サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)
サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)
<750km。道は分かりやすく、安い宿もそろっている。2009年・夏>
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1.概要-「ル・ピュイの道」とは
<はじめに>
・2009年6月21日から7月20日まで、サンティアゴ巡礼路の一つ、「ル・ピュイの道」を歩いてきた。フランス中部の「ル・ピュイ」から西端の「サン・ジャン・ピエド・ポ-」までの750kmである。これは東京から岡山までの新幹線の距離とほぼ同じであり、6年前に歩いた「サン・ジャン・ピエド・ポー」から「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」へと続くスペイン国内の巡礼路と合わせれば1500kmを歩いたことになる。
・途中まで友人のMさんに同行を依頼。7月4日まで一緒に歩く。あとは単独行。
・以下はその報告である。この道を歩きたいと思っている人達に参考資料を提供すること、自分の思い出のために記録を残しておくこと、この二つを念頭に置きながら書いてみた(宿や道については、スペイン国内の巡礼路と比較しながら、その特徴を記した)。
・なお、行くに到った経緯と準備の様子は、これまでのブログの記述を参照されたい。
<サンティアゴ巡礼と「ル・ピュイの道」>
・キリストの十二使徒の一人・聖ヤコブ(スペイン名はサンティアゴ、フランス名はサン・ジャック)の墓が発見されたという伝説に基づき、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン西端の町)に小さな聖堂が建設されたのが9世紀。それが大聖堂へと建て替えられて、12世紀頃にこの地への巡礼が最盛期を迎えた。この頃、ヨーロッパ中から年間50万人とも100万人とも言われるキリスト教徒が大聖堂を目指したという。
・今でも当時のままの巡礼路が残り、世界中からこの路を歩く人達がやってくる。
・特にサン・ジャン・ピエド・ポー(フランス国境)を出発点として、ピレネー山脈を越え、スペイン国内を東西に縦断し、サンティアゴ・デ・コンポステーラに到る巡礼路を歩く人は多い。数は年間5-10万人位か。
・歩く人は少ないが、フランス国内にも、この道へと続く4本の巡礼路がある。3本はサン・ジャン・ピエド・ポーで1本になり、もう1本はハカを通りプエンテ・ラ・レイナでそれと合流する。
このうち、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-への道が「ル・ピュイの道」であり、道しるべが整備されていること、詳細な地図が入手できること、安い宿がそろっていること、距離が短いこと(パリからの道はその2倍)などの特徴があり、4本のうちでは最も歩きやすい道と言えよう。
<今回歩いた「ル・ピュイの道」の概要>
・この道は、牧草地やトウモロコシ畑、ひまわり畑、ときには森の中を行く。そして、ときどき小さな町や村を通る。
自然の中を行くというよりは、農村地帯を行くといったほうが当たっている。森の中も歩くが、村の近くにあり、ある程度、人の手が入った森である。
・行程は大きく3つに分かれる。
(1)標高が1000m前後の丘陵地帯を行く前半、
(2)川沿いの観光地を巡る中盤、
(3)低地の農村地帯を行く後半、である。
最初の5日間は標高が1000-1300mの丘陵地帯を行く。いくつもの丘(標高は高いが、上が牧草地になっており、山とは言い難い)がゆったりとつながり、どの丘も登り切ったところは広大な牧草地となっている。その眺めは抜群。丘陵がうねって続き、はるかに10km、20km先まで見渡せる。その中に点々と牛の群れと農家の茶色い屋根。一方、下の町から丘陵の中腹までは森。巡礼路は下の町や畑から森の中を登って、上の牧草地帯へと続いている。
丘の上も昔は森だったと思う。今は明るい放牧地で、数km置きに農家があり、いざというときは助けを求めることができるが、昔は丘の上にも森が広がり、人家は数十キロ置きに1軒しかない巡礼宿兼救護所のみだったようである。旅は困難を極めたであろう。特に標高1300m(最高地点1400m)のオーブラック(Aubrac)の荒野越えは難所だったと言われている。ナスビナルス(Nasubinals)の町からオーブラックの町への約10kmがそれであるが、今はすべてが牧草地で、点々と農家があり、最高地点には無人の避難小屋まである(私達が通りかかったときに、この小屋に泊った男性がシュラフを乾していた)。私達は約3時間でこれを越えた。
(2)中盤では巡礼路は川沿いとなり、コンク(Conques)、サン・シラク・ラホピー(St Cirq Lapopie)、カオール(Cahors)などの観光地を巡る(詳細次記)。
(3)終盤は標高100mくらいの低地を行く。道のほとんどは、トウモロコシ、ひまわり、野菜などの畑の中を通っている。
![]() (写真)標高1300m、オーブラックの牧草地。 |
![]() (写真)森の中を行く。 |
![]() (写真)トウモロコシ畑を行く。 |

(写真)運河沿いの道

(写真)麦畑

(写真)牧草
<見どころ>
1)ピレネー山脈が見渡せる丘-30日間で最大のハイライト
Arou(7/18泊) の町から Ostabat の町へは1日の行程。その途中、巡礼路は円を描くように遠回りの道を行く。近道を真っ直ぐに行けば1時間は短縮できそうだが、後記のジットの主人から「ここは見逃せないところ。近道をせずに、必ず行くように」と言われていたので、遠回りの道を取って進んだ。畑の中を延々と歩き、小さな村で一休み。顔見知りの巡礼者が7-8人休んでおり、一緒になった。彼らもこの遠回りの道を取ったのだ。
村は標高50m位か。そこから高さ300mの丘へと30分ほどで一気に登る。と、丘の向こうにピレネー山脈の大展望が広がった。
丘の上は広々とした草地。そこには小さなチャペル(Chapelle de Soyarza。横5m・縦7m位の建物)がポツンと建っていた。中世の建築のようだ。この小さなチャペルにお参りをするために遠回りしてここにやってきた多くの巡礼者のことが思われた。
ピレネー山脈の大展望と広々とした草地にポツンと立つ小さなチャペル、今回の最大のハイライトだった。
(写真)モワサック・修道院の回廊 |
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![]() (写真)コンク |
![]() (写真)カオールの橋 |
2)モワッサク(Moissac)のサン・ピエール修道院
76本の柱が支える4辺形の美しい回廊と、南側入口の上にある半円の壁(タンパンという。キリストと天使や動物の像で飾られている)が有名。特に回廊は必見である。やや繊細な感じ。フランス随一の回廊と言われており、たいへん美しい。庭の中央に立つ大きな松の木も回廊に調和してすばらしい。
3)前述のコンク、サン・シラク・ラホピー、カオールといった町の風景
① コンクは森の中に沈んだように存在する中世のまち。聖女フォワの遺骨を収めたサント・フォワ修道院が有名であり、中世には巡礼者でたいへん賑わったという(博物館に行くと、宝石で飾られた聖女フォワの遺骨の収納箱が見られる)。
森の中の巡礼路を1時間ほど下っていくと、谷底に着く手前の斜面にこの町がある。スレート葺きの古い家々が急斜面に建ち並び、その中心に修道院の3つの尖塔がそびえている。どこもが絵になる風景。観光客が沢山いた。ちょうど日本からも、絵を描くことが目的の団体が来ていたが、彼らは思い思いに場所を選び、絵を描いている最中だった。
このあと、巡礼路は、橋を渡り、再び森に入り、急な山道へと続いている。
② サン・シラク・ラホピーの町は高さ100mの断崖の上にあり、町へ行くにはロット川の川岸から細い急な登山道を登らなければならない。20分位か。町に着くと、まずは一番高い見晴台へ。そこは足がすくむような切り立った断崖の上。眼下の畑の中をロット川がうねり、はるかに山なみが霞む。私達は、展望を満喫した後、狭い広場にあるカフェで一休み。周囲には中世の町並みが広がっていた。
町とは別だが、登山道入口とBouzies の町を結ぶ川沿いの道も、崖をくりぬいた遊歩道あり、運河あり、遊覧船の姿ありで、散歩には好適のルートとなっている(約1時間の歩程)。
③ カオールは中世に川沿いの交易の中心地として賑わった町。王様が14世紀に創った美しい橋がある。この橋は7つのアーチで結ばれ、真ん中と両端に高さ約20mの要塞化した3本の塔を持っているが、アーチと塔のバランスが何とも美しい。私達は、観光船に乗ってそれを鑑賞した。
④ 見どころとは言えないが、石造りの橋げたに「1000km」と彫ってある橋も紹介しておこう。サンティアゴ・デ・コンポステーラまで、ちょうど1000kmの距離にある橋で、これからサンティアゴまで歩く巡礼者にとっては、思わず足を止めて記念写真を撮りたくなるところである。私が通ったときもサンティアゴまで行くというご夫婦が写真を撮っていた。
⑤ その他、印象に残った町(後日、紹介予定)
2.出発
<不安を抱えながらの出発>
・71歳と6ヶ月、フランス語は全く分らず、英会話も中学生程度という中で、「道が分かるだろうか、安い宿はあるだろうか、食べ物は手に入るのか、歩くだけの体力は残っているか」など、出発前の不安は尽きなかった。
・その他、行く直前に急に不安になったのは、パリに着いてからどうするかということ。パリのことは全く調べていなかった。空港には夜10時頃に着くが宿をどうしたらよいのか、空港や駅での野宿とすれば危険はないのか、空港からリヨン駅への交通手段はどうか、ル・ピュイへの切符の購入方法は、などなど、全く分からない。成田に着いてから、「フランスの旅行案内」を買って機内で調べたが、はっきりしなかった。
<空港からル・ビュイへ>
・パリへの飛行機は6月19日20:45着のアエロ・フロート(モスクワ経由)。やや延着し、外に出てきたのは22:00頃だった。空港内はすべての店が閉まって閑散としており、レストランでの夕食はあきらめて、自動販売機で水を買い、残っていた機内食のパンを食べて済ました。また、経費節減のために空港の床に寝ることとした。
建物内にはあちこちに腰を下ろしている人が数人。早朝の出発便を待つ人のほかに浮浪者もいるようだが、一晩中、コウコウと電灯が灯っていて明るいので、2人で寝ている限り、あまり危険は感じなかった。ただし、床に寝ていると、犬を連れた警備員2人が巡回して来て、起こされてしまった。「床に寝てはいけない。椅子に座って休むように」とのこと。私達以外に床で寝ている人がいない理由が初めて分かった。
・早朝、空港内にあるSNFC(フランス国鉄)の駅へ。ル・ピュイへは、空港駅からエチエンヌ乗換えで行くことができると分かって、早速、その座席指定券を購入した。乗車券も含めて切符代は78.50ユーロ。
・ル・ピュイへは14時に到着の予定が、遅れて17時となる(理由は後述)。晴れてはいたが、風が強くやや寒かった。インフォメーション・センターで紹介を受け、「Auberge de Jeunesses」というジットに泊まる。朝食付14ユーロ。
<ル・ピュイにて。教会のミサに出席>
ル・ピュイのノートルダム大聖堂「Cathe'drale Notre Dame」で午前7時から8時まで行われる早朝のミサは、ここを出発する巡礼者を祝福するための有名なミサであり、是非出たいと思っていた。
6月21日、6時40分、起床。食事は後にして出かける。中世の建物が両側から迫ってくるような、狭い石畳の坂道を上がっていくと前方の丘の上に大きな像が見えてきた。ピンク色で、巨大なもの。高さは20m位か。幼いキリストを抱くマリア様の像である。その手前が大聖堂だった。
来ていた巡礼者は約50人。うち30人程はザックを背負っており、終わったらすぐに出発しようという人達だった。祭壇には緑の衣服を羽織った神父さん、その背後にはこれも有名な「黒い聖母」の像。神父さんが祈りの言葉を述べ、皆で賛美歌を合唱。3人の女性巡礼者が出発に当たっての決意表明を述べる(フランス語なので内容は分からなかったが)。おごそかな雰囲気。次いで神父さんが一人一人に「聖なるパン」(小さなおせんべいのようなもの)を手渡す。最後に神父さんは壇上を下り、出席者を一人一人指差して「どこの国から来たか」を聞いた。私達も聞かれたので、やや誇らしげに「ジャパン」と答えた。
ミサの後、祭壇裏の教会の売店へ。ここでクレデンシャル(巡礼手帳。泊った宿や訪問した教会で、スタンプを押してもらうもの。歩き終わったときは、スタンプがずらりと並び、自分にとっては「宝物」と言ってもよいような、貴重な記念品になる)にスタンプを押してもらう。私はそれを東京の「聖カテドラル教会」で発行してもらったが、Mさんはここで手に入れた。
余談だが、エピソードを一つ。Mさんは「聖なるパン」を受け取るとそのままポケットに入れて席に戻ろうとしたが、これはその場ですぐに舌にのせて食べるもの。神父さんがあわてて追いかけてきて、すぐに食べるように注意した。
ミサの後、ジットに戻り、朝食。それから第一日目のスタートを切った。
3.宿泊
<宿泊場所は安い「ジット」>
・宿泊は主に「ジット」。一部屋に1段ベットか、2段ベッドがいくつかある宿泊施設。ハイカーのためにフランス全土のいたるところに設けられており、公的なものと私的なものがある。料金は8-12ユーロ(この時点で1ユーロ135円)。前回のスペインで宿とした「アルベルゲ」は基本的に無料だったが、フランスのジットは有料である。ただし、スペインではシャワーが水という場合があったが、フランスはすべてお湯。
・ジットから次のジットまでの距離は4kmから20kmと幅がある。
・また、ジットより宿泊費が割高かだが、小さなホテルも点在している。
・2回だけ地方のホテルに泊った。ファジャック(Figeac)では2人で68ユーロ(食事なし)、ポンプ(Pomps)近郊のモーラン(Morlanne)では1人で36ユーロ(朝食付)だった。ちなみにパリで泊った二つ星ホテルは1人で1泊65ユーロ(食事なし)。高いのでびっくりした。
<ジットの泊り方>
・予約をしておけば必ず泊れる。いくつかのジットには予約をしてから行ったが、予約は、同行のフランス人や前日に泊った宿の主人、あるいはインフォメーション・センターなどに片言(カタコト)の英語でお願いした。
・ほとんどのジットには、予約なしで泊った。町に入るとまずインフォメーション・センター(Office de tourisme という)を探す。町の詳細な地図を持たないので、「オフィス・ツーリズモ?」と言って人に聞いたり、案内板を見つけたりと手探りで探すのである。これが意外と手間取る。センターを見つけると、今度はジットの場所を記載した地図を入手する。大きな町の場合、ジットは町の中心にないことが多いので、探し出すのがこれまた、たいへん。この二つで、町に着いてから小一時間はかかる。
やっと探し出すと、たいていは無人なので、勝手に入り込みベッドを選んで荷物を置く。そのあとは、洗濯をしたり、ベッドに寝ころんだり、外の見物に出たりして過ごすが、午後6時頃には管理人が宿泊費を集めにやって来る。また、このとき、クレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプも押してくれる。
・公共のジットの場合、入口や掲示板には予約状況や集金時間を書いたビラが張ってある。予約については、Aの部屋は予約で満員(予約者は誰々)、Bの部屋は空きが2人などとあり、Bを選んで部屋のビラに自分の名前を書くと、ベッドが確保できる仕組みである。
なお、インフォメーション・センターやカフェが受付場所となっているジットもある。たとえば、Navarrenx の場合、町に入るとカフェのおばさんに呼び止められ、「ジットに泊まるのか」と聞かれたが、そこが受付だったのだ。宿泊費を払うと、部屋ナンバーを書いた切符を渡された。
また、予約なしの場合、泊れないこともある。私も土曜日に目的のジットで「学生のリクリエーションの一団で満員」と言われて断られた。「一人だけなので、何とか。床に寝るから」とジェスチャーで必死に頼んだが駄目。更に4km先のジットまで歩かされた。
<印象に残ったジット>
このルートを歩く人のために、印象に残ったジットを紹介しておこう。
・Le Falzet(6/22泊) のジット。
セバスチャン(フランスの青年。5日間ほど一緒に歩く。後記参照)が電話で予約をしてくれた。Saugues の町を越えたところ、農家が数軒しかないような小さな村にある。住んでいた家をそのまま宿泊施設としたもので、のんびりできる居間(ゆったりしたソファーあり)と二つの寝室がある。ステファンと3人で泊ったが、客は私達だけ。3人は「いいね、いいね」と言いながら、ソファーに寝転んだり、日誌をつけたり、シャワーをあびたりして過ごした。夕食は母屋に住んでいる74歳のおばあちゃんがつくってくれた手料理(スープ、オムレツ、ステーキ、スパゲッティ)である。2食付で宿泊費は30ユーロだった。
・Les Estrets(6/23泊) のジット。
Aumont-Aubrac という町の4km手前、小さな村にある。新築。2階がベットの並ぶ部屋。1階の居間と食堂が小さなホテルと言ってもいいようにきれい。巡礼者には評判のようで、客は4組10人。夕食は全員の会食。
・Estaing(6/26泊) の教会付属のジット。
路地裏の、中世からあるような古い建物がそれ。薄暗い1階が2段ベッドの並ぶ部屋と洗面所。2階が礼拝室と食堂。神父さんの家族の部屋もあるようだ。夕食は、そこに住む家族や子供も入って20人ほどでの会食。食前、食後にはお祈りもある。食後のお祈りは30分。私は出なかったが、Mさんは出席した。神父さんから「宿泊費は無料」と言われたが、私達は募金箱に1人20ユーロを入れた。
![]() (写真)「Chambre d'hotes」のプール |
・ジットではないが、Les Mazuts(7/3泊) の 「Chambre d'hotes」 という宿。
点々と農家がある丘陵地帯を歩いていくと、目指す「ホテス」があった。鉄格子の門がある大きなお屋敷である。宿泊施設には見えないために、探すのに手間取った。家族が使っていた部屋が宿泊場所に当てられており、食事も家族が日常使っている居間で食べた。普通の家庭に泊った感じである。その他、気に入ったのは裏庭のプール。早速、Mさんと二人で泳いだ。宿泊代はジットとほぼ同じ。
・Lascabanes(7/5泊) の「Gite d'etape Le Nid des Anges」という教会付属のジット。
教会の建物の一部。着いたときは誰もいなかった。入口の黒板には「定員17名」とあり、予約をした人10名の名前が書いてあったので、まずは「Takeshi」と書き加えた。入口には小さなカフェ兼無人スタンド。レトルト食品、果物、スナック、インスタント・コーヒーなどが置いてあり、代金を箱に入れて自分で持ち出すセルフサービス方式である。私は3時のオヤツ代わりに、ジャガイモと肉が入ったレトルト食品のカレーを持ち出し、奥の台所の電子レンジで調理をして食べた。このときがレトルト食品を食べた最初だったが、空腹のせいもあって、とてもおいしかった。
夕方になると、到着していた巡礼者が誰もいなくなった。6時からのミサに出席したようだ。私もあわてて出席。神父さんのお説教があり、巡礼者の一人が前に出て、「巡礼の決意」のような言葉(だと思うが)を述べた。次いでまた一人が出て、賛美歌をリードして歌う。次は、神父さんが前列に並ぶ出席者の足を一人一人洗い、タオルで拭く儀式。パンを一人一人の舌にのせて食べさせる儀式もあった。全体で約1時間のミサ。
このあと、柱が黒びかりするような古い食堂で会食。食事を作り皆に配ってくれた女性が、いかにもフランスのお嬢さんという感じの人。やさしそうで、可愛くて、とても素敵だった。
・終盤は、Aire sur l'Adour(7/13泊) という町のジットの主人から「おすすめのジット」を聞いたので、そのいくつかに泊ってみた。それを以下に記す。それぞれ、特徴のあるジットである。
・まず、紹介したいのは、そのジット。「Gite d'etape prive Hospitalet Saint-Jacques」といい、斜面の上に建つ。花々が咲く広い芝生の庭が下の斜面に広がり、食堂からの眺めがとてもよい。部屋も清潔。更にジットを管理するご夫婦が上品で親切である。ジットに着くとすぐに主人から「その椅子に座って、靴と靴下を脱いで」と言われた。「?」と思っていると、バケツに水を入れて持ってきて、「足を入れろ」と言う。冷たい水に疲れた足を浸けると、とても気持良かった。終わると、彼はその水を庭の草花にかけながら「庭も喜んでいる」と言っていた。
これから行くジットやルート(前述のピレネーが展望できる丘のことなど)について、いろいろと教えてくれたのも彼である。翌日泊まるジットに予約の電話も入れてくれた。
・Maison Marusan(7/14泊) の「Accueil a la Ferme」というジット。巡礼路上の町 Miramont-Sennsacq からルートを外れ、30分ほど歩いた村にある。村にレストランや食料品店がないので、夕食はどうしたらよいかと不安に思い、同宿のデュバル(フランス人。詳細後記)に聞いてみたが、彼も分からないと言う。ここを紹介してくれた前述のジットのご主人からは「おすすめのジット。でも、夕食は自炊」としか聞いていない。
そのまま、夕方になる。と、ジットの奥さんがやってきて倉庫の鍵を開けてくれた。中に入ると、10列ほどの棚に天井まで「煮込んだ鴨の肉」のビン詰めと缶詰がびっしりと並んでいた。これが夕食なのだ。前にレストランで食べたことがある「うすい塩味の豆と鴨肉の煮込み」(主食になる)もある。3-4ユーロのものから、30-50ユーロ位の大ビンのものまであった。このジットはこれらの卸と即売を商売にしているようだ。
一方、奥さんは畑で摘んだきゅうりやトマトを籠に入れ、パンやバナナ、リンゴと一緒に持ってきていた。
私は4ユーロの「豆と鴨肉の煮込み」の缶詰とパンやバナナ、リンゴを買い、缶詰は電子レンジで温めて、デュバルと分け合って食べた。
このジット、もう一つの特徴は、塩水で温水のプールがあること。立派なシャワー室も付いていた。もちろん、私は嬉々として泳ぎ、10mの長さを何回も往復した。
![]() (写真)バンジョーを聞く。「Gite d'etape prive de Cambarrat」にて。 |
・Cambarrat(7/16泊) の「Gite d'etape prive de Cambarrat」。Maslacq の町の手前で巡礼路を離れ、森の中を10分ほど登っていったところにある。周りに家はない。ご夫婦と子供2人で住んでおり、ご主人が手作りで建てたという森に囲まれた一軒家がそれである。
この日は風の強い日。風が何度も森の木々をゆるがし、ざーっという音とともに通り過ぎていったが、それが波の音のように聞こえた。夕立もあり。
夕食後、ご主人がバンジョーを弾いてくれるのがこの宿の恒例。この日はまずは私を指差し、「あなたのために」と言って巡礼の歌を弾いてくれた。私もリクエスト。とても聞きたくなって、フォスターの「金髪のジェニー」をお願いした。後記<気持がなごんだとき>参照。
4.道
<道は分かりやすい>
・下記の詳しい「地図」と現地の赤と白で書かれた「道標」に頼ったが、ほとんど迷うことはなかった。
1)地図としては「Maim Maim Dodo・Le Chemin de Saint Jacques de Compostelle・Le Puy-en-Velay / Saint-Jean-Pied-de-Port・GR65」(2009年版。17ユーロ)というフランスで出版された本のコピーを持参し、また、現地でその本を購入して利用した(ルート上の町の本屋なら、どこでも売っている)。これには、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポーまでの「GR65」のルート(「GR」はフランスの国が指定した自然歩道である。また、それはいくつもあって、それぞれに番号が付いている。「65」はル・ピュイから昔のサンティアゴ巡礼路をたどるもの)を、連続して表した90枚の地図が載っており、地図ごとにジットや民宿、ホテル、キャンプ場、レストラン、カフェ、インフォメーション・センターなどの所在地と電話番号が記されている。ジットの電話番号が載っているので、予約をするときに利用した(ただし、留守だったり、フランス語の留守電に繋がることが多い)。
2)一方、曲がり角の電柱や樹木には、ほぼ必ず、赤と白で表した道標が(曲がる場合は鍵型の赤白の印が、また、行ってはいけない道には赤白の×印が)描かれていた。
・地図とは異なる道
その1)Moissac から2km行った先で、地図上の道は運河から離れた丘陵の中腹を行くようになっていたが(これが昔の巡礼路であり、ごく最近まで歩かれていた)、赤と白の道標は運河沿いを行くように付いていた。この道のほうが近道の上に、景色も良く、歩き易かったので、皆がこの道を取ったのであろう。いつか、それが正式の巡礼路に昇格したもと思われる。
その2)Aire sur l'Adour の町を出発してすぐのこと、大きな池のほとりで道路が崩壊しており、地図上の道が通行禁止になっていた。地図上にない道を行くのだが、赤白とは異なる4-5cmの四角の道しるべ(GR65と書いてある)が頼りだった。
<道の難易度>
・私は一日平均25kmを歩いた。高低差はあまりない。また、一日に何度も登り下りを繰り返すというようなこともない。森の中を登ることがあっても、30分もすれば丘の上に出るし、丘の上に出ると通常2-3時間は、丘の上のほぼ平坦な道を歩くことになる(これらの登りでややきついのは、2日目のMonistrol d'Allier の町からの登り。それでも30分で上に着く)。
・1時間平均では、昼食休憩も含めて3kmを歩いた。朝7時にスタートして、昼過ぎの3時頃に到着するという毎日だった。午前中に半分以上を歩いてしまうので、それほどたいへんだとは思わなかった。
・もっとも、最初は足の速い同行のMさんと歩調を合わせるのがたいへんで、やや疲れた。2人の距離が離れると走って追いついたりした。数日後には追いつくのは止めたが、いつも「追いつかねば」と思いながら歩いていたので、気持に負担があった。
・15日目からは単独行となり、マイペースで歩けるようになって、歩くたいへんさはあまり感じなくなった。
・道は分かりやすい、安い宿はある、道も平坦なところが多いなどの点を考えれば、誰でもが歩ける道ではないかと思う。
・もっとも、パン中心の食事は私には合わず、できるだけジャガイモ、バナナ、野菜などを食べて体力維持には気を使ったが、これが私にとっては、この道を歩く上での難点だった。
5.足の痛み
<足の保護>
・行く前はまず、どんな靴にするかで、いろいろ考えた。
前回はアディダスのハイカットのウォーキング・シューズを使用。これは私の足にピッタリだったが、すでに製造中止で入手できなかった。結局、同じ会社のローカットの靴(約15000円)で行くこととし、日本で何日も歩いて試してみた。
・5本指の靴下を使用。
・ひざを保護するサポーターを持参。これは役に立った。毎日歩いたので終盤はひざがやや痛んだ。登り坂になると右ひざが「カク、カク」としたが、サポーターを付けると、これが治まったのである。その他、足のマメ専用の絆創膏(ジョンソン&ジョンソン社製)も持参し、マメができそうになるとすぐに張った。おかげさまで、マメができることはなかった。
<最も苦労したのは、足裏と肋骨の痛み>
・第一は足裏の痛み。多分骨のつなぎ目だと思うが、足の指の付け根が痛んだ。舗装道路や突き固めた道を長く歩くと、足裏の一定の部分しか地面に着かないので、このようなことが起きる。これに対しては、包帯を何重にも畳んで、靴下の中に入れて足裏に当てるとか、石ころだらけのところや草の上を選んで歩くという方法で痛みを和らげた。なお、痛くても包帯を1-2mmずらすと痛みが治まるということも知り、この方法も利用した。
・第二は肋骨の痛み。ザックの重みが肩から肋骨にかかったために肋骨が痛んだ(身長169cm、体重55kmというきゃしゃな体格が原因)。そのため、不要と思われるものは捨てたが、これによって、肋骨の痛みはほとんど治まった。
・それと腰の痛み。痛みは肋骨から腰にまで達した。その痛みを和らげるために、ザックをずらして背負ったり、斜めに背負ったりして歩いた。
・これらは、体の鍛え方が足りなかったこと、71歳という年齢により体力が衰えたことなどが原因と思われる。歩くとき使うのは、ももとふくらはぎの筋肉だけだと思っていたが、全身の骨と筋肉を使うということが分かった。長距離を歩くには足だけでなく、全身を鍛える必要があるのだ。
<荷を軽くするために>
・まず、歩き出す最初の日に、日本から持ってきていた3冊の文庫本のうち2冊を捨てた。
3日目に最後の文庫本と予備に持ってきた柔らかな靴(足を痛めたときに履こうと思っていた)を捨てた。
11日目、肋骨の痛みが増し、長ズボン(暑くなってきたので不要となった)、バンド、Tシャツ1枚(2枚を残す)を捨てた。
12日目に薄い羽毛服(20年前1万円で購入。やや「ほころび」がある。ビバーク用に持参)、折りたたみ傘、手ぬぐい2本を捨てた。
・残したのは、手ぬぐい1本のほか、ゴアテックスの上下の雨具(登山用、3万円のもの)、ポンチョ(頭からかぶれて、ももまでのもの。ビニール製、軽い)、ザック・カバー、下着(速乾性のシャツ3枚、パンツ2枚など)、短パン1枚(後半は日中、これで過ごした)、地図、フランス語辞書、フランス旅行案内(必要な部分のみを切り取って)、カメラ、携帯電話、メモ帳、歯ブラシなどである。
6.食べ物
<食べ物の確保に苦労>
・食べ物はパンと水が中心。1日中、歩いても、食料品を売っているお店がないことがあった。また、泊った村にレストランがないこともあった。そのため、いつも、ザックの中に2日分くらいのパンと水を入れて歩いた。
・一方、食料品店があったときに「翌日のコースに店がない」ことを考えて沢山買いすぎることがあり、翌日は荷が重くなって歩く苦労が増した。
![]() (写真)会食。Estaing の教会付属のジットにて。 |
![]() (写真)会食。Lascabanesの教会付属のジットにて。 |
<夕食のとり方>
・夕食を出さないジットがほとんどだが、教会付属のジットや町から離れた私的ジットの場合はジットで夕食を出し、巡礼者全員が一つのテーブルを囲み、一つの大きな皿や鍋から同じ料理を自分の皿に分けとって食べる会食方式だった。料理は、第一の皿(サラダか、スープ。スープと言っても、じゃがいもや人参が入ったものもあり、2杯も食べると腹一杯になる)、第二の皿(メイン・ディシュの肉料理)、第三の皿(デザート。大きな甘ったるいケーキやソフトクリーム)の順に出てくる。また、別に無料でワインが付く。ワインは飲み放題。
・この会食は、たっぷり2時間はかかる。この間、ワインを飲み食事をしながら、皆さん楽しく歓談するが、もちろん、会話はフランス語である。これがフランス人一般の夕食の採り方なのだろうか。私は何も分からずにじっと座っているだけ。これはつらかった。フォークとナイフのほかにデザート用の小さなシャジが置いてあるので、デザートが出てくるまでは、席をはずして逃げ出す訳にはいかない。「日本人は失礼だ」などという評判を残しては日本人の名折れになるので、じっと我慢した。デザートを食べ終わり、「お先に」と言って(「ベッド」と言って寝るジャスチャーをする)立ち上がるのはいつも私だった。
・夕食が出ないときは、レストランで食べるか、コンビニで食材を買ってきて食べるかである。
・レストランの夕食は、大きな町だと一人だけで食べたが、小さな村の場合はレストランが一つだけで、事前に予約をして全員が一つのテーブルを囲み、前記と同じような会食方式で食べた。
・終盤は、レトルト食品を電子レンジ(ジットの自炊用台所には必ずこれがある)にかけて食べることを覚えた。たとえば、ニンジンとジャガイモと肉がたっぷり入ったカレー、リゾット(西洋風おじや。お米は長粒米だが)、スパゲティーなど。3-4ユーロ。これをパンとリンゴとキュウリなどと合わせて食べた。生たまごを3ケ購入し、目玉焼きにして食べるということもした。自分の好きなものを調理して食べたが、これが自分には一番合っていた。
このとき、コーヒーカップに水を入れ、電子レンジで沸かす方法も覚えた。これだとヤカンが要らない。簡単にコーヒー、紅茶を飲む方法である。
ただし、レトルト食品は大きな町のスーパーでしか買えない。小さな町の食料品屋さんには無いことが多い。
・夕食ではないが、電子レンジを利用したことがある。昼間歩いているときのこと、急に大雨となり、雨宿りのために無人のジットに駆け込むと、部屋に電子レンジがあった。ちょうど昼食時だったので、持っていたレトルト食品をレンジにかけ、コーヒーも沸かして食事をした。レストラン並みの温かい食事。おいしかった。もちろん、使った食器はすべて洗って元の位置に戻した。無人のジットにはこんな利用方法もある。本当は、管理人の家を探して許可を得る必要があったとは思うが、大雨で近所を探して歩くことができなかった。
・レストランも食料品店もないのに、夕食を出さないジットに2回泊った。夕食をどうしようと心配していると、夕方、管理人がやってきて、ジット内の食料倉庫や大きな食料ボックスの鍵を開けて、食べ物を売ってくれた。一つのジットでは商売にしている鴨肉と煮豆のビン詰を買った(前記)。もう一つのジットでは、ハム、生たまご、パン、牛乳、肉の缶詰などを買った。
・なお、スペインでは、私が泊った限りでは、アルベルゲ(フランスのジットに当る。一般に夕食は出さない)でも、レストランでも、会食方式のものはなかった。この点はフランスとスペインの大きな違いであろう。
7.費用はいくらかかるか
・20-30万円位か。うち、パリ往復の航空券は10万円(6月のモスクワ経由の場合である。乗り継ぎ便には4-6万円の安いものもある。直行便は20万円)。あとは、宿泊費(1泊8-12ユ-ロ、1000-1500円。全部で4-6万円)と3食の食費(15-20ユーロ、2000-3000円)が40日分である。食費を安くあげるには、スーパーで食べ物を買って3食をそれで済ますこと(自分で調理をすることも含めて)。これなら食費は6万円位で済むだろう。このほか、目的地への列車代が1万円、到着地からの列車代が1万円。パリでは、治安に問題はあるが、宿泊費を節約するには空港の床で寝る手もある。
8.巡礼者の状況
<「ル・ピュイの道」を歩く巡礼者は少ない>
・ル・ピュイの道について、ある1地点を通過する巡礼者の人数を推定してみると、1日に10人位、年に4000人程度と思われる。また、宿に置かれている「旅人の一言帳」から見ると、そのうち、日本人は年に1-2人であろう。
・観光地の周辺では、巡礼者のほかに日帰りや1泊2日のハイキングを楽しむフランス人も見かける。
・ル・ピュイの道を歩く巡礼者のほとんどは脚力が強く、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-やサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す人が多かった。中には、「ドイツのふるさとから4ケ月間でサンテイアゴまで歩く」というドイツのおじさん、「パリから3ケ月間でサンテイアゴまで歩いてきた。帰りはサン・ジャン・ピエド・ポ-(サンテイアゴからそこまでは列車で帰ってきた)からル・ピュイまで歩く」というフランスのおばさん、「サン・ジャン・ピエド・ポ-とサンティアゴの間を歩いて往復してきた。そのあと、ル・ピュイまで歩く」というドイツの青年など、考えられないような「つわもの」もいた。余談だが、「自転車で車道を通って、パリから南仏のヴェズレーを経由してオスタバまで15日間でやって来た。ここからサンテイアゴまで10日間で行く予定」というフランスのおじさんにも会った。
・もちろん、毎年、区間を区切って1週間程度を歩き、数年で完歩するという人もいた。
・これを私が6年前に歩いたスペインの巡礼路と比較すると、スペインの巡礼路は、歩く人が圧倒的に多く(年間5-10万人)、また、子供連れや若者の一団もかなりいるという特徴があるが、フランスのこの巡礼路は歩く人は極端に少なく、また、歩いている人のほとんどは中高年の単独行か、夫婦2人連れだった。
<親しくなった人達>
![]() (写真)巡礼者 |
![]() (写真)セバスチャンと |
![]() (写真)デュバルさん。カナダの女性と。 |
(写真)皆で。 |
・セバスチャン
2日目に途中の町で一緒になり、4日間、同行のMさんと3人で歩いた。フランス・ロレーヌ地方から来た26歳の青年。テントを入れた大きなザックを背負っていたが、1泊を除き一緒にジットに泊った。道々、かたことの英語で「フランスにも昔はオオカミや熊がいた」「巡礼者が増え、ジット建設中も増えている」などと話してくれた。
・リアル・ロイさん
カナダ・ケベック州の男性。68歳。カナダの奥さんによく電話をしていた、大柄で目の大きな人。7/6に泊ったLauzerte のジットでベッドが隣合わせになった。二人で町のレストランに行き夕食。かたことの英語で会話。親切な人で、宿やレストランで「タケシ、タケシ」と気を使ってくれた。
・デュバル・ジェラードさん
Maison Marusan(7/14泊)のジットなどで一緒になり、旅の最後の1日にまた会い、この1日を一緒に歩いた。私は話がほとんどできないので、外国の巡礼者と歩くことを避けていたが、デュバルさんとは道中で何度も会って、だんだんと打ち解け、この日初めて、1日中、一緒に歩き、休憩や昼食を共にした。背の高い、北フランスの猟師さん、68歳。家族は奥さんと娘さん2人。漁を奥さんにまかせてやってきたという。
ひょうきんな人で「ノー、プロブレム(問題なし)」が口ぐせ。「今夜泊る予定のジットに電話をしたが、満員のようだ」というと、「ノー、プロブレム。行けば泊れる」という具合である。
サン・ジャン・ピエド・ポ-では、一緒に巡礼事務所に行き、同じジットに泊った。
翌日は駅でパリ行の切符も買ってもらった。また、我が家に電話をして、妻にフランス語であいさつをしてもらった。妻は突然「ボンジュール、マダム」と言われて、ビックリしていた。
・マリーさん
ドイツの中年の女性。「ここに来たのは何故」と聞くと「自然の中にいるのが好き。歩くのが大好き」とのこと。子供が4人、孫が5人とか。足は強く、歌を歌いながら、余裕を持って歩いていた。サインの入った絵手紙をいただいたのはこの人。
・58歳のフランスの女性
・マルティン・ガイさん
フランスのマルセイユから来たご夫婦。毎年、区切って巡礼路を歩いている。今回はカオールからコンドンまで。帰国後、美しいマルセイユと2人の息子さんの写真をメールで送ってもらった。
・マギーさん
スウェーデンのストックホルムから来た中年の女性。ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-を歩く。
・ピエールさん
Lascabanes(7/5泊)のジットで同室となり、帰国後、下記のメールをいただいた。
(本文)
TAKESHI,
J'ai ete tres honore de marcher a tes cotes
Dommage que nous n'ayons pas pu nous comprendre
C'est un symbole fort de paix que des hommes et des femmes
de toutes conditions, et du monde entier marchent ensemble
dans la meme direction
"ULTREIA" (toujours plus loin)
Froternellement
Pierre
(翻訳した文章)
言葉の壁はあったけれども、君の横で歩けてとても光栄に思いました。
世界中から、それぞれの環境の中にいる男性・女性と一緒に、
同じ方向へ歩むということは、平和・安らぎの象徴です。
”ULTREIA”(いつでも前進)
親愛の情を込めて
ピエール
<親切な人達>(後日、記載)
多くの人に親切にしてもらった。
・受付のおばあちゃん-ノガロのジットで
・受付のおじさん-中年男性サン・ジャン・ピエド・ポ-の巡礼事務所で
・デュバルさん
・フランス領・ニューカレドニア(オーストラリア大陸の近く)から来た中年の女性
9.コミュニケーション
<「フレンチ、ノン、イングリッシュ、ア・リトル」>
・言葉が分からない中で、フランス語でのやりとりはジェスチャーで行い、英語の場合は片言(カタコト)で行った。
・宿の受付や一人で食べるときのレストランでは、まず、「ジャポン、タケシ、フレンチ、ノン、イングリッシュ、ア・リトル」と言ってから、かたことの英語で交渉を始めた。
<自己紹介のカラーコピー、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」発行の「クレデンシャル」、絵はがき、金太郎飴などを持参>
・同行の巡礼者と話すときや、宿の受付では、持参した自己紹介のコピー(カラー)をまず渡した。これには、家族の写真やマッキンリー登頂の写真を載せ、フランス語で説明書きをつけておいたが、コミュニケーションにたいへん役に立った。できれば、春の桜の風景、秋の京都の紅葉風景などもコピーし、日本のすばらしさを紹介できたら、もっとよかったと思う。
・ 「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」を通していただいた標記のクレデンシャルは日本で初めて発行されたものであり、カラー版の美しいもの。「東京カテドラル」の押印もある。巡礼路で会う人達から珍しがられて評判になり、多くの人から「見せて、見せて」と言われ、コミュニケーションにも大いに役に立った。
・おみやげとして、富士山の絵はがき、谷中五重の塔や竜の絵が入った竹のしおり、お地蔵さんの絵の金太郎飴などを持参し、お世話になったお礼やお別れのプレゼントとして利用した。
<電話での連絡に成功>
・こんなことがあった。
朝、出発するときにその町のインフォメーション・センターで当日の宿を予約してもらったのだが、その宿は、巡礼路沿いのジットがすべて満員だったので、ルートを4kmほど外れたところにあるホテルだった。「ルート上のポンプという町に着いたら、電話をすれば、自動車が迎えに来る」とセンターの人に言われたので、ポンプに到着後、ドキドキしながらホテルに電話をした。女性が出たので、「タケシ、アライバ(到着。電話をする前に辞書で調べておいた単語)、ポンプ(まちの名前)、ジット(ジットの前にいる)。カー、OK?(車で迎えにきてくれるか)」と言う。先方はフランス語で何か言ったが、その中に「ウイ(英語のYes)」という言葉が入っていたので、あとは分からなかったが、電話を切った。あれだけのやりとりで、はたして通じたのかという不安はあったが、ジットの前に腰を下ろし待つていると、自動車を運転しておばあちゃんがやってきた。フランス語での電話連絡に成功した瞬間である。
<いつか親しくなった>
・旅の後半、畑の中を登っていくと、登り終わったところにある村で、知り合いになった巡礼者が10人ほど休んでいた。皆が「ここで一緒に休もう」と手招きをする。その中に入って草むらに腰をおろすと何か嬉しくてなって、気が休まった。親しい仲間という感じがした。旅の前半、歩き始めの頃は、知らない外国の巡礼者の中に入るのは気が重くて避けていたのだが、いつの間にか、自分の心に変化が起こっていた。
10.気持がなごんだとき
<プール>
・プールのあるジットに2回泊り、洗濯済の下着を着て泳いだ。フランスで泳げるなんて。思いもかけずに泳げて、嬉しくてワクワクした。温水で塩水のプールもあった。
<フォスターの歌を皆で歌う>
・あるジットでのこと。夕食後、バンジョーを弾き、音楽を聞かせるジットのご主人。巡礼の歌が中心だったが、私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェスト。皆で歌っているときに、涙が滲んだ。
<風ちゃんのお守り>
・5歳の孫の風ちゃんがお守りを作ってくれた。旅も終盤のある日、それを開いてみると、真ん中にじじと風奈の絵、上のほうに「じじへ ぶじにかえってきて」、下に大文字で「じじ だいすき」と書いてあった。「歩くんだ」と緊張していた気持が一瞬ゆるんだ。
<マリーさんから絵手紙をもらう>
・巡礼者の一人、ドイツの中年のご婦人マリーさんが、お分かれのときに自分で描いた絵手紙をくれた。滞在したまち(Aire sur Ardour)の橋の風景を描き、「Aire sur Ardour 13.7.2009 Thank you to be with us. Heide Marie Voigt」とサインを入れたものである。マリーさんも英語を少しだけ話すので、お互いに片言(カタコト)の英語で話し合っていたが、言葉がほとんど通じないのに気持が通じたということがとても嬉しかった。
11.失敗
<いくつかの失敗>
・目的地まで行くはずの座席指定のTGV(フランスの国鉄SNFCが走らせている新幹線。購入した切符は1枚だけで、出発地から目的地までの一つの座席番号が記入されていた)に乗ったのに、途中の駅で乗り換える必要があり、乗換駅で乗客は全員下車してしまった。しかし、私達はそれを知らずに、がらんとした車内にいつまでも座ったままで、発車を待ち続けた。どうもおかしいと他の車両を見に行ったら誰もいない。その間に乗り換える列車は出発してしまい、次の列車まで3時間も待つはめになった。
・エッフェル塔の最上部に行く機会があったのに、そこまでエレベーターで昇れることを知らずに、中2階まで登っただけで下りてきてしまった。
エッフェル塔の乗り場は長蛇の列。数時間待つようだ。でも、一つだけ5分待ちで入れる行列があった。それは「歩いて登る」もの。私は喜んでその切符を買い、115mの高さの中2階まで登り、満足して、また歩いて下りてきた。でも、下りてきて見上げると、275mの高さまで行くエレベーターが動いていた。そこまで上れたのだ。ガックリ。
・ピザ屋であることを知らずにレストランに入り、「ハム入り野菜サラダ」を注文するつもりで、ジャンボン(ハムのこと)、トマト、サラダと言ったら、馬鹿でかいピザ(ハムとトマトをトッピングしたもの)が出てきてしまった。何とか全部を食べようと、水を飲み飲み挑戦したが、半分食べるのがやっとだった。
注文する前に、メニューの内容を知ろうと、辞書を引いて調べたのだが、簡単な辞書なので、料理の名前のほとんどが載っておらず、よく分からない。四苦八苦していると、店のマダムが寄ってきて「どうしますか」と聞かれた。これで、あわててしまったのが原因だ。あらためて、周りを見回したら、みずみずしい野菜サラダを食べている人が何人もいた。それを指差せばよかったのだ。「辞書で調べて」なんて考えたのが間違いのもとである。
<一番困ったのは>
・学校の施設の一部がジットになっていたときのことだ。学校に入っていったが、ジットがどこにあるか分からずに、とまどった。教室外の廊下でも授業が行われていた。先生に聞いても、授業に集中していて、うるさそう。フランス語で何か言うが、全く分からない。最後はジェスチャーで「外に出て行け」という。とほうにくれた。と、巡礼路で知り合いになったご夫婦が廊下の向こうから出てきた。「こっちに来い」と手招きする。助かった。
12.フランスの巡礼路をスペインと比較すると
・見方にもよるが、私はフランスのルートは景色がやや変化に乏しいように思う。スペインの750kmには、標高1500mの三つの峠越え、レオン、ブルゴスなどスペイン屈指の大都市の通過、中世の面影が残る農村の通過などがあり、景色は変化に富んでいる。これに対し、フランスは、前半は毎日、飽きるほどに牧草地の中を行き、中盤にいくつかの小さな観光都市をめぐり、後半はまた毎日、畑の中を行くというように、やや変化に乏しかった。また、農村の風景もきれいに整備された農家が多いためか、中世風というよりは現代的だった。
もっとも、これは好きずき。「毎日が牧草地の中」というのがとても素敵、フランスの方がよいという人もいるであろう。
・また、スペインには、宿泊施設である「アルベルゲ」が基本的に無料、歩いている人が圧倒的に多い、英語がある程度通じる、食べ物も入手しやすい、などの特徴がある。
・1ヶ月で行くとすれば、何と言っても、お勧めはスペインであろう。
13.その他(後日、詳細を記述の予定)
<天候と気温>
・雨は少ない。
平均降水量(mm)を見ると、7月(カッコ内は6月)は東京の247.5(170.5)に対し、パリは58.3(53.2)、ニースは15.6(35.8)であり、夏のフランスは雨が少ないと言えよう。
今回も雨に降られたのは巡礼路で2回、パリで1回だけだった。ただし、それは1時間ほど降ると晴れ間がのぞき、また降るというような雨である。また、その雨は豪雨であり、すさまじい強風を伴い、まっ黒な雲とともにやってきた。私は、ゴアテックスの雨具を着け、ザックにザックカバーを着け、更に上からポンチョを羽織って(こうすればザックと背中の間に雨が入ってこない)、これをむかえた。備えあれば憂いなし。農作業小屋の片隅で雨宿りをしている巡礼者もいたが、私は豪雨の中を気持よく歩き続けることができた。もっともこれは巡礼路でのこと。パリでは傘だけしか持たず、それではずぶ濡れになるので、多くの観光客とともにセーヌ川の橋の下に逃げ込み、雨が止むのを待った。
・気温は東京より低い。
7月の平均気温(カッコ内は6月)は東京の25.6(23.2)度に対して、パリは20.0(17.0)度であり、サン・ジャン・ピエド・ポ-と緯度が同じニースでは22.9(19.9)度である。フランスの気温は日本より3-5度は低いと言えよう。
6月の歩き始めはかなり寒く、朝夕は防寒着としてゴアテックスの雨具を上に羽織るほどだった。もちろん、日中も長ズボン姿である。
7月に入ると、日差しがある日は暑くなった。ズボンは短パンに代えていたが、強い日差しの下で風がないと、照り返しも加わってとても暑く、汗だくで疲れが増した。ただし、曇り空のときは涼しく、風が加われば寒さを感じることもあった。
<クレジット・カードでユーロを現金で借りる>
<国際携帯電話をレンタル>
<パリにて>
7月22日、ローカル線の列車でサン・ジャン・ピエド・ポ-を9:45に出発、バイヨンヌに10:58着。TGV(フランス新幹線。11:05発)に乗り換えてパリのモンパルナス駅に15:55に到着。
早速、安いホテルを探して食べ物屋が軒を並べる路地裏へ。数軒のホテルあり。5分ほど歩いたところに二つ星のホテルを見つけて宿を取る。先にも書いたが1泊65ユーロ(食事なし)。
すぐに地下鉄でルーブル美術館へ(通常の閉館は18時だが、水曜、金曜は22時に延長される)。地下鉄の自動販売機での切符の買い方は、買っている人を横から見ていればすぐに分かった。
23日はルーブル美術館、オルセー美術館、凱旋門、エッフェル塔を巡る。
24日は地下鉄でサン・ミッシェル駅へ行き、数人の人に道を尋ねながら500m離れたところにあるRER(高速郊外地下鉄)のサン・ミッシェル・ノートルダム駅へ。ここでB線に乗ってドゴール空港へ。11:45離陸。
・「すし」と「うどん」
・エッフェル塔を歩いて登る。
エッフェル塔の中2階(高さ115m)まで歩いて登った。エレベーターに乗るのは長い行列が出来ていて2時間待ちなのに、歩いて登るのならすぐに切符が買えたためである。パリの街の眺めはすばらしかった。「先日は東京タワーに歩いて登り、今回はエッフェル塔にも歩いて登った」と思うと嬉しくなった。
嬉々として歩いて下りてきたのだが、下りてきて愕然とした。見上げると、エレベーターが最上階の276mまで登っているのだ、それを知らずに、中2階から下りてきてしまった。今さら引き返せない。喜ぶ気持がしぼんでしまった。あそこまで登っていれば、どれほどのすばらしい景色が見られたことか。
<Mさんとの気持のすれちがい>
・14日間、同行してくれたMさんはマラソンやウオーキングの大ベテラン。200kmマラソンなども完走しており、歩く速度がたいへん早い。
2人の間が離れると、初めは走って追いつこうとしたが、そのうち、こちらもマイペースで歩くようになり、離れすぎると彼は腰を下ろして待っていてくれた。10分以上待たすこともかなりあり、彼もいらいらしていたのではないかと思う。泊まる宿を決めて、彼には先に宿まで行ってもらうなどの工夫をすればよかったと今は思っている。
・Mさんはレストランやカフェが嫌いだった。日本では食事はいつも簡単な物で済ましており、巡礼路でもお店で買ったもので3食を済ますことが多かった。一方、私はパン中心の食事では体がもたないと思い、昼食は、肉と野菜をおいしく食べるために、できるだけレストランを利用した。また、午後の一休みに、私はカフェに入ってコーヒーを飲むのを無上の楽しみにしていたが、彼はこれも嫌いだった。道端に腰を下ろし水を飲めばよいという考え方である。
彼は私に数回ほどおつきあいしてくれたが、内心は入りたくなかったようだ。彼がそんな思いでいるとは全く気づかずにいて、帰ってきてから初めてそれを知ったが、現場で率直に話し合えば「一人は中で、一人は外で」などの方法で解決ができたのではないかと今は思っている。
いずれにしろ、2人以上で歩けば、どんなに仲が良くてもすれちがいが生じる。それを乗り越えるのは率直な話し合いではないかと思う。
14.おわりに
<目的地に到着して>
7月20日の昼過ぎ、サン・ジャン・ピエド・ポ-に到着。
デュバルさんと一緒である。小さな石造りの城門をくぐるとすぐに巡礼事務所。そこで泊まるジットを紹介してもらった。すぐに100m先にあるそのジットへ。
ジットに荷を置き、一人で外に出る。カフェでサンドイッチとサラダを食べながら一休み。カンカン照りの舗装道路を沢山の観光客が行き来している。照り返しで日陰も暑い。「歩き切った」とか「やったー」というような達成感はあまり湧いてこない。何も考えずに、ただボーっとして店先に座っていた。
町の中を散策。巡礼路で親しくなった人達、数人に会う。握手、握手。
夜、初めて日本の友人に数枚の絵はがきを書く。そこにも「感慨は湧いてこない。何もない。無の境地と言えようか」と書いた。
翌日、町が見渡せて、ピレネー山脈も望める高台の城跡に登ってみた。風が吹き抜ける木陰の芝生で一休み。ここでも30分ほど、ただボーっとして座っていた。
マッキンリーの登頂に成功したときは「アラスカ第一の高みに立った。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ」と書いた。
2003年にスペインの巡礼路を歩ききってサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着したときは「行列に並び、私も栄光の門の石柱に手をふれて頭を下げた。でも、あまり感激はない。疲れはしたが、自分の力の限界を感じるほどの大きな困難に遭わなかったせいかもしれない。次いで、大聖堂の奥へ。高い天井。薄暗い大空間が広がる。何かほっとして、心と体が軽くなった感じである。「歩き続ける」という重荷から解放されたためであろう」と書いた。
それが今回は頭の中が空白の状況で、あまり感慨が湧いてこない。
前回よりは、巡礼路を歩くのに慣れてしまったこと、疲れがたまっことなどが原因と思われる。ひたすら歩くだけで、旅を楽しむ余裕がなかったことにもよるであろう。
でも、旅の楽しみは多様で、奥が深い。歩くことだけを目的とする旅から、新しい旅へと転換する時期に来たのかもしれない。
<旅を楽しむには>
・余力を残して歩くこと。
マリーさんは歌を歌いながら歩き、町に着くとスケッチを楽しんでいた。余裕たっぷり。「楽しくて、楽しくて」という感じ。
私は、いつもと言うわけではないが、足や肋骨の痛さに絶えながら何とか目的地に着こうと歩くことがかなりあった。特に1日の行程の後半は、そうだった。これでは、すばらしい景色を楽しむ余裕がなくなってしまう。フランスを歩いているのだという「ワクワク感」も感じなくなる。
余裕を持って歩けるだけの体力が残っているうちに、この巡礼路を歩いていれば、もっと楽しめたと思う。
今回も、マイペースでゆっくりと、休憩時間を十分に取りながら歩けば、もっと楽しめたであろう。
・フランス語や英語が分かれば、巡礼時の楽しみは倍加する。
・そこまででなくとも、城などの遺跡やまち、教会などの歴史を調べていくと、巡礼時の楽しみが増すと思う。
・これらによって終わった後の充実感は増すであろう。
<体重2kg減少>
帰国後、20日経って初めて銭湯に行った。体重を量ると55から53に2kg 減っていた。パンばかりの食事が体には負担だったということだろう。その影響が20日経っても残っていた。マッキンリー登山のときは、毎日の主食が日本から持っていった米だったので、体重がかえって増えたのだが。
<自分の人生にとって、どんな意味を持っているのか>
今はあまり考えられない。時間が経つにつれてはっきりしてくると思う。
<2009.9.17>
今回の旅について、かなりの人に話をした。六つ星山の会の例会でも話す機会があった。時間が経つにつれて、「行ってきた」という充実感が湧いてくるようだ。


















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