<私の生い立ちと歩んできた道>
(はじめに)
自分が亡くなる前に日記も含めて全てを燃やして、あとには何も残さずあの世に旅立つ人がいる。一方、自分史を書いて家族に残す人もいる。私は後者。書き残すことにどんな意味があるのか、それを深く考えたことはない。書くことが好き。ただ、書いてみたいだけである。それは「何か物を作りたい」、「完成させたい」という思いに通じる。読む人はほとんどいないと思うが、「孫なら、いつか読んでくれるだろう」と思って書くことにした。
1.私の生い立ち
1)生れたのは1937年、東京都牛込区(現在の新宿区)西五軒町。

母方の私の祖母(ハナ)は茨城の農家の出身で、祖父(猪之助)は大阪のお菓子屋の出身と言う。二人は牛込区西五軒町(JR・飯田橋駅の近く。今の新宿区西五軒町34番地)の2階建て長屋の一軒を借りて、紙箱を作る小さな商店を開いた。それは細い路地を入ったところにあり、向こう三軒両隣も家族経営の小さな商店だった。
母(元・もと)は大正2年(1913年)の生れ。その家の二人姉妹の長女である。父(正男)は明治44年(1911年)の生れ。倉敷の出身。父の祖先は江戸から明治にかけて瀬戸内海で廻船問屋を営んできた。父の父親は吉村勝三郎、母親は京都のお公家さんから嫁いできた人と聞く。しかし、この廻船問屋は明治に入って没落。一人息子だった父は小さな商家に奉公に出ていたが、紹介する人があって母と結婚し、入婿として田村の家を継いだ。
(明治21年8月1日、山口県熊毛郡室積浦の「平民」吉村勝三郎が警察署の新築費7銭を寄付したときにもらった県知事の感謝状)

二人の結婚は昭和12年。新婚旅行は江ノ島。
私は昭和12年(1937年)12月、長男として生れ、その後、昭和16年に長女・節代が、昭和17年に次女・満枝が生れた。でも節代は残念ながら3歳のときに百日ぜきで亡くなっている。
この家は一階が仕事場、2階が家族の寝室。2階には物干し用のベランダがあった。
仕事は、まず鉄製の型抜き機を使って紙箱の型を抜き、次に人の手でその型紙の表面に紙を貼って箱に仕上げるというもの。祖母の実家がある茨城県岩井から出てきた農家の「若い衆」(農家の若者を母は「若い衆」と呼んでいた)を数人使って、お菓子や玩具用のボール箱を作っていた。私の幼い心が鮮やかに憶えているのは、箱に貼られていたのが有名な画家「竹久夢二」の絵だったこと。
2)母の思い出
母は平成17年(2005年)5月15日、老衰のため91歳で亡くなった。ちょうど入院中の母を病院に残し家族で旅行中だったために、連絡を受けて私達が病院に駆けつけたのは16日の午前1時過ぎ。母の死に顔は、呼びかければ返事をしそうなほどに安らかであり、胸のあたりは触るとまだ温かかく、思わず「ほら、さわってみて。まだ暖かいよ」と家族をうながしたほどだった。母は大正2年の生れなので、大正、昭和、平成の三代を生きたことになる。
第二次大戦前の母は何の不自由もない生活をおくり、楽しいことが多かったようである。後に、実家周辺にある神楽坂、早稲田、山吹町などの地名を母からよく聞かされたが、独身の頃は、多分、妹とその辺りに買い物などに出かけて青春を楽しんでいたのであろう。母は歌舞伎ファン、その妹は宝塚ファン、祖父は浪曲や講談と相撲見物が好きだった。
そして、昭和16年に日本は世界大戦に突入。昭和20年(1945年)春、私達は米軍のB29爆撃機による東京大空襲を受けて、牛込区の家財のすべてを失った。私と祖父母は川崎に疎開していたが、母は周りの家々が燃え盛る中を、次女を背負って父とともに逃げ回ったと聞いている。
戦後しばらくは、母にとっては苦労の連続だった。
父母と祖父と私、妹の5人は川崎市郊外の溝の口にある6帖二間のあばら家(トタン屋根が剥がれた染物工場の片隅にあったもの)に住み、その狭い一間に三つのふとんを敷いて寝た。私は祖父と一緒のふとん、妹は母と一緒。祖母は昭和21年に病死している。
(写真:屋根がはがれたおんぼろ工場の右手裏に屋根のみが少し見えるのが、当時の我が家。田んぼの向こうには遊びにいった裏山。現在は田んぼも裏山も、開発されて住宅がびっしりと並んでいる)
そして、終戦直後は食料難の時代。誰もが食料の入手に苦労したが、父母も同様だった。夫婦で近郊の農家や神奈川、千葉、茨城の農家にまで出かけていき、戦前にあつらえた母の着物などと物々交換をして、祖父や子供達のために食料を手に入れてきたが、それでも、米はほとんど手に入らず、大豆、じゃがいも、さつまいも、とうもろこしなどが我が家の主食であり、たまに手に入る米はコウリャンやさつまいもをまぜて食べた。私が覚えているのは、じゃがいもと大豆だけの食事が何日も続き、あごが痛くなったこと、近所の小川でたらい一杯のザリガニを取って茹でて食べたこと、家の周りの荒れ地で農業に不案内な母がとうもろこしや野菜などを作っていたことなどである。

(商店の作業場にて)
また、戦後しばらくして父が勤めていた会社が倒産したために、夫婦は二人で親戚の小さな紙箱作りの商店に勤めることになったが、薄給のために土日も含めて毎日残業をして生活費を稼がなければならなかった。両親が帰ってくるのはいつも夜の10時頃。「寝るは極楽。起きるは地獄」というのが、その頃の母の口癖で、母はそうつぶやきながら、疲れ果てて布団にもぐりこんでいた。
この頃は、父母が夜遅くにしか帰ってこないので、夕食は祖父と私が作り、妹と3人で食べるというのが毎日。そんな中で、家族の大きな楽しみは、月に一度の父母の給料日に東急・大井町線の自由ケ丘駅の改札口で待ち合わせをして、近くの食堂でかつ丼やたぬきうどんを皆で食べることだった(祖父は昭和29年に老衰で死去)。
(妹と)
それと、母が高齢になってからの思い出は「母の手のぬくもり」。
母は商家に育ち、若い頃から毎朝、自宅の神棚にお灯明を灯して拝むのが日課だったためか、神様、仏様への信仰心がとても厚く、老いて我が家で一緒に暮らすようになってからも、毎朝、10分以上お経を読み、また、毎月のように品川・青物横丁の千体荒神さま(江戸時代からの「火の神さま」。火事を防いでくれる)にお参りに出かけていた。母はいつもおだやかな顔をしていたが、それは性格でもあり、信心の深さの現れでもあったように思う。
また、母は歌舞伎見物や銭湯・温泉が大好きで、高齢になって足を捻挫し歩くのがやや不自由になってからは、私が母の手を引いて荒神さまや歌舞伎座、あるいは箱根の温泉などにお供をして歩いた。
そんなときのことだ。駅まではタクシーで行き、手を引いて階段をゆっくりと昇り、また、道を歩くときも手をつないで歩いたが、ふと感じたのが「やわらかくて温かい母の手」、「母の手のぬくもり」である。幼いときに手をつないだはずなのに、そのときの母の手の感触は全く残っていない。あのとき感じたはずの手のぬくもりを、このとき生れて初めて感じたのだ。母の手はやわらかくて、ほんのりと温かかった。
母は、苦難を乗り越え、生活を支えてきただけに、我慢強い人だった。腰が低く、いつも、ニコニコしていた。怒ったり、文句を言ったりする姿を見たことはほとんどない。私が怒られたのは一度だけ。小学校低学年の頃、母が畳もうとする布団の上に何度も飛び乗って遊んでいたら、「邪魔」ととても怒られたことがある。今、振り返ると母が懐かしくて、思わず涙がにじむ。
また、寝たきりになってからの2年間は、1ヶ月のうち、半月は施設に預け、あとの半月は私が自宅で食事を食べさせ、下(しも)の世話をしていたが、世話をするときは、自分の息子なのに「ありがとう、ありがとう」といつも感謝の言葉を口にしていた。とてもやさしい人だった。
夫は昭和58年9月に亡くなり、次女は平成3年にガンで亡くなった。母が亡くなったのは平成17年。母の妹も亡くなっており、今頃は天国で夫と娘二人と妹に会って、談笑していることであろう。
(下左から:「新婚旅行・江ノ島」「私の誕生・母の妹も一緒」「亡くなった私の妹・節代と」)


(上、左:「川崎の自宅にて。温泉旅館で撮ったと父が自慢していた一枚」。右:「妹が小学校に入学」)
(下、1枚目「父と母」、2枚目「娘と孫と」、3枚目「息子の孫と」


3)父の思い出
父は旅行が好きだった。
小学生の頃はよく父と一緒に汽車に乗り、大阪や岡山の親戚の家に泊まりに行った。奈良にも寄った。妹が一緒だったこともある。汽車は蒸気機関車が引っ張っていたので、窓を開けたままでいると目に石炭の燃えカスが入って、こすってもなかなか取れずに涙目になったのを憶えている。
その他、行ったのは大森海岸や江ノ島の海水浴、連絡船で木更津から横浜へ、など。
父は賭け事が好きだった。特に好きだったのは競馬。休日にはよく溝の口に近い府中競馬場に連れて行かれ、ゴール前で一緒に観戦。買った馬券を知らされていたので、4コーナーを回ってのゴール直前の競り合いでは、買った馬が一着にはいるかどうか、とても興奮したものである。
そんな父の影響であろう。後年、私も賭け事が好きになり、就職後の一時期は職場の人達と毎夜12時近くまで麻雀をし、また、仕事に疲れるとパチンコ屋に入るのが常だった。今はどちらも卒業しているが。
父が60歳頃のことだったと思う。残業で体を酷使してきたために、ある日、心臓発作を起こし、胸をかきむしって苦しがったことを憶えている。そして、70歳頃に脳内出血を起こし痴呆状態のまま、72歳にしてあの世に旅立った。終戦後に勤めていた会社が潰れ、零細商店に勤め始めたのだが、給料が安かったために、土曜・日曜も、また夜遅くまでも働かざるを得ず、本当に働きづめの一生だったように思う。
(下左から、「父とその母」「父の小学時代」「お祭りで仮装」)

4)祖父の思い出
小学生の頃はいつも私が自転車の後ろに載せて、祖父を溝の口駅に近い銭湯まで連れて行ったが、その帰りにはよく駅前にある闇市の本屋で講談本を買ってくれた。粗末な藁半紙(ワラバンシ)作りの「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」である。本に馴染んだのはこれが最初。中学時代にメガネを掛けるようになったのは、これらの本を寝床で読んで目を悪くしたためである。でも、おかげで、私はとても読書好きになった。
祖父は浪曲や講談と相撲見物が好きだった。祖父と一緒に私もラジオで広沢虎造の浪曲(「旅ゆけば駿河の国は茶の香り」で始まる「清水の次郎長」など)や宝井馬琴の講談(愛宕神社の石段を馬で駆け上がった「曲垣平九郎」など)を聞いていたのでその節回しは今でも覚えている。
祖父は晩年、家の裏手の田んぼの溝に仰向けに倒れているのが見つかり、以降寝たきりとなった。家が狭くて、私はいつも同じ布団で寝ていたが、祖父が夜中に亡くなった時も、私は同じ布団の中にいた。

(上:真ん中が祖父、西五軒町にて。戦前)(戦後。川崎の自宅前にて)
5)戦争の記憶
当時は遊びに夢中。戦争が怖かったという記憶は全くない。
祖父母と小学一年の私は川崎市溝の口に疎開。父母と幼い妹は東京に残ったが、空襲を受けて、3人は火の中を逃げ惑ったという。幸いにして3人は江戸川国民学校の校庭に逃げ込み助かった。数日後、父に連れられてJRの飯田橋駅に行ったが、そこには見渡す限り何もない真っ黒な焼け野原が広がっており、道端の黒焦げの木材をひっくり返すと、まだ赤い火が残っていた。
疎開先の川崎では、空襲で燃える東京の夜の空が真っ赤だったこと、同じく昼の横浜の空一面が真っ白な煙で覆われていたことを鮮明に覚えている。
川崎の家の裏は田んぼ。その向こうに横に連なる丘陵。そこには日本軍の高射砲陣地があり、米軍機が被弾し、キラキラ光りながら落ちてきたという記憶もある。
また、高射砲陣地を狙った爆弾のフタであろうか、直径1mほどの丸い鋼鉄製の物体が工場の屋根を直撃し、屋根と地面に大きな穴を開けたこともあった。
終戦を告げる天皇の詔勅を隣家のラジオで聞いたのは、小学校1年のとき。真夏の昼、明るい真っ青な空の下に近所の人達が集まって直立不動の姿勢で聞いていたが、私は何が起こったのかがよく分からず、皆のうしろに立っていた。大人は泣いていたが、私は全く悲しさを感じなかった。
2.青少年時代
小学1年の始めは牛込区の江戸川国民学校だったが、その年に祖父母と私は川崎市に疎開し、川崎市立高津小学校の1年生へと転校した。
小学校卒業後は、目黒区の攻玉社中学(目蒲線・不動前駅近くの男子校)に入学し、高校も攻玉社へ。
次いで1年浪人し、四ツ谷の駿台予備校へ通った後、東大法学部に運良く合格。前年の入試の結果があまりにも惨めだったので(その頃は入試の成績を大学で教えてくれたが、成績は次年度に受験しても受かる可能性はないという低いレベルのものだった)、合格したのは実力というよりは、合格線上すれすれのところでたまたま引っかかったという運の良さによるものと思われる。そのため、これまで東大入学を誇らしく思ったり、自慢したことは一度もない。
(下左から「中学1年」、「高校1年」、「就職1年目」、「大学の卒業式(父母と妹と)」)




3.10代・20代の私を育ててくれたもの(2013年1月19日記)
1)楽しかった少年時代
小学生の頃は魚取りや百人一首などに夢中になり、毎日がとても楽しかった。夢中になって遊んだこと、それは自分を形成する上でたいへんプラスになったと思う。
今の自分の性格に「明るいところ」や「優しい部分」が少しでもあるとすれば、それは、この頃、遊びに熱中したことで養われたものであろう。また、同時に「物事への集中力」もその中で養われた。
(魚取り)
まずは魚取り。
小学生の頃、近所の小川で魚を石の下に追い込み手掴みで採ったり、小川をせき止めて水をかい出して採ったりした。また、多摩川の急流であんま釣りという方法で1日に100匹を釣りあげたこともある(道具は簡単。細い竹の棒に2-3mの釣り糸と釣り針と餌の川虫を付け、ウキは付けずに竹の棒を急流の中で上下に動かすという釣り方)。夏休みはそれらに夢中になり、いつも午前中に家を出て、帰るのは夕方だった。
魚取りで一番興奮したのは、台風の接近で多摩川から水を取り入れる水門が閉まり、近所の小川(コンクリート作りの農業用水路)の水位が下がったときである。いつもは子供の背丈ほどもある小川が足首の浅さにまでなり、魚がいっぱい採れた。小学生の頃だが、台風が接近してくるときは、学校にいても勉強に身が入らない。いつ水位が下がるか、他の子供に先を越されないかと、居ても立ってもいられなくなり、授業が終わると家まで飛んで帰り、雨が降っていても網を持って川へと駆け出していった。
小川は幅3mほど。その片端に玉網(子供用の、虫取りの網。小さくて底が浅い)を据え、足で魚を上流に追い上げていくと、魚は逃げようとして川の端を矢のような速さで下ってくる。黒い影が網に入った一瞬をとらえて網を上げるのだが、少しでも遅ければ網の底が浅いので反転して逃げてしまう。全身全霊を集中してこの一瞬にかけるのだが、この「一瞬の魅力」がたまらない。黒い影が下ってくるその一瞬、「とてもわくわくしたその一瞬」が今でも鮮明によみがえる。
また、魚は追われると30-50cmほどの石の下に隠れることが多い。こんな魚は石の下に両手を入れて掴んで採る。手を石の奥に入れたときに指先で感じる「ビビビビ」という魚の躍動感はたまらない。心が踊る一瞬である。もっともときには、とげのある「げばち(なまずに似ている)」や「ざりがに」が潜んでいて、刺されることもあったが。
採るのは主に「うぐい」。
「鮎」もいる。鮎が上流へ遡るときは川の端を水面に波を立てて進むので、「鮎だ」とすぐに分かる。鮎を採ったときの喜びは特に大きい。採れたての鮎は甘い「すいか」の匂いがした。
(百人一首)
百人一首にも夢中になった。
近所の家で、小学生5-6人(その家の千恵子ちゃん、武ちゃん、それに私の妹も)を集めての「百人一首」が始まり、それがいつしか冬の年中行事となった。読み手が句を読み上げ、取り手は下の句が書かれた札を取るという競技。初めは撒いたカルタを皆で丸く囲んで取るやり方だったが、上達するにつれて1対1で相対して対戦する正式なやり方に代わった。千恵子ちゃんと私がその中心。下の句が書かれた100枚の取り札のうち50枚を使い、これを更に自分と相手と半分づつに分け、それぞれの持ち札25枚を3段に並べて前に置く。相手の札をとれば自分の札から1枚を相手に渡し、自陣にないのに自分の札に手を付けば「お手つき」として相手から1枚をもらう。これがルールで自分の札が早くなくなったほうが勝ち。
その家の奥さんが読み手。独特の節回しで朗々と100首の歌が読み上げられ、上の句を聞いて取り札の下の句が何かを瞬時に判断して取るのだ。私の場合、右手下に一字取りの札(読み出しの一字が「むすめふさほせ」のもので、読み出しの最初の一字を聞けば取れる)、17枚ある読み始めが「あ」の札は左上、読み始めが「い」(百枚中に全部で3枚ある)と「う」(全部で2枚)と「き」(3枚)の札は2段目左などと決めてあって、勝負に入る前に記憶しておき、勝負中は相手の札のみを見て対応する。相手の札の置き方が自分とは異なる場合もあり、下の句の最初の一文字を基準に置く人もいるので、相手の札の位置を憶えるのはたいへんなことだ。
正座した体をやや前に浮かせて、全心全霊を集中させ、上の句の読み出しを待つ。ほとんど無我の境地。
札が読まれると相手の指先が瞬時に伸びてくる。こちらも一瞬の判断で素早く札に手を伸ばす。この研ぎ澄ました一瞬の判断が勝負を分けるのだ。札を払うと、勢いよく飛んだ札が障子に突き刺さることもある。
百人一首は冬の遊び。遊び終わって外に出ると興奮した体からは湯気が立ち上るほどであり、風呂上がりのように冬の夜の冷たい空気が全身を包み、とても心地よかった。
「あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり」はこのときに最も好きになった一句であり、今でも好敵手の千恵子ちゃんと共に思い出す。
中学・高校時代に和歌と漢詩の授業が好きになったのも百人一首の影響だと思う。
百人一首以外でいくつか気に入った歌を掲げておこう。
「岩ばしる垂水の上の早蕨(サワラビ)の 萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)
「哀しみは生きの命が生めるなれば子としおもひて疎か(オロソカ)にせじ」 (窪田空穂)
「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね 琴はしずかに鳴りいだすだらう」 (八木重吉)
「鬚(ヒゲ)欲しや 藜(アカザ)の杖を 突くからは」 (後藤比奈夫)
「岩ばしる」の歌からは谷川の絢爛とした春の息吹が伝わってくる。また、「琴はしずかに鳴りいだすだろう」の歌は振るい付きたくなるほどに透明で美しい。どれも心に残る歌。最後の句は、藜(アカザ)の杖が大好きで、ご自分でも藜を栽培し杖を作っていた六つ星山の会会員の清水さんにぴったり。私もアカザの杖を1本もらった。
(その他の遊び)
小学生の頃は、近所の年下の子供達7―8人のガキ大将として活躍。毎日、家の外での遊びに夢中になった。
長屋の周りでは、缶蹴り、S回戦(二組に分かれ、地面にS字を書き陣地を取り合う遊び)、水雷母艦(二組に分かれ、各組で艦長と水雷と鉄砲を決め、陣地を取り合う遊び。艦長は鉄砲には勝つが、水雷には負けるなど)といったゲームをやり、田んぼでは高さ2mほどに積み上げられた稲わらに乗って遊んだりした(よく、麦わらの山を崩して農家のおじさんに追いかけられたものである)。麦畑では麦笛を作ったり、畝の間に身を潜ませてのかくれんぼ。また、紙工場の2m四方にくくられた古紙の中でも遊んだ。今もあの古紙の独特の臭いがなつかしい。また、裏山ではツタにぶら下がってターザンごっこをやり、竹を切って弓矢を作った。山栗も取った。まだまだ沢山ある。ベイゴマ、凧揚げ、けん玉なども。凧揚げでは、上空に見えなくなるほどに高く揚げて柱に縛っておくと、無人になっても安定し、落ちる心配はなく、いつまでも揚がっていた。

(上は近所の遊び仲間)
(下は小学校の同級生。我が家の前の小川にて。課外授業・写生のときに父が来て写してくれたもの。私の左隣の二人が順に、親友の柿島君と尾幡君。今も付き合いがある。特に尾幡君とは、今でも数ヶ月に一度は大手町で昼食を取りながら会う。柿島君とは、彼が病を得てからは「来ないでくれ」と云われて会っていない。--多分、病気の姿を人に見せたくないのだろうと思い、こちらも会うのを遠慮している。兄弟とも会わないようにしていると手紙にあった。柿島君は大の読書好き。私はその影響を強く受けた。いまでも親友であり、心友である。)


幼少年期に夢中になって遊ぶことはその子の心を健全に育てる。私は、孫が3歳の頃から小学校の低学年まで、ほぼ毎週1回、孫と遊んできたが、いつも意識したのはこのことである。水泳、アスレチック、スケート、雪遊び、ザリガニ釣り、蝉採り、だんご虫採りなどに一緒に行き、孫が嬉々として遊んでいるのを見守ってきた。
2)神経症で自信喪失-この経験が自分を育てた。
1年の浪人生活を経て難関の東京大学・法学部の入試に合格。合格を知って多摩川の土手を我が家に帰るときは、有頂天になって、足が宙に浮いているように感じたことを思い出す。
しかし、大学生活は無味乾燥だった。神経症にかかったからである。
自信満々、むしろ、自信過剰の状態で、新しい一歩を踏み出した頃、人間関係につまずいて精神的に大きな打撃を受け、自信を失って、人の前に出ると顔がこわばり、話ができなくなるという神経症にかかってしまった。神経症というのは、治そうと努力をすればするほど深みにはまるもの。初めは自信満々で何とか抜けだそうと懸命に努力を続けたが、それがかえって悪くて、深みにはまり、自信過剰は一転して、完全な自信喪失へと落ち込んでしまった。人前に出るのが怖い。気は強いほうなので、それでも「なにくそ」と無理をして人前にでるようにしたが、それが状態を一層悪くした。人前に出るとドキドキし、言葉が出てこない。そのことばかり考えて、昼も夜も悩んだ。
結局、この状態から抜け出すにはほぼ10年を要した。10年間悩んだ末に、やっと「治すのはあきらめよう。努力をしても自分にはできないことがあるのだ。その弱さを素直に認めよう。でも、別の面で自分にできることは沢山あるはず。それをやっていけばそれでよいのだ」という境地にたどりついたのである。それがストンと心に落ち、そこからゆっくりと自信を取り戻していった。単純なことだが、「やれることをやる一方、やれないことはあきらめる。無理はしない」「自分は強くもあれば、弱くもある」というバランス感覚を会得したということであろうか。
以後、「一定の限界を超え、無理をして何かをやろうとはしない。自分はそれほど強くはない。やれる範囲でやる」-これが自分の行動基準の一つになった。六つ星山の会の事務についても自分に「完全」を求めない。やれる範囲でというやり方でやってきた。
でも、ある程度、自信は取り戻しており、力を尽くすべきときには自信をもって取り組むことができるようになった。たとえば、六つ星の「創立25周年記念事業」のときには、事務局長として全力投球をした。会場に日大の講堂をお借りし、全国から13の視覚障害者登山団体をお呼びした上で、登山家の田部井淳子さんの講演会を開き、視覚障害者登山を考えるシンポジュウムを開き、コーディネーターにNHKのアナウンサー山田誠浩氏をお願いし、と大忙しの毎日。すべてが終わり会場の後片付けに最後の1人になるまで残り、それも終わったときは、連日の気疲れが重なってクタクタとなり、その場に座り込みたくなるほどに疲れてしまったが、やり終えたという充実感はなんとも言えず快かった。もちろん、これらの成功は自分の力によるものではなく、各分野の責任者が力を尽くしたことにあるのだが。自分が全力投球をしたのはそれらの陰の調整役としてであった。
3)恩師のはがき
神経症になったのは「治そう」という執着心が強すぎたからだが、「物事に執着する」という性格は「粘る」ということにも通じ、プラスの面もあった。
高校生の頃、心ひかれる先生から、「よし歩みは遅くとも、ねばり強く、牛のように」という年賀状をもらい、「ねばり強く、牛のように」という生き方は、確かに自分に合っているように感じた。もともと粘り強い性格だったが、この言葉を頂いてからは、「粘ること」を強く意識するようになった。恩師の一言のおかげである。
恩師の名前は奥井先生。英語の担当。背が高くて、顔がフランケンシュタインに似ていたので、あだ名は「おばけ」。やや足を引きずっていたが、第二次大戦中、硫黄島に戦闘機で出撃し機銃で足を撃たれたためという。たくましくて、また知的な雰囲気を持っていたので、とても心ひかれた先生である。
ときどき皆で家に伺い、先生の指導で、サマセット・モームの「The Outstation(奥地駐屯所)」を原文で読んりしたが、ウオーバートンという主人公の名前は今も鮮明に憶えている。また、先生の提案で英語劇を演じたりもした。これには私も出演したが、私はせりふがたった一言だけの兵士役での出演だった。
「粘り」の例を二つ。
1)中学の国語の授業で、毎日、日記を書いて提出するという宿題が課され、家で日記を書くのが日課となったが、結局、中学を卒業し、書くという義務が無くなっても、それを毎日続け、20歳代前半まで日記を書き続けた。そして、このことはその後、自分の内面にいつも目を向け、自分を見つめるということに繋がり、また、それは文章を書くのを苦にしない自分を作った。これは、「粘って日記を書き続けた」お陰である。そう言えば、指導を受けた国語の西田先生も恩師の1人。顔つきから、あだ名は「般若」。授業はとても面白かった。特に和歌や漢詩の授業が素敵で心に残り、今でもそれらを口ずさんだり、和歌や漢詩の本を読んだりしている。
2)例示の二番目は「牛野 歩」という、なつかしい名前。「粘り」を意識して付けた私のペンネームである。30代の頃、政党活動で10年ほど使っていた。その頃は、毎日、活動のチーフとして忙しく動き回り、家に帰らずに外泊することもあって、疲れて駅の階段を上るのも辛かったが、心に「疲れ」という重い鎖をつけながら、それでも何とか活動を続けた。その頃に自分を励ますために付けたのがこのペンネームである。
その運動のチーフは辛い役なので、引き受ける人はほとんどなく、また、引き受けても短期間でその役を下りるのが普通だったが、それを見ていた私は意地もあり、「10年間は絶対にチーフをやめない」と心に決めてこの役を引き受けた。チーフを下りたのは結局、身も心もボロボロに疲れ果てた10年後のことだったが、こういう役は自分に全く不向きだと心の底から感じた。
六つ星の役員になったときも「10年は続けよう」と心に決めたが、こちらは15年近く続いている。
ただし、このような場合、自分の活動には特徴がある。「組織を超低空でいつまでも墜落しないように飛ばすこと」には向いているのだが、組織を上昇気流に乗せ、活発にし、大きくすることは不得意なのだ。組織活性化のために思いがけないアイデアを出したり、また周りの人の心をしっかりと掴んで組織全体を動かしたりということはうまくできない。それらがとても得意な人が何人かいるが、私はその人達には全く及ばない。
4.「視覚障害者登山」-それは私の後半生をたいへん豊かにしてくれた。(2013年1月25日・記)
注)別途、このブログに掲載した「視覚障害者登山・六つ星山の会」に六つ星山の会の概要を記したので、それらも参照されたい。
人生後半の25年間、六つ星山の会(視覚障害者と登山を楽しむ会・会員約200名・うち視覚障害者80名。1982年創立)に1989年11月、51歳で入会し、年間10-20回、視覚障害の方と山に登り、また、後半の約15年間は役員として組織の運営に携わってきたが、それは私にとって新しい経験であり、辛かったことも含めて、私の後半生をたいへん豊かにしてくれた。
1)第一は、視覚障害の方々と登山の喜びを共有できたこと。
「喜び」は共に味わう人がいれば倍加する。視覚障害の方が山頂に立って「登った」、「私にも登れた」と嬉しそうにする、その笑顔を見るときはこちらも嬉しくなる。風を感じ、「ワア、涼しい」と言われると、こちらもほっと一息つく。
2)そんな中で視覚障害の方々と親しくなり、また、サポート役の山好きの方々とも親交を深められたこと。
ポンと肩をたたいて「ご苦労さん」と握手をしてくれる人、また、問題が生じたとき、電話で「どうですか。大丈夫ですか」と励ましの言葉をくれる人、そんなすばらしい人達が周りにできた。彼等の顔を思い浮かべるだけで、元気が出る。
一方、人の冷たさに接して、辛くて何度か六つ星を辞めたいと思うこともあった。私は負けん気が強い反面で、意外と繊細。ちょっとしたことで、心が傷つく。六つ星に入った頃は、「六つ星のようなボランティアに携わっている人は暖かくて親切な人達だけで、冷たい人はいない」と思っていたが、そうではなかった。冷たい人もときにはいる。
3)組織運営のあり方についても、いろいろと学ぶところが多かった。
40年間務めていた元の職場では、組織全体を見渡す立場に立つことはなかったが、職場を辞めて初めてからの15年間、小さいながら、組織運営というものの一端を担い、新しい経験をした。
① ボランテイア組織には、その中心に「何が何でもこの組織を支えていこう」という人がいることが大事。中心にいる人が動揺すれば、種々の事務を担当するなどして周りから組織を支えている多くの会員は、その組織の将来に疑問を感じて、やる気を失いかねない。
特に組織が混乱しているときは、中心にいる人はじっと我慢し、泰然自若としていることが大切である。
② 誰かに何かを頼むとき、会社組織とボランティア組織では基本的な違いがある。会社では給料をもらっており、上司の指示命令があれば一般的に必ず従うが、六つ星は無給であり、活動は自発的なものなので、やって欲しいことがある場合は、言葉でお願いしその人の心を動かす以外に方法はない。
ボランテイア活動にたずさわる人はすべて「善意を提供し、世の中の役に立ちたい」と思っている。しかし、ほとんどの人は「少しだけ」であって、「日常生活にかなり食い込む形で運営にたずさわってもよい」と思っている人は少ない。「少しだけ」であろうと「世の中の役に立とう」という思いはたいへん大切なことであり、ボランティアはそれで成り立っているのだが、役員になってほしいとか、恒常的に事務を担当してほしいとか、を頼む場合は、尻込みする人が多くて、承諾を得るのがたいへんである。何しろ、私は人に頼むことが苦手。断られるのではと、ドキドキしながら頼むのだが、断られて結局、自分がやってしまうことが多かった。
しかし、それでは組織は育たない。会の運営に携わり「六つ星は自分の会」「他人ごとではない」と思う会員が一人でも多くなることが組織の維持・発展には必要なのだ。
もっとも、あまり大きなことは言えない。自分もかっては「少しだけ」の部類の一人であり、機会があれば役員を降りたいと、いつも思っていたのだから。
③ 私の場合、六つ星にかかわったのは「やらねばならない」という「義務感」からである。
ボランティア活動をする人の中には、生涯のすべてをそれにかけている信念の人、活動を楽しみながら嬉々としてやっている人、義務感でやってはいるが精神力が強かったり、楽観的だったりして私のようには悩まない人、などがいるが、私の場合は「今の仕事を引き受けてくれる人がいないので、やめたいのだが、やめられない」という消極的な面が強かったし、人間関係で何かあるとすぐに辞めたくなるような弱い面があった。
ただし、今は会の雰囲気が変わった。やろうという人達が沢山いて、ほとんどの事務を引き継いでもらい、いつでも辞めることができる状態になった。
④ 私に向いている組織運営のやり方は、「粘って」超低空飛行で組織を維持し続けることにある。逆に苦手なのは、組織を上昇気流に乗せ活性化し大きくすることである。活性化のために皆の気持をしっかり掴むことやすばらしいアイデアを出すことなどは苦手である。もっとも、苦手なので、そんな努力をしなかったという面もあるのだが。
⑤ 自分にとってボランテイア活動に意欲を持ち続ける鍵は、「行動の意義付け」について確固とした「座右の銘」を持つことではないかと思ってきた。そして、10数年を要してやっとたどりついたのは、「自分の活動が、誰かが山を楽しむことに少しでも役に立っていればそれでよい」ということだった。こんな平凡な境地に達するのに10年もかかった。でも、今では、どんなにいやなことがあっても、この言葉を思い出せば耐えることができるようになった。
4)また、視覚障害者登山のあり方についてもいろいろと考えさせられた。
たとえば、
① 視覚障害の方々と「対等の立場」で山に登るとは何か、
② 「ボランティア」とは何か、
③ 危険を冒して山に登ることの是非、
④ 事故対策のあり方、
などである。
① 2009年まで六つ星の会則には、視覚障害者と晴眼者が「同等の立場で山に登る」という文言が入っていたが、翌年の総会で「共に登る」と改定された。
このときの議論の中で、私が考えたのは以下のことである。
視覚障害者と晴眼者は金銭面、運営面、情報面という三つの面で「同等の立場にある」。即ち、
・山行への参加費(交通費、宿泊費)は同額の負担、会費も同額等、金銭面では同等である(六つ星結成以前は視覚障害者がサポーターの交通費、宿泊費、ときには日当までも負担するのが一般的だったが、六つ星が同等負担という新しい原則を確立した)、
・役員の晴盲同数等が保証されていて会の運営面でも同等の立場にある、
・山行案内等の情報伝達については、活字版、Ëメール版のほかに、点字版とデイジーのCD版が作成され、すべての視覚障害者に情報を知る権利が保証されている。また、会山行については1件毎に触地図が作成されている、
というように三つの面で同等なのである。
ただし、精神面ではやや異なる。登山のサポートは「する」、「される」の関係にあり、サポート者側は「面倒をみてあげる」という気持になりがちであり、一方、障害者の方も「助けを受ける」という受動的な気持になりやすい。そして、サポート中の晴眼者の行動は「指示し誘導する」ことが中心で、「同等の立場で登る」という精神が入り込みにくい。
この精神面の平等をどう実現したらよいのであろうか。
これについては、私は次の3点に留意している。
a)視覚障害者は一個の人間として自立心が強く、「お情け」を受けることを極端に嫌う人が多い。そのことを常に留意する。
b)「助けてあげる」という気持は大切。これを無理に否定しなくてよい。
c)視覚障害者の方と長くお付き合いをし、親しくなる中で、いつか「同等のお付合い」が自然できるようになるはず。
この改定が提案された2010年の総会では、数人の視覚障害の方から、「入会のとき、同等の立場という文言を読んでたいへん感銘を受けた。是非残してほしい」との要望が出されたが、結局、「当然のことで仰々しすぎる」「条文をもっと平易に」等の理由で可決された。
しかし、この精神そのものが総会で否定された訳ではない。今もこの精神は生きていると思う。
②「ボランティア」の定義について
視覚障害者の中には、「六つ星はボランティア団体ではない」という声が強い。積極的に活動に係わっている人ほど、そんな声が強く、晴眼者の中にも「この会はボランティア団体であってはならない」という人がいる。
なぜか。六つ星山の会の視覚障害者は社会に出ることに積極的であり、自立心が強く、「目が見えなくて大変でしょう。助けてあげましょう」と言って手を取られることをたいへん嫌う。「お情けは受けたくはない」のだ。そのためだと思う。「ボランティア」という言葉に「お情け」を感じるので、抵抗感が強いようである。
でも、ここには「ボランティアとは何か」について考え違いがあるように思う。ボランティアは、「お情け」ではないのだ。「無償での社会奉仕」と言えよう。私は、六つ星はボランティア団体だと考えている。
③危険を冒して登るのか、それとも安全を優先して中止するのか。
視覚障害の方が、槍・穂高や赤石岳などの高くて比較的厳しい山や冬山を希望する場合、それに挑戦する意欲を大切にしてサポートを了承するのか、それとも安全を優先してサポートを断るのか、選択を迫られることがある。
そんな場合、私はできるだけ「挑戦への意欲」を尊重し、安全対策をあれこれと考えた上でサポートを引き受けてきた。もちろん、その人の力倆と山の厳しさの程度を考慮した上でのことだが。また、天候悪化での撤退は必須要件。
一例をあげよう。70歳に近い全盲で足が弱い方に頼まれて、槍や穂高、赤石三山縦走などに出かけたときのことだ。一部の人からは「あの人では危険が多すぎる。やめるべきだ」と言われたが、その人の熱意がとても強かったので、もう一人のサポーターとして私よりも強力な人を頼み(1人にサポーターは二人必要)、更に小屋に着けないで野営することも考えてテントも用意して、出かけたのである。結局この縦走は、どんなに疲れても歩き続ける、その人の粘りによって成功した。挑戦する気持ちがあれば、試みてもらう。たとえ、力倆不足でそれが失敗に終わったとしても、その人の心は満たされるであろう。
④事故を起こさないために。
六つ星では過去30年の間に路肩からの転落事故が3件発生し(うち骨折1件、無傷2件)、その他、転んでの骨折や落石による切り傷、虫刺されなどの事故も数件発生している。
特に転落事故は死亡や大きな怪我につながるので細心の注意が必要である。
過去の例を見ると、道幅が狭く全員が注意をして慎重に歩くような危険地帯では事故が発生したことはなく(ときにはザイルで確保したり、特別に一人サポーターを配置したりして万全の注意を払っていることによる)、事故は安全と見られるような思わぬところで発生している。
油断をすれば事故はどこでも起きるということである。
六つ星山の会として事故を起こさないために肝要なことは、安全と思われる登山道でも常に注意を怠らないこと、これが第一。
第二は役員会としてエコーラインや例会で事故への注意を会員に常に喚起していくことである。
5)追記(総務部長を退任 2015.1.31記)
六つ星の2月の総会で総務部長(事務局長的な役割を担う)を退任することができた。喜ばしいことである。かって、役員のなり手がいなくて、規約で定める定数を大幅に下回ったままで運営せざるを得ないときが長く続いた。「もし、これ以上役員が減ったら臨時総会を開いて組織の解散を提案しようか」などと考えたこともある。それが最近では運営に積極的な会員の方々が大幅に増えて、運営の中心を担う方が現れ、また役員も常に定数一杯の選任が可能となっている。
今は、心置きなく退任できる。これまで、「永遠に組織を維持するにはそれを担う人が元気なうちに次の人に代わることが必要だ」と思ってきたし、代わってくれる人がいないかといつも周りを探していた。それが実現できたのである。もちろん、心の奥には、「総務部長の役はかなりの負担。早く代わってのんびりしたい」という思いもあったが。
今後を考えると、役員を下りた後も、一生を視覚障害者登山の普及に捧げるという選択もあるように思う。視覚障害の方の希望をもっと深く掴んで、視覚障害者登山のあり方を深めることに尽くすという道だが。でも今は、それ以外のことをやる方向で考えている。
6)追記(2016.5.9記)
誰かのために少しは力を尽くしたいという思いは誰にでもある。私もその一人。
30歳代の10年間は、ある組織の支部のリーダーとなり世の中全体を変えようという活動に力を尽くしたが、先頭に立って組織の皆を引っ張るというような活動には、私は不向きだった。相手の気持を考えると「やるべきだ」と強くは出られず、また、宣伝活動で世間の人と相対したときは、「考えは人それぞれ」という思いが強く、「何が正しいか」という判断を相手に無理に押しつけるような感じがして(本当はそうではないのだが)、うまく対話ができなかった。そして、不得意な任務を義務感だけで10年間、全力で続けた結果、身も心も疲れ果てて、リーダーを辞任した。運動には今も係わっているが、活動はかなりペース・ダウン。
40歳代になると、疲れた心身の回復を図って「日本百名山」を始め、徐々に熱中して、日本全国に出かけ、ほぼ単独で過半数の山を登った。登山から帰ると、心が生き生きとし、仕事や日常生活に前向きになれたことを覚えている。
次いで50歳代に入って始めたのが「六つ星山の会」の視覚障害者登山である。これは私にピタリの仕事だった。30歳代に全力投球をした社会運動では自分の力が生かせなかったが、ここではある程度、生かすことができた。それにここには、「喜び」があった。30代の運動では、運動が効果を発揮して世の中が変わり、皆の生活が豊かになるのは多分、100年も先であり、今、皆が喜ぶという姿を見ることはできない(その効果がすぐに発揮される分野も一部にはあるが)。それに対し、登山は自分の得意分野であり、「義務感なしで」前向きに取り組むことができる上に、視覚障害の方の喜ぶ顔がその場で見られるし、自分も嬉しくなる。。そんな「六つ星」は自分に向いているし、それを選択してよかったと思っている。
5.海外登山とサンティアゴ巡礼-人生を楽しんだ後半生
人間、一生の間に「ワクワクする」ことなどめったにない。
小学生の頃に味わった最高の「わくわく感」については、すでに上記3の1)「楽しかった少年時代」に書いたとおりであるが(「魚とり」と「百人一首」)、その他では、中学生の頃、泊りがけの修学旅行に行く前夜、ワクワクしてなかなか寝つけなかったことや、いとこの敏夫ちゃんと清ちゃん(母の妹の子供)が我が家に遊びに来る日に、何度も外に出ては道のはるかかなたを見据えながら、「今か、今か」と到着を待ちわびたことなどを覚えている。
また、青年時代には体が宙に浮くような、何とも言えない幸福感を2度、味わった。
一つは難関の東京大学に合格したときのこと。それを家で待っている母に知らせればどれほど喜ぶかと思いながら、多摩川の土手を走って帰ったのだが、何か体が宙を飛んでいるような不思議な感じがした。あと一つは、ひそかに思いを寄せる幼馴染みがいたが、あるとき、彼女も自分を思っていると分ったときのこと。家に帰ってじっと座っていると、幸せ感が全身に広がっていくのが感じられた。もっとも、この関係は淡い思いのままで終わってしまったが。
そして、50歳以降の後半生に入って、このブログを書く契機になった海外登山とサンティアゴ巡礼において、青少年時代に味わったそんな「わくわく感」を再び味わうという幸運に恵まれたのである。
1977年・40歳の頃から山に夢中になり、ほぼ単独で、初めは「日本百名山」を、次いで北アの全山縦走(西穂-親不知海岸。ジャンダルム、栂海新道、船窪-烏帽子などを越える)、南アの全山縦走(仙塩尾根、高山裏など)、北鎌尾根、転付峠越えなどを楽しみ、その一方で海外にも目を向けてツアーに参加し、1988年にモンブラン(ヨーロッパ大陸)、1991年にキリマンジャロ(アフリカ)、1993年にアコンカグア(南米)、58歳の1996年にはマッキンリー(北米)と、ワクワクしながら、七大陸のうちの四大陸最高峰に遠征した。そしてこのうち、キリマンジャロとマッキンリーは登頂に成功。特にマッキンリーの登頂成功は、山に素人の私にとって、今では、生涯最高の勲章とも言える、何物にも代えがたい思い出となっている。
他方、60歳代後半になると体力の低下を感じはじめ、重点を登山からウオーキングに移すこととし、海外を約1ヶ月間歩くサンティアゴ巡礼を始めた。最初の巡礼は65歳のときの、スペインを歩く「フランス人の道」。以降、フランスの「ル・ピュイの道」、ポルトガルの「ポルトガル人の道」、スペイン北部海岸沿いの「北の道」を歩いた。なお、最後の「北の道」を歩いたのは2014年・76歳のときである。
このはかに、シベリア鉄道のツアーもワクワクしながら参加した旅の一つと言えようか。
これらを振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。行く前の「ワクワク感」と頂上に立ったときや目的地に着いたときの「達成感」がすばらしい。今でも、それらを思い出すと何とも言えない「幸せな気持」に心が満たされる。
前半生に続き後半生でも、こんな「ワクワク感」を味わえるなんて…。もっとも、このようなことが可能だったのは、ある程度のお金と休暇と健康に恵まれるという運の良さがあってのことだが。
6.子供と孫に恵まれて
私は職場の水戸支店で同じ職場の和子(1941年生れ)と知り合い、1965年に結婚。
その後、秋田、東京、大分等に転勤。1966年に長女、1967年に次女、1974年に長男が誕生。
1)娘と息子について(昔の「覚え書」から抜粋)
○優子へ。「友達ができたらいいのだが」、「外国へ一人で行ければいいのに」、そうなってほしいといつも思っている。(その後、彼女は英検3級を取り、運転免許を取り、海外旅行にも数回1人で行ったが、今も友達には恵まれない。人付き合いが苦手なので、就職も上手くいかないでいる)
○息子がさそうので、久し振りにキャッチボールをする。あたたかい冬の日差し。ストライクがよく入り、息子にほめられた。
○彼は大学生になって、オートバイに夢中。危険なのでやめてほしいところだが、無理に止めることはしない。夢中になれることがあるのは、すばらしいことだ。
オートバイでの外出中はなんとなく不安。いつも心の中で安全を祈っていて、帰ってくるとほっとする。
彼から「面白いよ。お父さんも乗ってみたら」と言われた。
○彼は先日、「今に生きる」というビデオを借りてきた。イギリスの名門校が舞台。人生とは何かを、一人の教師が情熱をこめて生徒に語りかける映画である。息子が数年前に見たものだが、そのときの感動が忘れられずにまた借りてきたという。
ゆっくりではあるが、心が成長していく子供を見るのは嬉しいことだ。
○直子へ
誕生祝いありがとう。ひとり立ちをしてかなりになったね。ひとりで生きていける自信がついたことでしょう。子供がひとり立ちするのを見るのは、親にとってとても嬉しいことです。こんなときに、いくつか書いてみました。
充実した人生だったと思えるような生き方をしてほしい。
夢を持つこと。大きな夢を。夢は心を生き生きとさせる。
挑戦をしよう。やるときは、やれるときは、思い切って、全力で。
人間の本当の美しさとは、心の美しさ、やさしさのこと。外見じゃない。
読書は人生の大きな楽しみ。そんな世界も知ってほしい。
他の人の生き方にも関心を持とう。そこには自分の生き方の鍵が隠されている。
結婚をして家庭を持つこと。家族を持つことは、喜び、楽しみであり、苦しみでもある。
人間は本来は利己的なもの。でも、利己的にだけ生きていては満足できない。それを知ったうえで、できる限り他人のためにつくすこと。それは喜び。
2)孫の思い出



振り返ってみると、孫について書いた文章はとても多い。
(2005・2・3) 孫の風ちゃんが生まれて、10ケ月が過ぎた。もう、掴まり立ちをする。とても可愛い。私をじっと見つめて、ニコッと笑う。音がすると、抱かれた腕の中から身を乗り出して、何とかそちらを見ようとする。
孫が生まれて、とてもうれしい。人生でまたひとつ、すばらしい経験をさせてもらえる。
一方、心配も絶えない。這っていく先に危険なものがないかとか、掴まり立ちをしたときはころんで頭を打たないかとか、絶えず注意をしなければならない。ときには疲れを感じることもある。家族が増えれば、それだけ心配も増える。
約1ケ月間、風ちゃんが家に来ていた。風ちゃんの相手をしているうちに、日々はあっという間に過ぎる。
(2005.6.8) 風ちゃんは1歳2ケ月。
玄関にある傘立てに10本ほど傘が入っているが、そこから1本づつ傘を取り出すのが大好きだ。背丈を超える傘を懸命に引き抜き、頭の上に持ち上げて取り出すのだが、その重さで体がふらつき、よろけたりする。取り出した傘を傘立てに戻してやると、飽きずにまた同じことを繰り返す。
「小倉風奈チャーン」と大声で呼びかけると、小さな手を挙げて「ハーイ」と応える。何か得意気。声が可愛い。
朝、風ちゃんが寝ている部屋のふすまがコトリと動く。ふすまが少し開いて、手が覗く。もっと開いて、顔が覗く。全身があらわれ、誰か居ないかとじっと居間の方を見る。風ちゃんのお目覚めである。
(2009年正月)
私の今は幸福に満ちている。子供がいて、孫がいて、家族全員が健康であり、暖かい寝床があって、安定した収入があり、ときおり家族で外食も楽しめる。
今年の最大のお年玉は、アンジェラ・裕之の夫婦に子供ができたこと。昨年末に「来年の7月に生れる」と連絡があったときは、飛び上がって喜んだ。
また、直子の二人の孫も元気一杯。風奈は4歳、爽太は2歳。3月には誕生日が来る。
父親の実さんが仕事で海外に行っていて正月中は帰れないため、年末から泊りにきて我が家で初めて正月を過ごした。
おかげさまで、楽しくもあり、疲れもした。
二人は道路を駆けることが大好き。爽太は車に注意しないで駆け回る。車道に飛び出すので車に轢かれる恐れがあり、ハラハラして気が抜けない。
二人はよく喧嘩をする。物の取り合いが多い。ぶったり、けったり、取っ組みあったりする。風奈は負けそうになると噛み付いて反撃するので、爽太の腕に歯形が残ることもある。ときには風奈が泣かされる。
それでも、二人は仲が良い。お食事作りごっこをする。爽太がお母さん、風奈が赤ちゃんになって遊ぶ。
隣の部屋で二人仲良く遊んでいるときは、危険なことをしていないか、ときどき覗いてみる。
二人は甘えん坊。「ママ、ママ」と言って「だっこ」をされたがる。何かをしてもらうときも「ママじゃなければいや」という。爽太はママの姿が見えなくなると「ママ、ママ」と泣きながら探し回る。
爽太は「最初から」といってわがままを言うことがよくある。ママが先に行ってしまうと、地面に座り込んで「最初から」(最初の地点に戻ってきてだっこをしろ)と言って大声で泣きさけび、ママが迎えにくるまで動こうとしない。ときには道路に大の字にひっくり返る。ジジが抱きかかえて連れて行こうとすると足をバタつかせて抵抗する。しつけのために、そのままにして、遠くに離れて「一人で起き上がって歩いてこないか」と見守っていると、泣き声が大きいので、通りがかりのおばさんが「どうしたの」と声をかけてきたり、ときにはお巡りさんがやってくる。迷子でないことを知らせるためには戻らなければならない。
風奈はトランプの「しんけいすいじゃく」が得意。泊りにきていた間、毎夜、爽太とババと四人でやった。風奈が一番になることが多い。
見るビデオは「どらえもん」「機関車トーマス」「アンパンマン」など。一時は「バンビ」「ダンボ」に夢中になった。
(2009年1月25日)
爽太はきょうから車輪付きの自転車がこげるようになった(今までは誰かが押していたのだが、数日前に三輪車をこぐコツを会得して、きょうは自転車にも乗れたのだ)。綾瀬の公園の子供用自転車乗り場でのこと。爽太は嬉しくて夢中になり、いつまでも乗り回していた。右側通行や赤信号停止は無視。管理人のおじさんが注意をするのだが、振り向きもしない。お姉ちゃんの風奈が自転車に乗るのにあきてしまい、「爽太、ブランコに乗ろう」と言っても、これも無視。無言で前を見つめ、赤信号でも止まらずに、ときには左側を黙々と走り続ける。
(2009年3月31日)
風奈がに一輪車に乗れるようになった。亀有の交通公園で3時間ほど一生懸命に練習をして10m位乗れるようになったのである。
プールでは、もぐって前回りを2回転して浮き上がったり、後ろ回りを1回転して浮き上がったりすることができるようになった。
(2009年4月27日)
爽太は4月から幼稚園。まだ慣れない。幼稚園の入口の門までは行くのだが、入りたがらない。大声で泣き叫ぶ。先生はそんな爽太を無理やり教室に連れて行く。教室では皆から離れて門が見える窓際に座り、そこが爽太の定席になった。お弁当もそこで食べ、ママが来ないかといつも外を見ている。ときには「お弁当はおうちでお姉ちゃんと一緒に食べる」と言って食べないこともあるようだ。
爽太のまんまるの目が可愛い。誰かに話しかけるときの目がまんまるだ。
爽太はトランプに夢中。幼稚園から帰るとすぐにトランプを持ち出し、そばにいる相手と「神経衰弱」をやる。お姉ちゃんだったり、ジジだったり。札のありかを「ここだよ、ここ」と得意そうに相手に教えてしまうこともある。終わると「爽太、一番。お姉ちゃん、2番。ジジ、3番、ビリ」と大声で指差しをする。
(2009年を振り返って)
孫3人(風ちゃん5歳、爽太3歳、リリー5ケ月)
<風ちゃん> 風ちゃんは「幼児」から「子供」へと成長中。
運動が得意。ジジは鉄棒が苦手で前回りも満足にできないが、風ちゃんは自分の背丈ほどの鉄棒でも蹴上がりや逆上がりができる。また、棒のぼりも得意。幼稚園の屋根のひさしを支えている細い鉄の柱を天井まで登ってしまう。プールでは水中で、前回りなら2回転、後回りは1回転することができる。「ジジ、見てて、見てて」と得意げだ。
でも、泣くことも多い。ころんだときや注射をされたときは、「わっ」と声を上げて大泣きする。また、弟の爽太と喧嘩をして負けたときも泣く。取っ組合いでは勝てるが、爽太にぶたれたり、かみつかれたりしたときは大泣きをする。そして、「ママ」と言いながら、ママの胸に飛びつき、泣きながら「だっこ、だっこ」と甘え、しばらく抱いてもらうと泣きやむ。
<爽太> 惣太は話し言葉がまだ幼児。
元気はよい。下り坂をすごい勢いで駆け下りる。何かを要求するときは大声を出すし、要求が通らないと泣き叫ぶ。いつも精一杯、動き回っている感じだ。
数ヶ月前まではジグソー・パズルに夢中だった。「寝よう」と言って電気を消しても、真っ暗な中でパズルのピースを持ってじっと座っているほど。
今はトランプに夢中。娘の家に行くと、すぐに「ジジ、トランプやろう」とトランプをもってくる。裏返して撒いたトランプを2枚開けて、数字が同じなら自分のものになるという「神経衰弱」に特に夢中である。神経を集中させ、真剣な目つきで札をめくる。どれが同じ数字の札かが分かると素早く取る。
爽太は行動を規制されるのが嫌い。スイミング・スクールに行かなくなった。プールで先生の指示通りに動くのが嫌なようだ。家族でプールに行き、水の中で自由に動き回るのは大好きなのだが。また、幼稚園の運動会でのこと、ママと一緒にいたのに、出番が来てママと引き離されると、ふてくされて「かけっこ」に出ず、競技が始まる前のコース内を1人でブラブラと歩き始めた。爽太の駆ける姿を見たいと来ていた家族はガックリ。
おねえちゃんとはいつも張り合っている。おねえちゃんが注射をするとき、ママに抱かれているのを見ると、「おねえちゃん、ずるい。爽太もだっこ」と泣き叫ぶ。また、ケーキを分けたあと、見比べて「おねえちゃんのほうが大きい」と言ってテーブルに泣き伏す。「神経衰弱」のとき、おねえちゃんに好きな「ジョーカー」の札を取られると、泣いて飛びかかり、取り返そうとする。
<リリー> 息子がインターネットでリリーのビデオや写真をニュー・ヨークから送ってくる。まん丸な大きな目、笑顔、「ウーウー」というおしゃべり。どれもとても可愛い。妻はビデオのリリーに話しかけたりしている。
(追記)
リリーは2009年7月26日にニューヨークで生まれた。
ジジとババが長女と一緒に初めてニューヨークのリリーに逢いに行ったのは、その年の9月28日から10月6日。目のまんまるな、とても可愛い女の子だった。そのとき、皆で一緒に列車に乗り、ニューヨーク郊外の、昔の風情を漂わせる小さな町を旅行したことを覚えている。
そして、その後は、数回、パパ・ママと一緒に日本にやってきて、七五三の写真を撮ったり、日本の幼稚園に1ヶ月間、体験入学をしたりした。また、風ちゃん、爽太の家に泊まり、3人で仲良く公園で遊びんだりもした。
遠くに住んでいるので、あまり会えないが、テレビ電話のスカイプで、ときどき会えるのを楽しみにしている。日本語ができて、話ができるともっと嬉しいのだが。



(2010年6月26日)爽太4歳
爽太が、幼稚園の七夕祭の短冊に「レイナちゃんとけっこんしたい」と書いた。ママは大笑い。幼稚園に見学に来ていたお母さんたちも、それを見て大笑い。皆がその写真をパチパチ撮っていた。それを聞いたババも大笑い。レイナちゃんは年上の6歳。おねえちゃんのお友達である。
爽太はプールが大好き。大人用プールは背が立たないが、もぐったままで、くねくねと体をくねらせながら、息をつがずに3-4mは泳ぐ。プールの端からジジのいるところまで来て、また、端に戻っていくのだ。溺れそうになると手を差しのべてやるが、全く水を怖がらない。
爽太はダンゴムシを採るのが大好き。幼稚園ではよく、バケツを持って日陰の湿ったところにダンゴムシを採りにいくが、一人ではない。