サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

<750km。道は分かりやすく、安い宿もそろっている。2009年・夏>

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1.概要-「ル・ピュイの道」とは
<はじめに>

・2009年6月21日から7月20日まで、サンティアゴ巡礼路の一つ、「ル・ピュイの道」を歩いてきた。フランス中部の「ル・ピュイ」から西端の「サン・ジャン・ピエド・ポ-」までの750kmである。これは東京から岡山までの新幹線の距離とほぼ同じであり、6年前に歩いた「サン・ジャン・ピエド・ポー」から「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」へと続くスペイン国内の巡礼路と合わせれば1500kmを歩いたことになる。

・途中まで友人のMさんに同行を依頼。7月4日まで一緒に歩く。あとは単独行。

・以下はその報告である。この道を歩きたいと思っている人達に参考資料を提供すること、自分の思い出のために記録を残しておくこと、この二つを念頭に置きながら書いてみた(宿や道については、スペイン国内の巡礼路と比較しながら、その特徴を記した)。

・なお、行くに到った経緯と準備の様子は、これまでのブログの記述を参照されたい。

(写真)ル・ピュイの丘の上に立つキリストを抱くマリア様の像。高さ約20mImg_0202_3

<サンティアゴ巡礼と「ル・ピュイの道」>

・キリストの十二使徒の一人・聖ヤコブ(スペイン名はサンティアゴ、フランス名はサン・ジャック)の墓が発見されたという伝説に基づき、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン西端の町)に小さな聖堂が建設されたのが9世紀。それが大聖堂へと建て替えられて、12世紀頃にこの地への巡礼が最盛期を迎えた。この頃、ヨーロッパ中から年間50万人とも100万人とも言われるキリスト教徒が大聖堂を目指したという。

・今でも当時のままの巡礼路が残り、世界中からこの路を歩く人達がやってくる。

・特にサン・ジャン・ピエド・ポー(フランス国境)を出発点として、ピレネー山脈を越え、スペイン国内を東西に縦断し、サンティアゴ・デ・コンポステーラに到る巡礼路を歩く人は多い。数は年間5-10万人位か。

・歩く人は少ないが、フランス国内にも、この道へと続く4本の巡礼路がある。3本はサン・ジャン・ピエド・ポーで1本になり、もう1本はハカを通りプエンテ・ラ・レイナでそれと合流する。
 このうち、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-への道が「ル・ピュイの道」であり、道しるべが整備されていること、詳細な地図が入手できること、安い宿がそろっていること、距離が短いこと(パリからの道はその2倍)などの特徴があり、4本のうちでは最も歩きやすい道と言えよう。

<今回歩いた「ル・ピュイの道」の概要>

・この道は、牧草地やトウモロコシ畑、ひまわり畑、ときには森の中を行く。そして、ときどき小さな町や村を通る。
  自然の中を行くというよりは、農村地帯を行くといったほうが当たっている。森の中も歩くが、村の近くにあり、ある程度、人の手が入った森である。

・行程は大きく3つに分かれる。
(1)標高が1000m前後の丘陵地帯を行く前半、
(2)川沿いの観光地を巡る中盤、
(3)低地の農村地帯を行く後半、である。

 最初の5日間は標高が1000-1300mの丘陵地帯を行く。いくつもの丘(標高は高いが、上が牧草地になっており、山とは言い難い)がゆったりとつながり、どの丘も登り切ったところは広大な牧草地となっている。その眺めは抜群。丘陵がうねって続き、はるかに10km、20km先まで見渡せる。その中に点々と牛の群れと農家の茶色い屋根。一方、下の町から丘陵の中腹までは森。巡礼路は下の町や畑から森の中を登って、上の牧草地帯へと続いている。

 丘の上も昔は森だったと思う。今は明るい放牧地で、数km置きに農家があり、いざというときは助けを求めることができるが、昔は丘の上にも森が広がり、人家は数十キロ置きに1軒しかない巡礼宿兼救護所のみだったようである。旅は困難を極めたであろう。特に標高1300m(最高地点1400m)のオーブラック(Aubrac)の荒野越えは難所だったと言われている。ナスビナルス(Nasubinals)の町からオーブラックの町への約10kmがそれであるが、今はすべてが牧草地で、点々と農家があり、最高地点には無人の避難小屋まである(私達が通りかかったときに、この小屋に泊った男性がシュラフを乾していた)。私達は約3時間でこれを越えた。

(2)中盤では巡礼路は川沿いとなり、コンク(Conques)、サン・シラク・ラホピー(St Cirq Lapopie)、カオール(Cahors)などの観光地を巡る(詳細次記)。

(3)終盤は標高100mくらいの低地を行く。道のほとんどは、トウモロコシ、ひまわり、野菜などの畑の中を通っている。

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(写真)標高1300m、オーブラックの牧草地。
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(写真)森の中を行く。
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(写真)トウモロコシ畑を行く。
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(写真)運河沿いの道 Img_0276 Img_1114
(写真)麦畑 Img_1121
(写真)牧草





<見どころ>

1)ピレネー山脈が見渡せる丘-30日間で最大のハイライト
 Arou(7/18泊) の町から Ostabat の町へは1日の行程。その途中、巡礼路は円を描くように遠回りの道を行く。近道を真っ直ぐに行けば1時間は短縮できそうだが、後記のジットの主人から「ここは見逃せないところ。近道をせずに、必ず行くように」と言われていたので、遠回りの道を取って進んだ。畑の中を延々と歩き、小さな村で一休み。顔見知りの巡礼者が7-8人休んでおり、一緒になった。彼らもこの遠回りの道を取ったのだ。

 村は標高50m位か。そこから高さ300mの丘へと30分ほどで一気に登る。と、丘の向こうにピレネー山脈の大展望が広がった。

 丘の上は広々とした草地。そこには小さなチャペル(Chapelle de Soyarza。横5m・縦7m位の建物)がポツンと建っていた。中世の建築のようだ。この小さなチャペルにお参りをするために遠回りしてここにやってきた多くの巡礼者のことが思われた。
 ピレネー山脈の大展望と広々とした草地にポツンと立つ小さなチャペル、今回の最大のハイライトだった。

Img_1166_2(写真)モワサック・修道院の回廊
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(写真)コンク
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(写真)カオールの橋

2)モワッサク(Moissac)のサン・ピエール修道院

 76本の柱が支える4辺形の美しい回廊と、南側入口の上にある半円の壁(タンパンという。キリストと天使や動物の像で飾られている)が有名。特に回廊は必見である。やや繊細な感じ。フランス随一の回廊と言われており、たいへん美しい。庭の中央に立つ大きな松の木も回廊に調和してすばらしい。

3)前述のコンク、サン・シラク・ラホピー、カオールといった町の風景

① コンクは森の中に沈んだように存在する中世のまち。聖女フォワの遺骨を収めたサント・フォワ修道院が有名であり、中世には巡礼者でたいへん賑わったという(博物館に行くと、宝石で飾られた聖女フォワの遺骨の収納箱が見られる)。
 森の中の巡礼路を1時間ほど下っていくと、谷底に着く手前の斜面にこの町がある。スレート葺きの古い家々が急斜面に建ち並び、その中心に修道院の3つの尖塔がそびえている。どこもが絵になる風景。観光客が沢山いた。ちょうど日本からも、絵を描くことが目的の団体が来ていたが、彼らは思い思いに場所を選び、絵を描いている最中だった。
 このあと、巡礼路は、橋を渡り、再び森に入り、急な山道へと続いている。

② サン・シラク・ラホピーの町は高さ100mの断崖の上にあり、町へ行くにはロット川の川岸から細い急な登山道を登らなければならない。20分位か。町に着くと、まずは一番高い見晴台へ。そこは足がすくむような切り立った断崖の上。眼下の畑の中をロット川がうねり、はるかに山なみが霞む。私達は、展望を満喫した後、狭い広場にあるカフェで一休み。周囲には中世の町並みが広がっていた。
 町とは別だが、登山道入口とBouzies の町を結ぶ川沿いの道も、崖をくりぬいた遊歩道あり、運河あり、遊覧船の姿ありで、散歩には好適のルートとなっている(約1時間の歩程)。

③ カオールは中世に川沿いの交易の中心地として賑わった町。王様が14世紀に創った美しい橋がある。この橋は7つのアーチで結ばれ、真ん中と両端に高さ約20mの要塞化した3本の塔を持っているが、アーチと塔のバランスが何とも美しい。私達は、観光船に乗ってそれを鑑賞した。

④ 見どころとは言えないが、石造りの橋げたに「1000km」と彫ってある橋も紹介しておこう。サンティアゴ・デ・コンポステーラまで、ちょうど1000kmの距離にある橋で、これからサンティアゴまで歩く巡礼者にとっては、思わず足を止めて記念写真を撮りたくなるところである。私が通ったときもサンティアゴまで行くというご夫婦が写真を撮っていた。

⑤ その他、印象に残った町(後日、紹介予定)

2.出発
<不安を抱えながらの出発>

・71歳と6ヶ月、フランス語は全く分らず、英会話も中学生程度という中で、「道が分かるだろうか、安い宿はあるだろうか、食べ物は手に入るのか、歩くだけの体力は残っているか」など、出発前の不安は尽きなかった。

・その他、行く直前に急に不安になったのは、パリに着いてからどうするかということ。パリのことは全く調べていなかった。空港には夜10時頃に着くが宿をどうしたらよいのか、空港や駅での野宿とすれば危険はないのか、空港からリヨン駅への交通手段はどうか、ル・ピュイへの切符の購入方法は、などなど、全く分からない。成田に着いてから、「フランスの旅行案内」を買って機内で調べたが、はっきりしなかった。

<空港からル・ビュイへ>

・パリへの飛行機は6月19日20:45着のアエロ・フロート(モスクワ経由)。やや延着し、外に出てきたのは22:00頃だった。空港内はすべての店が閉まって閑散としており、レストランでの夕食はあきらめて、自動販売機で水を買い、残っていた機内食のパンを食べて済ました。また、経費節減のために空港の床に寝ることとした。

 建物内にはあちこちに腰を下ろしている人が数人。早朝の出発便を待つ人のほかに浮浪者もいるようだが、一晩中、コウコウと電灯が灯っていて明るいので、2人で寝ている限り、あまり危険は感じなかった。ただし、床に寝ていると、犬を連れた警備員2人が巡回して来て、起こされてしまった。「床に寝てはいけない。椅子に座って休むように」とのこと。私達以外に床で寝ている人がいない理由が初めて分かった。

・早朝、空港内にあるSNFC(フランス国鉄)の駅へ。ル・ピュイへは、空港駅からエチエンヌ乗換えで行くことができると分かって、早速、その座席指定券を購入した。乗車券も含めて切符代は78.50ユーロ。

・ル・ピュイへは14時に到着の予定が、遅れて17時となる(理由は後述)。晴れてはいたが、風が強くやや寒かった。インフォメーション・センターで紹介を受け、「Auberge de Jeunesses」というジットに泊まる。朝食付14ユーロ。
 
<ル・ピュイにて。教会のミサに出席>

 ル・ピュイのノートルダム大聖堂「Cathe'drale Notre Dame」で午前7時から8時まで行われる早朝のミサは、ここを出発する巡礼者を祝福するための有名なミサであり、是非出たいと思っていた。

 6月21日、6時40分、起床。食事は後にして出かける。中世の建物が両側から迫ってくるような、狭い石畳の坂道を上がっていくと前方の丘の上に大きな像が見えてきた。ピンク色で、巨大なもの。高さは20m位か。幼いキリストを抱くマリア様の像である。その手前が大聖堂だった。

 来ていた巡礼者は約50人。うち30人程はザックを背負っており、終わったらすぐに出発しようという人達だった。祭壇には緑の衣服を羽織った神父さん、その背後にはこれも有名な「黒い聖母」の像。神父さんが祈りの言葉を述べ、皆で賛美歌を合唱。3人の女性巡礼者が出発に当たっての決意表明を述べる(フランス語なので内容は分からなかったが)。おごそかな雰囲気。次いで神父さんが一人一人に「聖なるパン」(小さなおせんべいのようなもの)を手渡す。最後に神父さんは壇上を下り、出席者を一人一人指差して「どこの国から来たか」を聞いた。私達も聞かれたので、やや誇らしげに「ジャパン」と答えた。

 ミサの後、祭壇裏の教会の売店へ。ここでクレデンシャル(巡礼手帳。泊った宿や訪問した教会で、スタンプを押してもらうもの。歩き終わったときは、スタンプがずらりと並び、自分にとっては「宝物」と言ってもよいような、貴重な記念品になる)にスタンプを押してもらう。私はそれを東京の「聖カテドラル教会」で発行してもらったが、Mさんはここで手に入れた。

 余談だが、エピソードを一つ。Mさんは「聖なるパン」を受け取るとそのままポケットに入れて席に戻ろうとしたが、これはその場ですぐに舌にのせて食べるもの。神父さんがあわてて追いかけてきて、すぐに食べるように注意した。
 ミサの後、ジットに戻り、朝食。それから第一日目のスタートを切った。

3.宿泊
<宿泊場所は安い「ジット」>

・宿泊は主に「ジット」。一部屋に1段ベットか、2段ベッドがいくつかある宿泊施設。ハイカーのためにフランス全土のいたるところに設けられており、公的なものと私的なものがある。料金は8-12ユーロ(この時点で1ユーロ135円)。前回のスペインで宿とした「アルベルゲ」は基本的に無料だったが、フランスのジットは有料である。ただし、スペインではシャワーが水という場合があったが、フランスはすべてお湯。

・ジットから次のジットまでの距離は4kmから20kmと幅がある。

・また、ジットより宿泊費が割高かだが、小さなホテルも点在している。

・2回だけ地方のホテルに泊った。ファジャック(Figeac)では2人で68ユーロ(食事なし)、ポンプ(Pomps)近郊のモーラン(Morlanne)では1人で36ユーロ(朝食付)だった。ちなみにパリで泊った二つ星ホテルは1人で1泊65ユーロ(食事なし)。高いのでびっくりした。

<ジットの泊り方>

・予約をしておけば必ず泊れる。いくつかのジットには予約をしてから行ったが、予約は、同行のフランス人や前日に泊った宿の主人、あるいはインフォメーション・センターなどに片言(カタコト)の英語でお願いした。

・ほとんどのジットには、予約なしで泊った。町に入るとまずインフォメーション・センター(Office de tourisme という)を探す。町の詳細な地図を持たないので、「オフィス・ツーリズモ?」と言って人に聞いたり、案内板を見つけたりと手探りで探すのである。これが意外と手間取る。センターを見つけると、今度はジットの場所を記載した地図を入手する。大きな町の場合、ジットは町の中心にないことが多いので、探し出すのがこれまた、たいへん。この二つで、町に着いてから小一時間はかかる。

 やっと探し出すと、たいていは無人なので、勝手に入り込みベッドを選んで荷物を置く。そのあとは、洗濯をしたり、ベッドに寝ころんだり、外の見物に出たりして過ごすが、午後6時頃には管理人が宿泊費を集めにやって来る。また、このとき、クレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプも押してくれる。

・公共のジットの場合、入口や掲示板には予約状況や集金時間を書いたビラが張ってある。予約については、Aの部屋は予約で満員(予約者は誰々)、Bの部屋は空きが2人などとあり、Bを選んで部屋のビラに自分の名前を書くと、ベッドが確保できる仕組みである。

 なお、インフォメーション・センターやカフェが受付場所となっているジットもある。たとえば、Navarrenx の場合、町に入るとカフェのおばさんに呼び止められ、「ジットに泊まるのか」と聞かれたが、そこが受付だったのだ。宿泊費を払うと、部屋ナンバーを書いた切符を渡された。

 また、予約なしの場合、泊れないこともある。私も土曜日に目的のジットで「学生のリクリエーションの一団で満員」と言われて断られた。「一人だけなので、何とか。床に寝るから」とジェスチャーで必死に頼んだが駄目。更に4km先のジットまで歩かされた。

<印象に残ったジット>

 このルートを歩く人のために、印象に残ったジットを紹介しておこう。
・Le Falzet(6/22泊) のジット。
セバスチャン(フランスの青年。5日間ほど一緒に歩く。後記参照)が電話で予約をしてくれた。Saugues の町を越えたところ、農家が数軒しかないような小さな村にある。住んでいた家をそのまま宿泊施設としたもので、のんびりできる居間(ゆったりしたソファーあり)と二つの寝室がある。ステファンと3人で泊ったが、客は私達だけ。3人は「いいね、いいね」と言いながら、ソファーに寝転んだり、日誌をつけたり、シャワーをあびたりして過ごした。夕食は母屋に住んでいる74歳のおばあちゃんがつくってくれた手料理(スープ、オムレツ、ステーキ、スパゲッティ)である。2食付で宿泊費は30ユーロだった。

Les Estrets(6/23泊) のジット。
 Aumont-Aubrac という町の4km手前、小さな村にある。新築。2階がベットの並ぶ部屋。1階の居間と食堂が小さなホテルと言ってもいいようにきれい。巡礼者には評判のようで、客は4組10人。夕食は全員の会食。

・Estaing(6/26泊) の教会付属のジット。
 路地裏の、中世からあるような古い建物がそれ。薄暗い1階が2段ベッドの並ぶ部屋と洗面所。2階が礼拝室と食堂。神父さんの家族の部屋もあるようだ。夕食は、そこに住む家族や子供も入って20人ほどでの会食。食前、食後にはお祈りもある。食後のお祈りは30分。私は出なかったが、Mさんは出席した。神父さんから「宿泊費は無料」と言われたが、私達は募金箱に1人20ユーロを入れた。

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(写真)「Chambre d'hotes」のプール

・ジットではないが、Les Mazuts(7/3泊) の 「Chambre d'hotes」 という宿。
  点々と農家がある丘陵地帯を歩いていくと、目指す「ホテス」があった。鉄格子の門がある大きなお屋敷である。宿泊施設には見えないために、探すのに手間取った。家族が使っていた部屋が宿泊場所に当てられており、食事も家族が日常使っている居間で食べた。普通の家庭に泊った感じである。その他、気に入ったのは裏庭のプール。早速、Mさんと二人で泳いだ。宿泊代はジットとほぼ同じ。

・Lascabanes(7/5泊) の「Gite d'etape Le Nid des Anges」という教会付属のジット。
 教会の建物の一部。着いたときは誰もいなかった。入口の黒板には「定員17名」とあり、予約をした人10名の名前が書いてあったので、まずは「Takeshi」と書き加えた。入口には小さなカフェ兼無人スタンド。レトルト食品、果物、スナック、インスタント・コーヒーなどが置いてあり、代金を箱に入れて自分で持ち出すセルフサービス方式である。私は3時のオヤツ代わりに、ジャガイモと肉が入ったレトルト食品のカレーを持ち出し、奥の台所の電子レンジで調理をして食べた。このときがレトルト食品を食べた最初だったが、空腹のせいもあって、とてもおいしかった。

 夕方になると、到着していた巡礼者が誰もいなくなった。6時からのミサに出席したようだ。私もあわてて出席。神父さんのお説教があり、巡礼者の一人が前に出て、「巡礼の決意」のような言葉(だと思うが)を述べた。次いでまた一人が出て、賛美歌をリードして歌う。次は、神父さんが前列に並ぶ出席者の足を一人一人洗い、タオルで拭く儀式。パンを一人一人の舌にのせて食べさせる儀式もあった。全体で約1時間のミサ。

 このあと、柱が黒びかりするような古い食堂で会食。食事を作り皆に配ってくれた女性が、いかにもフランスのお嬢さんという感じの人。やさしそうで、可愛くて、とても素敵だった。

・終盤は、Aire sur l'Adour(7/13泊) という町のジットの主人から「おすすめのジット」を聞いたので、そのいくつかに泊ってみた。それを以下に記す。それぞれ、特徴のあるジットである。

・まず、紹介したいのは、そのジット。「Gite d'etape prive Hospitalet Saint-Jacques」といい、斜面の上に建つ。花々が咲く広い芝生の庭が下の斜面に広がり、食堂からの眺めがとてもよい。部屋も清潔。更にジットを管理するご夫婦が上品で親切である。ジットに着くとすぐに主人から「その椅子に座って、靴と靴下を脱いで」と言われた。「?」と思っていると、バケツに水を入れて持ってきて、「足を入れろ」と言う。冷たい水に疲れた足を浸けると、とても気持良かった。終わると、彼はその水を庭の草花にかけながら「庭も喜んでいる」と言っていた。

 これから行くジットやルート(前述のピレネーが展望できる丘のことなど)について、いろいろと教えてくれたのも彼である。翌日泊まるジットに予約の電話も入れてくれた。

・Maison Marusan(7/14泊) の「Accueil a la Ferme」というジット。巡礼路上の町 Miramont-Sennsacq からルートを外れ、30分ほど歩いた村にある。村にレストランや食料品店がないので、夕食はどうしたらよいかと不安に思い、同宿のデュバル(フランス人。詳細後記)に聞いてみたが、彼も分からないと言う。ここを紹介してくれた前述のジットのご主人からは「おすすめのジット。でも、夕食は自炊」としか聞いていない。

 そのまま、夕方になる。と、ジットの奥さんがやってきて倉庫の鍵を開けてくれた。中に入ると、10列ほどの棚に天井まで「煮込んだ鴨の肉」のビン詰めと缶詰がびっしりと並んでいた。これが夕食なのだ。前にレストランで食べたことがある「うすい塩味の豆と鴨肉の煮込み」(主食になる)もある。3-4ユーロのものから、30-50ユーロ位の大ビンのものまであった。このジットはこれらの卸と即売を商売にしているようだ。

 一方、奥さんは畑で摘んだきゅうりやトマトを籠に入れ、パンやバナナ、リンゴと一緒に持ってきていた。

 私は4ユーロの「豆と鴨肉の煮込み」の缶詰とパンやバナナ、リンゴを買い、缶詰は電子レンジで温めて、デュバルと分け合って食べた。

 このジット、もう一つの特徴は、塩水で温水のプールがあること。立派なシャワー室も付いていた。もちろん、私は嬉々として泳ぎ、10mの長さを何回も往復した。

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(写真)バンジョーを聞く。「Gite d'etape prive de Cambarrat」にて。

・Cambarrat(7/16泊) の「Gite d'etape prive de Cambarrat」。Maslacq の町の手前で巡礼路を離れ、森の中を10分ほど登っていったところにある。周りに家はない。ご夫婦と子供2人で住んでおり、ご主人が手作りで建てたという森に囲まれた一軒家がそれである。

 この日は風の強い日。風が何度も森の木々をゆるがし、ざーっという音とともに通り過ぎていったが、それが波の音のように聞こえた。夕立もあり。

 夕食後、ご主人がバンジョーを弾いてくれるのがこの宿の恒例。この日はまずは私を指差し、「あなたのために」と言って巡礼の歌を弾いてくれた。私もリクエスト。とても聞きたくなって、フォスターの「金髪のジェニー」をお願いした。後記<気持がなごんだとき>参照。

4.道
<道は分かりやすい>

・下記の詳しい「地図」と現地の赤と白で書かれた「道標」に頼ったが、ほとんど迷うことはなかった。

1)地図としては「Maim Maim Dodo・Le Chemin de Saint Jacques de Compostelle・Le Puy-en-Velay / Saint-Jean-Pied-de-Port・GR65」(2009年版。17ユーロ)というフランスで出版された本のコピーを持参し、また、現地でその本を購入して利用した(ルート上の町の本屋なら、どこでも売っている)。これには、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポーまでの「GR65」のルート(「GR」はフランスの国が指定した自然歩道である。また、それはいくつもあって、それぞれに番号が付いている。「65」はル・ピュイから昔のサンティアゴ巡礼路をたどるもの)を、連続して表した90枚の地図が載っており、地図ごとにジットや民宿、ホテル、キャンプ場、レストラン、カフェ、インフォメーション・センターなどの所在地と電話番号が記されている。ジットの電話番号が載っているので、予約をするときに利用した(ただし、留守だったり、フランス語の留守電に繋がることが多い)。

2)一方、曲がり角の電柱や樹木には、ほぼ必ず、赤と白で表した道標が(曲がる場合は鍵型の赤白の印が、また、行ってはいけない道には赤白の×印が)描かれていた。

・地図とは異なる道
 その1)Moissac から2km行った先で、地図上の道は運河から離れた丘陵の中腹を行くようになっていたが(これが昔の巡礼路であり、ごく最近まで歩かれていた)、赤と白の道標は運河沿いを行くように付いていた。この道のほうが近道の上に、景色も良く、歩き易かったので、皆がこの道を取ったのであろう。いつか、それが正式の巡礼路に昇格したもと思われる。
 その2)Aire sur l'Adour の町を出発してすぐのこと、大きな池のほとりで道路が崩壊しており、地図上の道が通行禁止になっていた。地図上にない道を行くのだが、赤白とは異なる4-5cmの四角の道しるべ(GR65と書いてある)が頼りだった。

<道の難易度>

・私は一日平均25kmを歩いた。高低差はあまりない。また、一日に何度も登り下りを繰り返すというようなこともない。森の中を登ることがあっても、30分もすれば丘の上に出るし、丘の上に出ると通常2-3時間は、丘の上のほぼ平坦な道を歩くことになる(これらの登りでややきついのは、2日目のMonistrol d'Allier の町からの登り。それでも30分で上に着く)。

・1時間平均では、昼食休憩も含めて3kmを歩いた。朝7時にスタートして、昼過ぎの3時頃に到着するという毎日だった。午前中に半分以上を歩いてしまうので、それほどたいへんだとは思わなかった。

・もっとも、最初は足の速い同行のMさんと歩調を合わせるのがたいへんで、やや疲れた。2人の距離が離れると走って追いついたりした。数日後には追いつくのは止めたが、いつも「追いつかねば」と思いながら歩いていたので、気持に負担があった。

・15日目からは単独行となり、マイペースで歩けるようになって、歩くたいへんさはあまり感じなくなった。

・道は分かりやすい、安い宿はある、道も平坦なところが多いなどの点を考えれば、誰でもが歩ける道ではないかと思う。

・もっとも、パン中心の食事は私には合わず、できるだけジャガイモ、バナナ、野菜などを食べて体力維持には気を使ったが、これが私にとっては、この道を歩く上での難点だった。

5.足の痛み
<足の保護>

・行く前はまず、どんな靴にするかで、いろいろ考えた。
 前回はアディダスのハイカットのウォーキング・シューズを使用。これは私の足にピッタリだったが、すでに製造中止で入手できなかった。結局、同じ会社のローカットの靴(約15000円)で行くこととし、日本で何日も歩いて試してみた。

・5本指の靴下を使用。

・ひざを保護するサポーターを持参。これは役に立った。毎日歩いたので終盤はひざがやや痛んだ。登り坂になると右ひざが「カク、カク」としたが、サポーターを付けると、これが治まったのである。その他、足のマメ専用の絆創膏(ジョンソン&ジョンソン社製)も持参し、マメができそうになるとすぐに張った。おかげさまで、マメができることはなかった。

<最も苦労したのは、足裏と肋骨の痛み>

・第一は足裏の痛み。多分骨のつなぎ目だと思うが、足の指の付け根が痛んだ。舗装道路や突き固めた道を長く歩くと、足裏の一定の部分しか地面に着かないので、このようなことが起きる。これに対しては、包帯を何重にも畳んで、靴下の中に入れて足裏に当てるとか、石ころだらけのところや草の上を選んで歩くという方法で痛みを和らげた。なお、痛くても包帯を1-2mmずらすと痛みが治まるということも知り、この方法も利用した。

・第二は肋骨の痛み。ザックの重みが肩から肋骨にかかったために肋骨が痛んだ(身長169cm、体重55kmというきゃしゃな体格が原因)。そのため、不要と思われるものは捨てたが、これによって、肋骨の痛みはほとんど治まった。

・それと腰の痛み。痛みは肋骨から腰にまで達した。その痛みを和らげるために、ザックをずらして背負ったり、斜めに背負ったりして歩いた。

・これらは、体の鍛え方が足りなかったこと、71歳という年齢により体力が衰えたことなどが原因と思われる。歩くとき使うのは、ももとふくらはぎの筋肉だけだと思っていたが、全身の骨と筋肉を使うということが分かった。長距離を歩くには足だけでなく、全身を鍛える必要があるのだ。

<荷を軽くするために>

・まず、歩き出す最初の日に、日本から持ってきていた3冊の文庫本のうち2冊を捨てた。
 3日目に最後の文庫本と予備に持ってきた柔らかな靴(足を痛めたときに履こうと思っていた)を捨てた。
 11日目、肋骨の痛みが増し、長ズボン(暑くなってきたので不要となった)、バンド、Tシャツ1枚(2枚を残す)を捨てた。
 12日目に薄い羽毛服(20年前1万円で購入。やや「ほころび」がある。ビバーク用に持参)、折りたたみ傘、手ぬぐい2本を捨てた。

・残したのは、手ぬぐい1本のほか、ゴアテックスの上下の雨具(登山用、3万円のもの)、ポンチョ(頭からかぶれて、ももまでのもの。ビニール製、軽い)、ザック・カバー、下着(速乾性のシャツ3枚、パンツ2枚など)、短パン1枚(後半は日中、これで過ごした)、地図、フランス語辞書、フランス旅行案内(必要な部分のみを切り取って)、カメラ、携帯電話、メモ帳、歯ブラシなどである。

6.食べ物
<食べ物の確保に苦労>

・食べ物はパンと水が中心。1日中、歩いても、食料品を売っているお店がないことがあった。また、泊った村にレストランがないこともあった。そのため、いつも、ザックの中に2日分くらいのパンと水を入れて歩いた。

・一方、食料品店があったときに「翌日のコースに店がない」ことを考えて沢山買いすぎることがあり、翌日は荷が重くなって歩く苦労が増した。

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(写真)会食。Estaing の教会付属のジットにて。
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(写真)会食。Lascabanesの教会付属のジットにて。

<夕食のとり方>

・夕食を出さないジットがほとんどだが、教会付属のジットや町から離れた私的ジットの場合はジットで夕食を出し、巡礼者全員が一つのテーブルを囲み、一つの大きな皿や鍋から同じ料理を自分の皿に分けとって食べる会食方式だった。料理は、第一の皿(サラダか、スープ。スープと言っても、じゃがいもや人参が入ったものもあり、2杯も食べると腹一杯になる)、第二の皿(メイン・ディシュの肉料理)、第三の皿(デザート。大きな甘ったるいケーキやソフトクリーム)の順に出てくる。また、別に無料でワインが付く。ワインは飲み放題。

・この会食は、たっぷり2時間はかかる。この間、ワインを飲み食事をしながら、皆さん楽しく歓談するが、もちろん、会話はフランス語である。これがフランス人一般の夕食の採り方なのだろうか。私は何も分からずにじっと座っているだけ。これはつらかった。フォークとナイフのほかにデザート用の小さなシャジが置いてあるので、デザートが出てくるまでは、席をはずして逃げ出す訳にはいかない。「日本人は失礼だ」などという評判を残しては日本人の名折れになるので、じっと我慢した。デザートを食べ終わり、「お先に」と言って(「ベッド」と言って寝るジャスチャーをする)立ち上がるのはいつも私だった。

・夕食が出ないときは、レストランで食べるか、コンビニで食材を買ってきて食べるかである。

・レストランの夕食は、大きな町だと一人だけで食べたが、小さな村の場合はレストランが一つだけで、事前に予約をして全員が一つのテーブルを囲み、前記と同じような会食方式で食べた。

・終盤は、レトルト食品を電子レンジ(ジットの自炊用台所には必ずこれがある)にかけて食べることを覚えた。たとえば、ニンジンとジャガイモと肉がたっぷり入ったカレー、リゾット(西洋風おじや。お米は長粒米だが)、スパゲティーなど。3-4ユーロ。これをパンとリンゴとキュウリなどと合わせて食べた。生たまごを3ケ購入し、目玉焼きにして食べるということもした。自分の好きなものを調理して食べたが、これが自分には一番合っていた。

 このとき、コーヒーカップに水を入れ、電子レンジで沸かす方法も覚えた。これだとヤカンが要らない。簡単にコーヒー、紅茶を飲む方法である。

 ただし、レトルト食品は大きな町のスーパーでしか買えない。小さな町の食料品屋さんには無いことが多い。

・夕食ではないが、電子レンジを利用したことがある。昼間歩いているときのこと、急に大雨となり、雨宿りのために無人のジットに駆け込むと、部屋に電子レンジがあった。ちょうど昼食時だったので、持っていたレトルト食品をレンジにかけ、コーヒーも沸かして食事をした。レストラン並みの温かい食事。おいしかった。もちろん、使った食器はすべて洗って元の位置に戻した。無人のジットにはこんな利用方法もある。本当は、管理人の家を探して許可を得る必要があったとは思うが、大雨で近所を探して歩くことができなかった。

・レストランも食料品店もないのに、夕食を出さないジットに2回泊った。夕食をどうしようと心配していると、夕方、管理人がやってきて、ジット内の食料倉庫や大きな食料ボックスの鍵を開けて、食べ物を売ってくれた。一つのジットでは商売にしている鴨肉と煮豆のビン詰を買った(前記)。もう一つのジットでは、ハム、生たまご、パン、牛乳、肉の缶詰などを買った。

・なお、スペインでは、私が泊った限りでは、アルベルゲ(フランスのジットに当る。一般に夕食は出さない)でも、レストランでも、会食方式のものはなかった。この点はフランスとスペインの大きな違いであろう。

7.費用はいくらかかるか

・20-30万円位か。うち、パリ往復の航空券は10万円(6月のモスクワ経由の場合である。乗り継ぎ便には4-6万円の安いものもある。直行便は20万円)。あとは、宿泊費(1泊8-12ユ-ロ、1000-1500円。全部で4-6万円)と3食の食費(15-20ユーロ、2000-3000円)が40日分である。食費を安くあげるには、スーパーで食べ物を買って3食をそれで済ますこと(自分で調理をすることも含めて)。これなら食費は6万円位で済むだろう。このほか、目的地への列車代が1万円、到着地からの列車代が1万円。パリでは、治安に問題はあるが、宿泊費を節約するには空港の床で寝る手もある。

8.巡礼者の状況
<「ル・ピュイの道」を歩く巡礼者は少ない>

・ル・ピュイの道について、ある1地点を通過する巡礼者の人数を推定してみると、1日に10人位、年に4000人程度と思われる。また、宿に置かれている「旅人の一言帳」から見ると、そのうち、日本人は年に1-2人であろう。

・観光地の周辺では、巡礼者のほかに日帰りや1泊2日のハイキングを楽しむフランス人も見かける。

・ル・ピュイの道を歩く巡礼者のほとんどは脚力が強く、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-やサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す人が多かった。中には、「ドイツのふるさとから4ケ月間でサンテイアゴまで歩く」というドイツのおじさん、「パリから3ケ月間でサンテイアゴまで歩いてきた。帰りはサン・ジャン・ピエド・ポ-(サンテイアゴからそこまでは列車で帰ってきた)からル・ピュイまで歩く」というフランスのおばさん、「サン・ジャン・ピエド・ポ-とサンティアゴの間を歩いて往復してきた。そのあと、ル・ピュイまで歩く」というドイツの青年など、考えられないような「つわもの」もいた。余談だが、「自転車で車道を通って、パリから南仏のヴェズレーを経由してオスタバまで15日間でやって来た。ここからサンテイアゴまで10日間で行く予定」というフランスのおじさんにも会った。

・もちろん、毎年、区間を区切って1週間程度を歩き、数年で完歩するという人もいた。

・これを私が6年前に歩いたスペインの巡礼路と比較すると、スペインの巡礼路は、歩く人が圧倒的に多く(年間5-10万人)、また、子供連れや若者の一団もかなりいるという特徴があるが、フランスのこの巡礼路は歩く人は極端に少なく、また、歩いている人のほとんどは中高年の単独行か、夫婦2人連れだった。

<親しくなった人達>

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(写真)巡礼者
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(写真)セバスチャンと
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(写真)デュバルさん。カナダの女性と。
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(写真)皆で。

・セバスチャン
 2日目に途中の町で一緒になり、4日間、同行のMさんと3人で歩いた。フランス・ロレーヌ地方から来た26歳の青年。テントを入れた大きなザックを背負っていたが、1泊を除き一緒にジットに泊った。道々、かたことの英語で「フランスにも昔はオオカミや熊がいた」「巡礼者が増え、ジット建設中も増えている」などと話してくれた。

・リアル・ロイさん
 カナダ・ケベック州の男性。68歳。カナダの奥さんによく電話をしていた、大柄で目の大きな人。7/6に泊ったLauzerte のジットでベッドが隣合わせになった。二人で町のレストランに行き夕食。かたことの英語で会話。親切な人で、宿やレストランで「タケシ、タケシ」と気を使ってくれた。

・デュバル・ジェラードさん
 Maison Marusan(7/14泊)のジットなどで一緒になり、旅の最後の1日にまた会い、この1日を一緒に歩いた。私は話がほとんどできないので、外国の巡礼者と歩くことを避けていたが、デュバルさんとは道中で何度も会って、だんだんと打ち解け、この日初めて、1日中、一緒に歩き、休憩や昼食を共にした。背の高い、北フランスの猟師さん、68歳。家族は奥さんと娘さん2人。漁を奥さんにまかせてやってきたという。
ひょうきんな人で「ノー、プロブレム(問題なし)」が口ぐせ。「今夜泊る予定のジットに電話をしたが、満員のようだ」というと、「ノー、プロブレム。行けば泊れる」という具合である。

 サン・ジャン・ピエド・ポ-では、一緒に巡礼事務所に行き、同じジットに泊った。

 翌日は駅でパリ行の切符も買ってもらった。また、我が家に電話をして、妻にフランス語であいさつをしてもらった。妻は突然「ボンジュール、マダム」と言われて、ビックリしていた。

・マリーさん
 ドイツの中年の女性。「ここに来たのは何故」と聞くと「自然の中にいるのが好き。歩くのが大好き」とのこと。子供が4人、孫が5人とか。足は強く、歌を歌いながら、余裕を持って歩いていた。サインの入った絵手紙をいただいたのはこの人。

・58歳のフランスの女性

・マルティン・ガイさん
  フランスのマルセイユから来たご夫婦。毎年、区切って巡礼路を歩いている。今回はカオールからコンドンまで。帰国後、美しいマルセイユと2人の息子さんの写真をメールで送ってもらった。

・マギーさん
 スウェーデンのストックホルムから来た中年の女性。ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-を歩く。

・ピエールさん
 Lascabanes(7/5泊)のジットで同室となり、帰国後、下記のメールをいただいた。
(本文)
 TAKESHI,
 J'ai ete tres honore de marcher a tes cotes
 Dommage que nous n'ayons pas pu nous comprendre
 C'est un symbole fort de paix que des hommes et des femmes
 de toutes conditions, et du monde entier marchent ensemble
 dans la meme direction
 "ULTREIA" (toujours plus loin)
 Froternellement
            Pierre
(翻訳した文章)
 言葉の壁はあったけれども、君の横で歩けてとても光栄に思いました。
 世界中から、それぞれの環境の中にいる男性・女性と一緒に、
 同じ方向へ歩むということは、平和・安らぎの象徴です。
 ”ULTREIA”(いつでも前進)
 親愛の情を込めて
            ピエール

<親切な人達>(後日、記載)
 多くの人に親切にしてもらった。
・受付のおばあちゃん-ノガロのジットで
・受付のおじさん-中年男性サン・ジャン・ピエド・ポ-の巡礼事務所で
・デュバルさん
・フランス領・ニューカレドニア(オーストラリア大陸の近く)から来た中年の女性

9.コミュニケーション
<「フレンチ、ノン、イングリッシュ、ア・リトル」>

・言葉が分からない中で、フランス語でのやりとりはジェスチャーで行い、英語の場合は片言(カタコト)で行った。

・宿の受付や一人で食べるときのレストランでは、まず、「ジャポン、タケシ、フレンチ、ノン、イングリッシュ、ア・リトル」と言ってから、かたことの英語で交渉を始めた。

<自己紹介のカラーコピー、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」発行の「クレデンシャル」、絵はがき、金太郎飴などを持参>

・同行の巡礼者と話すときや、宿の受付では、持参した自己紹介のコピー(カラー)をまず渡した。これには、家族の写真やマッキンリー登頂の写真を載せ、フランス語で説明書きをつけておいたが、コミュニケーションにたいへん役に立った。できれば、春の桜の風景、秋の京都の紅葉風景などもコピーし、日本のすばらしさを紹介できたら、もっとよかったと思う。

・ 「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」を通していただいた標記のクレデンシャルは日本で初めて発行されたものであり、カラー版の美しいもの。「東京カテドラル」の押印もある。巡礼路で会う人達から珍しがられて評判になり、多くの人から「見せて、見せて」と言われ、コミュニケーションにも大いに役に立った。

・おみやげとして、富士山の絵はがき、谷中五重の塔や竜の絵が入った竹のしおり、お地蔵さんの絵の金太郎飴などを持参し、お世話になったお礼やお別れのプレゼントとして利用した。

<電話での連絡に成功>
・こんなことがあった。
 朝、出発するときにその町のインフォメーション・センターで当日の宿を予約してもらったのだが、その宿は、巡礼路沿いのジットがすべて満員だったので、ルートを4kmほど外れたところにあるホテルだった。「ルート上のポンプという町に着いたら、電話をすれば、自動車が迎えに来る」とセンターの人に言われたので、ポンプに到着後、ドキドキしながらホテルに電話をした。女性が出たので、「タケシ、アライバ(到着。電話をする前に辞書で調べておいた単語)、ポンプ(まちの名前)、ジット(ジットの前にいる)。カー、OK?(車で迎えにきてくれるか)」と言う。先方はフランス語で何か言ったが、その中に「ウイ(英語のYes)」という言葉が入っていたので、あとは分からなかったが、電話を切った。あれだけのやりとりで、はたして通じたのかという不安はあったが、ジットの前に腰を下ろし待つていると、自動車を運転しておばあちゃんがやってきた。フランス語での電話連絡に成功した瞬間である。

<いつか親しくなった>
・旅の後半、畑の中を登っていくと、登り終わったところにある村で、知り合いになった巡礼者が10人ほど休んでいた。皆が「ここで一緒に休もう」と手招きをする。その中に入って草むらに腰をおろすと何か嬉しくてなって、気が休まった。親しい仲間という感じがした。旅の前半、歩き始めの頃は、知らない外国の巡礼者の中に入るのは気が重くて避けていたのだが、いつの間にか、自分の心に変化が起こっていた。

10.気持がなごんだとき

<プール>

・プールのあるジットに2回泊り、洗濯済の下着を着て泳いだ。フランスで泳げるなんて。思いもかけずに泳げて、嬉しくてワクワクした。温水で塩水のプールもあった。

<フォスターの歌を皆で歌う>

・あるジットでのこと。夕食後、バンジョーを弾き、音楽を聞かせるジットのご主人。巡礼の歌が中心だったが、私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェスト。皆で歌っているときに、涙が滲んだ。

<風ちゃんのお守り>

・5歳の孫の風ちゃんがお守りを作ってくれた。旅も終盤のある日、それを開いてみると、真ん中にじじと風奈の絵、上のほうに「じじへ ぶじにかえってきて」、下に大文字で「じじ だいすき」と書いてあった。「歩くんだ」と緊張していた気持が一瞬ゆるんだ。

<マリーさんから絵手紙をもらう>
Img_1759 ・巡礼者の一人、ドイツの中年のご婦人マリーさんが、お分かれのときに自分で描いた絵手紙をくれた。滞在したまち(Aire sur Ardour)の橋の風景を描き、「Aire sur Ardour 13.7.2009 Thank you to be with us.  Heide Marie Voigt」とサインを入れたものである。マリーさんも英語を少しだけ話すので、お互いに片言(カタコト)の英語で話し合っていたが、言葉がほとんど通じないのに気持が通じたということがとても嬉しかった。

11.失敗
<いくつかの失敗>

・目的地まで行くはずの座席指定のTGV(フランスの国鉄SNFCが走らせている新幹線。購入した切符は1枚だけで、出発地から目的地までの一つの座席番号が記入されていた)に乗ったのに、途中の駅で乗り換える必要があり、乗換駅で乗客は全員下車してしまった。しかし、私達はそれを知らずに、がらんとした車内にいつまでも座ったままで、発車を待ち続けた。どうもおかしいと他の車両を見に行ったら誰もいない。その間に乗り換える列車は出発してしまい、次の列車まで3時間も待つはめになった。

・エッフェル塔の最上部に行く機会があったのに、そこまでエレベーターで昇れることを知らずに、中2階まで登っただけで下りてきてしまった。
 エッフェル塔の乗り場は長蛇の列。数時間待つようだ。でも、一つだけ5分待ちで入れる行列があった。それは「歩いて登る」もの。私は喜んでその切符を買い、115mの高さの中2階まで登り、満足して、また歩いて下りてきた。でも、下りてきて見上げると、275mの高さまで行くエレベーターが動いていた。そこまで上れたのだ。ガックリ。

・ピザ屋であることを知らずにレストランに入り、「ハム入り野菜サラダ」を注文するつもりで、ジャンボン(ハムのこと)、トマト、サラダと言ったら、馬鹿でかいピザ(ハムとトマトをトッピングしたもの)が出てきてしまった。何とか全部を食べようと、水を飲み飲み挑戦したが、半分食べるのがやっとだった。

 注文する前に、メニューの内容を知ろうと、辞書を引いて調べたのだが、簡単な辞書なので、料理の名前のほとんどが載っておらず、よく分からない。四苦八苦していると、店のマダムが寄ってきて「どうしますか」と聞かれた。これで、あわててしまったのが原因だ。あらためて、周りを見回したら、みずみずしい野菜サラダを食べている人が何人もいた。それを指差せばよかったのだ。「辞書で調べて」なんて考えたのが間違いのもとである。

<一番困ったのは>

・学校の施設の一部がジットになっていたときのことだ。学校に入っていったが、ジットがどこにあるか分からずに、とまどった。教室外の廊下でも授業が行われていた。先生に聞いても、授業に集中していて、うるさそう。フランス語で何か言うが、全く分からない。最後はジェスチャーで「外に出て行け」という。とほうにくれた。と、巡礼路で知り合いになったご夫婦が廊下の向こうから出てきた。「こっちに来い」と手招きする。助かった。

12.フランスの巡礼路をスペインと比較すると

・見方にもよるが、私はフランスのルートは景色がやや変化に乏しいように思う。スペインの750kmには、標高1500mの三つの峠越え、レオン、ブルゴスなどスペイン屈指の大都市の通過、中世の面影が残る農村の通過などがあり、景色は変化に富んでいる。これに対し、フランスは、前半は毎日、飽きるほどに牧草地の中を行き、中盤にいくつかの小さな観光都市をめぐり、後半はまた毎日、畑の中を行くというように、やや変化に乏しかった。また、農村の風景もきれいに整備された農家が多いためか、中世風というよりは現代的だった。

 もっとも、これは好きずき。「毎日が牧草地の中」というのがとても素敵、フランスの方がよいという人もいるであろう。

・また、スペインには、宿泊施設である「アルベルゲ」が基本的に無料、歩いている人が圧倒的に多い、英語がある程度通じる、食べ物も入手しやすい、などの特徴がある。

・1ヶ月で行くとすれば、何と言っても、お勧めはスペインであろう。

13.その他(後日、詳細を記述の予定)
<天候と気温>

・雨は少ない。
 平均降水量(mm)を見ると、7月(カッコ内は6月)は東京の247.5(170.5)に対し、パリは58.3(53.2)、ニースは15.6(35.8)であり、夏のフランスは雨が少ないと言えよう。

  今回も雨に降られたのは巡礼路で2回、パリで1回だけだった。ただし、それは1時間ほど降ると晴れ間がのぞき、また降るというような雨である。また、その雨は豪雨であり、すさまじい強風を伴い、まっ黒な雲とともにやってきた。私は、ゴアテックスの雨具を着け、ザックにザックカバーを着け、更に上からポンチョを羽織って(こうすればザックと背中の間に雨が入ってこない)、これをむかえた。備えあれば憂いなし。農作業小屋の片隅で雨宿りをしている巡礼者もいたが、私は豪雨の中を気持よく歩き続けることができた。もっともこれは巡礼路でのこと。パリでは傘だけしか持たず、それではずぶ濡れになるので、多くの観光客とともにセーヌ川の橋の下に逃げ込み、雨が止むのを待った。

・気温は東京より低い。
7月の平均気温(カッコ内は6月)は東京の25.6(23.2)度に対して、パリは20.0(17.0)度であり、サン・ジャン・ピエド・ポ-と緯度が同じニースでは22.9(19.9)度である。フランスの気温は日本より3-5度は低いと言えよう。

 6月の歩き始めはかなり寒く、朝夕は防寒着としてゴアテックスの雨具を上に羽織るほどだった。もちろん、日中も長ズボン姿である。

 7月に入ると、日差しがある日は暑くなった。ズボンは短パンに代えていたが、強い日差しの下で風がないと、照り返しも加わってとても暑く、汗だくで疲れが増した。ただし、曇り空のときは涼しく、風が加われば寒さを感じることもあった。

<クレジット・カードでユーロを現金で借りる>

<国際携帯電話をレンタル>

<パリにて>
Img_1712 7月22日、ローカル線の列車でサン・ジャン・ピエド・ポ-を9:45に出発、バイヨンヌに10:58着。TGV(フランス新幹線。11:05発)に乗り換えてパリのモンパルナス駅に15:55に到着。
 早速、安いホテルを探して食べ物屋が軒を並べる路地裏へ。数軒のホテルあり。5分ほど歩いたところに二つ星のホテルを見つけて宿を取る。先にも書いたが1泊65ユーロ(食事なし)。
 すぐに地下鉄でルーブル美術館へ(通常の閉館は18時だが、水曜、金曜は22時に延長される)。地下鉄の自動販売機での切符の買い方は、買っている人を横から見ていればすぐに分かった。

 23日はルーブル美術館、オルセー美術館、凱旋門、エッフェル塔を巡る。

 24日は地下鉄でサン・ミッシェル駅へ行き、数人の人に道を尋ねながら500m離れたところにあるRER(高速郊外地下鉄)のサン・ミッシェル・ノートルダム駅へ。ここでB線に乗ってドゴール空港へ。11:45離陸。

・「すし」と「うどん」

・エッフェル塔を歩いて登る。
 エッフェル塔の中2階(高さ115m)まで歩いて登った。エレベーターに乗るのは長い行列が出来ていて2時間待ちなのに、歩いて登るのならすぐに切符が買えたためである。パリの街の眺めはすばらしかった。「先日は東京タワーに歩いて登り、今回はエッフェル塔にも歩いて登った」と思うと嬉しくなった。

 嬉々として歩いて下りてきたのだが、下りてきて愕然とした。見上げると、エレベーターが最上階の276mまで登っているのだ、それを知らずに、中2階から下りてきてしまった。今さら引き返せない。喜ぶ気持がしぼんでしまった。あそこまで登っていれば、どれほどのすばらしい景色が見られたことか。

<Mさんとの気持のすれちがい>

・14日間、同行してくれたMさんはマラソンやウオーキングの大ベテラン。200kmマラソンなども完走しており、歩く速度がたいへん早い。

  2人の間が離れると、初めは走って追いつこうとしたが、そのうち、こちらもマイペースで歩くようになり、離れすぎると彼は腰を下ろして待っていてくれた。10分以上待たすこともかなりあり、彼もいらいらしていたのではないかと思う。泊まる宿を決めて、彼には先に宿まで行ってもらうなどの工夫をすればよかったと今は思っている。

・Mさんはレストランやカフェが嫌いだった。日本では食事はいつも簡単な物で済ましており、巡礼路でもお店で買ったもので3食を済ますことが多かった。一方、私はパン中心の食事では体がもたないと思い、昼食は、肉と野菜をおいしく食べるために、できるだけレストランを利用した。また、午後の一休みに、私はカフェに入ってコーヒーを飲むのを無上の楽しみにしていたが、彼はこれも嫌いだった。道端に腰を下ろし水を飲めばよいという考え方である。

 彼は私に数回ほどおつきあいしてくれたが、内心は入りたくなかったようだ。彼がそんな思いでいるとは全く気づかずにいて、帰ってきてから初めてそれを知ったが、現場で率直に話し合えば「一人は中で、一人は外で」などの方法で解決ができたのではないかと今は思っている。

 いずれにしろ、2人以上で歩けば、どんなに仲が良くてもすれちがいが生じる。それを乗り越えるのは率直な話し合いではないかと思う。

14.おわりに
<目的地に到着して>

 7月20日の昼過ぎ、サン・ジャン・ピエド・ポ-に到着。
 デュバルさんと一緒である。小さな石造りの城門をくぐるとすぐに巡礼事務所。そこで泊まるジットを紹介してもらった。すぐに100m先にあるそのジットへ。
 ジットに荷を置き、一人で外に出る。カフェでサンドイッチとサラダを食べながら一休み。カンカン照りの舗装道路を沢山の観光客が行き来している。照り返しで日陰も暑い。「歩き切った」とか「やったー」というような達成感はあまり湧いてこない。何も考えずに、ただボーっとして店先に座っていた。

 町の中を散策。巡礼路で親しくなった人達、数人に会う。握手、握手。
 夜、初めて日本の友人に数枚の絵はがきを書く。そこにも「感慨は湧いてこない。何もない。無の境地と言えようか」と書いた。

 翌日、町が見渡せて、ピレネー山脈も望める高台の城跡に登ってみた。風が吹き抜ける木陰の芝生で一休み。ここでも30分ほど、ただボーっとして座っていた。

 マッキンリーの登頂に成功したときは「アラスカ第一の高みに立った。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ」と書いた。

 2003年にスペインの巡礼路を歩ききってサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着したときは「行列に並び、私も栄光の門の石柱に手をふれて頭を下げた。でも、あまり感激はない。疲れはしたが、自分の力の限界を感じるほどの大きな困難に遭わなかったせいかもしれない。次いで、大聖堂の奥へ。高い天井。薄暗い大空間が広がる。何かほっとして、心と体が軽くなった感じである。「歩き続ける」という重荷から解放されたためであろう」と書いた。

 それが今回は頭の中が空白の状況で、あまり感慨が湧いてこない。 
 前回よりは、巡礼路を歩くのに慣れてしまったこと、疲れがたまっことなどが原因と思われる。ひたすら歩くだけで、旅を楽しむ余裕がなかったことにもよるであろう。

 でも、旅の楽しみは多様で、奥が深い。歩くことだけを目的とする旅から、新しい旅へと転換する時期に来たのかもしれない。

<旅を楽しむには>

・余力を残して歩くこと。
 マリーさんは歌を歌いながら歩き、町に着くとスケッチを楽しんでいた。余裕たっぷり。「楽しくて、楽しくて」という感じ。

 私は、いつもと言うわけではないが、足や肋骨の痛さに絶えながら何とか目的地に着こうと歩くことがかなりあった。特に1日の行程の後半は、そうだった。これでは、すばらしい景色を楽しむ余裕がなくなってしまう。フランスを歩いているのだという「ワクワク感」も感じなくなる。

 余裕を持って歩けるだけの体力が残っているうちに、この巡礼路を歩いていれば、もっと楽しめたと思う。

 今回も、マイペースでゆっくりと、休憩時間を十分に取りながら歩けば、もっと楽しめたであろう。

・フランス語や英語が分かれば、巡礼時の楽しみは倍加する。

・そこまででなくとも、城などの遺跡やまち、教会などの歴史を調べていくと、巡礼時の楽しみが増すと思う。

・これらによって終わった後の充実感は増すであろう。

<体重2kg減少>
 帰国後、20日経って初めて銭湯に行った。体重を量ると55から53に2kg 減っていた。パンばかりの食事が体には負担だったということだろう。その影響が20日経っても残っていた。マッキンリー登山のときは、毎日の主食が日本から持っていった米だったので、体重がかえって増えたのだが。

<自分の人生にとって、どんな意味を持っているのか>
 今はあまり考えられない。時間が経つにつれてはっきりしてくると思う。

<2009.9.17>
 今回の旅について、かなりの人に話をした。六つ星山の会の例会でも話す機会があった。時間が経つにつれて、「行ってきた」という充実感が湧いてくるようだ。

 

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2回目のサンティアゴ巡礼-フランス「ル・ビュイの道」をめざして

<2回目のサンティアゴ巡礼-フランス「ル・ビュイの道」をめざして>

注)2009年6月21日-7月20日、この道を歩いた。「サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道) 」 http://takesitamura.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-22f5.html に報告を掲載したので、参照されたい。

  (行こうと思う・2008年9月
 精神的にちょっと疲れて、毎日の生き方に積極性が失われてきた。六つ星山の会(視覚障害者と共に山に登る会)の事務局を担当して10数年、事務と1-2週間おきのサポート登山を延々と続けてきたが、最近は日程が混み合い休む暇がなかったこと、視覚障害者登山で4泊5日の南アルプス縦走にサポートとして参加したときに「自分が登るのがやっと。サポートどころではない」と脚力の衰えを痛感したこと、山の会でいろいろと人間関係の葛藤があり悩まされてきたことなどが原因と思われる。

 これではいけない。前向きに生きる気持を持たなければ。それには夢を持つことだ。
 夢。それはヨーロッパに行っての長期間のウオーキング。これまで何となくあこがれてきたが、その実現に一歩踏み出してみよう。

 それは、フランス国内をル・ビュイからサン・ジャン・ピエド・ポーまで歩くこと。映画「サン・ジャックへの道」(フランス映画・日本で公開済)に登場するサンチャゴ巡礼路の一部である。そこに行こうと思うと、ワクワクしてくる。

 マッキンリー登山や前回のサンチャゴ巡礼に行くと決めたときも、行くまでの数ヶ月間、そんなワクワク感を味わいながら毎日を過ごした。人生では最高の瞬間がいくつかあるが、その一つが大きな夢への挑戦である。もう一度、そんな夢に挑戦してみたい。

 まずは行く仲間。フランス国内はスペインほどに道や宿泊施設が整備されていない。道が分からなくなったり、宿が見つからないということもあるだろう。そんなときに相談しながら一緒に歩ける、気心の知れた仲間がいたら、とても心強いのだが。

 2008年9月のある日、友人のmzさんに会ったとき、「来年の夏頃、一緒に行かないか」と誘ってみた。彼は200kmマラソンなどもやっており、一緒に行ければたいへん心強い。春の聖岳に連れて行ってもらい、吉野-熊野奥駆山行ではテントを持ってもらった。気心が知れている。しかも、英会話が私よりはるかに上手だ。「あまり長い期間でなければ」OKとのこと。まずは、ハードルを一つクリア。

 次は体力の問題。前回64歳でスペイン国内のサンチャゴ巡礼路を歩いたときとは異なり、体力が落ちている。最近は2歳と4歳の孫の相手で忙しく、ジョギングや水泳をほとんどやらなくなった。そのせいか、胃の調子もよくない。こんな状態では前回のように毎日歩き続けることはできないだろう。体力と脚力の回復が必要だ。

 とりあえず、4日ほど朝夕5kmのジョギングを欠かさずに続けてみた。急にやったので、ももが痛い。また、妻と銀座を散歩したあと、一人で銀座から北千住まで隅田川沿いを1回も休まずに歩いてみた。3時間15分のウオーキングである。次は市内のプールで水泳を1500m。視覚障害者登山の関係では奥多摩・青梅のハイキングコースや山中湖畔・三国山へ。

 これからはこんな形で、視覚障害者登山のほかに、ジョギングと水泳、それに一回5-8時間のウオーキングを組み合わせて、巡礼路を歩き続けられるだけの力を付けていきたいと思う。

道と宿を調べる
 行くとなれば、まだまだいろいろと心配がある。スペイン国内では「道しるべ」がはっきりしており、道に迷うことはまずなかった。5-10kおきに無料の宿泊施設も完備していた。フランス国内ではどうだろう。

 道が分かるだろうか、安い宿はあるだろうか、食事は手に入るのか、どの程度の数の巡礼者が歩いているのだろうか。
これらを知るために、まず、フランス国内の巡礼記録が載っている「銀河を辿る-サンティアゴ・デ・コンポステラへの道」(新評論・329頁・3200円・清水芳子著)という本を読んでみた。日本語で書いた徒歩の巡礼記録については、スペイン国内の旅行記は5-6冊あるのだが、フランス国内のものはほとんどない。

 この本は「サン・ジャックへの道」を見に行った映画館でたまたま見つけて手に入れたものである。
フランス国内の巡礼路には北から、パリを出発点とする道、ヴェズレーからの道、ル・ビュイからの道(以上3本はサン・ジャン・ピエド・ポーに通じる)、サン・ジルの道の4本があるが、この本はル・ビュイの道を行く徒歩の旅行記(750km・37日間。自分の場合、もっと日数の短縮が可能と思われるが)である。
   
 これを読んで「GR65」を知った。「GR」はフランス国内に張り巡らされた自然歩道であり、「65号」はル・ビュイからサン・ジャン・ピエド・ポーに至るサンチャゴ巡礼路である。これをたどってみようかと思う。
9月12日に都心の「八重洲ブックセンター」に行き、「GR65」が載っているル・ビュイ周辺の地図MICHELIN・No522 Region・1600円・縦横とも1m50cmほどのもの。裏面あり。フランス国内を17区分した詳細図を買った。
 
 家に帰ってじっくりと眺めると、ル・ビュイから「GR65」と横や上に記された点線が切れ切れに西南に伸びていた。これだ。赤インクで印を付けながらたどるが、地図が途中までしかない。数日後、もう一度、店に行きNo524No525も買い求め、その「GR65」にも赤線を付けた。

 ほとんどが国道や県道などの車道沿いにあり、道が分からない場合は、車道を歩けば次の目的地に着けるようだ。ただし、標高1000m前後のオーブラックの荒野越えは別のようだが。ともかく、これでサン・ジャン・ピエド・ポーまでの道は大まかに分かる。

 次はインターネット。ヤフーで「サンチャゴ巡礼 ル・ビュイ」と入力し検索すると7件がヒットしたが、徒歩の旅行記はみつからなかった。次いで「GR65」で検索すると8万件がヒット。冒頭にル・ビュイの道を行く日本人の徒歩旅行記が4件見つかった。
1)「Camino GR65-2006年夏のGR巡礼の記録」
  http://takahiroh1.cocolog-nifty.com/

TAKA(タカヒロ)さんの一人旅。7月12日福岡発、7月13日パリ経由、列車でル・ビュイへ。14日、市内観光、15日スタート。8月15日サン・ジャン・ピエド・ポー着。32日間を要す。
2)「Spiritual Path to Santiago de Compostela」                        http://hanguro.cocolog-nifty.com/james/gr65/index.html
2007年5月26日-6月30日の一人旅。

3)2003年夏「ヨーロッパ巡礼の道」1495km徒歩旅行 http://www.ne.jp/asahi/hoji/hoji/pilgrim/

  ご夫婦と友人の3人旅。奥さんは途中で帰国。2007年5月21日成田発、パリ1泊、リヨン2泊、ル・ビュイ1泊。5月26日スタート、6月29日サン・ジャン・ピエド・ポー着。期間35日間。2006年にサン・ジャン・ピエド・ポーからサンチャゴ・デ・コンポステーラまで歩いたことあり。
4)スパ&スパエッセイ‐kikiさんからhttp://www.geocities.jp/camino4321/camino/jyunreiki/mrs_kiki/essay_8_2.html
  11歳の娘さんと主婦の二人旅である。カナダ在住。ル・ビュイ1泊後、7月2日スタート。ときどきトランスバガージュ(タクシーに似たもの)を利用。7月30日サン・ジャン・ピエド・ポー着。

 これらを読んで、留意点をメモしてみよう。
 宿については、上記4件の記事により、1泊10フラン前後の「ジット(Gite d’etape)」というハイキング用の宿泊施設が全国的に、もちろん「GR65」沿いにも点在しており、巡礼者はそれを利用していることを知った。また、詳しい巡礼路の地図はル・ビュイで手に入るという。
 さあ、まずは体力と脚力の回復だ。

日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会の講演会に出席
 サンティアゴ巡礼についての写真展や講演会の情報を得ると必ず見に行く。「ル・ビュイの道」の情報を得たいということもあるが、自分が行ったときを回想し、あのときの毎日の高ぶった気持をよみがえらせ、ちょっとの間だけでも浸りたいという思いもある。

 昨年だったか、「世界遺産巡礼の道を行く・南川三治郎写真展」を東京ミッドタウンにあるフジフイルム・スクエアに見に行った。

 今回は、「相田みつを美術館」で開かれている「祈りの道-サンティアゴ巡礼の道と熊野古道・ルイス・オスカニャ&六田知弘写真展」を見に行って、下記の講演会があることを知り、早速申し込んだ。
・講演会:祈りの道講座「サンティアゴ巡礼」
・主催:日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会(http://www.camino-de-santiago.jp/
・日程:2009年1月24日(土)15:00-16:30
・場所:相田みつを美術館(有楽町・国際東京フォーラム地下)
・定員:40名
 
 会場はほぼ定員一杯。写真を壁に写して、スペイン国内の巡礼路の説明が約1時間あった。講師は友の会代表の森岡朋子さん。それと、質問に答えるために、巡礼を経験した友の会の会員の方も数名参加しており、自転車で行きたいという若者の質問などに答えていた。

 私はフランス国内の巡礼路の地図の入手方法について質問。そこを歩いた若い男性からインターネット上の書籍購入システム「アマゾン」で買えると教えていただいた。

 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会は2008年6月に設立された。巡礼に行く人に情報を提供し、相談に乗る会である。日を決めての相談会や懇親会もある。友の会はすでに世界15ケ国以上にあるというが、行きたい人にとって、このような会があるとたいへん心強い。早速、会員になった(年会費3000円)。

映画Within The Way Without 内なる道を求めて-サンティアゴ巡礼の旅を見る

2009年3月14日(日)14時-16時30分、「相田みつを美術館」に映画を見に行った。
定員40名。13時から整理券を配ったが、20分で満員。私は36番だった。
監督:Laurence Boulting。
出演:黛まどか(春に旅する)、ミレナ(ブラジル人。夏に旅する)、ロブ(オランダ人。冬に旅する)。
黛まどか:俳人。1999年5月-7月にこの巡礼路を歩き、『星の巡礼-スペイン「奥の細道」-』を著す。巡礼路で上記監督に会い、出演の依頼を受けて、再度、スペインに渡り、この映画に出演した。今回の映画会に出席し、20分間のあいさつをされた。
内容:旅の様子を追いながら、3人の旅人の心の動きを言葉で表現したもの(それらの言葉の日本語訳が次々に画面に流れ、すべてを理解するだけの時間がなかったのは残念)。
DVDの発売:外国では発売されているが、日本語訳のついたものはまだ発売されていない。
感想:巡礼をすることの意味を考えるのにたいへん有用。私の場合は「歩くこと」「歩き通すこと」、そのことだけが目的だった。今振り返ってみると、私の人生の中で、最も素晴らしい思い出の一つとなっている。思い出すと、今でも、やりとげた満足感で心が充実する。

 (クレデンシャル(巡礼手帳)の発行を依頼日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会が会員向けに発行を予定している「クレデンシャル」を頼んだ。作成料1000円。プラス寄付。「東京カテドラル」のスタンプを押してもらえる。

サンティアゴ巡礼に行く人のための相談会に出席

・2009年4月11日(土)13:00-16:30、代々木八幡区民会館にて。
・主催は日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会。
少しワクワクしながら参加。何となく心が浮き立つひとときである。参加者は12人位。別に相談を受ける方が理事長の森岡朋子さんを含めて6人ほど。
 スペインを歩くことを目的とする人がほとんどだったが、私を含めて2人がフランスのル・ピュイの道についての相談だった。実際にそこを歩いた方が2人来て、1対1で相談に乗ってくれた。
 私の相談相手は伊豫谷さん。数年前の学生のときにル・ピュイ-サンティアゴ間とヴェズレー-サンティアゴ間を歩いたという青年である。道のこと、食料のこと、電話のかけ方、宿のこと、電子辞書のことなどを聞いたが、特に知りたかったのは「道は分かりやすいか」ということである。大きな収穫があった。それは、300頁に及ぶ詳細なフランス語の案内書を見せてくれたことである。使い込んで表紙が取れかかっていたが、旅の間の出来事がメモされており、彼にとっては思い出が詰まった大切な品のようだった。
「Maim Maim Dodo・Le Chemin de Saint Jacques de Compostelle・
Le Puy-en-Velay / Saint-Jean-Pied-de-Port・GR65」。
これがその本。連続して150枚の地図が載っており、地図ごとにジットや民宿、ホテル、キャンプ場、レストラン、カフェ、インフォメーションなどの所在地が記してあった。
これさえあれば道に迷うことはない。どこで昼食を食べるか、どこで泊まるかの計画も立てられる。ル・ピュイで購入できるとのことだったが、念のために、全頁のコピーをとらせてもらった。2千円を両替して30分ほど、時間を気にしながら夢中でコピー。あっという間に3時間30分が過ぎ、伊豫谷さんに厚くお礼を言い、森岡さんにあいさつをし、4月末に奥さんとこの道を歩くという望月さんに「成功を祈ります」と言って、会場をあとにした。
帰りは土曜日で賑わう代々木公園を通って原宿まで歩き、喫茶店でひとときを過ごす。

日本で初めて行われた「巡礼者送り出しの祝福」のミサに出席
 下記日程で、サンティアゴ巡礼に行く人のための祝福のミサが行われた。
・2009年4月29日(水・祭日)16時より。
・東京カテドラル・聖マリア大聖堂にて。
・主催は日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会。友の会理事チェレスティーノ神父が出席。
 日本では初めてのこと。見てみたい、経験してみたいという興味本位の気持から、また、巡礼の無事を祈りたいという思いもあって出席した。
 東京カテドラルは「椿山荘」の正面入口の向かい側にある。前面に高さ62mのオベリスク風の鐘楼がそびえ、大きくて、立派な教会だった。

注)日本のカトリック教会の管轄区域は16の教区に分かれ、それぞれに司教または大司教がいて教区の母教会としての役割を果しているが、東京教区は東京カテドラルがその地位にある。なお、(大)司教が、自分の教区内にいる信徒を教え、導き、司式するための「着座椅子」をギリシャ語で「カテドラ」と言い、これがある教会を「カテドラ」教会という。

  教会に入る。広々とした薄暗い空間。内壁はコンクリートのまま。天井は高い。正面の祭壇に20-30mほどの高さで十字架が立つ。ほかには装飾がない、簡素なものである。しかし厳かな雰囲気が感じられた。
出席者は50-60人位。60-70歳代と見える年配の方がほとんど。
 歌で始まり、聖書の一節が朗読された後、「旅に出る時の祈り」があった。巡礼に行く人は全員、前に出てと言われると、出席者のほとんどが前に出た。「いつくしみ深い父よ、今より出かける私を祝福してください。私が思いがけない病気や事故に遭って周りの人に迷惑をかけることのないように、これから出会う全ての人々に感謝の心と、暖かい心遣いで接する事が出来ますように、助けてください。守護の天使に導き支えられ、無事に旅を終えて、全ての出会いと出来事においてあなたの愛を見いだす事が出来ますように。私たちの主イエス・キリストのお名前によりお願いいたします。アーメン」。
 信仰心のない私でも、このような場で旅の無事を祈っていただき、「無事に行ってこられる」という気持になった。
ミサの後、場所を移して集会室へ。ワインとパンをご馳走になりながら、私の隣にいた男性と談笑。54歳。学生時代に1年間欧州を歩いたが、巡礼路のあることは知らず、行かなかった、60歳の定年になったら是非行きたいとのこと。シベリア鉄度に乗って欧州に渡り、ル・ピュイからサンチャゴへ、更にフィニステラまで歩いてはという話になり、大いに盛り上がった。
 心がちょっと弾んだ1時間が過ぎ、その余韻を味わいながら、帰路に着く。

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視覚障害者登山・六つ星山の会

<視覚障害者登山・六つ星山の会>

はじめに
視覚障害の方々と山に登る「六つ星山の会」の会員となって19年、役員になり会の事務を担当するようになってからでも10数年が経つ。
以下に2009年の年賀状を掲げるが、最近はこんな心境である。

年賀状
明けましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いいたします。     
こちら、六つ星山の会での活動、孫の世話、囲碁などで結構忙しい毎日を送っています。いつかまたサンチャゴ巡礼ができたらと夢見て、数週間の長期ウオーキングに耐えられる体力作りにも心がけています。

 六つ星山の会に入会して19年、役員になって10数年が経ち、この間、楽しいこと、苦しいことが沢山ありました。71歳、ちょっと疲れましたが、六つ星で活動することで人生が豊かになり、幸せだったのではないかとも思っています。

 最近は、「サポートをすること」って何だろうとあらためて考えています。サポートをする人にとってどんな意味があるのか、視覚障害の方にとって六つ星があることの意味は、また、「誰かのために無償で奉仕する人が増えること」は今の世の中にどんな意味があるのか、などです。これらの意味を深める中で、今後も六つ星に前向きに取り組んでいければと思っています。皆様には、今年も幸多き年でありますようにとお祈り申し上げます。

最近の私の山行-2008年と1995年
 最近山に行くのは六つ星関係だけである。2008年は六つ星主催の定例山行が21回実施され、私はそのうち17回の山行に参加した。ほかに六つ星の有志との山行が数回ある。なお、自分がチーフとして企画したが、雨天のため前日に中止とした定例山行が2回ある(佐倉城址公園と江ノ島。このときはそれぞれ30名を超える申込みがあったのだが-うち視覚障害者は約1/3)。

 夏には六つ星の定例山行で4つの山に登った。
 6月27-29日・残雪の鹿島槍ガ岳(参加10名、うち視覚障害者2名)、7月 5-6日・八ツ岳の東天狗岳(22名、うち障害7名)、18日-20日・加賀白山(17名、うち障害6名)、8月6日-10日・南アルプス・仙丈岳-塩見岳縦走(9名、うち障害2名)である。

 特に4泊5日の仙丈-塩見縦走は思い出に残る山行となった。強く印象に残っているのは、塩見岳の山頂から急峻な岩場を下り始めて数分が経ったときに猛烈な雷雨に襲われたことである。大雨に加えて大粒の雹、更にはピカっと光った瞬間に次々と大音響で落ちる雷。幸いにして岩場が急なので、落雷は山頂や尾根にとどまり、身近な岩への直撃は避けられたが。あと、塩見小屋でもらった弁当の「いなりずし」がとてもおいしかったことが思い出される。

 これを1995年の山行と比べてみよう。               
 1995年の私の山行は年間22回、月にほぼ2回は行ったことになる。
 六つ星山の会主催の定例山行7回(甲武信岳、天祖山、九鬼山など)、会の有志との山行10回(残雪の鹿島槍ケ岳、奥穂高、鳳凰三山、飯豊山など。このうち、奥穂高には17名-うち視覚障害者5名-が参加したが、その様子は「岳人」1995年12月号に写真入りで掲載されている)、職場の仲間との山行4回(大山三峰、谷川岳、剣岳など)、独自で1回(北鎌尾根等)であり、ほかに視覚障害者とのスキーにも1回行った(六つ星主催50名参加)。

 1995年も六つ星の山行が中心であったことに変わりはないが、会の有志と行った山行が多い。一方、この頃は自分が楽しむ山行も行っている。針ノ木岳-船窪岳-烏帽子岳を単独で縦走し(これで北アルプス全山縦走が完成した)、そのあとガイドを依頼してmzさんと北鎌尾根を登った。

 2008年は六つ星以外の山行は全くない。六つ星だけ、しかも定例山行がほとんどである。孫とのつきあいが忙しいこともあり、六つ星だけで手一杯というところである。単独行こそは自分が一番好きな登山であり、是非復帰したいと思っているのだが。

六つ星山の会の概要

1、概要
 「六つ星山の会」は、視覚障害者と晴眼者が一緒に登山を楽しむために1982年に結成された山の会で、視視覚障害者86名、晴眼者127名、計213名(2008年11月末現在)で構成されている。なお、「六つ星」の名称は、点字が六つの点で表されることに由来する。参照:六つ星山の会 ホームページ   http://www.mutsuboshi.net

2、会の運営
 「同等の立場で」を運営の基本に据え、役員数は視覚障害者と晴眼者を同数とし、山行の費用は参加者の均等割りとしている。

3、全国に仲間
 全国には同様の団体がいくつかあり(千葉・新潟・富山・大阪・京都・兵庫・高知など)、数年に一度、視覚障害者登山の全国交流集会を開催している。

4、山行方法
 視覚障害者1名と晴眼者2名が、ペアとなって歩く。障害者は晴眼者のザックに軽く手を置いて歩き、晴眼者は道の状態や周囲の景色を言葉で知らせながら安全に誘導する。  
登山をする方なら、どなたでもサポートは可能。易しい道でのサポートから始めていただき、その仕方を習得していただく。

5、山行の内容
 会山行(会主催の山行)は東京近郊の日帰りで行ける比較的やさしい山を中心として年に20回程度行っている。うち数回は宿泊を伴う山行もある。

6、案内等の送付
 全会員宛に、毎月、翌月の山行案内等のお知らせを、また、年に4回(2009年は1回に変更の予定)、会報「六つ星だより」(墨字版で24-32頁立て)を送付している。なお、山行案内はホームページにも掲載されており、会員以外の方でも申込むことができる。

7、会費・保険料
 年会費3600円(1月から12月)、保険料1600円(4月から3月)、合計5200円である。

8、例会
 毎月第2火曜日の午後6時30分より高田馬場の日本点字図書館(駅から5分)において月例の集会を行っており、どなたでも参加が可能である。

(六つ星山の会の特徴
 以下は私個人の見方であるが、その特徴をいくつか述べてみたい。

1.「ときめく心」を感じる喜び
 サポートをする晴眼者にとって大きな喜びは「視覚障害者の心のときめき」を共有できることである。喜んでいる人の傍にいると自分も幸せになる。
 季節の風を感じ、鳥の声を聞きながら雑木林を通り、見晴らしのよい尾根を歩くときの爽快感。登頂をしたときの「やった」という充実感・達成感。心がときめく。北岳や槍ガ岳、富士山などの登頂に成功し、思わず涙を流す方も。山頂に立ったときは周囲から音の反響がなくなるので、天空に立ったことを実感できるとも聞いた。また、そこから生きるパワーを得ているという方もいる。

 心のときめきは晴眼者よりはるかに大きい。
 視覚障害者にとって「外を歩く」という意味での行動範囲は狭い。全く知らない土地に行くには介添えを頼む必要があり、思い立ったときに自由にいくことは難しい。このように行動範囲が狭いために、非日常の世界である登山からは、晴眼者以上に強い感動を受けるのである。
 もっとも、全盲の方でも、単独で東京から北海道や、ときにはスペインまで、人に道を聞きながら行くという勇気のある方もいるが。

2.「同等の立場で」という精神
 六つ星の会則には「視覚障害者と晴眼者が同等の立場で互いに助けあい山に登り」とあるが、この「同等の立場で」という言葉を読んで「とても嬉しい」という視覚障害者は多い。

 視覚障害の方々の中には「何事も、自分の力で晴眼者と同じようにこなしていきたい」という気持がたいへん強い。また、晴眼者から「おなさけは受けたくない」という気持も強い。「とても嬉しい」という言葉には、このような気持が反映されているように思う。

 ただし、「サポートをする、受ける」という関係なので、「同等」とは言えないのではという議論もある。

 私は次に述べる「会運営への参加」と「費用の均等負担」という2点から見て「同等の立場で山に行く」と言えるのではないかと思っている。

 それと、本当の意味で同等になれるのは、お互いの気持がいつでも通じあえるようになったときであり、そんな関係は長いおつきあいの中で、ときには喜びや苦しみを共有しながら育っていくものだとも思っている。

3.同等の立場で-視覚障害者も運営に参加。
 六つ星の役員会は晴盲同数を原則とし、また、視覚障害者も山行を、ときにはチーフとして、またはサブとして担当する。その他、事務も担当している。今は会長が視覚障害の方である。
  
4.同等の立場で-費用の均等負担。
 六つ星では山に登る費用は視覚障害者、晴眼者が均等に負担する。
 一般に視覚障害者が晴眼者に同行を依頼して行動をする場合、晴眼者の費用は視覚障害者が負担をするということがあるが、六つ星の仕組みはそうではない。

 通常、視覚障害者が個人として専門の登山ガイドを依頼する場合は、多額のガイド料が必要である。数年前、全盲の方から3泊4日で赤石岳に行きたいとの依頼があったときのことである。私以外に、もう一人サポーターが必要だったが、なかなか見つからなかった。

 そこで、山の雑誌に掲載されている登山ガイドに電話をしたところ、一日数万円の日当のほかに、ガイドの交通費、宿泊費なども負担してほしいとのことだった。視覚障害者本人の旅費も含めれば、20万円を超えるお金が必要となる。どうしても行きたい山があるが一人では行けないといった場合にはたいへんありがたいシステムであり、3000m級の山に行くのに専門の登山ガイドを利用している視覚障害者もいるが、費用の負担が重荷である。

 これに対し六つ星の場合は、交通費も宿泊費も障害者、晴眼者が掛かった費用を均等に負担しており、視覚障害者は晴眼者が一人で行くときと同じ費用で行けるのである。

 注1)視覚障害者が個人で行く軽いハイキングの場合、都県や区市町村のガイド・ヘルパーを利用することもできる。たとえば、東京都の場合は、1時間1600円、自己負担1割(所得制限あり)、日帰りのみ。新宿区の場合、自己負担3%、月40時間以内、日帰りのみなど。

注2)専門の登山ガイドでも、視覚障害者登山に慣れている方は少ない。ときにはガイドを断られることもある。逆に、視覚障害者登山のガイドを一般より安い費用で積極的に引き受けている方も数人いるようである。

注3)一般の山の会に視覚障害者がガイドを申し込んでも、ほとんどの会からは断られる(いくつか対応していただいたという話は聞くが)。それに慣れていないが故と思われる。

注4)交通費については障害者割引(特急料金を除いて、本人と付添いがそれぞれ5割引)が受けられるという特典がある。

5.多数の会員が運営に参加。
 六つ星では会員約200名のうち、3分の1の会員(山行の担当を含む)が運営に参加し、会を支えている。一般の山の会でも同様であるが、会員の参加比率は高いと思う。

6.担当者には特別の仕事がある。
 視覚障害者が会員なので、事務面、山行実施面で特別の仕事が必要である。

 事務面では、山行案内等の情報を伝達するために点字版の作成が必要である。もちろん、パソコンを利用している視覚障害者にはメールで伝達しているが、パソコンを利用していない視覚障害者(一部の女性や高齢の方々)もいるので、それらの方々には点字で情報を伝えている。また、墨字にして30頁程度の会報については、音声の録音テープを作成して送っている。

 また、山行ごとに毎回、触地図も作成している。
 一方、山行実施面ではサポートの確保が必要である。事前に申込みを受け、サポーターが足りないときは(一人にサポート二人が原則)、サポートを追加募集し(電話で心当りの方に依頼することもある)、それでも足りないときは一部の視覚障害者にお断りの電話をしなければならない。

 このほかにも、晴眼者の気配りが必要なことがある。たとえば、食事のときは、「左にさばの煮物、右に納豆、真ん中にしょうが焼き」といった説明をする。また、解散後のことだが、視覚障害者が一人で家に帰れるように最寄の駅まで同行をするといった気配りも必要である。ただし、これらは晴眼者にとって苦労ではなく、誰かのお役に立てるという喜びであり、晴眼者は喜んでやっている。

 これらの点が、一般の山の会とは異なるところであろう。(記・2009年2月5日)

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(21.1.24) 海外旅行・思い出のこの一枚

写真集

<海外旅行・思い出のこの一枚>

URLをクリックすると写真を見ることができます。詳細の説明は以下の文章を読んでください。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/GrmiVE?authkey=s2BEI3NSOXg#

1.スペイン

 2000年4月15日(土)-24日(月)、娘と二人で10日間、スペインの南部を巡った。
入国はマドリッド、出国はバルセロナ、フリーの旅である。切符や宿の手配、食事や買い物の時の会話は、一切、娘にまかせて、気楽に歩いた。

 成田-ロンドン経由-マドリッド3泊(日帰りのトレド観光を含む)-<バス(1,780 Pts。@0.62円)>-グラナダ1泊(「ホテル・ファンミゲル」@T10,700 Pts朝食なし)-<バス>-マドリッド-<飛行機(定期便プエンテ・アエレオに乗る。他の空路よりやや安く、14,140Pts)>-バルセロナ4泊(日帰りのモンセラット観光を含む。「ホテル・インターナショナル」@ツイン13,800 Pts朝食込み、2泊。「ホテル・グランビア」@シングル12,200 Pts朝食込み、2泊。宿はそのまちに到着してから取ったが、バルセロナではまちがお祭で宿が取れずに苦労した)。

写真1.モンセラート修道院
 修道院はバルセロナから60kmに位置し、全山が岩山のモンセラート山(標高1236m)の中腹(725m)にある。鉄道で行き、駅前からロープ・ウエイで修道院まで登った。写真の中央に小さく、黄色いゴンドラが写っている。
     
写真2.バルセロナ一望
 バルセロナ市内の丘に登って街を一望。このあと、グエル公園へ。

写真3.グラナダの小劇場「ロス・タラントス」のフラメンコ
 踊りの激しさに圧倒された。
 放浪の民、ジプシーがスペイン南部のアンダルシア地方に15世紀頃から住みつき、そこに伝わっていた舞踏音楽を彼ら流に作り変えたものだという。

 フラメンコショーはマドリッドやバルセロナでも見られるが、私達は古都・グラナダの「アルバイシンの丘」にある小さな劇場で見た。
アルバイシンの丘」はアルハンブラ宮殿と谷を一つ隔てたところにあり、アラブの王が統治し城塞都市として繁栄していた頃、王の家臣や商人が住んでいた丘である。狭い丘の斜面には、白壁の家がびっしりと建ちならび、細い道が迷路のように続く。窓には赤い花、白壁には陶器の絵皿が飾られている。そのいくつかはかっての王侯貴族の家という。

この丘のジプシーの洞窟住居の中に舞台があった。「ロス・タラントス」、これがフラメンコショーの店の名前。30人も入れば満員になるような狭いところ。ダンサーは客から数mの目の前で踊る。
ショーは夜中の12時半から1時半まで。家族だろうか。おとな3人、子供2人が一人づつ,ソロで踊った。別に歌い手一人、ギターの弾き手一人。

 男女の若手の踊りはともにたいへん激しいもので、そのリズムと身のこなしには心を奪われた。ドレスをぐっとつまみ、靴をける。タッ,タッ,タッと強く床を打つ靴の音。体をひねりながら、一回転、また、一回転。その動きがこれ以上にはないほどに早く、激しくなる。人を圧倒する激しさ。ピークにまで盛り上がったあと、一瞬の静止。みごとに型が決まった。

また、中学生位の女の子の踊りもあった。可愛くて、しかもリズムにのって巧みでもあり、何枚も写真に撮った。
あっという間の1時間。

マドリッドあたりだと舞台は大型で現代風だが、ここはそれとは異なり、舞台は狭く、たいへんエキゾチックな雰囲気があり、たいへん気に入った。

2.北欧の旅
2002年の6月、娘と二人でノールウェイのフィヨルドとスウェーデンのストックホルムを巡る旅に出た。ツアーとは異なる気ままな旅であり、宿泊先も目的地に着いてから決めた。6年後の今でも沢山の出来事や風景を鮮明に思い出す。

写真4-5.リーセフィヨルドのプレーケストーレン(Preikestolen)
 
 プレーケストーレンはフィヨルドから垂直にそそり立つ四辺形の岩の塔。その高さは600mもある。頂上は一辺が約50mの広さ。

まずは、船でスタバンゲルからダウの港へ。ここから麓のロッジまでバスが出ているのだが、シーズン前なのでバスは途中までしか行かないとのこと。他にもロッジに行きたい観光客が数人。バスの運転手が親切で、バス会社に連絡をしてロッジまで行く許可を取ってくれた。

 ロッジから頂上までは約2時間の道のり。積み重なった岩の間をゆるやかに登る。一番悩まされたのは蚊の大群。手や顔を手ぬぐいで覆って歩いたが、結局、あちこちと刺され、数日間、かゆみが残った。頂上には約20人。景色は抜群。はるか遠くまでフィヨルドが広がる。二人とも、さすがに、平らな岩の端まで行って、600m下の海面を覗き込む勇気は無かった。2枚あるうちの1枚(5)は絵葉書。

写真6-9.ソグネフィヨルド

 北欧を訪れたら誰もが行く観光コース。気にいった写真を4枚紹介したい。

1)写真6.フロム鉄道
 自分では一番上手く撮れたと思っている写真。線路のポイント交換で列車が速度を緩めたときに、列車の窓から身を乗り出して撮った。

2)写真7.ソグネフィヨルドの玄関口・フロムの港
 海の緑の色がたいへん印象に残った。

3)写真8-9.フィヨルドの村
 フィヨルドの全景写真(9)と合わせて鑑賞されたい。岸には、おとぎ話に出てくるような村が点在していた。

写真10-11.オスロ・フログネル公園2枚
 有名な彫刻家グスタフ・ヴィーゲランが全体をデザインした公園。彼の作品が212体並んでいる。花崗岩のこの彫像はたくましくて、それでいて、とてもやさしそうだった。
 もう一枚は、公園で出会ったおばあちゃんと孫の写真。了解を取って撮影した。 

3.インド
1991年の8月、キリマンジャロ登山の行き帰りにそれぞれボンベイ(現ムンバイ)で1泊。バスで市内観光をし、また、登山ツアーで一緒になった人と二人でホテルの周辺を散策してみた。

写真12.ボンベイ(現ムンバイ)のまち
 泊った「セントール・ホテル」は超豪華だったが、まちは貧しい人で溢れており、これがインドか、とあらためて衝撃を受けた。ビルの壁に張り付いたビニール・シートの住まい。

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シベリア鉄道

シベリア鉄道

シベリア鉄道の旅の写真を掲載します。イメージをつかむことができますので最初に見てください。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/CcyssK?authkey=L32Bn1FkDcY

(はじめに) 
 50歳になった記念に憧れの「シベリア鉄道」に乗った。
この鉄道はウラジオスットクモスクワ間、全長9300kmを結ぶもので、全線開通は1904年(明治37年)である。

 私が行った頃は、日本海に面する始発駅ウラジオスットクは軍港となっており、外国人が入れなかったために、そこから鉄道に乗ることはできず、鉄道で2日かかる内陸部のハバロフスクが出発点となった。
ソビエト連邦が崩壊する3年半前の1988年4月29日-5月8日10日間名古屋(空路)-ハバロフスク(1泊)-列車(5泊6日)-モスクワ(1泊)-(空路・機中泊)-ハバロフスク(1泊)-名古屋という行程で、参加者は16名(うち添乗員1名)、旅行代金は31万円のツアーだった。

 列車に乗った距離は8531km、地球の円周が約4万kmなので、そのほぼ5分の1の長さを列車に乗って味わったことになる。飛行機で飛ぶのとは違って、何となく地球の大きさを感じることができる旅だった。

 乗った車両は上下4つの寝台があり、鍵のかかる個室。私の同室は、朝日新聞の記者、自動車雑誌の編集者、製薬会社の研究員といった人達である。その他では、日本中の全ての鉄道に乗ったとか、機関車を写真で撮りまくり、とうとうシベリア鉄道を撮りにきたというマニアの人も参加していた。

 また、このツアーに何回か申込んだが、参加者不足で成立せず、今回初めて参加できたと嬉しそうに話す若いご夫婦もいた。

(車窓の景色)
 6日間、ただ列車に乗っているだけだが、車窓の眺めや人との交流、駅での買い物などで、退屈することは全くなかった。

 まずは、窓の外を流れる景色である。どこまでも続くシベリアタイガ(永久凍土を覆うマツやモミなどの針葉樹を主体とした大森林帯)は有名。その他、直径が数mもあるような白い雪の固まりがいくつも流れていく川、夕日に輝く広大な原野、工場があるのか、黒くくすんだ小さな町、白樺とポプラの林、石炭や木材、トラックなどを積んですれ違う長い貨物列車、「ダーチャ」という宿泊ができる小屋が付いた市民農園が並ぶ畑など。

 線路わきには1kmごとにモスクワまでの距離を示す白い標識(キロ・ポスト)が現れる。通路やデッキに立って、持参のカセットテープで、ロシアの合唱団が歌うロシア民謡や「遠くへ行きたい」のマンドリン演奏、倍賞千惠子の「さくら貝のうた」などを聞きながら、いつまでも、いつまでもそれらを眺めていた。

 そんな景色の中で、ハイライトがいくつかある。 
最大の見せ場はバイカル湖バイカル湖は、周囲632km、最深1620m、最大幅79km、湖としては世界最大、透明度も世界一の細長い湖である。1996年には世界自然遺産に登録されている。

 ハバロフスクからモスクワ行きの旅客列車は1日1本。列車は午後の1時-3時頃、ときには湖岸から10m位のところを通りながら、延々と2時間ほど走る。といっても、湖のほんの一部をかすめる程度であるが。

 バイカル湖が近づくと、まず乗客がやることは窓拭きである。直前のウランウデの駅で仲間同士が肩車をして薄汚れた窓を外側から拭く。景色が見たいが、寒いので、長い間、窓を開けておくことができないためだ。

 湖が見えてくると興奮が高まる。この季節、湖は凍っており、湖岸は真っ白な氷の塊で埋まっていた。小さな村を通過。氷上に黒い人影。釣り人か。
湖面は、はるか遠くまで、白く凍った部分と透明でブルーに凍った部分がまだらに広がる。曇っているため、対岸は全く見えない。列車の窓を開け、夢中で写真を撮る。
車掌に「寒い。乗客が風を引く。早く閉めろ」と言われた。客車の中は1両ごとに石炭ストーブが置かれ、暖かくなっているのだ。

 湖岸を離れ、人口60万人の都市イルクーツクへ。モスクワ発北京行きの列車とすれ違った。

 景色で第二のハイライトはウラル山脈の峠に立つ石碑の側を通過する時である。それは真っ白なオベリスク。高さは10m位か。アジアとヨーロッパの境界を示すもので、東面にアジア、西面にヨーロッパと、ロシア語で書かれている。
列車はこの側を一瞬にして通過するが、乗客はみんな、窓を開け、写真機を砲台のように一列に並べ、通過する一瞬を待って、シャッターを切る。

 このほか、モスクワに近づくと、ロシア正教の本山と言われる聖セルギー三位一体修道院(1340年代の創建)が林の向こうに見えてくる。白い城壁に囲まれて色とりどりの寺院が林立し、金色の丸屋根と青い五層の鐘楼が望める。

(列車にて)

・車掌さんとの交流
 列車は18両編成とか。食堂車のほか、我々の乗る1等寝台車(個室。4人一部屋のほかに2人一部屋のものもある)と、地元の人が乗る2等寝台車(仕切りがない)があり、それぞれに乗客係兼車掌が乗っていた。すべて女性。

 我が車両にもリュドミーラマルガリータの2人が乗車。毎日、午前と午後にチャイをサービスしてくれた。また、列車が駅を出るときは、すべての車掌が旗を片手に各車両のデッキから身を乗りだし、危険の有無や乗客の乗り残しに備えていた

 私は、二人にサインをしてもらった「シベリア横断鉄道-赤い流星「ロシア号」の旅」(NHK取材班)という本を、今も大切に保存している。この本はNHKが1982年2月12日に放映した「シベリア鉄道-9,000キロ8日間の旅」(ビデオあり)を取材したときの記録を書いたものである。

・駅での買い物
 6日間で途中39の駅に停車した。停車時間は10分-15分。どの駅にも、農家のおばさん風の太った女性が数人、パンや牛乳、ゆで卵、ゆでたジャガイモ、野菜の酢漬け、花などを売りにきており、ここでおやつを買うのも楽しかった。たいていは1ヶ、1本、一盛りが1ルーブル(220円)。

 出発時間となっても駅のアナウンスや車掌の笛はない。列車は音もなくゆっくりと走り始め、みんなはあわてて、デッキに飛び乗る。

・食堂車
 食事はいつも食堂車(ロシア語で「PECTOPAH」)でとった。給仕をしてくれたのは、やさしそうな太ったおばさん。
朝食は目玉焼きに黒パン、それに炭酸水とブドウ液がついた。昼と夜は肉が少々とボルシチというスープに黒パン。ボルシチには普通、身が入っているはずだが、何も入っていない。黒パンだけが食べ放題。最後はコーヒーか、チャイ(紅茶)。生野菜は三切れほどのキュウリが一度出ただけ。貧しい食事だった。

 これに比べて、日本の食事の何と贅沢なことか。日本の豊かな果物と野菜をシベリヤに輸出して売ったら飛ぶように売れるのではないだろうか。もっとも、あれから20年経った今では列車の食事もかなり改善されているとは思うが。

(ソ連を知る)
 ソ連のほんの一部だが、この目で見て、知ることができた。

・物の不足
ハバロフスクでは、町を歩いていると子供達が多勢寄ってきて、ボールペン、ガム、タバコなどをねだる。若者が声をかけてきて、タバコや電卓がないかと聞かれたこともある。また、列車のデッキで音楽のテープを聞いていると、若者が寄ってきて、カセットをルーブル貨幣で買いたいと言う。日本ではどこでも安く手に入る日用品が極度に不足していることを実感した。

 一方、野菜や果物も不足気味。入ったスーパーにはジャガイモと玉ネギだけが置いてあり、生野菜や果物がない。市場や街頭では売ってはいるが、高い。パンが1ヶ20円なのに、小さなリンゴが1ヶ220円、キュウリが1本250円もした。

・秘密主義
 秘密主義といった雰囲気がいたるところで感じられた。 
たとえば、列車の走行中、外を見せないように窓の覆いを下ろすことがあった。 
また、途中の駅で降りて写真を撮っていると、外套を着た警察官風の人にジロリとにらまれた。監視をしているようだ。
 
 市場に行って、果物や花が並んだところを写真に撮っていると、数人のおばさんが「写真を撮ってはダメ」というジェスチャーをしながら寄ってきた。
川を渡る鉄橋の両岸には必ず監視所があり、兵士が銃を持って立っていた。
 これらはソ連の暗い一面である。

(モスクワ見物)
 30階以上はある豪華な「ホテル・コスモス」に宿泊。外国人と金持ち専用のようで、玄関の出入りは厳重に管理されており、我々は宿泊カードを示して出入りした。

 市内ツアーでは、赤の広場聖ワシリー寺院レーニン廟クレムリンモスクワ大学などを見て回る。
赤の広場の一郭にある黒い大理石風のレーニン廟の前には衛兵が二人立っていた。このあたりをレーニンが歩いたのだと思うと、胸にぐっとくるものがあった。

 夜は同室の朝日の記者と二人でモスクワの地下鉄を乗りにいった。エスカレーターは褐色。駅は大理石造り。宮殿のように豪華。

 夜は民族料理のお店「アラグビ」へ。隣に座った若いロシア人夫妻から声をかけられ、住所を書いてもらい一緒に写真を撮った。
翌朝も同室の人と二人で散歩。団地を通り、ソコーリニキ文化と休息公園へ。
公園内の道は舗装されていない。土のまま。その道を通って近くの駅へと急ぐ通勤の人達。白樺の新緑と白い幹が朝日に映えてとても美しかった。

(大河・アムール川)
 アムール川、別名・黒竜江は、モンゴルに端を発する延長4444km、長さが世界で8番目の大河であり、ハバロフスクでは対岸・中国までの河幅が3kmにも達する。

 名古屋から空路、ハバロフスクの「インツーリストホテル」に夕方到着。早速、ホテルの裏手のアムール川に散歩に出た。対岸が見えないくらいに広い。船着場からは沢山の舟が発着。船は市民の交通の足のようだ。釣りをする少年に会う。なまずを釣っていた。

 翌朝は川岸を上流にジョギング。町を抜け、点在する農家のほうまで駆けていったが、犬に吠えられ、びっくりして引き返した。そういえば、ハンガリ-ブダペストでも、ジョギングをしたことがある。

(おわりに)
骨太で、あら削りのロシアの風土」、「親切で暖かいロシア人」というのが旅の印象である。
ふと気がついて、インターネットで調べてみると、私が乗ったハバロフスク-モスクワ間の当時の1等寝台料金は約30,000円(2等15,000円)と聞いたが、今では1等224,000円(2等123,000円)とある。ずいぶん高くなったものだ。それだけロシア経済が成長したということだろうか。
夢の一つ。列車でヨーロッパまで旅をしてみたい。

 明治37年に開通して以来、この列車に乗ってヨーロッパまで旅をした日本人もかなりいたことと思うが、私も「北京-モスクワ-ベルリン」などを列車で走ってみたい。2008年4月の今、北京-モスクワ間は1等131,000円(2等84,000円)、モスクワ-ベルリン間は1等53,000円(2等39,000円)とある。

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山への思い

山への思い

◎ 登山は挑戦(「登山および旅行記」の一部)
 人が山に求めるものはさまざまであろう。雄大な自然を求めて、あるいは里山のどこか懐かしい雰囲気を求めて山に入る人がいる。
 また、未知の世界を歩きたい、絵を描きたい、写真を撮りたい、あるいは仲間との語らいを楽しみたい、瞑想にふけりたい-といった思いの人もいる。
でも、山の懐(ふところ)は限りなく広く、それらのすべてを受入れてくれる。そこには、人それぞれの山の楽しみ方があり、どれがよくて、どれが悪いということはない。

 そんな中で私が登山に求めるのは、「挑戦」の対象としてである。
自分のレベルぎりぎりの山にチャレンジすることは、人の心をリフレッシュさせる。力の限界に挑み、困難を乗り越えて何かをやりとげようとすること、それは人の心を夢で満たし、わくわくさせる。それは日常の生活をも活性化する。

 人生には、会社組織の歯車の一つに組み込まれて自分の努力の結果が見えないものや、先の見通しがないままに何年も粘り続けなければならないものがあるが、登山や冒険旅行では、自分の努力が成功に直接結びつくし、がんばる期間が限られていて、終わった後には快い休息が待っている。

◎ 単独行
 私は、独りで山に行くのが好きだ。マイペ-スで山頂をめざす。普通、2-3時間は休まずに歩く。誰もいない山の中、山はいろいろな姿をみせる。
夏の塩見岳-森に朝日が差し込み、露を宿した木々の葉がキラキラと輝く。
飯豊連峰-初秋の暑い日差しの中、無数の、それこそ数千という赤トンボが山肌に群がる。
朝日連峰-山道に人影はない、地平線が赤く染まり、薄闇の中に山が沈む―――。これらが発する何かが心にしみ込み、心を包む。爽快さ、ものうさ、なつかしさ、深い落着き---。景色に応じて、いろいろな感情が心をよぎる。

◎ 登頂したときの喜び
 山頂に立ったときに得られる満足感の大きさは、山の難しさと自分の力量との差に比例する。普通の人には易しい山でも、高齢者にとっては難しく、登ったときの満足感は大きい。逆に、普通の人にとっては難しい山でも、ハイレベルの技術を持った人には全くつまらない山に感じるであろう。

 マッキンリー。それに登ることは8000峰に挑む一流の登山家にとっては足慣らし程度にすぎないが、私にとっては、全力を尽くしやっと登った山であり、その満足感は極めて大きかった。

◎ 海外登山に行ける人は少ない。私は幸運(「登山および旅行記」の一部)
 海外登山には、お金と休暇と健康、それに家族の了解が必要である。
勤めている人にとっては、マッキンリーは最低でも2週間の休暇が必要であり、私は1ケ月近くの休暇を必要とした。
エベレストの場合は3ケ月が必要であり、この登頂に成功した知人は職場を辞めて参加している。

 私の場合は何とかそれらの条件を満たすことができた。
日本には、登れる力が充分あるのにこれらの条件が整わず、海外の山に行けないという人が数多くいる。今、振り返ると、そんな中で、私は本当に恵まれていたと思う。それを考えると、海外登山に行ったことを得意気に話すのはチョッピリうしろめたい気がする。

◎ 登頂に成功するには
 登頂に成功するには、体力と技術のほかに、高山病対策がうまくいくこと、天候に恵まれることが必要である。その上、良き指導者(高山病対策等の)に恵まれれば更に良い。

 高山病対策。それには、事前に体力をつけ、富士山に数回登るなどして、できるだけ高度に慣れておくこと(密室の入り気圧を下げて高度順化をはかる方法もあるという)、登山中はゆっくりと登ること(キリマンジャロでは自信がなくて、いつも最後を歩いていた人が登頂当日は一番で山頂に達した。

 逆に前日までは飛ぶような早さで元気良く歩いていた若者が登頂当日はふらふらになってしまった)、高所への登り下りを繰り返すことで体を慣らすこと(私は小屋に着くと、その日のうちに更に数百m登って体を慣らした)、水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。

 成功の最後の鍵は天候に恵まれること。これは晴天を神に祈るしかない。マッキンリーでは、「悪天候で登れなかった」と言いながら下りてくる、いかにも登山のベテランと言ったたくましい外国人登山者に何人も会った。
アタックキャンプで晴天を待つのだが、食料が尽きてやむをえず下りてくるのである。夏のマキンリーで晴れる日の確率はほぼ50%であり、その他の日は吹雪いている。私の場合、アタックの日は最後まで晴天・無風という好条件に恵まれた。

◎ 仲間と行く登山
 私の登山は「挑戦」である。単独行が多い。
 でも、登山には仲間と一緒に行き、喜びを共有するという楽しみもある。
親しい友人と行くときは、会話も楽しい。心が解放される。
昔、登山の経験があまりない職場の仲間数人と行ったときは、山のすばらしさを知ってもらい、その人達が喜んでいるのを自分も感じ、喜びを共有した。山頂に到達し、眼前に広がる景色を一緒に眺めながら「どう、すばらしいだろう」と誇ってみたい気持になった。

 最近は単独で行くことはほとんどなくなった。1年に一度行くかどうかである。
年に30回位は行くが、すべて、視覚障害の方をサポートしての登山である。でも、その人達が登山を楽しんでいるのを自分も感じ、その喜びを共有している。

 視覚障害の方の感覚は晴眼者以上に鋭い。林を抜けて峰を渡る風を肌で感じる。ふわっとした土や落ち葉で埋まった道、残雪で凍った道を足で感じる。鳥の声や風の音を聞く。木の間から差し込む日差しに季節を感じる。
ときには、大きな木や小さな花に手を触れて、その感触を楽しむ。登頂できたときの「やったー」という達成感は格別のものがある。木立のない山頂では、音の反響がないので、周りに何もない天空に立ったという解放感に包まれる。仲間との会話も楽しい。そんな喜びを私も共有している。

◎ 人間の不思議さ
 単独行の山は、自分のために行くものであり、人のためではない。また、自分のためと言っても、衣食住を手に入れるためではない。素人のスポ-ツは全て、そうであろう。しかも人間は、それをやり遂げたときに、涙を流すほどに感動する。また、それをみた人間も感動で胸を震わす。オリンピックでの優勝などはその最たるものである。

 それは人間だけの特徴だ。ほかの動物にも、たとえば、鳥が大空を舞うのを楽しむように、運動を「楽しむ」という習性はあると思われるが、それに「全力で挑戦する」ことはないであろう。
大昔の、人が生きるために必死であった時代には、人間もこのようなことをしなかったのではないか。今は、仲間を守るためでもないし、衣食住を得るためでもない--ある意味では無益な行為に、人は敢えて挑戦する。ときには命を懸けて。

 人間社会が生み出してきた文化というものの意味がここにはあるように思う。衣食住が満ち足りたとき、人が求めるものは? なぜ求めるか? スポ-ツ、絵画、音楽に共通するのは、何かすばらしいことをやり遂げる喜びである。
それに参加しない者にも、観戦し、鑑賞するという楽しみがある。また、絵画、音楽には、物事の意味を解釈するという楽しみもある。人間は生きることを充実させるために、これらを行う。

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キリマンジャロ登頂記

キリマンジャロ登頂記

1991年8月3日(土)-8月14日(水)
注)この部分は登頂時の詳細記録です。ツアー全体の記録はこの詳細記録の後に綴ってあります。

写真を掲載します。先に写真を見ておくとイメージがわきます。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/FEsqqJ?authkey=NfRzvrK2-YA


 アトラストレック社のツアーに参加。インド航空を使ったので、インドのボンベイ(現・ムンバイ)に行きと帰りにそれぞれ1泊し、ケニヤから入る12日間の旅である。
 
参加者12名のほかに旅行社から添乗員が1名同行し、登山中も世話をしてくれた。

キリマンジャロはたいへんゆったりした山であり、岩登りや雪山等の登山技術を全く必要としない。
また、登山中はすべての荷物を現地雇いのポーターが持ってくれるので、重い高山病にならなければ、6000mに近い高さがあるが、誰にでも登れる山である。

日本で登山店の人が「あの登山は本来の登山とは言えない。荷物を持ってもらい、3度の食事を作ってもらう優雅な大名旅行だ」と言っていたが、高山病との闘いという点では間違いなく登山である。

<登頂の日>

 前日は午後7時に就寝。小屋は暖かい。ぐっすり眠り、午後11時に起床。

 登頂当日、一行13人と現地のガイド5人は真夜中の0時30分キボ・ハット(4700m)を出発した。
同宿した約100人の登山客(登山を終えた人はここには泊まらないので、すべてが頂上を目指す人)の中では早くスタートしたほうである。真っ暗。月はない。

 登山口からここまでの3日間は、平地を歩くようなゆるやかな登山道だったが、ここからは富士山と同じような、小さく砕けた岩でざらざらした斜面をジグザグに登る。

 上や下で懐中電灯の光がいくつもチラチラしている。1時間位は順調に登ったが、だんだん足が重くなり、10分ほどの休憩を何回かとる。

 ゴアテックスの雨具兼防寒着を着けていたが、すごく寒くて震えが止まらない。マイナス10度位か。
日本から持ってきた薄いダウンのジャケットも着る。それでも寒い。しかも、腹痛が始まる。
緊張のためだろうか、それとも高山病対策の利尿剤を飲んだせいだろうか。赤道直下だったので、防寒対策を軽視したのはまずかった。

 ツアー仲間の女性が一人、寒がっている。男性は皆、衣服や水筒の入ったザックを自分で持って登ったが、女性はザックをガイドに預け、空身で登る人が多かった。

 その女性はガイドと暗闇の中ではぐれ、ダウンの上着を取り寄せることができないという。とりあえず、私のザックに入っていたトレーニングウエアを貸す(2007年に行った女性の話では、今は、お金を払えば山頂まで同行する専用のガイドが雇えるということだ。帰りの斜面では、彼は、疲れて動きが鈍った彼女を抱えるようにして下ろしてくれたという)。

 3時間を過ぎる頃から、歩くのがきつくなった。懸命に足を前に出す。空気が薄い。皆にやっと付いていく。とにかく寒い。

 ガイドが「あと40分」という。岩場になった。
やっと「ギルマンズ・ポイント(5682m)」に着く。ふらふらである。最後の40分の何と長かったことか。
ここは山頂のお鉢の一角。とりあえず、山頂にはたどりついた。

 疲れた。「お鉢の向こう側にある最高点のウフル・ピークに行くのはあきらめよう」と思う。
そこまで行く気力を失ってしまった。13人のうち、11人が到着。6時5分。まだ、日の出前。

 ところが、30分ほどそこで休んでいたときのことである。ご来光を迎え、マウエンジ峰の左手の雲の中から太陽が顔を出した。
ぱっと日がさす。暖かい太陽の光を浴びて、体が急に温かくなり、再びウフル・ピークを目指す気力が湧いてきた。太陽が私に元気をくれたのである。

 9人がチーフガイドのリビングストン氏に先導されて出発。お鉢のふちを歩き始める。初めはゆったりした下り。元気よく歩く。しかし、登りにかかると急に苦しくなり、また、足が重くなる。

 登山道に雪がないが、お鉢の外側斜面にはぶ厚い万年雪が見える。厚さは20-30m位か。日が昇り更に暖かくなる。
苦しい。ともかく一歩一歩、懸命に足を前に出す。延々と2時間近くを経過。ピークに出て、登りきったと思ったが、まだ山頂ではなかった。

 平らな地面には出たが、山頂は水平のはるかにかなた。やっと山頂にたどり着き、「ウフル・ピーク(5896m)」の標識の下に倒れ込む。

 私は3番目に着いた。昨日までは元気で、先頭に立っていた若い男性2人は、このあとふらふらで到着。彼らは、登頂ができたら乾杯をしようと缶ビールを持ってきていたが、気分がすぐれず、飲むことはできなかった。

 ビックリしたのは、前日までは登れるかと誰よりも不安がり、いつも後方を歩いていたもう一人の若い男性がトップで到着したことである。最も弱いと見られていたのに、トップで登頂するとは。

 登山では、毎日ゆっくりとマイペースで歩くことが成功の鍵のようだ。添乗員も入れて8人がウフル・ピークの登頂に成功。

 記念写真を撮ったあと、2時間をかけてギルマンズ・ポイントに戻る。午前10時、遅れていた女性2人がガイドと一緒に登ってきた。
ギルマンズ・ポイントまでは全員が登頂したことになる(聞くところでは、一般にギルマンズ・ポイントまで行ける人は全体の2/3、ウフル・ピークまでは1/3という。我がグループの登頂率は高いほうだ)。

 ここからはザラザラな急斜面の下り。はるか下に今朝出発したキボ・ハットの屋根が見える。疲れていない人は飛ぶように駆け下りていく。私もガイドに促され駆けおりたが、すぐに動けなくなった。
下りなのに足が前に出ない。一歩も動けないのだ。あとは、休み休み、ゆっくりと下りていった。

 この日はホロンボ・ハット(3720m)まで下る。13時着。

<全行程>

1991年     (現地時間)

8月3日 成田   12:20発 インド航空
     ボンベイ 22:00着 セントール・ホテル泊。

  4日 ボンベイ 16:00発 ツアー仲間と周辺散策。
     ナイロビ 19:20着 ジャカランダ・ホテル泊。

  5日 ナイロビ  9:00発 
  大型ジープで草原を走る。遠くにキリンやダチョウを見る。
     マラング 16:00着 キボ・ホテル泊

  6日 

 晴れ。車でマラング・ゲートの登山事務所(1800m)へ。9時着、9時40分登山開始。現地のガイド5人と約20人のポーターが一緒。

 現地でのあいさつは「ジャンボ」(こんにちは)、「ポレポレ」(ゆっくり)など。密林の中、平地に近い広々とした道を行く。3時間でマンダラ・ハット(2727m)へ。宿泊。3時のティー・タイムはビスケット。

 宿泊施設は2段ベットで4人用の三角屋根の小屋。太陽電池使用。
食事は大きなメインハウスで。固い肉、牛タン、スパゲッティー、バナナ、パン、野菜いため。

  7日 

 8時スタート。晴れ。30分で密林を抜け平地に近い草原へ。初めて、雪を頂くキリマンジャロを望む。

 延々とゆるやかな道。ポーターが作ってくれた昼食のサンドイッチを食べたりしながら、のんびりとした気分で歩く。14時40分、ホロンボ・ハット(3720m)着。高所順応のために更に仲間数人と1時間ほど登る(ここに2泊して高度順応をはかるツアーもあるもよう)。

  8日 

 8時10分スタート。晴れ。傾斜のゆるい荒野を行く。初めは草があったが、後半は草もない砂礫帯(固い砂漠のようなところ。サドルという)になる。曇って寒い。

 14時30分にキボ・ハット(4700m)着。また、晴れる。皆は寝ていたが、高所順応のため、一人で5000mの黄色い標識のある所まで登る。15時50分着。このまま、頂上まで行けそうに思えるほどに快調で、登頂への自信が湧いてくる。周囲には全く人影なし。

 マウエンジ峰が夕日をあびて赤く輝く。小屋まで20分で駆け下りた。

  9日 

 登頂日
詳細は上記のとおり。登頂後、ホロンボ・ハット(3720m)へ。

 10日 

 
5時45分起床。7時30分スタート。雨。マラング・ゲート着11時。
登頂の日にやっとギルマンズ・ポイントまでたどりついた女性の一人が、体力を使い果たした模様で、夕方になって到着。車でアルーシャへ。
     
 マウントメルー・ホテル泊。

 11日 

 車でナイロビへ。タンザニアからケニアに国境を越えところには、みやげ物を売る現地の人が一杯。しつこくまとわりつかれる。ナイロビでは高級レストランで肉の昼食。市内見物。

 20:45発 インド航空。

 12日 

 ボンベイ 5:15着。市内観光。セントール・ホテル泊。
8月13日 ボンベイ15:15発。14日 成田 8:30着。

<その他いくつか>

(高山病対策)
 よく言われていることだが、次のようなことが考えられる。

1)行く前に富士山に登り、高所に慣れておく。私は7月に3回登った。日本には有料だが、高所を経験できる施設もあるもよう。

2)登山が始まったら、どんなに元気でも、ゆっくりと歩く。苦しくなったら、深呼吸をし、酸素を充分にとる。

3)宿泊地に着いたら、当日中に1時間程度登っておく。

4)水を充分に飲む。

5)利尿剤を飲む。ただし、胃には負担となるが。

(奇遇・添乗員のSさんとの出会い)

 奇遇だったが、添乗員のSさんは、私の知人と知り合いだった。
それが分ったのはキボ・ホテルで私の知人に絵ハガキを出そうとしたときのこと。

 たまたま、そばにいたSさんがその宛名を見て「その人、僕の親友」と言うのである。びっくりした。

 私の知人とは、私が仲人をしたKさんである。小さい頃、多摩川で魚とりに行くときは、いつも彼をお供に連れて歩いた。そのKさんがSさんの親友とは。

 二人は若いころに同じ山岳会に入って山に行った仲間だが、今も付き合いがあるという。
SさんはK2にも挑戦し、山頂直下数百mの地点にまで達した山のベテランである。

 帰国後、3人で懇親の機会を持ったが、SさんはKさんの結婚式に参加していたということだった。

(インドを見る)

 旅の途中、インドに立ち寄りその実態をほんの少し見て、衝撃を受けた。何という貧しさ。

 ボンベイは大都会なのに、貧しい人達が溢れていた。中心街に通じる車道の所々にゴミの山があり、その中から何かを拾おうと群がる子供達。ビルの壁に添って黒いビニールをテント状に張って暮らす人達。ビニールシートの上では赤ん坊が寝ていた。

 赤信号で車が止まると、物乞いがどっと寄ってきて手を差し出す。公園には、働き口がないのか、若者が生気のない顔でずらっと座っている。

 2008年の今もそうなのだろうか。その後、中国、タイ、ベトナム等を旅したが、これほどの貧困には出会わなかった。

 世界は広い。

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挑戦 その1 ジャンダルム

(挑戦・その1)

<西穂-ジャンダルム-奥穂-北穂・単独縦走>
1993・8・24(火)-26(木)           
                                     
 これまでの夏は毎年、思い出に残る、自分にとっては大きな山行があった。

 1990年は息子との槍ヶ岳登山、南アルプス5日間単独縦走(三伏峠-畑薙ダム)、1991年キリマンジャロ登山、1992年栂海新道3日間単独縦走(朝日岳-親不知海岸) などである。

 ことし1993年の夏も、いくつかの山に登った。

・職場の人15人と富士山へ。職場で研修中のドイツの女性Bさん、韓国の男性Fさんなども一緒だった(7.31-8.1)。
                         
・視覚障害の人3人、子供4人を含めて20人と富士山へ。全盲で高齢のSさんが前から富士に一緒に登ってほしいと強く希望していたので、さそって一緒に参加したものである(8.21-22)。

・富士の山麓・愛鷹山での、東京・京都・大阪の視覚障害者山の会の人達との交流登山に参加(8.27-29)。

・ジャンダルム単独行(8.24-27)。                    
などである。
                           
 このうち、ことしのメインは、なんといっても、ジャンダルムの単独行である。「西穂-ジャンダルム-奥穂縦走」は、一般登山の中では危険度が特に高いといわれている。
 
 山に打ちこむようになって10数年が経つが、昨年までは、「ジャンダルム」は自分の力の範囲を越えていると思って、行くつもりはなかった。それが行くつもりになったのは、ロッククライミングの練習を4回ほど積んだからである。

 これまでは、断崖にある厳しい岩場のトラバ-スと垂直に近い鎖場の下降が安全にできるか自信がなかった。
しかし、ロッククライミングを練習するうちにだんだんと「足場さえあれば、今の自分の技術で可能なはず。しかも、一般道だから、必ずしっかりした足場はある」と思えてきたのだ。

 そのほか、ことし、すぐにでも行こうと思ったのは、これからは年月が経てば経つほど体力が衰える一方であり、体力的に何時行けなくなるか分からなかったからである。

 ことしの夏は晴れの日が少なく、一度は休暇届を出したものの、天候不順でとりやめにし、結局、1ケ月近く待った後、やっと快晴との天気予報がでたので出発した。
 
 前日に上高地から西穂山荘に入る。夜は同宿の人達と「ジャンダルム縦走で危険な箇所はどこか」「どう乗り切るか」という話で盛り上がった。
 西穂山荘を出発したのは午前3:45。危険な上にロングコースなので早立ちとした。

 まだ真っ暗。快晴を約束するように満天の星空。               
荷はできるだけ軽くした。重いのはニコンのカメラと水1.5Lのみ。         
西穂まで、標準のコースタイムでは2時間半のところを2時間で歩く。

 西穂山頂からしばらくの間も、快調だった。長い鎖を掴んでの垂直に近い下降が一箇所出てきたが、難なく越えた。
最初のピークは間の岳だが、まだかと思っているうちに、気付かずに越えてしまった。
天狗岳の登りは逆層である。雑誌「山と渓谷」に載った写真で見ると、垂直に近く危険に見えたが、実際には傾斜は緩く、これも鎖を伝って簡単に登れた(写真は、ときには嘘をあたかも真実のように見せる)。

 案内書には危険と書かれているような箇所がいくつかあったが、実際に行ってみると、怖さはほとんど感じなかった。
高い断崖の上のトラバ-スが数ヶ所あったし、10-15mの垂直に近い鎖場の下降も2ケ所ほどあったが、しっかりとしたホ-ルドとスタンスが必ず見つかり、怖さは感じなかった。
下降の場合、これらを見つけるには、上体を岩から離して下を覗き込まなければならないが、それもスム-ズにやることができた。
           
 ただし、不安を全く感じなかったわけではない。西穂-奥穂の標準所要時間は6時間40分と長く、その間は、ほとんど緊張の連続だった。だんだんと疲れて、頭がボ-っとしてくると、「こんな時に事故が起こりやすいのだ」と思いはじめ、それが頭にこびりついて、なんとはなしに不安になった。
危険とはっきり分かる箇所では、神経を集中するので、不安はなくなるのだが、やや緩やかな箇所になると--そんな場所でも、つまずいたり、滑ったりすれば、転落する危険が充分あるので--不安が逆に強まる。
後半のジャンダルムのあたりで、そんな思いにかられた。

 両側が数十m切れ落ちた「馬の背」では、もう一度気をひきしめて、これを乗り越えた。そこから数分で奥穂の山頂。
ここはもう、一般ハイカーの領域であり、登山者で混み合っていた。空はあくまでも青く、8月末なのに昼の日差しが暑い。ほっと一息ついて、居合わせた人に記念写真をとってもらった。
                              
 30分で穂高山荘着。12:30である。食堂でウドンをたべる。去年も職場の人と来た懐かしいところだ。思い出がある。
さて、どうするか。北穂まで行けるか。時間は充分にある。しばらく迷った後で、「ヨシ」と行く決心をして、日差しが暑い外に出る。
13:00。涸沢岳への登りは普通なら簡単なのに、暑さと疲れが重なりきつく感じて、足が前に出ず、若い女性のハイカーに追い抜かれてしまった。

 涸沢岳からの下り口は、いきなり鎖の急下降だった。人が登ってくるので、待っていると、年輩の女性が男性にサポートされながら、やっとという様子で登ってきた。
自分も下を覗き込み、足場を確認しながら鎖につかまる。真下を見ると、遙か数百m下の涸沢のガラ場が目に入るが、自信も出てきて、それほど怖くはなかった。

 ここから数ケ所、鎖場があったが,最初のものほど急ではない。幾つかの鞍部を通過し、今度は登り。
沖縄から来たという小学6年生の一団に出会った。先生も素人とのこと。危険すぎるので、「ここから先は行かないほうがよい」と注意をする。

 16:15に北穂小屋着。小屋は小さく、満員。登山客のほとんどは外に出て、夕日に映える槍穂を楽しんでいた。

 翌日は涸沢からパノラマコースへ。初めてのコース。屏風のコルからの槍の眺めは抜群。お花畑を徳沢へ下る。林の中に、小説「氷壁」のモデルとなった「ナイロンザイル切断事件」の石碑が苔蒸して建っていた。

 帰ってみると、どの指先にも血豆ができており、2、3日で皮がむけた。

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挑戦 その2 北鎌尾根

(挑戦・その2)

<北鎌尾根と船窪乗越へ>1995年8月9日(水)夜行-16日(水) 
  
≪針の木雪渓-船窪小屋(泊)-船窪岳-烏帽子小屋(泊)-高瀬ダム-湯俣(テント泊)-北鎌沢出合(テント泊)-北鎌尾根-槍ケ岳-槍ケ岳山荘(泊)-鏡平小屋(泊)-奥飛騨温泉郷-帰京≫   

 私にとって、ことし1995年の登山のメイン・イベントは北鎌尾根である。

 多くの登山者が憧れ、登りたいと熱望しているルートのひとつに入る。あの新田次郎の小説「孤高の人」の主人公・加藤文太郎が厳冬期に遭難したところであり、また、松涛明が同じく厳冬期に、疲労で動けぬ友人を抱え遺書を書いて死んでいったところでもある。
そのためか、厳しくて危険の多いルートという印象が強い。

 私は夏にこのルートを、山岳ガイドを頼んで登った。私にとってガイドを頼んだのは初めての経験である。

 ガイドは、世界第二の高峰「K2」にも登った俵谷さん。雑誌「山と渓谷」で知って頼んだ。ガイド料は6万円。

 私のように体力と技術に不安のある者にとっては、ガイドを依頼したのは正解だったようである。これで不安感が拭われて、気持良く登ることができた。

 ところで、今回このルートを選んだのは、いくつか理由がある。

 第一の理由
 山仲間のmzさんと来年は、2-3級の岩壁を6時間ほど登り続けなければならないスイスのマッターホルンに登ろうと約束した(結局は行けなかったが)。
そのためには、国内でいくつか岩を登って訓練しておく必要がある。その訓練の最初として、このルートを選んだのである。

 第二の理由は、年に一度は自分のための登山をしたいと思っていること。

 最近は何人かの人達と一緒に山に登ることが多い。六つ星の視覚障害者をサポートして、あるいは職場の人を案内してである。

 しかし、それは自分のための登山ではない。それらとは別に、今までに登れた山よりはひとつ水準が上のところ、自分の力量から見てぎりぎり登頂が可能な山に挑戦してみたいという気持をいつも持っており、一昨年はジャンダルムに、昨年は黒部下の廊下へと挑戦した。
それが今年は北鎌尾根である。

 また、今回は、北鎌尾根の外に、単独行による船窪-烏帽子縦走も加えた。こちらは、北アルプス全山縦走を完成させるためである。これが今回の山行を企画した第三の理由

 一昨年にジャンダルム縦走、その前年に栂海新道縦走(北アルプスの北端。親不知海岸まで)を行ったことで、北アルプス全山縦走の残りは、種池小屋-船窪-烏帽子の間だけとなった。
このうち、船窪-烏帽子の間は登山道の崩壊が激しく、案内書では北アルプス縦走路中の難路とされており、今までは行くことを躊躇していたルートである。
いや、行かないつもりであった。それが、先月・7月号の「山と渓谷」に、船窪-烏帽子間はそれほど危険はないと紹介されていたので、急に行く気になった。
                    
 <北鎌尾根>
                       
 北鎌尾根はテントによる2泊3日の山行である。
先にいくつか感じたことを挙げておこう。

 道はわりとはっきりしていた。水俣川を遡る川沿いの道は笹に埋もれていて分かりにくかったが、尾根への取りつき点から上のルートは一般の登山道と同じくらいに踏み跡がはっきり付いており、案内なしでも迷うことはなさそうに思えた。

 険しさはジャンダルムと同程度。ただし、危険箇所でも鎖や梯子が一切ないこと、それとシュラフ、食料等テント泊の荷が加わるために背中のザックが重いことなどがジャンダルム縦走とは異なる。

 荷物については、テントと食料はガイドが用意し持ってくれたが、シュラフやヘルメット、ハーネス、防寒着、水(2L)などは自分で持たねばならず、ザックの重さは15kgはあったろうか。かなり重かった。
腕一本の力だけで自分の体とザックを岩の上まで引き上げねばならないところもあり、その箇所では、もう少しで手が離れそうになったほどである。

 登った結果から言えば、このルートは、岩登りのエキスパートでなくとも、体力さえあれば、ガイドなしで登攀は可能であろう。
ロッククライミングの技術に頼るところはほとんどない。ある程度の重い荷を背負って長時間歩けるだけの体力があればよい。

 ただし、私達は、独標槍の穂先への登攀では、通常のルートを行かずに、ガイドとザイルを結んで岩を直登するルートを採った。私達にロッククライミングの面白さを味わせるために、俵谷さんがサービスをしてくれたのである。

 (北鎌尾根・第一日)
 
                        
 2日前に針の木の大雪渓から登り、北アルプスでは難路と言われる船窪-烏帽子を越えてきたところである。烏帽子小屋を午前7時頃に立ち、午前11時前には高瀬ダムに下りてきた。ここで東京から来るガイドと待ち合わせることになっている。
また、山仲間のmzさんもやってくるはずだ。

 コンクリートの堰堤の上に腰を下ろして、ザックに寄り掛かり両岸に高くそびえる山を眺めながら、ゆったりした気分で皆の到着を待つ。今回山行の第一の目的は達成したのだ。
快い疲労感が全身に広がった。

 ときどき観光客を乗せてタクシーが上がってくる。
一行がやってきた。ガイドは3人。俵谷さんと知人のsaさん、それに俵谷さんの弟さん(青森の高校の先生)。客は4人。
船橋で手打ちそば屋を開いているというenさん(私と同年の57才)。冬の上高地に入り一人でテントを張るという40才代のskさん。それに、mzさんと私。
自己紹介をしあって早速出発。私にとっては今回山行の第二の目的への出発である。船窪越えの後なので、体力が続くかとやや不安があるのだが。

 きょうは湯俣荘まで。ただし、ことし7月の豪雨で、このあたり一帯はかなり被害を受けており、湯俣荘は閉鎖中とのこと。

 高瀬川沿いの車道を延々と歩く。人家は全くない。
2人の登山者とすれちがう。湯俣温泉まで遊びに行ってきたという。
湯俣荘に着く手前で橋が落ちていた。約3時間で到着。
広々した川原にはテントがいくつか。我々もテントを張る。
早速、mzさんと川原の中央を流れる清流に行く。深さは50cm位。着く前から2人で川に入ろうと話をしていたのだ。パンツひとつになり、夕日の中、澄んだ水の流れで体を洗い、ついでに頭も洗う。なにか嬉しい。日頃できないいたずらをやっている気分。水はそれほど冷たくない。

 次に、川原のあちこちに掘られた露天風呂を探検。掘ればどこからでも湯が湧くので、登山者が掘って作ったもののようだ。底に泥や湯垢がたまっているものが多く、気持ち良く入れそうなものがなかなか見つからない。
やっとひとつ見つけた。浅いので、体を横にしないと全身が温まらない。喜んで二人で入り、自動シャッターで記念写真を撮った。

 夕食のとき、他のテントの住人が一人、話に来た。「いつもは山に登るのだが、今回はここで三日ほどのんびりするためにやって来た」という。変わった人だ。持ってきた酒が底をついたので、一杯飲ませてくれないかとのこと。
そういえば、ここは山の奥の奥。人里に出るには歩いて半日はかかるであろう。下界から逃れてのんびりするには最適だ。

  ここから更に10分程歩いた川原に、熱湯がぼこぼこと湧き出したところがあり、彼はそこに露天風呂を掘ったという。何でもみてやろうと早速、mzさんと二人で出かけた。

 崖沿いに吊るされた、角柱2本で作られた桟道を行く。下は激流。今は廃道になった伊藤新道である。岸辺のかなたに硫黄の盛り上がった小山が見えた。熱湯は随所に湧いていたが、彼の掘った露天風呂は見つからない。暗くなってきたので引き返した。

 標高がまだ低いせいか、テントの中は暑くて寝苦しかった。顔だけを外に出して寝る。

 (第二日)
                         
 湯俣川、水俣川の分岐から水俣川の方を遡る。まず急斜面の笹の中を行く。道はやっと分かる程度。ときどき笹藪の中で迷う。

 次いで、千丈沢と天上沢の分岐を左の天上沢へ。
川を向岸へ渡ることになった。川幅は20m程か。深さはひざ位。深みにはまれば腰位になりそうである。

 俵谷さんが先に渡りザイルを張る。それを手で握りながら、それぞれ、登山靴をはいたまま渡る。enさんがころんで深みにはまり、胸まで濡れた。
それを見て、私は俵谷さんの弟さんが用意してくれた木の枝を杖替わりに使って慎重に渡る。幸いにしてころばなかったが、靴も靴下もグッショリ。靴下を脱いで時間を掛けて絞る。

 更に谷を遡る。また、渡渉。また、靴下を脱いで絞る。でも、結局、これは無駄なことだった。すぐ後でまた、川を渡り返すことになったからだ。今度は、渡り終わっても、靴に水を溜めたままで歩いた。

 川の淵の岩壁をトラバースするところに出る。向こうまで7-8m位か。鉄のワイヤーが岩に沿って一本渡してあるが、手掛かりとしては充分でなく、更にザイルを渡す。
しかし足掛かりの岩も滑りやすく、向こう側にトラバースするには苦労した。滑り落ちれば激流の中である。やっと渡る。他の人が渡るのを待つ間に、この難所を写真に撮ろうと何枚もシャッターを押した。

 北鎌沢出合に着く。まだ川原は広いが、水はない。予定では、ここから右に折れて2時間の急登で尾根上にある北鎌のコルまで行く予定だったが、上部に水が無さそうなので、ここで泊まることになった。

 テントを張る。まだ、午後4時。時間は早い。
焚き火をすることにして、mzさんをさそい川原に散らばる枯れ木を集めに行く。

 燃え出した火の側に皆が濡れた靴と靴下を置く。
夕食のとき、俵谷さんが、この夏、ダウラギリⅠ峰(世界で第6位の8,000m峰)に行くという話を聞いた。
昨年アコンカグアで私が世話になった労山のKさんの隊も同じ時期
に行くという。ルート工作を協同でするようである。奇遇だ。私が登山で世話になったお二人が別々の隊のリーダーとして同じ時期に海外の同じ山を目指すとは。
そういえば、saさんは、私がアコンカグアに登っていた丁度そのときに、別の隊に参加をしてベースキャンプに来ており、アコンカグアへの登頂に成功したという。また、俵谷さんとsaさんは、来年インド隊に参加し、エベレストを目指すという話も聞いた。
(なお、俵谷さんはダウラギリで登頂後に遭難し、帰らぬ人となった。ご冥福を祈る)
 
 夕食後、しばらくの間、焚き火をかこんで皆で過ごす。
enさんに手打ちそばの作り方の話を聞く。
靴下を枝に吊るして乾かす人も。

 遠くに2組がテントを張った。煙が見える。あちらでも、焚き火をしているようだ。
 
(第三日)
                         
 きょうの行程が長いために、午前4時起床、5時に出発。昨日までの行程は、北鎌への取りつき地点に達するためのものであり、きょうこそが北鎌尾根登攀の本番となる。

 広い川原から分かれ、急傾斜の北鎌沢(右俣)を約2時間で一気に登る。たどりついた尾根の上は20-30m四方の広場。「北鎌のコル」という。ここからは尾根伝いだ。
ザイルをつける。saさん、私、mzさんがひとつのザイルで結ばれた。道の両側は、はるか谷底へと落ち込んでいるが、道幅は1mはあり、踏み外す危険はほとんどない。
それに、ザイルで結ばれているので、怖さは感じない。

 快晴。深く濃い青空が広がる。朝日がまぶしい。
疲れがたまり、足が重い。休憩のたびに、アメをなめチョコレートを食べる。果物味のチューブ入りのカロリー補給食も食べた。
それらを一口食べると、また歩く力が湧いてくる。疲れがひどい時には、食べた物がすぐに活力に転化するようである。

 尾根の上の踏み跡は明瞭。普通の登山道に近い道がついている。
独標の下に到達。通常のルートを離れて直登することになった。
俵谷さんがザイルを張る間、ザックを下ろして待つ。断崖の上である。ザイルを解かれたので、急に怖くなった。
遙か数百m下に谷川が光って見える。踏み外せば、あそこまで一気に落ちるだろう。

 あとから来た一組が追い抜いていった。彼らはザイルはつけず、通常の一般ルートを行くようだ。

 3ピッチで独標の頂きに出た。こちらのルートもほとんどは急傾斜のガレ場であり、ロッククライミングを必要としたのは、取り付き点からの、数mの登り一箇所だけであった。  
はるか遠くに槍の穂先が見える。

 独標から、いくつか岩稜を越えて、北鎌平へ。ここも広い。稜線でテントを張っている中年の夫婦がいた。槍を越えた向こう側は登山者で大混雑しているので、ここに留まり静けさを楽しんでいるのだという。彼らのほかには誰もいない。

 槍の穂先へも、一般ルートを行かずに、直登ルートをとった。取り付きは高さ5m程の垂直に近い岩場。ザイルを着ける。
2m位の高さに横に走る細い裂け目に爪先を入れ、岩を抱えながら右回りに上へ登ろうとするが、上部に充分な手掛かりがなくて、なかなか乗り越せない。
背中の荷が重くて背後に引かれる。一瞬、限界だ、落ちると思ったが、爪先の位置を変えてやっと乗り越した。

 そこから穂先へはワンピッチ。頂上の祠の裏に出る。
前日のテント泊のときに、skさんが言っていた。「昔、槍に登った時に、山頂の祠の向こう側は断崖になっていると思っていたのに、そこから子供の顔がヒョッコリ飛び出しビックリしたことがある。その子は父親と一緒に北鎌尾根を登ってきたんだ。それを見てから、北鎌を登って頂上の祠の背後に顔を出してみたいとあこがれてきた」と。

 頂上は登山者で一杯。肩の小屋周辺でテント泊の予定だったが、テント場は満員である。やむなく、全員、小屋に泊まる。

 翌日は、俵谷さん等と分かれmzさんと二人だけで双六小屋から鏡平への道をたどった。

 快晴である。前日に登った北鎌尾根を眺めながら、のんびりと歩く。あそこが独標だろうか。休憩時間を多くとり、いろいろと、とりとめのない話をする。双六小屋で休憩。
この頃から雲が出はじめ、遠くで雷が鳴り出す。鏡平小屋で一泊。奥飛騨温泉へ。
午前中に到着。バス停前にある無料の村営風呂で汗を流した。満足感に満たされた。

 三つのコースを一気に回ったために、帰宅してから一週間ほどは疲れが抜けず、朝、出勤するのがけだるかった。


(追加) 
北鎌尾根に登る前の<船窪乗越から烏帽子へ>の記事を掲載します。
                            
 
ここは、北鎌尾根に行く前に縦走。
 案内書には「危険。一般登山者は立ち入らないこと」と書いてあったが、実際に行ってみて感じたのは、それほど危険な所ではないということだった。むしろ、槍穂縦走不帰ノ剣よりは易しいように思える。

 このコースは急登、急下降の連続。結局、危険なコースと言うよりは、体力勝負のコースと言える。

 景色は抜群。北アルプスで第一級の豊かなお花畑、こまくさの大群落、荒々しい断崖絶壁、眼下の高瀬ダムと遙かなる槍ケ岳のとり合わせ、池塘が点在する「烏帽子・四十八池」など見どころは多い。

 (第一日)
 新宿を夜行列車で立ち、信濃大町からバス。5:15に扇沢の登山口に着く。

 霧雨。林の中を行く。この登山が終わった後で北鎌を登るが、その用具としてシュラフ、ヘルメット、ハーネスなども持ってきたために荷は割りと重い。15kg位か。

  大沢小屋を経て、しばらく行くと針の木の大雪渓が始まる。幅は10-20m。長さは200-300m程度か。傾斜はそれほどきつくはないが、早朝の寒さのために、雪面が固く滑りやすい。アイゼンをつけて登る。

 はるか上のほう、雪渓の中で立ち止まっている人がいる。こちらが登っている間、ほとんど動かない。写真でも撮っているのだろうか。近づくと中年の男性だった。
聞いてみると、アイゼンがなくて滑落しそうなために怖くて動けないという。先ほどすれちがったのだが、はるか下を赤い雨具の女性が下りていく。

 あれは彼の奥さんで、彼女のほうが勇気があってアイゼンなしで下りていったとのこと。着けていた4本歯のアイゼンの片方を貸すことにした。差しあげると言ったのだが、どうしても返したいので住所を聞かせてほしいという。住所を教えて分かれる。

 雪渓の登りに必要とした時間は30分程度か。雪渓が終わったところで、下りてくる数組の登山者に会った。

 針の木小屋9:30着。小屋に入り、土間のストーブで暖をとる。着衣はかなり濡れており、やや寒い。座敷では数人の登山者がくつろいでいる。雨できょうは出発せず停滞を決めているようだ。

 コーヒーを飲んで30分後に出発。雨が激しくなった。蓮華岳への登山道は雨に煙り、人影はない。山頂近くはガレ場のゆるやかな斜面。

 登るにつれ、「こまくさ」がぽつぽつと見られるようになった。上に行くほど増えてくる。そして、山頂周辺は、今までに見たこともないほどの大群落。これほど「こまくさ」が多い山は他にないのではなかろうか。

  しかも、ピンク群落の中に白い「こまくさ」をひとつ見つけた。あとで案内書を見ると、蓮華岳で確認されているのは4株しかないという珍しいものだった

 雷鳥には4-5回会った。雨や曇りの日は鷹等に襲われる恐れがないために茂みから出ていることが多いと聞いた。

 山頂10:00発。ガラ場を急下降。鎖場や梯子のところは、荷が重いのでゆっくり下る。北葛乗越に12:30に下り立つ。

 依然として雨。蓮華への登りで一人とすれちがったほかは、誰とも会わないが、体調が良いので不安はない。ここから急登が始まる。荷の重さで息が切れる。

  14:00北葛山頂着。雨がやみ、ときどき青空がのぞく。
  また、下降。登り返して七倉岳山頂船窪小屋に着いたのは15:40。着衣は下着までかなり濡れていた。結局、30分の休憩を含み、10時間30分で踏破したことになる。ほぼ案内書どおりの時間である。

 (第二日)                                  
 きょうは危険の多いところをいくつか越えて烏帽子小屋まで。泊まっていた10人前後の人はすべて同じ道を行くようだ。皆、幾分か緊張している。昨夜は何人かが、小屋の主人に危険な箇所がどこか、どの程度険しいかを尋ねていた。

 5:30小屋発。眼下にテント場。それを過ぎて更に下降。左は断崖で、はるか数百m下に谷底が望める。右側のお花畑の中に道がついている。黄色、ピンク、白、青などの花々。

 船窪乗越からは急登。一人、先を行く中年の人がいた。その人も荷が重そうで、あえぎあえぎ登っていたが、立ち止まり、こちらに道を譲ってくれた。鎖場や梯子のかかった所を越えて船窪岳へは8:00着。周りに木があり、眺望はあまりない。

 ここからまた急下降。ニッコウキスゲの黄色い大群落の中を下りる。その他、いくつものお花畑。花の種類の多さ、豊かさは北アルプス屈指と思われる。

 崖のところで老人が一人休んでいる。荷が重くかなりばてているようだ。こちらも、先に不安があるのでサポートをするわけにはいかない。やむをえず追い越す。

 不動岳への登りは、しばらく左の断崖沿いの赤土の中に道が付いていた。幅30cmほどの道で、その左側に乗れば崩れそう。雨が降れば一層すべりそうだ。昨年夏に、ここで大学生が足を踏み外し、数百m下の谷底へ転落したという。

  不動岳着10:30。槍、表銀座、裏銀座、針の木の山々が周りを囲む。左下に高瀬ダム、
右後方に黒部湖。斜面にこまくさの群落。途中一緒になった人と弁当を食べる。11:00発。

 もうひとつ鞍部を越えて南沢岳に12:30着。ここからの道はゆるやか。池塘が点々と散らばり「48池めぐり」と言われる景勝地を過ぎる。すばらしい。ここには職場の誰かを案内し、このすばらしさを共有したいものだ。

 ここまでで、すれちがった登山者は数組7-8人程度。夏山登山の最盛期だが、このコースに入る人は少ない。

 縦走路から分かれ、烏帽子岳にも登る。ここまで来ると、烏帽子岳小屋から往復して登る人が多い。針金のついた急な岩場あり。

 下りてきた所で南沢岳の方から来た中年の男性と会う。聞いてみると、針の木小屋から10時間で来たという。私の足なら17-18時間はかかるところ。すごい人がいるものだ。

 烏帽子の分岐点から小屋へは30分程度。烏帽子小屋着15:00。
 結局、それほど危険な所はなかった。
がれ場をロープ伝いに登る所、鎖で下降し更に登り返す所、両側が切れ落ちた幅50cm、長さ4-5mの道、不動岳への赤土の登りなどが危険と言えば言えよう。危険の程度は荷の重さや天候の具合にも左右されるが、幸いにして天気には恵まれ、荷も、ばてるほどには重くなかった。

 小屋は超満員。高瀬ダムや野口五郎岳から来た一組50人前後の中高年中心の団体客も
数組いた。

 夕方、小屋のそばの空き地にヘリコプターが飛来。
 これで、北アルプス全山縦走はほぼ完了したことになる。残るは比較的易しい針の木-種池の間のみ

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挑戦 その3 トムラウシ

(挑戦・その3)

<十勝岳からトムラウシへ・縦走>2000年8月6-13日、mzさんと二人で

 行きは大洗より苫小牧へフェリー。6千円、雑魚寝、所要20時間。食事はバイキング方式、ただし、別料金(朝1000円、夕1600円)。お風呂はいつでも入れるし、きれいなサロンもある。広々した甲板で風に吹かれながらの船旅であり、のんびりするには最適だった。

 山は十勝・美瑛岳トムラウシ山の縦走。ルートは小屋のない最奥にあり、テントが必携。
夏の北海道の山では通常、1日、50-100組の登山者とすれ違うが、2日目は3組6人位しか会わなかった。
2日目のコースは人があまり入っていないので、道のかなりは背丈以上の熊笹にビッシリ覆われ、これを体全体で、顔も使ってかきわけて進むのが大変だった。

 長時間、むし暑い穴の中に入っているようなもの。テントはmzさんが持ってくれたが、それでも5日分の食料などで荷は重く、汗びっしょり、体はほこりだらけ、口の中もほこりだらけ。これが1時間以上続くところが数ヶ所あり、本当にまいってしまった。

 3日目にダウン。朝はいつも元気が出るはずなのに、この日は午前10時過ぎに一歩も歩けなくなった。
荷の重さと藪こぎの疲れのほかに、2日目の夕食を抜いたことも原因。テント場で水が得られず食事が作れなかったためであり、水筒にわずかに残る水で一夜を過ごした。

 今回はmzさんと一緒。彼がテントを持ってくれた。ただし、彼は朝と昼を食べないで過ごす男。食事をとらなくとも、元気一杯だった。

 また、今回はトムラウシ山頂へ40分の南沼のほとりで自然の猛威も経験した。幕営指定地ではなかったが、景色が良いうえに、疲れもあって、そこにテントを張った。
当初は、池の冷たい水で体を洗ったり、草むらに寝転んだりして快適に過ごしたが、その翌朝に低気圧に遭遇。テントを張った場所は運悪く風の通り路にあたり、翌朝から翌々朝まで強風と豪雨に見舞われた。

 外に出れば1分間も経たないうちにびしょぬれ。テントをたたんで他の場所へ移動したかったが、作業のために長時間雨にうたれれば、たちまち凍死する危険があったので、1昼夜、寝袋にくるまってじっとしているしかなかった。

 テントは吹き飛ばされそうにバタバタと音をたてる。寝袋は濡れてくるし、やや寒くなる。トイレに行くのは大仕事。都会の生活に慣れてしまうと人は野生味を失い、自然のすごさを忘れがちになるが、いったん荒れたら、自然は厳しい。人が生きるのにまず必要なのは、食物と水と濡れに強い防寒衣であることをあらためて実感した。

 次の日は朝5時半に起床。まだ風雨が強い中、テントをたたみ、縦走を続けるmzさんと分かれ、隣にテントを張っていて知り合った人と一緒にトムラウシ温泉へと下山。途中で晴れて、続々と登ってくる登山者とすれ違う。

 ほとんど休まずに4時間半で一気に山をかけおりた。トムラウシ温泉「東大雪荘」に11時過ぎに到着。帰れるとなると元気が出るものだ。しかし、3時半までバスなし。広々とした豪華な露天風呂(350円)に2回も入り、おいしい昼食(カツカレー)を食べて待つ。この建物は新設できれい。気に入った。また来たいものだ。

 なお、体重を計ると50.8kg。これまで54kgあったのだが。

 帰りは寝台特急「北斗星」に乗る。23000円。要16時間。食堂車の夕食は豪華で、7800円。でも、食べないで、おにぎりで済ませた。
 寝台で手足を充分に伸ばして眠り、食堂車で果物付きの1600円の朝食をとり、サロンカーでのんびり本を読みながら、「北海道の最奥を縦走してきた」という充実感を味わった。風雨のテントとは天国と地獄ほどの違い。

 ともかく、自然の猛威を知り、また、自分の限界を知る、すばらしい旅だった。

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