井が回り始めたのである。

 今回も前回同様、東大病院で3回受診。結局、「慣れない家事全般を担当したほかに、妻の通院に付き添ったりと気を使ったための、ストレスによる良性のめまい」と診断され、数日で回復した。脳梗塞とは無関係という。

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・記事の作成日順(最後尾が最も古い記事)に掲載してあります。

・記事を大きく分類すれば、①4回のサンティアゴ巡礼(フランス人の道、ル・ピュイの道、ポルトガル人の道、北の道)、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の海外登山記、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の国内登山記、④「読書の楽しみ」、「毎日、無事平穏」等の日常の思い、⑤私の生い立ち等の自分史、⑥シベリア鉄道等の海外旅行記の6つです。

・緑色以外の記事については、下記の表題をクリックすると見ることができます。その他の記事については、表題をコピーし、インターネットに入力すれば、見ることができます。

  俳句と和歌の鑑賞

  2017年の山とウオーク

 2016年の山とウオーク   

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  私の生い立ちと歩んできた道

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 「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼

読書の楽しみ(付・絵画鑑賞)

サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)

私が登った山・一覧

自宅・取手市から新潟・親不知海岸へ-山々を越えて

百名山・99座登頂

「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼

2012・5・29-「ポルトガル人の道」へ-3回目のサンティアゴ巡礼(準備編)

毎日、無事平穏 2011年10月21日

2010年・夏

サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

2回目のサンティアゴ巡礼-フランス「ル・ビュイの道」をめざして

視覚障害者登山

写真集

(21.1.24) 海外旅行・思い出のこの一枚

シベリア鉄道 

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南米大陸最高峰・アコンカグア(6959m)への挑戦

マッキンリー

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マッキンリー その2

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スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO1

(現在は「初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-」と改題している)

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO2

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO3

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO4

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO5

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO6

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO7

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO8

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO9

スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO10

注)「スペイン・サンチャゴ巡礼の旅」の対象は「フランス人の道」である。

 

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「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼

   「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼-

                                                              2014年5月30日-7月15日

Ⅰ.序

(写真による概要紹介) 

1646

上 San Esteban de Pravia
772

上 Popenaを過ぎて

1053上 Santanderへ、廻り道
1231

上 Comillas

150

上 San Sebastian(スペイン有数の夏の保養地。美食のまち) 

080001

上 Pasai Donibane(渡し船で対岸へ)

1367

804_2

                上 Castro Urdiales.下 Somo(サンタンデルへ)

1076_2

(参考「私のブログの記事一覧」)

 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回のサンティアゴ巡礼(フランス人の道、ル・ピュイの道、ポルトガル人の道、北の道)、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の海外登山記、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の国内登山記、④「読書の楽しみ」、「毎日、無事平穏」等の日常の思い、⑤シベリア鉄道等の海外旅行記の5つである。記事の一覧は下記をクリックするとみることができます。

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<はじめに>

○2014年夏・76歳・「北の道」を行く。

 76歳の2014年夏(5月30日-7月15日)、スペインの海を見ながら歩きたくて、4回目のサンティアゴ巡礼に出かけた。これには、巡礼路についてのナマの情報をもう一本、ブログに書いて、これから行く方々の参考に供したいという思いもあった。歩いたのは北スペインの海岸沿いを行く「北の道」(イルン-ヒホン)とそれに続く「カミーノ・デ・ラ・コスタ(海岸の道)」(アビレス-リバデオ-バーモンデ-サンティアゴ)。全行程は820km。今回歩いたのは、そのうちの600kmである。

 前3回については、このブログに掲載した下記を参照されたい(これらの報告を見るには下線部分をクリックしてください。表示されない場合は、下線部分をコピーし、インターネットに入力すれば見ることができます)。

・2003年「スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO1 」(現在は「初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-」と改題している)
・2009年「サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)
・2012年「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼

また、今回の行くまでの経緯については下記を参照されたい。

サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)

 なお、今回は写真を多用した。この報告で重点を置いた断崖や浜辺などの海の風景のすばらしさを伝えるには、写真が最適と思ったからである。

<4回の巡礼を振り返って>

 まずは、4つの巡礼路を歩き終えたところで、改めて巡礼の魅力をまとめ、更に4つを比較しながら、それぞれの道の特徴を記してみたい。

Ⅰ.サンティアゴ巡礼とは

  エルサレムへの巡礼、ローマへの巡礼と並ぶ中世キリスト教の3大巡礼路の一つであり、最盛期の12世紀には年間50-100万人の人がヨーロッパ各地から、スペイン西北端の町「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」にある大聖堂を訪れたという。今でも、スペイン、フランス、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国に、畑や森を抜け、村や町をめぐる中世の巡礼路がそのままに残っており、聖ヤコブの墓があるサンティアゴ大聖堂を目指してこの道をたどる巡礼者の数は多く、また、年々その数が増加している。たとえば、サンティアゴにある巡礼事務所が発行した巡礼証明書の件数を見ると(発行要件は「サンティアゴ大聖堂への最後の100kmを歩いたこと。自転車の場合は200km」)、2000年5.5万人、2005年9.4万人、2009年14.6万人、2012年19.7万人、2013年21.6万人と急増しており、ハイキング気分で一部だけを歩く人、いくつかに区切って数年で一つのコースを完歩する人などを含めれば、毎年この数の数倍、あるいは数十倍の人がこの道を歩いていると思われる。

  サンティアゴに向かう主な巡礼路は12本。うちスペインに7本、フランスに4本、ポルトガルに1本ある。私はこのうち上記の4本を歩いたが、メインはもちろん「フランス人の道」と言われる巡礼路であり、2013年に巡礼証明を受けた21.6万人のうち、ここを歩いた人は15.2万人(70%)にも上る。宿も多く、ほぼ5-10kmごとにあるので、一日の行程を短くしたり長くしたりの調整が可能であり、足弱の人でも歩きやすく、初めての人にはお勧めの道と言えよう。

Ⅱ.サンティアゴ巡礼の魅力 

 サンティアゴ巡礼の魅力に惹かれて、徒歩やときには自転車でサンティアゴを訪れる巡礼者の数は前記のように急増しているが、その魅力はどこにあるのか。まず、これまでの4回の巡礼経験を基にして、私なりに感じたその魅力を紹介しておこう。

1)カミーノの最大の魅力は、世界各国から訪れた巡礼者や地元の人達と多くの出会いがあること。

・マジョルカ島から来た銀行勤めの2人連れのお嬢さん、

・小学生2人と一緒の日本の若い奥さん(元スチュワーデスとか。アルベルゲでスパゲッティを作りご馳走してくれた)、

・数日間一緒だったフランスの漁師のおじさん(携帯電話に出て、自宅の奥さんにも挨拶をする)、

・1日中、片言の英語で話しながら歩いたポルトガルの男子大学生、

・宿に着くと冷蔵庫の使い方、洗濯の仕方などを身振り手振りで親切に教えてくれた受付のおばあちゃん、

・「近所の友人も呼んで自宅で一緒に夕食を」と誘ってくれた民宿のご主人などなど、

 今でもそれらの人達を懐かしく思い出す

 なお、私はほとんどできないが、英語やスペイン語、あるいはフランス語、ポルトガル語の会話ができて、更にワインが飲めれば、出会いの楽しさは倍加すると思われる

2)特徴のある宿に泊りながら、森や川などの自然をゆっくりと鑑賞し、また、旅行会社のツアーでは訪れることがない異国の小さな町や村の雰囲気に触れるという旅である。

 たとえば宿では、

・廃村のアルベルゲ(普通のアルベルゲは2段ベットだが、ここは真っ暗な屋根裏が寝場所。天井が低くて這って動いても頭をぶつけるほどだった)、

・プールのあるジット(フランスではプールのある宿に2回ほど泊り、大好きな水泳を嬉々として楽しんだ)、

・宿の主人がバンジョーを弾いてくれるジット(食事の後、1時間ほど弾いてくれた。私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェストし、皆で一緒に歌ったが、なぜか懐かしさがこみ上げてきて、思わず涙ぐんでしまった)、

・宿泊費が無料のポルトガルの消防署(ベッドや毛布はない。借りられるのはマットだけ。それを誰もいない広い講堂の片隅に敷き、持参のレインコートをかけて寝た)、

などに泊った。

 また、小さな村では道に広がる牛の群れをドイツの若い女性とかき分けて進んだり、巡礼の最終地フィニステラでは砂山に腰を下ろして大西洋に沈む夕日となぎさに遊ぶ巡礼者を眺めたり、スペインの北の海を毎日、毎日眺めながら歩いたりした。

3)手作りの旅が楽しめる。

すべての計画を手作りで行う旅。それだけに事前の調査はたいへん。また、乗り物や宿屋の手配も自分で行うし、旅行先で何か困ったときは自分の力で解決しなければならない。手数はかかるが、それが魅力でもあり、添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

そして、出発前の数週間のワクワク・ドキドキ感はたまらない。「ワクワク」と期待で胸が膨らむ一方で、「道は分かるか」「足は痛まないか」「言葉が分からなくても意思は通じるか」などの心配は尽きず、はたしてサンティアゴまでたどりつけるだろうかと不安になることもある。日常ではめったに味わえない「ワクワク感」だ。

4)旅費が安上がり(2012年夏・100円/ユーロ)。

 ・アルベルゲ(スペインの巡礼宿。1泊5-7ユーロ。無料の場合もある。私営の場合は10ユーロ前後)や消防署(ポルトガルのみ。無料)を利用すれば、宿泊費は安上がり。フランスの宿「ジット」やポルトガルで一般的に利用するペンションやレジデンシャル(朝食付きで1千円-3千円)はやや高めだが、それでも日本の宿泊費(地方ホテルの素泊り5千円以上。山小屋1泊2食8千円以上)と比べれば極めて安い。

 ・朝と昼の食べ物(パン、バナナ、トマト、リンゴ、ハムなど)をコンビニで買えば、1食2-3ユーロ。

 ・夕食はレストランで8-10ユーロ。食材をスーパーで買い自炊をすれば更に安上がり。冷凍食品を買い電子レンジで温めてもよい。

  ・スペインの場合、夕食はレストランとして、上記で試算すれば40日間の宿代と食費の合計は800ユーロ、8万円位。

 ・このほか、航空運賃、空港までの鉄道・バス運賃、みやげ代などが必要。

5)道に迷うことはない。

 ・地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、日本で購入できる。

 ・分岐点には黄色い矢印などの道標が必ずある。

6)誰でも歩ける。

 脚力に応じて道を選べば、足弱の人(子供連れや高齢者)でも歩くことができる。

・どこから歩き始めても良い。

・1週間だけ歩いて帰ることもできる。

・一日の行程のうち、一部にタクシーやバス、あるいは電車を利用し、残りを歩くという方法もある。

・「フランス人の道」については宿と宿の距離が短く(5-10km間隔)、脚力に合わせて1日の行程を決めることが可能である。

7)英語やスペイン語・ポルトガル語などの会話ができなくとも歩くことができる。

宿の人、地元の人は外国の旅人に慣れており、宿を取ること、食事をすること、買い物をすることなどについては、ジェスチャーで意思を伝えることが可能である。

 自分で食べたい食事のメニューや旅で必要な最低限の単語をあらかじめメモして持参すれば、なおよい。

 もちろん、会話ができればもっとよい。旅の楽しさは倍加する。

8)以上のように魅力あふれる旅なので、年々、巡礼者が増加している。

サンティアゴの巡礼事務所に巡礼証明書(巡礼を終えたことを証明するもの。巡礼事務所までの最後の100kmを歩くことが必要。自転車や馬でもよい)を貰いに来た人の年間総数は、巡礼者が急増する「聖年の年(特別なお祭りがある)」を別として、1990年4,918人、2000年55,004人、2005年93,924人、2009年145,878人と大幅に増加しており(うち、アジア人は少ないながら、2005年の398人が2009年には2415人に増加)、今後、その数はますます増加すると見込まれる。

なお、聖年の年で見ると1993年99,436人、1999年154,613人、2004年179,944人、2010年272,135人となっている。

注)最新の2012年の統計では、日本の860人に対して韓国は2493人と多く、国別では11位に入っているとのことである(日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会による)。

 

Ⅲ.3つの巡礼路を比較して  

 次に、これまで行った4つの巡礼路を比較しながら、自分が見た範囲でその特徴を紹介してみたい。

<巡礼者との出会い>

 サン・ジャン・ピエド・ポーからサンティアゴへの「フランス人の道」は、巡礼者が全体の約7割を占めてたいへん多く、出会いの機会も多い。

 「ル・ピュイの道」は巡礼者の数は少ないが、巡礼者は「ジット」というフランス特有の宿を利用し食事を共にすることが一般的なので、宿で出会う巡礼者のほとんどと親しくなれる。

これに対し、「ポルトガル人の道」は巡礼者の数が少なく、また、人と親しくなれるアルベルゲが行程の後半にしかないので(前半は個室泊りのペンションを利用)、出会いの機会は前2者より少ない。

 「北の道」は巡礼者の数が「ル・ピュイの道」より多いと感じた。また、「北の道」の宿では、知らない人が数人づつで自炊し夕食を共にしたり、夕食後に集会室で雑談したりすることが一般的であり、私は参加しなかったが、参加をすればいろいろな人ともっと親しくなれたように思う。

 なお、これは私の場合だが、言葉が通じないことも出会いの機会を少なくする要因だった。今思えば、言葉がうまく通じなくとも、勇気を持って積極的に話しかけていけば、出会いの場をいくらでも増やすことは可能だったように思う。

<参考・巡礼路別巡礼者数-国籍別を含む>

 聖年の年・2010年の1年間に巡礼証明書(前述)をもらいにきた巡礼者の総数は272千人であり、うち、最も一般的な「フランス人の道」が189千人とたいへん多いのに対して、「ポルトガル人の道」を歩いた人は34千人と少ない。なお、これらは最後の100kmを歩いてサンティアゴまで到着した人の数であって、これらの道の途中だけを歩いて帰宅した人は含まないので、これらを含めればこの道を歩いている人の数はもっともっと多いと思う。

 「フランス人の道」の出発地別内訳では、サンジャン17,819人、ロンセスバジェス13,620人、セブレイロ22,057人、サリア67,869人など。全体の約半数がセブレイロとサリアを出発点としている。

また、「ポルトガル人の道」の出発地別内訳は、リスボン718人、ポルト5,894人、トゥイ18,121人などであり、リスボンから出発する人が極めて少ないこと、行程の途中から急速に増えてくること、特にスペインに入ってからの最初の都市・トゥイから歩く人が多いことなどの特徴がある。

一方、「ル・ピュイの道」については、この年にル・ピュイを出発点としてサンティアゴまで約2ヶ月の長距離を歩き通した人の統計しかないが、3,280人と、リスボンからの出発者の約4倍となっている。ル・ピュイの道を歩く人はフランス人の道よりはるかに少ないが、私のようにサン・ジャンまでの人や途中の数日間のみをハイキングする人も合わせれば、ポルトガル人の道よりはかなり多いと推定される。

 また、「北の道」を歩いてサンティアゴまで来た人は17,954人と「ポルトガル人の道」の約半分。うちイルン発が2474人とリスボン発718人の4倍弱。歩く人は少ないが、「ポルトガル人の道」のように途中から急増することはないようである。

 なお、巡礼者総数272千人の国籍別内訳は、スペイン188(単位千人。以下同じ)、ドイツ15、イタリア14、フランス9、ポルトガル8、イギリス2、アメリカ3、カナダ2、ブラジル2などであり、日本人のみの統計はないが、日本、韓国、中国等を含めたアジア全体では2,462人となっている。

景色>

景色は「北の道」が毎日のように海を見ながら歩けるので最も良い。「フランス人の道」もよい。1500mの峠を3つも越えるし、丘陵地帯では樹木の生えていない稜線を歩くことが多いので、遠望も楽しめる。

これに対し、「ポルトガル人の道」は峠越えと言っても、せいぜい標高200m-400mの高さを数回越えるだけ。しかも山林の中なので遠望は効かず、景色の良い所は少ない。

ただし、「ポルトガル人の道」はローマ時代の道や中世の道が当時の石畳や石垣とともに残るところが多いので、昔の道がどんなものだったか、その雰囲気は十分に味わうことができる。

 なお、ル・ピュイの道は丘陵の上の、樹木が少ない牧草地や畑地を行くことが多いので、景色は良い。ただし、あまり昔の道という雰囲気は残っていない。

<参考・「ポルトガル人の道」の地形>

ポルトガル人の道の前半は平地。広い畑の中の土の道や町のアスファルトの道を延々と歩くことが多く、景色が単調でやや飽きる。

後半は標高の低い丘陵地帯。ゆるやかなアップダウンを繰り返しながら、町や村、畑や林の中を行く。

ただし、丘陵地帯では、標高が低い割りに湧き水が随所にあり、川の水がきれいで、緑の水草がゆれているのが印象的だった。

<道-迷うことはないか>

1)4つの巡礼路はどれも、地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、それらが日本で購入できる上に、道標が整備されているので、迷うことはほとんどない。特に「フランス人の道」は分かりやすい。

14262)「ポルトガル人の道」も数カ所だけ分かりにくいところはあるが、全体的にはほとんど迷うことはない。

地図については下記の英語版がある。

A Pilgrim's Guide to the Camino Portugues: Lisboa, Porto, Santiago

John Brierley (ペーパーバック・208頁)

私はインターネット上で書籍販売を行う「アマゾン」でこれを入手した。615.6kmの行程を23日間で歩くように地図23枚が掲載されたもので、分岐点、舗装されている道と舗装されていない道の区分、川や橋、標高などが載っており、歩く際にはたいへん参考になった。

なお、他の二つの道の地図については、John Brierley版も発行されているが、それとは別に現地語の地図も入手可能で、それらは750kmの行程を約70枚から90枚の地図で表しており、上記地図よりは更に詳しいものである。

3)ポルトガル人の道の分岐点にも黄色い矢印など、サンティアゴへの道標がほぼ必ずある。

今回、私は何回か道に迷ったが、たいていは道標の見落としによるものである。ただし、地図が間違っていたことが1回、道標が見当たらなかったことが1回あった。それらの点は下記に具体的に書いておくので注意されたい。

●次の道標がなかなか出てこないので、道が違うことに気がついて引き返したり、また、町の人に呼び止められ「道が違っている」と教えられたりしたが、これらは道標の見落としが原因だった。

 四つ角等の曲り角に来たときに次の道標に出会わなかったら、道に迷ったのである。必ず引き返さなければならない。巡礼者用の地図には巡礼路周辺の町村や道は掲載されていないので、迷って周辺の町に入り込んだ場合は、その地図に頼ることができず、自分がどこにいるか全く分からなくなる。要注意だ。

●ご夫婦と娘さんの3人家族と一緒になり、話しながら歩いているうちに道を見失うということがあった。彼等と別れるときに「この道を行けばよい」と教えられたので道標がないのに歩いて行ったのだが、いつまで行っても次の道標が出てこず、完全に迷ってしまった。巡礼者用の地図にある町の名前を示して「ここに行くには」と何人かに聞いたが、よく分からない。結局、車で次の町まで運んでもらった。

地図が間違っていたことが1回ある。6月5日、GOLEGAの町の中心から郊外へ行こうとしたが、地図に間違いがあって、やや迷った。地図では、N-243に出るとそれを渡って細い道を直進するようになっていたが、直進しているのは広い車道であり、細い道はなかった。車を止めて2人の人に聞いてやっと分かったことだが、実際はN-243に出たら右折し、5分ほど行ってから左折して細い道に入るのが正しかったのである。

●6月9日、ALVAIAZEREに向かって歩いているときのこと、森の中の赤土と砂利の道を行くと十字路に出た。どちらへ行くか。道標がどうしても見当たらない。次いで、巡礼者の靴跡を探して道を特定しようとしたのだが、それもはっきりしない。地図上には十字路の掲載はなく、道は直進するようになっていたので思い切って直進することにした(あとで知ったが左に曲がるのが正しかった)。しかし、いくら行っても黄色い矢印に出会わない。間違ったと思い、斜面を左方に登っていくと舗装道路が見つかり、その道を行くと村に入った。巡礼路から右へかなり離れたようで、村は手持ちの地図には載っていない。どうしよう。まず、自動車関係の小さな工場のおじさんに巡礼路の地図を見せて聞いてみた。おじさんは地図を何回か書きなおして、最後に書いた地図を渡してくれたが、どうも信用できない(あとで分かったが、この地図は間違っていた。おじさんの地図の通りに行けば巡礼路からもっと離れていただろう)。更に数分行ってカフェに入り、中年の主人に聞いてみると、しっかりした地図を書いてくれた。こちらのほうが信用できそうだ。地図のとおりに30分ほど歩くと巡礼路に戻ることができた。

道については数人に聞いて、どれが正しいかを自分で判断する必要があるようだ。

<宿-どんな宿があるか>

 「ポルトガル人の道」には、ペンション(家族経営の小さなホテル)、アルベルゲ、ホテル、消防署、ユースホステルなどがある。ただし、地域的に宿の種類に偏りがあり、アルベルゲは行程の後半にしか無いし、無料の消防署に泊まれるのはポルトガルのみである。私はポルトガルでは主にペンションを利用し(消防署には2泊)、後半、スペインに入ってからはアルベルゲを利用した。

 

また、宿と次の宿の距離が遠いのもこの道の特徴である。サン・ジャン・ピエド・ポーからサンティアゴへの「フランス人の道」には、ほぼ5-10km置きにアルベルゲがあり(ただし、ピレネー越えなど、いくつか例外はあるが)、子供連れ、足弱の人などにとってたいへん歩き易いのに対し、ポルトガル人の道は、次の宿がある町までの距離が長く、1日に20-30kmを(ときには1日に34kmも)歩かないと次の宿に着かない。

 宿の形態で特徴があるのは、「ル・ピュイの道」。フランスには「ジット」というハイカーの宿が全国に存在していて、巡礼者もこれを利用するのだが、ほとんどが1泊2食付の形態で、しかも宿泊者全員が一つのテーブルを囲んで食事をとることが多く(ときには、村のたった一つの食堂に行き、全員で一つのテーブルを囲み、同じ料理を皿から分けあって食べるということもある)、アットホームな雰囲気なので、宿泊者同士はすぐに仲良くなる。これに対して、スペインやポルトガルでは食事付の宿はほとんどない。レストランに行き、一人で、あるいは仲の良い数人で食べるのが普通であり、アルベルゲで自炊することもある。

 

 以下、今回の「ポルトガル人の道」について説明する。

1)アルベルゲ 

 「アルベルゲ」はスペインにはどこにでもある一般的な巡礼宿だが、「ポルトガル人の道」では後半の行程にしか無くて、現れるのは行程の14日目、VILARINHOの町からである(そのあとは20-30km置きに必ずあり、18日目にはスペインに入る)。ポルトガルのアルベルゲは1泊は5ユーロ(Rubiaesのみ無料)。一般に2段ベットだが、Ponte de limaSantiagoで私が泊まったアルベルゲは1段ベットである。お湯のシャワー付。アルベルゲは同宿の人達と仲良くなれるというすばらしい利点があるが、ポルトガルではアルベルゲがあるのは最後の4日間だけである。

 なお、目的地のサンティアゴでは前回に宿としたアルベルゲに再び泊まった。気にいった宿なので紹介しておきたい。

1646それは中心街に3つあるアルベルゲの一つ。神学校(Seminario Menor)の2階と3階にあり、ベッド数は177。前回は大部屋(1泊12ユーロ)に、今回は個室(1泊17ユーロ)に泊った。

ここは大聖堂から徒歩15分とやや遠いが、個室があること、地下に自販機や電子レンジ、湯沸し器を備えた自炊用の食堂兼キッチンがあること、食堂にテレビがあること、連泊が可能なこと(前回、サン・ジャンのアルベルゲでは連泊が認められなかったし、また、2連泊までというアルベルゲもあった。ここでは4連泊も可。ただし、時期によって連泊の可否は異なるのかもしれない)などの特徴がある。

1741001_3
 私はこの自販機でリゾットやスパゲッテイを買って電子レンジで熱し、スーパーで買ったパンや果物、ハム、牛乳、コーンフレーク、紅茶のティーバッグなどと合わせて、豪華な食事を楽しみ、そのあと、同宿の人達数十人とサッカー・ユーロ選手権決勝・イタリー・ドイツ戦を見て過ごした。

 

 

2)ペンション(家族経営の小さなホテル)

 ポルトガルでほとんどの宿泊地にあるのが、ペンション。シングルで15-30ユーロ(素泊り)。たった一人で部屋を専有し、シャワー、洗濯、テレビ観戦などができるので、アルベルゲよりはのんびりできて、旅の疲れを取るのによい。ただし、客が少ない時期だと閉まっていることがある(行程の最初の頃、AZAMBUJASANTAREMの町では予定していたペンションが閉まっていて、宿を探すのに苦労した)。それと、夕方から開くところがあったり、場合によっては隣設する同名のレストランに行けば入れてくれたり、あるいは隣の店に頼むと電話で管理人を呼んでくれたりと宿の取り方が多様なので、閉まっていても近所の人によく聞く必要がある。

 

3)ホテル 

ホテルもかなりあるが、最低でも40-50ユーロ(シングル)と宿泊費は高目である。私は他に泊るところがなくて、1度だけ利用した。

 

4)消防署

739ポルトガルのみであるが、巡礼者は「巡礼手帳」を示して消防署に無料で泊まることができる。ただし、寝るのは板貼りやタイル貼りの大広間。今回は2回泊まったが、宿泊者は私1人か、同宿1人だけ。また、貸してくれるのはマット1枚のみであり、枕、毛布はない。もちろん、シャワーもない。私はゴアテックスの雨具を身に着けて毛布なしで寝たが、6月でもやや寒かった。利用する人はシュラフを持参したほうがよいかもしれない。それと、土曜日は消防署が休みで、泊まれないということがあった。土・日が休みかを、確認してから行く必要がある。

なお、6月15日泊のALBERGARIA-a-VELHAの町では消防署に行くと近くの教会の付属施設を紹介されたが、ここも無料で、マットで寝る形式だった。

5)ユース・ホステル

2段ベッドが4ヶで、8人部屋が普通。大都市のリスボン、コインブラ、ポルトなどにある。リスボンの場合は3ヶ所あり、そのうち2ヶ所を利用したが、朝食付で15-16ユーロ。コインブラ、ポルトのそれは場所的にやや不便なので(たとえば、コインブラの場合は、町の中心から2km離れている)、利用しなかった。

 なお、リスボンのオリエンテにあるユース・ホステルは敷地がゆったりしていて建物も庭も広く、気分良く利用できるので、お勧めである。ここはオリエンテ駅から線路沿いに大通りを歩いて15分。国鉄なら普通列車でオリエンテの次の駅のそば。朝食付。夕食も有料で食べられる(5.4ユーロ)。私が利用したときの夕食は、サラダ、パン、ライス(日本の短粒種と異なり、長粒種なので、ボソボソで美味しくはないが)、魚とポテトの揚げ物、ゼリーという献立だった。

 

6)パラドールとポザーダ

 スペインには「パラドール」、ポルトガルには「ポザーダ」という豪華な国営ホテルがある。

「パラドール」は城や修道院、領主の館などを改装した中世風の豪華なもので、スペインに85ヶ所ある。料金はほとんどがシングルで100ユーロ以上。高くてなかなか泊まれないが、前々回、私は思い出のためにサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダのそれに泊まり(シングル・89ユーロ)、また、サンティアゴではパラドール内のカフェに入って、その豪華な雰囲気の一端を味わった。

一方、「ポザーダ」は41ヶ所。城や修道院を改装したもの、自然の中に立地しているもの、家庭的雰囲気のあるものなどの種類があり、巡礼路沿いではリスボン近郊、コニンブリガ近く、ポルトなどにある。私はまだ泊まったことがないが、お金と時間に余裕があれば一度は泊まってみたかったホテルである。

 <今回のあらまし>

○のんびり歩く。

 これまでの3回は全行程を歩き切ったが、今回は歳をとって足が弱ってきたこと、足を痛めた人がいてお世話をしたことなどがあって、全行程を歩くことはできなかった。

 それでも十分に満足。前3回は「挑戦する」、「全行程を歩き切る」という思いで、毎日「ともかく一歩でも前へ」とがんばったが、今回は脚力の衰えを考慮して、最初から「全行程を歩き切らなくてもよい」、「のんびりいこう」という気持で臨み、ときには巡礼路を外れ、寄り道をして旅を楽しんだ。

○何とか歩けた。

 歩き終わって思うのは「76歳という年齢で、重い荷物を背負って600kmをよく歩けた」ということ。

 1日分の食料を入れれば10kgはあったと思う。行く前は、この荷の重さではすぐに歩けなくなるのではとかなり不安だった。家で計った荷の重さは8kg。現地ではこれに1日を歩くのに必要な水と食料が加わる。500ミリリットルのペットボトル2本、アクエリアス1本、バナナ2本、トマト1ヶ、リンゴ2ヶ、パンなど。数日歩くうちに、持っていた傘を捨て、足が順調で不要になった地下足袋を捨て、本の読んだ部分や地図の歩き終わった部分などを捨てたが、まだ重かった。

 それでも30数日間、歩き続けることができたのは、脚力の衰えを実感し、1日に歩く距離を前3回の25-30kmから20km以下に抑えたこと、それと、これまでの30数年間、日本百名山や海外登山、サンティアゴ巡礼などに出かける際に常に掲げてきた「挑戦」という旗を初めて降ろし、気負いをなくして臨んだことなどによると思う。

 脚力への自信をやや回復した。

○見てきたのはスペインの北の海岸。

 「ル・ピュイの道」ではモワサック、コンク、サン・シラク・ラホピー、カオールといった中世の町とフランスの農村風景を楽しみ、「ポルトガル人の道」ではポルト、コインブラ、トマールといった美しい中世の町やアズレージョ(装飾タイル)を楽しんできたが、「北の道」の楽しみは「海」を見ることだった。

 スペイン北岸は断崖絶壁が続き、その切れ目に観光地の長い砂浜や人がほとんど訪れない寒村の砂浜がある。これが他の巡礼路にはないこの道の一番の特徴であろう。

 記憶に残った海の風景を以下にいくつか紹介する。

 崖上に幅5mほどの遊歩道が6kmにわたって続く。海側は柵越しに断崖。地元の人が散歩し、ときには自転車も通る。会う人ごとにスペイン語で「オーラ」とあいさつ。

土の急な小道を登っていくと牧草地が広がる。遥か彼方まで延々と断崖が続き、その先にきょう泊る町が見える。

 草深い巡礼路を下って行くと小さな無人の砂利混じりの砂浜に行き着いた。砂浜には誰も行ったことがないのか、手前の草むらには砂浜への踏み跡がない。

 高さ100mほどの海に突き出た小山を越えると今度は長い砂浜。2時間の砂浜歩き。多くの観光客が水着姿で散策している。重いザックを背に、靴を脱ぎ、裸足で波打ち際を歩いてみた。気持良し。

 有数の観光地「ルアルカ」が眼下に広がる。中世の雰囲気を残す小さな港町。急坂を下りて行くと、海岸通りにレストランと土産物屋が並ぶ。雰囲気のよいレストランに入って昼食。

 巡礼路を外れて廻り道をし、絶景を見物。高さ50mほどの断崖から白波の立つ岩場を見下ろしていると、目の前を数羽のカモメが崖沿いに一列になって飛んでいった。遊んでいるようだ。

 ラレドーの中心街から砂浜沿いに6kmを歩き、半島の先端へ。砂浜に腰をおろしてしばらく待っていると、小さな渡し船が砂浜に直接乗り付けた。板が渡され、巡礼者数人と自転車1台が乗り移る。

・寄り道といえば、海ではないが、「アルタミラの洞窟」(サンティリャーナ・デル・マルの近く。1-2万年前に描かれた動物の彩色画で有名。日本の教科書にも載っている)や「モン・サン・ミッシェルの大聖堂」(フランスの海辺にそびえる)も見物した。

注)スペイン北部の歴史

①8-11世紀、イスラム教徒がイベリア半島の大半を支配。この間、キリスト教徒は半島の北部に押し込められたが、いくつかの王国を建国し、レコンキスタ運動を展開(11世紀末-13世紀がこの運動もあってサンティアゴ巡礼の最盛期)。15世紀末に半島全体からイスラム教徒を駆逐。1516年、スペイン王国成立。

 なお、8-9世紀に建国された各王国の首都は当初、オビエド、パンプローナ、ハカなどだったが、その後、王国が南に発展するとともに首都はレオン、サラゴサ、トレドなど、南に移転していった。「北の道」沿いで首都になった歴史があるのはオビエドのみのもよう。

 ②「北の道」の海岸沿いの町のほとんどは中世に漁業や貿易で栄え、それぞれにおもむきのある旧市街を持つ。そして、近代に入ると、長い砂浜や美しい景色があるそのうちのいくつかが、観光都市として大きく発展した。たとえば、サン・セバスチャンは王族の保養地となり、サンタンデールは王室の夏の離宮が建設されて、発展した。

③歴史の詳細

 紀元前205年、ローマが属州ヒスパニアを設置。

 紀元1世紀、ローマがイベリア半島のほぼ全域を属州に。

 紀元313年、ローマがキリスト教を公認。

 紀元409年、西ゴート族が侵入し王国を設立。

 711年、イスラム軍により西ゴート王国滅亡。以降、11世紀前半までイスラム教徒が北部を除き、スペインを支配。

 718年、北部にキリスト教徒のアストゥリアス王国成立、レコンキスタ運動(半島からイスラム教徒を追い払う戦い)始まる。794年、オビエドを首都に定める。814年、アルフォンソ2世、サンティアゴ教会設立。910年、首都をレオンに移転。レオン王国と改称。

 820年、ナバーラ王国成立(中心はパンプローナ)。1512年まで存続し、カスティーリャ王国に併合される。

 1035年、アラゴン王国成立(中心はハカ)。1118年、サラゴサを攻略し首都とする。1137年、バルセローナ伯領と合併しアラゴン連合王国成立。15世紀後半には、バルセロナ、バレンシアまで領土を拡大。

 1037年、上記2国が合併しカスティーリャ・レオン王国成立。一時分裂後、1230年、再統一しカスティーリャ王国となる(1085年、トレド攻略。以降500年間、トレドが首都)。15世紀後半にはコルドバ、セビーリャまで領土を拡大。

 11世紀末-13世紀が、サンティアゴ巡礼の最盛期。

 1469年、アラゴンの王女とカスティーリャの王太子が結婚。後にどちらも国王となり、スペインは実質的に統合された。1492年、半島に最後に残るイスラム国家、グラナダを攻略。

 1516年、スペイン王国成立。

 1800年代初め、ナポレオンに破れ、北部も含め多くの都市が破壊される。

 1936-39年、スペイン内戦。

○巡礼旅の最大の魅力は人とのふれあい

 巡礼の最大の魅力は世界各地からの巡礼者や地元の人達と多くのふれあいがあること。今回もいろいろとふれあいがあった。

・カナダ、スペイン、ドイツの女性3人に断崖を行く廻り道を一緒に歩こうと誘われた。ドイツのサブリナさんとは何回か会っており顔見知り。オーストリアの山岳ホテルで働いており、サーフィン大好きの人。片言の英語を使って話しながら歩く。
 4人で断崖を巡った後、砂浜に着くと3人は2時間ほど泳いでいくという。誘われたが海は冷たそう。私は断って先に行くことにした。

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・宿が何回か一緒になった40歳位のアメリカ人男性から、「お前が持っているインスタンコーヒーを2袋くれないか」と言われた。「あの女性にコーヒーをおごって話がしたいんだ」とのこと。その人からは「北の道」からは遠回りになる「オビエド」という町の良さを教えられ、その町に一緒に寄り道もした。

・ベルギーの大学生2人と同宿になった。高校は同学年だったが、一人は昨年入試に失敗し大学に入ったのは1年遅い。でも前年の入試に失敗した若者は「今年の入試では一番で合格したんだ」と威張っていた。その二人とは、その後、会うたびに握手。また、バル(喫茶兼飲み屋)で一緒にサッカーW杯のベルギー戦も観戦した。

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・韓国の50代の男性。夫婦2人と友人2人の4人連れ。前回は夫婦で「フランス人の道」を歩いており、男性はキリマンジャロにも登ったという。同じ山に登ったということで意気投合。握手をしているところを記念写真に撮ったりした。

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・バーモンデのアルベルゲで、珍しく日本人男性と同宿になった。71歳の青木さん、巡礼は6回目とのこと。仕事があるので、昨年は「北の道」をヒホンまで歩き、今回はヒホンからサンティアゴを目指す。奥様とサンティアゴ巡礼に行く約束をしていたのに奥様がお亡くなりになり、お骨を抱いて巡礼をしたことがあるという。

  当日の夕食は、二人でアルベルゲの庭に出て、コンビニで買ったバナナ、リンゴ、ハムなどを食べながら、数時間の会話を楽しんだ。翌日もコンビニに食材を買いに行き、修道院のキッチンでジャガイモ入りのスープを鍋で温めて、二人で夕食。3日目の夕食は二人でレストランへ。3日間だったが、常に一緒に行動し、話がはずむ道中となった。

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・ラレド-の手前、人家がまばらな国道を歩いていると、庭で宴会をやっているおじさん達に呼び止められた。「一緒に飲んでいけ」という。ビール、タコ料理、庭の暖炉で焼いた肉などをご馳走になり、絵葉書をプレゼント。

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・多数のボランティアの方が運営するギメスのアルベルゲで、夕方の1時間、宿泊者50人が集まってミーティングがあったが、私はその中の最高齢ということで紹介され、この宿を創設した77歳の方から抱擁の祝福を受けた。また、翌朝、歩き始めると呼び止められ、肩を組んで一緒の写真に収まるということが数回あった(詳細後記)。

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・ビラルバへの丘陵超え。点々と農家あり。石垣に腰を掛けているおばあちゃんと5-6歳位の男の子に出会う。「写真を撮らせて」と頼むとうなずいてくれた。お礼に「富士山と桜」の絵葉書をプレゼント。分かれてしばらく行くと、おばあちゃんが大声で「グラシアス」と叫んでいるのが聞こえた。1698_2

・帰り、イルンに行く列車の中で近藤さんという72歳の日本人男性にお会いした。スペイン人男性と21歳の日本人男性・田辺君が一緒。

 近藤さんは英語とスペイン語が堪能。昨年、「フランス人の道」を歩く途中で知り合ったスペイン、アメリカ、スイスの人達と今年も落ち合う場所を決めて集まり、「北の道」を歩いてきており(奇遇だが、途中で宮本さん達にも会ったとのこと)、来年も同じ人達と「銀の道」を歩くことにしたという。また、彼等と旅の途中で知り合った田辺君はヨ-ロッパを2ヶ月間、単独で旅行中とのこと。2人は一緒に歩いたスペイン人の家に泊りに行くために、イルンの手前で列車を降りていった。

巡礼をしている人はとても多様。外国語が堪能であれば、外国の人達と仲良くなり、このように巡礼の楽しみを深めていくことができるのだ。


2016428追記)きょう、近藤さんから『
2013年「フランス人の道」、2014年「北の道」、2015年「銀の道」を歩いた後、今年は「ポルトガルの道」を歩くため、5/9Lisbonに向かいます』とのメールをいただいた。とても懐かしい。

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○全盲の友人が820kmを完歩。

 この旅では、視覚障害者の登山団体「六つ星山の会」の会員であり、私の友人でもある全盲の宮本博さんが、サポートの方2人と「北の道」820kmを完歩し、更にフィニステラまでの87kmを歩いた。全盲で「北の道」を完歩した人は多分、日本人としては初めてではないかと思われる。

 この快挙は、ご本人の脚力とねばり強さによるところが大きいが、その他、脚力があり、精神的にもタフな二人の方がサポート面で協力したことも大きく貢献している。適切で粘り強いサポートなくしては、達成は難しかったと思う。

 なお、私は滞在日数が短いこともあって数日間だけ皆と一緒に歩き、あとは単独で歩いた。

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<「北の道」紹介>

1.風 

(1)断崖と砂浜

 他の巡礼路にはないこの道の特徴は「海」。他の巡礼路でも「海」は見られるが、ほんの少し。ここでは全長820km(815km、830kmなど、地図によって距離は異なる)のうち、Ribadeoまでの前半620kmが海沿いの道であり、巡礼路はときには内陸に入るが、また海に戻り、海岸を歩くことが多い。

 しかも、この北の海岸は、ほぼ全域にわたって50mほどの高さから海に落ち込む崖となっているために、いたるところで断崖の絶景が楽しめる。

 また、崖が切れたところにある砂浜も良い。観光客で溢れる長い砂浜と寒村の砂浜。特に、全く無人の砂浜や数人のサーファーが点在するだけの砂浜はさびしげで魅力的。

(2)お勧めの見どころ

 私が歩いた範囲で「見どころ」をあげれば、以下の通りである。

A)まずは、海岸の崖上を行く道

①イルンを出てから初めて出会う長い崖上の道。

 Portugaleteから13kmのところ、Popenaのアルベルゲを出て森の中の長い階段を上がっていくと断崖の上に出る。ここから巡礼路は崖側に柵のある幅広の遊歩道となってOntonまで6km続くが、景色は抜群。断崖が続く海岸線がはるか遠くまで望めて、気分爽快。このように長く続く断崖の絶景に出会うのはイルンを出てから初めてのことなので、何枚も写真を撮った。ここは地元の人の散歩道でもあり、私も、普段着姿で散策している地元の女性二人や5-6人で歩く老人の一団に出会った。

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 なお、巡礼路はOntonから海岸を離れて車道を行くが、Mionoで巡礼路を外れ再び海岸沿いを行くと、昔の鉱山跡に行き着く。ここも見物するとよい。ここまで行く人はあまりいないようで、人には全く会わない。海に30mほど伸びた鉄骨の鉱石積み出し装置のほか、トロッコが通ったと思われるトンネルなどがあり、向こう側に抜ければ、崖上の台地をCastro Urdialesまで細い道が通じている

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Santanderへ、大回りの道を行く。

 GoemesからGalizanoへ。ここから巡礼路は3本に分かれる。どれもがSantander への渡し船が出るSomoの港に至るが、最短は国道を一直線に行くもので、2時間、7km。最長は大回りして海岸沿いを行くもので、約4時間。時間に余裕があったので、私は大回りの道を取った。30分で海。着いてすぐに、道を外れ牧草地に入り、崖の先端へ。右のほるか下に小さな砂浜。豆粒のように数人の人影が見え、流れこむ小川が砂浜で広がり、朝日に輝いていた。

 道に戻り、崖上の草地を進む。しばらく行くと海に突き出た断崖の上で、4人組が休んでいた。中年の男性三人と女性一人。一緒に腰を降ろし、持ってきた家族の写真を見せたりして談笑。お菓子をもらった。

 最後は長い砂浜歩き。散歩する人、サーフィンを楽しむ人等、人多し。靴を脱ぎ、波打ち際を歩く。

 Somoの船乗り場着。カフェで4人と一服。やや大きな船でSantanderへ。

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③巡礼路を外れてビューポイントへ。ColombresとLlanesの間

 ColombresとLlanesの間、Vidiago(ヒディアゴ)の辺りで巡礼路を外れ、海岸に向かう。 地図にLlanesに向かう回り道(ビューポイントの印あり)が載っていたためだ。まずは大きな砂浜に出る。突き出た岩の上にはレストラン、その裏手の断崖の下には砂利混じりの砂浜、とても景色のよいところで、更に断崖沿いを進むと、岸から数mの海中に、高さ20m、長さ30mほどの岩山があり、説明する大きな看板が立っていた。この後も海中に突き出たいくつかの岩山に会う。この辺りは公立の自然公園になっているのかも。景色のよいところがいくつもあった。

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④早朝、無人の砂浜を歩く。

 Bibadesellaから6kmでSan Esteban de Leces。そこのアルベルゲに泊り、翌日、巡礼路を村に下りると長い砂浜。早朝で無人。砂利の多い波打ち際へ。はるか遠くまで白波が打ち寄せ、朝日に輝いていた。

いったん台地に上がり、向こう側の崖下を見下ろすと今度は小さな弓なりの砂浜。そこには豆粒のように、サーフィンを楽しむ黒い人影が二つ。

 更に先へ。海辺に高さ100mの岩山があった。スペインの海辺はどんなところかもっと探ってみたいと思い、巡礼路を離れて、海辺側に回り込んでその岩山を登ってみた。でも道はだんだんはっきりしなくなり、いばらの中に踏み込んで進むようになる。道は赤土の急な登り。荷はずしりと重い。滑りやすいが、草木は茨だらけなので、掴むところがない。落ちればかなり下まで転落しそう。かなり上まで苦労して登ったところで、結局、「こんなところで命を落としても」とあきらめた。元の道を下って引き返すのもたいへん。調子に乗りすぎたようだ。

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⑤同宿の女性3人と巡礼路を外れ、断崖を行く。

 Soto del Barcoを過ぎNalon川を渡るとすぐに、巡礼路を外れて右へ1.5km入る。そこが港町・San Esteban de Pravia(前述のSan Esteban de Lecesとは別)。砂浜がないためか、観光客は少なく、静な町である。アルベルゲに宿泊。

 翌日、巡礼路に戻るつもりだったが、同宿の女性3人に誘われて海沿いに断崖上の道をいくことにした(冒頭で紹介済)。アップダウンはあるが、歩きやすい幅2-3mの土の道。ところどころに整備された見晴台。眼下の松林越しに岩に砕ける白波。はるか遠くまで断崖の海岸線が望めて、景色は素晴らしかった。

B)長い砂浜が海水浴場となっている観光地

San Sebastian 

 中世に栄えた貿易都市。2012年の人口はサンタンデールと並ぶ19万人。ビルバオの35万人をはるかに下回るが、「北の海岸」第一の夏の高級リゾート地。半円型の湾と全長2kmの海水浴場を持ち、湾の両端の丘上にある展望台からの景色はすばらしく、「カンタブリア海の真珠」と言われている(特に夜景がよい)。19世紀にはハプスブルク家の王妃マリア・クリスティーナが保養地として利用するようになったという。また、「ヨーロッパの美食の都」として食べ物が美味しいことでも有名。

 私達は長い砂浜沿いに整備された遊歩道の人混みの中を散策した後、湾の左先端にあるケーブルカーでモンテ・イゲルドの丘に登り(3€)、広大な湾の風景を楽しんだ。

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Castro Urdiales

 紀元1世紀、進出してきたローマの植民地に。中世にはカスティーリャ王国に属し漁業と貿易で栄えた。湾内にヨットハーバー、長い岸壁など。湾の先端にはゴシック様式のサンタ・マリア教会(13-15世紀に建設)、サンタ・アナ城(13世紀に建設)があり、遠くからも望めて、湾に風情を添えている。また、教会の裏側は断崖で、眼下に白波が砕ける。この辺りの岩場の散策もお勧め。

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Laredo

 車道を歩いて行くと崖下にLaredoの街が広がる。広々とした展望。はるか遠くに弓なりに長い砂浜。下りて行くと旧市街。左に少し行くと修道院があり、その中にアルベルゲがあった(後述)。

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San Vicente de la Baruqera

 丘陵を越えてくると、眼下に大きな川。石造りで幅広の長い橋が架かり、車道がはるか対岸の町に延びている。そこがSan Vicenteの町。人口は5千人弱と少ないが、海岸沿いにはレストランとバルが並ぶ。背後は丘。丘の下が旧市街。丘の上には教会とアルベルゲがある。丘上の遊歩道を行くと、湾内が一望でき、また流れこむ川に小舟が沢山係留されているのが望める。なお、「丘からの夜景がすばらしい。おすすめ」と青木さんから聞いていたが、うっかりして夜景見物に出るのを忘れてしまった。残念。

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Ribadesella

Nuevaを出発して12kmでRibadesella。古い町並みの中を下りて行くと旧市街が広がる。港の岸壁で一休み。今にも雨が降りそう。風もあり寒い。湾内にはカヌーを練習中の若者が数人。対岸にはヨットハーバー。早々に立ち上がり、橋を超えて、長い砂浜へ。曇天と寒さに追われて町を足早に通過してしまったが、天気のよい日に来て、旧市街や湾の先端をゆっくり見物すれば楽しいのではなかろうか。

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C)崖下の観光地

Luarca

 丘上の巡礼路を行くと、眼下に有数の観光地Luarcaが広がる。ここからの景色はすばらしい。中世の雰囲気を残す小さな港町。海岸沿いには灰色の屋根がびっしり並び、狭い湾内には漁船とヨットが一杯。港の外の、まだ湾内の左側には長い砂浜が伸びる。

 崖下へと急坂を下りて行くと、海岸通りにはレストランと土産物屋が並んでいた。一帯は狭い旧市街。10447058_878124102201832_3648136784
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 「よいところだ。是非見ていくように」と巡礼路でお会いした青木さんから言われていたが、すぐそばを通ったのに忘れていて行かなかった。ここを通ったサブリナからも「素晴らしい所だった」と言われ、行かなかったことをとても後悔している。

 巡礼路を離れ、San Esteban de Praviaから海岸線をSoto de Luinaへ向かう途中にある、崖下の港町。上から見るとオレンジ色の屋根がびっしり。

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写真:Cudillerowikipediaより)

D)渡し船

 渡し船に乗ると何故か心がはずむ。今回は3度乗った。

 Pasai Donibaneの渡し船

イルン出発後、Pasai Donibaneのアルベルゲ泊。翌朝、細長く入り込んだ湾内を向こう岸へ。小さな船で約5分、あっという間に着いてしまった。0.7€。

 港の風情がよかった。両岸は崖。こちら側は急峻な崖下に細く連なる旧市街。50mほどの高さの崖上に教会付設のアルベルゲ。細長い湾は緑の丘の間を外海に向かって遥か彼方まで伸びている。

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 LaredoからSantona

 Laredoの中心街から半島の先端へ6km、砂浜に沿って急いだ。船が出るのは9時、やっと間に合ったが、時間になっても船は来ない。砂浜に腰をおろしてしばらく待っていると、小船が砂浜に直接乗り付けた。板が渡され、巡礼者数人と自転車1台が乗り移る(前述)。対岸のSantonaまで2€。

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 SomoからSantander

 海水浴場が尽きたところが乗り場。カフェでしばらく待って、50人乗り位のやや大きな船に乗る。ほとんどの人が上甲板の長椅子へ。風が気持ち良い。向かうSantanderは大きな町。正面は長い岸壁。1kmはあろうか。背後に5-6階建ての建物がずらりと並んでいた。

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E)その他

Ribadeo

 リバデオ川を渡ってRibadeoの町に入るが、そこを通った仲間から「川の手前から見た景色が「北の道」の中では最高に素敵だった」と聞いたので、最後に紹介しておきたい。

2.道の状況

 一日で高低差200-500mを登り下りする行程が数日間続くことから他の巡礼路よりはややきついと言われているが、歩いてみて、それは違うように感じた。

 登り下りの高低差が大きいのはスタート地点のイルンからビルバオまでの数日間だけであり、歩き始めなのでややきつく感じるが、その程度の高低差は「ル・ピュイの道」や「ポルトガル人の道」にもいくつかある。むしろ、「フランス人の道」にある標高1500mの三つの峠越えのほうがはるかにきついと思われる(ただし、このうち二つは峠の頂きに宿があり、そこで泊まれるが)。

 また、「北の道」の後半は海岸線を離れ、標高500-700mの丘陵地帯に入るので、きついのではと予想していたが、こちらは一度登ってしまえば、数日間、その高さをほぼ維持して歩けるので、全体としては高低差は小さく、それほどきつくはなかった。ただし、そんな中でも、急坂を20分-30分ほど上るところがいくつかある。そこはマイペースで上ることが必要(足弱の人は疲れない範囲でゆっくりと)。

3.宿の状況

(1)概要

○他の巡礼路も含めて、宿泊費はどこも安い。スペインにはアルベルゲがあって、特に安い。

 たとえば、「北の道」で巡礼者が泊るのは、一般に公営や教会運営、あるいは地域のボランティア団体の運営などの「アルベルゲ」。1泊朝食付きで5-6€。時には無料で、募金箱に寄付するの形式のものもある。これらは地域の人達やときには他国から来た巡礼者による無償奉仕(受付や室内掃除など)で支えられており、安く泊まれるのはそのためである。

 その他、「フランス人の道」には個人営のアルベルゲもあるが、こちらは朝食付きで10-15€。

 それらが満員だったり、個室でのんびりしたかったりすれば、ペンションや二つ星ホテルに泊る。こちらは20-30€(ほとんどが朝食付)。

 なお、フランスには全国に「ジット」というハイカーの宿が存在する。巡礼路にも1日の行程に一つはあり、大部屋に一段ベッドか、2段ベッドで(ときにはプール付邸宅を開放したものや、蒙古のパオに寝るものもある)、2食付きが多く、30€前後。素泊りは8-12€。

 ポルトガルで泊るのはペンション。食事なしで15-30€。その他で特筆すべきは、ポルトガルでは巡礼者が消防署に行けば無料で泊めてくれること。私は3回利用したが、貸してくれるのはマット1枚だけで、大講堂の片隅に寝る。ただ、利用する人は少なくて、1・2回目は私だけ、3回目も2人だけだった。

 いずれにしろ、2食付きで1泊6000-9000円前後の四国巡礼と比べれば、サンティアゴ巡礼の宿泊費はかなり安い。

○「北の道」はスペインなので宿は「フランス人の道」と同様、基本的にアルベルゲ。その他、小さな村でないかぎり、二つ星ホテルやペンションもある。

 宿代は10年前に比べかなり値上がりしていた。アルベルゲの宿代は一般的には6€(5€や10€のところもある。10年前は3€)。民営だと10-15€。また、ボランテア運営では「無料。おこころざしは募金箱へ」というアルベルゲもある(募金をしない人もいるが、私は5€を入れていた)。どこもパンとコーヒーのみの朝食付。早く着くと公営の小さなアルベルゲは無人で閉まっているところが多く、受付の人がやってくるのは午後1時か、3時。

 二つ星ホテルやペンションは20-30€前後。朝食付だが、一般にパンとコーヒーのみ。家族営のペンションやバルの2階のペンションだと15€のところもあった(場所については末尾の日誌参照)。私がこれらに泊まったのは、アルベルゲを断られたときと、のんびりしたかったとき。シャワーやテレビが独占できて、疲れを取り心身のリフレッシュをするにはとてもよかった。

○統計で見る限り、「北の道」を歩く人は少ないと思われたが、実際には、予想以上に歩く人が多くて、私も午後3時過ぎに到着し、満員で数回断られたことがある(こんなときは近くにあるペンションや二つ星ホテルに泊まればよい)。

 2013年の巡礼証明書発行総件数は21.6万人(発効要件は「サンティアゴ大聖堂への最後の100kmを歩いたこと。自転車の場合は200km)」。うち、「フランス人の道」を歩いた人が15.2万人であるのに対し、「北の道」は1.3万人で「ポルトガル人の道」の3.0万人より少ない。

 ただし、歩いた感じでは「ポルトガル人の道」のほうが歩く人は少なかった。これは多分、「ポルトガル人の道」の3万人のうち、スペインに入って最初の都市Tuiから歩き始める人が0.9万人(ポルトガル側の国境の町Valencaも含めれば1.4万人)とスペインのみを歩く人が多く、ポルトガル国内を歩く人が少ないこと、ポルトガルはペンションが中心で宿泊客が分散されること、「北の道」ではGijonOviedoという途中の町までの人、その他観光気分で海沿いの途中の道のみを歩く人がかなりいること等によると思われる。

 なお、「ル・ピュイの道」(フランスの宿は夕食付きの私営「ジット」が中心)も、「北の道」ほどに宿は混雑していず、泊まれなかったという経験はない。

「北の道」は若い人が比較的多いのも特徴。

 海があること、その海で泳いだりサーフィンができることなどの影響もあるのだろうか。一人旅の30代、オーストラリア人女性に感想を聞くと「Very exciting!」と言っていた。初めての巡礼旅に「北の道」を選んだというが、海の魅力に惹きつけられたためであろう。

 それと、日本人にも3人お会いしたが、どの方も巡礼のベテランで「フランス人の道」を含めて、いくつかの巡礼路を歩いており、「北の道」が初めてという方はいなかった。「北の道」では多分、外国人の方も、いくつかの巡礼路を歩いた後でやって来た人がほとんどと思われる。「北の道」が初めてという人は珍しいようだ。

○なお、宿がどこにあるのか、いつも宿を探すのに苦労した。

宿泊地に着いて、いつも苦労したのが宿探しである。ルート概要を紹介した案内書は持っており、その町にアルベルゲ等の宿があることは分かっていたが、町の詳細な地図がないので宿の場所が分からなかった。小さな町や村では住民に聞けばすぐに分かったが、大きな町だとほとんどの人がアルベルゲの場所を知らない。そんなときは観光案内所(information turistica、地図には「i」で表示されている)の場所をまず聞き、「i」でアルベルゲの場所を聞くことにしていたが、「i」の場所を知らない人も多く、また行っても、昼休みで閉まっていたりした。そのため、町に入ってからアルベルゲに到着してホッとするまでに30分から1時間かかることがよくあった。

振り返れば、前日の宿で次の町の詳細な地図を手に入れておく、あるいは「iPod」のグーグルマップでその町の詳細な地図を調べておく、などをして、町の概要と宿の位置を頭に入れておけばよかったと反省している。

なお、MarkinaOviedoでは町の入り口でおじいさんにiの場所を聞くと、そこまで10分以上をかけて案内してくれた。特にOviedoの旧市街は複雑に入り組んでいたので、たいへん助かった。そのおじいさんには、こういう時のお礼のために持参していた日本の桜と富士の絵葉書をプレゼント。

 

(2)おすすめの宿

 泊まった宿はそれぞれに印象深いが、いくつかあげれば次の通り。

Goemesのアルベルゲ

 Goemesは人口300人の小さな村。丘の上にボランティアが運営する定員60人の大きなアルベルゲがある。部屋は10人規模、5人規模などに分かれており、食堂棟やシャワー棟なども別になっていて、ゆったりと泊まれる。また、広い敷地には礼拝堂もあり、巡礼の様子を描いた絵が数枚飾られている(写真・下記)。

 当日の宿泊は約50人。夕食前に全員が集まって広い部屋の四面の壁際に並ぶソファーや椅子に座ってミーティングがあった。私が泊まった範囲では、「フランス人の道」も含めてアルベルゲでミーティングがあったのはここだけである(全員そろっての夕食というアルベルゲも「北の道」ではここだけ)。

 ミーティングのホスト役は創設者である77歳のエルネスト神父。貧乏人をかばいすぎてキリスト教会を追放されたという逸話があると聞いたが、真偽は不明。

 スペイン語を英語とドイツ語に通訳する役に出席者の中から二人の若い女性が選ばれてスタート。まずは全員が個別にどこの国から来たかを紹介。その中で、私が76歳で今回の巡礼者中では最高齢であることもホストが紹介。更に「誕生日はいつか」などのやりとりがあって、ホストが私より6ヶ月ほど歳上であるが分かり、部屋の中央に呼び出されてホストの抱擁を受けた。のあと、山の写真を見せられ、どこの山かを皆で議論。次にホストが巡礼の意味を語ったが、その中で、日本の四国巡礼についても、壁に掛けられた「四国巡礼」を紹介する写真と文章(2m×3m位)を基に説明があった。最後にこのアルベルゲの設置経緯の説明があってミーティングを終了。この間、約1時間。

 なお、ホストは就寝時に暗い各部屋を廻り、何人かの枕元まで来て声をかけて歩いたが、私も声をかけられた一人。巡礼者へのおもてなしを実践する最高の宿と深く感じた。

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Laredoの修道院

 丘の上の国道を歩いてくると崖下にLaredoの町が広がった。遠くには広大な砂浜(前述)。

町への階段を下りていく途中でおしゃべり中のおばさん2人に聞くとアルベルゲは近くの修道院にあるという。大きな修道院。石畳の細い車道に沿って、道を圧倒するように建つ6階建て、中世風の石造りの建物。入り口の薄暗い石段を上がって分厚い木の扉の前に立ったが、鍵がかかっていて開かない。どうしようか。とりあえず呼び鈴を押すとマイクを通して声が聞こえ、「日本人」というと扉が開いた。中は更に薄暗い石畳の間。だれもいない。受付の人も現れない。先に来て泊まっていた韓国の女性が出てきて「待っていれば来る」という。しばらく待ってやっと2階から人がおりてきた。可憐な若い修道女だ。

真っ暗な階段を2階へ。受付の手続のとき、その可愛さに魅せられて「写真を撮らせて」と頼んだが、下を向いて微笑むだけで、了解はしてくれなかった。残念。とても魅力的な笑顔だったのに。そのあと、2段ベッド一つだけの落ち着いた部屋に案内された。

 夕方は建物内の大きな教会で行われたミサに宿泊者全員が出席。町の人も50人ほど参列。ほとんどが太ったおばあさんやおばさん。娘さんと一緒の人も。男性は数人だけ。町の人は皆、一人ずつ祭壇に歩み寄り、神父さんから祝福を受けていた。心が落ち着く。このミサは毎夕行われているのだろうか。

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Sobrado dos Monxesの修道院

 タクシーでMiraz経由、Sobrado dos Monxesへ。同地のサンタマリア修道院に泊る。寺院の中、回廊に沿って並ぶいくつかの部屋が泊るところ。石造り、2段ベットが並ぶ薄暗い部屋である。回廊沿いの他の部屋は粗末な食堂兼キッチンやトイレ・シャワー室など。

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 ここは1142年建立の大修道院。敷地は広大。現在使われている寺院や回廊のある中庭のほかに、奥に行くと崩れかかった大きな教会があった。見上げるとすばらしい彫刻が高い丸天井に向かって伸びている。でも天井の中央は崩れて丸い穴が空き、天空が望める。祭壇は鳩の糞だらけ。壁際にはほこりだらけの横臥した僧侶の石像。それと半分色があせたフレスコ画。どれもが往時の栄華を偲ばせて、とても魅力的だった。

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 夕方、宿泊者全員がミサに出席。ミサでは白い服を着た神父が10人ほど円形に並び、賛美歌を歌った。

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(3)その他、いくつかの宿

○ホテルと兼営のアルベルゲ

 午後3時過ぎにLlanes着。公営のアルベルゲはすでに満員だった。ホテルと兼営のアルベルゲAlbergue la Portilla」へ。宿泊15€(二段ベッド)、夕食10€、朝食5€。朝夕食はホテルのレストランでということだったので、どちらも頼む。同宿者では他に頼む人はなくて、一人だけのホテルでの夕食だったが、雰囲気がよくて、おいしくいただけた(ポテト、肉、サラダ、ワインなど)。朝食は食べ放題の果物付き。

○夕食は出前のレトルト食品で

1506Ribadesellaを過ぎ、小さな村San Esteban de Lecesのアルベルゲに泊る。6。近くに食堂がなくて、夕食は部屋に貼ってあるメニューを見て、遠くのレストランに出前を頼んだ。サラダ7.、ポテトとゆで卵6.、計14。届けられたのはどちらも銀紙の器に入った冷凍のレトルト食品で、電子レンジで温めて食べるもの。値段が高かったので陶磁器の皿に盛って温かい料理を運んでくるのではと思ったがあてが外れた。

 出前での夕食はこれまでのサンティアゴ巡礼では経験がなかったが、高い割にはやや期待はずれ。もっとも、出前を頼んだのは私だけ。他の宿泊者はスーパー等であらかじめ買ってきたものを簡単に調理して食べていた。

○夕食を持参する必要があるMirazのアルベルゲ

 BaamondeからSobrado dos Monxeまでは40km。その中間には宿泊施設がなかったが、2005年にイギリスの友の会(修道会?)がBaamondeから15kmのMirazにアルベルゲを開設した。「Albergue de peregrinos」という。

 準備編で紹介したhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~akutare/2013年にここを通った山本さんの巡礼記)によると、このアルベルゲは「収容人員24名で満室の場合は断られるので、早めに到着することが必要である。食事の提供は無く、近くにレストランは無いので夕食の材料は持参するか、途中のTienda等で購入して持参する(自炊は可能である)」とある。

 どんなところか自分の目で確かめ、報告書に書こうと思って、タクシーで立ち寄ってみた。アルベルゲは白い清潔な建物。すぐそばにはバル。ただ、アルベルゲは閉まっていて食事ができるかは確認できなかった。

 また、後日、ここに泊まった仲間に聞いたところ、「バルではサンドイッチもなくて、食事はできない。ただ、そのバルでは、料理材料としてのスパゲッティ-とそれに入れる材料は売っていて、それをアルベルゲで調理して夕食とした」とのこと。ただし、1年中バルで料理材料を売っているかは確認していない。

 いずれにしろ、調査不足で終わった。泊る場合は、事前に食事をどうしたらよいかを確認したほうがよい。

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4.「北の道」の天候

○今回は平年並で、晴天続き。

 今回は晴天続きの毎日だった。45日間の滞在中、雨に会ったのは数日のみ。インターネットで巡礼報告を見ると、昨年・2013年のこの時期は天候不順でほほ連日、雨だった。

 また、平年で見ると、スペインの6、7月は乾期であるが、「北の道」は海沿いなので、ある程度の雨はあるようだ。たとえば、内陸ではレオンに見るようにほとんど雨が降らないのに対し(6,7月の月間平均雨量は20mm、17mm)、海沿いのサンセバスチャンは65mm、63mmである。それでも7月の東京(126mm)と比べれば雨量は少ない。

○気温も平年並。東京より低い。

 前回までの巡礼路では暑さで苦しめられることが多かったので、かなり暑いと予想していたが、予想は外れた。朝方は10度前後で寒くて上着が必要だったし、昼でも20-24度までしか上がらず、晴れていても木陰で風に吹かれたり、曇り日に海辺で腰を下ろしていると寒い位だった。ただし、無風で昼の太陽を浴びればかなり暑くTシャツ一枚で充分。

 こんな気温は今年だけのことではなく、サンセバスチャンの6、7月の平均気温(6月が最低14-最高20度、7月が16-22度)に見るように、平年並と言うことができる。なお、「フランス人の道」のレオンは6月が10-24度、7月が12-27度。

<その他・あれこれ>

1.「iPod」は、たいへん便利。ただし、使える場所が限られている。

○息子から「iPod」をプレゼントされた。

 これまでパソコンと携帯電話は使っていたが、このような多機能の通信機器は使ったことがなかったし、使い方もよく分からなかった。今回、使い方を教えてもらい初めて利用。とても便利だった。それに使用料が無料なのもよかった。 

○利用したのは、音楽の録音、Eメール、テレビ電話(Face Time)、ニュース検索(ヤフー・ジャパン)、カメラ、私の撮った写真のFacebookへの掲載など。

 その他、現地の天気予報、現地の地図情報などもときどき見ていた。

○音楽については私の好きな日本の音楽を約100曲、録音して持参した。

 過去にも、サンティアゴ巡礼や海外登山、シベリア鉄道の旅などで日本の好きな音楽を聞いていたが、それらは、初め頃は録音テープと録音機を持参し、その後はCD数枚とCDプレーヤーを持参して聞いたものである。

 今回のiPod」は過去のものと比べると、手のひらに乗るほどに小型で軽く、しかも多くの曲が録音できて、とても利用しやすかった。

 倍償千恵子、鮫島有美子の「若者たち」や「学生時代」を、列車内やアルベルゲのベッドで聞いていると、友情とか、恋についての青春時代の思い出が溢れてきて、老いて乾いた心がみずみずしい感情に満たされた。また、「大黄河」(宗次郎)や「シルクロード」(キタロー)、「新世界紀行」(服部克久)を聞くと、地球の遥かかなた、無人の原野をさまよう心地がして、自分が今どこにいるのかを忘れた。ショパンの「ノクターン」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」も大好き。クラシックはまったくの素人で、よく分からないが、この二つは折にふれて聞いた。また、美空ひばりも聞いた。ひばりとは生れが同年。どの歌も好きだ。死の1年前の、伝説のワンマンショー「不死鳥コンサート」をDVDで何度か見たが、彼女の「死に臨んでも歌い続けようとする、人生にかける覚悟」をひしひしと感じ、身も心も惹き込まれたものである。

iPod」を持参したことで、「音楽って、すばらしい」と感じるひとときが過ごせた。

○できるだけ家にテレビ電話をした。

 日本時間の午後6-10時頃(スペインの午前10-午後2時頃)に電話。特に良かったのは顔が見えることと使用料が無料だったこと。

 これまでは、家と連絡を取るのに公衆電話を使用したり(1回目の巡礼)、成田空港で国際携帯電話を借りて持参したりしたが(2-3回目の巡礼)、2回目のときはは料金がどの程度になるか分からぬままに頻繁に利用したために、請求額が7万円にもなってしまい、びっくりした。それが、今回は長時間話しても タダになったのである。

○「iPod」にも不便な点がある。

 「iPodにはたいへん便利でしかも無料という大きな利点はあるものの、音楽を聞くことと写真を撮ることを除いて、利用できるのはWIFIがつながる場所という条件がある。

 スペインでWIFIを入れているのは、鉄道の大きな駅、バスの拠点駅、レストランの大部分、バルの一部、ホテル、ペンションなどと限られている。路上ではもちろん、アルベルゲもほとんどでWIFIを設置しておらず、そこでは「iPod」を利用できない。

 たとえば、昼ごろ家に連絡をしようとしても、利用できる場所がないことが多かった。この点はたいへんに不便である。ただし、現代は通信機器が急速に発展中なので、10年後にはどこででも「iPod」が使える時代が来るのではとは思っているが。

2.うっかりミス

 自分が歳を取ったと強く感じるようなうっかりミスがいくつかあった。

○列車が荷物ごと切り離されて、行ってしまった。

 サンティアゴからビルバオへ向かう途中でのことである。2両連結の列車に乗っていると途中で車両が10両ほど前に連結された。そちらにはコーヒーが飲めるビュッフェがあったので、車両を移動しコーヒーを飲みに行った。ところが、スペイン語新聞の天気欄に目を通し、車窓の風景をのんびりと楽しんだ後、後方に戻ってみると、自分の車両が消えていた。切り離されて別の方向へ行ってしまったのだ。幸いにして、パスポートと現金は身につけていたものの、その他の旅用の荷物は全部、その車両とともに消えていた。

 あわてて車掌のところへ。大柄で髯のあるおじさんだ。つたない英語で事情を説明するが、なかなか通じない。車掌は「イングリッシュ、ノー。スパニッシュ、オンリー」という。英語は分からないのだ。といってこちらはスペイン語が全く駄目。途方にくれていると、乗客の若い女性が助太刀をしてくれた。私の英語をスペイン語に訳し、車掌に伝えてくれたのだ。車掌はすぐにあちこちに電話。女性の通訳によると「荷物はおさえた。今夜中にビルバオの駅の届くようにした」とのこと。更に「次のビトリア駅で降り、バスセンターに行けば、今日中にビルバオに着ける」という。助かった。ほっとする。

 車掌は駅に着くと駅員を呼び、スペイン語で事情を説明、駅員は無言で私の腕を引っ張り、タクシー乗り場へ。タクシーの運転手に何か言うと運転手は私に何も言わずにバスセンターへ。私は言葉を発することなく、バスセンターに着いてしまった(19:30着)。車掌、通訳の女性、駅員、タクシーの運転手、スペインの人達は皆、本当に親切だった。

 当時のメモを見ると「これまで、疲れからか元気を失い、巡礼を続けられるか、やや不安になっていた。ところが、きょうは事件が勃発。何か、次から次へと事が進み、どうするかで頭が忙しく回転し、久しぶりに興奮。充実感を味わって、元気を回復した」とある。

 バス20:00発、ビルバオ21:00着。6.20€。前に泊まったアルベルゲに行くと、一晩中オープンとのことで開いていたのでチェックイン。その後、22:00頃、ビルバオの駅へ行き荷物を受け取ることができた。

 なお、日本の旅行案内には注意事項がいろいろ記載されているが、「列車が切り離されるので注意」という文言は見たことがない。旅慣れぬ人にはこんな注意も必要のようである。

○道を間違えたのに丸1日、気が付かずに歩き、宿に着いてもしばらく気が付かなかった。

 Villaviciosaから巡礼路は二つに分かれる。Gijonへ行くつもりだったが、間違ってOviedoに向かう道へ。矢印などの道標を見つけることで頭が一杯となって「道が二つに分かれること」を失念したために、道を間違ったことにまったく気が付かずにPola de Sieroの町まで歩き、アルベルゲに到着して初めてOviedoへの道を歩いてきたことに気が付いた。

○料金を払わずにレストランを出ようとした。

 サンティアゴでのこと、うっかり代金を払わずにレストランを出ようとしてマスターに呼び止められた。メモを書くのに夢中になり、書き終わってホッとして料金を払うことを忘れてしまったのだ。

3.食事はどうしていたか。

○アルベルゲに泊る人のほとんどは、朝、昼食はサンドイッチ等の手作り、夕食は自炊であり、節約志向が徹底していて、レストランに出かける人はほとんどいなかった。

○私は朝、昼はコンビニで買ったパン、バナナ、リンゴ、トマト、ときにはハム、それに缶の紅茶、ペットボトルの水などですまし、夕食はレストランでフライドポテトと卵の目玉焼き3つ、サラダを常食とした(「patata frito(フライドポテト)」「huevo frito(目玉焼き)」「ensalada(サラダ)」「jamon(ハム)」などと書いたメモを用意しておき、それを見せて注文)。10-13€。

 夕食を上記3つで押し通したのは、あるとき、店のマスターの言いなりで注文してみたら、すっぱいポテトサラダや薄切りトマトだけで緑の野菜がないサラダが出てきて、満足に食事ができなかったことがあったためである。

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○数日間、一緒に歩いた日本の仲間のうち、女性のIさんが作る毎日の夕食は味もやや和風で、とても美味しかった。材料は調味料も含めてスーパーか、コンビニで調達。それを宿のキッチンで調理する。更に割り勘で負担する材料費は、朝食代、昼食代も含めて、1日3€前後と安かった。Iさんに感謝。

 私にはできないが、このように自炊をすれば、旅費はかなり節約できると思う。

4.言葉の問題

○夕食後のアルベルゲの夜は見知らぬ者同士で話がはずむ。ほとんどの宿泊者が庭やキッチン兼談話室のテーブルを囲み、あるいは場所が足りないときは廊下の長椅子に一列に座って、就寝時までおしゃべり。スペイン語や英語、ドイツ語などが飛び交う。

 私の場合、行けば喜んでその輪に加えてくれたが、皆の会話が理解できないので何となく落ち着かず、出席しても短時間で席を外してしまい、そのうちに、最初からその輪に加わることなく、一人、誰もいない部屋で寝てしまうようになった。

 でも、部屋で寝ていると楽しそうな笑い声が聞こえてくる。さびしい、皆の輪に加わりたい---。外国語の会話が普通にできたらと痛切に感じるのはそんなときであり、4回目ともなると、その思いはますます強まった。

○外国の人と一対一で話すときは、ある程度会話が成立した。ドイツの30歳代の女性、オーストラリアの若い女性、ルーマニアのおばさん、ベルギーの若者、イギリスの中年男性など。宿で、あるいは歩きながら、つたない英語であれこれと話をした。特に歩きながらの会話は楽だった。

○宿の受付がおばさんやおばあさんの場合、英語が通じないことが何度かあった。スペイン語、オンリー。と言ってこちらはスペイン語が駄目。そばに英語が分かる宿泊客がいれば意思疎通は可能だが、おばあさん以外誰もいないときが一度あった。ホテル兼営のアルベルゲ。どちらに泊るのか、宿泊代はいくらか、朝食をつけるのか、夕食はつけるのか、なかなか意思が通じない。おばあさんはメモを書いて説明してくれたが、よく分からない。おばあさんはいらいらしてメモを丸めて捨ててしまった。どうしようか。気がついて、ザックからスペイン語・日本語辞書を取り出して、交渉再開。やっと意思疎通ができた。こんなときのために辞書は必携である。

5.持ち物

○持ち物一覧

 レインウエア、長ズボン1枚、半ズボン1枚、Tシャツ2枚(半袖シャツ兼用)、長袖シャツ1枚、フリース1枚、パンツ2枚、5本指靴下4足、軍手1組、地下足袋、ビニール敷物、インナーシュラフ、スリッパ、ツェルト、ストック、荷物の小分け袋(機内持込み用のバックを含む)。デジタルカメラ、海中電灯、交換用の電球 予備懐中電灯(100円)、単三電池6本(カメラ用、海中電灯用)、カメラ用SDカード予備、I Pod、イヤホーン、充電器、200Vアダプター、腕時計、メガネ。 

  帽子、水泳パンツ、タオル2枚、カミソリ、石鹸、お守り(娘が作ってくれたものと二人の孫のお手製のもの)、テッシュ数個、トイレットペーパー1ヶ、歯ブラシ、練歯みがき、薬(胃薬、下痢止、かぜ薬、コレステロール用の薬、疲労回復剤)、リップクリーム、カットバン(足まめに適したジョンソン社製を含む)、つめ切り、耳かき、インスタントの乾燥ごはん2袋。 

  パスポート、パスポートのコピー2枚、パスポート紛失時に新パスポート作成用写真4枚、航空券の引換証(忘れやすい)、海外保険証(忘れやすい)、現金、財布、クレジットカード、キャシュカード、名刺、メモ用手帳。 

  スペイン語の辞書、地図、コースの説明文(行った人が書いた毎日のコースの説明文、インターネットよりコピー)、必要と思われる日本の電話番号、日本の絵葉書10枚(現地でのお礼用)、文庫本(機内での読書用、新田次郎「栄光の岩壁」ほか)

○名刺代わりのコピーとおみやげを持参してよかった。

 「準備編」に書いたが、自分の家族の写真(自分がサンチャゴ巡礼に行った年などを記入)、それと富士山と槍ヶ岳、日本の桜と紅葉の風景をカラー1枚にコピーして20枚ほど持参。また、日本の絵葉書やストラップ、折り紙などをおみやげとして持参した。

 これらは、かたことの英語しかできない中で、お会いした方々とコミュニケーションをとるのにたいへん役に立った。

○娘と孫2人がそれぞれ、お守りを作ってくれた。

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○サンダルを持参すべきだった。

 宿のシャワーは大勢の人が利用し、着替える場所の床が常にビショ濡れとなっており、持参した薄い布製スリッパも濡れてしまって、パンツやズボンを履くのにたいへん苦労した。しっかりしたゴム製サンダルを持参する必要がある。

6.電車とバスの利用について

7.アルタミラの洞窟壁画とモン・サン・ミッシェルの大聖堂

<帰国後>

○後半生は好きな登山と旅を存分に味わってきた。人生の中でそれらにはどんな意味があったのか?

○「挑戦」の旗を降ろして、今後は何をするか?

・何をやるか。絵を描きたい。人生は多様、その奥は深い。知らないこと、経験していないことは無数にある。そこには貴重な何かがあるように思う。死ぬまでに出来る限り人生を味わってみたい。

・楽しみって何。

・心の底から湧き上がるほどにやりたいことはあるか。

・老いの生き方。

 

<日程詳細>

○5月30日

 巡礼に行くのは5人(女性のAさん、男性のMさん、女性のIさん、視覚障害の宮本さん、それに私)。空港に市角夫妻が見送りに来てくれた。

 成田発21:20-アブダビ着04:35(現地時間・5月31日)エティハド航空 

010○5月31日

 アブダビ発09:00-パリ着14:25 エティハド航空

 パリ・モンパルナス地区にて寿司を食べたあと、同地区の「メゾン・オランジュ」泊。(tel +33 6 17 80 23 11 parislife.information@gmail.com 素泊り約4千円)

○6月1日 

 午前中、5人でモンパルナス散策。モンパルナス12:28発の列車でイルンへ。18:20着、アルベルゲ「Albergue de Peregrinos」泊り。宿泊は無料だったが、募金箱に5€を入れる。募金をしない人、3€を入れる人など、各人まちまち。巡礼証明書(クレデンシャル)をアルベルゲで発行してもらう。

○6月2日(歩程18km)

 宮本さん、Aさん、Mさんの三人は6:50にイルンを出発。私とIさんは日本にIさんの荷物の一部を送り返すために郵便局へ。8:30の開店を待って手続き。9:00にイルンをスタート。小雨。農村を行く。峠の教会へ。雨具を脱いで一休み。寒い。ロシアの若い女性に会う。一人旅のようだ。 

 更に丘陵地帯の上を行き、小学生の一団に会う。晴れた。3人に合流しPasai Donibaneの「Hospital de Peregrinos」泊。丘の上、教会に隣接するアルベルゲ。宿泊は無料だったが、募金箱に4€を入れる。

○6月3日(10km)

 5人一緒。丘を下り、渡し船で対岸に渡る。5分で対岸へ、0.€。対岸をしばらく歩き、崖上へ急な階段を登る。丘陵の上を行くとキリスト教徒の家あり。喫茶、宿泊を無料にして巡礼者をもてなしているという。我々も茶菓の接待を受けた。更に丘陵の上を7kmほど行くと見晴らしのよいところへ。眼下に弓なりの砂浜。San Sebastianの入り口だ。まだ見えぬが、左手、半島の向こう側がSan Sebastianの中心にある長い砂浜のもよう。

 San Sebastianは「北の海岸」随一の夏の高級リゾート地(前述)。町に下りると長い砂浜とそれに沿った遊歩道は人で溢れていた。宿は砂浜を端まで歩きやや山側に入ったところにあった。

 ユースホステル兼アルベルゲの「Aterpetxe-Albergue-Youth Hostel」泊。16€。

 荷を置いてレストランで昼食。その後、Iさんと、湾の左先端にあるケーブルカー(3€)でモンテ・イゲルドの丘に登り、広大な湾の風景を楽しむ。

○6月4日(23km)

 足が弱いこともあって、Iさんと二人で先発。あとの3人はもう1泊してSan Sebastianを見物することになった。

 森の中を登り、丘陵地帯の農村を行く。小雨。途中、ドイツの女性と一緒になる。10kmほど行き、いったん、Orioの町の川岸に下りて、トルティーャとコーヒーで一服。2.5€。もう一度登り返し、5kmでZarautzへ。長い砂浜を見下ろしながら、町に下りる。

 町はずれのアルベルゲに行ったが満員。そこから10分戻った旧市街にあるペンション「TXIKI Polit」を紹介され、そこに宿泊。階下はバル兼レストラン。宿の代金は朝食付、2人で44€。夕食はレストランで豚肉の串焼き、アスパラなど、1人10€。ウエイトレスに「ナプキン」が欲しいと言ったら、私のジェスチャーが通じなかったようで、「バンドエイド」を持ってくるという「おまけ」の出来事があった。

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Zarautz 遠景

○6月5日(20km)

 宿のバルで朝食。宿から100mで砂浜へ。地図の巡礼路は町からすぐに丘を登るが、私達は車道と平行する海岸沿いの遊歩道を行く。遊歩道の下は白波が立つ岩場。後方には白波が打ち寄せる長い砂浜。遥か彼方まで朝日に輝く海面が望める。

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海岸歩きはGetariaまで。ここから巡礼路に戻り、坂を登って、丘陵地帯へ。遠くの山までぶどう畑が続く。Zumaiaの港が近づくと前方に海が望めて、眼下にはヨットハーバー。港に下り、橋を渡って公園で一休み。再び急坂を登って丘陵を行く。

 Iさんが足を痛めたため、Debaの港へあと20分の丘の上にあるペンション泊。おかみさんが部屋まで来て、夕食を作ってくれた。夕食付きで一人35

○6月6日(24km)

 宿を7:30スタート。足を痛め列車でBilbaoに先行するIさんとDebaの駅で分かれて(列車8:45発)、9:00、一人で歩き始めた。間違えて港町Mutrikuへと遠回り。そこから車道を延々と登り、巡礼路上のOlatzへ。更に丘陵地帯の森の中を行く。展望のあるところはほとんどない。

 途中、1人歩きで中年のフランス人女性と一緒になるが、フランス語なまりの英語は聞き取りにくくて、ほとんど理解できなかった。すぐに分かれる。

 そんな中で、体が急に大量の水を欲して、持っていた2Lの水を午前中に飲み干してしまった。水が欲しいが、バルや水場は全くなし。喉が渇く中、きょうの目的地Markinaへは、正面から太陽に照りつけられる中を延々と下らねばならなかった。運悪く日陰はほとんどない。暑さと喉の渇きと足の疲れで、この下りはとてもきつかった。2Lで充分と思っていたが水が足りなくなるなんて。体の調子によっては水が2L以上必要なこともあるのだ。今後は要注意。

 Markinaの入り口で水を求め、おじいさんにアルベルゲへの道をたずねると、親切にもアルベルゲまで案内してくれた。教会に付属し、宿泊は無料。案内書には「Donativo(寄付。おこころざし)」とあり、私は募金箱に5€を入れた。

 そのあと、スーパーでバナナ、パン、リンゴ、トマト、ハム、缶紅茶、水などを買い込み、広場のベンチでたっぷりと夕食を摂る。

○6月7日(25km)

 小川に沿って4kmでIruzubieta。小さな村。閉まっていたがバルが2軒。右に曲がり、坂を上がって森や畑の中を3km行くとBolibarの町。教会の前にシモン・ボリバル(Simon Bolivar)を称える記念碑が立っている。彼は19世紀の前半、南米でいくつかの共和国を建国するなど、植民地独立運動に一生を捧げた人である。彼の先祖はここの出身。先祖は16世紀に南米ベネズエラに渡り、シモンは1783年にそこで生まれている。

 町を抜け、坂を上がったところに回廊付きの大きな教会あり。天井から木製の大きな獣の首が真下を狙っていた。狼か、蛇か、よく分からない。

 丘の上の次の町でバルに入る。ベーコンやハム、卵などを挟んだボカディージョと卵のオムレツ・トルティーヤがカウンターに並んでおり、トルティーヤを皿に取って食べた。

 更に丘陵が続き、森の中を行く。森を抜けた丘の上のバルでコーヒーを飲む。巡礼者用定食8.50€の看板あり。

 途中で、イタリアで働く日本の女性に会う。イタリア人2人と一緒。Gernikaへ。アルベルゲ兼ユースホステル「Gernika Hostel」泊。20€。彼等も一緒。

 4人でレストランに行き夕食。イタリアのおじさんから「巡礼の楽しみは巡礼者同士の会話。会話ができないで、何が楽しいのか」、「電車やタクシーを使う位なら、俺は巡礼をやめて帰る」などと言われたが、かたことの英語では、うまく反論できなかった。もっと会話が上手ければと思う。

 なお、Gernikaはピカソの描いた「ゲルニカ」で有名。スペイン内戦時の1937年、ドイツ空軍により、史上初めてと言われる「都市無差別空爆」があり、大きな被害を受けた町である。町には道路に面し「ゲルニカ」のタイル製実物大レプリカが立っている。私は行かなかったが、平和博物館、議事堂など、見どころも多い。

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○6月8日(歩き21km、電車11km)

 森の中のきつい登り下りが続く。

 Lezamaから電車(私鉄)に乗りBilbaoへ。Iさんと合流。同地の「GANBARA Hostel Bilbao」泊。

○6月9日(列車でSarriaへ)

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 Iさんと列車でBilbao(9:15発)からSarriaへ(Monforte de Lemos乗換、Sarria18:32着、46.20€)。Sarriaは「フランス人の道」にある。ここから100kmでサンティアゴ。最後の100kmを歩けば巡礼証明書がもらえる。私は前に歩いているが、足を痛めたIさんに「フランス人の道」とサンティアゴ大聖堂のにぎわいを見てもらうためにやってきた。同地のアルベルゲ泊。スーパーで冷凍食品(ピラフ、魚介類等)を買い込み、宿で温めて夕食。

○6月10日(タクシーを利用)

 IさんとPortomarinへ。ここは1回目の巡礼のときに印象に残った町。丘の上にあり、眼下に広々と大きな湖面が見渡せて、開放感あふれるところ。橋を渡り長い階段を上がったところに町の入口がある。「Alberugue de Portomarin」泊。6€。

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○6月11日(タクシーとバスを利用)

 IさんとタクシーでParas de Reiへ。25€。そこでIさんと分かれ、バスでLugo経由Baamonde(「北の道」の町)へ。バス代は3.15€+2.90€。移動にバスを利用すれば意外に安いことを知った。同地の「Alberugue de Baamonde」泊。6€。バス道路沿いにあるが、周辺の家はまばらで寂しいところ。宿で日本人男性・青木さんと出会う(前述)。

○6月12日(タクシーで40km)

 10:30、青木さんとタクシーでMiraz経由、Sobrado dos Monxesへ(約40km、40€)。

 Baamondeから数分のところに、サンティアゴへ100kmの道標があり、記念撮影。次いでMirazへ。

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 インターネットで見ると「ここのアルベルゲは夕食の提供はなく、またレストランもない」とあり、後日、仲間が通るために気になっていたので立ち寄ったものである(前述)。

 Sobrado dos Monxesのサンタマリア修道院泊。寺院の中、回廊に沿って2段ベットの宿泊施設があった。ここは1142年建立の大寺院。現在使われている寺院や回廊のある中庭のほかに、奥に入って行くと崩れかかった大きな寺院がある(前述)。

 夕方、宿泊者全員がミサに出席。ミサでは白い服を着た神父が10人ほど円形に並び、賛美歌を歌った。

○6月13日(22km)

 丘陵地帯を行く。青木さんとの二人旅。話がはずんで楽しかった。

 Arzuaに到着し「フランス人の道」に合流。急に巡礼者が多くなった。私営のアルベルゲが10ヶ所ほどあったが、私は安い公営の「Albergue de Arzua」に泊る。6€。レストランでの夕食も青木さんと一緒。なお、Iさんとはここで落ち合う約束だったが、Santiagoに向かって次の宿へと進んでいて会えなかった。

○6月14日(バスで39km、Santiagoへ)

 今後の日程を考えると、「北の道」を歩いたあとでSantiagoまで来る余裕はない。1人、8:00発のバスでSantiagoへ。前にも泊った4階建の神学校の中にある「Albergue Seminario Menor」に宿を取る。12€。

 大聖堂とその周辺を散策。おみやげを物色。孫の風ちゃんにネックレス(ブルー、ホタテ貝型)、そう太にTシャツ、妻と娘に大聖堂製のネックレスなどを買う。

 Baamondeからここへは100km。これを歩いたことにすれば「巡礼証明書」が貰えるので、巡礼事務所の行列に一度は並んだが、すでに2枚もらっていることでもあり、後ろめたさもあって、やめにした。

 夕食は神学校の地下へ。ここには快適に自炊ができるキッチンがある。コーヒーやインスタント食品(パスタなど)の自販機があるほか、電熱器(これで湯が沸かせる)、電子レンジ、冷蔵庫があり、テレビ、パソコン(パソコンは有料、30分1€)があり、時間によっては売店が開く。私はそこで、パン、バナナ、トマトを買って、即席ご飯(日本から持参)、即席ラーメン(現地で購入)と一緒に食べた。

○6月15日(Santiagoから電車とバスでBilbaoへ)

 朝、思い立って大聖堂にお参り。生涯でもう来ることはないであろう。

 10:18発の列車でBilbaoへ(20:16着の予定)。49.20€。

 ところが、うっかりミスで途中下車をする羽目に(前述)。

 ミスとは、荷物を置いた車両を離れてカフェのある車両でコーヒーを飲んでいる間にMirandaの駅で二つの車両が切り離されてしまい、戻ってみたら荷物を置いた車両がなく、自分は別方向に向かっていたということである。

 すぐに車掌に連絡し、次の停車駅Vitoriaで下車しタクシーでバスセンターに行き、そこからバスでBilbaoへ行って、当日の夜遅くにBilbao駅で荷物を受け取ることができて、ほっとした。Bilbao泊。

○6月16日(地下鉄で20km、歩きで13km)

 世界遺産のBIZKAIA橋(ビツカヤ橋)が見たかったので、Bilbaoから、まず地下鉄に乗ってAreeta駅へ(1.70€)。橋はAreetaの町と対岸のPortgaleteを結んでいる。鉄骨製。吊り下げたゴンドラで車と人を運ぶもので、1893年の建設。設計したのはエッフェル塔を設計したエッフェルの弟子の一人、バスク人のアルベルト・パラシオ。この形式の運搬橋では最古のものという(いくつもあったが現存するのは8つ)。長さは160m、高さは45m、渡し賃は1人0.35€だった。

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 ゴンドラで対岸のPortgaleteに渡り(橋桁を歩いて渡る方法もあるもよう)、巡礼路に合流して歩き始める。町を抜けるとLa Arenaまでの約10kmは、行きと帰りの道を分離し、更に人と自転車をも分離した、アンツーカー仕様と見える、幅広のすばらしい遊歩道が続く。この後、こんな遊歩道には会わなかったが、日本にもあったらいいなと思うほどにすばらしかった。

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 ホテルがあるLa Arena の海水浴場に着く。更に砂浜を20分歩くとPobenaのアルベルゲ。そこに泊る。料金は無料。ただし、募金箱が置いてあり、なにがしかを入れるようになっている。私は5€を入れた。

○6月17日(9km)

 Castro Urdialesのアルベルゲ泊。

○6月18日(27km)

 Laredoは崖下に広がる街。はるか遠くに弓なりに長い砂浜。下りて行くと旧市街。修道院泊、10€(写真別記)。

○6月19日(27km)

 Guemesのアルベルゲ泊。€。(詳細別記)

○6月20日(12km。大回りし実際はもっと長く歩く。Somoからは渡し船)

 大回りの道の途中でサブリナに会う(詳細別記)。

 Santanderのアルベルゲ泊。10€。

○6月21日(電車で34km。歩き10km。別に途中からアルタミラ洞窟往復+10km)

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 Requejada駅まで電車。そこからアルタミラ洞窟のある博物館まで歩く。駅10:30スタート、博物館13:00着。

 アルタミラの見学に3時間ほどかかり疲れたので、Santillana del Marへ行く途中の村の二つ星ホテルに宿を取る。朝食付30

○6月22日(Santillana見物後、12kmを歩く)

 ホテルを出て20分、バス停があったので若者に「このバスはSantillanaへ行くか」と聞くと、「ここがそうだ」という。遠いと思っていたがSantillana del Marはホテルから意外に近かった。

 Santillanaは中世の町並みがそのまま残る小さな村。石造りの古い家はイスラム教徒に追われて逃げてきた貴族が建てたものだという。土産物屋とカフェがあちこちに。パラドールもあった。9-12世紀に建てられた「参事会教会」や16世紀に建てられた「ペラルド邸」などの内部を見たかったが、入れなかった(教会はミサ中、ペラルド邸は閉館)。30分で村を見て廻った後、観光案内所の中庭でパンとバナナの昼食。

 11:30発、丘を登って次の町へ。1時間ほど広々とした農村地帯を行く。景色よし。絶景は海岸部だけではない。

 15:30,Cobrecesの町の入り口、巡礼路沿いにふと見つけた民営の「Albergue el Pino」に泊る。おばさんの経営。15€と高かったが、新築で気持ちのよい宿だった。泊りはデンマークのお嬢さん2人と3人だけ。

○6月23日(22km)

 教会は普通、むき出しの石の壁か、白一色なのにCobrecesにある二つの教会はピンクと薄いブルー。めずらしく現代風。その前を通る。

 キャンプ場のレストランで一休み。

 丘の上に小さな教会あり。現代的なステンドグラスが気に入った。

 Comillasへ。広い海水浴場(冒頭に写真を掲載)から坂を登って町へ。古い大学とガウディが建てた教会があるところ。

 更に延々と歩き、大きな川を渡ったところにある観光地San Vicente de la Barquera のアルベルゲ泊。高台にある。ほぼ満員。10

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○6月24日(17km)

 BarqueraのバスセンターではWIFIがあり、iPod」が利用できたので、妻にテレビ電話。9時、スタート。坂を登り丘陵地帯の車道を延々と歩き、11:20、Serdio着。川を渡り、森の中を鉄道の線路沿いにUnqueraへ。ここは鉄道駅のある大きな町。前に会ったことがある一団の人達が道の向かいのバルで休んでおり、手を振っていた。町を通過し、橋を渡って急坂を上がる。眼下には川と町。休憩中にサブリナ達に追い抜かれた。すぐにColombres。でも、アルベルゲは満員。サブリナ達はどこかに宿を取ったようだ。私は1人、町を抜け国道沿いにあるバル兼ペンション「OYAMBRE」に泊る。宿泊客は2人のみで、空いている上に12と安かった。夕食は道を挟んで向かい側のホテルで食べる。(写真:Unqueraの町とColombresの宿)

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○6月25日(22km。回り道をして、実際はもっと歩く)

 Colombresから9kmのPenduelesで国道を離れ、更に2kmほど進んで巡礼路も外れ、海岸に向かう。地図にビューポイントの印がついた回り道(Llanesに向かうもの)が載っていたためである。まずは大きな砂浜に出る。Vidiago(ヒディアゴ)の辺りか。突き出た岩の上にはレストラン、その裏手の断崖の下には砂利混じりの砂浜、とても景色のよいところだった。更に断崖沿いを進むと、岸から数mの海中に、高さ20m、長さ30mほどの岩山があり、この後も海中に突き出たいくつかの岩山に出会った(前述)。

 車道に出ると、Llanesの町まであと5kmのところで、日本のスペイン大使館に勤務していたという現地の中年男性(「旗の台」に住んでいたとのこと)が車で近づいてきて、町まで送ってくれた。最初のアルベルは満員。更に車でホテルと兼営の民営アルベルゲ「Albergue la Portilla」へ。宿泊15。他にホテルの夕食10、朝食5も頼む。美味しかった。

○6月26日(17km) 

  出発し、5kmで美しい海岸へ。

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 Nuevaのペンション「Casa Principado」泊。家族経営で、外からは普通の家にしか見えない。巡礼路を歩いているときに「自動車」が寄ってきて、宿のおじさんから地図入りの名刺を渡され「泊るならここへ」と勧誘されたもの。

○6月27日(19km)

 長い砂浜のある観光地Ribadesellaを過ぎ、小さな村San Esteban de Lecesのアルベルゲ泊。6。夕食は遠くのレストランに出前を頼む。サラダ7.、ポテトとゆで卵6.、計14。届けられたのはどちらも銀紙の器に入った冷凍もの。電子レンジで温めて食べた。

○6月28日(15km。別に寄り道あり)

 7:00、スタート。村の中を下りて行くとすぐに砂利の多い無人の砂浜。波打ち際をしばらく行き、断崖の上に上がると次の砂浜が弓なりに眼下に広がる。浜辺に豆粒のような黒い人影が二つ、サーフィンを楽しんでいるようだ。巡礼路は海から離れていくが、海辺へ下りて高さ100mの岩山を回り込めば巡礼路にたどりつくのではと思って、そちらに道を取る。でも行き止まりで引き返す(前述)。

 Colungaの2つ星ホテル「Las Vegas」(1階はバル)泊、25

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○6月29日(17km)

 Villaviciosaの「Hostal el Congreso」泊、15

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○6月30日(26km)

 
 Villaviciosa
から巡礼路は二つに分かれる。Gijonへ行くつもりだったが、間違えて、Oviedoに向かう道へ。うっかりして「道が二つに分かれること」を失念していた。まったく気が付かずに、Pola de Sieroの町まで歩き、アルベルゲに到着して初めて気が付いた。同地の「Alberugue Pola de Stero」泊、5

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○7月1日(17km)

 出発時、小雨、のちに本降り、そのあと雨が上がって晴れてきた。町の郊外と言った感じの丘陵地帯を行き、後半は市街地を行く。オーストラリアから来た女性と一緒になり、歩きながら話をする。カミーノは初めてで、「北の道」をまず歩くことにしたが、この道は「とてもExcitingだ」とのこと。どうしても来たかったので、昨年は休暇をあまり取らず、休暇をためてやってきたという。彼女からもいろいろ質問があり、来た目的も聞かれたので「Challenge」と答えた。

 Oviedoの旧市街に到着。道端のおじいさんに聞くと観光案内所(「i」)まで案内してくれた。アルベルゲが開くのを待ち、荷を置いて散策。旧市街は複雑に入り組み、道が分かりにくい。まず、カテドラルを見物。次いで大きな公園を一周。それから、明朝行くバスセンターへも行ってみた。

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 途中で夕立あり。帰りに見た夕暮れのカテドラルは雨上がりの街路に街灯が映って、とても幻想的だった。

 なお、公園で遊んでいる子供たちをカメラで撮ろうとしたら、ベンチに座っていた母親から大声で「ノー」と言われて止められた。誘拐防止のためだろうか。

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○7月2日(Avilesへバス。そこから20kmを歩く)

 OviedoからバスでAvilesへ。7:20発、7:50着。巡礼路がどこにあるか分からず、人に聞きながらウロウロし、やっと探し当てたときは10:00になっていた。「北の道」に戻って、まず丘を越える。眼下に町と海岸線。丘を下りて海岸の手前の車道を行き、再び丘の上へ。12km歩いてSoto del Barco。眺めよし。眼下にNalon川、遠くに古城のような塔(Torre)

 Barcoを過ぎNalon川を渡り、すぐに巡礼路を外れて右へ1.5km入ると、そこがSan Esteban de Pravia。砂浜がないためか、観光客は少なく、静な港町。民営アルベルゲ「BOCA MAR」泊(バル兼営)。宿代13、朝食3.。ベルギーの大学1年生二人と同部屋。また、何度か会って顔見知りのドイツの女性サブリナにも再会。彼女はカナダとスペインの女性と一緒だった。

○7月3日(23km。回り道をしたので実際の距離はこれより長い)

 巡礼路に戻らず、サブリナ等3人の女性と断崖の上を行き、絶景を鑑賞した後(前述)、海水浴場で彼女達と分かれ車道を行く。しばらく行き、右へ下りるとCudilleroという美しい港町(オレンジ色の屋根が並ぶ。行った人から是非行くようにとすすめられていた)に行けたのだが、うっかりして町に下りずに先に進んでしまった。

 Soto de Luinaにあと数kmのところで犬を自動車の後部座席に乗せたおじさんに呼び止められる。「暑いから車に乗せていってあげる」という。喜んで乗った。おじさんはマドリッドの人。前の宿に車と犬を預けて次の宿まで一人で歩き、そこからタクシーで前の宿に戻るという方法で犬と一緒に巡礼中とのことだった。

 Soto de Luinaのアルベルゲ泊。ここを管理するのは近くのバル。宿泊費5€はそこで払う。また、巡礼手帳に押すスタンプもそこにある。

 就寝は2段ベッドの一段目。隣のベッドはルーマニアのおばさん。しばらくカタコトの英語で話をしたが、後日、Vilalbaで、日本人がいるとの噂を聞いて他の宿から私のところにわざわざ会いに来てくれた。少女のように活発な人だった。

○7月4日(22km)

 Cadabedoのアルベルゲ泊、5。超満員。床にマットを敷いて3人寝る。遅く着いた人はもう一軒のアルベルゲへ。

 旧知のイギリス人男性、ベルギーの2人組の若者等と同室。

○7月5日(16kmを歩いた後、電車で51kmを行く。ただし、別に寄り道もした) 

 途中、巡礼路を外れ、畑の中を海まで行ってみた。そこは断崖の上。海沿いにLuarca方向に道があるかと期待して行ったのだが、行き止まり。畑の中を先端まで行って探したが、50m下の、白波が砕ける岩場への降り口はない。北の海沿いはどこまでも道が続いていると思っていたが、場所によっては道が途切れるということを初めて知った。

 2時間の寄り道のあと、巡礼路に戻ってLuarcaまで歩く。見物、昼食後、先行する仲間3人(宮本さん、Aさん、Mさん)に合流するために電車でRibadeoへ。電車は乗降客がいない駅には止まらずに通過。降りることを車内のどのボタンで伝えるのか、不安になったが、私が降りる駅では多くの人が降りたので無事降りることができた。ここはかなり大きな都市。町の人に聞いて、Ribadeoのペンション「PRPresidente」泊。

○7月6日(27km)

 まずはゆったりと登り、尾根伝いに林の中を行く。次いでのどかな農村地帯へ下り、また登る。21km歩いてGondan着。そこのアルベルゲに泊る予定だったが、アルベルゲの周辺に人家がなく、全く人影なし。あまりに寂しげだったため、更に5km歩いてVilanoya de Lourenzaの町まで行くことにした。途中、カフェで一休み。フランスのおじさんとスペインのお嬢さん2人が一緒。次いで坂を上がって、San Xusto de Cavarcos教会へ。ここで道を間違えた。巡礼路は、教会の手前で車道を外れ左へ入るのだが、まっすぐ教会まで行き、それを越えて車道を直進してしまった。でも1時間で道は合流。そこからVilanoya de Lourenzaはすぐ。大きな町。民営アルベルゲ「O CAMINO Habitacions」に泊る。11€。

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○7月7日(延泊)

 1日遅れでやってくる3人と合流するために「O CAMINO Habitacions」にもう一泊

 昼過ぎ、彼等を迎えに出る。でも、うっかりして道を間違え、1時間も歩いたのに会えなかった。急いで町に戻り、公営アルベルゲに行ってみると3人はもう到着済。予約していたので、私が泊る民営の宿に移ってもらった。

 夕食は足利さんのお手製。とても美味しかった。

○7月8日(25km)

 4人で歩く。「Alberugue de Gontan」泊。6€。宮本さんと二人、2段ベッドが一つだけ置かれた病人や障害者用の1階入口の部屋へ。他の宿泊者は2階へ。

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○7月9日(21km。きょうで巡礼は終わり)

 4人で歩く。Vilalbaの町の入口にある「Alberugue Vilalba」泊、6€。

 同地に到着後、一人で町の中心へ。きょうが巡礼最後の日。パラドール、中央公園、バス発着所などを見て回る。

○7月10日(バスでLugoへ。Lugo見物後、列車でIrunへ)

 同行の3人は6時10分にスタート。私も7時過ぎに宿を出てVilalba発7:45のバスでLugoへ。8:45着。厚い城壁に囲まれた旧市街を見物。Lugo発10:57の列車でIrunへ。列車内で日本人男性巡礼者・近藤さんに会う(前述)。

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 Irun21:00着。出発時に泊まったアルベルゲへ。ほぼ満員だったが、幸いにして、空きあり。宿泊費は無料だが、スペイン最後の夜でもあり、募金箱に10€を入れた。

○7月11日(列車でパリへ)

 パリ行列車は地下鉄で5分行った駅から出るという。雨の中その駅へ。駅前で警官が4-5人、駅へ来る人のパスポートを検査していた。駅員はスト中で、どの事務室も無人。切符売り場の窓口も閉まっていた。でも列車は出るようだ。赤い服を着たボランティアらしき若い男女二人が切符を買おうとする人に自動販売機の利用方法を説明していた。私はLenes(レンヌ)経由モン・サン・ミッシェル行の切符を買おうとしたが、自販機では買えないとのこと。やむをえず、パリ行を買った。

 イルンのHendaye駅9:45発、パリ・モンパルナス駅15:33着。近くの二つ星ホテルに行き、宿泊料を聞くと100€とのこと。ダブルベッドしか空いていず、高過ぎる。駅に戻って、観光案内所で周辺のホテル一覧(宿泊料記載)をもらい、駅近くの最も安い二つ星ホテル「Hotel Edgar Quinet」へ。空いていたので、そこに宿泊。シングルは満室、ダブルベッドで75€。パリのホテル代は本当に高い。パリにはできれば泊まらないほうがよい。

○7月12日(列車でLenes・レンヌへ。次いでバスでモン・サン・ミッシェルへ)

 モン・サン・ミッシェルへ。大聖堂まで登り、眼下に広がる干潮時の広大な干潟を見物。干潟を歩く人が多く、アリのように見えた。現地の二つ星ホテルに泊る。87.05€、別に朝食8.5€。

 島と宿泊地を結ぶ連絡バスが夜中の1時まで運行していたので、夜10時頃、ライトに浮かぶモン・サン・ミッシェルを再度見物に。

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○7月13日(バスでレンヌへ。町を見物後、列車でパリへ) 

 9:25発のバスでLenes(レンヌ)へ。10:40着、教会等旧市街見物。テイクアウトの寿司を買い、駅のベンチで食べる。13:25発の列車でモンパルナスへ。三つ星ホテル泊、シングル80€。

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○7月14日(空路、パリ発) 

 空路、パリ発11:00-アブダビ着19:50、エティハド航空。おみやげにパリではゴディバのチョコレートを、アブダビではアラビアのチョコレートを購入。 

○7月15日(成田着) 

 アブダビ発22:05(7月14日)-成田着13:15。妻と娘が出迎え。空港にて3人で食事。

注)日誌をほぼ書き終わったのは11月。道や海岸の状況・位置などで、不確かな部分があったが、それらはインターネットの「Google Earth(世界全体の詳細な地図)によって調べ、正確な情報を入手した。

 

 

 

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読書の楽しみ(付・絵画鑑賞と音楽鑑賞)

<読書の楽しみ (付・絵画鑑賞と音楽鑑賞)> 

 2013年1月17日以降に記す)

私の好きな小説は時代物や歴史物、探偵小説、山岳小説など。たとえば、山本周五郎、藤沢周平、宮城谷昌光(中国の歴史物)、佐藤賢一(フランスの歴史物)、新田次郎(山岳小説)などは、ほとんど読んだ。一方、海外の探偵小説も愛読。最近では、マイクル・コナリーの著作をほとんど読んだし(「真鍮の評決」ほか)、昔をふり返ると、エラリー・クイーンのほぼ全著作を読んでいる。

小説以外では、歴史物(たとえば、塩野七生の「ローマ人の物語」)や生き方論(立花隆「青春漂流」、森本哲郎「生き方の研究」)、山に関するドキュメント(ジョン・クラカワー「空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか」)などもときどき読む。和歌(大岡信「詩歌遍歴」)や漢詩、それに絵画に関する本も。絵画鑑賞については別記「付・絵画鑑賞」参照。

本のほとんどは図書館で借りて読む。ただし、文庫本は買って読むことが多い。また、本は電車の中で読むか、喫茶店で読む。

本が読めるので、電車に乗るのは楽しみであり、読書に没頭して乗り過ごすこともたまにある。本を持たないで電車に乗ると、忘れ物をしたようで落ち着かない。

喫茶店も読書の場。最近は近所のパン屋さんによく行く。午後4時頃に出かけて、30分-1時間位、本を読む。このパン屋さん、おいしいパンを売っていて(1ヶ150-200円)、淹れたてのコーヒーが無料で飲める上に、総ガラス貼りの窓際でソファーに座って、ゆったりと本が読める。パンを買いに来る人は多いが、ソファーに座って休んで行く人はほとんどいない。コーヒーが脳を刺激するせいか、喫茶店は最も読書に集中できる場所である。

 読書は人生を豊かにし、楽しくする。本がなかったら、毎日の生活から大きな楽しみの一つが失われるであろう。それは自分が経験したことがない世界の一端を見せてくれる。この世には多様な人生があり、深い感動や大きな喜びがあり、悲しみや絶望があることを教えてくれるし、また、生きることの意味を考えさせてくれる。

 と言っても、私の読書の対象は時代物や探偵小説などの軽いものが多く、人生を深く考えさせるものはほとんどない。 

 読書が好きになったのは祖父のお陰だろうか。

 第2次大戦が終わった1945年は小学校1年生。川崎市高津に住んでいた私は祖父と一緒によく溝の口駅前の銭湯に出かけたが、駅周辺には沢山の屋台が並び、いろいろなものを売っていた。いわゆる「ヤミ市」だ。その中には「本を並べた屋台」もあり、祖父はそこで「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」などの講談本を買ってくれた。本の用紙はざらざらで粗末なものだったが、私はこれらの本に夢中になり、夜は布団に入ってからも読み続けた。家は借家。牛込・西五軒町(新宿)の家が戦災で全焼したために引っ越してきたのだが、6畳と4.5畳の二間に家族5人(祖父・妹・両親・私)の布団を敷くと、起きて本を読む所がなくて、布団に入って本を読んだのだ。お陰で目を悪くしたが、このことが私を読書好きにしてくれたように思う。

 そう言えば、祖父はラジオで、広沢虎造の浪曲「清水次郎長」や宝井馬琴の講談「曲垣平九郎」などを聞くのが好きだった。それが講談本につながったのかもしれない。

<最近、読んだ本>

  私が最近読んだものを掲げておく。

 「銀漢の賦」(葉室麟著)青年の頃からの親友3人、百姓と下級武士と家老の間の、藩政刷新、農民一揆などを背景とした交友の物語。「銀漢」とは天の川のこと。

「火城-幕末廻転の鬼才・佐野常民」(髙橋克彦著)幕末、世界に目を向け、日本を西洋諸国に対抗できる技術大国にするために、佐賀藩に西洋の最先端技術を導入し、藩独自で蒸気船・蒸気車を造ろうとした男の物語。技術者・からくり儀右衛門を京都から佐賀に呼んだことでも有名。日本赤十字の生みの親。

「利休にたずねよ」(山本兼一著・PHP文芸文庫・2010年10月発行)

 2009年の直木賞受賞作。利休は青年の頃、高麗王族出身の凛とした女性に恋をし、女性が持っていた「緑釉の香合」を一生、肌身離さず懐に入れていた。これを底流に置いて、利休の「茶道への思い」を秀吉との葛藤や妻・宗恩との交流などを交えながら描いたのが本書である。  

 文章の切れ味が良い。繊細でありながら歯切れのよい文節を追ううちに、思わず引き込まれてしまう。

 「利休の茶は室町風の華美な書院の茶とはもちろん、…冷え枯れの侘び茶ともちがって、詫びた風情のなかにも、艶めいたふくよかさ、豊潤さのある独自の茶の湯の世界をつくる…」「茶の湯の神髄は、山間の雪間に芽吹いた草の輝きにある」「ただ一椀の茶を、静寂のうちに喫することだけにこころを砕いてきた。この天地にいきてあることの至福が、一服の茶で味わえるようにと工夫をかさねて…」など、随所に茶道の深みが語られている。

  読んでいるうちに疑問が湧いた。著者は「何を」「利休にたずねよ」と言っているのであろうか。「茶道とは何か」ということなのか。それとも「緑釉の香合をなぜ肌身離さずに持っていたのか」なのか。あるいは「秀吉に対抗し、切腹を命じられても守ろうとしたものは何か」であろうか。いや、恐らく、そのすべてではないかと思われる。

 「冬の標(シルベ)」(乙川優三郎著・文春文庫・2013年5月発行・

 単行本・中央公論新社・2002年)

 「冬の標」は、江戸時代の末、武家出身の女性「明世」がその一生を懸けて絵を描く、その生き方を描いたものである。主人公の息使いが聞こえてくるような、繊細でみずみずしい文章がたいへん魅力的であり、引き込まれて一気に読みきった。

 この著者には絵画や蒔絵に情熱を注ぎ、一生を懸ける、そんな生き方を描いた小説がいくつかある。別に掲げる「麗しき果実」が主人公の生き方に加え、絵画・蒔絵の描き方やその鑑賞にも力点を置いたのに対し、この本では絵画はあくまでも脇役であり、主題は主人公の生き方に置かれている。

  「明世」は江戸時代の上級武士(上士)の娘。絵が好きで画塾に通う。この時代、武家の娘が絵を習うことは嫁入り前のお嬢様のお遊びであり、女子本来の務めは、結婚し夫と姑に仕え、子供を産み、家を守ることにあると考えられていた。「明世」は結婚をせずに絵を続けたいと熱望するが、世の中はそれを許さない。やむをえずに結婚。しかし、夫は1年で他界。「明世」は絵を描くことを生きがいにしながら、婚家と子供と姑を守り続ける。

 貧しい生活の中でも師に学び、師の絵筆の巧みな動きを見ながら思う。 「衝動が言葉にならない。空白の間が、最も充足されるときでもあった。無くなりかけた米を得るよりも、たしかに生きてゆける気がする。そういう瑞々(ミズミズ)しい力をくれるものが、絵のほかにあるだろうか。優れた絵に心を打たれる喜び、白紙と対峙するときめき、そこに何が生れてくるか知れない期待と不安……情熱のすべてをそそぎ込んでも惜しくはないと思う。」

 そして、同じ絵の道を志し、心が通じ合い、頼ることができる男(修理)と出会う。ただ、その幸せは一瞬にして終わり、男は幕末の動乱の中で暗殺されてしまうが、その絶望の中で彼女は絵筆を取り、毎日、男の顔を描き続ける。

「あとから思うと、男を描くことに狂っていた月日は、それ以上の充足をどうして得られるだろうかと思うほど無我の境地に近づいた日々でもあった。」「結局、その姿(修理)を思い川(地元の川)の堤に佇ませることで、彼女は男の内面を引き出すことに成功したのだった。」「そこには修理にふさわしい穏やかで透明な気配が生まれた。…(完成した男の肖像画を)その手で軸装すると、ありったけの情で男を包み込んだ気がした。」

 結局、「明世」は絵の修業ために息子の反対を押し切って、母とも分かれ、一人、江戸に旅立つ。

 旅立つ日、雪の枝に寄り添う2羽の鵜を見て思う。「(描きたい)そう思うのと、一切の雑念が消えるのが同時であった。構図を考えるまでもなく、二羽の鵜は枝を決め、そこに姿を定めて微動だにしない。対象を心の中にとらえて描こうとするとき、孤独は敵ではなかった。むしろ、ひとりの喜びに充たされてゆく。後先のことはどうでもよかった。」

 読み終わって、「好きなことに一生を懸ける、それを生きがいとすることの幸せ」、それが充分に伝わってきた。

 そんな一生を送れたらすばらしいであろう。いや、凡人にとっては、それほどおおげさでなくとも、何か好きなことを一つ持つだけでよい。それは人生を豊かにし、また、苦しいときには困難を乗り越える力を与えてくれる。もしかしたら、そんな楽しみが持てたことで、あの世に行くときに「私の一生はこれでよかった」という満足感に浸りながら旅立つことができるかもしれない。

 なお、書評に「乙川優三郎が好きな作家の第一に挙げるのは山本周五郎」とあったことを付記しておく。 

「麗しき花実」(乙川優三郎著・朝日新聞出版・2010年3月発行・朝日文庫・2013年5月発行)

 これも絵画・工芸を題材としたもの。蒔絵の制作に生涯を懸ける「理野」という江戸時代の女性が主人公である。実在の蒔絵師・原羊遊斎、画家・酒井抱一、鈴木其一なども登場する。また、蒔絵についてはカラー写真が掲載されており、本書を読みながら、蒔絵の鑑賞もできるようになっている。

 なお、最近、文庫本も発売されたが、これには続編「渓声」が収録される一方で、単行本にあった4頁にわたる蒔絵の口絵写真がない。

 今一度読んでみた。

 作者は、「理野」の、蒔絵に懸ける情熱や創作の苦心を描く中で、生き方への思いや男への恋も描く。一方、羊遊斉や弟子の光玉、胡民などの蒔絵のほか、抱一や基一の絵も登場させて、その美も語る。

 (蒔絵への思い)

古いものにもよさはある。光琳から学ぶのもそういうことでしょうし…」「(でも)どこかで伝統を切り離さなければ新しいものは生まれない」

「(蒔絵には)余分のものを削ぎ落としながら豊かに見える不思議があります、…」

「『この櫛、いくつくらいの人が挿すのかしら』、『そんなことは考えなくていい。櫛はほしい人が手にする。職人はいいものをつくるだけさ』。男はそう言ったが、(理野は)できるなら一人の女のために、その人にふさわしい櫛を造りたかった」

「『絵の中に心情を置いてもはじまらない』(という基一の言葉に)、彼女は一点では共感しながら反発した」

「先頭は番(ツガイ)の白鳥で、力強く舞いながら後続の群れを引き連れてゆく。…彼等の勇気と風さえ描けたら背景はいらない…」

 櫛に「狐の嫁入り」を蒔くが、その蒔絵がどうしても暗くて哀しいものになってしまう。その印象を変えようと工夫を重ね、「思い切って権門駕籠(カゴ)にも薄明かりを灯すことにした。中の花嫁は見えないものの、試しに窓の簾()と近くに金粉を蒔いてみると行列は一気に明るく和やかになった。…」

Img_5951(狐の嫁入り)

 「鮮やかな赤い花(椿)も闇の中では白より暗く見えます、蒔絵にもそういう深さがあっていい」

 「蒔くことが命の滴りであり、恐ろしい期待でもあった。加飾が鎮静して道具(櫛など)の命が見えてくるとき、それが独特の表情であるほど彼女の献身は報われた」

 その他、自分の作品に師匠・羊遊斉の銘を入れて世に出す「代作」の問題も登場する。

 (生き方への思い)

 「蒔絵があるから彼女の日々は色づくが、それだけの一生も味気ない気がする」。

 「大きな樅のある丘まできて、彼女は太い幹に身をもたせた。そうしてたまに寄り道をしては張りつめた気持ちを解してやる。閉じ込めてひとには見せない心細さを吐き出してみる。…気のせいか凍えた胸が和らいでゆく。…」、

 「語らいは傷つけ合う言葉をなくして、楽しい夜であった。…理野は浅はかな情熱から別の人を選んでしまったことに気づいた。いつも自然に近しい感情を抱いてきたのは、この人であった」(理野は恋人の基一と分かれ、故郷の松江に帰って一人で蒔絵を続ける決心をする)。

 (蒔絵の鑑賞)

 「目にした瞬間から引き寄せられるのはきりぎりすに本物の質感を感じるからで、夜の草むらに光を当てて見ているのかと錯覚する」(口絵にカラー写真あり)。

Img_5949

 (絵画の鑑賞)

 「見えてくるのは軽妙な明るさであり、伊勢物語(八橋の巻)の詩情も光琳の斬新さも霞んでしまう。…絵にしては何か不足している」(抱一筆・光琳風・杜若(カキツバタ)の金屏風を前にして)、

 「(右隻の)青楓の樹幹はなぜか毒々しい苔点に被われているが、青々とした葉の茂りは春らしく瑞々しい。…朱楓の左隻も鮮やかさは同じだが、…何といっても鮮明な色彩がこの屏風を生き生きとさせている…、それは基一そのものであった…」(抱一銘・基一代作の屏風を前にして)、

 「画面の半分は染めたような朝顔の花群であった。群青の花と緑青の葉がおおらかに渦巻く、鮮烈な色彩の群れであった。…一様に色の風を吹き出しているが、訴えてくるのはそれだけで作意も情緒も感じられない。(鮮烈な色彩だけ。まさにそれが基一の絵だった)」

Img_5997

 「強風に吹き立てられる葛や倒れそうな尾花…、青い葛の先端は吹き上がり…、草花の絵にここまで深く危うい世界を見るのははじめてだったので、理野は圧倒されて黙っていた」(光琳の風神雷神図の裏面に描かれた抱一真筆の夏草雨と秋草風の下絵を前にして)、

 注)文庫本には追録がある。

 江戸時代の蒔絵や絵画に対する作者の造詣は深い。それらに魅せられ、長い間、追い続けて、それを集大成したのが、この小説ではないかと思う。 

本書を読んで、江戸時代の蒔絵と、抱一や基一の絵が見たくなった。

 蒔絵については、インターネットで調べると「蒔絵博物館(makie-museum.com/ 高尾曜氏のホームページ。インターネットで作品と作者の略歴を紹介したもの。作品はカラー写真)」が見つかった。主に江戸時代の蒔絵師を紹介したもので、羊遊斉のほかに、小説に登場する昇龍斉光玉、中山胡民も入っている。

 絵については図書館で探すと、上記のものがすべて載った画集が見つかった。

 でも、画集の複製画では飽き足りない。更に、光玉や胡民の蒔絵や基一の絵の実物が見たくなった。展示する美術館や展覧会があれば是非行ってみたい。

 「奇蹟の画家」(後藤正治著・講談社文庫・2012年11月)

 前記の植村さんがすばらしい本を紹介してくれた。膨大な文庫本の一つであり、彼に教えてもらわなければ、一生、この本に出会うことはなかったであろう。 

これは一人の無名の画家・石井一男を追ったノンフィクションである。

 石井一男は1943年、神戸の生まれ。20歳代に絵を描いたことがあるが、その後40歳代後半まで絵を描いたことはない。定職に就くが、性に合わないと辞めてしまい、アルバイトをして過ごす。独身。狭い路地を入った棟割り住宅の2階に住む。画集を見たり、絵の展覧会に行ったり、クラシック音楽を聞いたり、読書をしたりしての毎日だった。

 それが45歳になって絵を描き始めた。「画家になりたいと思ったのではない。発表したいと思ったのでもない。ただ、絵を描きたいと思った。生きる証しとしての絵であった。素直に、無心に自分の内にあるものを見つめてそれを描ければいい」と。

 人柄は寡黙で、誠実。石井について後記の中西は「おごらず高ぶらず、謙虚で物静かななかにひっそりとあるなにか確かなもの―。その知覚はふと、自身に知らず知らずの間に付着するアカを洗い流し、洗浄してくれるようにも感じるのである」と言う。

 石井は初めての個展で得た収入の全額を、「亀井純子文化基金(若い芸術家のための基金)」に寄付することを申し出る。

 石井は心の内側から呼んでくれるものを描く。「下塗りの段階では、人物になるのかそれ以外のものかということもわからないんです……塗っていくうちになにか内側から呼んでくれるものを待っているといいますか……この絵の場合でいえば、黒地の中から白っぽい顔のようなものが浮かんできて……それをなぞっているうちに表情になってきて……」。Img_6087
 

  本書は石井を知る20人ほどの人達へのインタビューで構成されているが、最後に、そのうちの数人による石井の絵への評価を掲げておきたい。

 ○ 島田誠(神戸「ギャラリー島田」店主。個展を開き石井を初めて世に紹介)

 石井から「絵を見てもらい」と電話があり、持参した絵を見て息を呑んだ。

 「どれも三号くらいの婦人の顔を描いた小品だけど、孤独な魂が白い紙に丹念に塗り込められていった息遣いまで聞こえてきそうだ。どの作品もが、巧拙を超越したところでの純なもの、聖なるものに到達している」

○ 山口平明(大阪「天音堂」画廊の店主)

 「込められた精神性の深さ…。一枚を眺め、次の一枚へと移って行くのに時間がかかる…。すべてに画家自身が込められている」

 ○ 喜福武・加代夫妻(石井の絵のファン・夫は日経新聞出身)

 喜福武は胃癌が進行。最期の2週間、病室に石井の絵を持ち込み、眺めながら旅立った。後日、加代は自分のためにもう1枚、石井の絵を買う。「この1枚は自分の守り神にしよう」と。

 ○ 野上秀夫・京子夫妻(夫は神戸市職員)

 骨髄移植で入院する日を間近に控えた野上秀夫は妻と石井の展覧会を訪れる。

 「ほとんどが女神像で、花の絵もあった。一点、二点、三点……。野上の目は潤み、雫が溢れて止まらない。名状しがたい感情に襲われた。…とくに何か救いを求めて来たわけではないし、過剰な期待を抱いていたわけでもない。絵というものにかくも気持を揺さぶられるのは思いもしないことだった。『きれいとか美しいという観点ではなかったし、癒しでもなかった。…孤独、救い、祈り、優しさ……でしょうか。柔らかい感触のもの……それでいてなにか深いもの……』」…。野上はこの絵を購入し病室に飾った。

 ○ 中西宮子(神戸・教員、石井の絵のコレクター)

  阪神・淡路大震災のあと、「恋」というタイトルの石井の絵を購入。

 「艶のある黒を基調に、渦のような模様が点在し、下方から幾筋か紅蓮の炎が燃え立つ図…。恋―とは、石井にすればなんともはれやかなテーマである。強く燃え上がるような情念を描き込んだもの―。中西は引きつけられた。…震災の日々を潜り抜けていた彼女の内面が知らずと希求していた…」

(私も画集を購入) 

 石井の絵は文庫本の口絵にカラーで4頁にわたって掲載されているが、もっと実物に近づきたくなり、2013年5月23日、石井の初めての画集Ⅰ「絵の家」と画集Ⅲ「女神」(各々3150円)を「ギャラリー島田」に注文した。

 画集が届く。一枚一枚をじっくりと見てみた。でも「いい絵だ」という実感は湧いてこない。

 「?………」

 人によって「いい絵」の基準は違う。また、絵を鑑賞する能力にも違いがある。私は鑑賞力がまだまだ未熟のようだ。いつか、関東で石井一男の個展が開かれたら実物を見に行ってみよう。見方が変わってくるかもしれない。

 それと、この本を読んで知ったのは、無名の画家の中にも「いい絵」が隠れているということである。これからは、有名な画家の展覧会だけでなく、無名の画家の個展にも行ってみよう。自分にとっての「いい絵」に出会えることを楽しみにして。

 「小説フランス革命Ⅷ・共和政の樹立」(佐藤賢一著)

  12巻まである。3ヶ月ごとの発行。今、2013年春、Ⅸ巻を発行中。

 独特の語り口が特徴で、読みやすい。たとえば、民衆の蜂起を迎えて「『へへ、やってやがる、やってやがる』。ずんずん歩を進めながら、ダントンは満足そうに呟いた。」といった調子であり、漫画を読むように読めて、フランス革命の歴史を分かりやすく知ることができる。

 この巻は、反革命派の大虐殺、国民公会の開催、国王の処刑などが中心であり、ダントン、ロベスピエール、デムーラン、ルイ16世などが登場する。

 なお、この作家にはアレクサンドル・デュマ父子(父は「三銃士」、子は「椿姫」などの著者)を描いた3部作「黒い悪魔」「褐色の文豪」「象牙色の賢者」やガリアの王・ウェルキンゲトリクスとローマの英雄・カエサルの戦いを描いた「カエサルを撃て」などもあるが、これらもたいへん面白い。

 「小説フランス革命Ⅺ・徳の政治」(佐藤賢一著)

  全12巻のうち、11巻までを読んだ。Ⅺ巻を読んだのは2013年9月。これも面白かった。

 ロベスピエールは共和国の基礎をより強固にするために「徳の政治」を唱え、これを実現するには「恐怖」が必要として、対抗勢力のエベール派18人(過ぎた革命派)とデムーランを含むダントン派の14人プラス19人(足りない革命派)を断頭台に送った。この巻はその経緯を描いたものである。

 ロベスピエール、デムーラン、ダントンは友人同士。断頭台に送られるダントンはロベスピエールを非難しない。「革命がぶれなかったのはあいつのおかげだ」「(彼は)革命と同化した。革命そのものになった…」「(彼の人生は)少なくとも幸せじゃなかったろう。なにせ正しくいなければならなかったんだからな。…」という。

 革命はどう起こり、どう進んだか。私はフランス革命の経緯にはたいへん興味がある。

 巻末にこの巻の参考文献として約70冊(うち、洋書が半分)が掲げられているが、著者はそれらを読んだ上で「恐怖政治」の経緯やロベスピエールの心理を主に友人のダントンに語らせているが、面白く読めて、しかも革命の経緯が理解できた。

 「小説フランス革命Ⅻ・革命の終焉・完」(佐藤賢一著)

 「運命の人(1-4巻)」(山崎豊子著・文藝春秋)

 図書館でふと目に止まった。この著者の「大地の子」(終戦時、中国に残された日本人孤児の成長の物語)はNHKのテレビで見て、また「沈まぬ太陽」(日航ジャンボ機墜落事故のあと処理に係わった一人の日航職員を描いたもの)は職場の何人かと共同で買い回し読みをして、強く印象に残っているので、「この本はどんな内容だろう」と思って4巻を一度に借りることにした。

 読み始めると惹き込まれ、1-4巻を数日で(うち2巻は一日で)読んでしまった。こんなに夢中で本を読んだのは久しぶりである。

 1-3巻は、沖縄返還交渉(1974年に返還)にからみ起きた西山事件(別名、沖縄密約事件、外務省機密漏洩事件)を描く。毎日新聞政治部の西山太吉記者らが取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩したとして国家公務員法違反で有罪となった事件である。

 西山氏(本での仮名は弓成氏)のほかに、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳等の首相や外務省の高官が仮名で登場し、密約を巡っての記者の取材活動とその後の裁判の状況が描かれる。そして、裁判は「新聞記者が国民に真実を伝えようとする取材活動ははたしてどこまで許されるか」を巡って展開するが、政府側が「密約の有無」ではなく、「取材が高官の秘書との男女関係を利用して行われた点」を前面に出すという作戦を取り、結局、最高裁でも記者側の敗北となる。取材活動の実態、政府側の策謀などが描かれ、興味は尽きなかった

 第4巻は弓成が敗訴の絶望の中で妻子とも分かれて沖縄に移り住み、再生していく物語。弓成は、沖縄の戦中・戦後の歴史を現地の人達から聞き取り、これを書いて世に伝えていくことで新しい自分を再生していく。

 「娘巡礼記」(髙群(タカムラ)逸枝著・岩波文庫)

 著者は詩人、評論家、女性史の研究家。

 その著者が大正7年、24歳のときに、「人生をどう生きるか」「愛とはどうあるべきか」などを模索するために約半年間、四国八十八ヶ所巡礼の旅に出た。これはそのときの精神の遍歴と四国遍路の実態を描いた記録である。

 当時の遍路は現代と異なり、業病に罹ったり、商売の失敗で故郷にいられなくなったりした人達が数多く歩く所で、健康な若い娘が歩くのは珍しく、行く先々で好奇の目で見られたという。

 この本を読んだきっかけは、日本点字図書館の植村さんが「巡礼とは何か」を考えるために読み、私にも勧められたことにある。

 読んで感じるのは、サンチャゴ巡礼でも体験したが、現代では巡礼の主な目的が、一人で、あるいは家族や友人と一緒に「旅を楽しむ」ことに変わってしまったということである。もちろん、何らかの苦しみを解決するために、あるいは信仰を深めるために、あるいは家族の絆を深めるために、また自分を鍛えるためになどという要素も残ってはいるが、今は「旅を楽しむ」という観光的な要素が主体のように思われる。

 「生きづらい世を生きる-資本主義の深化が共同社会を壊した。まだ成長が必要か-」

 「一枚の絵から 日本編」(高畑勲著・岩波書店・2009年11月27日発行)

 この本は著者が感動した平安時代から現代までの日本の絵画30点を掲げて紹介したものである。

 著者はスタジオジブリを宮崎駿と共同で立ちあげた人、「アルプスの少女ハイジ」などの漫画映画の監督でもある。

○ 心惹かれた「小倉遊亀」の「自在観」

 絵の中で最も心を惹かれたのは、105歳で天寿を全うした「小倉遊亀(ユキ)」が描く「観自在」と題した観世音菩薩の像である。73歳の作。ふわっと浮き上がったところ、見慣れた荘厳な仏様とはひと味違った暖かな雰囲気が漂う。本には「この絵を見ると、思わず微笑がこぼれ、心が軽くなりますね。自由にのびのびと生きていいんだ、仏さんだって翔ぶんだもの、と元気が湧いてきます。…」とある。

 これまでは、自分が無に帰す死というものを想像すると何となく怖かった。でも、 あの世に行ったら、こんな観音様が待っていてくれると思うと、死ぬのが怖くなくなった。こんな絵を部屋に飾って、「仏さん、待っててね」と眺めながら死に臨めたらいいなと、ふと思った。

011(観自在)

012(観自在・部分)

010(菩薩・部分) 

○ この本、初心者にとって、とても良い絵画鑑賞の入門書である。私もこれで絵画の鑑賞力が少しは上がったように思う。

 著者は熱心に展覧会を巡り、多くの絵画を鑑賞してきた人。好きな絵は多い。絵画技術や絵画の歴史への理解が深い一方で、豊かな感受性を持っていて、絵の味わい方も深い。絵を存分に楽しんできた人と言えようか。自分も絵の鑑賞力がこれほどに深まったらすばらしいのだが。とても羨ましく思う。

 この本はそんな著者が豊富な知識を縦横に駆使して一枚一枚の絵を解説したものである。

 熊谷守一の「宵月」、「この澄みわたった絵に深々と湛えられている情感については多言を要しないだろう。晴れ渡った日が暮れて、ふとふり仰ぐと梢に冴え冴えと月が……。それをひとり見つづける宇宙的な浄福感。この絵を見ると、その感覚が居ながらにして味わえる。」

 香月泰男の「父と子」、「この世で親や子が幾度も幾度も無限に繰り返してきた情愛の仕草、これからも繰り返されるであろう仕草、それらが決して消え去ることのない人類の記憶として、ここに永遠に定着されているのだ、と言えば言い過ぎでしょうか。」

 というような文章を読みながら、絵の中に惹き込まれていった。

 また、この本のお陰で、雪舟の「秋冬山水図」にある中央の力強い垂直線、与謝蕪村「雲上仙人図」のユーモラスな童子、円山応挙「朝顔狗子図杉戸」のキャラクター化された可愛らしい子犬、渡辺崋山が愛した5歳の弟「五郎像」に描かれた「つらだましい」などを初めて鑑賞することができた。

 その他、ちょっと変わった絵だが、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」や北斎の「月見る虎図」も面白かった。

 私は絵のことはほとんど分からない。有名な画家の展覧会や「自分がいいなと思った絵」の展覧会をときどき見に行く程度である。ただ、画家が有名かとか、絵の値段が高いかなどには関係なく、「自分が良いと思ったものが、自分にとっては最も良い絵なのだ」とは思っている。そんな中でこの本を読み、「絵とは何か」の理解が少しは進んで、いいなと感じる絵の範囲がやや広がったように思う。

009(熊谷守一。本に載っていた絵を写真に撮ったので色がかなり違っている。すいません)

008(香月康男)

「一枚の絵から 海外編」(高畑勲著・岩波書店・2009年11月27日発行)

 前記の本が良かったので図書館で借りて読んでみた。この本の「まえがき」にもあるとおり、小品が対象だが、12世紀・北宋・徽宗皇帝の「桃鳩図」、ジョットの「ユダの接吻」、レンブラントの「机の前のティトゥス」、ベルト・モリゾの「砂遊び」、クレー「蛾の踊り」などは、それぞれに面白かった。特にクレーの抽象画「蛾の踊り」には惹かれるものがあった。一方、アンドレイ・ルブリョフの「聖三位一体」、セザンヌの「赤いチョッキの少年」、ホドラーの「木を伐る人」、マティスの「ダンス」などは、解説を読んでもその絵の良さがよく分からなかった。特にセザンヌは他にもいくつか絵をみたことがあるが、その良さが分からない。絵を見る私の力はたいへん未熟なようである。

 「草原の風(上・中・下)」(宮城谷昌光著・中央公論新社)

 この著者の中国の歴史物は大好き。これは後漢を興した光武帝の物語。

 「花鳥の夢」(山本兼一著・文芸春秋・2013年4月25日発行)

 安土桃山時代に活躍した狩野永徳の物語。有名な「洛中洛外図屏風」や「安土城障壁画」(のちに焼失)を描くときの永徳の気迫、構想力、工夫、それに製作過程での迷いなどが伝わってきて惹き込まれた(2014・3・6)。

「黎明に起つ」(伊東潤著・NHK出版・2013年10月25日発行)

 時代物で最近読んだ作家には、中村彰彦(「われに千里の思いあり」・加賀藩三代の歴史)、火坂雅志、山本一力などがあるが、これも時代小説の一つ。北条早雲(伊勢新九郎)の一生を描いたもの。

「下町ロケット」

「脊梁山脈」(乙川優三郎著・新潮社・2013年4月20日発行)

 この著者には、江戸時代の女性の絵師や蒔絵師を描いた「冬の標」、「麗しき果実」などの著作がある。心惹かれた一冊である。前掲。

 この本は著者には珍しい現代小説。「どんな芸術を取り上げているのか、どう取り上げているのか」に興味を惹かれて図書館で予約。数人待ちをして、やっと読むことができた。軍人だった主人公が終戦で帰国。木形子(コケシ)を作る木地師の歴史を奈良時代に遡って探ることに生きがいを見つける物語。二人の女性との濃やかな関係も描かれている。

 これまで読んだ本は主人公の芸に懸ける一途な思いを描いたものだが、この本はこけしという芸の歴史を探る物語。細やかでいて、なにか力強さを感じる筋立てには惹かれたが、「芸への一途な思い」を読みたかった私にはちょっと期待はずれだった。「こけし」の好きな人はきっと気にいると思うので、一読をお勧めする。

 なお、私は職場の秋田支店に勤務していた頃の昭和43年、秋田の山中にある木地師の家で「こけし」を買ったことがある。そこは小安峡温泉からかなり車で入ったところにあり、周りには全く人家のない一軒家。買ったのは「木地山・小椋久太郎」の銘がある、高さ60cmのもので、今も家に飾ってある。木地師の家の鴨居には「山で木を伐採することを許す」とする昔の天皇の古びた免状が掛かっていたが、この本に出てくる雄勝郡皆瀬村・羽後木地山の「小椋康造」(陰の主人公とも言える人)と同一人物ではないかと思っている。

「画家たちの原風景-日曜美術館が問いかけたもの」(堀尾真紀子著・清流出版・2012年11月15日発行)

 著者は染色家、美術関係のエッセイスト。NHKの「日曜美術館」を2年間担当。1987年、この著書で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。本書は担当した画家のうち、神田日勝、長谷川潔、芹沢けい介、池田遙邨、三岸好太郎と節子、齋藤義重についてのエッセイである。私が少しだけでも知っているのは芹沢けい介のみ。

○神田日勝 日勝は北海道の開拓農家。自然は厳しく、生活は貧しい。農作業が終わったあと、つきあげる熱気、自分の内面を形にあらわさずにはいられない衝動に動かされながら、夜中に絵を描く。対象は皮をはがれた牛やごみ箱、一面に古新聞のはられた室内など、身の回りのもの。それらを克明に描く。物の本質を見極めようとして。

○長谷川潔 銅板画家。1918年、27歳で渡欧。「マニエール・ノワール」というフランスの古い銅版技術を復活させ、それを使ってフランス有数の版画家となる。「誰にも見られない野の枯れ草…、(そこには)世にも不思議な旋律があり…、宇宙のこの玄妙かつ純粋な律動の発見…、(これを描く)」という。黒一色のカチッとした絵である。89歳で亡くなるまで、フランス人の妻の病弱を案じて、日本に帰ることはなかった。

○池田遥邨:遥邨は旅が好き。旅こそ創作を生む泉とする。町から村へ、旅の中で感動した風景を…茫茫と広がる野っ原や田んぼなどを絵にする。絵の端っこには小さな野の花や狐やカラスなどの小動物がぽつねんと描かれる。絵にはユーモアがあり、豊かな詩情がある。もちろん、それだけの人ではない。関東大震災のあと、被災地を1ヶ月歩きまわって描いた絵などもある。

 これらを書きながら考えた。一つの絵について語るとき、何を中心に語ればよいのであろうか。「華やかで美しい」とか、「詩情豊か」という、絵を見たときに感じたものだろうか。それだけでは絵は伝えられない。絵の様式とか、画家の人柄も伝えれば、その絵の理解に役立つ。ところで、著者の堀尾氏はこれらの何に目を向けて解説を試みているのだろうか。掘り下げようとすると、絵の世界は深い。

「冬のデナリ」(西前四郎著・福音館書店・1996年11月30日発行)-2015年4月記

 著者は登山家。これは1967年2月、外国の登山仲間7名と著者が冬のマッキンリー(別名、デナリ)の初登頂に挑戦し、死者1名(クレバスに転落)という犠牲を出しながら、3名が山頂に達した物語である。

 六つ星の山仲間、堀沢さんに勧められて読んだ。私も実際に登っているので(ただし夏だが)、全編445頁のうち6割を占める登山の場面は一気に読み切った。

 私が登ったのは登山適期の6月。山頂付近の最低気温は零下30度。それに白夜のため、真夜中でも明るい中で行動することができた。また、多くの登山者が登っており、いざというときには助けてもらえるという安心感もあった。

 それと比較すると、冬のデナリの厳しさは想像を絶する。頂上付近の気温は零下50度、風速はときに秒速50mにも達する。この風では人間は吹き飛ばされ、歩くことはできない。また、体感温度は風速1mで更に1度下がるので、防寒着を着ていても、強風に身を晒していれば凍え死ぬ。一方、日照時間は7時間と短い。ときには真っ暗な中、懐中電灯を頼りにクレバスのひそむ氷河の上を歩かねばならない。しかも、入山しているのは自分達の隊のみ。

 この隊で頂上にアタックしたのは3人。そして、登頂を果たしのは日没後。暗闇の中、デナリパスの下り口(これを下り切ればアタックキャンプに辿り着ける)までは下山できたが、猛烈な風に遭遇し、動けずに岩陰に小さな雪洞を掘って避難。その後、7日間、風が収まらずに雪洞で停滞。好運にも、他の登山隊が夏に残していった食料と燃料油(水を作るのに必要)を見つけることができて生き延び、風が収まった後、ひどい凍傷を負った身で何とかアッタクキャンプに辿り着いた。

(以下、本文)

「あのねえ、ジロー。三人とも生きているよ。…」、 ジローのやつれた顔はしばらく空白なままジムに向かいあっていた。それから小柄な体がとび上がった。「生きてるって? 生きてる。おーい、ジョージ!……」。

 感激の一瞬を読んで私も感動。

 冬のデナリの第2登は15年後の1982年。第4登は1984年の植村直己さん、しかし、下山中に行方不明となった。

 死を賭して山に登る意味は? 登頂から28年後、隊員の一人は言った。「僕が冬のデナリを誇らしく思うのは、ぼくらがあの途方もない冒険を楽しんでいたということだ。… 最後の一週間で露呈した自分の失策に気を取られて、(それ)を今まで忘れていたんだ」、「批判や非難に気を取られて、…仲間が冒険を楽しんだ(その)精神のすばらしさを忘れたらまちがいだぞ」。

「史記-武帝記(1-7巻)」(北方謙三著・角川春樹事務所・2012年3月18日に第7巻発行)-2015年6月記

 中国・漢の第七代皇帝「武帝」(孝武帝)の生涯を描いたもの。一般に偉人の伝記は事績が中心であり、その人物の人柄や心の動きを追ったものは少ないが、この本は武帝とその他の登場人物の心理描写を中心に描いている。そこに惹かれて、久しぶりに全巻を一気に読み切った。

 「史記」は、武帝(在位・前141年-前87年)の時代に生きた司馬遷が書いた中国史であり、2000年以上前に在位したと言われる伝説の初代皇帝・黄帝から武帝の時代までを記録したもので、全130巻と膨大である。内訳は君主や王朝の業績を表した「本紀」12巻、諸侯や名家の記録である「世家」30巻、それ以外の個人の伝記「列伝」70巻などであり、「本紀」の最終巻に「孝武本紀」(武帝が対象)が置かれ、また「列伝」には司馬遷自身の伝記「太史公自序」もある。

 著者はこの中の「孝武本紀」に書かれた事績の積み重ねの中から、登場人物の人柄と心の動きを推測し、それをかなり克明に描いている。たとえば、老いて死を迎えようとする武帝の揺れ動く思いなどである。

 (本文より)

「俺は以前、天の子は死なぬと思いこみ、いろいろ言ったと思う。(…それぐらいの気概が帝たるものに必要だ、という思いで言った。)」「俺はいなくなるのがこわかった…」「老いたのだ、…。人は生き、人は死ぬ。当たり前のことが、今ようやく、当たり前のことになってきている。」

「偉大で、同時に愚かな帝だった。人の偉大さや愚かさを、並みはずれて多く、持って生れてきてしまったのだ。」

 ほぼ生涯を共にした臣下・桑弘洋を評価して「おまえは、漢の臣ではなく、俺の臣だったのだ。」など。

 これまで北方謙三の本は読んだことがなかったが、これからは読んでみたい作家の一人になった。

「春風伝」(葉室麟著・新潮社・2013年2月20日発行)-2015年8月記

 明治維新前夜に長州藩に生きた高杉晋作を描いたもの。著者は歴史文学賞(2004年)、松本清張賞(2007年)、直木賞(2012年)などを受賞した、時代小説では当代一と評される作家である。

 吉田松陰に師事し、松陰死後は上海に留学して、世界全体を見渡す大局観を身に付けた晋作は、幕末の混乱を乗り切るには「草莽決起」以外にないと考えて、「奇兵隊の創設」を唱え、ついに藩内でそれを実現する。「幕府も大名もまともに攘夷を考えず、権勢を争おうとしております。これでは困難に立ち向かえませぬゆえ、草莽が決起することによって幕府と大名をともに打ち、(真の)攘夷を果たそうと存じます」というのが高杉の思い。「草莽」とは百姓、町人など平民のことである。

 その後、晋作は徳川幕府尊重に傾いた藩政を刷新するために「草莽」を率いて決起し、藩政府軍を破って刷新を実現する。

 広い視野と決断と実行力、これが高杉晋作の大きな魅力である。

 これまでこの作家の著書を10冊以上読んだが、心惹かれるものはなかった。心に残ったのは今回の本書のみその理由は「主人公」が高杉晋作であったことにあり、これを読んで、すごい男・高杉晋作の実像に少しはせまれたような気がした。

 なお、葉室麟は当代一の時代小説の書き手と言われているが、私が好きな山本周五郎には及ばないように思う。その理由は、後記の山本周五郎著「虚空遍歴」を読んでいただければ分かるであろう。山本周五郎は葉室麟以上に主人公に肉薄し、人物像を深く掘り下げているように感じる。

 「蜩(ヒグラシ)の記」(葉室麟著・祥伝社・2011年11月10日発行)-2015年9月記

 これは直木賞受賞作である。前記「春風伝」の感想の中で、「作家・葉室麟は山本周五郎には及ばない」と書いたが、日本の代表的な作家をそう評してよいのか、間違っていないかと思い返して、著者の代表作をあらためて読み返してみた。

 これは、死を前にしても泰然自若として日常を静かに生きる武士の物語である。主人公・戸田秋谷は3年後に切腹をする定めだが、いささかも心が乱れることはない。弱い人間が多い世の中では世に稀な清廉潔白の強い人と言えよう。

 本書の主題はその姿を描くことにあるが、それを、「なぜ切腹を命じられたか」という謎解きと「米の不作による百姓一揆に対し、主人公がどう対応していくか」という二つの流れの中で描いている。

 「切腹を待つという特異な流れの中で主人公を描く」中で、秋谷の世に稀な人柄が浮き彫りになるが、そのあたり(筋立ての上手さと主人公の描き方)が受賞の大きな理由ではないかと思う。

 でも私にとっては夢中になって読めるほどではなかった。

 人にはそれぞれ好みがある。私が夢中になって読める本は、「虚空遍歴」(後掲)のように命がけで生きる迫真の生き様が見事に描かれているもの、「麗しき果実」(前掲)のように情景描写や心理描写が上手くて、心を打つもの(たとえば、「大きな樅のある丘まできて、彼女は太い幹に身をもたせた。そうしてたまに寄り道をしては張りつめた気持ちを解してやる。閉じ込めてひとには見せない心細さを吐き出してみる。…気のせいか凍えた胸が和らいでゆく。…」といった心惹かれる文章がある)などである。その他では、未知の歴史を知ることができるもの、筋立てがよく、謎解きが面白く、思わず次がどう展開するかに惹かれる探偵もの、なども面白い。未知の歴史を知るという本では、塩野七生の「ローマ人の物語」、宮城谷昌光の「天空の城」「夏姫春秋」などの中国の歴史ものがある。また、数十年前には歴史の面白さに惹かれて、「徳川家康・27巻」(山岡壮八著)を一気に読んだこともある。

 広大で奥が深い読書の世界。その中で読んだ本はほんのわずか。そんな私だが、「蜩の記」は私の好みからはちょと外れていたように思う

「うたの歳時記・第5巻-恋のうた 人生のうた」(大岡信著)
                       2016年に読む。

 以下の4首は平安中期の歌人・和泉式部の作。 恋に人生をかけた情熱の人であるが、人生の深みを見つめる、はっとするような歌もある。この本で和泉式部という歌人を初めて知った。

・黒髪の 乱れも知らず 打伏せば 先づ掻き遣りし 人ぞ恋しき
(解説:「先づ掻き遣りし 人ぞ恋しき」は、「いとしげにこの黒髪を撫でてくれたあの人が恋しい」の意)

・あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの あふこともがな(百人一首)

・とことはに あはれあはれは 尽くすとも 心にかなうものか 命は(解説:「いとしい」という一言がほしいとあなたは言うが、かりにあわれを永久につくしてみても、限りある人間の身で、この心の無限の渇きをいやすことなどできるものでしょうか)

・もの思えば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる 魂(タマ)かとぞ見る

「額田女王(ヌカタノオオキミ)」(井上靖著)  2016年に読む。

 著者は「額田女王は天皇に仕える巫女であり、天智天皇とその弟・大海人皇子(のちの天武天皇)に愛された」と見て、この物語を描いた。

熟田津(ニギタヅ)に 船(フナ)乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(唐・新羅連合軍と戦うために<後の白村江の戦い>、朝廷軍が筑紫へ向かう途中、伊予の熟田津に立ち寄ったときに額田女王が詠った雄々しい出陣の歌) 

・あかねさす紫野行き(ユキ) 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る   

                        (額田女王)

「西行」(白州正子著) 2016年に読む。

 著者は伯爵家令嬢として明治43年に生れ、平成10年に88歳で没した。能や古寺、骨董等への造詣が深く、「能面」(15回読売文学賞)、「かくれ里(近江の古い寺社の巡礼記)」(24回読売文学賞)など、関連の著作が多い。吉田茂首相の側近・白州次郎氏はその夫。数年前、白州夫妻を主人公にしたドラマがNHKで放映されたが、二人の強烈な個性が今も印象に残っている。

 この本は西行の足跡をたどりながら、その人柄と生き方への思いを語ったもの。西行は俗名・佐藤義清(ノリキヨ)。鳥羽院を守護する北面の武士であったが、23歳のときに出家。原因は鳥羽天皇の中宮・待賢門院へのかなわぬ恋にあるとの説もあるが、不明。高野山、伊勢などで長く草庵を結び、吉野、四国、東北を廻る。73歳没。自選の歌集として「山家集」(1560首)あり。花の歌、恋の歌、亡き人を思う歌、贈答の歌(親しい人との歌のやりとり)、旅の歌など。

・伏見過ぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 日野まで行きて 駒試みん(武者であった西行の若き日の歌)

・春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり(著者の好きな歌という。はるかかなたの、いにしえの世界へと心が誘われる)

・吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき(在原業平も「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と詠んでいる)

・春ごとの 花に心を なぐさめて 六十路(ムソジ)あまりの 年を経にける

・願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃

・諸共に 我をも具して 散りね花 浮世をいとう 心ある身ぞ

・惑いきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり

・心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮(「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮(定家)」と共に「三夕(サンセキ)の歌の一つ」)

・嘆けとて 月やは物をおもはする かこち顔なる わがなみだかな(百人一首)

 

「定家 明月記私抄」(堀田善衛著・新潮社・1986年2月20日発行)-2017.3.13記

 著者には「ゴヤ」や「ミシェル・城館の人」(モンテーニュの生き方を書いたもの)などの著作があり、昔、興味深く読んだことがある。今回、図書館でこの本を見つけて堀田善衛は「藤原定家」のことも書いているんだと興味を惹かれて借りてきたものである。

 藤原定家は鎌倉初期の人。「新古今集」の撰者。父は俊成。兄弟姉妹は27人。
「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 嶺に別るゝ 横雲の空」
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮」
等の歌あり。

 この本は、多くの煩雑な公家世界の行事に追われて疲労困憊する一方で、官位が低いために貧しかった家計のやりくりに追われる定家の日常を、当時の世相(京の町は荒廃。強盗が横行。隣家も襲われた)を交えながら描いたものである。
 定家の嘆きは多い。たとえば、
貧乏(雨漏りがひどいとか、着るものがなくて祭り見物に行けない、傘がこわれて雨の日は外出できない、必要にせまられ尻尾のない安い馬を買ったなど)や病苦(脚気、腰痛、胃痛など)、官位昇進の遅さ、荘園からの地代の少なさ、宮仕えでの煩雑な行事の多さなど。

 この本で平安末期から鎌倉初期の世の現実を初めて知った。中学時代に授業でこんなことを教えてもらっていたら、和歌の読み方がもっと変わっていたかもしれない。

「山本五十六」・「米内光政」・「井上茂美」(阿川弘之著) 
                     2017年に読む。

 それぞれ、第2次世界大戦中の海軍大将の伝記。昔、読んだ。日米戦争の経緯が分かり、また3人の人物像が面白かったので、読み返してみたもの。
 この3人は海軍の中で、大臣や次官を務めて政治に関与し、日米開戦に反対し、戦時中は早期の終戦と講和を画策した軍人である。
 ただし、彼らは戦争が悲惨であるが故にこれに反対した訳ではなく、アメリカの経済が強大であり、負けることが明白であるが故に反対したのである。その点では、彼らに限界があった。


 

<過去に読んで印象に残っている本>

 書物の数は膨大。私は書物という大海の中のほんの少しを読んだにすぎないが、昔読んで今も印象に残っているものをいくつか挙げてみたい。 

「銀の匙」(中勘助著)

 印象に残っている本の第一に挙げたい。数十年前に読んだ。内容はほとんど忘れたが、みずみずしい文章だったこと、幼児の頃、外に出るときは伯母さんに背負われてその背にしがみついて出かけたこと、それらを読んで自分の幼い頃を思い出し、とても懐かしかったことなどを覚えている。

 今回、読み返してみた。

 主人公は幼児なのに、私には及びもつかない、たいへん豊かな感受性を持っている。

「私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のするはね釣瓶(深い井戸から水を汲み上げるもの)などがひどく気に入って」、「(大工さんが削る鉋屑を手にして)杉や檜の血の出そうなのをしゃぶれば舌や頬がひきしめられるような味がする。おが屑をふっくらと両手にすくってこぼすと指のまたのこそばゆいのもうれしい」、「(茶の木の)まるみをもった白い花弁がふっくらと黄色い蕊をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。それをすっぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖だった」など、見るもの、触るものに興味を示して深く愛しむ。そんな物語である。

 小学校低学年の頃、お国さんやお恵ちゃん(原文は草かんむりがある「恵」)と友達になる。「ある晩私はひじかけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。…『(月の光をあびて)こら、こんなにきれいにみえる』といってお恵ちゃんのまえへ腕を出した。『まあ』そういいながら恋人は袖をまくって『あたしだって』といってみせた。しなやかな腕が蝋石みたいにみえる」など、微笑ましい交流の様子も描かれる。

 この本は大正2年の著作。岩波文庫の初版は昭和10年。和辻哲郎が書いた解説には「この作品の価値を最初に認めたのは夏目漱石である」、「大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。…それはまさしく子供の体験を子供の体験としてこれほど真実に描きうる人は…見たことがない」とある。

 「虚空遍歴」(山本周五郎)

 数十年前に読み、主人公の中藤沖也という男の生き方にとても惹かれた。江戸時代、浄瑠璃という芸に魅せられて武士をやめ、新しいふし(沖也ぶし)を編み出すことに一生をかけた男の物語である。

 沖也は「およそ芸の世界に生きる者は、自分の感じたもの、苦しみや悲しみや悩みや、恋とか絶望、もちろんよろこびとかたのしさをも含めて、人間の本性に触れることがらをできるだけ正しく、できるだけ多くの人たちに訴えかけたい、ということが根本的な望みだろう」、「新しい本には新しい内容があり、その内容を活かすためには、浄瑠璃もその本に添って新しい<ふし>を作りだすのが当然だ」という信念を持ち、新しいふし作りに全身全霊を懸ける。

 一方、芝居役者の岩井半四郎は「芸事というのはもっとおおらかな、一口に云うと風流といった感じのものではないでしょうか……。私は、自分の芸をつくりあげるよりも、客がどう受取るかということをまず考えます…、こうやっては俗だと思っても…、要するにおおらかな、風流という気持でやっていく…」と言うのだが、沖也はそれを受け入れない。

 主人公は、ふしを完成させるために、新婚で身重の妻を江戸に置いて一人で旅に出る。貧しい農家に泊ったり、飲み屋を回って門付けをしたりして、庶民の生活を体感する中で、ふし付けにそれらを取り入れようとする。また、芝居が盛んな大阪や金沢を訪れ、新しいふし付けでの芝居に挑戦する。しかし、苦労に苦労を重ねても、納得できるふし回しにはなかなかたどり着けず、結局、それを完成させることなく、また、我が家に一度も帰ることなく、生まれた子供に会うこともなく、旅先で病を得て亡くなるのである。

 作者は、この生き方に肉付けをするために、おけい(男と女の関係を超越して沖也につくす女性)、濤石(絵を画くことに生涯を懸ける画家。納得できる絵が描けずに命を絶つ。周囲は彼の絵のすばらしさを認めていたのだが)、生田半二郎(友人)、盲目の芸人などの人物を登場させる。

 そして、それら登場人物に「そのもとにはおちつく場所はない、そのもとに限らず、人間の一生はみなそうだ、ここにいると思ってもじつはそこにいない、みんな自分のおちつく場所を捜しながら、一生遍歴をしてまわるだけだ」、「この道には師もなければ知己もない…、つきつめるところは自分一人なんだ、--誰の助力も、どんな支えも役には立たない、しんそこ自分ひとりなんだ、…」、「人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。それはたぶん、その人間が完成する瞬間だからだろう。…それぞれの善悪、美醜をひっくるめた一個の人間として完成するのだ。…」などと語らせる。

 これらの筋立てと登場人物の言葉からは、「生きるとは何か」、「芸を極めるとは何か」を考え抜き、それを何とか小説で描き出そうとする作者の必死さが伝わってくる。そして、読み進めるうちに、小説作りに真正面から取り組む作者のこの気迫が、まさに、中藤沖也の芸に懸ける気迫とぴたりと一致するのを感じる。

 読み終わって、自分の生き方を振り返ってみた。

 私には一生を一つのことにかけるという生き方への憧れがたいへん強い。そんな本を読んでいるとどんどん引き込まれていく。ただし、それは小説の世界のことだけであって、自分がどう生きるかを真剣につきつめたことは一度もない。

 30歳を過ぎてから現在まで世の中を良くする政治運動に関わってきた。また、50歳代になってからは「視覚障害の方と一緒に登山を楽しむ会」(六つ星山の会)に入り事務を支える役割を担ってきた。しかし、前者は浅い関わりであり、後者は「事務の中心になる人がいないので、やむを得ず引き受けた」という面が強く、それに一生をかけるといった強い信念はなかった。

 私が生き方の中心の置いてきたのは、結局、現世のいろいろな楽しみ(登山や旅行、孫との遊びなど)を追うことであり、自分の利益中心の生き方だったように思う。

 でも、後悔はしていない。 

 「Yの悲劇」(エラリー・クイーン)

 大学生の頃だろうか。小学同級の親友・柿島君に勧められて読んだ、初めての探偵小説である。以降、探偵小説に夢中になり、外国の探偵小説をいくつも読んだ。それら海外の探偵小説を読むきっかけになったのがこの本である。

 「クリスマス・カロル」(ディケンズ)

  高校生の頃に原文(英語)で読んだ。英語が分かるという楽しさもあって、とても面白かった記憶がある。

 「ゴヤ」・「ミシェル・城館の人」(堀田善衛)

「ゴヤ」。スペインという国について、ゴヤという画家について、著者は何と博識なことか。洞察力の鋭さ、深さ。ゴヤの栄達へのあくなき執念、その希望は現代であれば叶えられずに終わったであろう。動乱に時代がゴヤという人を変え、あの絵を作らせた。

「ミシェル・城館の人」。宗教戦争で明け暮れた16世紀の時代にも、世の中を冷静に見つめ、その本質をとらえて書き残した人がいた。モンテーニュである。現代の本質とは何か、自分はそれをつかむ努力をしているであろうか---と、思わず自分を振りかえってみた。

 「孤高の人」「栄光の岩壁」「銀嶺の人」(新田次郎)

 山岳小説は沢山読んだが、この3冊はとても面白かった。海外旅行に出るときに持ち出し再読している。

 「空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか」(ジョン・クラカワー著・文芸春秋出版・1997年10月10日発行)  

「草枕」「三四郎」「彼岸過迄」「行人」「こころ」(夏目漱石)

 30歳代の前半、転勤で4年間、秋田市内に住んだ。東京は毎日のように冬晴れが続いているのに、秋田の冬は吹雪の日が多く、休日が吹雪だと、外に出るのはたいへん。結局、家にいて本を読んだ。その時読んだのが夏目漱石であり、ほとんどの著作を読み切った。

 その後も漱石は何回か読み返している。2002年11月に読み返したときの感想文があるので、以下に記す。

『夏目漱石「行人」を読む。主人公の兄夫婦の、心の葛藤を主題としたものだが、それは別として、この文章には現代の小説にはない風味がある。泊った親戚の家での、そして、友人が入院した病院での、平凡な日常風景やそこでの心の動きがこまやかに描かれており、その中から明治の時代がほんのりと匂うのである。

 今の時代のあわただしさが思われる。あれもこれもと楽しみが多く、関心が次々と移ろう中、その分、人と人とのつきあいは薄くなり、生きていることへの思いも深まらない。明治の時代は平凡な日常を一つ一つ味わって生きていたのではないかと思う。(2002.11.23)』

 「北の海」(井上靖)

 マッキンリー登山には2冊の本を持っていった。「私の北壁」(今井通子)と「北の海」(井上靖)である。マッキンリーは真夏でも吹雪の日がかなりあり、そんな日は一日中テントの中で過ごさねばならない。そんなときに読むもので、単に退屈しのぎというだけでなく、面白くて、吹雪を忘れて夢中になれるような本を選んだ。

  「北の海」は柔道一筋のバンカラ学生の物語。戦前の金沢四高が出てくる。主人公の生き方は型破りで、豪快。同じテントの二人の仲間に遠慮をしながらも、思わずくすくすと笑ってしまい、夢中で読み終えた。

 「資本論」

 20歳代、就職したての頃だろうか。社会主義、共産主義に興味があって読んだものである。

  読んだのは行き帰りの電車の中。全巻を読み通したが、どれだけ理解できたかは疑問である。

 「科学的社会主義・上」(岡本博之監修・新日本出版社)

  内容は「科学的社会主義とは何か」「科学的社会主義の哲学」「経済学」の3課に分かれ、科学的社会主義を分かりやすく解説したものである。19世紀前半のサン・シモン、オーエン、フーリエの理想社会を目指す理論、ヘーゲルやフォイエルバッハの認識論や発展論、アダム・スミスやリカードの初期経済学、この三つの理論がマルクスとエンゲルスによって集大成されて科学的社会主義の理論が成立したという。弁証法や唯物論、史的唯物論といったものは、私にとって、それまで難解でよく分からなかったが、これで少し分かったような気がした。

 「青春漂流」(立花隆)

 「生き方の研究」(森本哲郎)

 「詩歌遍歴」(大岡信)

 「日本列島の誕生」(平朝彦)

 プレートテクトニクス論というものを初めて知った。地球の表面は常に動いている。海底や地表に裂け目があり、地球内部から高温のマグマ(溶岩)が噴出し、これに押されて海底と陸地が徐々に動いているというのである。昔、地球には一つの大陸しかなかったが、これが現在のように分裂したのも、また地震が起きるのも、これが原因なのだ。一つ、新しい新鮮な知識を得ることができた。

  「シベリア横断鉄道・赤い流星「ロシア号」の旅」(NHK取材班)

20数年前にハバロフスクからモムスクまでシベリア鉄道に乗ったが、そのとき、二人の女性車掌からこの本にサインをもらった。1988年5月4日、ロシア語で「ロシア号」「リュドミーラ」「マルガリータ」とある。ロシア文字でのサインは読みにくく、原文でそのサインを記すことができないのが残念。一つの車両に二人づつ乗っており、ティータイムにはいつもチャイ(紅茶)をサービスしてくれた。

 「ローマ人の物語」「海の都の物語」(塩野七生)

  「深川澪通り木戸番小屋」(北原亞以子)

  「ベルリン飛行司令」(佐々木譲)

 昔読んだ本で、今回、あらためてじっくりと読み返したものがいくつかある。これまで、こんなに時間をかけて本を読み返し、その感想を書いたという経験はない。読み返したあと、更に最初からページをめくって、気に入った箇所を選び出したりもした。こんな風に読み返してみるのも、なかなか良いものだ。

 孫の風ちゃん、爽太、リリーが読書好きになって、人生の楽しみの一つにしてほしいと切に願っている。

(付1・絵画鑑賞の楽しみ)

 ことしの年賀状に「 昨年は脚力がやや低下して、… 今後は(登山のウエイトは下げて)ウオーキングのほか、読書や絵の鑑賞をと思っています」と書いた。絵には興味を惹かれる。展覧会にもときどき行く。「いいな」と感じる絵にも幾つか出会った。青木大乗の野菜の図、小倉遊亀の紅梅・白梅の図などは買って手元に置きたかった。ミレイの「オフィーリア」(ロンドン・テート・ブリテン)、クリムトの「接吻」(ウイーン・オーストリア・ギャラリー)などは、見るために現地の美術館を訪れた。グレコ描く貴人の肖像画(マドリッド・プラド美術館)などには心惹かれた。最近訪れたのは版画家・川瀬巴水の回顧展(千葉市美術館)。

 絵を描くのも好き。ときどき描く。最近は絵に向ける時間がなくて、描いていないが、時間があれば描いてみたい。

002 (1964年に描く)

002_3 (槍ヶ岳・2000年)

009 (手賀沼・2011年)

 絵はまだよく分からない。ことしは絵の鑑賞を深めてみたい。絵の創作に命を懸けた画家もいるようだ。絵はそれほどに深い。「こんな楽しみを味わうことなく一生を終わるなんて、もったいない」との思いもある。

 最近は「画家を描いた小説」や「絵画の解説」の本に目を向け、いくつかを読んでいる。絵は目で見て鑑賞するものと言われているが、本の中で絵を鑑賞するのもなかなかよいもので、私には合った絵の鑑賞法だと思っている。もちろん、最後は本物の絵に会いたいが。

 なお、読んだ本は前記の「読書の楽しみ」に掲げた。

 

 (付2・音楽鑑賞の楽しみ)

 音楽の素養は全くないといえよう。クラシックについては、バレエの「白鳥の湖」を見に行ったり、家でベートーベンの「第五」や「第九」を聞いたぐらい。

 音楽を主に楽しんだのは、サンティアゴ巡礼や海外登山、シベリア鉄道などの旅先でのこと。巡礼宿の二段ベッドの中で、あるいは、吹雪で閉じ込められたマッキンリーのテントの中で、また、一日中、荒涼とした大陸を走るシベリア鉄道のデッキに立って景色を見ながら、・・・。とてもよかった。ときには涙があふれるほどだった。

 倍償千恵子、鮫島有美子の「若者たち」や「学生時代」を、列車内やアルベルゲのベッドで聞いていると、友情とか、恋についての青春時代の思い出が溢れてきて、疲れて乾いた心がみずみずしい感情に満たされた。「ふるさと」や「早春賦」もとてもよい。「ふるさと」はだれかさんと一緒に歌ってみたいとふと思う。また、「大黄河」(宗次郎)や「シルクロード」(キタロー)、「新世界紀行」(服部克久)を聞くと、地球の遥かかなたの、無人の原野をさまよう心地がして、自分が今どこにいるのかを忘れるほどだった。ショパンの「ノクターン」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」も大好き。クラシックはまったくの素人で、よく分からないが、この二つは折にふれて聞いてきた。また、美空ひばりも聞いた。ひばりとは生れが同年。どの歌も好きだ。死の1年前の、伝説のワンマンショー「不死鳥コンサート」を思い出す。そのDVDは何度も見たが、彼女の「死に臨んでも歌い続けようとする、人生にかける覚悟」がひしひしと感じられ、心が惹き込まれた。そういえば、今は亡き妹と二人で学生時代に浅草国際劇場に「ひばりのワンマンショー」を見に行ったっけ。「港町十三番地」・・・。

 これらは、初めの頃は録音テープと録音機を持参し、その後はCD数枚とCDプレーヤーを持参して聞いていたが、サンティアゴ巡礼の「北の道」では初めてiPod」に録音し持参した。これは手のひらに乗るほどに小型で軽く、しかも多くの曲が録音できて、過去のものと比べるととても利用しやすかった。

 

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サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)

<サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)>

(特記事項)

2014年11月、当ブログに(実施編)として「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼を掲載しました。合わせてお読みいただければ幸いです。 下線をクリックしてください。見ることができます。

(はじめに)

 4回目のサンティアゴ巡礼を計画。「スペインの海を見ながら、北の道(Camino del Norte)を歩くこと」が目的である。

 「北の道」はスペイン北部の海岸を Irun(イルン)からSebrayo、Gijon、Ribadeoを通ってサンテイアゴ大聖堂まで歩く817.5kmの巡礼路である。2012年の巡礼証明書発行総件数は19.7万人(発効要件は「大聖堂への最後の100kmを歩くこと」。自転車の場合は200km)。うち、 「フランス人の道」を歩いた人が13.6万人であるのに対し、「北の道」ほ1.3万人と少ない(「ポルトガル人の道」は2.6万人)。なお、この巡礼路沿いには「北の道」から途中で分かれ、Oviedo、Lugoを通ってサンテイアゴまで行く「Camino Primitivo」という道もある。

 行きたいと思う理由はいくつかある。

 ① 主要な巡礼路は12本あるが(別途「ポルトガル人の道」の記事で紹介したJohn Brierley著の本による)、このうち、メインの「フランス人の道」以外は、これを日本語で詳細に紹介した本やインターネットの紀行文がほとんど無くて、私が数年前にブログに書いた「ル・ピュイの道」と「ポルトガル人の道」が、今でも少しだが読まれており(最近の30日間で、ブログのこの項への訪問者数は「ル・ピュイの道」が約200人、「ポルトガル人の道」が約100人)、時折、「役に立った」というコメントをいただいている。いくつかを紹介しよう。

「スペイン・サンティアゴ巡礼の記録のサイト(ブログ)を読ませていただきました。大変有用な情報が沢山含まれていましたので、昨春、カミーノを歩く際に、ずいぶんと参考にさせていただきました。」(Hさん)

「この3月に歩く予定です。自分なりにいろいろ調べてきましたが、本当に役立つ情報が満載で、ありがたく拝読しています。」(Oさん)

「ルピュイルートについは、情報が少なく、貴日誌はとても参考になりました。」(Sさん)

「当初はサンジャンから出発する予定でしたが、貴方様のこのブログを今年の3月に読ませて頂き、ルピュイから歩くことを決意致しました。スペインの一か月とは違った意味でフランスの一か月は楽しく歩くことができました。特にLe Falzetのおばあさんの宿の食事は美味しかったです。」(Jさん)

「はじめまして。とても興味深く、楽しく拝読させていただきました。ずっとカミーノを歩きたい、歩きたいとの思いを温め気づくともう10年もたってしまいました。ハネムーンでカミーノを歩きたいと思っています。」(Tさん)

「2年前に友達と女子2人でカミーノを歩き(サリア〜サンティアゴという短い距離でしたが)是非今度は違う道程で、特に大好きなポルトガル〜サンティアゴ間を踏破したいと思っていたので、このブログに出会えたことは本当に幸運でした。」(Hさん

「田村さんのブログは、私にとって貴重なガイドブックです。…プリントして何度も読み返しております。」 (Kさん)

「また読み返しています。未知の土地への一人旅。躊躇する方が多いようですが、これを恐怖と感じてやめるか、おっしゃる通り、それを魅力と感じて楽しむかでしょうね。これがなければ、海外旅行なんて面白くないですよね。」(Cさん)など。 

 また、「読みいってしまいました!巡礼路お疲れ様です!感動しました… 来年わたしもいきます。巡礼路、今から資金つくりです!失礼ながらご質問ですが、…」(Mさん)というように、ご質問も幾つかいただいた。

「私のサンチャゴ巡礼の「師匠」と呼ばせてください。」(Hさん)と、冗談を言いながら、感想を書いてくれた方もいる。

 これらを見て、「別の巡礼路を歩いて、行く人の役に立つ記録を更に一つ、ブログに書き加えたい」と思うようになった。読んでくれる人がいること、役に立って喜ばれること、これは書く者にとってたいへん刺激になる。

  なお、私の旅行記が少しは読まれているのは、メインの「フランス人の道」以外は、これを日本語で詳細に紹介した本やインターネット上の紀行文がほとんど無いことにあるように思う。

 また、本やインターネットで見るサンティアゴ巡礼の記録のほとんどが日記形式であるのに対し、私は三つの巡礼路を比較しながら、道や宿についての巡礼路の特徴や観光地の見どころを一つにまとめて記載するほかに、泊った宿を具体的に写真によって紹介している(自分もそうだったが、初めて行かれる方にとって特に関心が強いのはこれらのこと思われるので)。私の記録が読まれているのは、そんな書き方にあるのかも……とも思っている

② ところで、実際に行けるかどうかにはいくつか問題がある。

 まず、今、妻が膝(ヒザ)を痛めて、なかなか治らず、これが来年まで続けば一人で長期の海外旅行には行きにくい。最近かなり良くなったようだが。

 また、巡礼はスペインが乾期に入り、しかも猛暑が避けられる6月が適期と思われるが、この時期は2014年も、日本語を学ぶために嫁のアンジェラと孫のリリーが来日するかもしれない。来日が決まれば家は空けられない。

 来年の秋に行くとか、再来年77歳になってから喜寿の記念に行くとかも考えられるが。

③ 行こうと思うと日常生活に張りが出てきて、心が活性化し、何事にも前向きになれる。また、行く準備として、週に1-2回は4-8時間のロング・ウオーキングや1500m前後の水泳を行い、体力維持にも心がけ、健康にも良い。

④ 年齢的に体力・脚力の衰えがあり、巡礼路を歩けるのは今年か来年までであろう。これまではなかったことだが、一日歩いた翌日は足の疲れが抜けない。また、足の親指と薬指の付け根がよく痛くなる。更に左膝の半月板が損傷。また、胃腸が弱いし(先日も胃カメラ検査)、悪玉コレステロールの数値も異常に高い。これだけ問題を抱えていると、いつ長距離歩行ができなくなるか分からない。このあと生きられるのはせいぜい10年か。「行っておけばよかった」と後悔はしたくない。

⑤ 4回の巡礼とマッキンリー登山の記録を1冊の本にまとめて、孫に残しておきたいと思っている。人生にはこんなに楽しいこともあるのだ。それは人生を前向きにし、また苦しくて落ち込むときにはそれを乗り切る力を与えてくれる。

 (準備に入る・2013年8月16日)

6月25日に来日した息子の嫁のアンジェラと孫のリリーが8月15日にNYに帰国してから2週間が経ち、時間的にも精神的にも余裕ができた。

 さあ、4回目のサンティアゴ巡礼の準備に入ろう。まずは体力作りだ。水泳とロング・ウオーキングの再開。水泳は週1回、50分、クロールで1500mを、ウオークはとりあえず、週1回、正味5時間、20kmを目指す。来年の本番までに、8時間で25-30kmを毎日続けて歩けるだけの脚力をつけておきたい。今は20kmでもきつい。歳をとって、体力、脚力が衰えたことが原因のようだ。3回目の巡礼では何とかこれらをクリアーしたのだが。

 (久しぶりに取手-成田を歩く・9月7日)

 久しぶりに取手(戸田井橋)-布佐-房総風土記の丘-成田山新勝寺-成田駅をロング・ウオーキング。5-10分程度の休憩を4-5回入れて6時間45分で歩いた。

 最近は4-5時間歩くと疲れてしまい、歩くのが嫌になっていたが、今回は最後の1時間もそれほど疲れずに歩けた。ただ、「足の調子が戻ってきた」と嬉しくて、つい調子に乗り、後半の数時間を休憩なしで歩いたために、右足の親指の付け根を痛めてしまった。もう歳だ。無理をすると足腰に今までに経験したことがないような問題が起こる。歩くときは調子に乗らないこと、油断しないことを心がけよう。

 (サンティアゴ巡礼に行く会を結成)

 8月の始め、Aさん、Mさん、宮本さんと私の4名が集まって新橋のスペイン料理店で会食をした。私はまだ行けるか未定であるが、来年、サンティアゴ巡礼に行く会の結成式だ。

 いずれも視覚障害者登山団体「六つ星山の会」の会員。宮本さんは全盲、赤石岳(4人で)や栂海新道(3人で)を縦走した仲間だ。Aさんは60歳代の女性、胃癌のため数年前に胃の全摘出手術を受けたが、今は元気一杯で登山を楽しみ、昨年はサンティアゴ巡礼やキリマンジャロ登山にも成功した方である。その前向きの姿勢はすばらしい。Mさんは六つ星の山行で仙塩尾根から塩見岳を越えたときにご一緒した、快活でたくましい山男。

 その後、晴眼・女性の I さんが加わった。

(サンテイアゴ友の会の写真展に応募・11月)

 「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会創立5周年記念写真展」(モンベル渋谷店にて。2013年11月20-26日)に「巡礼路の子供たち」と題した写真を出展。

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(「北の道」の巡礼に行く仲間5人と秩父札所18ヶ所を巡る・11月26-27日)

 巡礼路をほぼ「北の道」に決し、晩秋、晴天の秩父路を歩いた。

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(前方に武甲山)

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(六地蔵)

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(羊山公園)

(巡礼に行く仲間と取手駅-成田山を歩く・12月25日)

 Mさん、Iさんと3人でロング・ウオーキング。取手駅7時20分スタート。利根町「徳満寺」(江戸時代、利根川の水上交通で栄えたところ)、布佐、若草橋、房総風土記の丘などを通って成田山新勝寺に17時20分着。

 (脚力作り・秋のウオーキングと水泳)

 記憶にある範囲で記録しておこう(敬称略)。

 8月27日 取手-守谷往復・5時間。9月5日 北千住・水泳1000m(孫の風ちゃんと)。7日 取手戸田井-成田・6時間45分。8日 六つ星サポート講習会・相模嵐山。10日 高田馬場・水泳1500m。12日 北千住・水泳1000m(風ちゃんと)。14日 妙義山の中腹歩き(日渡、松本克彦、上手の各氏と)。18日 松戸-下総中山の法華経寺と東山魁夷記念館。19日 北千住・水泳500m(風ちゃんと)。21日 取手戸田井-下総松崎駅(風土記の丘一周)・7時間。23日 取手-柏・あけぼの山公園(あおぞら診療所歩こう会)・4時間。25日 高田馬場・水泳1500m。27日 取手・水泳1500m。28日 関東鉄道・水海道駅-一言主神社-菅生沼-小絹駅・4時間30分。10月2日 取手・水泳1500m。3日 北千住・水泳500m(風ちゃんと)。4日 取手・水泳1000m。9日 取手戸田井-下総松崎駅(安食の寺見物、風土記の丘一周)・7時間。14日 取手戸田井-小林駅-印旛沼-甚平渡し-成田ニュータウン・8時間15分。16日 北千住・水泳1000m(風ちゃんと)。17日 小絹駅-守谷市内-芽吹大橋-東武野田線の愛宕駅・5時間30分。21日 戸頭駅-東武野田線の野田駅・5時間30分。30日 戸頭駅-柏・花野井(吉田家住宅)-柏駅・4時間。31日 柏駅-増尾-柏駅・4時間。11月1日 南柏駅-松戸駅・3時間。2日 牛久沼散策(あおぞら診療所歩こう会)・4時間。7日 取手-藤代往復・4時間。8日 北千住・水泳500m(風ちゃんと)。東京ハイキング協会の東ハイ祭に六つ星の仲間24名と参加・4時間のウオーク(喜多見-世田谷・砧公園)。14日 北千住・水泳800m(風ちゃんと)。取手-運河駅(江戸川にも足を伸す)・6時間。24日 森林公園散策(六つ星・43名)。26-27日 秩父札所巡り(サンテイアゴに行く仲間5人と。2日で1-18番札所。30km。)

 (脚力作り・年末・年始のウオーキングと水泳)

 12月8日、六つ星・忘年山行・鐘撞堂山・羅漢山ほか(66名)。23日、取手・戸田井橋-成田山。25日、上記取手駅-成田山、10時間(前記)。

 2014年1月5日、妻と取手市営プール、水泳1500m。6日、友人の尾幡と昼食後、代々木公園-明治神宮-高田馬場を歩き、夕方、六つ星役員会へ。7日、宮本さん、上手さんと新江戸川公園、椿山荘等散策、14時-17時。日、妻と取手市営プール、水泳2000m。12日、川越散策10:00-15:00(六つ星)。13日、9:40、取手・戸田井橋スタート、成田山、16:00着。16日、水泳1000m(風ちゃんと)。20日、宮本さん、上手さんと新宿駅-明治神宮-渋谷-駒場公園-渋谷、12時-16時。22日、取手-新松戸、10時30分-16時。25日、あおぞら診療所「歩こう会」、浅草七福神、10-14時。26日、北鎌倉-江ノ島-藤沢(サンテイアゴに行く仲間5人と)、8時20分-16時。

006_2 (鎌倉-江ノ島ウオーク)

2014年2月)

 8日、大雪。翌日、雪かき。12日、ウオーキング・シューズ購入。17日、パリへの航空券(5/30成田発)購入。ウオークは三郷駅-葛西臨海公園駅(7時間強)ほか、4-5時間の歩きを10回ほど。地下足袋も試した。

(「北の道」の資料を集める)

1.インターネットを通じて「北の道」を歩いた記録を見つけた。

  http://blog.goo.ne.jp/yubon_2011/e/8517a1b5f5b8fad19a6018c6b9c7e54f

.「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の山本さんが2013年6-7月に「北の道」を歩いており、彼が書いた下記の記録を教えていただいた。山本さんは友の会の5周年記念写真展に私が応募した際にお世話になった方である。

 Camino de Santiago サンティアゴ巡礼路の記録 - Biglobe

  http://www7b.biglobe.ne.jp/~akutare/ 

「ピアモンテの道、フランス人の道、フィステーラの道、Via de laPlataCamino del Norte、北の道、銀の道及びCamino Sanabresを歩いた記録.」である。 

3.インターネットを通じて、書籍販売店「アマゾン」から「北の道」のスペイン語版・案内書を購入。3,395円。詳しい地図が掲載されているが、351ページで厚さ2cmと重いのが難点。ただし、地図は別冊で添付されているので、それだけを持参すれば軽くて済む。

 Guia del Camino Norte de Santiago para peregrinos / Guide to Santiago's Northern Route for Pilgrims  著者 Anton Pombo (2010/5/30) 

  もう一つは英語版。これも318頁と厚くて重い。2285円。なお、地図は各頁にあり、別冊での地図の添付はない。

The Northern Caminos: Norte, Primitivo and Ingles (Cicerone Pilgrim Route Guides) 著者 Dave WhitsonLaura Perazzoli (2013/4/30)

(ウオーキング・シューズを買うが、型の選択に失敗したようだ)

 2月12日、宮本さんと池袋で会い、西武百貨店でロング・ウオーク用の靴を買う。アシックス製、ミズノ製等いろいろと出してもらい、1時間ほど、説明を聞きながら試し履きをして、結局、これまでの巡礼で毎回履いていたアシックス製をやめ、アサヒ製の靴を購入。また、型も大きすぎると言われて、25.5から25.0に変更。

 しかし、この選択は失敗だった。靴を慣らすために、購入後10日間ほど、ほぼ毎日2-4時間位、この靴を履いて歩いてみたが、1時間も歩くと左足の薬指の付け根の筋肉が痛くなり、痛みを我慢して歩くととても疲れた。これでは長く歩くことはできない。この10年間、この部分がときどき痛んだが、これほどに痛んだことはない。歳のせいで足が弱ったこともあろうが、靴のせいでもあるようだ。5本指の靴下を履いた上で、指の下にガーゼや綿を入れたり、カットバンをはったりして歩いてみたが、痛みは収まらない。新しい靴は2.2万円と高かったが放棄せざるをえないようだ。

800kmを歩き通せるか-今回一番の問題は足裏の痛み。2014・2・24)

 行くに当たって問題となるのは、道が分かるか、宿が見つかるか、言葉が分かるか、シュラフや上着、下着、薬、通信機器等の持ち物をどうするかなどであるが、今回一番の問題は前記の「足裏の痛み」。

 新しい靴は放棄するとして今回はどんな靴を履いていくか。

 1月初め、「ポルトガルで使い、履き古したアシックス製の靴(25.5型)」を履いて、三郷駅-葛西臨海公園駅を時速4kmで7時間30分歩いたときは、最後の頃に左薬指の付け根がとても痛んだが、一方、12月末に時速3kmで10時間、ゆっくりと取手駅-成田駅を歩いたときはそれほど痛まなかった。前3回の巡礼ではそれほど傷まず、時折痛んだ時は、ガーゼを足裏に敷いたりして痛みを和らげ何とか歩き通すことができたが、今回は大丈夫だろうか。ゆっくり歩けば何とか持ちそうな感じもするが。

 まず、靴だが、上記の擦り切れた靴を履いていくのは一つの方法。あるいは同型の新しい靴を買おうか。その他、地下足袋なども試してみよう。

 一方、痛みが出ないように、中敷きを入れたり、足指に力を入れないように歩いたり、更に、巡礼者用の杖を利用するなども検討してみよう。また、整形外科やウオーキングの団体などに「痛みの原因と治す方法」も聞いてみよう。

 5月30日発の航空券は手配した。ここまで来たのだから、とにかく、「足裏対策」に集中して取り組んでみよう。と言って冷静な判断力を失わないこと。駄目なら行くのを止めればよい。行っても、気楽に楽しむこととし、全行程を歩き通すことには固執しないようにしよう。

(挑戦する気持は抑えて)

 海外登山でも、サンテイアゴ巡礼でも、これまでは「挑戦する気持」を胸に秘め、山頂を極めること、全コースを歩きぬくことを第一に置いて頑張ってきたが、今回は上記のように76歳で足が衰えたこともあり、場合によっては100km位は電車で行こうかと気楽に考えることにした。「挑戦する」より「楽しむ」ことを第一にと気持を切り替えたのである。「挑戦する気持」を二番に下げてサンテイアゴ巡礼に臨むのは初めてのことである。

(地下足袋で歩けば足は傷まない-靴と地下足袋を交互に履くこととしよう)

 (3月2日(日)、スポーツ障害相談へ)

 よく泳ぎに行く取手市スポーツセンターにて毎週・日曜9:00-12:00、30分間500円で、専門家の先生による「スポーツ障害相談」が行われている。案内には「現在、スポーツや運動のやりすぎで、肩、肘、腰、膝等の関節痛や筋肉痛で悩んでいる方、また、運動不足で腰や膝に負担がきている方が多く、それらの悩みを解消するためにスポーツ障害相談を開設しています。」とある。

  3月2日、予約をしてこの相談に出かけ、担当の大内先生から下記の貴重な助言を頂いた。

・使い古した右靴の裏の外側がすり減っている。右足裏の薬指の付け根の「痛みの原因」は、足裏への「体重のかけ方が右に偏っていること」にある。

・体重を足裏中央にかけるようにすれば治る。それには立ったままで、ボールか座布団を両膝で強くはさむというトレーニング(1回10秒を連続して3-5回)を毎日1回から数回、行うのがよい。最低3ヶ月行えば矯正できる。

・薬指内側が痛み始めた場合は、「SORUBO製の中敷き(ただし、中央やや前にクッションが横に入ったバンドエイドタイプ・パッチタイプ)」を使用するとよい。

・地下足袋は指が広がり足裏が痛みにくいが、逆に足腰を痛めやすい。要注意。踵とつま先用の地下足袋の中敷き(SORUBO製)があるので利用するとよい。

・最近は日本の靴メーカーは日本人に合った靴(指が広がるもの)の開発を進めている。アシックスは日本製。

  原因が分かった、治し方も分かった。ありがたい。このトレーニングを続けていこう。

(3月7日・佐原・香取ウオーク)

 JR成田線滑河駅に「サンテイアゴに行く仲間5人」が集合。8時45分スタート。利根川堤を佐原へ。佐原「道の駅」でお雑煮を食べた後、旧市内見物。更に香取神社を経てJR香取駅、17時着。019 (利根川堤)

033(佐原・旧市街)

039(香取神社)

(妻の膝痛を治すために)

・妻の膝痛については、一年間医者に通ってきたが、痛みが収まることはなく、完治するかも不明のままで時間が過ぎた。また、私も妻に同行し医者に行くことはしなかったので、現状の把握が充分でない。このまま長期間、留守にするのは心配。そこで、この一ヶ月間は、妻に同行し、膝痛を治す方法を一緒に追求してみた。

我が家の2階への階段に「手すり」を取り付けた。

・初めて妻に付き添い、かかりつけの病院へ。膝痛の原因と治し方を詳しく聞いたが、要領を得なかった。これまで1年通い、痛み止めの薬を飲むほか、マッサージを受けてきたのだが、このままでは治りそうもない。医者に聞くと、これまでの方法のはかに治す方法は見つからないとのこと。手術で治す可能性を聞いたが、その病院では手術は扱っていないので分からないとのこと。その場で医師に紹介状を書いてもらい、翌日、手術可能な別の病院へ。ここでは手術は可能の由。ただし、それは最後の手段とし、これまで撮っていなかったMIRも撮って、マッサージ等を続けながら、今しばらく様子を見ることとした。

・介護保険の認定を市役所に申請。マッサージを家で受けられるなど利点があるという。

・妻は、NHKテレビの健康番組の中で医者が「膝関節症を治すには、痛くならない程度の足の運動が大事。運動が治す手段の主役であり、薬はそれを側面から助けるもの」と語るのを見て、水中ウオークに積極的に取り組むようになった。4月12日、27日、5月5日、9日などに水中ウオークに同行。ウオーク直後は少し足が軽くなると言う。なお、妻は取手スポーツセンターの水中ウオーク教室にも申込みを行った(毎週土曜50分)。

(娘と初めてのロング・ウォーク)

 同居している長女と二人でロング・ウオーク。今まで二人だけでのウオークは経験なし。生まれて初めての経験である。

 彼女は小さい時から人との関係を上手に築くことができず、今もって友達が一人もいない。英検3級や運転免許の取得、アメリカのディズニーランド、スペイン、エジプト、トルコ等のツアー旅行への単独参加など、力はあるのだが、それらは一時的な楽しみにとどまり、今は趣味がほとんどない。外を散歩する位で、昼でもベットに寝転んでいることが多い。