2021年の日常

<2021年の日常>

〇 今年も介護と家事中心の生活

 妻の膝痛が進み歩行が困難になって久しいが、今年も、妻が在宅のときは、3度の食事の支度のほかに妻の歩行やトイレの介助などがあって、好きなことがあまりやれない状況が続きそう。特に海外旅行などの長期の休暇は取りにくい。また、同居の長女(食事作りや洗濯、それに妻の介護の一部を受け持っている。軽い精神障害あり)との付き合いもある。一方、83歳にもなって、私の気力、体力は減退傾向。ロングウオークに対して挑戦の気持を持ち続けられるのは、あと、3年か、5年か。今は東海道歩きに挑戦中。

 これまでを振り返れば、神経症で自信を喪失し、人前に出るのが怖くなっていつもおどおどしていた20歳代前半を経て、40歳頃から現在の83歳までは、その神経症を克服して、ほとんどが単独行で、登山と旅に熱中した40年だった。行ったのは、日本百名山、日本の北アルプス・南アルプスの全山縦走、キリマンジャロやマッキンリーなどの海外登山、一回約30日間を歩く4回のサンティアゴ巡礼(スペイン、フランス、ポルトガル)などである。これらの中で、行く前はいつも、「どんなところだろう」、「果たして完走できるだろうか」といったドキドキ感、ワクワク感を味わってきた。

 家族にも恵まれた。子供は二人、孫は4人。長男はアメリカの女性と結婚し、バージニアに住む。子供は二人。次女は都内に住み、やはり子供が二人。

 趣味にも家族にも恵まれたと言えようこれで人生、十分。今後は妻の介護と長女との付き合い中心の生活に力を注いで行こうと思う。

 でも、一方で、人間の欲には限りがない。これからも、まだ、やりたいことがかなりある。その第一はロングウオーク。海外ではサンチャゴ巡礼(主な道は12本。うち4本は歩いた)、国内では東京から京都までの旧東海道歩き(これまでに、沼津の先のJR「原」駅までは歩いた)である。

 83歳にもなって、「これで満足。今後は特別に何もしないで、悠々自適の生活を送ろうという生き方もありそうだが、足が動く間はこれらのロングウオークを追ってみたいという思いが強い。幸いなことに、妻は1週間おきに自宅と老人介護施設の間を往復しているので、妻が不在の一週間は自分が自由に使える時間となっている。

 人間とは不思議なもの。ロングウオークなんて、苦労の割には全くお金にならない。でも、なぜ歩くのか。「新しい景色を見ながら歩くのが大好き」としか言いようがないのだが

 そんな中で、体力維持には努めている。数日おきに近くのプールに行き、連続してクロールで500mを泳ぐ。そういえば、マッキンリーに登った58歳の頃は、1回、1500-2000m、ときには3000mを泳いでいたのだが。

 世の中のために、誰かの為に、全力投球中の方々がいる。それに比べたら自分だけの楽しみを追う私の生き方はとても小さく見えるのだが---。

〇 東海道を歩く ー 沼津の先へ。

 旧東海道歩きに挑戦中。これまでに日本橋から沼津までを歩き、3月3ー4日は、沼津から静岡を目指した。しかし、沼津から東海道線の「原」駅を越え「吉原宿」に入った地点で、足が痛くなり、足裏が地面をしっかりととらえることができなくなったので、今回はとりあえず引き返してきた。京都まで先は長い。まあ、のんびりとマイぺースで先を目指すこととしよう。下の写真は沼津を越えたあたりの駿河湾の景色。旧東海道からこの海岸線に行くには、東海道を外れて約10分。富士山と海岸線の眺めがすばらしい。写真の最後は道端で出会った「おそうじ小僧」。なんとも可愛いらしくて写真に収めた。

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〇東海道を金谷宿まで歩く

 4月22日、23日、金谷宿から大井川を渡って、島田宿から藤枝宿、更に静岡駅へと東海道を逆に歩いてきた。出発地点のJR金谷駅は南アルプスへの玄関口。若いころ何回か、東京駅から夜行列車に乗ってここまで来て、大井川鉄道に乗り換え、南アの聖岳-塩見岳-赤石岳-北岳などへの縦走を目指したことがあり、懐かし思い出の地である。今回は平地歩き。途中で足が痛くなり、結局、歩けたのは、府中(今の静岡駅周辺)-宇津ノ谷峠、金谷宿-島田宿(大井川を渡る)のみだった。計画した区間の半分ほどにしか歩けず、足が弱ったことを痛感。

〇尾幡君を訪問

 私には長く付き合ってきた友人が数人いる。小学校時代からの友人は、尾幡君、柿島君の二人であり、高校時代に家族で一間の間借り生活を始めてからは、その間借りした大家の息子の神山の金ちゃんと親しくなった。

 尾幡とは川崎市の高津小学校の同級生で、中学・高校も同じ。小学校の卒業生のほとんどは公立の高津中学に進学したが、私立に進学するものもいて、うち10人ほどが目黒にある私立・攻玉社中学に入学した。私と尾幡はその一人である。

 5月28日、東急田園都市線の二子新地駅の近くにある尾幡の家(川崎市諏訪)を久しぶりに訪問。これまでは、数ヶ月に一度、東京駅に近い地下鉄の大手町駅で待ち合せをして、地下街で昼食を取りながら話をすることが多かったのだが、数年前に彼が腰を痛めて外出が難しくなってからは、お見舞いを兼ねて彼の家を訪ねるようになった。

 

 

 

 

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2020年の日常

(2020の日常)

◎ 世の中は今、どこへ行こうとしているのだろう

 年末に旧職場の仲間10人程が東武野田線「おおたかの森」駅構内にある居酒屋に集まり忘年会を開いたが、話題は政治問題や社会問題に集中した。参加者は皆、80歳前後だが、今でも、広く社会に目を向け、それぞれが自分の見方や意見を持っており、それらを出しあっての議論だった。でも、私は日頃、家事や介護などの日常生活に忙しく、政治問題や社会問題を深く考えることがなくて、独自の見解を持っていなかったので、あまり意見を述べることが出来ずに、それらの聞き役に回ることに終始した。なお、敬服したのは、80歳を越えた今でも、沖縄の辺野古に出かけて軍事基地建設反対闘争に参加し、現地で座り込みを続けている人がいたことである。

 世の中の動きがどうなっているのかにも、目を向けていかなければ。

◎ めまい 

 一月の中旬、散歩中にめまいがして、ふらふらし、利根川の堤の斜面を登ることができなくなった。それが1時間ほど続く。休み休み、何とかバス停まで歩き、家に帰ったが、以前に経験した脳梗塞の前兆なのか、それとも数年に一度は経験してきためまいなのか、やや不安である。

 でも、一日で平常に戻った。数年に一度起きるめまいだったようだ。このめまい、時々起きる。10年ほど前、東大病院のめまい専門家で精密検査を受けたことがあるが、脳や耳鼻に異常はなく、良性のめまいと診断された。一日、寝ていれば治るので、あまり心配はしていない。

◎ 1月の読書

皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」(塩野七生著。新潮文庫)

 塩野七生の本はかなり読んだ。「ローマ人の物語」、「海の都の物語(ヴェネツィア共和国の一千年)」などの大作のほかに、「緋色のヴェネツィア・聖マルコ殺人事件」、「銀色のフィレンツェ・メディチ家殺人事件」などの小品(小説)も読んだ。筆者は過去の文献を多数読み込んでおり、人物や事象の分析は多面的であり、奥が深くて面白い。また、文章は平易で、読みやすい。

 皇帝フリードリッヒ二世は、塩野七生が「いつか書きたい」と念じ続けてきた中世の偉人である。1194年、シチリア王国の王女を母に、神聖ローマ帝国の皇帝を父として生まれ、イタリヤからドイツに及ぶ広大な領土を継承した人。封建諸侯が群雄割拠する中で、世界初の憲法とも言うべき文書を起草。それに基ずき法治と政教分離を行う近代国家の実現を目指した人である。

◎ カフェで見つけた「俳句集」 

 ときどき天王台駅近くのカフェに行くことがあるが、先日、その店のロビーに並んでいた雑誌の中に、2冊の「俳句集・いのちの五七五(第一集・第二集」を見つけた。著者は森本一己さん、安孫子市在住で、サラリーマン歴40年の方。40歳から20年間、座禅の修業をしたという(発行は「千葉日報社」)。心惹かれるものがあり、いくつか書きとってきたので、紹介したい。なお、この本を入手したくて出版社に電話を掛けたが、既に絶版で在庫はないとのこと。

1)「音楽の力 荒ぶる 心止む」・「一冊の 書に心を 奪われて」

 家事と妻の介護、それに精神障害の娘への気遣いの毎日。大好きな山や旅にも行けなくなって、心身ともに疲れ果て、いらいらすることが多くなった。そんなときに好きな音楽を聴くと救われる。前向きな気持になれる。例えば、NHKテレビ・ビックショー「古関裕而~青春・涙・哀愁~」(45年前のものの再放送)はとても良かった。また、先日は、DVD「パリに見いだされたピアニスト」を見て、ホッとした気持になった。これらを見ていると、乱れた心が鎮まる。

 本にも同じ力がある。昔、読んだ「虚空遍歴」(山本周五郎著)や、吹雪の日、マッキンリーのテントの中で読んだ「北の海」(井上靖著)などはそれであり、最近読んで引き付けられたのは、「蜜蜂と遠雷」(恩田隆著)、「皇帝フリードリッヒ2世の生涯」(塩野七生著)などである。

 日曜日のNHK・Eテレ「日曜美術館」でも、ときどき心奪われる番組が放映されることがある。「世界遺産法隆寺壁画・超絶模写に命を懸けた画家」(2020年4月12日放映)もその一つだ。法隆寺の壁画は昭和24年に火災に遭って損傷したが、この番組は、その壁画を模写し、復元する人達の、命を懸けた作業の様子を紹介したものである。テレビの前で、心を集中して見守ったが、この宝物を遠い将来にむけて残していこうとする人たちの熱意が伝わってきた。

 何か、好きなものに心を奪われているとき、そんな自分にふと気づくことがあるが、そんな一瞬は至福のときである。これからも、そのような経験をできるだけ味わっていきたいものである。

2)「花筏 乗りて彼岸へ 渡りたし」・「花は咲き 散りし後にも 花は咲き」

 82歳。私もいつか死ぬ。あと10年か。いや5年かも。そのときは、花筏に乗って行けたらいいなー。

3)その他

 「出会いこそ 人生彩る タピストリー」

 「わが思い 君の幸せ ただ願う」

 「無力なり 心一つも 抑えざり」

 「明日死ぬと 思わば命の 愛おしさ」

 「この国の 春夏秋冬 比ぶ無し」(全く、同感。日本の四季は本当に美しい)

 「一つ事 極めて人生 送りたし」 

 「安らぎは 貪り(ムサボリ)止めし 心にぞ」

 「観自在 見るものすべて 一如なり」

   観自在:すべての物事を自由自在に見ることができること。小倉遊亀に「観自在菩薩」の絵あり。

        一如:唯一絶対の真理。

 「つまりせば 「自分を生きる」に 落ち着けり」

 「夢ばかり 追いかけんより 為すがよし」

◎ 今、心掛けること。

 今、82歳。ある程度、体が動き、また、精神が前向きでいられるのは、あと3年か。すでに、体も、心も、その活動は低下傾向にある。そんな中で今、考えなければならないことは何か。二つあるようだ。

1)これからの3年をどう生きるか、それを考え、実践していくことが、今の第一の課題。ワクワクするような海外のロングウオーク、その5回目を目指すのか。南仏を出発点にサンジャン・ピエド・ポーまで、一人で歩きたいとの思いは強い。それとも、東海道の完歩か、日本一周の一人歩きか。今は、妻の介護と娘との付き合い、それに毎日の食事作りでほぼ手一杯。とりあえず、何とか、1回で10日間位の、外出できる時間を作りたいものだ。

 絵を描く趣味も深めてみたい。ある水準に達するには、毎日、追及しても、数年はかかるであろうが。

 多くの人が、誰かのために、何かをしようと務めているが、私は人の為に何かをやる毎日を抜け出して、これからは、自分の楽しみを中心に置いて、追ってみたいと思っている。

2)我々・両親が亡くなった後、弱精神障害の娘・優子は一人でどう生きていけばよいのか、そのことを考えて、今からいろいろ調べ、現地も見て、手立てを講じておく必要がある。優子の一人住まいは可能か、その場合、どこに住むのか施設に入るとすれば、どこがよいのか。次女が住む足立区に、適切な施設はないだろうか。優子が気にいるような施設はあるか、いろいろ調べること。すぐにでも着手しよう。娘は今、52歳。人生80年とすれば、彼女の余生はまだ、30年位はあるだろう。

◎ 7月3日(金)、娘・優子が倒れて、救急車で運ばれた。その後、7月8日(水)に入院。

 7月3日、娘がトイレでうつぶせに倒れ、動けなくなり、救急車を呼んだ。近所の「協同病院」へ。骨折はしていなかったが、足がなえて、力が入らなくなったことが原因のようだ。病院で点滴を2本受ける。「トイレで倒れ、2時間ももがいていていたことにより、熱中症になったため」との診断。とりあえず、帰宅。しかし、歩行困難が続く。7月6日(月)、雨の中、精密検査を受けるため、再度、知人の車で協同病院へ。原因がはっきりしないので、精神内科と整形外科に受信を申し込んだが、受付で精神内科は不要と判断され、整形外科のみを受信することに。長時間待たされ、やっと受診したが、医者は車椅子に乗った娘を数秒見ただけで、娘を歩かせて歩行困難の症状を見ることはせず、また、精密検査もせずに、「問題なし。すぐに治る」との判定を下して、早々に部屋から出されてしまった。

 やむをえず、帰宅したが、依然として娘の歩行困難が続く。手を引いてやれば、1cmきざみでゆっくりと歩くことはできるのだが、支えていないとたおれそうになる。また、トイレに行ったり、食事をするために寝室と居間を往復したりするには、かなりの時間を要する。

 困った。どうしたらよいのか。別の病院に行こうと思うが、どこがよいか。7月8日、知人に相談。知人の車で彼がいつも利用している東取手病院へ。血液採取、CTスキャン等の精密検査を受ける。医師は、娘が通う柏市の精神病院とも連絡を取り、歩行困難の原因は最終的に「娘が常時服用している気持を前向きにするための薬の副作用により、足の筋肉が徐々に壊れてきたこと」にあると判定。同病院に入院して治療を受けることになった。あちこちと飛び回ったが、やっと一安心というところである。

 なお、知人の高橋さんには、彼の車に乗せてもらったり、入院用具の購入に付き合ってもらったりして、大変お世話になった。

 7月9日、担当医から「壊れた足の筋肉を治療し、歩けるようにリハビリをやって、全治、10日間」との説明を受けて、ホッと一安心。心の重荷がストンと取れたような感じである。(その後、娘は正常に戻り、今は普通の生活を送っている)

◎11月、旧東海道ウオークを本格的に開始

 妻が膝痛でほとんど動けなくなってから1年は経っただろうか。その間、妻の介護のほかに、3度の食事作りなどの家事もあり、あまり、自分の時間がとれない日が続いている。

 そんな中で、今回、妻がショートステイ(7日間)に行っている間を利用して、何回かロングウオークを試みた。

 一つは利根川の堤を成田へ向けてのウオーク、もう一つは保土ヶ谷からの東海道ウオークである。前者はこれまで何度も歩いたもの。一方、後者は東海道を本格的に歩き通すことを目的として始めたものである。昨年、中仙道をほぼ歩ききったので、今度は東海道を歩くことにした。日本橋-保土ヶ谷間はすでに何度かに分けて歩いているので、今回の出発点は「保土ヶ谷」。

1)11月11日・保土ヶ谷-藤沢

 早朝に家を出て、電車で保土ヶ谷まで行き、8時30分に歩き始めた。商店街を抜け、国道1号線沿いを歩く。権田坂からはアップダウンの連続。このあたりの旧東海道は、平坦な道を延々と歩くものだと思っていたが、違っていた。坂が多かった。最初は権田坂(年初めの大学駅伝で有名。ただし、そのコースは坂の脇を通るようだ)。これを越えたあと、更にいくつかのアップダウンが続く。晴天、坂の上では真っ白に雪を頂く富士山が望めた。その右に丹沢の山々。景色を鑑賞しながら近所のおじさんと立ち話。昼食は戸塚の駅ビルでとる。午後はまず、「大阪」の登り。「吹上」からは下り。遊行寺坂を下り、藤沢駅に着いたのは4時30分。休憩を除けば、かなりアップダウンがある6時間ほどの歩程だった。

 この日のウオークで、歩くことへの自信をやや取り戻した。昼、戸塚に着いたときは、「きょうはここまでで、歩くのはやめようか」と思うほどに疲れを感じたが、1時間の休憩を取ると、また歩く意欲が回復してきた。「途中、ある程度の休憩を取れば、また気力は回復する」のだ。それを実感し、更に藤沢まで歩いた。最近は、歳も83に近く、ロングウオークはもう無理かなと自信を失いかけていたが、こんな経験をして、やや、自信を回復。

 東海道を京都まで、何回かに分け、数十日をかけて、歩いてみようと思い始めている。

 日数をかけて、一つの目標を追うようなことを始めると、何か元気が出てきて、気持が前向きになる。

2)11月25日・藤沢-平塚

 歩き始めは8時30分。国道1号線を延々と歩く。町中を行く、変化のない平坦な道が続き、全く面白味なし。しかも、10時頃から雨。天気予報が「曇り」だったので、傘、カッパなどを用意してこなかった。ズブ濡れで、歩き続ける。下着まで濡れ始めた。山に行くときはカッパを必ず用意するのに、街歩きだったので、油断したのだ。幸いにして、午後になると天気は急回復。青空が広がり、濡れた服は徐々に乾いていった。途中、昼食休憩。4時30分、平塚駅着。

3)12月10日・三島-沼津

 常磐線取手駅発は午前6時11分。普通電車を乗り継いで三島駅に着き、歩き始めたのは10時過ぎ。まずは三島大社へ。透明な湧き水と水中の藻が豊か。1時間ほど過ごして、旧東海道に入る。本町-広小路と町中を真直ぐに進み、三島大社から1時間弱で1号国道を渡ったが、ここで道に迷った。旧東海道は国道沿いから、どれかの横道に入るのだが、手元の地図が大雑把なほかに、道標がないので、その横道がどれか、全く分からない。1時間近く、行ったり来たり、横道に入ったりして歩き回ったが、見つからなかった。分からないということは精神的にも疲れる。レストランで昼食を取って、一休み。でも、歩きすぎたせいか、全然、足の疲れが取れない。今までになかったこと。困った。やむをえず、足がしっかりと踏みしめられないままに、沼津の方向に、ややふらつきながら歩き始めた。やっとのことで、沼津駅へ。こんなに疲れたのははじめてのこと。普通に歩けば、5.8kmで、1時間30分の歩程だったが、3倍の4時間30分を要したことになる。冷静になって、東海道を通らなくても、沼津まで歩いていけばよいのだと割り切れば簡単に行けたのにと反省。これからは、低下してきた脚力に応じた計画が必要だ。

 沼津以降をどうしようか。取手からは遠くなったので、2泊3日などの連泊で行くのがよさそう。長く家を留守にして行けるようなチャンスが来たら、この先も歩いてみたいと思う。

◎年末に10日ほど、入院

 12月21日、私は風邪をこじらせて「東取手病院」に入院。12月28日、完治して退院。この間、妻は老人ホームの「水彩館」に入所し、12月30日、夕方、私がタクシーで迎えに行き、家に帰ってきた。

 12月30日は、妻を迎えに行く前に、毎年参拝に行く早稲田の穴八幡様にお参りし、大晦日に我が家の柱に張るお札を買ってきた。

 年が明けた元旦は、北千住の次女が二人の子供(中三と高二)を連れてがやってきて、6人でお雑煮を食べる。2日-4日は、妻と長女と三人で過ごす。5日に、妻は老人ホームに戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年の日常

(2019年の日常)

 

◎ お正月

・昨年末の10日間は、これまでに経験したことがないほどに気ぜわしかった。毎年恒例の年賀状作りやお歳暮の発送、部屋の大掃除に加えて、お節料理の準備など、年末に主婦が行う家事も含めて、すべてを一人でこなしたためだ。もちろん、3食の食事作りや妻の病院への付添いも。

 大晦日の夜、すべてが終わってホッとしたのは午後9時頃である。妻と娘は紅白歌合戦に興味がなくて早く寝てしまい、私は部屋に一人ぼっち。大晦日の夜を居間で、たった一人で過ごすのは初めてのことだ。

 私も紅白歌合戦には興味がなく、テレビを消して、数回分の「朝日新聞・俳壇・歌壇」から気に入った歌を選びブログに記載するという仕事をした後で、除夜の鐘を聞きながら、高田馬場・穴八幡宮のお札(商売繁盛を祈るもの。戦前の我が家は飯田橋で、ボール箱を作る小さな商店を開いていた)を柱に貼って眠りについた。このお札張りは、戦前の祖父の時代から続く、田村家の男子が毎年大晦日に行う行事である。

元旦は朝から、北千住の娘夫婦が孫2人とやってきた。これも、毎年、恒例のこと。まずは娘夫婦で布団干しなどの大掃除。それから、7人全員でお雑煮を作って食べ、孫にお年玉をあげ、前日に用意しておいたカニ、エビ等のご馳走も食べた。にぎやかなお正月。夕方に、娘たちは帰った。やや、忙しかった一日が終わる

 2日は一日、家で過ごす。3日は妻と車椅子で近所のレストランへ。北風、寒し。4日も妻と車椅子で利根川堤を散策。そのあと、駅前でそばを食べ、白山商店街の洋服店「しまむら」に寄って帰宅。この日は久しぶりに無風快晴の一日だった。5日も家で過ごす。6日は娘と市内の日帰り温泉へ。

・正月は一日位、高尾山に行くか、成田山まで7-8時間ほど歩いてみたいと思っていたが、結局、実現しないで過ぎた。行きたいなー。

・あと、何年生きられるだろうか。人の世は広くて奥が深い。美しいもの、感動するものも多い。あの世に行く前に、そんな世界をもう少し見ていきたいものだ。

 長くない人生。今後、元気でいられるのはせいぜい5年位か。今年は、妻の介護中心の生活となり、そんな日常に埋没しそうだが、そんな中で、いかに前向きに生きるかが問われている。

 

◎ 私の趣味を振り返る(絵と音楽と写真)。 

 40歳の頃から40年間、山と旅を楽しんできたが、妻の介護が始まったことと体力・脚力の低下があって、最近は、それが難しくなってきた。これからは何を楽しみにして過ごすか? 

 そんな意味で、以下に山と旅以外の、これまでの趣味を振り返ってみたい。

 私は、絵(描くことや鑑賞すること)も、音楽(鑑賞すること)も、写真(撮ること)も、初心者。読書も、時代物や探偵物の乱読で、深く追求した分野はない。今年は、妻の介護があって家にいることが増えるので、意識的にこれらの趣味にもう少し時間を割いて、楽しみを深めてみようかと思う。 

 

(絵画)

 絵には興味を惹かれる。展覧会にもときどきは行く。「いいな」と感じる絵にも幾つか出会った。青木大乗の野菜の図、小倉遊亀の紅梅・白梅の図などは買って手元に置いておきたいと心から感じた絵である。ミレイの「オフィーリア」(ロンドン・テート・ブリテン)、クリムトの「接吻」(ウイーン・オーストリア・ギャラリー)などは、見るために現地の美術館を訪れた。グレコ描く貴人の肖像画(マドリッド・プラド美術館)にも心惹かれた。最近、訪れたのは版画家・川瀬巴水の回顧展(千葉市美術館)。その後、川瀬巴水と吉田博、井上安治、小原古邨の版画集を買った。

 絵を描くのも好き。ときどき描く。最近は絵にさける時間がなくて、描いてはいないが、時間があれば描きたいものだ。 

002 (1964年に描く)

002_3 (槍ヶ岳・2000年)

009 (手賀沼・2011年)

絵はまだよく分からない。ことしはまず、絵の鑑賞を深めてみたい。絵の創作に命を懸けた画家もいる。絵はそれほどに奥が深い。「こんな楽しみを味わうことなく一生を終わるなんて、もったいない」との思いもある。

 最近、「画家を描いた小説」や「絵画の解説」の本にも目を向け、いくつか読んだ絵は目で見て鑑賞するものと言われているが、本の中で絵を鑑賞するのもなかなかよいものであり、読書好きの私には合った絵の鑑賞法だと思っている。もちろん、本の中だけでなく、本物の絵にも会いたいが。

 

(音楽鑑賞の楽しみ)

 音楽の素養は全くないといえよう。クラシックについては、バレエの「白鳥の湖」を見に行ったり、家でベートーベンの「第五」や「第九」を聞いたぐらい。

 楽しんでいるのは主に軽音楽。サンティアゴ巡礼や海外登山、シベリア鉄道などの旅先にCDなどを持参して聞いた。巡礼宿の二段ベッドの中で、あるいは、吹雪で閉じ込められたマッキンリーのテントの中で、また、一日中、荒涼とした大陸を走るシベリア鉄道のデッキに立って景色を見ながら、・・・。そんな雰囲気の中で聞く音楽は心に響いた。ときには涙があふれるほどに。

 倍償千恵子、鮫島有美子の「若者たち」や「学生時代」を、列車内やアルベルゲのベッドで聞いていると、友情や恋についての青春時代の思い出が溢れてきて、歩き疲れて乾いた心が、みずみずしい感情に満たされた。「ふるさと」や「早春賦」も、とてもよい。「ふるさと」は昔、だれかさんと一緒に歌ってみたいとふと思ったこともある。また、「大黄河」(宗次郎)や「シルクロード」(喜多郎)、「新世界紀行」(服部克久)を聞くと、地球の遥かかなたの、無人の荒野をさまよい歩く心地がして、自分が今どこにいるのかを忘れるほどだった。

ショパンの「ノクターン」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」も大好き。クラシックはまったくの素人で、よく分からないが、この二つは折にふれて聞いてきた。

また、美空ひばりも聞いた。ひばりとは生れが同年。どの歌も好きだ。死の1年前の、伝説のワンマンショー「不死鳥コンサート」を思い出す。そのDVDは何度も見たが、彼女の「死に臨んでも歌い続けようとする、歌に人生をかける覚悟」がひしひしと感じられ、心が惹き込まれた。そういえば、今は亡き妹と二人で学生時代に浅草国際劇場に「ひばりのワンマンショー」を見に行ったっけ。そこで聞いた「港町十三番地」を思い出す。

 これらは、初めの頃は録音テープと録音機を持参し、その後はCD数枚とCDプレーヤーを持参して聞いたが、最近出かけたサンティアゴ巡礼の「北の道」では、初めて「iPod」に録音をし、それを持参して聞いた。これは手のひらに乗るほどに小型で軽く、しかも多くの曲が録音できて、過去のものと比べるととても利用しやすかった。録音は息子に頼んだ。

 

 (読書)

 まだ、職場に勤めていた頃にブログに書いた文章がある。

 

  私の好きな小説は時代物や歴史物、探偵小説、山岳小説など。たとえば、山本周五郎、藤沢周平、宮城谷昌光(中国の歴史物が中心)、佐藤賢一(フランスの歴史物が中心)、新田次郎(山岳小説)などは、ほとんど読んだ。

一方、海外の探偵小説も愛読。最近では、マイクル・コナリーの著作をほとんど読んだし(「真鍮の評決」ほか)、昔をふり返ると、エラリー・クイーンのほぼ全著作を読んでいる。

小説以外では、歴史物(たとえば、塩野七生の「ローマ人の物語」)や生き方論(立花隆「青春漂流」、森本哲郎「生き方の研究」)、山に関するドキュメント(ジョン・クラカワー「空へ エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか」など)も読んだ。また、和歌(大岡信「詩歌遍歴」など)や漢詩、それに絵画に関する本も読んでいる。

本のほとんどは図書館で借りて読む。ただし、文庫本は買って読むことが多い。また、本を読むのは、電車の中か、喫茶店。本が読めるので、電車に乗るのは楽しみであり、読書に没頭して乗り過ごすことも、たまにある。本を持たないで電車に乗ると、忘れ物をしたようで落ち着かない。東京で勤めているときに、一番本を読んだのは電車の中である。

 喫茶店も読書の場。最近は近所のパン屋さんによく行く。午後4時頃に出かけて、30分-1時間位、本を読む。このパン屋さん、おいしいパンを売っていて(1ヶ150-200円)、淹れたてのコーヒーが無料で飲める上に、総ガラス貼りの窓際でソファーに座って、ゆったりと本が読める。パンを買いに来る人は多いが、ソファーに座って休んで行く人はほとんどいないのだ。コーヒーが脳を刺激するせいか、喫茶店は最も読書に集中できる場所である。

 読書は人生を豊かにし、楽しくする。本がなかったら、毎日の生活から大きな楽しみの一つが失われるであろう。それは自分が経験したことのない世界の一端を見せてくれる。この世には多様な人生があり、深い感動や大きな喜びがあり、悲しみや絶望があることを教えてくれるし、また、生きることの意味を考えさせてくれる。

 と言っても、私の読書の対象は時代物や探偵小説などの軽いものが多くて、人生を深く考えさせるものはほとんどないのだが。

 

 この状況は今も変わらず、私の読書には、あまり深みがない。読んで楽しければよいという程度。

 これに対して、小学校時代からの親友・柿島君(闘病生活中)から最近もらった手紙には「セルボーンの博物誌」、「かわうそタルカ」、「鳥の水遊浴び」(庄野潤三)、「鞆ノ浦茶会記」(井伏鱒二)、「加藤楸邨句集」(幸田露伴)江戸詩人選集」(岩波書店)などを読んでいるとあった。私とは読書の格が違うと感じた。

  さて、最後に私が好きな本を3冊、掲げておこう。

 

・「銀の匙」(中勘助著)

  印象に残っている本の第一に挙げたい。数十年前に読んだ。内容はほとんど忘れたが、みずみずしい文章だったこと、幼児の頃、外に出るときは伯母さんに背負われてその背にしがみついて出かけたこと、それらを読んで自分の幼い頃を思い出し、とても懐かしかったことなどを覚えている 

 今回、読み返してみた。

 主人公は幼児なのに、私には及びもつかない、たいへん豊かな感受性を持っている。

 「私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のするはね釣瓶(深い井戸から水を汲み上げるもの)などがひどく気に入って」、「(大工さんが削る鉋屑を手にして)杉や檜の血の出そうなのをしゃぶれば舌や頬がひきしめられるような味がする。おが屑をふっくらと両手にすくってこぼすと指のまたのこそばゆいのもうれしい」、「(茶の木の)まるみをもった白い花弁がふっくらと黄色い蕊をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。それをすっぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖だった」など、見るもの、触るものに興味を示して深く愛しむ。そんな物語である。

  小学校低学年の頃、お国さんやお恵ちゃん(原文は草かんむりがある「恵」)と友達になる。「ある晩私はひじかけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。…『(月の光をあびて)こら、こんなにきれいにみえる』といってお恵ちゃんのまえへ腕を出した。『まあ』、そういいながら恋人は袖をまくって『あたしだって』といってみせた。しなやかな腕が蝋石みたいにみえる」など、微笑ましい交流の様子も描かれる。

  この本は大正2年の著作。岩波文庫の初版は昭和10年。和辻哲郎が書いた解説には「この作品の価値を最初に認めたのは夏目漱石である」、「大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。…それはまさしく子供の体験を子供の体験としてこれほど真実に描きうる人は…見たことがない」とある。

 

・「虚空遍歴」(山本周五郎)

  数十年前に読み、主人公の中藤沖也という男の生き方にとても惹かれた。江戸時代、浄瑠璃という芸に魅せられて、武士をやめ、新しいふし「沖也ぶし」を編み出すことに一生をかけた男の物語である。

 沖也は「およそ芸の世界に生きる者は、自分の感じたもの、苦しみや悲しみや悩みや、恋とか絶望、もちろんよろこびとかたのしさをも含めて、人間の本性に触れることがらをできるだけ正しく、できるだけ多くの人たちに訴えかけたい、ということが根本的な望みだろう」、「新しい本には新しい内容があり、その内容を活かすためには、浄瑠璃もその本に添って新しい<ふし>を作りだすのが当然だ」という信念を持ち、新しいふし作りに全身全霊をかたむける。

 一方、芝居役者の岩井半四郎は「芸事というのはもっとおおらかな、一口に云うと風流といった感じのものではないでしょうか……。私は、自分の芸をつくりあげるよりも、客がどう受取るかということをまず考えます、こうやっては俗だと思っても、要するにおおらかな、風流という気持でやっていく」と言うのだが、沖也はそれを受け入れない。

 主人公は、ふしを完成させるために、新婚で身重の妻を江戸に置いて一人で旅に出る。貧しい農家に泊ったり、飲み屋を回って門付けをしたりして、庶民の生活を体感する中で、ふし付けにそれらを取り入れようとする。また、芝居が盛んな大阪や金沢を訪れ、新しいふし付けでの芝居に挑戦する。しかし、苦労に苦労を重ねても、納得できるふし回しにはなかなかたどり着けず、結局、それを完成させることなく、また、我が家に一度も帰ることなく、生まれた子供に会うこともなく、旅先で病を得て亡くなるのである。

 作者は、この生き方に肉付けをするために、おけい(男と女の関係を超越して沖也につくす女性)、濤石(絵を画くことに生涯を懸ける画家。納得できる絵が描けずに命を絶つ。周囲は彼の絵のすばらしさを認めていたのだが)、生田半二郎(友人)、盲目の芸人などを登場させる。

 そして、それら登場人物に「そのもとにはおちつく場所はない、そのもとに限らず、人間の一生はみなそうだ、ここにいると思ってもじつはそこにいない、みんな自分のおちつく場所を捜しながら、一生遍歴をしてまわるだけだ」、「この道には師もなければ知己もない、つきつめるところは自分一人なんだ、--誰の助力も、どんな支えも役には立たない、しんそこ自分ひとりなんだ、」、「人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。それはたぶん、その人間が完成する瞬間だからだろう。それぞれの善悪、美醜をひっくるめた一個の人間として完成するのだ。」などと語らせる。

 これらの筋立てと登場人物の言葉からは、「生きるとは何か」、「芸を極めるとは何か」を考え抜き、それを何とか小説で描き出そうとする作者・山本周五郎の必死さが伝わってくる。そして、読み進めるうちに、小説作りに真正面から取り組む著者・山本周五郎のこの気迫が、まさに、中藤沖也の芸に懸ける気迫とぴたりと一致するのを感じる。

 読み終わって、自分の生き方を振り返ってみた。

 私には一生を一つのことにかけるという生き方への憧れがたいへん強い。そんな本を読んでいるとどんどん引き込まれていく。ただし、それは小説の世界のことだけであって、自分がどう生きるかを真剣につきつめたことは一度もないのだが。 

 30歳の頃から現在まで、世の中を良くするための政治活動に少しだけ関わってきた。また、50歳代になってからは「視覚障害の方と一緒に登山を楽しむ会」(六つ星山の会)に入り事務局を担当してきた。しかし、前者は浅い関わりであり、後者は「事務の中心になる人がいないので、やむを得ず引き受けた」という面が強く、それに一生をかけるといった強い信念を持つまでには至らなかった。 

 私が生き方の中心の置いてきたのは、結局、現世のいろいろな楽しみ(登山や旅行、孫との遊びなど)を追うことであり、自分の利益中心の生き方だったように思う。 

 でも、後悔はしていない。

 

・「冬の標(シルベ)」(乙川優三郎著・文春文庫・2013年5月発行

                    ・単行本・中央公論新社・2002年)

 「冬の標」は、江戸時代の末、武家出身の女性「明世」がその一生を懸けて絵を描く、その生き方を描いたものである。主人公の息使いが聞こえてくるような、繊細でみずみずしい文章がたいへんに魅力的であり、引き込まれて一気に読みきった。

 の著者には絵画や蒔絵に情熱を注ぎ、一生を懸ける、そんな生き方を描いた小説がいくつかある。別に読んだ「麗しき果実」という本が、主人公の生き方に加え、絵画・蒔絵の描き方やその鑑賞にも力点を置いたのに対し、この本では絵画はあくまでも脇役であり、主題は主人公の生き方に置かれている。 

 主人公「明世」は江戸時代の上級武士(上士)の娘。絵が好きで画塾に通う。この時代、武家の娘が絵を習うことは嫁入り前のお嬢様のお遊びであり、女子本来の務めは、結婚し夫と姑に仕え、子供を産み、家を守ることにあると考えられていた。「明世」は結婚をせずに絵を続けたいと熱望するが、世の中はそれを許さない。やむをえずに結婚。しかし、夫は1年で他界。「明世」は絵を描くことを生きがいにしながら、婚家と子供と姑を守り続ける。

 貧しい生活の中でも師に学び、師の絵筆の巧みな動きを見ながら思う。

 「衝動が言葉にならない。空白の間が、最も充足されるときでもあった。無くなりかけた米を得るよりも、たしかに生きてゆける気がする。そういう瑞々(ミズミズ)しい力をくれるものが、絵のほかにあるだろうか。優れた絵に心を打たれる喜び、白紙と対峙するときめき、そこに何が生れてくるか知れない期待と不安……情熱のすべてをそそぎ込んでも惜しくはないと思う」。

 そして、同じ絵の道を志し、心が通じ合い、頼ることができる男(修理)と出会う。ただ、その幸せは一瞬にして終わり、男は幕末の動乱の中で暗殺されてしまう。

 その絶望の中でも、彼女は絵筆を取り、毎日、男の顔を描き続ける。

 あとから思うと、男を描くことに狂っていた月日は、それ以上の充足をどうして得られるだろうかと思うほど無我の境地に近づいた日々でもあった」、「結局、その姿(修理)を思い川(地元の川)の堤に佇ませることで、彼女は男の内面を引き出すことに成功したのだった」、「そこには修理にふさわしい穏やかで透明な気配が生まれた。(完成した男の肖像画を)その手で軸装すると、ありったけの情で男を包み込んだ気がした」。

  結局、「明世」は絵の修業ために息子の反対を押し切って、母とも分かれ、一人、江戸に旅立つ。旅立つ日、雪の枝に寄り添う2羽の鵜を見て思う。

 「(描きたい)そう思うのと、一切の雑念が消えるのが同時であった。構図を考えるまでもなく、二羽の鵜は枝を決め、そこに姿を定めて微動だにしない。対象を心の中にとらえて描こうとするとき、孤独は敵ではなかった。むしろ、ひとりの喜びに充たされてゆく。後先のことはどうでもよかった」。

 

読み終わって、「好きなことに一生を懸ける、それを生きがいとすることの幸せ」、それが充分に伝わってきた。

 そんな一生を送れたら、すばらしいであろう。いや、凡人にとっては、それほどおおげさでなくとも、何か好きなことを一つ持つだけでよい。それは人生を豊かにし、また、苦しいときには、困難を乗り越える力を与えてくれる。もしかしたら、そんな楽しみが持てたことで、あの世に行くときに「私の一生はこれでよかった」という満足感に浸りながら旅立つことができるかもしれない。

 なお、この本の書評に「乙川優三郎が好きな作家の第一に挙げるのは山本周五郎」とあったことを付記しておく。

 

(写真)

 写真を撮るのは、散歩のとき、旅のとき、登山のときである。写真機は「ニコンF600」のときもあったが、重いので、今は軽くて安い「ソニー20X」を愛用している。

 散歩のときに撮るのは主に花であり、旅のときは風景と人物を撮る。

 4回のサンティアゴ巡礼では、毎回、1000枚ほど撮り、そのうち約100枚を選んで紀行文に掲載した。

 

 ここでは、まず、これまでに私が撮った「花」の写真を振り返ってみたい。

 下の写真は、 利根川の春、 高尾山のユリ、 高尾山の山桜、④ 手賀沼の紅白の梅、⑤ 野の花、⑥ つばき、⑦ 皿のつばき、などである。

 

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 写真を撮るときに、特に留意してきたのは構図であろうか。これまで撮り方を勉強したことはない。自己流である。

 サンティアゴ巡礼では、1回の旅で1000枚位を撮り、旅行記を作るときには、その中から選んで紀行文に写真を掲載してきた。また、花の写真は散歩のときに撮り、家に帰ってから、気に入った写真をブログに掲載している。

 

◎ 「水球」観戦-中三の孫娘が出場(1月27日・日曜)

 生まれて初めて「水球」の試合を見に行った。中三の孫娘が試合に出場したからである。以前から一度、彼女の雄姿を見てみたいと思っていたが、今回、その念願がかなった。

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(追記・11月8日) 風ちゃんは高一。水球の千葉県代表に選出されたという。何か一つ、打ち込めるものを持つのは、とても良いことだ。生きる上での自信になる。

◎ 同居の娘の日常(2月7日記)
 30年間、職に就かずに、昼間もベッドでごろ寝をしていた娘が、昨年6月から我孫子
農園に勤め始めた。朝8時に出かけて夕方6時頃に帰宅する。勤務時間は月-金の9:30-15:30。
 ただ、最近は、連続して5日間、出勤するのがつらくなったようなので、私の考えで、水曜を休みにすることとして、週4日の出勤に変えさせた(もちろん、水曜の休暇は、「お母さんの介護をするため」という理由で、毎週、娘に届けさせている)。

 「会社に勤めれば、毎日、出勤しなければならない」というのが世の中の常識だが、「無理に勤めさせて、職場をやめてしまうような事態を招くよりは、余裕のある勤務体制をとらせて、できるだけ長く勤めさせたほうが良い」と判断したためである。最近は、「足が痛い」とか、「おなかが痛い」とか言って、休むことが多くなったので、その対策として、上記のやり方に変えたのである。うまくいくとよいが。

 私の方は相変わらず、朝6時に起きて彼女の弁当と朝食を作らねばならない日が続いている。また、日曜には必ず、娘に付き合って、近所の日帰り温泉に行っている。
 ただ、最近は、職場勤務を始めたことで、娘に少しづつ自立心が芽生えてきたように思う。
◎ 2月17日 千葉・烏場山(266m)・花嫁街道一周・歩程約5時間
 六つ星山の会・定例山行。参加者22名(うち視覚障害者8名)。池袋集合、貸切バス。東京湾横断道路(アクアライン)を経由をし木更津に渡る。
 山に行くのは昨年10月に視覚障害者登山の全国大会(高尾山)に参加して以来、4ヶ月ぶり。このときは、登り下りともケーブルカーを利用する易しいコースを選んだので、特に支障なく歩けたが、今回はどうだろうか。足が痛くならないか、皆に付いて行けるかを心配しながら参加した。
 結局、皆には何とか付いて行けたが、下りにかかると、足が激しく痛んだ。左膝の関節の部分である。しかも、今回は、家に帰ってからも数日間、その痛みが続き、階段を下りるのに苦労するようになった。
 これからの山行は単独行として、ゆっくりとマイペースで歩くという形にしなければならないようだ。
◎ 3月5日 
 妹は昭和17年の生まれ。50歳の時、子供二人を残して、ガンで亡くなった。
 お墓は町田にある。妹の子・正敏と駅で待ち合せをして久しぶりに墓参りに行ってきた。
◎ 3月21日
 中学1年の孫の爽太に誘われて、高尾山の稲荷山コースを登った。彼の同級生一人も一緒。
 左膝が痛くて、先行する二人に待ってもらいながら、やっと頂上へ。下りは更につらかった。
 今後は登山は無理かな?
 
◎ ゴールデンウイーク・10連休
 4月27日:近所の人に誘われて、午前10時より、親和会(町内の老人会)の総会に出席。老人会の会合に出席するのは2回目。前回は3月30日で、近くの公園で開かれたお花見の宴会に出席した。近所の人との付き合いが少しづつ、増えている。
 4月28日:妻が車で水戸の実家に行き、お墓に詣でるのに同行。車はレンタカー。運転は次女の婿さんに頼んだ。次女一家(中2と高1の孫)も同行。妻の水戸行きは4年ぶり。私達の家に同居している長女も一緒。(下の写真・一枚目。妻が子供の頃、よく遊びに行った水戸の「おさんやさん」)
 4月29日:妻は留守番。レンタカーに乗り、上記の6人で、筑波山の隣にある宝篋山(ホウキョウサン。標高461m)に登りに行った。田んぼの中に登山口がある。山頂は360度の大展望。筑波山や霞ケ浦が望める。低山だが、なかなか良い山である。(下の写真・2枚目と3枚目が「宝篋山」)
 4月30日:一人で、手賀沼周辺を散策。天王台から岡発戸の「市民の森」や「滝前不動尊」を経て、安孫子駅へ。
 5月 1日昼間は、同居の長女と一緒に妻の車椅子を押しながら、利根川の堤を通って、駅前へ。そこで昼食。
 5月 2日長女と上野のアメ横へ。彼女が2足の靴を買うのに付き合った。
 5月 3日:妻と長女と3人で、図書館へ。帰りに駅前の喫茶店で一休み。
 5月 4日:午前中はプールへ。足の痛みを直すために、1500mの水中ウオークと500mのクロール。ちょっとハードだったかも。午後は車椅子の妻と近所を散歩。
 5月 5日:次女と中2の孫が家の掃除をするためにやってきた。頭髪も切ってもらう。孫は庭の草取り。
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◎日常の楽しみ(2019.6.10記)
 ウイークデイのうち、中に一人になれるのは、妻がデイサービスに行く火曜と木曜の9時ー16時。この日はプールで1時間半ほど泳いだり、近所を数時間散歩をしたりする。プールではクロールで連続して1000m、30分を泳ぐほかに、ひざの痛さを緩和し、また、脚力を維持するために1000mほどの水中ウオークを行う。
 散歩や水泳は介護や家事で沈滞した気持を前向きにする。特にクロールはそうだ。すべてを忘れ、休憩なしで、500-1000mを泳ぐと、気が晴れる。
 その他の楽しみは、囲碁と読書とテレビ位か。
 囲碁は、主にパンダエッグ(パソコンで相手を選んで、いつでも、何度でも、月額3000円で囲碁が可能なもの)で対局を楽しむほかに、日曜昼のNHKテレビ「囲碁トーナメント」を見たり、ときには、柏に出かけて旧職場の友人4人で囲碁盤を囲んだりしている。中でも、友人との対局が一番楽しくて、力が入る。
 次に読書。読書量は少なくなった。最近読んだものをいくつか挙げれば、
・「蜜蜂と遠雷」(恩田陸著。ピアノコンクールの世界を描く。曲の内容や演奏者の心理などが深く掘り下げられおり、音の世界を文章で表現した小説と言えようか。映画化もされるというが、是非見てみたいものである)、
・「折々のうた」(大岡信著。岩波新書。奈良時代から現代にいたる日本の和歌と俳句の中から秀作を選び、春夏秋冬に分けて掲載したもの。大岡信の著作はいくつか読んだが、ここにも心惹かれる歌が多くあった)、
・「王家の風日」(宮城谷昌光著。彼の著書のほぼすべては中国の歴史を物語として著したものである。中国の古代5000年は夏、殷(商)、周と続くが、殷と周の建国の物語も著書の中にあり、本書「王家の風日」は殷の滅亡と周の建国を描いたものであり、「天空の船」は殷の建国を描いたものである)、など。
 これらの他に登山と旅がある。これが最も楽しい趣味。でも、ウイークデイは妻の介護があるし、日曜は長女と日帰り温泉に行くのを常としているので、実現するのが、なかなか難しいのが現状である。

◎テレビを見て、新しい世界を知る。

 40歳代から80歳にかけて夢中だったのは登山とサンティアゴ巡礼。妻の介護が始まってからは、それらを楽しむのが難しくなった。今の楽しみは、散歩に読書に囲碁くらいか。テレビもそのひとつ。テレビではこれまで、囲碁番組(日曜昼のNHK)、スポーツ番組(サッカー、海外の野球、ボクシングなど)、美術番組(主にNHKの日曜美術館)、海外を歩く旅番組、などを中心に見てきたが、最近は、他の番組にも見る対象を広げつつある。また、美術では、テレビで紹介された美術館に実際に出かけることも。

a)<照明の世界>「世界はほしいものに・北欧照明の世界と北欧フラワーアレンジメント」
                (4月18日・NHK総合・10時30分-11時20分)
 照明を楽しむ北欧の日常生活を紹介したもの。
 北欧は一年中、天気が変わりやすくて快晴が続く日が少なく、また、冬は夜が長い。そのため、照明に対する各家庭の関心は高く、どの家でも日常的に居間や窓際の照明の仕方に力を入れている。
 当地の光は、部屋はできるだけ明るくという日本とは全く異なり、薄暗いものだが、それが「暖かい雰囲気」を演出し、人を包み込み、落ち着かせる。
 日常生活の中にも、楽しめるものがいろいろあるのだと、あらためて感じた。
 人の世は多様で、奥が深い。

b)<落語の世界>NHKアナザーストーリー選「落語を救った天才・古今亭志ん朝の衝撃!」

               (6月11日・NHKBSプレミアム3・午後9時ー10時) 

 三代目「古今亭志ん朝」については若い落語家ということしか知らなかったが、この番組で初めて、トップクラスの凄い落語家であることを知った。落語家トップの称号である「真打ち」に昇進したのはわずかに24歳のとき(1962年)。しかも、兄弟子36人を抜いての昇進だったという。語り口の上手さは当代随一で、当時沈滞していた落語会を救ったといわれている。1938年生れ。2001年に63歳で没。古今亭志ん生の次男。これを見て、志ん朝や兄弟子の談志の落語をじっくりと聞いてみたくなった。

c)<古典文学の世界>NHK歴史秘話ヒストリア「更級日記と菅原孝標女」

              (6月12日・NHK総合・午後10時30分-11時20分)

 平安時代の日記で知っていたのは「土佐日記」(934年・紀貫之著)くらいだったが、今回、テレビのこの番組で、その時代に女性が書いたこのような日記があることを知った。数え年13歳の頃から52歳までの彼女の生涯を、晩年に思い出しながら記述した回想録であり、書かれているのは、父が上総の国司を辞任し京へ帰るときの旅の様子や、「源氏物語」に夢中になった少女時代の思い出、宮仕えや結婚の経緯、乳母など近しい人との別れ、晩年の心境などである。
 平安時代は仮名文字が広まり、女性の中にも、「紫式部日記」、「蜻蛉日記」(作者は孝標娘の叔母)、「枕草子」「源氏物語」というような日記や随筆、物語を書く女性が出現したという。
 古典文学の世界も奥が深いようである。
d)<絵画の世界>NHK日曜美術館「秀と桜 海辺のアトリエ」
                    (8月4日・NHK・Eテレ・午後8時-8時45分)
 この番組を見て、世田谷美術館(東急線・用賀駅の近く、砧公園にある)で開催されている「高橋秀+藤田桜・素敵なふたり展」を見に行きたくなり、8月10日に出かけた。
 高橋秀は1930年の生れ。作品は、ゆったりした曲線で、3-5mから10m四方に切り抜いた板に、黒や赤、緑、ピンクなどの色を塗って制作した大きな板絵。見た中では、「黄金の稜」と題した、金色に塗った山の稜線に緑の草花を配した作品が気に入った。彼は、1961年に「安井賞」(新人洋画家に贈られる最高の賞と云われる)を受賞し、その後はパリと日本で活躍している。
 藤田桜は1925年生れ。布地を切り張りし、絵本を作る「布貼り絵作家」。1952年から40年ほど、学研の幼児向け雑誌「よいこのくに」の表紙絵を担当。「ぴのっきお」ほか、多数の絵本作品もある。ほんのりとした、心を和ませる、その絵の味が魅力的。自己紹介の中に、「……(子供達には)いつの世でも希望や愛に満ちた豊かな心で、社会の一員としてよりよい過ごし方をしてほしい……」とのメッセージがあった。
 二人は1958年に結婚。今は葉山の海辺に住む。
 なお、展覧会を見た帰りに、砧公園近くに住む友人夫妻を訪ねた。彼のほうは、私の少年時代、魚取りに行くときには、いつもバケツを持たせて連れていった魚取りの仲間である。12歳年下。数十年前に彼の結婚式の仲人をしている。山が大好きで、先日はご夫婦二人で北アルプスを歩いてきたという。
 山の話や昔の魚取りの話で大いに盛り上がり、楽しいひとときを過ごした。
e)<絵画の世界>NHK日曜美術館「横浜に夢の庭園を築いた原三渓の物語」
                  (8月18日・NHK・Eテレ・午後8時-8時45分)
 この番組を見て、原三渓が収集した美術品を実際に見てみたいと思った。現在、展示しているのは「横浜美術館」。
 
◎<DVD>「NHK特集・シルクロード」全15巻を購入(8月)
 1980年4月-1984年9月に、NHKテレビがドキュメンタリー番組「NHK特集・シルクロード」を放映し、その後、DVDも販売された。DVDは30集・15巻、総放映時間が24時間30分にも及ぶ大作である。テーマ曲は喜多郎、語り手は石坂浩二。私はシルクロードの映像だけでなく、テーマ曲にも、語り手にも魅せられて、今回、NHKで再放送があったのを機に、このDVDをアマゾンの中古品市場で購入した。全巻で約2万円。
 今、あらためて、じっくりと楽しんでいる。 
 
家族の近況(8月16日記)
〇私の長男は2007年にNYで現地の女性と結婚し、これまで、NYに在住。
 子供は小学生(リリー。2009・7・26生れ。10歳・女)と3歳の女の子(ゾイ)。
 それが、今年8月にオハイオ州コロンバスに転居した。NYでこれまで10年間、勤めていた職場が閉鎖になり、新しい勤務先をオハイオに見つけたためである。
 奥さんの協力のもと、新しい職場を探し、新しいマンションを探し、娘が転籍する小学校を見つけ、更に引越し費用節約のために家具を積んだトラックを自分で運転し、と、家族と一緒の引越しはすべてが彼にとって初めての経験だった。
 子供だ、子供だと思っていた長男が、いつの間にか一人前の大人になった感じがする
 
〇次女は家庭を持って北千住に住む。子供は風ちゃん(高校1年・女)と爽太(中学2年・男)。
 次女は月に1度位、我が家にやって来て、洗濯や布団干し、洗面所の掃除などをやっていく。ときには、妻や私の髪を切ってもらうことも。
 来ている間は、くるくると休みなく働く。疲れ知らずだ。エネルギーに溢れたその姿を見ていると私が失った若さを感じる。
 彼女は子供二人を授業料が高い私立の学校に通わせているので、家計の負担を助けるため、週に何度かスーパーで働いている。それに、子供二人の世話もあって、結構、忙しい。
 どこから見ても、一人前の主婦である。
 
◎家族旅行(9月24-25日・伊豆稲取・妻と娘と義弟と4人で)
 足の悪い車椅子の妻が中心の旅。下の写真は宿泊したホテルの部屋(4F)からの眺め。
 なお、JRや伊豆急の列車のトイレ(和式に近い)や駅構内(エスカレーター、エレベーターなし)が車椅子対応になっていなくて、かなり苦労した。鉄道のバリアフリー化はもっと進んでいると思っていたのだが。
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◎ちょっと一休み(10月19日記)
 家事と妻の介護(天気が良いときは昼すぎに車椅子の妻と2-3時間の散歩をすることも)、それに弱精神障害の娘への、毎日、毎日の対応があって、精神的にちょっと疲れた。特に、朝・昼・晩の食事を作り、それらを片付け終わった夜の8時過ぎには疲れがたまる。ときには、2人に食べさせたあと、1時間ほど休んでから自分の食事作りを始めることも。
 妻がデイサービスに行く日が週に2日あるが、10時ー16時なので、私が一人になれる時間は案外、短い。
 数日間、連続して、ひと休みしたいところ。特にあたたかい心に包まれて、ほっとしたいものだ。
 でもそれは夢。じっと耐えて、前向きに。
 
 
◎10月のウオーク
・10月24日(木):大内さん、小林さんと武蔵野散策。JR国分寺駅から西国分寺駅まで歩く。「真姿の池湧水群」から、農家の庭にある休憩処を通り「お鷹の道」(徳川の頃、将軍が鷹狩りに通った道)へ。「武蔵国分寺跡資料館」そばの「たかカフェ」で一休み。このカフェは古民家のそばにあって、大きな雑木林の中にあり、湧水を源とする小川も流れており、雰囲気がとてもよかった。コーヒーを飲みながら、至福の一瞬を味わう。
・10月27日(土):3歳のゆうちゃんと全盲の梢ちゃん、それに福島さんを六つ星の仲間6人でサポートし、守谷の湿原を歩く。約3時間の行程。
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◎11月のウォーク
 火曜、木曜の9時-16時は妻がデイサービスに行くので、11月は毎回、その日を散歩の日として、歩いた(10年前は時速4kmで歩けたのだが、最近は時速3kmに落ち、脚力が確実に低下中であることを実感)。

・11月5日(火):芝浦海岸沿いを品川から新橋まで一人で散策。整備された大きな公園やビル裏の運河も含めて、久しぶりに海沿いを歩き、たいへん楽しかった。
・11月7日(木):家から小貝川の対岸へ。一人で5時間、ほぼ休まずに歩いてみたが、最後はかなり疲れて、足が痛んだ。「歳だなー」と改めて感じる。
・11月12日(火):JR柏駅から手賀沼を通って東武野田線増尾駅まで、5時間のウオーク。
・11月14日(木):小貝川の対岸から牛久駅を目指したが、途中で引き返し、牛久沼の岸辺を藤代駅まで歩く。6時間のウオーク。
・11月19日(火):牛久駅から取手の我が家を目指したが、つくばみらい市上岩崎まで歩いただけで、バスに乗り牛久駅に引き返した。妻がデイケアから帰る午後4時がせまってきたため。3時間30分のウオーク。

・11月21日(木):常磐線・北小金駅周辺を一人で散策。特に時間をかけて見物したのは、旧水戸街道・小金宿にある「東漸寺」。このお寺は1481年の創建で、今も広大な敷地を持ち、その参道は三つの山門をくぐり抜けるほどに長い。丁度、紅葉が見事だった。3時間のウオーク。
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◎ 12月は成田山までウオーク
 12月21日は私の82歳の誕生日。誕生記念に、取手市・戸台井から成田山・新勝寺まで、利根川の土手沿いを歩き、それを歩き切った。スタートは9時、到着17時。昼食休憩の2時間を除けば、正味6時間で歩いたことになる。この道を歩くのは3年ぶり。3年前とほとんど変らないスピードで歩けた。最近は脚力が落ちたと嘆くことが多かったが、気持を集中して歩けば、まだ、以前と変わらぬスピードで歩けるようだ。到着した時は真っ暗で、人影はほとんどんなかったが、何か、ちょっぴり嬉しかった。

◎ 風ちゃんの水球チームが全国優勝(12月27日)
 高校1年の孫の風ちゃんは3歳の頃からプールに通っていて、水泳が得意。中学1年のとき、学校の「水球部」に入部し、今は水球の選手。今年は千葉県の代表に選ばれて、12月25-27日に広島で行われた「第12回全日本ユース(15)水球競技選手権大会-桃太郎カップ-」の女子の部に出場し、その千葉県代表チームが見事に優勝した。試合の応援に広島まで泊りがけで出かけていった両親は大喜び。私も妻もそれを聞いてとても嬉しかった。

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◎ 爽太も一番

 孫の爽太は中学2年生。この年末、期末試験での成績が学年総合で一番になった。数学は元々得意だったが、国語や英語を含めての総合成績なので、ちょっとびっくり。爽太も案外やるもんだ。娘からは「学校から帰っても、すぐにカードゲームをやりに外に出かけてしまう」と聞かされており、先日、家に泊りに来たときも、一日中、家で寝ころびスマホでゲームをやっていたのだが。

 両親も私達も「一番になったお祝い」として、二人へのお年玉をややアップした。

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日記に見る「私の青春」

 

 日記に見る「私の青春」

 中学1年から20歳代前半まで日記を書いていたが、それが棚の隅から見つかった。書き始めたきっかけは、国語の先生から「毎日、日記をつけて、提出するように」という宿題が出されたことによる。

 几帳面な私は毎日、書いた。中学2年になり、宿題として書く必要はなくなったが、それでも書くことが習慣になって、高校時代、大学時代と書き続け、書くことをやめたのは結婚をして、新しい人生に踏み出すことが決まった頃である。

 日記を読み返してみると、書かれている出来事のほとんどは忘れていて、全く記憶になく、新鮮だった。もし、この日記が無かったら、これらの記憶は永遠に失われていたことであろう。

 以下に、少年期から青年期へと成長する頃の日記の一部を掲げてみた。甘くて、ほろ苦い青春の日々の思い出である。 

 

<なぜ、日記を書くのか>

1953年(昭和28年)9月4日(高校1年・15歳)

 同級の芝田君が「おれも日記を書いているんだ。書くのって、なかなかいいな-」と云うので、「どこがいいんだ」と聞くと、「書くことで自分の思いや考えをまとめることができるし、自分の思ったことがはっきりとつかめるんだ」と云った。僕もそれには同感だったが、他にも、日記を書くとよいことが沢山あると思った。

 まず第一に、思い出の記録が残ることである。自分が大きくなって、今書いている日記を読んだら、どんなに楽しいことだろう。次に、何かいやなことがあっても日記にあらいざらいぶちまけると、気がせいせいするということ。まだ他にも、いろいろある。

 

<高校生になっても、魚取りに夢中。勉強は少しだけ>

◎1953年(昭和28年)7月12日(高校1年・15歳)

 昨日、期末試験が終わり、きょうから試験休み。さて、何をしようか。まずは、小学校時代からの友達、尾幡、川辺、保谷、萩原の4人と、自転車で多摩川を渡り、二子玉川のプールへ。今年、最初の水泳。天気が曇りで、寒くてたまらず、2回しかプールに入らずに帰ってきた。

 夕方まで、めちゃぶつけ(集団でゴムボールをぶつけあう遊び)。夜は花火を買ってきて、一度に火をつけたり、土に埋めて爆発させたりして遊んだ。寝たのは10時頃。

◎同年7月13日(高校1年)  

 近所の子は学校に行った。僕は試験休みで、午前中は小さい子とめんこ。昼からは、学校から帰ってきた「てーちゃん」、「たけしちゃん」と魚取り。川崎堀(農業用水路)へと流れ落ちる土管の出口を網でしゃくって、小さい魚を10匹位取った後、上流の丸い小さなダムに行き、大きいのを5匹取った。 

◎翌日の14日

 昼前に「解析」の宿題を半分ほどやって、午後は網を持って、家から20分の平瀬川の下流へと魚取りに。川の水が引いて浅くなっていたので、ふな、なまず、うなぎ、はやなどいろいろな魚が取れて、暗くなるまで夢中で取った。

◎その翌日の15日

 「解析」の宿題の残りを終わらせて、午後はまた、魚取り。前日と同じ3人で平瀬川へ。3日間、連続である。

 川底は石がゴロゴロしており、岸辺には夏草が生い茂る。岸辺でも、水の深さがももまであるようなところに魚が多いので、ズボンを濡らしながら、そこまで入って魚を取った。大きな玉網を下流に置いて、生い茂る夏草の中を足で追うのだ。取れたのは、ふな、なまず、うなぎ、げばち、ほんばや、クチボソなど。特に、うなぎは胴の太さ3cm、長さ30cmの大物である。帰りに、道ばたの子が「取れた?」と云って寄って来て、ばけつに手を入れ、「わー、うんととれたなー。うなぎもいらー」と云ったのを聞いて、魚が取れた嬉しさが倍増した。

魚取りには、小学生の頃から夢中だったが、前述のように高校生になってもそこから抜け出せずに、子供のように遊びまわっていた。

 ところで、魚取りには、いろいろな方法がある。いくつかを挙げれてみよう(2018年10月記)

 よくやったのは、近所の小川で魚を石の下へと追い込み、手掴みで採ったり、小川をせき止め水をかい出して採るという方法である。また、多摩川の急流でやったのは、「あんま釣り」という方法。1日に、はやを100匹ほど釣りあげたこともある。その道具は簡単。「細い竹の棒に2-3mの釣り糸と釣り針を付け、ウキは付けずにその竹の棒を急流の中で上下に動かす」という釣り方である。餌は、川底の石の下に付いている川虫。

 夏休みはそんな魚取りに夢中になり、午前中に家を出て、いつも帰るのは夕方だった。

 そのような魚取りの中で、一番興奮したのは、台風の接近で多摩川から近所の農業用水路(川崎堀という)に水を取り入れる水門が閉まり、その小川の水位が下がったときであるこの小川、いつもは子供の背丈ほどもあるのだが、台風が来ると足首の浅さにまでなって、魚がいっぱい採れた。小学生の頃だが、台風が接近してくるときは、学校にいても勉強に身が入らない。いつ水位が下がるか、他の子供に先を越されないかと、居ても立ってもいられなくなって、授業が終わるとすぐに家まで飛んで帰り、雨が降っていても網を持って川へと駆け出していった。小川は幅3m、深さ15cmほど。その片端に小さくて底の浅い子供用の玉網を据えて、待っていると、魚は下流に逃げようとして川の端を矢のような速さで下ってくる。黒い影が網に入ったその一瞬をとらえて網を上げるのだが、遅れると、網の底が浅いので反転して逃げてしまう。網に入ってから逃げるまでは、ほんの一瞬。その間に網を素早く上げねばならない。その一瞬に全身全霊を集中するのだ。それは「とてもわくわくした一瞬」だった。その一瞬が今でも鮮明に記憶によみがえってくる。

 また、魚は追われると30-50cmほどの大きさの石の下に隠れることが多い。こんな魚は石の下に両手を入れて掴んで採る。手を石の奥に入れたときに指先で感じる「ビビビビ」という魚の躍動感もたまらない。心が踊る一瞬だ。もっともときには、とげのある「げばち(なまずに似ている)」や「ざりがに」が潜んでいて、刺されることもあったのだが。

 その他の特記事項は鮎。ときどきいる。鮎が浅くなった川を上流へ遡るときは、川の端を水面に波を立てて進むので、「鮎だ」とすぐに分かる。鮎を採ったときの喜びは特に大きい。採れたての鮎は「すいか」の甘い匂いがする。

 

<雪に夢中。高校生なのに、まだ、子供>

◎1954年(昭和29年)1月23日(高校1年・16歳)

 工場の方から「雪が降ってきた」という声が聞こえてきたので、こたつに入って妹と本を読んでいた僕は、「雪」と聞くより早く、窓をあけた。本当にチラチラと、雪のユの字位に小さい白いものが降りだしていた。雪は、ときには動物に喜びをもたらし、元気づけるものである。雪を見たとたん、もっともっと降らないかなと、心のうちで祈った。

 夜に入ると、雪は一層、勢いを増して降りだし、「銀世界」の創作最終段階に入ったようだ。

 父と風呂に行くために外に出た。ほんとうによく降る。寒いのをものともせずに、急に嬉しくなってかけ出した。雪が長ぐつにけちらされて、球となって飛ぶ。目にも、鼻にも、耳にまでも、雪が飛び込んでくる。おもしろい、おもしろい。

 街灯の下に来ると、きれいな雪景色が見られた。雪面が光の輪の中だけ、真っ白に浮かび上がり、ふりあおぐと、どこまで高いかわからない真っ暗な空から、真っ白い雪が乱舞しながら落ちてくる。何んとも云いようがないような、気持よい感じだった。

◎同年1月25日

 3日間、雪は降りやまず、大雪となった。30cmは積もったろうか。

 学校の社会の時間、皆で「雪合戦、雪合戦」と大声で繰り返して叫ぶと、とうとう、その時間は自由時間となり、外で自由に遊べることになった。

 最初は個人個人で雪合戦。そのうちに、クラス全員が2組に分かれてやりだした。ヒュー、ヒューとみだれとぶ雪の球。ワーっと叫んで攻めよせる者。頭から雪をかぶって後退する者。ときには乱戦となる。敵に自分の投げた球が当たって、さも痛そうにしているのを見るのは、痛快だ。

 校庭のもう一方の隅では高3の生徒も雪合戦をやりだした。これも、ものすごい。校舎のガラスが何枚も割れた。5分おきに、ガチャン、ガチャンとやっている。そして最後は高3と高2の対抗戦となったが、授業終了の鐘が鳴ると、皆、教室に引き上げた。

 これに味を占めて、次の英語の時間にも、「雪合戦、雪合戦」と皆で騒ぎたて、それでも許されないと見るや、全員総立ちとなって、歓声を上げたが、担当の天ケ瀬先生は絶対に許してくれなかった。皆の不平がなかなかおさまらない中で、とうとう授業が始まったが、誰もが沈黙を守ったために、授業中の教室はシーンとしていて、いつもよりずっと静かだった。

 

<高校2年に。まだ、遊びに夢中>

◎1954年(昭和29年)3月26日(高校1年・16歳)

 高校1年の終業式。春休みの間の一日で、久々に皆に会えて嬉しかった。内山君と相撲をとり、小野沢君と腕相撲をし、長谷川君と冗談を云いあった。

 掲示板には今年の大学の入試結果が書かれており、それを見ると、東大2、東工大1、慶応2、早稲田7、中央、明治がそれぞれ十数名とあった。

 教室に入ると、成績表(通信簿)が配られた。僕は、国語、数学、英語はまあまあだったが、化学と体育が悪かった。特に体育は悪くて、5点法で「2」の成績だった。でも、期末試験の合計点で示す席次のほうは、学年で2番になっていた。

◎同年3月28日

 新規巻き直しのつもりで、勉強の新しい計画表を作り、高校2年の勉強を始めた。きょうはその第一日目。

 午前8時から11時まで「解析」の勉強。昼食後は午後3時まで英語。夜は10時まで読書。一日目は順調だった。

◎同年4月5日

 今日で春休みは終り。

 勉強については大いに反省しなければならない。

 最初の意気込みはすごかったが、結局、勉強はほとんどしなかった。

 きょうも、ベーゴマ、裏山での遊び、紙工場でのトロッコ乗りなどと、遊びで1日を過ごしてしまった。原因の一つは、計画した勉強量が多すぎたことにあるが、一番大きな原因は「遊びたくてたまらなり、我慢ができずに外に飛び出してしまうこと」にある。それほどに、どの遊びも楽しかった。

 その他の遊びでは、魚取りや魚釣りはほぼ、毎日であり、映画は週に1回は行っている。

 たとえば、4月1日には、たけしちゃんと自由が丘の武蔵野館に「クオ・ヴァデイス」を見に行った。ロバート・テイラーとデボラ・カーの主演。4時間30分におよぶローマ時代の大型歴史物語で、総天然色。すべてを忘れて見入ってしまい、見終わったときは、いっしゅんボーっとして、映画館にいるのを忘れてしまうほどだった。

 春休みの間は、勉強をほとんどしなかったが、何とかしなければー。

 

<おさななじみへの初恋?>

◎1953年(昭和28年)12月29日(高校1年・16歳)

 きょうは、今まで書きたくとも、人に見られるのが恥ずかしいために書けなかったことを書いておく。但し、この部分は秘密にして本箱に入れておこう。

 よく、友達がガールフレンドを持っているというが、それを聞くたびにいつもHさんの家のCちゃんのことを思い出して、明るい気持になる。

 小学生や中学生の頃は一緒に遊んだが、この頃は会うとあいさつをするくらいである。しかし、相手はどうだかわからないが、こちらは会うといつも胸がドキドキし、普通の少女に会うのとはちがった感じがする。そして、よく、Cちゃんと毎日、話しあえ、笑いあえ、はげましあうことが出来たら、どんなにすばらしいだろうと思う。

 お付き合いがしたい。が、機会がない。又、Cちゃんのお父さんは都庁の○○局長で、うちとは身分違いだ。でも、もし、Cちゃんにもその気があったら、身分の違いなどなんでもない。

 もしも、付き合うことが無理ならば、たった一枚でもいい、あの人の写真がほしい。

◎1955年(昭和30年)1月20日(高校2年・17歳)

 Cちゃんの弟が盲腸で入院したので、学校の帰りにお見舞いに行ったが、病院からの帰りは、ちょうどCちゃんが来ていて、「チエコ、帰るわ」と云って身仕度を始めたので、僕も一緒に帰ることにした。本当は、心の中で、毎日、こうなることを待っていたので、夢が実現したことで心がフワーっとして、うれしさで胸が一杯になった。

 外に出て、大通りを歩く。でも、恥ずかしくて声がかけられない。ただ、二人、肩を並べて無言で歩く。……と、魚屋の前でCちゃんから「おかず買ってくる。先に行ってて」と云われた。「どうしよう」、これでお別れかといっしゅんガックリしたが、でも、思い返して、追いついてくれるようにと、一人で、また、ゆっくりと歩き始めた。と、すぐに「おまちどうさま」と云ってCちゃんが追いついてきた。うれしかった。

 横町に入る。もう、人はあまり通らない。まず、僕のほうから「Cちゃん達、授業は何時間」と話しかけた。とても楽しい。あの声、あの笑顔。「高校を卒業したらどうするの」とか、「試験はどのくらいあるの」とか話し合った。何だか、心臓がとびだしそう。いつまでも話していたかったが、足はいやおうなしに進み、とうとう別れなければならなくなった。「さようなら」、「さようなら、ありがとう」。Cちゃんの姿が門に消えた。僕はそのいっしゅん、グーっと夜空にむかって深呼吸。力がもりもりとわいてきた。

◎1955年(昭和30年4月4日 高校2年・17歳)

  Cちゃんの家に遊びに行ったときに、Cちゃんから「私も好き」という意思表示があった。嬉しくて、僕の心は家に帰ってからも、一日中、ドキドキとして、落ち着かなかった。

 とりとめもなく、いろいろな思いが浮かんでくる。あの人に思われるだけの教養や人格を身につけようとか、僕にも青春のつぼみが開きつつあるとか、水をやり、手入れをして大事に育てようとか………。

 

<大学入試に失敗。駿台予備校へ>

◎1956年(昭和31年)3月30日(高校3年・18歳)

 大学の入学試験が一段落し、高校の卒業式が終わった後は、映画、魚取り、魚釣りと遊びほうけた。東大は1次試験は通ったが、2次で落ちた。同級の内山君は現役で合格。尾幡君は三井銀行に入社。柿島君はお父さんのあとを継いで、彫金の仕事に就いた。

◎同年4月9日

 横浜国大も不合格(競争率28.6倍)。

 駿台予備校四ツ谷校の午前の部に入学(競争率5.3倍)。一学期の月謝4700円、教科書代1000円、定期代3ヶ月1570円(二子新地前-四ツ谷)。

 

<東大文科一類に合格>

◎1957年(昭和32年)3月25日(浪人1年目・19歳)

 朝、父が東大の合格発表を駒場に見に行った。僕は横浜国大の入学試験があるので、横浜の会場に向かったが、父が合否の結果を親戚に電話で知らせることになっていたので、自由ケ丘の駅からその親戚に電話をすると、「たけしさん、おめでとう」というおばさんの声。「え、入っていたのですか」、僕は嬉しくて、「早く家に帰って母に知らせよう」と、思わず駅の構内をかけだした。ところが、乗った電車はいつもよりも遅い感じ。やっと二子新地の駅に着くと、今度は我が家まで多摩川の土手をかけだした。足が宙に浮くような感じ。家に着くと、窓をガラッと開けて、「入ったよ」と母に叫んだ。それ以上、何も云えない。母も「よかった。よかった」と言うだけだった。

 そう云えば、合格は父が最初に知ったわけだが、どんな気持がしたことだろう。

 

<大学生になって>

◎1957年(昭和32年)4月(大学入学1年目・19歳)からの2年間。

 大学1年のときの日常の予定表は以下の通り。

 月曜-土曜は、法律、経済、英語、独語、国語、化学、体育の講義と実習。授業終了後は、4時30分まで、剣道部に入部しての剣道。月曜と水曜の午後5時-8時はアルバイト(家庭教師)。

 日記には「人生を有意義に過ごしたい。僕は何をなすべきか」とか、「人生の目的は何か。読書によってそれを見出さねばならぬ」とか、「真剣に物事にあたるとは、思考することである」というような文字が並んでいる。

 人生論とは別に、この頃から日記によく出てくるのは「ノイローゼ」のこと。「毎日、毎日が楽しくない。人と話をするときに顔がこわばり、話がしにくくなるからだ」とある。この症状は、後で知ったが、克服しようと努力をすればするほど、深みにはまるものであり、このあと10年位、僕を苦しめることになる。10年後にようやく、これを抜け出すことができたが、それは直すのをあきらめて、「ありのままの自分で行こう」と覚悟を決めたことによる。

 日記のその他の記事を見ると、

・「中学・高校が同じ尾幡君、松浦君、横村君と伊東温泉に泊り、徹夜で麻雀」

・「大学2年の夏、尾幡君、松浦君と5日間、北アルプス・奥穂高へ(僕が雪を食べ過ぎて腹痛を起こして登頂を断念。僕が穂高小屋で2日ほど寝込んだために、お金が無くなり、松浦君が東京までお金を取りに帰ってくれた。二人にはたいへん迷惑をかけた)」

・「高校同級の小野沢君、斉田君と3人で、同じ夏の5日間、北ア(燕岳-槍-奥穂-岳沢-上高地)へ」

・「高校同級の鈴木君、長谷川君と丹沢(大蔵-塔ヶ岳-丹沢山へ。3月、雪の中、1泊2日の登山)」

・「山を征服することは一つの楽しみだ。山は征服するために登るものだ」

・「大学1年の成績は優5・良5(優・良・可の3段階評価)であり、期末試験の総得点は2751点。席次は教養学部820人中の304番だった」

・「Cちゃんの家で百人一首のカルタ会」、などとある。g

 

<Cちゃんのこと>

◎1959年(昭和34年)5月1日(大学3年・21歳)

 きのうの夜、Cちゃんと会った。彼女の会社に電話をして会いたいとさそったら、すぐに承知をして家に来てくれたのである。家族は自由ケ丘に出かけて留守。

 外に出て、多摩川の河原を散歩した。あちらに行ったり、こちらに行ったり。ジーっと虫が鳴いていて、とても静か。授業の話をしたり、友達のことを話したり…、まさに「春宵一刻、価千金」。最後は、河原の石に腰を下ろして、星あかりで光る川面を眺めながら話し合ったが、暗い中なのにCちゃんが笑うと白い歯が見えて、とても印象的であり、いつまでも、いつまでも、話していたい夜だった。

 Cちゃんからは、「私、タケシさん、着実に大人になっているという感じがするわ」、「誠実な人って好き」と云われた。

 家に戻ると父母と妹が帰っていたので、夜の11頃まで、5人でお茶を飲みながら談笑。

◎1959年5月23日

 夕方、Cちゃんが訪ねてきた。山の写真を見せながら話す。そのあと、雨の降る中を遠く南武線の久地駅の方まで歩いていき、これからのことなどを話し合った。とても楽しくて、帰って来てからも、彼女のことが頭を離れず、いつまでも寝ころんで、Cちゃんを思っていた。

◎1961年(昭和36年)3月8日(大学卒業のとき・23歳)

 日比谷公園で会い、喫茶店で話し、帰りは高津駅からCちゃんの家まで送って行った。

◎2018年10月記

 今、振り返ると、Cちゃんの温かさ、やさしさ、誠実さが改めて思い返される。

 高校2年の4月、Cちゃんからも意思表示があって、交際が始まったが、それが終りを迎えたのは大学4年を卒業する頃だった。

 原因は私にある。その頃、人と話をするときに顔がこわばって、話がしにくくなるという「ノイローゼ」が激しくなり、彼女と会っても、話がぎこちなくなったからだ。また、手紙で、その苦しさを書いたりもした。それに対して、彼女からは「どうしてよいか、混乱するばかり」との手紙が来た。そして、少しづつ、彼女の心は私から離れていった。

 お付き合いが終わったと感じたとき、彼女からもらった分厚い手紙の束をすべて燃やして、心の整理をつけた。

 今、振り返ると、そのときは絶望し、とても落ち込んだが、今では、青春時代の、何ものにも代えがたい素晴らしい思い出となって残っている。

 

<貧乏だった我が家

◎1959年(昭和34年)5月1日(大学3年・21歳)

 父と初めて競馬場に行った。父はときどき一人で行くようだが、一緒に行ったのは初めてである。行く道々、いろいろと説明をしてくれた。父のやり方は1レースに1枚(百円)しか買わず、1日に1,000円を使ったら帰るというもので、使うお金はささやかだった。また、馬券を買うときは、予想表なんか買っても無駄ということで、あてずっぽうだという。今回買ったのは、どのレースも「5-2」の1枚だけ。

 父が何を買ったかを教えてくれたので、1レース、1レースのゴールのときは、僕も思わず胸がどきどきした。

 父は、毎日、毎日、午後9時まで残業をして、帰れば寝るだけの生活だ。本当に大変だろうと思う。ときには疲れて、笑顔を見せない日があるが、きょうはとても楽しそうに見えた。1ヶ月に1度くらい、競馬に行けば息ぬきになるんじゃないだろうか。息子に同情されるのは親父の威厳にかかわるだろうが、日記の上でならいいだろう。

 もう一言。一家を経済的に支えているのは父だが、精神的に支えているのは母だ。母はいくら疲れていても明るい笑顔をたやさない。すばらしい母だ。父も立派だが、母はそれ以上だと思う。

◎同年10月14日(大学3年)

 毎月、我が家の家計は苦しい。まだ、きょうは月の半ばだが、家には最早、400円しか残っていない。

 昨夜、父が自分の友人の家にお金を借りに行ったが、向こうも借金を背負っていて借りることができず、きょうは僕が僕の友人の家に借りに行った。友人からお金を借りるのは、あまり気持のよいものではない。でも、借りなければ、明日から食べられないのだからしかたがない。友人の家に行くのは、卑屈になるなと思っても、なんとなく暗い気持になる。

 父が勤めていた会社がつぶれて以来、両親は、親戚の小さな商店(お菓子などを入れる紙の箱を作っている)に勤めて、毎日のように夜の9時まで残業をしながら働いているが、先月は、父の給料が16,000円、母が9,000円だった。もらったその日に、そこから、前借りの返済4,000円、米代3,000円、家賃3,000円、高校生の妹の月謝3,000円、保険料2,000円、貯金1,000円を払うと、あとは9,000円しか残らなかった。

 これに僕のアルバイト代3,000円と奨学金2,000円も加えてやりくりをしてきたが、きょう、14日で全部なくなってしまったのだ。

 明日からはもっと食費を節約しなけれならないようだ。

◎間借り生活(2018年10月記)

 1945年、小学校1年の時に終戦。東京大空襲で家が焼けて、新宿から溝の口に越してきたが、それ以降、祖父を含めて家族5人は6畳二間の借家で暮らした。その家はトタン屋根の染物工場の端にあり、台所とかまどは家の外。工場の屋根の下ではあるが、台所はむき出しの土の上だった。両親が夜遅くまで残業をして、帰ってくるのは夜10時頃なので、夕食は、祖父と妹と3人で、この台所で作って食べた。家族5人が寝たのは6畳一間に敷いた3枚の布団の中。私は祖父と一緒の布団で寝た。

 次いで、1955年3月(昭和30年・高校2年のとき)に、それまでの部屋を出てほしいと言われて、東急線の二子新地駅の近くで多摩川の土手の下にある借間に引っ越した。借間は6畳一間(ヒトマ)だけ。家族4人には狭すぎて、夜は布団を敷き、昼間は蒲団を片付けて生活をした。また、2m四方ほどのベニヤ板でかこった勉強部屋を庭先に作ってもらったが、隙間だらけで、冬はとても寒かった。

 でも、どんなに貧乏であっても、どんなに家が狭くとも、それをいやだと思い、苦にしたことは一度もない。なぜだろう。小学1年のときから長くその中にいたので慣れてしまったことや、遊びに忙しくて貧乏を感じる暇がなかったことなどによるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年の日常

 
<2018年の日常>
最近は、妻が足腰を痛めて家事ができなくなってきたために、毎日が「家事」と「介護」中心の生活となっている。 
 妻は2年前にひざを痛めたが、最近は、更に足腰の痛みが増して、台所仕事などがほとんどできなくなり、また、物忘れも進んで、私が家事全般と介護を担当するようになった。食事の用意、買い物、洗濯、ゴミ出し、風呂の用意、病院への付添い、車椅子での散歩の付添いなどなど、である。
〇また、それとは別に、娘が6月に就職。月-金の毎朝、弁当を持って出勤するので、朝の6時に起きて、弁当を作ることが日課の一つになっている(娘は障害者就労支援センターの尽力によって、ことし6月、イオン系の農園に就職することができた。30年振りの就職である)
 毎朝、早朝に起きるのは、ややきつい。これまでは7時-8時頃起きるのが日常だったのだが。
〇その他、ここ数年、週に1回、娘に付き合って、土曜か日曜のどちらかで、日帰り温泉に行くことにしている。その日は、午前中に出かけて、昼食を一緒に食べ、風呂に入って、午後3時か4時に家に帰るのが普通。
 娘の日常の楽しみは日帰り温泉に行くか、家の風呂に入ることだけ。友達はいないし、趣味が全く無いので、休みの日の娘は、外に連れ出さないと、一日中、家の居間かベッドで寝ている。
〇でも、家族の面倒を見ることは私が第一にやらねばならないこと。今後何年でも、こんな生活を続けていこうと思っている。
 一方、そんな生活に転換するために、今年4月には、長く携わってきた六つ星山の会(視覚障害者登山の会)の役職をすべて、思い切って辞任した。
 また、山歩きについても、6月以降はほとんで断念。山に行くには早朝に出かけねばならないので、行くとすれば、娘の弁当作りがない土日だが、そんなときでも二人の朝食を作り食卓に並べてからでないと出かけられない。そこまでして出かけるのはややしんどい。
(1月はハイキング2回)
・ 1月7日(日) 六つ星山の会・定例山行「第2回秩父札所巡り」
 札所13番、15番のほか、秩父祭り会館と武甲正宗酒造を見学。お酒の試飲も楽しんだ。
 参加者:61名(うち、視覚障害者22名)
・ 1月17日(水) 六つ星個人山行 さいたま緑の森博物館から野山北六道公園へ。狭山湖半周」⦅西武球場前駅→(タクシー)→さいたま緑の森博物館…六道山公園…大将山中腹(昼食)…野山北公園…武蔵村山市役所→(コミニティーバス)→西武線玉川上水駅)⦆。 参加者:5名(うち視覚障害者1名・盲導犬も一緒)。
(2月はハイキング1回。その他、囲碁等)
・2月9日(金) 岡崎宅にて旧職場の4人の仲間で囲碁。
 この4人は、ほぼ2ヶ月おきに集合場所を各家の持ち回りとして囲碁を楽しんでいる。
 その他、私はインターネット上の「パンダネット」(利用料・月2700円)に入会し2日に一度位、碁を楽しむ。現在は5級。
・2月13日(月) 六つ星旧会員の大内さんとお茶の水で食事。
 大内さんとは仲良し。時々会う。プールで一緒に泳いだことも。彼は昨年3月に職場を退職したあとその年の7月に1ヶ間、私の勧めで「サンティアゴ巡礼・フランス人の道」を単独で歩いてきた。いつも、その話で盛り上がる。
・2月24日(土) 六つ星定例山行「八王子・小宮公園」 参加者31名(うち視覚障害者10名)
 (3月、低山の山行で脚力低下を痛感)
16日(金) 六つ星個人山行「芦ヶ久保・日向山-丸山」 参加者:5名(うち視覚障害者1名・盲導犬も一緒)。
<特記事項>
 上記の丸山からの下り(70分)の途中で、足の疲れがひどくなり、歩けなくなった。低山なのに足が痛くて一歩も前に進めなくなったのだが、こんなことは生まれて初めての経験。年齢による脚力の低下をあらためて痛感した。60歳代には、北アや南アの高山を標準タイムの2/3のスピードで歩いていたのだが。
月17日(土) 「東武野田線沿線の「運河」の散策」 六つ星個人山行 加者:9名(うち視覚障害者2名・幼児2名)。全盲の両親の方と幼児(1歳と3歳)を5人でサポート。
月26日(月) 六つ星個人山行「中仙道・巣鴨-浦和 参加者:3名(健常者のみ)。この二人の方とは、2年前に誘われて、一緒に中仙道の後半部分を歩いており、今回ここをを歩かないかと誘われたもの。
 これで、中仙道で歩いていないのは、「諏訪-塩尻(17km)」、「愛知川-京都(約50km)」だけとなった。
・3月30日(金) 孫とその友達3人を連れて[高尾山」へ。孫に頼まれたもの。
 高尾山口-稲荷山コース-山頂-薬王院を経て、リフトで下山。
 子供達が怪我をしないように全の注意を払いながら歩いた。
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・3月31日(土) 六つ星定例山行「八王子城跡(北条氏照の居城。氏照は、秀吉に攻められて、小田原城落城のときに兄の氏政と共に自刃)」と、「多摩森林科学園(国立の植物園。1500本、250種の桜が満開」。 参加者:39名(うち視覚障害者10名)。
<死について思う>
 死ぬことはあまり怖くはない。人生、いろいろあった。これまでの人生を振り返ると、

魚取りや百人一首などの遊びに夢中になり、とても楽しかった少年時代、

人間関係で失敗して神経症にかかり、どん底まで落ち込んで苦しかった青年時代、

100年後、200年後という遠い未来を見据えて、社会改革の運動にも取り組んだが、心身ともに疲れ果てて、「これは自分には向かないな」と実感した30歳代の10年間、 

などを経て、

・40歳以降の40年間は、山と旅を大いに楽しみ、充実した人生を送ることができた

と言えようか。

今、これらを振り替えると、「生きている楽しさを十分に満喫した」、「苦しいこともあったが、人生に満足」という思いに満たされる。

 

(4月)
・4月20(土) 個人山行「御荷鉾山」 
 大内さん(六つ星旧会員)、小林さん(六つ星)と大内さんの車で。
 群馬南部の山。小川町から村々を越えて山奥に入る。標高は約1300m。 
 山頂近くの駐車場まで車で登り、そこから歩いて30分が山頂
 途中の車道脇に真っ赤な花桃の群落があり、しばし車を止めて散策。花桃は桜に似た樹木。その下を歩くと、視界一面が赤く染まり、真っ赤な色に包まれたようになる。花桃の群落を見るのは初めてかも?
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・4月22(日) 旧職場の女性の山仲間2人と葛飾区の水元公園を散歩(いつも行く女性3人のうち、一人は欠席)。花菖蒲はまだだったが、森の新緑が素晴らしかった。話をしながら、森の中を公園の隅々まで歩く。

・ゴールデンウイークは連日、家族と散策。
 ゴールデンウイークは毎日、妻と娘と一緒に過ごした
 この時期は、家を留守にして一人で山やロング・ウオークに出かけることが多かったが、毎日家にいたのは、最近10年では初めてのこと。
 車椅子を押して利根川の堤を散策の後、駅前で昼食を食べて帰る、3人で柏まで電車で行き、数時間の買い物と食事をする、3人で電車に乗って「北小金の本土寺」(アジサイと花菖蒲で有名)を散策する、娘と「野田市の日帰り温泉」に行く(娘がインターネットで見つけたもの。二人で探しながら初めて行く)、隣町の守谷市にある「守谷野鳥の森散策路と鳥のみち」(ほとんどが湿地帯で、狭い丸太の上や板が敷かれた道を行くが、ときには森の中も行く。約2時間)を歩く、家にいるときは食事作りや風呂の用意をする、など。
(下の写真:本土寺)
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(下の写真:守谷市の湿原の散歩路)
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 このように、ゴールデンウイークは連日、ほぼゆったりとした気分で過ごした。ただ、朝食時や夕食後は、歩けなくなったことについて、妻の愚痴や嘆きを聞くことが多くて、そのときだけは、やや疲れた。
(5月)
・5月18日(金) 
 高尾山(小仏バス停-景信山-同所山-関場峠-大下バス停)
 参加者:5名(うち視覚障害者1名・盲導犬も一緒)。
 森谷、小林、大内、大橋、三井、田村(高尾駅前でたまたま、大橋さんに会う)。
・5月26日(土)
 狭山湖・さいたま緑の森博物館。六つ星個人山行。 参加者:6名(うち視覚障害者1名・幼児1名)。
 全盲の父親の方と幼児(3歳)を4人でサポート。あちこちに座り込んで草花に興味を示す幼児に付き添って歩いたので、歩いた距離は1km程度だったが、鳥の声が賑やかな森の中や涼しい風が吹き渡る湿原などが続き、十分に自然が楽しめた。
(6月)
・6月21日(木)
 娘の就職が決まった。
 娘が就職するのは30年振り。就職先は我孫子にある大きな農園。イオン系のイオンクレジットサービスという会社が十数人の障害者を雇って経営しているところである。
 娘は20歳代にいくつかの会社に就職したが、そのときは長続きしなかった。
 小学生の頃から友達が一人もできず、人間関係をどう構築するかに不慣れだったために、職場で指図や注意を受けると萎縮してしまい、行くことができなくなったのだ。朝、無理をしてでも職場に行こうとすると、気持ちが悪くなり、吐いたりするほどだった。
 その後は就職をすることはなく、20歳代は外国人にあこがれて、若いエネルギーをディスコに注ぎ、夜中も家に帰らないということが多くなったが、30歳代に入ると、ディスコの熱は冷め、友達がなくて趣味もお風呂以外にないために、外出をせずに昼でも家で寝ていることが多くなった。
 また、私との人間関係も悪化し、私のそばに来ないようになり、家での食事も私から遠く離れて一人でとるようになった。私が、礼儀正しい人間に育てようと考えて、いろいろと注意をしたり、言うことを聞かないと叱ったりしたことが原因のようだった。
 それが、10年位前だったろうか。私も 「これではいけない」と反省をして、娘への対応を変え、「なにをしても決して怒らない」、「そんなことをしてはいけないというような注意も決してしない」、「やったことをほめる」、「やりたいことには積極的に協力する」(たとえば、娘は銭湯に行くのが大好きなので、1週間に1度は必ず娘と健康センターに行くようにした)などのことを徹底して行うようにしたのである。 
 これをほぼ10年間、続けた結果、娘との関係は劇的に改善し、今では、娘の方から、ニコニコと話しかけてくるようになっている。
 また、その効果だろうか。娘は1年半前から障害者就労支援センターに通うようになり(週5日制)、ほぼ出勤を休むこともなくて、今回の就職につながったのである。
 入社式は6月21日。家族も一緒に来てよいとのことだったので、私も一緒に行って、昼食をご馳走になり、職場の雰囲気を見学してきた。
 農園経営の仕組みは以下のとおり。
 この農園は(株)エスプールプラスが所有するが、農業経営はそれを区分けして借り入れたいくつかの企業が障害者を雇用して行うという仕組みになっている。
 エスプールプラスは千葉県内に、この柏市のほかに千葉市、市川市、茂原市等に同様の仕組みの約10ヶ所の農園を所有する。柏市の農園の敷地面積は500m×500mほどで、障害者の雇用定員は200人位か。
 借入れ企業には大手企業が多いようだ。イオンもその一つで、ビニールハウスの一部を借りて、障害者15人を雇用し、農園を運営する。
 この仕組みに参加する企業の目的は第一に「障害者に働く場を提供し、社会福祉に貢献すること」であり、第二の目的は「障害者雇用促進法に基づき企業が負う障害者雇用義務(全従業員の2%の障害者を雇用する義務があり、果たさないと未達成一人につき月5万円を国に納めなければならない)を果たすこと」にある。
 一方、この仕組みは働く場の少ない障害者にとってはたいへんありがたいものである。勤務時間は9時30分-16時30分。給与は月10万円強。
 娘はお給料がもらえると、張り切って毎朝6時30分に起き、7時40分頃、職場に出かけている。
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(8月)

妻の足腰の痛みがひどくなって、歩くのが難しくなり、7月20日に入院
8月8日に退院。この間、精密検査を受け、リハビリを受けたあと、8月3日に、看護婦、リハビリ担当、介護保険のケアマネージャー、用具担当、それに家族も加わって、今後の対応について協議。妻は支えれば数mは歩けるので、退院後は家に戻って、私が一人で介護をすることになった。付きっきりの介護が必要か、私のほうに外出等の余裕がどの程度あるのか、始めてみないと分からない。どうなるか、やや不安。8月3日記。
8月4日、介護の合間に、近所のプールに出かけ、久ぶりに連続してクロールで2000m(60分)を泳いでみた。
 最近は週に2-3回泳ぐが、いつも1000m(30分)で切り上げていた。体力が落ちたので、それ以上泳ぐのは無理と思っていたためだが。
 それが、今でも2000mを泳げることが分かり、消えかかっていた自信をやや回復した。
 プールに行ったのは昼の12時頃。泳いでいる人は他に一人。空いていて気持良く泳げた。初めは1000mを泳ぐつもりだったが、泳ぐ途中で2000mでも大丈夫なのではと感じて泳ぎ続けた。1800mで足がつりそうになり、数分休憩の後、残りを泳ぎ切った。
 海外登山に出かけていた60歳頃までは、連続して5000mを泳いでいたことを思い出す。
 ところで、1000mを30分なので、100mを3分を泳いだことになる。これを他の人と較べると、取手市の水泳大会では80歳以上で100mを2分弱で泳いだ記録があるし、中三の孫の風ちゃんは100mを1分15秒?で泳ぐ。泳ぎ方を改善すれば、私ももっと早く泳げるかも
8月27日、風ちゃんがプールで泳ぎ始めたのは3歳の頃。中学に入ると水球部に入部して、週に3-4回、放課後に学校のプールで練習に励んできた。
 ただ、これまではこ、この中学のチームの実力のほどがよく分からなかったのだが、今回、千葉県の代表となって全国大会に出場した。
  大会名は「第41回JOCジュニアオリンピックカップ夏季水泳競技大会」。
 場所は大阪。期間は8月22日-26日(日)。 参加は14都道府県から16チーム。
 女子の水球部がある中学がいくつあるのかは不明だが、上記参加状況から見て、それほど、多くはない模様。
 それでも、風ちゃんのチームは関東地区8校の中で地区代表となって、全国大会に出場したので、両親は大喜び。新幹線に乗って2泊3日で大阪へ出掛けた。娘の雄姿を初めて目にして、とても楽しかったという。
 結果は、4チーム・4組・総当りの予選では1勝2分けの2位となって、決勝トーナメントに進出。でも、決勝トーナメントでは1回戦で敗退した。
 勝負は別として、風ちゃんが仲間と仲良く水球を楽しみ、青春時代の思い出の1頁を作ってくれることを願っている。
 私も一度は風ちゃん試合を見てみたいものである。
(10月)
・10月2日(火) 守谷の湿原ハイキング  宮本 上手 田村
・10月7日(日) 全国視覚障害者登山大会(高尾山)に参加
  大会は10月6-8日の3日間、高尾山で行われた。今回は六つ星が幹事。参加者は10団体・216名(うち、視覚障害者59名)。うち、視覚障害者団体9・215名(六つ星72名、京都31名、富山28名、岡山22名、千葉16名、山口16名、広島15名、大阪12名、神戸3名)。
 7日には登山があり、上記のうち、195名が参加。別に救護隊等のボランティアに35名が参加。
 私は三日間の大会のうち、登山を行った7日に3コースのうち、最も易しいG1コース(ケーブル利を利用し、下車駅から山頂を往復)に日帰りで参加。
・10月19日(金)-20日(土) 家族で那須に一泊旅行。数年ぶり。
 何年か前に妻と娘と3人で2泊3日の京都旅行に行ったことがあるが、妻との旅行は、それ以来だろうか。妻と娘、妻の義弟、私の4人で義弟の車に乗って、那須高原に一泊旅行に出かけた。
 妻との旅行は数年ぶりなので、2食付きで18500円とやや高めの「ホテルエピナール・那須」に宿をとった。
 妻は足が悪いので温泉には入れなかったが、夕食では豪華なバイキング料理を満喫した。今回の旅行で一番のハイライトはこの料理と云えようか。
 翌日は車で、那須から山の稜線を越えて日光へ。紅葉にはやや早かったが、自然の中を行くドライブを楽しんだ。妻にとっては山の中を行くドライブは久しぶりのこと。
 
・10月23日(火) 手賀沼ハイキング  小林 大内 田村
・10月26日(金) 私の本の出版を祝う集い
 六つ星の葛貫会長と塩野さんのお世話で、高田馬場の飲み屋で上記の集いを開いていただいた。来られた方は約30人。
  皆様からそれぞれ数分づつ、ご一緒した山の思い出などのお話をいただき、また、パタゴニア製の防寒着とユリの大きな花束を記念に頂いた。
 とても盛り上がり、とても楽しかった。
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043(上:集いの当日に紹介した「日本百名山完登記念の幕」。高橋徳男さん作成)
 六つ星の結成は1982年で、私の入会は1989年11月。入会から今年までに29年が経った。
 会の役員になったのは20年ほど前。うち、総務部長を務めたのは15年位か。
 そのあと、監査の役を務め、今年5月に妻の足腰の痛みが更に悪化し、歩くのが不自由になったことを契機に、会のすべての役職を辞任した。
 この間、六つ星の皆様とは視覚障害の方々のサポート役として、多くの山に登った。富士山、槍、穂高、笠岳、白馬、北岳、塩見、甲斐駒、鳳凰三山、赤岳、木曽御嶽山、北海道・旭岳、白山、白神岳、宮之浦岳などのほかに、奥多摩、奥武蔵や丹沢の山々、それとロッククライミングや渓谷歩きにもご一緒させていただいた。
 登山以外で思い出に残っているのは2006年10月に開催された「六つ星フォーラム25」(場所:日大講堂)である。メインは視覚障害者登山の未来を論じる「シンポジウム」と登山家・田部井淳子さんの「講演」。私は生まれて初めて、こんなに大きな「集い」で事務局を務め、連日、裏方として全力投球で、あちこちと駆け回った。
 集いは大成功。その成功は、事務局の方々やそれ以外の担当の方々がそれぞれに全力を尽くされたおかげであるが、私の方は、裏方として、後片づけが終わった後で、思わず、床に座り込んでしまうほどに、ものすごい、それでいて心地よい疲労感に襲われた。そのときの「やった」という満足感は今でも忘れられない。
(11月)
・今月の前半は病院通いが続いた。80歳ともなると、体の故障がいろいろと出てくるようだ。
 まずは足のむくみ。左足のふくらはぎのむくみが長い間引かずに、慈恵医大と協同病院へ。内科で精密検査を受けたが、原因は、ふくらはぎの血管(静脈)が弱って血が流れにくくなったためとのこと。 歳をとったことによるもので、治す方法はなく、今後もふくらはぎのむくみは続くという。左足に「弾性ストッキング」を履けば、少しはむくみが抑えられると云われたので、今は、それを毎日履いて過ごしている。
 次は歯。大きな虫歯が二つ見つかり治療中。1週間に一回、治療に通っているが、2ヶ月はかかりそう。
 その他、最近は歩くスピードがこれまでの2/3に落ちて、六つ星の山行に付いて行くのが難しくなり、半年ほど前から、易しいものを除いて会山行への参加を取りやめている。 
 一方、妻も病院通い。ここ数ヶ月、足腰の痛みで歩くのが困難になり、タクシーや車椅子で、病院に通っているが、これに加えて、11月は目の治療や歯の治療も必要になり、病院通いが増えた。
 更に、妻の介護と食事作り、朝6時に起きての娘の弁当作り(安孫子の農園に勤務)があり、毎日、割りと忙しい。

 

 これが、私の日常である。
・11月22日(金) 守谷の湿原ハイキング  森谷(盲導犬も) 小賀野 田村
(12月)
・12月2日(日)  六つ星忘年山行・越生・大高取山 に参加
 参加者69名(うち視覚障害者22名)。G1コース(大高取山)とG2コース(鼻曲山)に別れて登山。私は易しいG1コースに参加。
12月11日(火) 牛久沼ハイキング  大内 田村

 

 

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俳句と和歌の鑑賞

         「俳句と和歌の鑑賞」

 

  百人一首の競技を始めたのは小学生の頃。中学・高校時代には夢中になり、百首全部を暗記して、競技の腕を上げた。

 学校の授業で和歌や漢詩の講義が好きになったのはそのためである。今でも、ときどき和歌や漢詩の本を読み、また、日曜日の朝日新聞に載る「朝日 俳壇・歌壇」に、ほぼ毎回、目を通している。

 

1)新聞や本からの抜粋

 最近読んだのは、大岡信の著作「詩歌遍歴」、「うたの歳時記-恋のうた 人生のうた」、「うたの歳時記-夏の歳時記」、井上靖「額田女王(ヌカタノオオキミ)」、白州正子「西行」などである。

 いくつか、魅かれた歌を挙げてみよう。

 

○ 朝日新聞「朝日 俳壇 歌壇」より

(2016年)

・「山桜 山にけぶりて 人を恋ふ」(2016/5/16付)

・「向日葵(ヒマワリ)は 金の油を身にあびて ゆらりと高し 日のちひささよ」(5/16付。前田夕暮、ゴッホを詠った大正3年の作)

・「山開(ヤマビラキ) 祝意の晴を 賜りし」(7/25付)

・「霧にかすむ 落葉松林を抜けてきて 着きたる小屋は 濃い霧の中」(7/25付)

・「夏休み 近づくほどに 輝く子」(8/1付)

・「海の青 空へ返して 梅雨明くる」(8/15付)

・「母のもとに 還る流灯 爆心地」(8/15付。原爆では多くの子供たちが亡くなった。流灯とは流し灯篭のこと)

・「みほとけに 委ねし命 菊枕」(9/26付・あの世での平安)

・「冬木立 貝になりたい 人ばかり」(9/26付・俳句時評。黙々と歩く勤め人を現代の象徴と見ての一句か)

・「秋蝶の地に落ち歩む息遣い」(10/17付)

・「卒寿とふ 自負も自戒も 遠ざけて 誰かに甘えてみたき 秋霖」

 (10/24付。私も傘寿に近い。忍耐とねばり、「ほんの少しは世のために」という自負などで生きてきた。でも、ときどき無性に誰かに甘えたくなる。傘寿・80歳。卒寿・90歳)

・「太陽光 パネルの並ぶ 関ヶ原の 何処に鎮むや 鬨(トキ)の声ごえ」

 (10/24付。最近、中仙道を歩いた。芭蕉の「夏草や 兵(ツワモノ)どもの 夢のあと」をも思い出す。昔と今とでは、風景も変わり、風景の感じ方には、大きな違いがあるようだ)
・「熟成す 命の重み 葡萄かな」(10/31付)
・『「ほら見て!」と 言う相手亡き さみしさよ 秋明菊(シュウメイギク)が
咲き始めたのに』(11/13付)
・「便利さは 歩きスマホに 見るごとく 人の人たる 所以(ユエン)揺るがす」(11/28付)
・「歩いては 抱っこをせがむ子 冬日和」」(12/11付・日々平穏) 

・「いたはりの 一ト゚言抱き 冬ぬくし」(12/11付)
・「漁の舟 小春日和に 眠りをる」(12/26付)
・「蕨手は 夜見の手 それも幼き手」(12/26付。俳句時評・高野ムツオ。蕨手-野に生える蕨、夜見-黄泉。震災で津波に呑まれた幼子を悼む歌)

 

(2017年)

・「誕生日 迎えし朝に 「泣かないで」と 言い残し逝きし 十歳の君」(2017/1/16付)

・「永遠と いふ幻とゐる 日向ぼこ」(1/16付)
・「孤独こそ 大きな贅沢 年守る」(1/16付)

・「七草の うつわの中の 山野かな」(1/23付)

・「去年去年 100年持たす 命かな」(1/23付)

・「厳寒の 北海道に 生き伸びん」(1/30付)
・「日脚伸ぶ この一枚の 紙の上」(1/30付)
・「大寒の 影の食い込む 商店街 ひとり花屋の あたり春めく」
(2017/2/12付)

・「井月の 如く果てけり 冬の蝶」(2017/2/12付・「井月(セイゲツ)」は放浪の俳人)

・『「バーバ」「ブ-ブ」 語尾少し上げ 背なの子の ぬくしいとおし 帰途は夕焼け』(2/20付)

・「もう春を 待ってゐられぬ 野の光」(2/20付)

・「きさらぎや 死にゆくひとへ 梅開く」(2/20付)

・「自立とは 小さき革命 春立ちぬ」(2/27付。いろいろな「自立」。中一の我が孫は悩みながら自立中。小学校では楽しさを満喫。今は自信過剰と自信喪失の間(ハザマ)にあり、いじめっ子と見られて悩んだりしている。)

・「耕せば ただひたすらの 人となる」(2/27付。黙々と耕す。)

・「白梅の 香り残して 閉校す」(2/27付)
・「母という 宝は天に 春の空」(3/6付)
・「久方の 天に春立ち 曾孫(ヒマゴ)抱く」(3/6付)
・「雛飾り 止めて媼(オウナ)の 余生かな」
(3/6付)

・「歯がゆさが 電池不足の リモコンを 押すのと似てる 君の返信」(3/6付)
・「いのちとは ひらかながよし はるがきた」(3/13付)
・「池の面に 微笑み少し 春浅し」(3/13付)

・「耕して 耕して耳 遠くなり」(3/20付)

・「梅香る 風にも色の あるような」(3/20付)

・「いつもより ながくてすこし きつかった そつえんのひの せんせいのだっこ」(4/9付)

・「中庭の ロープが解かれ 心臓と 一緒にさがす 受験番号」(4/9付。私にピッタリ。私のときは他校を受験の日で、父が見に行ったが、父もそんな思いだったかも)

・「早蕨や 優しき人は 裏切らず」(4/9付。そんな人、いいな)
・「振り仰けて(フリサケテ) 若月(ミカヅキ)見れば 一目見し 人の眉引(マヨビキ)思ほゆるかも」(4/9付。「短歌時評」より。大伴家持。言葉使いがまるで音楽のように美しいとの評あり)

・ 「一身に 流れて海へ 放たるる 生死の際の やうなる河口」(4/9付。北久保まり子。上に同じ)
・ 「両膝(モロヒザ)を ついてしまえば 土は春」 (4/17付)

・「吉野から 京都醍醐寺 花吹雪」(4/26付。豪華絢爛。どちらも行ったことがあるが

・「道徳という 教科無き フランスは 小学生より 哲学学ぶ」(4/26付。小学生の頃から哲学を学べば、人間の深さに違いがでるかもしれない?)
・「壁越しの 深いためいき 受けとめて 眠りに落ちる 深夜病棟」(4/26付。何となく分かる気持)
・「耕人の しばらく雲を みつめおり」(5/7付)
・『「てて」は手に 「あんよ」は足に 背も伸びて さくらさくさく 子の入園式』(5/7付)

・「雨脚も 染めんばかりの 牡丹かな」(5/22付。「染めんばかりの」がぴったり)

・「聖5月 人には青の 時代あり」(5/22付)
・「平和こそ 山川草木 皆笑う」(5/29付。平和だからこそ山を楽しめる。国内が戦場になったら、家族と逃げ惑う毎日が来ることだろう)
・「地響きに 滝の重さの ありにけり」(5/29付)

・「緑陰の 座ってみたくなる ベンチ」(6/5付)
・「膨大な 時と深さに 息をのむ 五体投地で 進みゆく人」(
チベット仏教)

・「時雨忌や 命の限り 万歩計」(11/6付)

・「死なば冬 大き眠りの ときなれば」(11/25付。西行法師は「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」というが。歌で詠まれると、どちらにも惹かれる

・「大花野 喜寿の少年 少女行く」(11/25付。暖かなまなざし)

・「日記買う 余命宣告 受けし日に」(12/18付)

・「ごくたまの 心の中に忍び寄る 鬼には負けず 十年介護」(12/25付。母の介護、妻の介護。その違い

・「お日様の 力及ばぬ 寒さかな」(12/25付。何かやさしい)

 

(2018年)

・「生涯を 漁師に生きて 初明り」(1/15付。初明り=初日の出

・「雑木林 焦がすばかりに 冬夕日」(1/15付

・「楽しみの 一杯詰まる 冬休み」(1/15付)

・「独楽廻り 澄めるは動の 極みかな」(1/22付

・「励ましの 言葉一言 あたたかし」(1/22付。何物にも代えがたい)

・「神の御手 大きく開く 初日かな」(1/22付。おおらかな元旦)

・『「しあわせ」と聞かれ 幸せですと言う 三食たべて 布団で寝ている』(1/22付)

・「瞑想か または無想か 霜の鶴」(1/29付)

・「添書に 想いの深き 賀状かな」(1/29付)

・「一湾の 底の底まで 初凪(ハツナギ)に」(2/4付)

・「天空を あまねく統べる 寒の月」(2/12付)

・「万緑を 仰ぎ一身 立て直す」(7/8付)

・「天からの 風を枕に 昼寝かな」(8/5付)

・「地球船 秋の航路に 入りけり」(8/12付)

・『三人の 九二歳が ひそひそと 「あの世は無いよ」と 語らう聞こゆ』(8/12付)

・「降り立てば 秋草の待つ 無人駅」(9/9付)

・「風だけが 秋に気づいて をりにけり」(9/9付)

・「ゆきなやむ 牛のあゆみに たつ塵の 風さえあつき 夏の小車」(9/9付の「うたをよむ」より。藤原定家。小車は平安時代の牛車

・「折れそうに なることきつと あつただらう 貫きとほして 翁長知事逝く」(9/9付。革新、沖縄県知事逝く) 

・「永き永き 未来を自ら 断つまでに 命追い込む 学校とは何」(9/23付 

・「落葉踏む 音に雑念 捨ててゆく」(11/25付)

・「まっすぐな 道に寒さで ありにけり」(12/2付)

・「露の世に 大往生と いふがあり」(12/2付)

・「一枚の 落ち葉に音の ありにけり」(12/2付)

・「慎ましく 生くるといふを 雨音に 聞けと諭さる 越(コシ)の庵(イホリ)に」(12/16付)

・「猫のごと 我が身舐めたき 師走かな」(12/16付。なんでなの。ふと、笑みがこぼれる一首)

・「耳もとで 川中美幸の 二人酒 歌ってみたり 寝たきりの母に」(12/23付。ある人からもらったメールの中にも『(寝たきりの母のために)「炭坑節」と「ソーラン節」を歌って踊ってきました。唯一、笑って手拍子を打ってくれます』とあったのを思い出す)

・「乾坤の すべてが冬を 受け止める」(12/23付)

・「埋(ウズ)み火に 鬼も手をだす 寒さかな」(12/23付)

 

 

(2019年)

・「一病を 生きる糧とし 梅真白」(2/24付)

・「手を合わす 君の仕草が 好きだった 食事の始まり 別れの終わり」(3/03。亡き母を思う)

・「お遍路の 今花人や 杖止め(ヤスメ?)」(4/28付。いつか、行きたい)

・「廃校の 花爛漫の 寂しさよ」(4/28付)

・「万葉集 「こひ」に「孤悲」とふ 仮名あてし 想いは死なず 令和の世にも」(4/28付)

・「万緑の 蔭の深さに 聞く水音」(6/02)

・「電球の 裸したしき 金魚売り」(6/02。小学生の頃の縁日を思い出す)

・「鈴蘭に 白きさみしさ ありにけり」 (6/09)

・「短夜や もう露天風呂に 人のこゑ」 (6/16)

・「幼子の 肌も若葉も 透けてゐる」  (6/23)

・「万緑の 底の底なる 湯宿かな」   (6/30)

・「七夕や 不治を悟れば 何願う」   (7/28)

・「人は子を 時に殺める 梅雨空を まっすぐ見つめ 卵抱く鳩」(7/28)

・「軒を出て 狗(いぬ)寒月に 照らされる」、「故郷には 母古雛を 祭るらむ」

                (8月11日・藤沢周平作。朝日俳壇のかこみ記事より)

・「四桁の 暗証番号 ふっと消え ATMに 立ちつくしをり」(8/25)

・「水も米も 魚も野菜も 果物も スーパーにある 暮らしの貧しさ」(8/25)

・「老いどちや 生き生きと死を 語り秋」

        (8/25。どんな思いを表しているのか、気にかかった。 朝日「俳句時評」より)

・「かなかなの 夕べの祈り 風に乗る」

  (8/25。「かなかなの声」を「祈り」ととらえる。私が感じるのは「涼しさ」だが)

・「噴水や 緑の池に 銀を撒く」(8/25)

・「もし帰化を すれば笑顔で 言えますか 「日本人で よかったわ」と」

  (9/01。日本で81年生きた。あらためて「日本のよさとは、何か」と自問。

        山野は水と緑が一杯。でも、日本の社会は福祉面では住みにくい)

・「白桃の 窪みに色気 ありにけり」(9/15)

・「敬老日 老いても大人 にはなれず」(9/15)

・「障害は 不便であれど 不幸ではないなど 軽く言いたくはなし」(12/29)

・「一日の しずかに暮れて ゆく障子」(12/29) 

 

(2020年)

「好きだけで 他が見えないうちは「恋」 好きも嫌いも 受け入れて「愛」」(1/12)

・「白鳥の 首やわらかに 眠るなり」(2/02)

・「露天湯の肩がとらえてゐる夜寒」(11/29)

・「我がために 太陽回る 日向ぼこ」(11/29)

 

(2021年)

「花の春 もう先見えて まだ凡夫」(2/07)

・「寒月の 心を射ぬく 白さかな」(2/28)

・「山あるよ 川もあるから 春よ来い」(3/07)

・「雨意すこし 含みてをりし 猫柳」(3/07)

 

 ○ 「折々のうた」(大岡信著)より

「薦(コモ)着ても 好きな旅なり 花の雨」⦅田上菊舎(キクシャ)。江戸後期の女性俳人。各地を旅して句作。旅への賛歌と決意を「乞食になってでも旅に出たい」と詠んだ。「薦」は乞食の着物。⦆

・「肩車 上にも廻る 風車」(武玉川・ムタマガワ。「武玉川」は江戸時代の雑多な形式と内容をもつ俳句集のこと)
・「見ていたい 花火を見上げる 君だけを」(和田香澄)
・「月天心 貧しき町を 通りけり」(与謝野蕪村)
 ○ 「うたの歳時記・第5巻-恋のうた 人生のうた」(大岡信著)より一層
 以下の4首は平安中期の歌人・和泉式部の作。 恋に人生をかけた情熱の人であるが、人生の深みを見つめる、はっとするような歌もある。この本で和泉式部という歌人を初めて知った。

・黒髪の 乱れも知らず 打伏せば 先づ掻き遣りし 人ぞ恋しき

(解説:「先づ掻き遣りし 人ぞ恋しき」は、「いとしげにこの黒髪を撫でてくれたあの人が恋しい」の意)

・あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの あふこともがな(百人一首)

・とことはに あはれあはれは 尽くすとも 心にかなうものか 命は

(解説:「いとしい」という一言がほしいとあなたは言うが、かりにあわれを永久につくしてみても、限りある人間の身で、この心の無限の渇きをいやすことなどできるものでしょうか)

・もの思えば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる 魂(タマ)かとぞ見る

 

「額田女王(ヌカタノオオキミ)」(井上靖著)より

 著者は「額田女王は天皇に仕える巫女であり、天智天皇とその弟・大海人皇子(のちの天武天皇)に愛された」と見て、この物語を描いた。2016年に読む。

熟田津(ニギタヅ)に 船(フナ)乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(唐・新羅連合軍と戦うために<後の白村江の戦い>、朝廷軍が筑紫へ向かう途中、伊予の熟田津に立ち寄ったときに額田女王が詠った雄々しい出陣の歌) 

・あかねさす紫野行き(ユキ) 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田女王)

 

○「西行」(白州正子著) 

 著者は伯爵家令嬢として明治43年に生れ、平成10年に88歳で没した。能や古寺、骨董等への造詣が深く、「能面」(15回読売文学賞)、「かくれ里(近江の古い寺社の巡礼記)」(24回読売文学賞)など、関連の著作が多い。吉田茂首相の側近・白州次郎氏はその夫。数年前、白州夫妻を主人公にしたドラマがNHKで放映されたが、二人の強烈な個性が今も印象に残っている。2016年に読む。

 この本は西行の足跡をたどりながら、その人柄と生き方への思いを語ったもの。西行は俗名・佐藤義清(ノリキヨ)。鳥羽院を守護する北面の武士であったが、23歳のときに出家。原因は鳥羽天皇の中宮・待賢門院へのかなわぬ恋にあるとの説もあるが、不明。高野山、伊勢などで長く草庵を結び、吉野、四国、東北を廻る。73歳没。自選の歌集として「山家集」(1560首)あり。花の歌、恋の歌、亡き人を思う歌、贈答の歌(親しい人との歌のやりとり)、旅の歌など。

・伏見過ぎぬ 岡の屋になほ 止まらじ 日野まで行きて 駒試みん(武者であった西行の若き日の歌)

・春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり(著者の好きな歌という。はるかかなたの、いにしえの世界へと心が誘われる)

・吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき(在原業平も「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と詠んでいる)

・春ごとの 花に心を なぐさめて 六十路(ムソジ)あまりの 年を経にける

・願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃

・諸共に 我をも具して 散りね花 浮世をいとう 心ある身ぞ

・惑いきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり

・心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮(「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮(定家)」と共に「三夕(サンセキ)の歌の一つ」)

・嘆けとて 月やは物をおもはする かこち顔なる わがなみだかな(百人一首)

 

○「百人一首」(大岡 信著)より 

 小学生の頃代から「かるた競技」に夢中になり、すべての句を覚えたが、歌の意味には全く関心がなかった。関心を持つようにになったのは高校生時代。特に恋の歌に惹かれた。2016年に読む。

 

〇「定家 明月記私抄」(堀田善衛著・新潮社・1986年2月20日発行)-2017.3.13記

 著者には「ゴヤ」や「ミシェル・城館の人」(モンテーニュの生き方を書いたもの)などの著作があり、昔、興味深く読んだことがある。今回、図書館でこの本を見つけて堀田善衛は「藤原定家」のことも書いているんだと興味を惹かれて借りてきたものである。

 藤原定家は鎌倉初期の人。「新古今集」の撰者。父は俊成。兄弟姉妹は27人。
「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 嶺に別るゝ 横雲の空」
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮」
等の歌あり。

 この本は、多くの煩雑な公家世界の行事に追われて疲労困憊する一方で、官位が低いために貧しかった家計のやりくりに追われる定家の日常を、当時の世相(京の町は荒廃。強盗が横行。隣家も襲われた)を交えながら描いたものである。
 定家の嘆きは多い。たとえば、
貧乏(雨漏りがひどいとか、着るものがなくて祭り見物に行けない、傘がこわれて雨の日は外出できない、必要にせまられ尻尾のない安い馬を買ったなど)や病苦(脚気、腰痛、胃痛など)、官位昇進の遅さ、荘園からの地代の少なさ、宮仕えでの煩雑な行事の多さなど。

 この本で平安末期から鎌倉初期の世の現実を初めて知った。中学時代に授業でこんなことを教えてもらっていたら、和歌の読み方がもっと変わっていたかもしれない。

(2)私の好きな歌

・あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり(百人一首)
・岩ばしる 垂水の上の 早蕨(サワラビ)の 萌え出づる春に なりにけるかも(志貴皇子)
・哀しみは 生きの命が 生めるなれば 子としおもひて 疎か(オロソカ)にせじ (窪田空穂)
「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 
 秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだろう」(八木重吉)             
 これらは昔から大好きな歌だったが、
こんな歌にもっともっと会いたいものである。

 

(3)記憶に残る歌

・天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

百人一首。唐に渡った阿部仲麻呂は帰る船が遭難し、一生日本に帰れなかった。唐の都・長安ではるかに奈良を偲んでうたったもの。長安に旅行した時にこの句を刻んだ石碑に出会った) 

・願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月のころ(西行)

・旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る(芭蕉)

・閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声(芭蕉。「岩にしみ入る」という一言にとても惹かれる)

・箱根路を 我が越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ(源実朝。雄大な一句。万葉調と言われる)

・年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣のたては ほころびにけり
(「前九年の役(1051‐1062年)の衣川の戦いで、源義家が逃げる敵将・阿部貞任に下の句で呼びかけ、貞任が上の句を返したという)

・風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとかせん(忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の辞世の句)

・不来方(コズカタ)の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心(石川啄木。少年時代がなんとも懐かしく思い出される)

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2017年の山とウオーク

                 2017年の山とウオーク
 
 今年は山やウオークに行ける自由な時間が週に2回、取れるようになった。妻がこれまで通り、週に2回、デイサービスに通うほかに、娘が1月17日から、ウイークデイの毎日、9時30分-15時30分の間、就労移行支援事業所(職業訓練を受け、1年後に就職を斡旋してもらえる)に通うようになったからである。それまでは家にいる娘につきあって、風呂やウオークに付き合うことが多かったのだが。
 
(今年の山とウオーク一覧)
 ○ 1月20日・水泳・30分・1000m。火事があって閉鎖していたプールが再開した。午前中ならいつでも泳げるフリー会員、月3500円。
 ○ 1月23日・水泳・同上。
 ○ 1月26日・ウオーク・取手-手賀沼・4時間。
 ○ 1月28日・ウオーク・取手(戸田井橋)-成田。久しぶりに成田まで歩く。9時間を要した。2年前は7時間で歩けたし、病後でも8時間で歩けたのだが。足が弱くなったことを実感。脚力の回復をはかりたいとの思いが強い。
 なお、朗報は、靴のつま先に痛みを和らげる市販のパッドを入れたところ、足裏があまり痛まなくなったこと。5回目のサンチャゴ巡礼への挑戦に希望が出できた。
 ○ 1月30日・高尾山 六つ星の9人で。久しぶりに山に登った。
 ○ 2月 2日・水泳・1500m(取手スポーツセンター)
 ○ 2月 4日・健康相談(取手スポーツセンター。足裏の痛みについて)
 ○ 2月 5日・三浦半島の鷹取山。六つ星定例山行 参加33名(うち視覚障害6名)
 ○ 2月 6日・水泳・1000m 
 ○ 2月11日・府中・郷土の森。六つ星定例山行 参加31名(うち視覚障害10名)
 ○ 2月12日・深大寺植物園(昔の職場の登山仲間・女性3人と)
 ○ このあとは、週に1回の水泳と1-2回の3-4時間ウオークを心掛けている。
 ただし、日々の家事や週に1-2回の妻の病院への付き添いなどがあって、日常に埋没してしまい、山には、思い切って行かないとなかなか行けない。
 ○ 3月19日・大野山。六つ星臨時山行 参加30名(うち視覚障害6名)
 ○ 3月21日・稲毛海浜公園。六つ星の仲間6人で、全盲のご夫婦(幼児と赤ちゃんが一緒)の散歩をサポート。普通のサポートとは異なり、サポートの仕方には工夫が必要。サポートをされる側とする側が事前によく話し合うことが大事と強く感じた。
 ○ 3月28日・高尾山。六つ星の5人で。いろはの森-山頂。
 ○ 4月 1日・流山市の「運河」散策。六つ星定例山行 参加31名(うち視覚障害9名)
 ○ 4月15日・久しぶりに長めの散策。
利根川の堤沿いに我が家から市内の小文間までを4時間で往復した。春爛漫である。
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○ 4月16日 北高尾縦走(八王子城跡-堂所山-景信山-バス停・小仏)・単独行
 一か月ぶりの登山。歳のせいで脚力が弱ってきているが、それでも、アップダウンがきついこのロングコースが歩けるかを試したくて、家事の合間を見て、やや無理をして出かけた。
 早朝5時に起床。登山口は9時スタート、17時バス停着。休憩を含み8時間を要した。
 何とか完走はできたが、たいへん疲れた。歩いているときは何とか足が前に出たのだが、家にたどり着いくと、どっと疲れが出て、動くのがつらくなった。何とか、もう少し、脚力アップを図れないものだろうか。運動強化?
 でも、晴れて気温が20度を越え、久しぶりに山の春を満喫できた。
 
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○ 4月23日(日) ロングウオーク 取手-成田。一人で。 
 早朝に起床。7時30分、戸田井スタート。晴れ、利根川堤を行く。春たけなわ、土手一面に新緑が映える。それと、田植え時期の水田に映るのは青空と白い雲。成田線の木下駅、印旛沼の遊歩道などを通って成田ニュータウンへ。写真を撮りながら、ゆっくりと歩いたので、9時間を要した(ニュータウン内はバスで移動)。最後は足裏が痛くなり、靴下を脱いで歩く。

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○4月28日・隣町の利根町散策(バス終点の北方車庫周辺ほか)
○5月3日・直子一家来る。4日・娘と銀座散歩。
        5日・妻と娘と車椅子で手賀沼散歩。
        6日・娘と風呂「湯楽の里」。
○5月7日・水海道駅-「福岡堰」-つくば新線「みらい平駅」散策。一人で。
 (下:「福岡堰」。桜の名所だが、すでに桜は終わっていた)
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○5月12日・房総風土記の丘(成田線・下総松崎)。
  六つ星の仲間5人で(うち視覚障害1名。盲導犬1) 。歩行6時間。100を越える古墳を廻り、709年創建の「龍角寺」跡まで足をのばす。
○5月14日・八王子市の都立長沼公園(視覚障害の初心者登山講習会) 
 六つ星定例山行 参加12名(うち視覚障害2名)
○5月30日・高尾山(高尾山口-山頂-城山-小仏峠-バス停・小仏)
   六つ星の仲間12人で(うち視覚障害4名)。
○6月17日・八国山(東村山)。六つ星の仲間26名(うち視覚障害11名)。
○6月20日・高尾山。六つ星の9人で。景信山。
○7月25日・高尾山。六つ星の11人で。蛇滝-高尾山。
○8月 6日・横瀬川ウオーターウオーキング。六つ星定例山行。参加19名(うち視覚障害4名)。
○8月 7日・明治神宮散策。六つ星の仲間4人で、全盲の奥さん(赤ちゃんと一緒)の散歩をサポート。
○9月19日高尾山。六つ星の12人で。日影-高尾山。
○9月24日・高尾山(稲荷山-高尾山。下山はリフトを利用)。六つ星の仲間等7人で、全盲のご夫婦(幼児と赤ちゃんが一緒)の登山をサポート。
○9月29-30日中山道(和田峠)。単独行。
 最近、数か月、和田峠を歩きたいと狙っていたが、用事があったり、天気が悪かったりして、なかなか行けなかった。それが、やっと、条件に恵まれた。天気予報は2日とも晴れ。妻の介護を一時離れても問題なし。上野から新幹線で佐久平へ。そこから9時01分発の千曲バスで八幡へ。念願のウオーキング。中仙道はほぼ歩き終わったが、和田峠が残っていた。
 初日は9時30分に八幡宿をスタート。望月宿、長久保宿を通り、和田宿手前にある「民宿みや」泊り。17時30分着。2食付き6500円。
 2日目は7時スタート。和田宿の中心を9時30分に通過。和田峠(標高1531m)14時30分着。16時10分樋橋(トヨハシ)着。丁度来た循環バスに乗り、下諏訪駅16時30分着。
 下の写真は「和田峠の頂」、「峠の頂にある案内板」、「あと少し。頂の案内板が望める」、「峠への道」。
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1)和田峠への登りは傾斜がゆるやかで歩きやすい。
 標高1100mの「和田峠口」から車道を離れて山道に入る。これが旧道。上記の写真に見るように幅広でゆるやかな登り。歩きやすい。時間はかかったが、頂までこんな歩きやすい道が続く。江戸時代、この峠は中山道最大の難所と言われていたが、そんな感じは全くしなかった。ほとんど人に会わず。すれ違ったハイカーは3組7人のみ。熊注意の立て札あり。
2)宿場風景(4枚目は高札場)
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3)珍しいものあり(藁ぶきのバス停、苔むした石仏、ミミズを称える碑)。
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4)疲れた。
 民宿から和田峠まで7時間30分。予想以上に時間がかかった。要因は歩行スピードがかなり落ちてきたこと、ひと月前から左膝に痛みが生じたこと(ただし、歩くときはほとんど痛まない。座ると痛む)、前夜の宿が和田宿からかなり離れていたこと(和田宿手前2時間の距離)など。
 疲れた。疲れは峠の頂でピークに達したが、それでも足を前に出して下山道を下った。ともかく足を前に出すことに神経を集中。下諏訪まで歩かずに、途中でバスに乗る。歩行時間は9時間。
5)これからはマイペースの単独行でゆっくりと歩かざるを得ない。
 歩くスピードが落ちたので、これからは山仲間の登山スピードに付いて行くことは難しくなった。「登山は単独行にしぼろう」とあらためて強く感じた。
 
(生き方、さまざま) 2017.9.18
   最近、知人からいろいろと話を聞いた。
○ 広島・長崎の原爆反対集会や国会を取り巻く政府への抗議集会などに、長年参加し続けてきた人。日常生活の中でそのような一人一人の個人の政治行動こそが大事だと思っているようだ。その生き方の真剣さ。
○ 青年時代から山に熱中し、最低限の生活費以外、給料のほとんどを山につぎ込んできたという。私は40歳からなのに、この人は20才前から。同じ70歳台だが、登山にかける情熱と登山の質と量は私のはるかに上だ。
○ 障害のある子供に、農業を通して物を作る喜びを教えてきたという。今、その子は親と一緒に作った野菜を売り歩いている。障害のある子どもへの接し方が私より数段上だ。「物を作る喜びを教える」という発想は私には思い浮かばなかった。
 
〇10月15日・長谷川さん(会の役員)追悼山行・天覧山。六つ星山行。参加45名(うち視覚障害15名)。
〇10月24日・景信山-高尾山。六つ星個人。参加10名(うち視覚障害3名)。
〇11月11日・秩父札所巡り第1回・1番~4番。六つ星山行。参加40名(うち視覚障害13名)。
〇11月17日・安孫子の手賀沼散策。六つ星個人。参加5名(うち視覚障害1名。盲導犬1頭)
○11月11日・秩父札所巡り第1回・1番~4番。六つ星山行。参加40名(うち視覚障害13名)。
○12月17日・忘年山行・秋川丘陵。六つ星定例山行。参加52名(うち視覚障害不明)。
 
〇11月19日-28日・裕之の家族4人(孫2人と)がNYより来日。
   滞在日程が短かったので、あわただしかった。
 一緒に行ったのは、近所の利根川堤散歩(妻も車椅子で)、つくば市の洞峰公園散歩(義弟の車で。妻も) 、表参道散歩(私だけ一緒) など。その他、彼等だけで、ディズニ-ランド(1泊)と北千住の娘の家(1泊)へ。
 一番の収穫は、孫2人に会えたこと。長女は小学2年で物静かな美少女。歩き始めた次女は1歳で、何にでも興味を示す活発で積極的な行動派の少女になりそう。
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〇2017年12月31日-2018年1月1日・孫が一人で泊まりに来た
 大晦日に、孫の風ちゃんが一人で泊まりに来た。小6の爽太は受験勉強中で大晦日も元旦も塾通い。そのために、毎年、年末に我が家に泊まりに来ていた娘一家は今年は来ることができず、泊まりに来たのは風ちゃんだけ
 久しぶりに風ちゃんといろいろと話ができた。何年ぶりだろうか。最近はゆっくりと話す機会が全くなかったので、とても嬉しかった。子供から娘へと成長途上にある風ちゃん。小学生の頃は楽しさ一杯の毎日だったが、最近は苦しさも経験。楽しいこと、苦しいこと、そんな経験を糧にしながら、他の人の苦しみが分かって、その心に寄り添える、そんなやさしい人に育ってほしいと願っている。もちろん、その前に「健康第一」。
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2016年の山とウオーク

2016年の山とウオーク

 

 今年は山やウオークを楽しむ時間が大幅に減少した。  

 それは主に、妻が膝痛で歩くのが困難になり、代わって私が家事全般を担当するようになったことによるが、その他に、私のほうも3月に軽い脳梗塞を発症し、これに加齢による体力・脚力の低下も加わって、病後は歩行について不安定さと疲れ易さが増したことも影響している。

 病後にも時間を見つけて、山やウオークを行っているが、9月の北岳以外は、それを楽しむというよりはむしろ、体力と脚力の維持・回復を図ることを主な目的としたものである。

 今後も山やウオークを楽しむ時間を増やすことは難しいだろう。 

 40歳代に入って以後、主に楽しんできたのは「登山とサンティアゴ巡礼」であり、その他では、読書と囲碁を楽しみとしてきた。

 これからは山と巡礼に代えて、絵画や短歌・俳句について鑑賞の世界を広めるほかに、ときには絵を描いてみたいと思っている。

 

1.山とウオーク

 3月18日に脳梗塞を発症。幸い、軽かったものの、「ふらつく」という後遺症が残ったほかに、医者から再発の恐れを指摘され、視覚障害の方をサポートする登山は、軽いものを除いてはできなくなった。更にこれに加え、妻の膝痛が悪化して、毎日、3食の食事作りや買い物等に追われ、山やウオークを楽しむ時間も大幅に減少した。

 一方、毎日、脳梗塞の再発を予防する薬を飲んでいるためか、登山でもロングウオークでも疲れ易くなり、たとえば、1日の登山行動が4時間を超えると急に疲れが増して、スピードが落ちてしまうし、家に帰ってからも疲れが抜けずに、だるくて気力が減退することが多くなった。これは水泳についても同じである。  

 今後もウオークや水泳を続けて、体力、脚力の強化を図るつもりでいるが、78歳(年末には79歳になる)という年齢を考えると、あれこれと運動に力を入れても、数年前の体力、脚力への復活は難しいかもしれない。

 

○1月17日  六つ星山の会・初詣山行・鎌倉八幡-錢洗弁天

                参加42名(うち視覚障害16名)

○1月31日  六つ星山の会・会山行・伊豆ヶ岳-天目指峠

              参加30名(うち視覚障害8名) 

○2月14日  思い出のウオーク・中仙道・本庄-倉賀野 

○3月4-6日 第15回視覚障害者登山全国交流会・広島宮島の弥山へ。帰途、神戸・六甲山にも登る。

                 六つ星の参加21名(うち視覚障害9名)。全体参加は12団体・211名。

○3月18日   脳梗塞発症

 3月23-30日 入院

○4月23日 病後初めてのロングウオーク・取手-成田(単独。詳しくは後記参照)

(○4月25-5月20日 妻が腰部脊椎間狭窄症の手術で入院)

○4月29日 病後初めての山行・高尾山-陣場山(単独。詳しくは後記参照)

 

○5月2日  病後2回目の山行・鍋割山(単独。詳しくは後記参照)

 

○5月28日 六つ星山の会・臨時会山行・鍋割山(9月北岳の準備山行)。参加17名(うち視覚障害5名) 

 

○6月12日 思い出の個人山行・鍋割山

 

○6月22日 ロングウオーク・取手-成田

 

○6月29日 ロングウオーク・取手-成田

○7月3日  ロングウオーク・取手-成田

○7月16日 ロングウオーク・取手-下総松崎

○7月24日 単独山行・陣馬山-高尾山

 その他、最近は週に2-3回、プールに通い、1回に1,000mを泳いでいる。これまでは月に1-2回だったが、体力回復のために回数を増やしたのである。7月8日にはクロールで連続して1,500mを、7月23日には2,000mを泳いだ。ただし、水泳でも後に疲れが長く残る。

○8月11日 水泳1,000m(3食の食事作りの合間に約30分間)。13日 水泳1,000m。14日 水泳1,000m。16日 ロングウオーク・取手-手賀沼(妻の朝食を用意した後、早朝から約5時間を歩く)。17日 水泳1,500mなど。

○8月26日 単独山行・北高尾山稜(蛇滝口-堂所山-底沢峠-陣馬高原下・バス停)

○9月3-5日 六つ星山の会・会山行・北岳(リーダーとして)参加17名(うち視覚障害5名)(詳しくは後記参照)

○9月14-24日 娘と二人でニューヨークの息子を訪問。 

○10月8日  六つ星山の会・会山行・小金井公園・参加17名(うち視覚障害7名)

○11月26日 六つ星山の会・会山行・森林公園・参加25名(同8名)
○12月4日  六つ星山の会・忘年山行・吾野-子の権現ほか
・ 参加52名(同14名)
○12月18日 六つ星山の会・会山行・野火止用水ほか・参加25名(同6名)

○12月24日 六つ星山の会・個人山行・流山運河・ 参加5名(同2名)

 

2.脳梗塞と妻の膝痛

二人ともこれまで重い病気にかかったことはなかった。今回がはじめてのこと。

1)妻の膝痛

妻は1年半ほど前に右膝を痛めて変形性膝関節症と診断され、歩行が困難となった。家の周辺を杖をついて(またはシルバーカーを押して)ゆっくりと10分ほど歩くのがやっと。これに加え、昨年夏頃には、腰部脊椎間狭窄症でもあると診断された。

そんな中、膝関節症の治療を担当する医者から「膝の運動のためにプールで水中ウオークをするとよい」と勧められ、今年2月1日に30分ほど水中ウオークを行ったところ、以前からの右膝痛とは別に、左足のももからふくらはぎにかけても激痛が走って、歩行がいっそう困難になってしまった。家の中を移動するのもはっていくという状態。別の医者の診断によると、これは水中ウオークが原因となって腰部脊椎間狭窄症を悪化させたためとのこと。

これらを受け、3月末にJAとりで総合医療センターの腰部脊椎間狭窄症専門の医師を訪問。詳しい診察の結果、左足の痛みを取るために、4月26日、脊椎の手術を行い、5月20日までリハビリのため入院した。この間、娘と私は下記のウオークと登山以外の日は毎日、妻の病院にかよった。

退院後は、左足の痛みは取れた。しかし、変形性膝関節症による右膝痛は残っており、

2)家事を担当

 昨年の12月頃から妻の膝痛が進み、介護保険により電動ベッドや車いすを導入したり、玄関や風呂場に手すりを付ける一方、食事の仕方を床に座る方式から食卓と椅子方式に改めた。

また、その頃から、私が食事作りや買い物、洗濯物干し、ゴミ出しなどの家事全般を担当するようになった。脊椎間狭窄症の手術で左足の痛みはなくなったが、右膝の痛みは続いており家事は今も担当おこなしている。

一方、その結果、それまでは自由に行っていたロングウオークや登山に使う時間がかなり減って、今は1-2週間に1回位となってしまった。しかも行くときは、早朝に朝食の支度をするなどしてから出かけている。

また、9月には、妻を残して娘とニューヨークの息子のところに行く予定だが(生まれた孫の顔を見るため)、妻についてはその間、老人施設に入所する手続を取った。

3)脳梗塞を発症

私も3月18日に軽い脳梗塞を発症して、23-30日と入院。脳の一部血管が詰まり、その周辺の脳神経が死滅したために、体のバランス感覚がやや失われて、体がふらつくという後遺症が残った。医者からは、これを治すには半年か1年の長期リハビリが必要と言われ、現在は週1回リハビリのために通院するほか、自宅でも毎日、医者から言われたリハビリを行っている。

今後の課題は二つ。「リハビリによる後遺症の克服」と「再発の防止」である。特に重要なのは後者。私の場合、動脈硬化が進行しており、再発の恐れはかなり高いと医者から言われている。対策は薬による治療と食事療法。これを今後、一生続けなければならない。

また、その結果、視覚障害者のサポート登山を続けることは難しくなった。登山中にふらつく恐れがある、皆のスピードに付いていけない、などが理由である。

 

 (付記)これとは別に3月4日、5日と激しいめまいに襲われ、頭を床につけ動かずにじっとしていないと吐き気がした。医者に行こうとタクシーに乗ったが、途中で降りて吐いてしまい、30分ほど一歩も動けず路上に寝ころんでいたほどだった。こんなことは20年ぶり。前回は、残業続きの中、脳出血で倒れた父の看護(病院での夜間の付き添いが必要で、母と一晩おきに泊り込み、病院の長椅子で寝た)と風邪を引いたことが重なって、職場での会議中に天井が回り始めたのである。

 今回も前回同様、東大病院へ。3回受診。結局、「慣れない家事全般を担当したほか、妻の通院に付き添ったりと気を使いすぎたための、ストレスによる良性のめまい」と診断され、数日で回復した。脳梗塞とは無関係という。「発作の時はこれを飲みなさい」と酔い止め薬(トラベルミン)を渡され、今はいつも持ち歩いている。

 

3.ロングウオークと登山を試す。

 ウオーキングについては家事の合間に、30分、1時間と歩く距離を伸ばして、4月23日に成田まで初めてのロングウオークを試みた。何とか完歩。

次いで4月29日には病後初めて単独で山に登り、高尾山-景信山-陣馬山を縦走。これも所要時間が7時間40分と標準よりは遅かったが、完走できた。ただし、バランスが悪くなったために、急な下りに難渋したほかに、病気前よりはスピードがややダウン。

更に、5月2日には丹沢・鍋割山、9月3-5日には北岳へ。

 

○ 2016.4.23 病後初めてのロング・ウオーク(取手-成田)

 利根川沿いを取手から成田山・新勝寺まで歩いてみたが、ほぼ8時間で完走できた。ただし、以前は7時間で歩けたので、スピードはまだ、元の状態に戻ってはいない。

 利根川沿いは田んぼが多い。水を張った田植え前の田んぼの眺めがなかなか良かった。

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(左:風土記の丘。右:新勝寺)

○2016・4・29 病後初めての登山 高尾山-景信山-陣馬山縦走

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  脳梗塞後、初めての登山。やや体がふらつくという後遺症が残ったが、その自分がどこまで登山が可能かを知りたくて単独で高尾山に出かけた。5時30分に起床。新宿経由で京王線・高尾山口駅へ。8時30分に歩き始め、稲荷山コースと平行して走る6号登山路(登りにのみ利用できる道)を高尾山頂へ。10時着。ゴールデンウイーク・10連休の初日なのに登山者は少ない。天候は晴れだが、雲、やや多し。遠くに真っ白な富士山。日差しに映えて新緑がまぶしい。10時10分山頂発。城山-景信山-陣馬山と縦走し、陣馬山頂に2時50分着。高尾山頂-陣馬山頂を昭文社地図の所要時間(4時間30分)とほぼ同じ時間で歩けた。

 

ただし、ここから陣馬高原下・バス停への下りが大変だった。そこは急で真っすぐに下りる道。木の根や岩角に足を載せ、飛び降りるように下るのだが、後遺症に加え疲れが重なって体が不安定となり、ふんばりが効かずに転びそうになった。結局、ゆっくりと慎重に下り、バス停に着いたのは山頂から1時間20分後。標準時間の1時間をかなりオーバーしていた。

 

試し登山の結果、分かったのは、

・「ゆるやかな登山道はほぼOK」

「ただし、平らなところでも油断をすると横や後ろに20cmほどよろけることがある(よろけないように意識してゆっくりと歩けば大丈夫だが)」

「急斜面の下りでは不安定さが増し(疲れてくると更に不安定さが増す)、注意をしながらゆっくりと下りる必要があり、それだけ時間がかかる」

・「安全にサポートができるかは問題」

・「また、集団行動では皆のスピードに付いていけなくなることがある」  

・「これらから、六つ星のサポ-トは軽登山を除いては無理」、

・「ただし、単独行か、親しい人に付いてもらっての、マイペースでの登山は可能」、などのことだった。

 

○2016・5・2  丹沢・鍋割山往復

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Dsc07494 5月28日に六つ星の会山行のリーダーとして鍋割山に行くことになっているが、そのリーダ-がやれるかをはっきりさせるために一人で鍋割山に行き、本番と同じコースを歩いてみた。大倉バス停を9時スタート。そこから後沢乗越を経て鍋割山頂までは、地図上の標準時間(3時間30分)で行けた。12時30分着。山頂から「金冷ノ頭」へ。ここで塔が岳からの下山道「大倉尾根」に合流。1時40分、「金冷ノ頭」スタート。木の階段や急な下りの砂利道が続き、ゆっくりとしか下りられなかった。それに足の裏が痛くなったことも重なり、大倉バス停までは地図上で所要2時間のところを、2時間40分もかかった。

 

 結局、登りはサポートをしないで行けば、遅れずに登れそうであり、下りは遅れそうだが、視覚障害の方も手こずりそうなので、付いていけるだろうと判断し、リーダーをおりることはしないで、グループの先頭をサポートをせずに歩くこととした。

 

○2016・7・24 陣馬山-高尾山・単独行

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 年齢と病気による脚力の衰えをすこしでも回復させたいとの思いで高尾山に出かけた。起床は5時00分。5時30分発の電車に乗り京王線の新宿経由で高尾駅へ。8時10分発のバスで神馬高原下へ。9時に歩き始めた。

 はじめは快調。しばらくぶりに山に入り、ウキウキしながら歩く。ヒグラシの声、せせらぎの音。夏にしては、気温が低く心地よい。急な斜面を1時間20分で一気に登る。やや疲れた。

 道端の花を撮りながら、景信山、城山、高尾山へ。ほぼ地図上の時間通りで歩く。そのあと、3号路を通り琵琶滝へ下る道を探ったが、その道の入口には「上級者専門の危険なコース」との立て看板があったので、結局、リフトを利用して下山した。

 今回のコースは休憩(20分×2)を含めて約7時間と、ほぼ標準時間で歩けた。ただし、帰宅してからどっと疲れが出たのは問題。

 

○2016・8・26 単独山行・北高尾山稜

 9月3-5日にリーダーとして北岳へ行く予定(六つ星の定例山行・参加17名)。その足慣らしとして一人で北高尾山稜に出かけた。この山稜のノーマルルートは八王子・城山から富士見台を経て陣馬山へと標準で約6時間をかけて歩くもので、途中、急なアップ・ダウンが数時間ほど続くところがあり、高尾山ルートの中ではきついほうである。今回は蛇滝口から登り、富士見台でこのルートに合流することにした。

 まず、バスで蛇滝口へ。ここから山に入り、富士見台-堂所山-底沢峠を経て陣馬高原下・バス停までを歩いた。

 その中での特記事項は滝口からの最初の20分がこれまでにないほどに暑くて、とてもきつかったこと。そこは廃道に近い道だった。草ぼうぼう。日陰が全くなく、30度を越える強い日差しが照り付ける中、背丈ほどの雑草を踏み分けながら進む。その上、顔や手足に蜘蛛の巣が次々とまとわりつき、拾った棒で打ち払うのに神経をすり減らした。これまでに経験したことがないほどに、どっと汗が溢れて、脳梗塞が再発しないかとちょっと怖くなるほどで、やや、パニック状態に。体が一層熱くなり、暑さでふるえがくる感じ。動悸が高まる。あとからあとから、いくらでも汗が溢れた。

 何とか森の中へ。「ここが大事。あせらないこと」と自分に言い聞かせ、腰を下ろして大休止。なかなか動悸が収まらない。たっぷり水を飲むと、やっと動悸が収まりパニック状態を脱した。こんなに汗が出たのは初めての経験。

 ここから富士見台へは1時間以上の急登。ゆっくり、ゆっくりと登る。

 やっと富士見台へ。ここからは城山から来るノーマルルートだ。更に2時間は急登、急下降の連続だったが、森の中の日陰を行く中で風も通っていて涼しかったので、本来の自分を取り戻し、普通のスピードで歩くことができた。

 これを越えると後半は、道はゆるやかな登りに代わる。ときどき小休止。涼風が気持ち良い。「生きているって、森の中でこの涼しい風が感じられることなのだ」とふと思う。死んだら何も感じなくなるはず。それらを意識する自分の存在も感じる。

 底沢峠から下山路へ。

 バス停はもう間もなく。谷川に下りて、顔を洗う。あたりには誰もいないので、上半身、裸になって体も拭く。ついでに汗まみれのシャツも洗い、そのまま身に着けた。気持よい。

 このコース、結局、すれ違ったのは女性2人組のみ。バスの客も2人だけだった。暑いときは、高尾に来る人は少ないようだ。所要時間は休憩を含め、7時間30分。

 最初は暑さで苦労したが、全行程をほぼ地図上の標準時間で歩けたので、北岳登山は山頂まで歩けると判断した。

 

○2016・9・3-5 六つ星山の会・会山行・北岳 参加17名(うち視覚障害5名) リーダーとして参加。

 

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(上・北岳山頂を望む。撮影・市角順子さん)

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(上・山頂はすぐ。撮影・新海吉治さん)

 

  月曜が入った3泊の日程なので直前までサポーターが集まるかと心配したが、最終的にはしっかりとしたサポート体制を組めるだけの仲間が参加してくれた。また、前日までの天気予報は「雨、午後は雷」と最悪で、「雨だけなら登頂は可能だが、雷を伴っては登頂は危険で無理」と思っていたが、こちらは予報がはずれて登頂当日の午前中は快晴となり、山々が見渡せる大展望が満喫できた。そして登頂に成功し、山頂で一人一人としっかりと握手を交わす。みんな、生き生きとして、大満足の表情。 

 

4.ニューヨーク行-息子のところに孫の顔を見に行く-

 9月14-24日、同居の娘と二人でNYの息子のところに、3月に生まれた二人目の孫の顔を見に出かけた。妻は老人施設に入ってお留守番。

 目的は二つ。孫に会うことと娘のNY見物をサポートすること。孫の写真をいっぱい撮ったほかは、娘に毎日付き合ってNY中を歩き回った。娘は日本では楽しみがほとんどなくて、日中も部屋にいることが多い。そんな娘を楽しませたかったのだ。

 一方、今回は自分の楽しみを追うことはしなかった。もっともNYで自分が楽しめることはあまりない。せいぜい、公園散歩。前回来たときは、セントラル・パークをジョギングで一周したり、マンハッタン島を上から下へと一日で歩いてみたりしたが。

 娘とは徹底して付き合った。ほぼ毎日、朝10時頃に家を出て、帰宅は夕方5時過ぎ。日本で買った観光案内書をみて、地下鉄の路線図と町の詳細図を調べては、娘が行きたいNY市内のブティックに出かけた。ソーホー、ノーリタ、ブルックリン、34丁目ストリートなど。

 その他では、息子一家とレンタカーでハドソン川をさかのぼり、近郊の農場と彫刻公園へ。NYは車で1時間も行けば丘陵地帯に入り、自然が豊か。
 また、別の日にNY市内、ハドソン川沿いの散歩道「ハイライン」へ。

 

(下:ハドソン川)

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(下:農場。レストランにて食事、トラクターで農場周遊)
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(下:彫刻公園。広い。端から端まで徒歩で1時間)
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 別の日にNY市内、ハドソン川沿いの散歩道へ。
 (下:散歩道「ハイライン」。貨物線跡を利用して造る。2009年に公開。2.3km)
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(下:息子夫婦と孫が住むまち)
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5.人生の転機を迎えたように思う。

脳梗塞発症後、歩くバランスがやや悪くなり、また、歩くスピードも落ちた。

・加齢で疲れやすくなった。再発予防の薬を毎日、服用しているが、その影響もあるように思う。

・妻の介護があって、登山やウオーキングの時間が取りにくくなった。

 

 これらのために、ほぼ40年間続けてきた登山とウオーク中心の生活を見直さざるを得なくなった。

 もっとも、私の余生は長くても10年、90歳までだろう。人生はあっという間に終わるかもしれず、「転機を迎えた」などと感慨にふける余裕はないかもしれない。

 

6.趣味の世界を広げたい。

 山とサンティアゴ巡礼に代えて、趣味を広げることを考えている。一つは和歌と俳句。もう一つは絵画。それに映画など。

 なんでもそうだが、それらを深めるには数年を要する。私も日常的に関心を持ち続け、少しづつ深めていきたいと思っている。 

 

1)俳句と和歌の鑑賞(別記)

2)絵画

 最近、明治・大正を生きた版画家「吉田博」(南北アルプスに何日も入り込み、その風景を油絵や版画で表す)と「川瀬巴水」(全国を旅する。江戸時代の情緒に溢れた版画が多い)の画集を買って見ている。また、永年の夢だが、いつかは絵を描いてみたいとも思っている。 

 

3)映画

 なお、映画も好きだ。この夏は、ロング・ウオークと登山を題材にした映画を続けて見た。「ロング・トレイル!」、「わたしに会うまでの1600キロ」、「奇跡の2000マイル」、「ヒマラヤ-地上8,000メートルの絆」の4本である。

 

・「わたしに会うまでの1600キロ」

 2015年8月、日本公開。北米の山野を3か月かけて1人で歩き通した若き女性のヒューマンドラマ。人生を見直し第二の人生を歩むために、自然歩道のパシフィック・クレイスト・トレイルに挑んだ。このトレイルはアパラチアン・トレイル、コンティネンタル・ディバイド・トレイルと並ぶ北米三大長距離自然歩道のひとつであり、アメリカ西海岸沿いにメキシコ国境からカナダ国境まで続く、総延長4,000kmの道である。彼女が歩いたのはその一部、1,600km。山中と荒野を歩く厳しさがたいへんよく実感できる映画だった。

 

・「ロング・トレイル!」

 2016年7月末、日本公開。ロバートレッドフォード主演。こちらはトレッキングの経験がない中年男性二人組が思い立って、アパラチアン・トレイルを歩くもの。全長は北米東海岸沿いの3500km。足の痛みあり、豪雨や大熊(グリズリー)との遭遇ありの中、全行程の約1/2を歩き通す。ただし、筋立てはコミカルで、ロング・トレイルのつらさはあまり伝わってこなかった。

 

「奇跡の2000マイル」 

 2015年7月、日本公開。愛犬を連れてラクダと共に3000kmに及ぶオーストラリア砂漠をたった1人で踏破した女性の物語。

 

「ヒマラヤ-地上8,000メートルの絆」

 2016年7月末、日本公開。韓国映画。韓国の登山隊がエベレストの8750m地点で遭難した仲間の遺体を探し出し収容するために命を懸けて苦闘する物語。男の熱い友情を描いたものである。

 

(追記2016.12.10。DVD「星の旅人たち」を見て)
 息子がサンティアゴ巡礼の途中で亡くなり、その遺灰を蒔きながらサンジャン・ピエド・ポーからサンチャゴまで追悼の旅をする父親の物語。途中で一緒になった3人の巡礼者と少しづつ心が通い合い、絆をはぐくむ物語でもある。

 風景も良い。昔行った時の記憶がよみがえり、とても懐かしかった。
 お勧めしたい秀作である。

 
 ところで、あらためて、私の巡礼記を振り返ってみて感じるのは、精神性が欠けており、「星の旅人たち」に比べれば内容がぜんぜん軽いなということ。歩くのに夢中で、人生についてとか、自分の人生の中での巡礼の意味についてとかを考える余裕がなかったとも言えようか。
 でも、ときどき、この巡礼記を読んでコメントを寄せてくれる方がいる。「行くに当たって、とても参考になった」と。そんなコメントがあると私はとても嬉しくなり、心が満たされる。というのは、私の狙いは他の巡礼記以上に「行く人の役に立つような旅行案内」を書くことにあり、それが少しは証明されたように感じるからだ。
 

<参考>

 アメリカのロング・トレイルの全貌

 -インターネット「アメリカの長距離トレイル」より-

その1) ナショナル・シーニック・トレイル (National Scenic Trails)


アメリカのナショナル・シーニック・トレイル(PCT公式マップ&ガイドより)

 

 アメリカ合衆国の条例によって最も豊かな自然の景観を楽しめる部分をつなげたトレイルである。 ディスカバリー・トレイルやロード・ウォークとは異なり、町から離れた自然の守られたところを通っていて、多くはハイカー専用(中にはPCTのようにトレイル・ライディング(馬)が許されているところもある)になっている。   

    1. アパラチアン・トレイル [Appalachian Trail] (AT)   東海岸をジョージア州からメイ-ン州まで14の州をつなぎ、2,160マイル(1・6㎞/マイル)と長い、アメリカで最も人気のあるロングトレイル。 毎年2,000人ちかくがスルーハイクを試みる。 高度はニューヨーク州のハドソンリバーの海水面の高さから、最も高いグレート・スモーキー・マウンテン国立公園の6,642フィート(0.3m/フィート)にまで達する。トレイル自体はよくマークされていて、スルーハイカーは地図を必要としないらしい。雨は多く、トレイルは急だがPCTやCDTのような厳しい環境条件はほとんどない。 http://www.atconf.org/

    1. パシフィック・クレスト・トレイル  [Pacific  Crest Trail] (PCT)  西海岸の3つの州、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンをメキシコからカナダまでつながる唯一完成済みのトレイル。2,650マイル(1・6㎞/マイル)のこのトレイルは、最も低いオレゴンのコロンビアリバーの180フィート(0.3m/フィート)から、カリフォルニア、シエラネバダ山脈に位置するフォーレスターパスの13,180フィートまで、はばひろい高度の変化が伴う。 カリフォルニア南部の砂漠地帯やシエラネバダの高山地帯など、環境条件が特に厳しい。 http://www.pcta.org

 

    1. コンティネンタル・ディバイド・トレイル [Continental  Divide Trail] (CDT)   ナショナル・シーニック・トレイルのうちでノース・カントリー・トレイルに次いで、二番目に長い未完成のトレイル。 ロッキー山脈を南北に走っており、大陸をまっぷたつに割くため「コンティネンタル・ディバイド」と呼ばれる。 メキシコからカナダへと続く全長3,100マイル(1・6㎞/マイル)にもおよぶトレイルのうち、約2,000マイルほどが完成し、スルーハイカーは残りの1,100マイルについては自分で選んだトレイルを歩く。 トレイルは古いマークのない道路や、茂みの中などとにかく地図を読む技能が不可欠。 自然環境はPCTと似て、コロラドから北の雪の多い地帯や、ニューメキシコやアリゾナの砂漠地帯など非常に変化に富んでいる。 http://www.cdtrail.org

 

    1. ノース・カウントリー・トレイル

 

    1. アイス・エイジ・トレイル

 

    1. ポトマック・ヘリテージ・トレイル

 

    1. ナチェス・トレイス・トレイル

 

  1. フロリダ・トレイル

 

 これらのほかにもナショナル・シーニック・トレイルには、

 

・ ジョン・ミュア-・トレイル

 

 アメリカの長距離自然歩道。カリフォルニア州内を、ヨセミテ峡谷ヨセミテ国立公園)からマウント・ホイットニー(マッキンリーのあるアラスカ州を除けば、北米の最高峰)まで、340キロメートルにわたって縦走する。トレイルの大部分はパシフィック・クレスト・トレイルの一部になっている。アメリカにおける「自然保護の父」と呼ばれるナチュラリスト、ジョン・ミューアにちなんで命名されたもの。

注)「ジョン・ミューア・トレイルを行く-バックパッキング340キロ」(加藤則芳著・平凡社・1997年7月発行)などを参照。

・  ノース・ウエスターン・トレイル

・ アリゾナ・トレイル

・ コロラド・トレイル などといろいろある。

 

その2)ナショナル・ディスカバリー・トレイル (National Discovery Trail)

 

 
American         Discovery Trail (www.backpacker.com/adtより)

 

・アメリカン・ディスカバリー・トレイル   [American Discovery Trial] (ADT)    

 このトレイルはカリフォルニアからデラウェア-まで続く唯一のアメリカ横断トレイルである。 ナショナル・シーニック・トレイルとは異なり、アメリカの歴史をたどったトレイル。 途中トレイルが2つに分かれるが、どちらを選ぶかはハイカーの好み。 途上では、シカゴやサンフランシスコのような大都市や、昔使われていた鉄道線路、UCバークレーのような有名な大学など、さまざまなところを見ることができるだろう。 ただ自然の中でのハイキングという感じには少々欠ける。http://www.discoverytrail.org

 以上の北米のロング・トレイルは私のあこがれの一つ。いつかは歩いてみたいと長年、夢見てきたが、体力の衰えがあり、果たせないで終わりそうだ。

 

(最後に)

今後の私の大きな夢は5回目のサンティアゴ巡礼として「南仏・アラゴンの道」を歩くことである。

毎日の妻の介護と家事を考えると、行くのは難しそう。でも、「アラゴンの道」の地図(フランス語版?)だけは図書通信販売のアマゾンから購入した。

歩ける自信はある。「いつか行く」という夢は持ち続けたい。

 

「家にいて 夢は地球を かけ廻る」(猛)

 

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2015年12月・今年の山と旅

2015年12月・今年の山と旅

 

・今年登った山は、夏の北岳、仙丈岳、上州武尊山など。いずれも視覚障害の方と一緒である。

・旅では中仙道を5回歩く。

 3月に六つ星の仲間と中仙道の「妻籠-馬篭-中津川-鵜沼」を、10月末には「鵜沼-関ケ原-醒井(サメガイ)-愛知川(エチガワ)」を歩いた。昔、「贄川-妻籠」(六つ星・全盲のFさんと二人で)を歩いたことがあるので、これで「贄川-愛知川」間が繋がった。目的地の京都へはあと50km。

 なお、中仙道の前半(日本橋-贄川)はまだ歩いていなかったが、これについても、11月16日に「軽井沢-碓氷峠-松井田」を、11月29日に熊谷-鴻巣-北本」を、12月4日に「浦和-大宮-上尾」を、12月22日に「熊谷-本庄」を単独で歩き、中仙道完歩への一歩を踏み出している。

・サンティアゴ巡礼については5回目をと思っているが、いつ行けるだろうか。妻が膝の関節を痛めて、長時間キッチンに立つことが難しくなったために、代わって私が食事作りやあと片付け、買い物など、ほぼ家事全般を担当することになったために、山と旅に回せる時間が少なくなった。でも、行く夢を捨ててはいない。

 

1.登山

 ここ数年、大きな山に登ることはなかった。今年の北岳、仙丈岳は、2012年の木曾駒と焼岳以来の、久しぶりの高山である。膝の半月板を損傷し、しばらく大きな山に行くことを控えていたが、六つ星の役員会に来年の会山行として「北岳」を提案し、リーダーとして行くことになったために、北岳と仙丈岳に登ってみた。「はたして、疲れることなく登れるか、リーダーの役割を果たせるか」を試すためである。高い山に登ることは誰にとっても大きな夢。この企画は、会員の中でまだ登ったことのない方々への「北岳登頂への夢をご一緒に実現しましょう」という私のメッセージとも言えようか。なお、6月に六つ星の仲間と、日本百名山で最後に残る「草津白根山」にも出かけた。

以下、写真で紹介する。

 

<北岳> 六つ星の会員3人による来年の下見山行。前日、白根御池小屋へ。翌日、頂上を目指す。天気は「午後が雨、明日も雨」との予報だったので、一日で山頂を往復することとし、午前4時40分に小屋を出発。大樺沢を登り、八本歯のコルを経て山頂へ。眺めは抜群。肩の小屋まで降りて昼食休憩。この頃から雲が出て眺望がなくなった。一気に白根御池小屋に下る。15時小屋着。すぐに雨となった。 

 

        (大樺沢を登る。背後に鳳凰三山、遠くに八ヶ岳)

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         (下:八本歯のコルから、北岳山荘と間ノ岳)

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           (下:左後方、塩見岳)

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仙丈岳> 六つ星の20名(うち視覚障害の方6名)で、早朝4時20分に北沢峠の小屋を出発。山頂を往復し14時に峠に帰着。

                   (前方に仙丈岳山頂)

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(下:後方は甲斐駒ヶ岳)

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(下:中央が北岳、その後方に富士山)

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<草津白根山>

 日本百名山は99座に登り、残るは草津白根のみ。六つ星の高橋さんに記念の旗を作っていただき、6月に仲間6人と出かけた。山頂近くまでは車。ただし、霧が出て寒く、山頂へ徒歩30分の駐車場で登頂を断念。

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(上:カラマツの実)

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(今年の山・一覧)

・1月11日 初詣山行・高幡不動 六つ星・定例(参加32人、うち視覚障害13人)

・1月21日 小網代の森     六つ星・臨時(20人、うち視障6人)

・2月14日  三浦富士    六つ星・臨時(31人、うち視障11人)

・3月26日  等々力渓谷   六つ星・臨時(31人、うち視障9人)

・4月5日 相模嵐山 サポート講習会 六つ星・会山行(25人、うち視障5人)

・5月17日 視覚障害初心者講習会 六つ星・会山行(35人、うち視障9人)

・6月7-8日 草津白根山  高橋(徳)、町田、塩野、市角(順)

・7月4-5日 上州武尊山  六つ星・会山行(26人、うち視障6人)

・7月25-26日 仙丈岳  六つ星・会山行(20人、うち視障6人)

・8月8日 奥多摩・矢沢・ウォーター・ウォーキング 

六つ星・会山行(17人、うち視障4人)

・9月15-17日 北岳   来年秋の下見  葛貫、町田、田村

・10月10日 高尾山 忘年山行の下見(G2コ‐ス) 三谷、宮本、田村

・11月8日  高尾山 忘年山行の下見(G1コ‐ス) 三谷、横山、堀行、田村 

・12月13日  忘年山行・高尾山  六つ星・会山行(70人、うち視障23人)

 

2.旅

 主に中仙道を歩いた。

 

 (中仙道) 

 中仙道は東海道、奥州道中、甲州道中、日光道中と並び、徳川幕府が江戸・日本橋を起点として整備した五街道の一つであり、高崎、軽井沢、諏訪、木曽、中津川等を経由して江戸から京都に至る街道である。

 また、この道は奈良・平安時代の古道「東山道」にほぼ沿っている。

 (東山道) 

 東山道は奈良時代の7世紀後半から8世紀にかけて整備された古代の官道「七道駅路」の一つ。他に東海道、山陽道、北陸道、山陰道、南海道(四国)、西海道(九州)がある。また、これらの詳細は平安時代に策定の「延喜式」(当時の法令の施行細則を記載したもの。927年の完成)に記載されているが、道幅は6-12mと大幅であり、駅家(宿場)は16kmごとに置かれていたという。

 うち、東山道はまず、京都から中仙道沿いに中津川市(以下、現在の地名を使う)に至り、ここから中仙道の木曽谷と分かれて、神坂峠を越え伊那谷に入る。更に松本市を経て保福寺峠(標高1345m)を越え、上田市へ。次いで碓氷峠を越え前橋市に至り、宇都宮市の東を通って、那須のJR黒川駅に至る。更にこの先、郡山市、福島市を通り、白石市を越えたところで、陸奥路(盛岡へ)と出羽路(秋田へ)に分かれる。

 なお、中仙道を歩く中で、「これより右、東山道」などの説明板を見かけ、東山道を将来は歩いてみたいと思ったが、専門書を読むと、中仙道のように道筋は明確ではなく 東山道は歩くには適していないようである。

 

・3月28日(夜行バス)-31日 中仙道(妻籠-中津川-鵜沼)  松本(梢)、町田、塩野、岩下、田村

 ご一緒した全盲の松本梢さんはすごい人。足だけでなく、精神もたくましい。以前、単独で中仙道を歩いたという。12月の今は子育てに忙しい。

 以下、気に入った風景を写真で紹介する。

 

(下:中津川宿の夜明け)

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10月25-27日 中仙道(鵜沼-醒井-愛知川)  町田、塩野、岩下、田村

 皆さん、足が早くて、付いていくのがやっと。かなりきつい旅だった。

 3月に歩いた妻籠-御嶽の間は山の中の登り下りや山村と田んぼが続き、自然を満喫できたが、今回は都会や両側に民家が続く里歩きがほとんどで、自然を味わう機会はあまりなかった。

 そんな中で印象に残った見どころを写真でいくつか紹介したい。

 

(下4枚:最も印象に残ったのは醒井宿の清流。湧き水が豊富で宿場に沿って1kmほど清流が流れている。「古事記」にも載っており、名水の里として有名。ハリヨが泳ぎ、白い花をつけた梅花藻が水中にゆれる。流れの中には石灯籠。野菜を洗うおばあちゃんの姿も。思いがけず、すばらしい清流に巡りあった。もう一度、ぜひ、訪れてみたいところである)

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(上・梅花藻:宿場に飾られていた写真を複写したもの。見ごろは7月)

(下:垂井宿「旅籠亀丸屋」に泊る。1777年の建築。脇本陣格だったという。今は83歳のおばあちゃんが一人で切り盛りをしており。お手伝いさんはいない。中仙道で今も人を泊めている旅籠は少ないが、ここはその一つ)

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(上:私達はお殿様が泊る最上級の部屋に泊った。江戸時代、部屋に丸窓を付けるにはお役人の許可が必要だったという)

(下:美江寺宿・小簾紅園。皇女・和宮がここで揖斐川を渡ったことを記念して造られた公園。今でも毎年、記念のお祭りが開催されている。私達は祭りの当日にそこを通った。写真はその幔幕)

 

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 (下:番場宿。各家に立つ旗は、地元・蓮華寺の1400年祭を祝うもの

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(上「岐阜県・美濃(今須宿)」と「滋賀県・近江(柏原宿)」の県境)

(下:高齢者のための珍しいデイ・サービス施設)

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(お地蔵さん)

 

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(彦根市・入口の碑)

 

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(下:「街道筋・柏原」と「伊藤忠と丸紅の創立者・伊藤忠兵衛生家。愛知川」)

 

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11月16日(月) 中仙道(軽井沢-碓氷峠-松井田) 単独で。

 

 中仙道の贄川から先はほぼ歩き終わった。残るは江戸からの前半の道。その中で厳しいのは和田峠と碓氷峠のようだ。

 

 きょうは単独、日帰りで、軽井沢-碓氷峠-松井田間を歩いてみた。

 

 早朝、上野発6時34分の新幹線に乗車し7時36分に軽井沢に到着。「このルートにはどんな風景が待っているのか」、わくわくしながら駅前をスタート。お店はどこもまだ閉まっており、人気なし。町はずれで中仙道を離れ、遠回りの遊歩道を登り、3時間で碓氷峠の頂きへ。朝日がまぶしい。

 

 そこまでは快調だった。しかし、下り道でももの筋肉が痛くなり、下りきった時には、歩くのが苦痛になるほどに。原因は、5時間の間、休憩を取らずに一気に歩いたこと、長く続く石ころと赤土の下りが、履いてきたよれよれのウオーキング・シューズ(昨年のサンティアゴ巡礼以来、履き詰めのものだった)と合わなかったこと(ここは靴底がしっかりした登山靴がよい)、脚力の衰えがかなりあることなどにある。そのため、後半の松井田までは足の痛みをこらえての苦しい道中となった。松井田駅16時30分着。

 

 そんな中で楽しんだのは、昔の街道の雰囲気や妙義山の風景。

 

 特によかったのは、平安時代の関所跡(899年に設置。坂本宿から山中を2.5㎞登ったところにある)、横川にある江戸時代の関所跡(1622年に設置。坂本宿の手前にある)、足利時代末の新田義貞の古戦場跡、山中に10軒の茶屋が栄えた「山中茶屋」の跡、小林一茶が泊って句会を開いた旅籠跡など。それらの前で、解説の立て札をゆっくりと読み、はるか昔に思いを馳せた。

 

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・11月29日(日)中仙道(熊谷-鴻巣-北本) 単独で。

 

 11月21日に激しい目まいに襲われ、11月27-30日に六つ星の仲間と行く予定だった「中仙道(愛知川-京都)」の旅への参加は取りやめた。

 

 一方、昔からわずらっていた妻の足の痛みが一層ひどくなり、最近は三食の食事作りや病院通いの付添い、介護保険の相談などで、日常はかなり忙しい。

 

 そんな中、何とか息抜きがしたいという思いが強くなって、日帰りで中仙道歩きに出かけた。幸い、めまいは翌日にはおさまり、今は頭が重いだけ。軽いウオーキングは体調を整えるのに効果があるかもしれない。

 

 沿道ぞいの史跡や川に寄り道をし、説明板を読みながら、約20kmをゆっくりと歩いた。 

 

 いくつかを以下に紹介する。

 

       (下:熊谷、元荒川。透き通った川。ムサシトヨミの生息地)

 

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(下:熊谷のはずれから約3km、街道は荒川沿いを行く。対岸はるかに、奥武蔵と秩父の山々)

 

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(下:熊谷のはずれ。歌舞伎で有名な白井権八に由来する権八地蔵)

 

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(下:吹上。忍藩の領界碑。1780年建立)

 

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(下:北鴻巣・箕田は箕田源氏発祥の地。その説明板)

 

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     (下:雛の里、鴻巣「人形町」。雛人形のお店が並ぶ)

 

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・12月4日(金)中仙道(浦和-大宮-上尾) 単独で。

 

 この辺りは大都会。案内書に「本陣はTデパートの辺り、脇本陣はKビルの辺り」とあっても、案内板や石碑はなく、見るべき史跡は少ない。

 

 そんな中で寄り道をしたのはいくつかのお寺と史跡。

 

(浦和・玉蔵院の石庭)

 

 

 

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(浦和・成就院。寒桜を通して見る観音様)

 

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12月22日(金)中仙道(熊谷-本庄) 単独で。

 

・12月21日は78歳の誕生日。それを記念して22日にウオーキングに出かけた。
・歩いたのは中仙道。今回は熊谷-本庄。毎日、三食の食事作り、買い物、妻の病院への付き添いなどの家事に追われる中で、朝食の用意をすませて、早朝に出かけた。
・今回の道筋で気に入ったところを以下にいくつか紹介する。
(見どころ)
○ 秩父巡礼への道しるべ
 秩父札所巡りは室町時代に始まる。江戸時代に盛んになり、最盛期には年に数万人が訪れたという。秩父へは、江戸から中仙道をたどり、ここ、熊谷郊外にある道しるべのところを左に曲がるが、碑には「秩父観音順禮道・
一ばん・四万部寺へたいらみち11里」(一里は約4km)とある。

 

 はるか昔の江戸時代、秩父巡礼を目指して、町人や武士が、単独で、あるいは友人同士や夫婦連れで、時には子供を連れて、私の眼前にあるこの道しるべの前を通って行ったのだ。

 

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○ 平忠度(たいらのただのり)の墓
 忠度は清盛の異母弟。武人で歌人。「さざなみや 滋賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」の歌は「平家物語」(鎌倉時代に作られた)
に載っており、たいへん有名。この歌は、平家が源氏に攻められて都を落ちていくときに、後白河院の命により勅選和歌集「千載集」の編集に携わっていた藤原俊成を忠度が訪ねて掲載を頼んだもの。俊成は忠度が朝敵になっていたので、「読み人知らず」としてこれを載せた。このあたり、高校時代の授業で習っている
 忠度はその後、源平・一の谷の合戦(1184年)で、深谷郊外・岡部に領地のある源氏側の岡部六弥太忠澄に打ち取られた。
 この石碑と桜(写真)は岡部の「清心寺」にある。ここに、忠澄は忠度の菩提をともらうために、五輪の塔を建立し、桜を植えた。
 

 

 なお、「勅選和歌集」とは天皇や上皇の命により編まれる歌集。醍醐天皇による古今和歌集がその最初。

 

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○ 深谷シネマ
 この崩れかっかった建物の写真は、深谷にある酒蔵を改造した映画館への入口(中仙道沿いにあり)。2016年1月はほぼ連日、「天空の蜂」、「ボーイ・ソプラノ ただひとつの歌声」、「岸辺の旅」などの映画を上映している。詳細はインターネットに「深谷シネマ」と入力してご覧ください。一度は入ってみたいところである。。

 

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○ 「初冬、夕暮れ近くの川辺の風景」

 

 本庄の入口、小山川にかかる滝岡橋から。周辺は田畑。今回のコースで唯一の大きな川だった。

 

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付記-「年末はとても忙しかった」

 

○ 12月は、妻の膝と腰の痛みが進み、数回の病院受診への付き添いや介護保険利用によるベッドの借り入れと玄関・風呂等への手すりの取り付け、食事を座卓利用から椅子利用へと転換するためのテーブルの購入などを進める中で、食事作りや買い物、洗濯物干し、ゴミ出しなどの家事全般を担当するようになった。

 

 妻の腰の痛みは脊椎の2ヶ所の圧迫骨折による。12月10日に慈恵医大柏病院で検査し、14日に告げられた。「治療には安静が第一。完治は数か月先」とのこと。でも、床に寝て長期間安静にしていれば、足の筋肉が衰え、立てなくなる恐れがある。これらについて「セカンド・オピニオン」を求め、15日、朝6時に起床して東葛病院へ。更に17日、慈恵が遠いため、取手協同病院を訪問し、受診の窓口をそちらに移す手続きをした。3病院の診察結果を総合すると、「安静にしつつ、運動し足も動かすことが必要」のようだ。また、膝の治療は脊椎が完治してから、とのこと。

 

 24日と28日に脊椎治療のための注射を打ちに病院へ。

 

○ 12月13日は高尾山での六つ星の忘年山行。約60名が参加
。直前に風邪をひいたが、6名の担当の一人として行かざるを得ず、強い風邪薬を飲みつつ参加。

 

○ 年末の雑事が沢山重なった。年賀状作り、早稲田の穴八幡への年末恒例のお参りなど。

 

○ 娘の職業訓練について、受入先と連絡、相談を数回行った。

 

○ 海外に住む息子が運転免許更新のために12月9日-19日に帰国。レンタカーでの妻の移送を依頼。

 

○ これらを終えて大晦日を迎え、やっとやや落ち着くことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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私の生い立ちと歩んできた道

<私の生い立ちと歩んできた道>

 

(はじめに)

自分が亡くなる前に日記も含めて全てを燃やして、あとには何も残さずあの世に旅立つ人がいる。一方、自分史を書いて家族に残す人もいる。私は後者。書き残すことにどんな意味があるのか、それを深く考えたことはない。書くことが好き。ただ、書いてみたいだけである。それは「何か物を作りたい」、「完成させたい」という思いに通じる。読む人はほとんどいないと思うが、「孫なら、いつか読んでくれるだろう」と思って書くことにした。

 

1.私の生い立ち

1)生れたのは1937年、東京都牛込区(現在の新宿区)西五軒町。

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  母方の私の祖母(ハナ)は茨城の農家の出身で、祖父(猪之助)は大阪のお菓子屋の出身と言う。二人は牛込区西五軒町(JR・飯田橋駅の近く。今の新宿区西五軒町34番地)の2階建て長屋の一軒を借りて、紙箱を作る小さな商店を開いた。それは細い路地を入ったところにあり、向こう三軒両隣も家族経営の小さな商店だった。

  母(元・もと)は大正2年(1913年)の生れ。その家の二人姉妹の長女である。父(正男)は明治44年(1911年)の生れ。倉敷の出身。父の祖先は江戸から明治にかけて瀬戸内海で廻船問屋を営んできた。父の父親は吉村勝三郎、母親は京都のお公家さんから嫁いできた人と聞く。しかし、この廻船問屋は明治に入って没落。一人息子だった父は小さな商家に奉公に出ていたが、紹介する人があって母と結婚し、入婿として田村の家を継いだ。

(明治21年8月1日、山口県熊毛郡室積浦の「平民」吉村勝三郎が警察署の新築費7銭を寄付したときにもらった県知事の感謝状)
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 二人の結婚は昭和12年。新婚旅行は江ノ島。St001_001
  私は昭和12年(1937年)12月、長男として生れ、その後、昭和16年に長女・節代が、昭和17年に次女・満枝が生れた。でも節代は残念ながら3歳のときに百日ぜきで亡くなっている。

この家は一階が仕事場、2階が家族の寝室。2階には物干し用のベランダがあった。

仕事は、まず鉄製の型抜き機を使って紙箱の型を抜き、次に人の手でその型紙の表面に紙を貼って箱に仕上げるというもの。祖母の実家がある茨城県岩井から出てきた農家の「若い衆」(農家の若者を母は「若い衆」と呼んでいた)を数人使って、お菓子や玩具用のボール箱を作っていた。私の幼い心が鮮やかに憶えているのは、箱に貼られていたのが有名な画家「竹久夢二」の絵だったこと。

 

2)母の思い出

母は平成17年(2005年)5月15日、老衰のため91歳で亡くなった。ちょうど入院中の母を病院に残し家族で旅行中だったために、連絡を受けて私達が病院に駆けつけたのは16日の午前1時過ぎ。母の死に顔は、呼びかければ返事をしそうなほどに安らかであり、胸のあたりは触るとまだ温かかく、思わず「ほら、さわってみて。まだ暖かいよ」と家族をうながしたほどだった。母は大正2年の生れなので、大正、昭和、平成の三代を生きたことになる。

第二次大戦前の母は何の不自由もない生活をおくり、楽しいことが多かったようである。後に、実家周辺にある神楽坂、早稲田、山吹町などの地名を母からよく聞かされたが、独身の頃は、多分、妹とその辺りに買い物などに出かけて青春を楽しんでいたのであろう。母は歌舞伎ファン、その妹は宝塚ファン、祖父は浪曲や講談と相撲見物が好きだった。

そして、昭和16年に日本は世界大戦に突入。昭和20年(1945年)春、私達は米軍のB29爆撃機による東京大空襲を受けて、牛込区の家財のすべてを失った。私と祖父母は川崎に疎開していたが、母は周りの家々が燃え盛る中を、次女を背負って父とともに逃げ回ったと聞いている。

 戦後しばらくは、母にとっては苦労の連続だった。

父母と祖父と私、妹の5人は川崎市郊外の溝の口にある6帖二間のあばら家(トタン屋根が剥がれた染物工場の片隅にあったもの)に住み、その狭い一間に三つのふとんを敷いて寝た。私は祖父と一緒のふとん、妹は母と一緒。祖母は昭和21年に病死している。 

030(写真:屋根がはがれたおんぼろ工場の右手裏に屋根のみが少し見えるのが、当時の我が家。田んぼの向こうには遊びにいった裏山。現在は田んぼも裏山も、開発されて住宅がびっしりと並んでいる)

 

そして、終戦直後は食料難の時代。誰もが食料の入手に苦労したが、父母も同様だった。夫婦で近郊の農家や神奈川、千葉、茨城の農家にまで出かけていき、戦前にあつらえた母の着物などと物々交換をして、祖父や子供達のために食料を手に入れてきたが、それでも、米はほとんど手に入らず、大豆、じゃがいも、さつまいも、とうもろこしなどが我が家の主食であり、たまに手に入る米はコウリャンやさつまいもをまぜて食べた。私が覚えているのは、じゃがいもと大豆だけの食事が何日も続き、あごが痛くなったこと、近所の小川でたらい一杯のザリガニを取って茹でて食べたこと、家の周りの荒れ地で農業に不案内な母がとうもろこしや野菜などを作っていたことなどである。

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                                          (商店の作業場にて)

 また、戦後しばらくして父が勤めていた会社が倒産したために、夫婦は二人で親戚の小さな紙箱作りの商店に勤めることになったが、薄給のために土日も含めて毎日残業をして生活費を稼がなければならなかった。両親が帰ってくるのはいつも夜の10時頃。「寝るは極楽。起きるは地獄」というのが、その頃の母の口癖で、母はそうつぶやきながら、疲れ果てて布団にもぐりこんでいた。

 この頃は、父母が夜遅くにしか帰ってこないので、夕食は祖父と私が作り、妹と3人で食べるというのが毎日。そんな中で、家族の大きな楽しみは、月に一度の父母の給料日に東急・大井町線の自由ケ丘駅の改札口で待ち合わせをして、近くの食堂でかつ丼やたぬきうどんを皆で食べることだった(祖父は昭和29年に老衰で死去)。033                        (妹と)

 それと、母が高齢になってからの思い出は「母の手のぬくもり」。

母は商家に育ち、若い頃から毎朝、自宅の神棚にお灯明を灯して拝むのが日課だったためか、神様、仏様への信仰心がとても厚く、老いて我が家で一緒に暮らすようになってからも、毎朝、10分以上お経を読み、また、毎月のように品川・青物横丁の千体荒神さま(江戸時代からの「火の神さま」。火事を防いでくれる)にお参りに出かけていた。母はいつもおだやかな顔をしていたが、それは性格でもあり、信心の深さの現れでもあったように思う。

また、母は歌舞伎見物や銭湯・温泉が大好きで、高齢になって足を捻挫し歩くのがやや不自由になってからは、私が母の手を引いて荒神さまや歌舞伎座、あるいは箱根の温泉などにお供をして歩いた。

そんなときのことだ。駅まではタクシーで行き、手を引いて階段をゆっくりと昇り、また、道を歩くときも手をつないで歩いたが、ふと感じたのが「やわらかくて温かい母の手」、「母の手のぬくもり」である。幼いときに手をつないだはずなのに、そのときの母の手の感触は全く残っていない。あのとき感じたはずの手のぬくもりを、このとき生れて初めて感じたのだ。母の手はやわらかくて、ほんのりと温かかった。

母は、苦難を乗り越え、生活を支えてきただけに、我慢強い人だった。腰が低く、いつも、ニコニコしていた。怒ったり、文句を言ったりする姿を見たことはほとんどない。私が怒られたのは一度だけ。小学校低学年の頃、母が畳もうとする布団の上に何度も飛び乗って遊んでいたら、「邪魔」ととても怒られたことがある。今、振り返ると母が懐かしくて、思わず涙がにじむ

また、寝たきりになってからの2年間は、1ヶ月のうち、半月は施設に預け、あとの半月は私が自宅で食事を食べさせ、下(しも)の世話をしていたが、世話をするときは、自分の息子なのに「ありがとう、ありがとう」といつも感謝の言葉を口にしていた。とてもやさしい人だった。

 夫は昭和58年9月に亡くなり、次女は平成3年にガンで亡くなった。母が亡くなったのは平成17年。母の妹も亡くなっており、今頃は天国で夫と娘二人と妹に会って、談笑していることであろう。

 

(下左から:「新婚旅行・江ノ島」「私の誕生・母の妹も一緒」「亡くなった私の妹・節代と」)

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(上、左:「川崎の自宅にて。温泉旅館で撮ったと父が自慢していた一枚」。右:「妹が小学校に入学」)

 

(下、1枚目「父と母」、2枚目「娘と孫と」、3枚目「息子の孫と」

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3)父の思い出 

 父は旅行が好きだった。

 小学生の頃はよく父と一緒に汽車に乗り、大阪や岡山の親戚の家に泊まりに行った。奈良にも寄った。妹が一緒だったこともある。汽車は蒸気機関車が引っ張っていたので、窓を開けたままでいると目に石炭の燃えカスが入って、こすってもなかなか取れずに涙目になったのを憶えている。

 その他、行ったのは大森海岸や江ノ島の海水浴、連絡船で木更津から横浜へ、など。029

 父は賭け事が好きだった。特に好きだったのは競馬。休日にはよく溝の口に近い府中競馬場に連れて行かれ、ゴール前で一緒に観戦。買った馬券を知らされていたので、4コーナーを回ってのゴール直前の競り合いでは、買った馬が一着にはいるかどうか、とても興奮したものである。

 そんな父の影響であろう。後年、私も賭け事が好きになり、就職後の一時期は職場の人達と毎夜12時近くまで麻雀をし、また、仕事に疲れるとパチンコ屋に入るのが常だった。今はどちらも卒業しているが。

 父が60歳頃のことだったと思う。残業で体を酷使してきたために、ある日、心臓発作を起こし、胸をかきむしって苦しがったことを憶えている。そして、70歳頃に脳内出血を起こし痴呆状態のまま、72歳にしてあの世に旅立った。終戦後に勤めていた会社が潰れ、零細商店に勤め始めたのだが、給料が安かったために、土曜・日曜も、また夜遅くまでも働かざるを得ず、本当に働きづめの一生だったように思う。

 

(下左から、「父とその母」「父の小学時代」「お祭りで仮装」)

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4)祖父の思い出

 小学生の頃はいつも私が自転車の後ろに載せて、祖父を溝の口駅に近い銭湯まで連れて行ったが、その帰りにはよく駅前にある闇市の本屋で講談本を買ってくれた。粗末な藁半紙(ワラバンシ)作りの「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」である。本に馴染んだのはこれが最初。中学時代にメガネを掛けるようになったのは、これらの本を寝床で読んで目を悪くしたためである。でも、おかげで、私はとても読書好きになった。

 祖父は浪曲や講談と相撲見物が好きだった。祖父と一緒に私もラジオで広沢虎造の浪曲(「旅ゆけば駿河の国は茶の香り」で始まる「清水の次郎長」など)や宝井馬琴の講談(愛宕神社の石段を馬で駆け上がった「曲垣平九郎」など)を聞いていたのでその節回しは今でも覚えている。

 祖父は晩年、家の裏手の田んぼの溝に仰向けに倒れているのが見つかり、以降寝たきりとなった。家が狭くて、私はいつも同じ布団で寝ていたが、祖父が夜中に亡くなった時も、私は同じ布団の中にいた。

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(上:真ん中が祖父、西五軒町にて。戦前)(戦後。川崎の自宅前にて)

 

5)戦争の記憶

  当時は遊びに夢中。戦争が怖かったという記憶は全くない。

 祖父母と小学一年の私は川崎市溝の口に疎開。父母と幼い妹は東京に残ったが、空襲を受けて、3人は火の中を逃げ惑ったという。幸いにして3人は江戸川国民学校の校庭に逃げ込み助かった。数日後、父に連れられてJRの飯田橋駅に行ったが、そこには見渡す限り何もない真っ黒な焼け野原が広がっており、道端の黒焦げの木材をひっくり返すと、まだ赤い火が残っていた。

  疎開先の川崎では、空襲で燃える東京の夜の空が真っ赤だったこと、同じく昼の横浜の空一面が真っ白な煙で覆われていたことを鮮明に覚えている。

 川崎の家の裏は田んぼ。その向こうに横に連なる丘陵。そこには日本軍の高射砲陣地があり、米軍機が被弾し、キラキラ光りながら落ちてきたという記憶もある。

 また、高射砲陣地を狙った爆弾のフタであろうか、直径1mほどの丸い鋼鉄製の物体が工場の屋根を直撃し、屋根と地面に大きな穴を開けたこともあった。

 終戦を告げる天皇の詔勅を隣家のラジオで聞いたのは、小学校1年のとき。真夏の昼、明るい真っ青な空の下に近所の人達が集まって直立不動の姿勢で聞いていたが、私は何が起こったのかがよく分からず、皆のうしろに立っていた。大人は泣いていたが、私は全く悲しさを感じなかった。

 

2.青少年時代

 小学1年の始めは牛込区の江戸川国民学校だったが、その年に祖父母と私は川崎市に疎開し、川崎市立高津小学校の1年生へと転校した。

 小学校卒業後は、目黒区の攻玉社中学(目蒲線・不動前駅近くの男子校)に入学し、高校も攻玉社へ。

 次いで1年浪人し、四ツ谷の駿台予備校へ通った後、東大法学部に運良く合格。前年の入試の結果があまりにも惨めだったので(その頃は入試の成績を大学で教えてくれたが、成績は次年度に受験しても受かる可能性はないという低いレベルのものだった)、合格したのは実力というよりは、合格線上すれすれのところでたまたま引っかかったという運の良さによるものと思われる。そのため、これまで東大入学を誇らしく思ったり、自慢したことは一度もない。

 

(下左から「中学1年」、「高校1年」、「就職1年目」、「大学の卒業式(父母と妹と)」)

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3.10代・20代の私を育ててくれたもの(2013年1月19日記)

 

1)楽しかった少年時代

 小学生の頃は魚取りや百人一首などに夢中になり、毎日がとても楽しかった。夢中になって遊んだこと、それは自分を形成する上でたいへんプラスになったと思う。

 今の自分の性格に「明るいところ」や「優しい部分」が少しでもあるとすれば、それは、この頃、遊びに熱中したことで養われたものであろう。また、同時に「物事への集中力」もその中で養われた。

 (魚取り)

 まずは魚取り。

 小学生の頃、近所の小川で魚を石の下に追い込み手掴みで採ったり、小川をせき止めて水をかい出して採ったりした。また、多摩川の急流であんま釣りという方法で1日に100匹を釣りあげたこともある(道具は簡単。細い竹の棒に2-3mの釣り糸と釣り針と餌の川虫を付け、ウキは付けずに竹の棒を急流の中で上下に動かすという釣り方)。夏休みはそれらに夢中になり、いつも午前中に家を出て、帰るのは夕方だった。

 魚取りで一番興奮したのは、台風の接近で多摩川から水を取り入れる水門が閉まり、近所の小川(コンクリート作りの農業用水路)の水位が下がったときである。いつもは子供の背丈ほどもある小川が足首の浅さにまでなり、魚がいっぱい採れた。小学生の頃だが、台風が接近してくるときは、学校にいても勉強に身が入らない。いつ水位が下がるか、他の子供に先を越されないかと、居ても立ってもいられなくなり、授業が終わると家まで飛んで帰り、雨が降っていても網を持って川へと駆け出していった。

 小川は幅3mほど。その片端に玉網(子供用の、虫取りの網。小さくて底が浅い)を据え、足で魚を上流に追い上げていくと、魚は逃げようとして川の端を矢のような速さで下ってくる。黒い影が網に入った一瞬をとらえて網を上げるのだが、少しでも遅ければ網の底が浅いので反転して逃げてしまう。全身全霊を集中してこの一瞬にかけるのだが、この「一瞬の魅力」がたまらない。黒い影が下ってくるその一瞬、「とてもわくわくしたその一瞬」が今でも鮮明によみがえる。

 また、魚は追われると30-50cmほどの石の下に隠れることが多い。こんな魚は石の下に両手を入れて掴んで採る。手を石の奥に入れたときに指先で感じる「ビビビビ」という魚の躍動感はたまらない。心が踊る一瞬である。もっともときには、とげのある「げばち(なまずに似ている)」や「ざりがに」が潜んでいて、刺されることもあったが。

 採るのは主に「うぐい」。

 「鮎」もいる。鮎が上流へ遡るときは川の端を水面に波を立てて進むので、「鮎だ」とすぐに分かる。鮎を採ったときの喜びは特に大きい。採れたての鮎は甘い「すいか」の匂いがした。

 

(百人一首)

 百人一首にも夢中になった。

 近所の家で、小学生5-6人(その家の千恵子ちゃん、武ちゃん、それに私の妹も)を集めての「百人一首」が始まり、それがいつしか冬の年中行事となった。読み手が句を読み上げ、取り手は下の句が書かれた札を取るという競技。初めは撒いたカルタを皆で丸く囲んで取るやり方だったが、上達するにつれて1対1で相対して対戦する正式なやり方に代わった。千恵子ちゃんと私がその中心。下の句が書かれた100枚の取り札のうち50枚を使い、これを更に自分と相手と半分づつに分け、それぞれの持ち札25枚を3段に並べて前に置く。相手の札をとれば自分の札から1枚を相手に渡し、自陣にないのに自分の札に手を付けば「お手つき」として相手から1枚をもらう。これがルールで自分の札が早くなくなったほうが勝ち。

 その家の奥さんが読み手。独特の節回しで朗々と100首の歌が読み上げられ、上の句を聞いて取り札の下の句が何かを瞬時に判断して取るのだ。私の場合、右手下に一字取りの札(読み出しの一字が「むすめふさほせ」のもので、読み出しの最初の一字を聞けば取れる)、17枚ある読み始めが「あ」の札は左上、読み始めが「い」(百枚中に全部で3枚ある)と「う」(全部で2枚)と「き」(3枚)の札は2段目左などと決めてあって、勝負に入る前に記憶しておき、勝負中は相手の札のみを見て対応する。相手の札の置き方が自分とは異なる場合もあり、下の句の最初の一文字を基準に置く人もいるので、相手の札の位置を憶えるのはたいへんなことだ。

 

 正座した体をやや前に浮かせて、全心全霊を集中させ、上の句の読み出しを待つ。ほとんど無我の境地。

 札が読まれると相手の指先が瞬時に伸びてくる。こちらも一瞬の判断で素早く札に手を伸ばす。この研ぎ澄ました一瞬の判断が勝負を分けるのだ。札を払うと、勢いよく飛んだ札が障子に突き刺さることもある。

 百人一首は冬の遊び。遊び終わって外に出ると興奮した体からは湯気が立ち上るほどであり、風呂上がりのように冬の夜の冷たい空気が全身を包み、とても心地よかった。

 「あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり」はこのときに最も好きになった一句であり、今でも好敵手の千恵子ちゃんと共に思い出す。

 中学・高校時代に和歌と漢詩の授業が好きになったのも百人一首の影響だと思う。

 

  百人一首以外でいくつか気に入った歌を掲げておこう。

 

「岩ばしる垂水の上の早蕨(サワラビ)の 萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子)  

「哀しみは生きの命が生めるなれば子としおもひて疎か(オロソカ)にせじ」 (窪田空穂) 

「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば  

   秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだらう」             (八木重吉)

「鬚(ヒゲ)欲しや 藜(アカザ)の杖を 突くからは」      (後藤比奈夫)

 

「岩ばしる」の歌からは谷川の絢爛とした春の息吹が伝わってくる。また、「琴はしずかに鳴りいだすだろう」の歌は振るい付きたくなるほどに透明で美しい。どれも心に残る歌。最後の句は、藜(アカザ)の杖が大好きで、ご自分でも藜を栽培し杖を作っていた六つ星山の会会員の清水さんにぴったり。私もアカザの杖を1本もらった。

 

(その他の遊び)

 小学生の頃は、近所の年下の子供達7―8人のガキ大将として活躍。毎日、家の外での遊びに夢中になった。

長屋の周りでは、缶蹴り、S回戦(二組に分かれ、地面にS字を書き陣地を取り合う遊び)、水雷母艦(二組に分かれ、各組で艦長と水雷と鉄砲を決め、陣地を取り合う遊び。艦長は鉄砲には勝つが、水雷には負けるなど)といったゲームをやり、田んぼでは高さ2mほどに積み上げられた稲わらに乗って遊んだりした(よく、麦わらの山を崩して農家のおじさんに追いかけられたものである)。麦畑では麦笛を作ったり、畝の間に身を潜ませてのかくれんぼ。また、紙工場の2m四方にくくられた古紙の中でも遊んだ。今もあの古紙の独特の臭いがなつかしい。また、裏山ではツタにぶら下がってターザンごっこをやり、竹を切って弓矢を作った。山栗も取った。まだまだ沢山ある。ベイゴマ、凧揚げ、けん玉なども。凧揚げでは、上空に見えなくなるほどに高く揚げて柱に縛っておくと、無人になっても安定し、落ちる心配はなく、いつまでも揚がっていた。

 

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     (上は近所の遊び仲間)

(下は小学校の同級生。我が家の前の小川にて。課外授業・写生のときに父が来て写してくれたもの。私の左隣の二人が順に、親友の柿島君と尾幡君。今も付き合いがある。特に尾幡君とは、今でも数ヶ月に一度は大手町で昼食を取りながら会う。柿島君とは、彼が病を得てからは「来ないでくれ」と云われて会っていない。--多分、病気の姿を人に見せたくないのだろうと思い、こちらも会うのを遠慮している。兄弟とも会わないようにしていると手紙にあった。柿島君は大の読書好き。私はその影響を強く受けた。いまでも親友であり、心友である。

 

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 幼少年期に夢中になって遊ぶことはその子の心を健全に育てる。私は、孫が3歳の頃から小学校の低学年まで、ほぼ毎週1回、孫と遊んできたが、いつも意識したのはこのことである。水泳、アスレチック、スケート、雪遊び、ザリガニ釣り、蝉採り、だんご虫採りなどに一緒に行き、孫が嬉々として遊んでいるのを見守ってきた。

 

2)神経症で自信喪失-この経験が自分を育てた。

 1年の浪人生活を経て難関の東京大学・法学部の入試に合格。合格を知って多摩川の土手を我が家に帰るときは、有頂天になって、足が宙に浮いているように感じたことを思い出す。

 しかし、大学生活は無味乾燥だった。神経症にかかったからである。

 自信満々、むしろ、自信過剰の状態で、新しい一歩を踏み出した頃、人間関係につまずいて精神的に大きな打撃を受け、自信を失って、人の前に出ると顔がこわばり、話ができなくなるという神経症にかかってしまった。神経症というのは、治そうと努力をすればするほど深みにはまるもの。初めは自信満々で何とか抜けだそうと懸命に努力を続けたが、それがかえって悪くて、深みにはまり、自信過剰は一転して、完全な自信喪失へと落ち込んでしまった。人前に出るのが怖い。気は強いほうなので、それでも「なにくそ」と無理をして人前にでるようにしたが、それが状態を一層悪くした。人前に出るとドキドキし、言葉が出てこない。そのことばかり考えて、昼も夜も悩んだ。

 結局、この状態から抜け出すにはほぼ10年を要した。10年間悩んだ末に、やっと「治すのはあきらめよう。努力をしても自分にはできないことがあるのだ。その弱さを素直に認めよう。でも、別の面で自分にできることは沢山あるはず。それをやっていけばそれでよいのだ」という境地にたどりついたのである。それがストンと心に落ち、そこからゆっくりと自信を取り戻していった。単純なことだが、「やれることをやる一方、やれないことはあきらめる。無理はしない」「自分は強くもあれば、弱くもある」というバランス感覚を会得したということであろうか。

 以後、「一定の限界を超え、無理をして何かをやろうとはしない。自分はそれほど強くはない。やれる範囲でやる」-これが自分の行動基準の一つになった。六つ星山の会の事務についても自分に「完全」を求めない。やれる範囲でというやり方でやってきた。

 でも、ある程度、自信は取り戻しており、力を尽くすべきときには自信をもって取り組むことができるようになった。たとえば、六つ星の「創立25周年記念事業」のときには、事務局長として全力投球をした。会場に日大の講堂をお借りし、全国から13の視覚障害者登山団体をお呼びした上で、登山家の田部井淳子さんの講演会を開き、視覚障害者登山を考えるシンポジュウムを開き、コーディネーターにNHKのアナウンサー山田誠浩氏をお願いし、と大忙しの毎日。すべてが終わり会場の後片付けに最後の1人になるまで残り、それも終わったときは、連日の気疲れが重なってクタクタとなり、その場に座り込みたくなるほどに疲れてしまったが、やり終えたという充実感はなんとも言えず快かった。もちろん、これらの成功は自分の力によるものではなく、各分野の責任者が力を尽くしたことにあるのだが。自分が全力投球をしたのはそれらの陰の調整役としてであった。

 

3)恩師のはがき

 神経症になったのは「治そう」という執着心が強すぎたからだが、「物事に執着する」という性格は「粘る」ということにも通じ、プラスの面もあった。

  高校生の頃、心ひかれる先生から、「よし歩みは遅くとも、ねばり強く、牛のように」という年賀状をもらい、「ねばり強く、牛のように」という生き方は、確かに自分に合っているように感じた。もともと粘り強い性格だったが、この言葉を頂いてからは、「粘ること」を強く意識するようになった。恩師の一言のおかげである。

022_2 恩師の名前は奥井先生。英語の担当。背が高くて、顔がフランケンシュタインに似ていたので、あだ名は「おばけ」。やや足を引きずっていたが、第二次大戦中、硫黄島に戦闘機で出撃し機銃で足を撃たれたためという。たくましくて、また知的な雰囲気を持っていたので、とても心ひかれた先生である。

 ときどき皆で家に伺い、先生の指導で、サマセット・モームの「The Outstation(奥地駐屯所)」を原文で読んりしたが、ウオーバートンという主人公の名前は今も鮮明に憶えている。また、先生の提案で英語劇を演じたりもした。これには私も出演したが、私はせりふがたった一言だけの兵士役での出演だった。

 

 

 

 「粘り」の例を二つ。

 1)中学の国語の授業で、毎日、日記を書いて提出するという宿題が課され、家で日記を書くのが日課となったが、結局、中学を卒業し、書くという義務が無くなっても、それを毎日続け、20歳代前半まで日記を書き続けた。そして、このことはその後、自分の内面にいつも目を向け、自分を見つめるということに繋がり、また、それは文章を書くのを苦にしない自分を作った。これは、「粘って日記を書き続けた」お陰である。そう言えば、指導を受けた国語の西田先生も恩師の1人。顔つきから、あだ名は「般若」。授業はとても面白かった。特に和歌や漢詩の授業が素敵で心に残り、今でもそれらを口ずさんだり、和歌や漢詩の本を読んだりしている。

 2)例示の二番目は「牛野 歩」という、なつかしい名前。「粘り」を意識して付けた私のペンネームである。30代の頃、政党活動で10年ほど使っていた。その頃は、毎日、活動のチーフとして忙しく動き回り、家に帰らずに外泊することもあって、疲れて駅の階段を上るのも辛かったが、心に「疲れ」という重い鎖をつけながら、それでも何とか活動を続けた。その頃に自分を励ますために付けたのがこのペンネームである。

 その運動のチーフは辛い役なので、引き受ける人はほとんどなく、また、引き受けても短期間でその役を下りるのが普通だったが、それを見ていた私は意地もあり、「10年間は絶対にチーフをやめない」と心に決めてこの役を引き受けた。チーフを下りたのは結局、身も心もボロボロに疲れ果てた10年後のことだったが、こういう役は自分に全く不向きだと心の底から感じた。

 六つ星の役員になったときも「10年は続けよう」と心に決めたが、こちらは15年近く続いている。

 ただし、このような場合、自分の活動には特徴がある。「組織を超低空でいつまでも墜落しないように飛ばすこと」には向いているのだが、組織を上昇気流に乗せ、活発にし、大きくすることは不得意なのだ。組織活性化のために思いがけないアイデアを出したり、また周りの人の心をしっかりと掴んで組織全体を動かしたりということはうまくできない。それらがとても得意な人が何人かいるが、私はその人達には全く及ばない。

 

4.「視覚障害者登山」-それは私の後半生をたいへん豊かにしてくれた。(2013年1月25日・記)

 注)別途、このブログに掲載した「視覚障害者登山・六つ星山の会」に六つ星山の会の概要を記したので、それらも参照されたい。

 

 人生後半の25年間、六つ星山の会(視覚障害者と登山を楽しむ会・会員約200名・うち視覚障害者80名。1982年創立)に1989年11月、51歳で入会し、年間10-20回、視覚障害の方と山に登り、また、後半の約15年間は役員として組織の運営に携わってきたが、それは私にとって新しい経験であり、辛かったことも含めて、私の後半生をたいへん豊かにしてくれた。

 

1)第一は、視覚障害の方々と登山の喜びを共有できたこと。

 「喜び」は共に味わう人がいれば倍加する。視覚障害の方が山頂に立って「登った」、「私にも登れた」と嬉しそうにする、その笑顔を見るときはこちらも嬉しくなる。風を感じ、「ワア、涼しい」と言われると、こちらもほっと一息つく。

 

2)そんな中で視覚障害の方々と親しくなり、また、サポート役の山好きの方々とも親交を深められたこと。

 ポンと肩をたたいて「ご苦労さん」と握手をしてくれる人、また、問題が生じたとき、電話で「どうですか。大丈夫ですか」と励ましの言葉をくれる人、そんなすばらしい人達が周りにできた。彼等の顔を思い浮かべるだけで、元気が出る。

 一方、人の冷たさに接して、辛くて何度か六つ星を辞めたいと思うこともあった。私は負けん気が強い反面で、意外と繊細。ちょっとしたことで、心が傷つく。六つ星に入った頃は、「六つ星のようなボランティアに携わっている人は暖かくて親切な人達だけで、冷たい人はいない」と思っていたが、そうではなかった。冷たい人もときにはいる。

 

3)組織運営のあり方についても、いろいろと学ぶところが多かった。

 40年間務めていた元の職場では、組織全体を見渡す立場に立つことはなかったが、職場を辞めて初めてからの15年間、小さいながら、組織運営というものの一端を担い、新しい経験をした。

① ボランテイア組織には、その中心に「何が何でもこの組織を支えていこう」という人がいることが大事。中心にいる人が動揺すれば、種々の事務を担当するなどして周りから組織を支えている多くの会員は、その組織の将来に疑問を感じて、やる気を失いかねない。

 特に組織が混乱しているときは、中心にいる人はじっと我慢し、泰然自若としていることが大切である。

② 誰かに何かを頼むとき、会社組織とボランティア組織では基本的な違いがある。会社では給料をもらっており、上司の指示命令があれば一般的に必ず従うが、六つ星は無給であり、活動は自発的なものなので、やって欲しいことがある場合は、言葉でお願いしその人の心を動かす以外に方法はない。

 ボランテイア活動にたずさわる人はすべて「善意を提供し、世の中の役に立ちたい」と思っている。しかし、ほとんどの人は「少しだけ」であって、「日常生活にかなり食い込む形で運営にたずさわってもよい」と思っている人は少ない。「少しだけ」であろうと「世の中の役に立とう」という思いはたいへん大切なことであり、ボランティアはそれで成り立っているのだが、役員になってほしいとか、恒常的に事務を担当してほしいとか、を頼む場合は、尻込みする人が多くて、承諾を得るのがたいへんである。何しろ、私は人に頼むことが苦手。断られるのではと、ドキドキしながら頼むのだが、断られて結局、自分がやってしまうことが多かった。

 しかし、それでは組織は育たない。会の運営に携わり「六つ星は自分の会」「他人ごとではない」と思う会員が一人でも多くなることが組織の維持・発展には必要なのだ。

 もっとも、あまり大きなことは言えない。自分もかっては「少しだけ」の部類の一人であり、機会があれば役員を降りたいと、いつも思っていたのだから。

③ 私の場合、六つ星にかかわったのは「やらねばならない」という「義務感」からである。

 ボランティア活動をする人の中には、生涯のすべてをそれにかけている信念の人、活動を楽しみながら嬉々としてやっている人、義務感でやってはいるが精神力が強かったり、楽観的だったりして私のようには悩まない人、などがいるが、私の場合は「今の仕事を引き受けてくれる人がいないので、やめたいのだが、やめられない」という消極的な面が強かったし、人間関係で何かあるとすぐに辞めたくなるような弱い面があった。

 ただし、今は会の雰囲気が変わった。やろうという人達が沢山いて、ほとんどの事務を引き継いでもらい、いつでも辞めることができる状態になった。

④ 私に向いている組織運営のやり方は、「粘って」超低空飛行で組織を維持し続けることにある。逆に苦手なのは、組織を上昇気流に乗せ活性化し大きくすることである。活性化のために皆の気持をしっかり掴むことやすばらしいアイデアを出すことなどは苦手である。もっとも、苦手なので、そんな努力をしなかったという面もあるのだが。

⑤ 自分にとってボランテイア活動に意欲を持ち続ける鍵は、「行動の意義付け」について確固とした「座右の銘」を持つことではないかと思ってきた。そして、10数年を要してやっとたどりついたのは、「自分の活動が、誰かが山を楽しむことに少しでも役に立っていればそれでよい」ということだった。こんな平凡な境地に達するのに10年もかかった。でも、今では、どんなにいやなことがあっても、この言葉を思い出せば耐えることができるようになった。

 

4)また、視覚障害者登山のあり方についてもいろいろと考えさせられた。

 たとえば、

 ① 視覚障害の方々と「対等の立場」で山に登るとは何か、

 ② 「ボランティア」とは何か、

 ③ 危険を冒して山に登ることの是非、

 ④ 事故対策のあり方、

 などである。

 

① 2009年まで六つ星の会則には、視覚障害者と晴眼者が「同等の立場で山に登る」という文言が入っていたが、翌年の総会で「共に登る」と改定された。

 このときの議論の中で、私が考えたのは以下のことである。

 視覚障害者と晴眼者は金銭面、運営面、情報面という三つの面で「同等の立場にある」。即ち、

・山行への参加費(交通費、宿泊費)は同額の負担、会費も同額等、金銭面では同等である(六つ星結成以前は視覚障害者がサポーターの交通費、宿泊費、ときには日当までも負担するのが一般的だったが、六つ星が同等負担という新しい原則を確立した)、

役員の晴盲同数等が保証されていて会の運営面でも同等の立場にある、

・山行案内等の情報伝達については、活字版、Ëメール版のほかに、点字版とデイジーのCD版が作成され、すべての視覚障害者に情報を知る権利が保証されている。また、会山行については1件毎に触地図が作成されている、

というように三つの面で同等なのである。

 ただし、精神面ではやや異なる。登山のサポートは「する」、「される」の関係にあり、サポート者側は「面倒をみてあげる」という気持になりがちであり、一方、障害者の方も「助けを受ける」という受動的な気持になりやすい。そして、サポート中の晴眼者の行動は「指示し誘導する」ことが中心で、「同等の立場で登る」という精神が入り込みにくい。

 この精神面の平等をどう実現したらよいのであろうか。

 これについては、私は次の3点に留意している。

 a)視覚障害者は一個の人間として自立心が強く、「お情け」を受けることを極端に嫌う人が多い。そのことを常に留意する。

 b)「助けてあげる」という気持は大切。これを無理に否定しなくてよい。

 c)視覚障害者の方と長くお付き合いをし、親しくなる中で、いつか「同等のお付合い」が自然できるようになるはず。

この改定が提案された2010年の総会では、数人の視覚障害の方から、「入会のとき、同等の立場という文言を読んでたいへん感銘を受けた。是非残してほしい」との要望が出されたが、結局、「当然のことで仰々しすぎる」「条文をもっと平易に」等の理由で可決された。

 しかし、この精神そのものが総会で否定された訳ではない。今もこの精神は生きていると思う。

②「ボランティア」の定義について

 視覚障害者の中には、「六つ星はボランティア団体ではない」という声が強い。積極的に活動に係わっている人ほど、そんな声が強く、晴眼者の中にも「この会はボランティア団体であってはならない」という人がいる。

 なぜか。六つ星山の会の視覚障害者は社会に出ることに積極的であり、自立心が強く、「目が見えなくて大変でしょう。助けてあげましょう」と言って手を取られることをたいへん嫌う。「お情けは受けたくはない」のだ。そのためだと思う。「ボランティア」という言葉に「お情け」を感じるので、抵抗感が強いようである。

 でも、ここには「ボランティアとは何か」について考え違いがあるように思う。ボランティアは、「お情け」ではないのだ。「無償での社会奉仕」と言えよう。私は、六つ星はボランティア団体だと考えている。

③危険を冒して登るのか、それとも安全を優先して中止するのか。

 視覚障害の方が、槍・穂高や赤石岳などの高くて比較的厳しい山や冬山を希望する場合、それに挑戦する意欲を大切にしてサポートを了承するのか、それとも安全を優先してサポートを断るのか、選択を迫られることがある。

 そんな場合、私はできるだけ「挑戦への意欲」を尊重し、安全対策をあれこれと考えた上でサポートを引き受けてきた。もちろん、その人の力倆と山の厳しさの程度を考慮した上でのことだが。また、天候悪化での撤退は必須要件。

 一例をあげよう。70歳に近い全盲で足が弱い方に頼まれて、槍や穂高、赤石三山縦走などに出かけたときのことだ。一部の人からは「あの人では危険が多すぎる。やめるべきだ」と言われたが、その人の熱意がとても強かったので、もう一人のサポーターとして私よりも強力な人を頼み(1人にサポーターは二人必要)、更に小屋に着けないで野営することも考えてテントも用意して、出かけたのである。結局この縦走は、どんなに疲れても歩き続ける、その人の粘りによって成功した。挑戦する気持ちがあれば、試みてもらう。たとえ、力倆不足でそれが失敗に終わったとしても、その人の心は満たされるであろう。

④事故を起こさないために。

 六つ星では過去30年の間に路肩からの転落事故が3件発生し(うち骨折1件、無傷2件)、その他、転んでの骨折や落石による切り傷、虫刺されなどの事故も数件発生している。 

 特に転落事故は死亡や大きな怪我につながるので細心の注意が必要である。 

 過去の例を見ると、道幅が狭く全員が注意をして慎重に歩くような危険地帯では事故が発生したことはなく(ときにはザイルで確保したり、特別に一人サポーターを配置したりして万全の注意を払っていることによる)、事故は安全と見られるような思わぬところで発生している。 

 油断をすれば事故はどこでも起きるということである。

 六つ星山の会として事故を起こさないために肝要なことは、安全と思われる登山道でも常に注意を怠らないこと、これが第一。

 第二は役員会としてエコーラインや例会で事故への注意を会員に常に喚起していくことである。

5)追記(総務部長を退任 2015.1.31記)

 六つ星の2月の総会で総務部長(事務局長的な役割を担う)を退任することができた。喜ばしいことである。かって、役員のなり手がいなくて、規約で定める定数を大幅に下回ったままで運営せざるを得ないときが長く続いた。「もし、これ以上役員が減ったら臨時総会を開いて組織の解散を提案しようか」などと考えたこともある。それが最近では運営に積極的な会員の方々が大幅に増えて、運営の中心を担う方が現れ、また役員も常に定数一杯の選任が可能となっている。

 今は、心置きなく退任できる。これまで、「永遠に組織を維持するにはそれを担う人が元気なうちに次の人に代わることが必要だ」と思ってきたし、代わってくれる人がいないかといつも周りを探していた。それが実現できたのである。もちろん、心の奥には、「総務部長の役はかなりの負担。早く代わってのんびりしたい」という思いもあったが。

 今後を考えると、役員を下りた後も、一生を視覚障害者登山の普及に捧げるという選択もあるように思う。視覚障害の方の希望をもっと深く掴んで、視覚障害者登山のあり方を深めることに尽くすという道だが。でも今は、それ以外のことをやる方向で考えている。

 

6)追記(2016.5.9記)

 誰かのために少しは力を尽くしたいという思いは誰にでもある。私もその一人。

 30歳代の10年間は、ある組織の支部のリーダーとなり世の中全体を変えようという活動に力を尽くしたが、先頭に立って組織の皆を引っ張るというような活動には、私は不向きだった。相手の気持を考えると「やるべきだ」と強くは出られず、また、宣伝活動で世間の人と相対したときは、「考えは人それぞれ」という思いが強く、「何が正しいか」という判断を相手に無理に押しつけるような感じがして(本当はそうではないのだが)、うまく対話ができなかった。そして、不得意な任務を義務感だけで10年間、全力で続けた結果、身も心も疲れ果てて、リーダーを辞任した。運動には今も係わっているが、活動はかなりペース・ダウン。

 40歳代になると、疲れた心身の回復を図って「日本百名山」を始め、徐々に熱中して、日本全国に出かけ、ほぼ単独で過半数の山を登った。登山から帰ると、心が生き生きとし、仕事や日常生活に前向きになれたことを覚えている。

 次いで50歳代に入って始めたのが「六つ星山の会」の視覚障害者登山である。これは私にピタリの仕事だった。30歳代に全力投球をした社会運動では自分の力が生かせなかったが、ここではある程度、生かすことができた。それにここには、「喜び」があった。30代の運動では、運動が効果を発揮して世の中が変わり、皆の生活が豊かになるのは多分、100年も先であり、今、皆が喜ぶという姿を見ることはできない(その効果がすぐに発揮される分野も一部にはあるが)。それに対し、登山は自分の得意分野であり、「義務感なしで」前向きに取り組むことができる上に、視覚障害の方の喜ぶ顔がその場で見られるし、自分も嬉しくなる。。そんな「六つ星」は自分に向いているし、それを選択してよかったと思っている。

 

5.海外登山とサンティアゴ巡礼-人生を楽しんだ後半生

  人間、一生の間に「ワクワクする」ことなどめったにない。

 小学生の頃に味わった最高の「わくわく感」については、すでに上記3の1)「楽しかった少年時代」に書いたとおりであるが(「魚とり」と「百人一首」)、その他では、中学生の頃、泊りがけの修学旅行に行く前夜、ワクワクしてなかなか寝つけなかったことや、いとこの敏夫ちゃんと清ちゃん(母の妹の子供)が我が家に遊びに来る日に、何度も外に出ては道のはるかかなたを見据えながら、「今か、今か」と到着を待ちわびたことなどを覚えている。

 また、青年時代には体が宙に浮くような、何とも言えない幸福感を2度、味わった。

 一つは難関の東京大学に合格したときのこと。それを家で待っている母に知らせればどれほど喜ぶかと思いながら、多摩川の土手を走って帰ったのだが、何か体が宙を飛んでいるような不思議な感じがした。あと一つは、ひそかに思いを寄せる幼馴染みがいたが、あるとき、彼女も自分を思っていると分ったときのこと。家に帰ってじっと座っていると、幸せ感が全身に広がっていくのが感じられた。もっとも、この関係は淡い思いのままで終わってしまったが。

 そして、50歳以降の後半生に入って、このブログを書く契機になった海外登山とサンティアゴ巡礼において、青少年時代に味わったそんな「わくわく感」を再び味わうという幸運に恵まれたのである。 

 1977年・40歳の頃から山に夢中になり、ほぼ単独で、初めは「日本百名山」を、次いで北アの全山縦走(西穂-親不知海岸。ジャンダルム、栂海新道、船窪-烏帽子などを越える)、南アの全山縦走(仙塩尾根、高山裏など)、北鎌尾根、転付峠越えなどを楽しみ、その一方で海外にも目を向けてツアーに参加し、1988年にモンブラン(ヨーロッパ大陸)、1991年にキリマンジャロ(アフリカ)、1993年にアコンカグア(南米)、58歳の1996年にはマッキンリー(北米)と、ワクワクしながら、七大陸のうちの四大陸最高峰に遠征した。そしてこのうち、キリマンジャロとマッキンリーは登頂に成功。特にマッキンリーの登頂成功は、山に素人の私にとって、今では、生涯最高の勲章とも言える、何物にも代えがたい思い出となっている。

 他方、60歳代後半になると体力の低下を感じはじめ、重点を登山からウオーキングに移すこととし、海外を約1ヶ月間歩くサンティアゴ巡礼を始めた。最初の巡礼は65歳のときの、スペインを歩く「フランス人の道」。以降、フランスの「ル・ピュイの道」、ポルトガルの「ポルトガル人の道」、スペイン北部海岸沿いの「北の道」を歩いた。なお、最後の「北の道」を歩いたのは2014年・76歳のときである。

 このはかに、シベリア鉄道のツアーもワクワクしながら参加した旅の一つと言えようか。

 これらを振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。行く前の「ワクワク感」と頂上に立ったときや目的地に着いたときの「達成感」がすばらしい。今でも、それらを思い出すと何とも言えない「幸せな気持」に心が満たされる。

 前半生に続き後半生でも、こんな「ワクワク感」を味わえるなんて…。もっとも、このようなことが可能だったのは、ある程度のお金と休暇と健康に恵まれるという運の良さがあってのことだが。 

6.子供と孫に恵まれて

 私は職場の水戸支店で同じ職場の和子(1941年生れ)と知り合い、1965年に結婚。

 その後、秋田、東京、大分等に転勤。1966年に長女、1967年に次女、1974年に長男が誕生。

1)娘と息子について(昔の「覚え書」から抜粋)

優子へ。「友達ができたらいいのだが」、「外国へ一人で行ければいいのに」、そうなってほしいといつも思っている。(その後、彼女は英検3級を取り、運転免許を取り、海外旅行にも数回1人で行ったが、今も友達には恵まれない。人付き合いが苦手なので、就職も上手くいかないでいる)

息子がさそうので、久し振りにキャッチボールをする。あたたかい冬の日差し。ストライクがよく入り、息子にほめられた。

彼は大学生になって、オートバイに夢中。危険なのでやめてほしいところだが、無理に止めることはしない。夢中になれることがあるのは、すばらしいことだ。

 オートバイでの外出中はなんとなく不安。いつも心の中で安全を祈っていて、帰ってくるとほっとする。

 彼から「面白いよ。お父さんも乗ってみたら」と言われた。   

彼は先日、「今に生きる」というビデオを借りてきた。イギリスの名門校が舞台。人生とは何かを、一人の教師が情熱をこめて生徒に語りかける映画である。息子が数年前に見たものだが、そのときの感動が忘れられずにまた借りてきたという。

 ゆっくりではあるが、心が成長していく子供を見るのは嬉しいことだ。

直子へ                                    

 誕生祝いありがとう。ひとり立ちをしてかなりになったね。ひとりで生きていける自信がついたことでしょう。子供がひとり立ちするのを見るのは、親にとってとても嬉しいことです。こんなときに、いくつか書いてみました。

 充実した人生だったと思えるような生き方をしてほしい。

 夢を持つこと。大きな夢を。夢は心を生き生きとさせる。

 挑戦をしよう。やるときは、やれるときは、思い切って、全力で。

 人間の本当の美しさとは、心の美しさ、やさしさのこと。外見じゃない。

 読書は人生の大きな楽しみ。そんな世界も知ってほしい。

 他の人の生き方にも関心を持とう。そこには自分の生き方の鍵が隠されている。

 結婚をして家庭を持つこと。家族を持つことは、喜び、楽しみであり、苦しみでもある。

 人間は本来は利己的なもの。でも、利己的にだけ生きていては満足できない。それを知ったうえで、できる限り他人のためにつくすこと。それは喜び。

 

2)孫の思い出 

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 振り返ってみると、孫について書いた文章はとても多い。

(2005・2・3) 孫の風ちゃんが生まれて、10ケ月が過ぎた。もう、掴まり立ちをする。とても可愛い。私をじっと見つめて、ニコッと笑う。音がすると、抱かれた腕の中から身を乗り出して、何とかそちらを見ようとする。

 孫が生まれて、とてもうれしい。人生でまたひとつ、すばらしい経験をさせてもらえる。

 一方、心配も絶えない。這っていく先に危険なものがないかとか、掴まり立ちをしたときはころんで頭を打たないかとか、絶えず注意をしなければならない。ときには疲れを感じることもある。家族が増えれば、それだけ心配も増える。

 約1ケ月間、風ちゃんが家に来ていた。風ちゃんの相手をしているうちに、日々はあっという間に過ぎる。

(2005.6.8) 風ちゃんは1歳2ケ月。

 玄関にある傘立てに10本ほど傘が入っているが、そこから1本づつ傘を取り出すのが大好きだ。背丈を超える傘を懸命に引き抜き、頭の上に持ち上げて取り出すのだが、その重さで体がふらつき、よろけたりする。取り出した傘を傘立てに戻してやると、飽きずにまた同じことを繰り返す。

 「小倉風奈チャーン」と大声で呼びかけると、小さな手を挙げて「ハーイ」と応える。何か得意気。声が可愛い。

 朝、風ちゃんが寝ている部屋のふすまがコトリと動く。ふすまが少し開いて、手が覗く。もっと開いて、顔が覗く。全身があらわれ、誰か居ないかとじっと居間の方を見る。風ちゃんのお目覚めである。

(2009年正月)

 私の今は幸福に満ちている。子供がいて、孫がいて、家族全員が健康であり、暖かい寝床があって、安定した収入があり、ときおり家族で外食も楽しめる。 

 今年の最大のお年玉は、アンジェラ・裕之の夫婦に子供ができたこと。昨年末に「来年の7月に生れる」と連絡があったときは、飛び上がって喜んだ。

 また、直子の二人の孫も元気一杯。風奈は4歳、爽太は2歳。3月には誕生日が来る。

 父親の実さんが仕事で海外に行っていて正月中は帰れないため、年末から泊りにきて我が家で初めて正月を過ごした。

 おかげさまで、楽しくもあり、疲れもした。

  二人は道路を駆けることが大好き。爽太は車に注意しないで駆け回る。車道に飛び出すので車に轢かれる恐れがあり、ハラハラして気が抜けない。

 二人はよく喧嘩をする。物の取り合いが多い。ぶったり、けったり、取っ組みあったりする。風奈は負けそうになると噛み付いて反撃するので、爽太の腕に歯形が残ることもある。ときには風奈が泣かされる。

 それでも、二人は仲が良い。お食事作りごっこをする。爽太がお母さん、風奈が赤ちゃんになって遊ぶ。

 隣の部屋で二人仲良く遊んでいるときは、危険なことをしていないか、ときどき覗いてみる。

 二人は甘えん坊。「ママ、ママ」と言って「だっこ」をされたがる。何かをしてもらうときも「ママじゃなければいや」という。爽太はママの姿が見えなくなると「ママ、ママ」と泣きながら探し回る。

 爽太は「最初から」といってわがままを言うことがよくある。ママが先に行ってしまうと、地面に座り込んで「最初から」(最初の地点に戻ってきてだっこをしろ)と言って大声で泣きさけび、ママが迎えにくるまで動こうとしない。ときには道路に大の字にひっくり返る。ジジが抱きかかえて連れて行こうとすると足をバタつかせて抵抗する。しつけのために、そのままにして、遠くに離れて「一人で起き上がって歩いてこないか」と見守っていると、泣き声が大きいので、通りがかりのおばさんが「どうしたの」と声をかけてきたり、ときにはお巡りさんがやってくる。迷子でないことを知らせるためには戻らなければならない。

 風奈はトランプの「しんけいすいじゃく」が得意。泊りにきていた間、毎夜、爽太とババと四人でやった。風奈が一番になることが多い。

 見るビデオは「どらえもん」「機関車トーマス」「アンパンマン」など。一時は「バンビ」「ダンボ」に夢中になった。

(2009年1月25日)

 爽太はきょうから車輪付きの自転車がこげるようになった(今までは誰かが押していたのだが、数日前に三輪車をこぐコツを会得して、きょうは自転車にも乗れたのだ)。綾瀬の公園の子供用自転車乗り場でのこと。爽太は嬉しくて夢中になり、いつまでも乗り回していた。右側通行や赤信号停止は無視。管理人のおじさんが注意をするのだが、振り向きもしない。お姉ちゃんの風奈が自転車に乗るのにあきてしまい、「爽太、ブランコに乗ろう」と言っても、これも無視。無言で前を見つめ、赤信号でも止まらずに、ときには左側を黙々と走り続ける。

(2009年3月31日)

 風奈がに一輪車に乗れるようになった。亀有の交通公園で3時間ほど一生懸命に練習をして10m位乗れるようになったのである。

 プールでは、もぐって前回りを2回転して浮き上がったり、後ろ回りを1回転して浮き上がったりすることができるようになった。

(2009年4月27日)

 爽太は4月から幼稚園。まだ慣れない。幼稚園の入口の門までは行くのだが、入りたがらない。大声で泣き叫ぶ。先生はそんな爽太を無理やり教室に連れて行く。教室では皆から離れて門が見える窓際に座り、そこが爽太の定席になった。お弁当もそこで食べ、ママが来ないかといつも外を見ている。ときには「お弁当はおうちでお姉ちゃんと一緒に食べる」と言って食べないこともあるようだ。

 爽太のまんまるの目が可愛い。誰かに話しかけるときの目がまんまるだ。

 爽太はトランプに夢中。幼稚園から帰るとすぐにトランプを持ち出し、そばにいる相手と「神経衰弱」をやる。お姉ちゃんだったり、ジジだったり。札のありかを「ここだよ、ここ」と得意そうに相手に教えてしまうこともある。終わると「爽太、一番。お姉ちゃん、2番。ジジ、3番、ビリ」と大声で指差しをする。

(2009年を振り返って)

 孫3人(風ちゃん5歳、爽太3歳、リリー5ケ月)

 <風ちゃん> 風ちゃんは「幼児」から「子供」へと成長中。

 運動が得意。ジジは鉄棒が苦手で前回りも満足にできないが、風ちゃんは自分の背丈ほどの鉄棒でも蹴上がりや逆上がりができる。また、棒のぼりも得意。幼稚園の屋根のひさしを支えている細い鉄の柱を天井まで登ってしまう。プールでは水中で、前回りなら2回転、後回りは1回転することができる。「ジジ、見てて、見てて」と得意げだ。

 でも、泣くことも多い。ころんだときや注射をされたときは、「わっ」と声を上げて大泣きする。また、弟の爽太と喧嘩をして負けたときも泣く。取っ組合いでは勝てるが、爽太にぶたれたり、かみつかれたりしたときは大泣きをする。そして、「ママ」と言いながら、ママの胸に飛びつき、泣きながら「だっこ、だっこ」と甘え、しばらく抱いてもらうと泣きやむ。

 <爽太> 惣太は話し言葉がまだ幼児。

 元気はよい。下り坂をすごい勢いで駆け下りる。何かを要求するときは大声を出すし、要求が通らないと泣き叫ぶ。いつも精一杯、動き回っている感じだ。

 数ヶ月前まではジグソー・パズルに夢中だった。「寝よう」と言って電気を消しても、真っ暗な中でパズルのピースを持ってじっと座っているほど。

 今はトランプに夢中。娘の家に行くと、すぐに「ジジ、トランプやろう」とトランプをもってくる。裏返して撒いたトランプを2枚開けて、数字が同じなら自分のものになるという「神経衰弱」に特に夢中である。神経を集中させ、真剣な目つきで札をめくる。どれが同じ数字の札かが分かると素早く取る。

 爽太は行動を規制されるのが嫌い。スイミング・スクールに行かなくなった。プールで先生の指示通りに動くのが嫌なようだ。家族でプールに行き、水の中で自由に動き回るのは大好きなのだが。また、幼稚園の運動会でのこと、ママと一緒にいたのに、出番が来てママと引き離されると、ふてくされて「かけっこ」に出ず、競技が始まる前のコース内を1人でブラブラと歩き始めた。爽太の駆ける姿を見たいと来ていた家族はガックリ。

 おねえちゃんとはいつも張り合っている。おねえちゃんが注射をするとき、ママに抱かれているのを見ると、「おねえちゃん、ずるい。爽太もだっこ」と泣き叫ぶ。また、ケーキを分けたあと、見比べて「おねえちゃんのほうが大きい」と言ってテーブルに泣き伏す。「神経衰弱」のとき、おねえちゃんに好きな「ジョーカー」の札を取られると、泣いて飛びかかり、取り返そうとする。

 <リリー> 息子がインターネットでリリーのビデオや写真をニュー・ヨークから送ってくる。まん丸な大きな目、笑顔、「ウーウー」というおしゃべり。どれもとても可愛い。妻はビデオのリリーに話しかけたりしている。

(追記) 

 リリーは2009年7月26日にニューヨークで生まれた。

 ジジとババが長女と一緒に初めてニューヨークのリリーに逢いに行ったのは、その年の9月28日から10月6日。目のまんまるな、とても可愛い女の子だった。そのとき、皆で一緒に列車に乗り、ニューヨーク郊外の、昔の風情を漂わせる小さな町を旅行したことを覚えている。

 そして、その後は、数回、パパ・ママと一緒に日本にやってきて、七五三の写真を撮ったり、日本の幼稚園に1ヶ月間、体験入学をしたりした。また、風ちゃん、爽太の家に泊まり、3人で仲良く公園で遊びんだりもした。

 遠くに住んでいるので、あまり会えないが、テレビ電話のスカイプで、ときどき会えるのを楽しみにしている。日本語ができて、話ができるともっと嬉しいのだが。

 

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(2010年6月26日)爽太4歳

 爽太が、幼稚園の七夕祭の短冊に「レイナちゃんとけっこんしたい」と書いた。ママは大笑い。幼稚園に見学に来ていたお母さんたちも、それを見て大笑い。皆がその写真をパチパチ撮っていた。それを聞いたババも大笑い。レイナちゃんは年上の6歳。おねえちゃんのお友達である。

 爽太はプールが大好き。大人用プールは背が立たないが、もぐったままで、くねくねと体をくねらせながら、息をつがずに3-4mは泳ぐ。プールの端からジジのいるところまで来て、また、端に戻っていくのだ。溺れそうになると手を差しのべてやるが、全く水を怖がらない。

 爽太はダンゴムシを採るのが大好き。幼稚園ではよく、バケツを持って日陰の湿ったところにダンゴムシを採りにいくが、一人ではない。