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初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-

            「私の登山および旅行記」

 

 

  (目次)

序章

 1.はじめに

 2.写真で見る旅と山のハイライト

第一部 サンチャゴ巡礼の記録 

 第一章 「サンチャゴ巡礼」とは
 
章  初めてのサンティアゴ巡礼 -フランス人の道・800kmを歩く-」
 第三章 「2回目のサンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)」

  第四章 「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼 

  第五章 「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼-

第二部 海外登山

  第一章 マッキンリー

  第二章 アコンカグア

  第三章 キリマンジャロ

第三部 国内登山

 

序章

 

1.はじめに

○ このブログを立ち上げたのは2008年の1月頃。表題を「私の登山および旅行記」として、サンティアゴ巡礼や国内・海外の登山の記録、生い立ちの記などを掲載してきた。最初に掲載したのは「初めてのサンティアゴ巡礼」、次が「マッキンリー」である。
○ 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回にわたる「サンティアゴ巡礼」の記録、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の「海外登山記」、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の「国内登山記」、④「読書の楽しみ」、「生い立ちの記」、「今年の山と旅」等の「日常の思いや記録」、⑤シベリア鉄道等の「海外旅行記」の5つである。

 

記事の一覧はインターネットに「ブログ・私の登山および旅行記・記事一覧を入力すると見ることができる。
○ これまでの山と旅
 私は1977年、40歳の頃から山に夢中になり、ほぼ単独で、初めは「日本百名山」を、次いで北アの全山縦走(西穂から-親不知海岸まで。ジャンダルム、栂海新道、などを越える)、南アの全山縦走(仙塩尾根、高山裏などを含む)、北鎌尾根、転付峠越えなどを楽しみ、その一方で海外にも目を向けてツアーに参加し、

・1988年にモンブラン(ヨーロッパ)、
・1991年にキリマンジャロ(アフリカ)、
・1993年にアコンカグア(南米)、
・1996年(58歳)にはマッキンリー(北米)

と、七大陸のうち四大陸の最高峰にも遠征した。このうち、キリマンジャロとマッキンリーは登頂に成功。特にマッキンリーの登頂成功は、山が素人の私にとって、今では、生涯最高の勲章とも言える、何物にも代えがたい思い出となっている。

 これらに加えて、1989年、51歳のときに視覚障害者登山団体「六つ星山の会」に入会し、以後は毎年10回前後(多いときは20回位)、視覚障害の方々をサポートして山に登ってきた。

  他方、60歳代後半になると体力の低下を感じ始めて、重点を登山からウオーキングに移し、海外を約1ヶ月間歩くサンティアゴ巡礼を始めた。これまでに行ったのは以下の4回。

・2003年夏、スペイン「フランス人の道」(メインの巡礼路。65歳のとき)
・2009年夏、フランス「ル・ピュイの道」
・2012年夏、ポルトガル「ポルトガル人の道」
・2014年夏、スペイン「北の道」(76歳のとき)。

 

○ これらを振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。準備のときから達成するまでの「ワクワク感」、頂上に立ったときや歩き切ったときの「達成感」がすばらしい。

 今でも、それらを思い出すと何とも言えぬ「幸せな気持」で心が満たされる。

「わくわく感」は小学生の頃に「魚とり」や「百人一首」で味わったことがあるが、そんな「わくわく感」を中高年になってから再び味わえるなんて……。2016年11月記  

2.写真に見る旅と山のハイライト(写真の一部、後日挿入

 最初に第一部、第二部を通じてのハイライトをいくつか紹介する。

1)四回にわたるサンチャゴ巡礼

①「フランス人の道」
 メインの巡礼路。サンティアゴ巡礼者の7割この道をが歩く。前半は乾燥地帯を行き、後半は森の中を行く。また、三つの峠越えがある。宿が多く、歩きやすい。
(下:前半、麦畑を行く)
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(下:イラゴ峠)
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(下:後半、森の中を行く) Sl029_007


②「ル・ピュイの道」
 フランスの農村を歩き、四つの観光地を巡る。
 
(下:牧草地を行く)Img_0541
(下:コンク。狭い谷間にあり、森の中に沈んだように見える。絵にしたい風景) Img_0747

(下:サン・シラク・ラホピー。川岸から急な坂道を20分ほど登った高台にある)

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③「ポルトガル人の道」
 見どころは、4っの観光地とアズレージョ。
 
(下:ポルトガル発祥の地・ポルト)


(下:大学都市・コインブラ。大学は13世紀の創立。16世紀に現在地に移る)
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(下:トマール。12世紀にテンプル騎士団が建てた大修道院)
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(下:ロカ岬。ヨーロッパの最西端にあり、詩人・カモンスイの「ここに地終わり、海始まる」の碑が立つ)

(下:青いタイル-「アズレージョ」。ポルトのサン・ベンダ駅構内。教会や道路沿いにも)

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④「北の道」
 スペインの北海岸を行く。海の景色よし。ときには渡し船に乗る。

1646_2(上:San Esteban de Pravia)

1053(上:サンタンデルへの廻り道にて)

150(上:スペイン有数の観光地・美食の都・サン・セバスチャン。巡礼路は海岸沿いを左から右へ行く)
928(上:渡し船には3回乗る)

2)海外登山
「マッキンリー」
 北極圏に近いアラスカの山。白夜の6月が登山の適期。氷点下20度以下を経験。下:山頂)

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(下:左、はるか眼下にBCのテント群。更に遠く中央に登ってきたカヒルトナ氷河)
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(下:アッタク・キャンプへ。45度の雪壁と稜線)
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第一部 サンチャゴ巡礼の記録

(目次)

第一章 「サンチャゴ巡礼」とは

1.サンティアゴ巡礼の魅力 

 1)多くの人との出会いがある。

 2)景色や宿などの点で、添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

 3)旅費が安上がり

2.サンティアゴ巡礼とは

3.四つの巡礼路を比較して

 1)道の難易度

 2)宿の状況

 3)巡礼者の数と出会いの機会

章  初めてのサンティアゴ巡礼 -フランス人の道・800kmを歩く-」

第三章 2回目のサンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

第四章 「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼 

第五章 「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼-

 

第一章 「サンチャゴ巡礼」とは

 

1.サンティアゴ巡礼の魅力 

サンティアゴ巡礼の魅力に惹かれて、徒歩やときには自転車でサンティアゴを訪れる巡礼者の数は2000年-2005年で倍増し、その後の4年間でもプラス5割となり、最近も急増中である。

その魅力はどこにあるのか。まず、これまでの4回の巡礼経験を基にして、私なりに感じたその魅力を紹介しておこう。
1)多くの人との出会いがある。

カミーノの最大の魅力は、世界各国から来た巡礼者や地元の人達と多くの出会いがあること。

歩いている人達は皆、仲間意識が強く、目が合えばお互いにニッコリとほほえみ合い言葉をかけ合う。そして、数日間一緒に歩けば、もう友達のように親しくなる。更に目的地のサンティアゴに到着したときに運よく出会えると、ハグをし合い肩をたたき合って、目的達成を喜びあう。ときには、旅の終わりにスペインの自宅に招待されたり、帰国後に日本に遊びに来て、こちらの自宅に泊ったりということもある。
2)添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

① ツアーではほとんど訪れることのない異国の小さな町や村、あるいは畑や森や川などをめぐるほかに、アルベルゲやジットといった巡礼宿に泊まる。

たとえば、宿では、
・廃村のアルベルゲ(普通のアルベルゲは2段ベットだが、ここは真っ暗な屋根裏が寝場所。天井が低くて這って動いても頭をぶつけるほどだった)、

・プールのあるジット(フランスではプールのある宿に2回ほど泊り、大好きな水泳を嬉々として楽しんだ)、

・宿の主人がバンジョーを弾いてくれるジット(食事の後、1時間ほど弾いてくれた。私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェストし、皆で一緒に歌ったが、なぜか懐かしさがこみ上げてきて、思わず涙ぐんでしまった)、

・宿泊費が無料のポルトガルの消防署(ベッドや毛布はない。借りられるのはマットだけ。それを誰もいない広い講堂の片隅に敷く)

などに泊った。

② 手作りの旅、冒険の旅である。

日程や宿など、すべての計画を手作りで行う旅である。それだけに事前の調査はたいへん。また、乗り物や宿の手配も自分で行うし、旅先で何か困ったときは自分の力で解決しなければならない。手数はかかるが、それが魅力でもある。

出発前の数週間のワクワク・ドキドキ感はたまらない。「ワクワク」と期待で胸が膨らむ一方で、「道は分かるか」「足は痛まないか」「言葉が分からなくても意思は通じるか」など心配は尽きず、はたしてサンティアゴまでたどりつけるだろうかとドキドキし、不安になることもある。

こんな「ワクワク感」は人生ではめったに味わえない。
3)旅費が安上がり(100-130円前後/ユーロ)。

アルベルゲ(スペインの巡礼宿。1泊5-7ユーロ。無料の場合もある。私営の場合は10ユーロ前後)や消防署(ポルトガルの場合のみ。無料)を利用すれば、宿泊費は安上がり。ジット(フランスでハイカーが泊る宿。2食付きで20-30ユーロ)やポルトガルで一般的に利用するペンションはやや高めだが、それでも日本の宿泊費(地方ホテルの素泊りは5千円程度。山小屋1泊2食8千円程度)と比べれば極めて安い。

その他

・朝と昼の食べ物をコンビニで買えば、1食2-3ユーロ。

・夕食はレストランで8-10ユーロ。

・スペインの場合、100円/ユーロで試算すれば、40日間の宿代と食費の合計は800ユーロ、約8万円で済ますことができよう。。

・ただし、このほかに航空運賃、空港までの鉄道・バス運賃、みやげ代などが必要。
4)その他、いくつか

道に迷うことはない。
 ・地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、日本で購入できる。

・分岐点には黄色い矢印などの道標が必ずある。

誰でも歩ける。

 脚力に応じて道を選べば、足弱の人(子供連れや高齢者)でも歩くことができる。

・どこから歩き始めても良い。

・1週間だけ歩いて帰ることもできる。

・一日の行程のうち、一部にタクシーやバス、あるいは電車を利用し、残りを歩くという方法もある。

・特に「フランス人の道」については、宿と宿の距離が短く(5-10km間隔)、脚力に合わせて1日の行程を決めることが可能。

英語やスペイン語・ポルトガル語などの会話ができなくとも歩くことができる。

宿の人、地元の人は外国の旅人に慣れており、宿を取ること、食事をすること、買い物をすることなどについては、ジェスチャーで意思を伝えることが可能である。

自分で食べたい食事のメニューや旅で必要な最低限の単語をあらかじめメモして持参すれば、なおよい。

もちろん、会話ができればもっとよい。旅の楽しさは倍加する。

.サンティアゴ巡礼とは
1)中世キリスト教の3大巡礼路の一つ

エルサレムへの巡礼、ローマへの巡礼と並ぶ中世キリスト教の3大巡礼路の一つであり、最盛期の12世紀には年間50-100万人の人がヨーロッパ各地から、スペイン西北端の聖都・サンティアゴの、聖ヤコブの墓がある大聖堂を訪れたという。今でも、スペイン、フランス、ポルトガルなどに、畑や森を抜け、村や町をめぐる中世の巡礼路がそのままに残っており、サンティアゴ大聖堂を目指してこの道をたどる巡礼者の数は多く、また、年々その数が増加している。
2)主な道は12本

「カミーノ・デ・サンチャゴ」(「カミーノ」は「道」の意味)と呼ばれる、サンチャゴを目指す巡礼路は主なもので12本ある(スペイン7本、フランス4本、ポルトガル1本)。

メインはもちろん「フランス人の道」と言われる巡礼路であり、2013年に巡礼証明を受けた21.6万人のうち、ここを歩いた人は15.2万人(70%)にも上る。宿も多く、ほぼ5-10kmごとにあるので、一日の行程を短くしたり長くしたりの調整が可能であり、足弱の人でも歩きやすく、初めての人にはお勧めの道と言えよう。

歩くのは中世の人が歩いた道そのもの。ほとんどは土や石ころの道であるが、ときどきは、舗装された車道が昔の道の上や近くにあとから作られており、この広い車道を歩いたり、そのそばを歩いたりもする。
 また、土や石ころの旧道でも道幅は広く歩き易い。全行程のうち、ときどきは幅50cm位で草むらに隠れた道を行くが、大半は道幅が5m以上と広く、しかも、峠の場合も急な登り下りは全くない
3)サンティアゴとは聖ヤコブの意味

「サンチャゴ」は「聖ヤコブ」のこと。フランス語では「サンジャック」という。

9世紀頃、この地にキリストの12弟子の一人「聖ヤコブ」の墓が発見され(西暦44年頃エルサレムで殉教したが、遺骸がスペインに船で運ばれたという伝説がある)、10世紀頃に巡礼路が開かれた。聖都・サンチャゴの正式名称は「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」というが、これは「星の野原の聖ヤコブ」の意味(なお、天の川は「聖ヤコブの道」と呼ばれている)。
4)巡礼者数の推移

①巡礼者数推移

サンティアゴにある巡礼事務所が発行する巡礼証明書(巡礼を終えたことを証明するもの。発行条件は巡礼事務所までの最後の100kmを歩くこと。自転車や馬でもよい。自転車は200km)によれば、1990年4,918人、2000年55,004人、2005年93,924人、2009年145,878人、2013年21.6万人と急増しており、ハイキング気分で一部だけを歩く人、いくつかに区切って数年で一つのコースを完歩する人などを含めれば、毎年この数の数倍、あるいは数十倍の人がこの道を歩いていると思われる

なお、巡礼者が急増する「聖年の年(7月25日が日曜のときに聖ヤコブが殉教した。そのため、7月25日が日曜の年には特別なお祭りがある)」については、1993年99,436人、1999年154,613人、2004年179,944人、2010年272,135人となっている。今後は2021年、2027年などが「聖年の年」。

②道別の内訳

2010年の1年間に巡礼証明書(前述)をもらいにきた巡礼者の総数は272千人であり、うち、最も一般的な「フランス人の道」を歩いた人が189千人とたいへん多いのに対して、「ポルトガル人の道」を歩いた人は34千人と少ない。なお、これらは最後の100kmを歩いてサンティアゴまで到着した人の数であって、これらの道の途中だけを歩いて帰宅した人は含まないので、それを入れればこの道を歩いている人の数はもっともっと多い。

③出発地と国別の内訳

「ポルトガル人の道」の出発地別内訳は、リスボン718人、ポルト5,894人、トゥイ18,121人などであり、リスボンから出発する人が極めて少ないこと、行程の途中から増えてくること、特にスペインに入ってからの最初の都市・トゥイから歩く人が多いことなどの特徴がある。

一方、「ル・ピュイの道」については、この年にル・ピュイを出発点としてサンティアゴまで約2ヶ月の長距離を歩き通した人の統計しかないが、3,280人と、リスボンからの出発者の約4倍となっている。ル・ピュイの道を歩く人はフランス人の道よりはるかに少ないが、私のようにサン・ジャンまでの人や途中の数日間のみをハイキングする人も合わせれば、ポルトガル人の道よりはかなり多いと推定される。

なお、巡礼者総数272千人の国籍別内訳は、スペイン188(単位千人。以下同じ)、ドイツ15、イタリア14、フランス9、ポルトガル8、イギリス2、アメリカ3、カナダ2、ブラジル2などであり、日本人のみの統計はないが、日本、韓国、中国等を含めたアジア全体では2,462人となっている。
5)その他、いくつか。

・サンチャゴ巡礼のしるしは帆立貝。
 これをザックに着けて、杖をついて歩く-もっとも着けていない人もかなり見かけた。

私はサン・ジャン・ピエド・ポーの巡礼事務所から無料でもらい、ずっと着けて歩いた。
 みやげも、帆立貝をかたどったものが多い。
巡礼宿に泊るには、巡礼手帳が必要。
 「巡礼手帳」は出発地の巡礼宿や教会で簡単に入手できる。名前やパスポート番号を記入の上で交付され、泊る都度、その宿に固有の印が押される。
 宿泊場所の印がずらりと並んだ手帳は、巡礼をしたことのこの上ない記念になるので、歩く間は、パスポートと同じ位に大切であり、無くさないようにいつも注意をして歩いた。

「巡礼証明書」も後日、大切な記念となる。これはサンチャゴに到着して巡礼事務所に行くともらえるが、もらうには、最低、サンチャゴへの最後の100kmを歩くことが条件で、その証しとして巡礼手帳を提示する必要がある。
・道しるべは「青地に白いほたて貝のマーク」や「黄色い矢印」
 「青地に白いほたて貝のマーク」や「黄色い矢印」の道しるべが、家の壁や樹木等、いたるところにあるので、道に迷う恐れはほとんどない。町の中では数十mおきにある。
 私が「フランス人の道」で、道に迷ったのは4回。早朝出発で暗くて道しるべを見落としたときと、別れ道の両方に道しるべがあるときだった。両方にあるのは、先に行って合流するか、一方がアルベルゲに行くかのときである。
巡礼者用の水飲み場(「フエンテ」という)
 巡礼者用の水飲み場はまちや村の広場にたいていある。森の中にあることも。冷たい湧き水である。私は胃腸に悪いのではと注意して、常にミネラル・ウオーターを買って飲んだが、旅の途中で出会った日本の若者達はフエンテの水を飲んでいた。硬水だが(日本は軟水)、お腹は大丈夫とのこと。人によるようだ。
トイレ
 トイレは、歩いて数時間の距離に点在するまちや村のバル(喫茶店兼飲み屋。後述)にしかない。野山を歩く間は自然の中でとなる。誰もがそうしていた。
その他 
 なお、欧米の人達がこれらの旅を気楽に楽しめる背景には、巡礼路に宿泊費の極めて安い宿がそろっているだけでなく、働いている人でも1ケ月程度の長期休暇が可能という事情があるように思う。これは日本と大きく異なる点であろう

3.四つの巡礼路の比較
1)道の難易度
 歩くのにきびしい道かは、急な登り下りがあるか、宿と次の宿との距離がどれだけあるかなどによるように思う。そんな視点で見ると、
 「フランス人の道」には標高1500mの三つの峠越えがあり、きついと言えるのに対し、他は丘陵地帯の登り下りなので、それほどきつくはない。
 一方、「フランス人の道」には、ほぼ5-10km置きにアルベルゲがあり(ただし、ピレネー越えなど、いくつか例外はあるが)、歩き易いのに対し、他の三つの道は、次の宿がある町までの距離が長く、1日に20-30kmを(ときには1日に34kmも)歩かないと次の宿に着かないことが多い。
 総合的に見れば「フランス人の道」が、二つの峠の頂に宿があるということもあって、最も易しく、初心者向けと言えようか。
  歩く人が多い「フランス人の道」は、助けが必要な時にすぐに人が呼べるという点でも初心者向けであろう。

2)宿の状況 
 巡礼者が泊まる安い宿は主に、スペインでは「アルベルゲ」、フランスでは「ジット」、ポルトガルでは「ペンション」である。なお、ポルトガルでは「消防署」に無料で泊まれる。
 ① 「アルベルゲ」
 スペインで巡礼者が泊るのは、一般に公営や教会運営、あるいは地域のボランティア団体が運営する「アルベルゲ」。1泊朝食付きで5-6€。時には無料で、募金箱に寄付する形式のものもある。その他、個人営のアルベルゲもあるが、こちらは朝食付きで10-15€。ぎっしり並んだ二段ベットに寝る。
 もちろん、アルベルゲが満員だったり、個室でのんびりしたかったりすれば、ペンションや二つ星ホテルに泊る。こちらは20-30€(ほとんどが朝食付)。アルベルゲについては第2章で詳しく紹介したい。
 ② 「ジット」
 フランスには全国に「ジット」というハイカーの宿が存在する。巡礼路にも1日の行程に一つはあり、大部屋に一段ベッドか、2段ベッドで(ときにはプール付邸宅を開放したものや、蒙古のパオに寝るものもあるが)、2食付きが多く、30€前後。素泊りは8-12€。
 ③ 「ペンション」と「消防署」
 ポルトガルで泊るのは「ペンション」。個室。食事なしで15-30€。その他で特筆すべきは、ポルトガルでは巡礼者が消防署に行けば無料で泊めてくれること。私は3回利用したが、貸してくれるのはマット1枚だけで、大講堂の片隅に寝る。
 ただし、利用する人は少なくて、1・2回目は私だけ、3回目も2人だけだった。
3)巡礼者の数と出会いの機会
・「ポルトガル人の道」は、巡礼者との出会いの機会は他よりやや少ない。
・「フランス人の道」は、巡礼者数全体の約7割を占めており、たいへん多く、出会いの機会も多いと言えよう。更にこの道で巡礼者が泊まるのは「アルベルゲ」であり、これは数人から数十人が一部屋に泊る形態なので、そこでも出会いの機会がある。
・これに対し「ル・ピュイの道」は巡礼者の数が少ない。ただし、巡礼者は「ジット」というフランス特有の宿を利用し食事を共にすることが一般的なので、会食を通して他の巡礼者と親しくなれるという特徴がある。
・一方、巡礼者の数が少なく(リスボン-ポルトの間は特に少なかった)、また、行程の前半は個室泊りのペンションなので他の宿泊者と顔を合わせることがほとんどなくて、出会いの機会は前2者よりは、はるかに少ないように思う(アルベルゲが現れるのはポルトガル国内では最後の4日間であり、あとはスペインに入ってからである)。

・なお、私にとっては、言葉が通じないことも出会いの機会を少なくする要因だった。

ただし、言葉がうまく通じなくとも、勇気を持って積極的に話しかけていけば、出会いの場をいくらでも増やすことは可能。

 

4)景色

景色は「フランス人の道」と「北の道」が良い。

「フランス人の道」は1500mの峠を3つも越えるし、丘陵地帯では樹木の生えていない稜線を歩くことが多いので、展望が楽しめる。それと、大聖堂のある都市をいくつか通るほか、後半には中世の雰囲気が残るスペインの農村も通る。

「北の道」については、もちろん、人影の全く見えない寂しい海岸から、都会の賑やかな大海水浴場まで延々と続く海の風景が見どころ。

これに対し、「ポルトガル人の道」は峠越えと言っても、せいぜい標高200m-400mの高さを数回越えるだけ。しかも山林の中なので遠望は効かず、景色の良い所は少ない。ただし、この道は中世の道が当時の石畳や石垣とともに残るところが多いので、中世の町や村の雰囲気を十分に味わうことができる。また、この道には、ポルトなどの中世の都市の見物、ポルトガル名物「アズレージョ」(青いタイル)の鑑賞などの楽しみもある。

なお、「ル・ピュイの道」は丘陵の上のフランスの農村地帯を行き、樹木が少ない牧草地や畑地を行くことが多いので、展望は効くが、あまり昔の道という雰囲気は残っていない。コンクなどの観光地を巡るほかは、フランスの農村を歩けること、フランス語が聞けることが魅力であろうか。

 

第二章

 『 初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く- 』

                              2003年6月26日-8月4日

(この稿は「スペイン・サンティアゴ巡礼の旅 NO1-NO10」を集約し改題したものである)

 最初に写真で概要を紹介する。

<サンティアゴの大聖堂に到着して>

 「あまり感激はない。…大聖堂の奥へ。高い天井。薄暗い大空間が広がる。何かほっとして、心と体が軽くなった感じである。…遊園地を散策。子供達が嬉々として遊ぶ姿を目にしたとき、ふと、(普段の)我に返り、何故か、目頭が熱くなった。」

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(上:サンティアゴ大聖堂の入口にある「栄光の門」を支える中央の柱。柱の上には「サンティアゴ」の立像。一千年の間に数千万人の巡礼者が訪れたことと思う。彼等は到着すると、まず、この柱に手を触れて祈りを捧げた。)

(下:サンティアゴまでの最後の100kmを歩いた人がもらえる巡礼証明書。到着日と名前入り。もう一枚は巡礼手帳。毎日、アルベルゲやホテルに泊まるときに提示し、宿泊を証明する印を押して貰う。手帳は現地の教会やアルベルゲで手に入る。また、「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」でも発行してもらえるが、こちらはカラー版で、外国の巡礼者が欲しがる一品である。今ではどちらも私の思い出の宝物。)

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<道>(
前半は乾燥地帯、後半は森の中)

(下:旅の前半は麦畑を行くことが多い)

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(下:ヒマワリ畑)

(ビアナを望む)

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(下:眼下にアストルガ)

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(下:一日中、家のほとんどない平坦な畑の中を行くこともある。)

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(下:旅の後半は雨の多い地帯に入り、森の中を行くことが多い。)

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(下:丘陵地帯の登り下りもある)

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<宿>

(アルベルゲは2段ベッド)

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(下:「フランス人の道」はメインの巡礼路なので、アルベルゲは混むことが多い。午後の開門を待って長い行列ができることも)

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(イラゴ山中、廃村・マンハリンのアルベルゲ)

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(下:シツル・メノーの教会で一泊。祭壇の前。ぐっすり眠れた。)
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(上:サン・ファン・デ・オルテガの教会付属のアルベルゲ。無人の台地を延々と数時間歩いて、やっと着く。人里離れたところで、ほとんど家のない小さな村にある。)

(下:スペインに85ある高級国営ホテル「パラドール」は古城や修道院を改装したもの。サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダで、その一つに泊まる。二人部屋を1人泊り89ユーロ。サンティアゴの「パラドール」は133ユーロだという。たまにはこんな所に泊まってのんびりするのもよい。)

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<見どころ>(標高1000m-1500mの三つの峠越え)

(ピレネー山脈「イバニエタ峠」の頂上。フランスとスペインの国境である。巡礼者は麓から登山道を登るが、別に車道もある。)

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(下:イラゴ峠越え。山頂近くのレストランと宿。更に行けば廃村・マンハリンに前記のアルベルゲがある。)

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(上:イラゴ峠を越えて、山道を下る)

(下:セブレイロ峠からの展望)

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(上:セブレイロ峠頂上のアルベルゲ。側を車道が通り、ここには小さな町がある。)


<美しい三つの町>

(ビヤフランカ・デル・ピエルソ)

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(下:ポルトマリン。橋の向こう側の階段がその入口。)

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(下:ポルトマリンからの朝の眺め)

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(下:フィニステラ。大西洋に夕日が沈む。海のはるか向こうはアメリカ。)

 <見どころ>(スペインの古い農村)

 

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<カミーノの最大の魅力-多くの人達との交流>

Sl007_027(昨夜、スペイン風の賭けマージャンをやっていたおじさん達と)

(マジョルカ島のお嬢さんと。銀行勤めという。)Sl008_028
Sl014_009(スペインの親子4人と。前夜、同じ宿に泊まる。農家の人で、自家製チーズをご馳走してくれた。背後はアストルガ)
Sl021_030(スペインの青年と)

Sl008_014(ロス・アルコスの民営アルベルゲにて。日本のお嬢さん、スペインの女性、ドイツの男性、宿の女主人と共に。独英、西英、日英などの辞書を使って、たどたどしい会話を楽しんだ。)

Sl021_002(ポルトマリンにて。日本の青年と。それぞれが単独行。)

(ブルゲーテ村の子供たち)
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Sl018_037              (小さな巡礼者)

Sl029_033           (バルにて。魚釣りの客と酒を飲むバルのマスター)

Sl015_013(イラゴ山の頂上付近、フォンセバドン村のレストラン。ここを訪れた女優・壇ふみの写真が飾ってあった。マスターと。)

Sl011_021(国旗はデンマーク)

<巡礼者の像>

Sl013_020_2 

Sl016_037_2 Sl017_014 

<マリア様>(カトリック信仰の国の故か、大きなマリア様の像が多い)
Sl030_006 Sl013_009

 

(以下、本文 2003年記)

<はじめに>

 キリストの弟子・聖ヤコブ(スペイン名・サンチャゴ)の墓がある聖都・サンチャゴを目指して、スペイン北部を東から西へと約800km、徒歩で横断する巡礼の旅が日本でも知られるようになった。昨年はNHKテレビが「地球に好奇心」や「地球に乾杯」という番組で取り上げ、ことし2003年はTBSテレビが「世界ふしぎ発見」で取り上げた。
 中世のキリスト教信者が歩いた道が町や村や森の中にそのまま残る-そんな異国の地を長期間歩く旅は、ツアーでの海外旅行に飽き足りない人達には、たいへん魅力的であり、我が国でも行きたいという人が増えてきたように思う。
 私もそんな魅力に捕えられ、サンチャゴ巡礼に出かけた一人である。成田出発は2003年6月26日、帰国は8月4日。単独行。歩いたのは32日間。1日も休まずに歩き続けて、800kmを歩き通した。

 これはそのときの記録である。自分の思い出をできるだけ詳しく記録として残すことと、これから行く人に参考資料を提供することの二つを念頭に置きながら書いてみた(2003年記)。

 注)2回目以降の巡礼の旅については、当ブログに別掲の下記記事を参照されたい(下線部分をクリックしてください。エラーと出る場合は、下線部分をコピーし、インターネットに入力すれば見ることができます)

サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼 

「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼

<行こうと思う-サンチャゴ巡礼はマッキンリー登山に続く私の夢>

○ 私の夢はこれまで「登山」にあった。
 人が山に求めるものはさまざまであろう。雄大な自然を求めて、あるいは里山のどこか懐かしい雰囲気を求めて,人は山に入る。
 また、未知の世界を歩きたい、絵を描きたい、写真を撮りたい、あるいは仲間との語らいを楽しみたい、瞑想にふけりたい-といった思いを追う人もいる。でも、山の懐(ふところ)は限りなく広く、それらのすべてを満たしてくれる。そこには、人それぞれの山の楽しみ方があり、どれが最高で、どれが最低といった価値の上下はない。
 そんな中で私が登山に求めたのは、「挑戦」の対象としてだった。
 自分の体力と技術ぎりぎりの山にチャレンジすることは、人の心をリフレッシュさせる。力の限界に挑み、困難を乗り越えて何かをやりとげようとすること、それは人の心を夢で満たし、わくわくさせる。
 人生には、会社組織の歯車の一つに組み込まれて自分の努力の結果が見えない場合や、先の見通しがないままに何年も粘り続けなければならない場合があるが、登山や冒険旅行では、自分の努力が成功に直接結びつくし、がんばる期間が限られていて、終わった後には快い休息が待っている。

 私が登山に集中したのはこの20年間である。ほとんどが単独登山。初めは経験が浅いために、どの山も自分の力で大丈夫かと不安で、行く前はドキドキしたものである。
 まずは百名山。それがほぼ終わると、少しずつレベルを上げていった。国内登山では、栂海新道(北アルプス・旭岳-親不知)、黒部・下の廊下、ジャンダルム、南アルプスや北アルプスの全山縦走(以上、単独行)、槍ガ岳の北鎌尾根(ガイド付き)、熊野から吉野へ・修験者が行く山岳道の縦走(友人と2人で)というように。これらについては
当ブログ別掲の「国内の山の挑戦」等を参照されたい。
 また、海外登山では、モンブラン、次いでキリマンジャロ、南米のアコンカグア、更にアラスカのマッキンリーに挑戦した(キリマンジャロ、マッキンリーは登頂に成功。マッキンリーについては、当ブログ別掲の「
マッキンリー その1」(今は「あこがれのマッキンリーへ -58才の夢を追って-」と改題)を参照されたい)。

○ ところで、マッキンリーに行ったのは1996年(58歳)。次のチャレンジ対象として、初めは、8000m峰か、せめて7000m以上の山に登れないかと模索し海外登山の専門家にも相談したが、経費がかなり掛かりそうなこと、体力が衰えてきたことなどがあって、あきらめざるをえなかった。
 登山対象をレベルアップしていくことは難しい、それならウォーキングで何かないだろうか、-そんな思いの中で、1年程前にNHKのテレビ<地球に好奇心>「千年の道(カミーノ)・祈りの旅-スペイン・サンチャゴ巡礼」(2002年10月5日、BS2で放映。2002年11月3日、総合テレビで再放映。その後、「地球に乾杯」でも放映)を見て、「行けたら、いいな」と思うようになり、山の仲間と話しているうちにそこへの旅が具体化した。

○ ただし、一緒に行く予定だった友人2人は急に行けなくなった。3人で玉川上水(1月22日)や荒川の土手(2月4日)を歩くなどして、着々と準備を進め、また、航空券の手配も終わっていたのだが-。

 さあどうする。英会話はほとんどできない。これまでのフリーの海外旅行では、会話のできる娘や息子のあとを付いて歩いていたし、今回も、一緒に行く友人が英語に堪能なので、安心して付いていくつもりだったのだが。それが、一人で行くとなれば、ツアーに参加しないで一人だけで行く、初めての海外旅行となる。はたして意思が通じるか、自信がない。

 延期をするか。でも、延期をしても、それぞれに都合があり、3人が日程を合わせて行けるかどうか。
 一方、介護をしている母を40日間、老人施設に預ける手続は済んでいる。延期をした場合、老人施設の収容人員にほとんど余裕がないので、再度スムーズに希望の日を予約できるかどうか分からない。今が絶好のチャンスかもしれない。

 また、一人旅への魅力もある。人に付いて歩く旅には緊張感がない。いざとなれば、頼れる人がいるからだ。一人旅だと、言葉が分からない中で全てをやらなければならず、未知の旅、ドキドキする旅といった魅力が強烈にあり、引きつけられる。

 母の介護疲れを吹き飛ばすためにも、行こうと決心した。

<行く前の不安-6/20記>
☆ 3月の雪山登山で滑落し、太ももを痛めたが、歩けるだろうか。ひざが痛くならないだろうか。
 
3月16日に富士の外輪山・十二ヶ岳に出かけて雪の岩場で7-8mほど滑落し、太ももを強打したのだ。幸いだったのは、頭を打つことなく、また、ピッケルが体に刺さることもなく、命に別状がなかったこと。でも、かかった医者の治療の誤りもあって、2ヶ月近く太ももの張れが引かず、膝が曲がらずに苦しんだ。
 医者を換え、やっと張れが引いたのは5月下旬。それから足の調整を開始した。まず、6月に入り、30分のジョギングを試みたが、そのあとは、ももが張って困った。次いで、旅に必要なものをザックに詰めて、1-2時間、何回か、利根川の土手を歩いてみた。荷の重さは12kg。まだ、CDプレーヤーや水が入っていないので、これ以上の重さになるはずだ。
 歩くと、時々、ひざに痛みを感じ、しかも、歩いたあとに、その痛みが少し残った。まだ、不安だ。次に、ひざのサポーターを3種類買ってきて、試着して歩いてみた。今度はひざが痛くならない。サポーターを着ければ何とかなりそうに思えた。行くとしても、足の痛みがひどくなれば帰国するしかないだろう。
 足のまめ用のばんそうこうも3種類用意した(あとで分かったが、このうちの一つは世界中で愛用され、海外の巡礼者も持っているものだった。ジョンソン・エンド・ジョンソン社製。数種類のサイズがある。ただし、まめができる前に使用する必要あり。まめができてから張ると、かえって悪化させるという)。

☆ 荷を軽くしなければ。
 雨が多ければ上着や下着がそれぞれ3-4枚は必要。峠越えが寒ければフリ-スや厚手のシャツ、軍手も。宿がないときのためにツェルトも必要か。暖かい飲物がいつでも飲めるようにテルモスはどうか。ガスコンロのほうがよいかもしれない。
 CDプレーヤーは持っていきたいが。本は3冊、探偵もの、時代もの、旅行記など。それに辞書。今までの海外旅行の経験では、体調がおかしいときは日本のご飯を食べると持ち直したので、乾燥米の「わかめご飯」も持っていきたい。
 こうなると、荷が重過ぎる。結局、テルモスとガスコンロはあきらめた。それでも荷は重い。あと、何を減らすかは、向こうで考えよう。

☆ 体調は保てるか。
 休んでいた水泳を始める。まず、30分、クロールで1000mを泳ぐ。大変疲れた。次に50分で1800mを泳ぐ。慣れたせいか、それほど疲れない。2000mを泳ぐ。それほど疲れない。
 また、体調をくずしたときのために、胃腸薬、風邪薬、栄養剤などいろいろと薬を用意した(もっとも、栄養剤については、現地で飲むと胃が痛んだので捨ててしまったが)。
 歩いたあとの疲れをとるために、ストレッチ体操についても勉強。

☆ 言葉が通じなくても、旅ができるか。
 スペイン語はできないし、英語も「かたこと」程度しかできないが、宿をとるとき、食事を頼むとき、鉄道やバスの切符を買うとき、道を聞くときなどに、自分の意思を伝えられるだろうか。
 とりあえず、西和・和西辞書を用意。
 また、六つ星の会員で、視覚障害者(全盲)の石田信子さんから、スペインのバヤドリッド在住の日本人でワインの輸出を扱う「人見(ひとみ)さん夫妻」を紹介してもらった。いざとなれば現地で電話をして、日本語でいろいろ教えてもらうためだ。6月19日にあいさつの電話をする。
(なお、石田さんは視覚障害者でありながらスペインに単独で語学留学をし、スペイン語をマスターした勇気と努力の人。その後、愛犬セレス(盲導犬)と一緒に二拾数回、単独フリーで(ツアーではない)-しかも、ガイドなしで-スペイン旅行をしている。
 海外旅行で晴眼者は景色を楽しむが、彼女は現地の人と会話を楽しむ。とても楽しいという。視覚障害者の海外旅行の楽しみを「スペイン語会話」という面から切り開いた人と言えよう)。

☆ いつでも帰れるように。
 行っても最後まで歩けるか、不安は尽きない。結局、いつでも帰れるように、帰りの航空券は3万円を追加し、帰国日を一度だけ変更可能なものとした。足がひどく痛んだり、食事が合わず体調をくずしたりしたとき、また、言葉が通じないで旅が続けられなくなったときは、途中で容易に帰国できるようにしたのである。

<出発>
 さあ、出発だ。65歳、一人旅の始まりである。行きは成田発21:55。空港でCDプレーヤー(1万円)と国際テレホンカード(7千円)を買う。CDのフロッピーは家から6枚持参した(お気に入りの「大黄河」「新世界紀行」「白鳥の湖」「ショパン・ピアノ曲」など)。
  飛行機は空いており、3つの座席を独占し横になってぐっすりと眠ることができた。現地に着いても、時差ボケに悩まされることがなかったのは、そのお陰かもしれない。

<サンチャゴ巡礼とは>
 冒頭の「第一章 サンチャゴ巡礼とは」を参照されたい。、

<「バル(Bar)」について>(以下、お金は当時、1ユーロ、135円)

 まちや村には、たいてい、バル(Bar)があり、これに寄るのが旅の魅力のひとつである。小さな飲み屋兼喫茶店と言えようか。地元の人達のたまり場になっていて、昼は、地元の老人達がビールを飲みながら雑談したり、賭け事のトランプをしており、夜は、旅人も含めて、近所のおじさん達や家族連れの交流の場兼飲み屋になる。
 バルでは、トルティーヤ(スペイン風オムレツ。これは無いバルがある)やボカディージョ(細長くて固いフランスパンにハムやトマトをはさんだサンドイッチ)、クロワッサンなどの軽食がとれるので、薄暗い早朝の6-7時頃に歩き始める巡礼者の多くは、ここで朝食をとり、また、歩く途中の休憩の場として利用する(なお、日の出は8時頃。日の入りは22時頃)。
 バルは千差万別。
 数坪しかない村のバルでのこと。午前中なのに主人が釣りに来た客とワインを飲んでおり、やってきた村人がカウンターに1ユーロを置くと、主人が自分の持っているビンからワインを一杯注いでやるという光景が見られた。
 また、村の中、薄暗い石造りのお城のようなバルには哀愁を帯びたスペイン音楽が流れており、立ち去りがたい感じ。隣りに座る中年のイギリス女性に「ナイス・ミュージック」と声をかけるとうなずいていた。
 一方、国道沿いの、奥にレストランを併設するきれいなバルに入ると、「靴を脱ぐことおことわり」の写真が張ってあった。脱ぐと巡礼者の足がひどく臭うからだ。バルに入ってホット一息つき、靴と靴下を脱いでくつろいでいたら、ウエイトレスがやってきて、写真を指で差し注意された。

<アルベルゲとは>
 アルベルゲとは、巡礼路沿いにほぼ5-10kmおきにある無料に近い宿泊施設である。たいていは、教会の中やその隣りにあるが、学校の体育館や5階建ての神学校の一部、あるいは、地域で建てた独立の建物などのこともある。また、これら公営のほかに、小さな宿屋がアルベルゲとしての許可を取り、民営で運営しているものもある。また、普通は同じ地域に一軒つだが、二軒あることもある。
 素泊りの宿泊費は無料か、せいぜい3-6ユーロ(個人営では10ユーロ前後)。公共や教会営のものは、地域の人達や他の地から希望してやってきた人達(たとえば、2回歩いたので、今度はボランティアのためだけでやってきた人、そのまちが気に入って、しばらくとどまり、ついでにボランティアをやる人など)が、無報酬で運営に参加している。
 部屋の中には鉄パイプ製や木製の2段ベッドが並んでおり、上に乗るとギシギシゆれる。また、マットは古く、中央が人型に落込んでいるものもある。定員は一般に50-100人。サンチャゴやその4km手前のモンテ・デ・ゴソには定員500-1000人のアルベルゲもある。また、小さなアルベルゲだと、ときには、ほぼ満員となり、冷たい床に寝かされたり、断られて4km先のアルベルゲまで歩かされたりすることがある。逆に、まちに2軒あるうちの、民営のほうに行ってみると、空いていて客が4人などということもあった。

 私はこのアルベルゲに25泊したが、日本から行く年配の人の中には、「落ち着かない、眠れない、疲れがとれない」という理由で、ホテルやホステルの利用を中心とし、他に宿がないといった、やむをえないときにだけアルベルゲを利用する人もいた。

 でも、アルベルゲには大きな魅力がある。それは、同宿の人達とすぐに仲良くなれること。前述したように、もともと、カミーノを行く人達は仲間意識が強いが、同宿となればまた格別である。
 知り合いになると、バルで休憩の時や、まちを散歩の時に会えば、必ず手を挙げて声を掛けてくるし、サンチャゴで再会でもすれば「よくやった、よくやった」と、肩を抱き合い、たたきあい、目的達成を祝福し合う。大都市ブルゴスで知人(前述のスペイン在住の日本人夫妻)と歩いていたときのことだが、前日まで数泊を共にした拾数人の一団にぱったり出会うと、全員に取り巻かれ「たけし、たけし」と肩をたたかれて、とてもうれしかった。

 その他、
アルベルゲについて、いくつか。
☆ シャワー
 シャワーは必ずあるが、お湯がでるアルベルゲは半分位。水だけのところも多い。

☆ 自炊用のキッチン
 自炊用のキッチンが必ずあり、経費節約のため、近くのコンビニで材料を買い、手作りで夕食をとるグループがかなりある。

☆ 宿
 宿に着くと、まずはシャワー、次いで洗濯。その後は、昼寝をする人、バルに出かける人、まちの見物に行く人など、それぞれ。宿の庭は干した洗濯物で満杯となる。

☆ 注意
 注意したいのは、宿の受付時間がまちまちのこと。受付開始が午後3時とか、5時とかで、到着しても入れないことがある。一方、11時半や1時というところもあり、いつでも自由に入れるアルベルゲもある。

<印象に残ったアルベルゲ>
○ さて、印象に残ったアルベルゲで第一に挙げたいのは、イラゴ山中の廃村・マンハリンのアルベルゲ。大きな赤と黄色の旗がひるがえり、元牧師だったといわれる中年の男性が管理している。
 この人、扉に「午後6時から受付」と張り紙をして、旅人が何人到着しようと、薄暗い小屋の中で寝ており、起きて来ない。標高1500m、6時ともなれば寒くなるが、他に店はないので旅人は外で待つしかない。やっと起きてきて受付。
 小屋に入ると、垂直のはしごを上った、昼でも真っ暗な天井裏が宿泊場所。頭がつかえそうな板敷きの上にマットが10枚ほど並ぶ。食事は彼の手作り。店のない廃村なので、どんなに腹が空いても、その出来上がりを待つしかない。野菜入りスパゲッティが宿泊者11人にふるまわれたのは9時過ぎだった。
 この間、彼はほとんどしゃべらないので、いつ食べられるのかは誰にも分からない。シャワーなし。トイレなし。また、犬はもちろん、馬も放し飼い。夕方、道の向こうから大きな動物がやってきたので、びっくりしていると、それは馬。誰の指図も受けずに目の前の馬小屋に子馬を連れて入っていった。おとぎの国に迷い込んだような感じである。
 彼は変人として有名とあとで聞いたが、山中を通る旅人や宿泊者に無料で暖かい飲物や食事を提供している信念の人でもあるようだ。
 その他、気に入ったのは、教会の祭壇の前に1段ベッドをいくつか並べたアルベルゲ。隣りにあるアルベルゲが満員のときの、臨時のもの。パンプローナから4km先のシツル・メノーにある。教会の高い天井と祭壇を見ながら眠りに付いたが、気持が落着くので、ぐっすり眠れた。また、教会そのものも、赤い旗を掲げて、遠くから見るとお城のようにカッコよかった。
○ プエンテ・ラ・レイナの第二アルベルゲは広々とした清潔な体育館。シャワー室もピカピカ。これも気に入った。広いレストランも併設されており、夜はそこで11時頃まで、スペインのおじさん4人が麻雀に似たスペインのゲームに熱中していたのを思い出す。
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○ 民営のアルベルゲには2回泊った。一つはロス・アルコスの小さな食料品店の2階。前に書いたが、客はドイツのおじさん(64歳で、45歳の奥さんと10歳・6歳の子供がいるという)とスペインのOL、日本のお嬢さん(エステリヤで会った人が傷を直して追いついてきた)の4人だけ。
 宿の女主人も入れて5人でテーブルを囲み、日本語・スペイン語辞典とドイツ語・スペイン語辞典を交互に引いて、まだるっこしい会話を楽しみながら、豆とにんじんのサラダ、スパゲッティ、果物という6ユーロの夕食を食べた。

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<その他の宿泊施設>
 その他の宿泊施設としてはホステルがあり(大きなまちにはホテルもある)、旅の疲れを癒したいときに利用できる。これらには最高の五つ星から、最低の一つ星までのランクがあるが、私が泊まったのは、ホテルに6回(最初のパンプローナと最後のマドリッドを含む。二つ星から四つ星のもの。シングルで35-50-90ユーロ前後)、ホステルに5回(最後にバスで行ったフィニステレとラ・コルーニャを含む。すべて一つ星。シングルで15-25ユーロ)である。
 ホテルでは、値段は高いがパラドールがおすすめ。私も行く前から、一度は泊りたいとあこがれていた。「パラドール」とはスペイン全土に85軒ある国営のホテルで、どこもお城や修道院などを改装した中世風の豪華なもの。道中には3つあったが、シングルの宿泊代は、サンチャゴの五つ星パラドールが133ユーロ、レオン・五つ星が108ユーロ、サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ・四つ星が89ユーロだった(ただし、シングルは不利で、二人で泊ってもほとんど同額)。
 私はサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダで泊った。また、サンチャゴとレオンは値段が高いので迷ったが、結局あきらめて、内部の豪華さを一目見るためにお茶だけを飲みに行った。
 ホステルは、アルベルゲがなかったバルカロス村とブルゲーテ村で利用。また、タルダホスでは10ユーロの宿(ホステルの看板はない。無許可?)に泊った。そこは国道沿いのバルの3階にある。
 12時過ぎに村に着いたが、アルベルゲの受付開始は3時半とのこと。かんかん照りの暑い屋外で待つのはやりきれないので、村の人に聞いたところ、教えてくれたのだ。
 大都市のラ・コルーニャでも、ホステルの看板がない宿に泊った。バスを降りると、おばさんが寄ってきて25ユーロの宿があるという。荷が重くて宿を探すのがたいへんだったので、付いて行くこととした。部屋はビルが立ち並ぶ大通りにある8階建ての建物の5階。このフロアーには部屋が数室あり、私のは真ん中の薄暗い一室。高すぎると思ったが、宿代を前払いしてしまったので、あとの祭り。
 ホステルで掘出し物はマンシージャ・デ・ラス・ムラスのそれ。アルベルゲと書いてあったが、高級なホステル(宿泊料金40ユーロ)。食事ができる、しゃれた庭とレストランがあった。また、私の部屋の壁やベッド・カバーは落着いた赤の色で統一されており、ちょっと中世風な感じ。これはおすすめのホステルである。

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<なぜ歩くのか>
 ところで、みんな、なぜこの道を歩くのであろう。中世は「信仰」ひとすじの人が多かったと思われるが、現代ではどうか。何人かの欧米人に聞いてみた(もっとも英語の「かたこと」で通じる範囲であるが)。精神的な何かを求めて-、森の中を歩きたいから-、人とのふれあいが楽しいから-、仲間との旅が楽しいから-などなど。若者の中には、「完走すれば就職に有利」という者もいた。信仰だけではないようだ。
 一緒に歩いてみた感じでは、家族や友人と「旅を楽しむ」といった雰囲気がとても強く、一人旅の人も、道中でいろいろな人と親しくなり、会話を楽しんでいた。
 信仰という点では、教会の夕べのミサに出席するのは巡礼者の1-2割程度のようである。もっとも、レオンのアルベルゲでは、アルベルゲを管理している教会のミサへの出席が宿泊者の義務になっており、ほぼ全員が出席した(これには私も出席。約40分間の、尼僧の説教と神への祈りは初めて体験だった)。
 また、到着直前のパラス・ド・レイで教会見物に出かけたときのことだが、丁度ミサの最中で、「はるばるここまでやって来た」という感激からであろうか、巡礼者の中に、涙ぐむ娘さんやそっと涙をぬぐうおじいさんが見かけられ、庶民の信仰が息づいているのを感じた。

<カミーノの最大の魅力-多くの人と仲良くなれる>
 カミーノの最大の魅力は、前にも述べたように、知らない人達と仲良くなれることにある。歩いている人達は皆仲間という感じで、目が合えば、お互いにニッコリとほほえみ合い、言葉をかけ合う。「オラ」(いつでも、どこでも使えるあいさつの言葉)、「ボノデアス」(おはよう)、「ボン・カミーノ」(良い旅を)など。そして、数日一緒に歩けば、もう友達のようになる。
 バルセロナの、いかにもスペイン人といった、たくましいおじさん。マジョルカ島の2人連れのお嬢さん。2人の女の子と夫婦の家族連れ(ご主人は娘が可愛くてしかたがないといった様子。下の子に5円玉をあげたら、ご主人が自家製のチーズをくれた)。
 ワイマールから歩いてきたというドイツの青年(あるとき、ベッドが隣り合わせになる。3月20日がスタートという。もう、3ヶ月も歩いているのだ)。
 ロザリオをくれたウィーンの若い女性(イスラエルから取寄せたもの。彼女は彩色のロザリオを持っており、私にくれた無地のものは男性用という)。

Sl006_007
 地中海のニースから歩いてきたというフランス人。歩くのは5回目という73歳のドイツのおじいさん。荷が重過ぎると忠告してくれた35歳のアメリカ人教師。サン・ジャン・ピエド・ポーで偶然一緒になり歩いてきたというイギリスとカナダの4人連れの青年。
○ いつもあれこれと教えてくれた、信心深いスペインの中年の男性(薄暗い教会にたった一人でうずくまり祈っているのを何回か見かけた)。同じまちの仲間6人(男子3人、女子3人)でやってきた、少しだけ日本語のできる17歳のドイツ少年。自転車でオランダからやってきた56歳の医師(ロ-マも往復したという)など、など。

 日本人にも20人位に会った。
 小学生の男の子2人を連れて、タクシーを使いながら主要なところは歩いてきた若いお母さん(アルベルゲや、ホステルで、偶然にも何回か一緒になり、サンチャゴ到着前日のアルベルゲでは、コンビニで材料を仕入れて、同宿の人達がうらやましがるような、タラコのスパゲッティや野菜スープなど、豪華な夕食を作ってご馳走してくれた。
 マッキンリーの話をしたときに上の子が瞳を輝かせながら聞いていたのを思い出す。また、下の子で思い出すのはアルベルゲの庭で漢字の練習をしていた姿)。
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○ こんなところに2度と来たくないと思ったはずなのに、数年が経つと、どうしても来たくなったという2回目の青年。24歳。ポルトマリンで会う。勤務先が不景気で人員整理があり、それに応募したもよう。お金がなくて、無銭旅行に近い。ここのアルベルゲは無料なので(普通は3-5ユーロ)、宿泊費が節約できて、とてもうれしいと言っていた。
 外資系企業勤めで、1ケ月の休暇をとってやってきた25歳の青年(数ヶ月前にテレビで放映された「世界ふしぎ発見」の「サンチャゴ巡礼」を見て、急に来る気になったという)。
 トルコからパンプローナへ牛追い祭を見に来て、ついでに歩いているという、世界を放浪中の青年(着替えも雨具も持たず、ザックの重さは1kg程度。軽装でヒョウヒョウと歩いていた。足取りはたいへん軽い。一休みする都度、夏用の薄い上着を乾かし、夜はそのまま寝るという。寝るとき寒ければ周りのものを体に乗せるし、雨が降ったら村まで走るという。私がスペイン西端のまち、フィニステレにサンチャゴからバスで行ったら、彼はすでに徒歩で到着しており-サンチャゴから3日の歩程-、浜辺で夕日が大西洋に沈むのを見るようにと教えてくれた)。
 巡礼後、フィニステレが気に入り、7ケ月間、アルベルゲの管理を手伝っているという青年。

○ キリスト教信者として一度は歩きたいとやってきたが、ひざを痛めてエステラのアルベルゲで停滞していたお嬢さん(ロス・アルゴスのアルベルゲで再会)。
 やはりまめを作ってナヘラのアルベルゲで停滞していたお嬢さん。サンチャゴの駅でバッタリ出合った72歳の女性など、など。 
 
 日本人は、親子で歩いていた若いお母さんを除いて、すべて一人旅だった。
   

<会話ができて、ワインが飲めれば、もっとよかった>
 多くの人達と親しくなった。でも、スペイン語や英語ができて、更にワインが飲めれば、もっと親しくなれたであろう。旅は数倍楽しくなったはずだ。
 スペインはワインの産地。特にログローニョ周辺のリオハ地方のワインは有名。アルベルゲに着いた旅人は、家族や友人はもちろん、旅で知り合った人も誘ってバルに出かける。ワインを飲みながらの談笑。でも、飲めない私は誘われても、なかなかその輪にとけこめなかった。

<誰でも歩ける>
 ところで、カミーノは、その人の脚力に合わせれば、誰でもが歩けるところである。スペインの人達は何回かに区切って行く人が多いようだ。歩くのも、1日平均20km。これだと、朝7時のスタートで午後1時か、2時には次の宿泊地に着く(私は日程が限られていたので、朝5時半スタートで40kmを歩いたりしたが、午後はめまいがしそうな位に暑くて、体力を消耗した)。
 また、見どころが多いブルゴスやレオンでは2泊し、のんびり休養することも考えられるし、歩きたいところだけを歩くことにして、あとは鉄道やバス、タクシーを利用するというやり方もある。
 それと、暑い季節は避け、5月や9月に行くという手もある-その季節に行くスペイン人は多いとか-。
 道は広くてゆるやか。歩きやすいので視覚障害者にも十分楽しめよう。注意するのは、ときどきある国道歩きである。歩道がないので、体のそばすれすれを大型トラックが風を切って通過する。

 また、治安はよい。旅行者にとって、パリやローマと比べると、スペインの首都・マドリッドはヨーロッパで最も危険が多いところであり、昼間の繁華街でも強盗殺人事件があると聞いたが、北部に位置するこの巡礼路の治安は比較的よいと感じた。
 持ち物が盗られそうな危険は感じなかったし、歩いている誰からも物を盗られたという話は聞かなかった。もちろん、パスポートやお金といった貴重品については、肌身を離さない等の注意が必要だが。私はアルベルゲのシャワー室にも、この二つは持ち込んだ。

 経費は飛行機代(成田-マドッリド間往復は、夏で15-20万円、春秋なら10万円以下)のほかは、切り詰めればかなり安く行ける。私は25泊はアルベルゲ泊り(1泊500円前後)だった。
 食事は毎食、コンビニで買ったもの(水、パン、ハム、シーフードの缶詰、バナナ、リンゴ、モモなど)を食べていれば、安あがり。夕食はアルベルゲのキッチンで自炊をすればよい。
 外食の場合は、バルでボカディージョ(フランスパンにハムなどをはさんだもの)とコーヒーの朝食をとれば、3-4ユーロ。クロワッサンとコーヒーなら、1-2ユーロ。コーヒーだけなら、0.5-1ユーロである。
 夕食は、レストランの巡礼者用定食が7ユーロ前後-、大盛のサラダ(またはスープ)と肉料理にパンとワインが付く。私が常食とした、大盛のサラダに目玉焼きとポテトフライは、ミネラルウォーターと紅茶が付いて、7-9ユーロである(やや高級なレストランでは、スープもつけて15ユーロ)。
 国内を移動する場合は、バスを使うときわめて安い。サンチャゴ-フィニステレ間は2時間半乗って10ユーロだった。マドリッド-サンチャゴ間のバス代が9時間で30ユーロ。なお、同区間の鉄道特急(「タルゴ」という)は1等47ユーロ、2等36ユーロである。

<おすすめのまち、おすすめのコース>
 この道は大きく分ければ、
①標高1000mから1500mの三つの峠越え、
②乾燥した内陸部・レオン周辺の、木陰がなく、延々と続く麦畑の道、③大西洋に近く、雨が多く緑が多いガリシア地方の森の中を行く道の三つに分けられる。

 おすすめのコースはいろいろある。その人の好みにもよるが、私は、三つの峠越え(ピレネー、イラゴ山、セブレイロ峠)、牛の糞の臭いがする中世の村を次々に通りすぎるサリア-ポルトマリンのコース、ポルトマリン以降の森の中を行くコースなどを推薦する。
 逆にレオンをはさんでの数日間は私には単調すぎた。そこは広い、広い麦畑。木が1本もなく日陰がないところを、はるかかなたに霞む地平線を見ながら、ひたすら歩くというコースが多かった(これが最高だという人もいたが)。

 それから、バスで行ったフィニステレ(フィステラ)は他を割愛してでも行くとよい、最高におすすめの場所である。ここは大西洋岸のスペイン西端のまち。到着手前の隣り町の、数kmはありそうな真白な砂浜と浅瀬が続く緑の海には、スペインの茶色い屋根と白壁の建物がピッタリ。
 ついで岬の先端から望む大西洋の荒波。また、まちの西側のビーチ(広大な砂浜。巡礼者は「ビーチ」と呼ぶ)では、大西洋に沈む夕日が見られる。ただし、好天に恵まれることが条件ではあるが。
 私は夕方の9時過ぎに夕日を見に行った。港から15分のところ。砂丘の上から眺めると、1kmはありそうな広い浜辺に点々と黒い人影があった。腰をおろして夕日をじっと眺める人、なぎさを歩く人。巡礼を終えた数人の若者である。はるかかなたはアメリカ。夕日が沈み、寒くなったが、どうしても、海に手を触れたくなり、私も砂浜に下り、なぎさまで歩いていった。思い出のひとコマである。

 また、中世の雰囲気を残すまちや村も、巡礼の道に彩りを添えて、なかなかよい。古城がある赤土の丘、その麓に広がるカストロヘリスのまち、湖畔にある、景色のよいポルトマリンのまち、2階建てや3階建ての家々が狭い石畳の道をはさんで壁のように連なり、中世の雰囲気が特に濃厚なプエンテ・ラ・レイナやロス・アルコス、ナヘラといったまちまち。
 私はそれらのまちのアルベルゲを宿とし、路地裏を散策し、中世に建てられた薄暗い石造りの教会を訪れては、照明で美しく輝くマリア様を仰ぎ見た。

 更に、歩いていく途中では、いくつもの小さな村を通る。教会の尖塔や鐘楼が必ず中央にそびえ、麦畑のはるかかなたからでも、村があることが分かる。
 村に入ると、崩れかかった石積みの農家があり、牛糞の臭いがただよう。牛や羊の群れが道一杯に広がって行く手をさえぎることも。犬や鶏は放し飼い。道端には大きな犬が寝転び、やさしい目で巡礼者を迎える。ときには、吠えかかる犬もいるが、杖を持っているので、安心。
 道端では、農家のおばあちゃんが砂糖をまぶした薄いトルティーヤを売っている。カメラを向けると、歳をとった姿を写されるのは絶対にいやだと拒否された。更に行くと、農家の庭先でブルーベリーと野いちごの無人販売を見つけた。1パック、1ユーロ。

 これらのほか、もちろん、大聖堂(カテドラル)がある大都市のブルゴスやレオンの景観、目的地サンチャゴの聖都としての雰囲気なども見逃せない。これらは観光案内に詳しい。

 巡礼路沿いにある数多くの教会のほとんどはロマネスク様式と言われ、旅の見どころの一つであるが、私には充分に鑑賞する余裕がなく、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院(ブルゴスから巡礼路をはずれた60kmの山中にあり、回廊は世界一美しいと言われる)にも寄らなかった。

 注)ロマネスク様式とは、11-12世紀に西ヨーロッパの全域で流行した建築様式である。壁は石積みで分厚く、窓は小さく、天井は半円形。全体に重厚な感じがするが、内部はうす暗い。なお、「ロマネスク式」(ローマ風)と名付けられたのは19世紀に入ってから。
 なお、大聖堂(カテドラル)とは、司教が在任している格式の高い教会のことで、司教区内(大きなものは日本の県ほどの広さあり)にある一般の教会を統括する。

 <私の場合-ひたすら歩く>
 私が歩いたのは、上記のフランス道。フランスのサン・ジャン・ピエド・ポーからピレネー山脈を越え、東からスペインを横断。大西洋に近い西のサンチャゴまでの約800kmである。

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 新幹線の東京-岡山間が733kmなので、それよりは少し長く、四国八十八ヶ所巡りの所要日数が40-45日と言われているので、それよりはやや短い。また、地球の円周は約4万km。15年前の1988年にシベリア鉄道に乗って、その1/4の長さを経験したが、今回は歩いて、その1/50を経験したことになる。
 私はこの道を32日間、1日も休まずに歩き続けて-ときには1日に40kmを歩いて-、歩き切った。
 行く前の想像の世界では、このスペイン行きが夢の世界に行くようで、とてもロマンティックに感じられた。でも、実際は、ただ、ひたすら歩くだけ。歩いている間は、ほとんど何も考えなかったし、ロマンティックな感慨にひたるということもなかった。

 黛まどか(「星の旅人」の著者。同じ行程を48日間で歩く。末尾参照)は、全行程は、「自分の人生を振り返る期間、突き詰める期間、その自分を離れる期間、再生する期間」の4つに分けられ、それを経験する中で「それぞれが自らの内に歩くべき道を見い出し-」と書いている。
そして、パウロ・コエーリョ(「星の巡礼」の著者)も瞑想に耽りながら歩いた。また、NHKのテレビ(前述)は、家族の問題を抱え、それを解決しようと歩く2つの家族を取り上げている。
 でも、私はただひたすら歩くことに没頭した。考えたのは「どこで休むか」、「どう行程をこなすか」といった程度である。
朝のスタートから数時間は快調だが、だんだんと足が重くなる。それでも歩く。適当な休憩場所がないときは、数時間歩き続けることも、しばしばだった。
 午後、暑さが40度にもなろうというときに、木陰がなく、延々と、はてしなく広がる麦畑の中を歩き続けるのは苦しいものである。夏のこのとき、普通の巡礼者は朝の6-7時頃に出発するが、昼頃で歩くのを止める。
 午後も歩き続けるのは、若者や日程に余裕がない者だけ。私もその一人だった。ときには午後5時頃まで歩いたが、ほとんど人影がない中、上からの太陽と下からの照返しで暑さは頂点に達し、真白でまぶしく輝く道を行くと、目まいがしそうで不安になる。
 予期せぬ突然の目まいで、倒れてしまうかもしれないといった不安がよぎる。でも、休める日陰は1-2時間に1回ある程度。立木や積み上げた牧草など、日陰に巡りあうとほっとする。靴をぬいでの大休止だ。
 空気が乾燥しているので木陰は(建物の中もそうだが)、日本より格段に涼しい。風がとても気持よく、いつまでも休んでいたい気持になる。でも、持参の果物を食べ、20-30分の休憩で再び歩きだす。
 今思えば、午後10時までは明るいので、木陰で昼寝でもして、たっぷりと休息をとり、もっと余裕をもって歩けばよかったと思う。そうすれば、「カミーノって何かな」とか、「生きるって何なんだろう」と考える余裕が生れ、自分を振り返る時間が持てたかもしれない。

 やりだしたらやり続ける、疲れていても前に進み、早く目的地へ着こうとする-それは、単独登山の場合にも共通する、私の性分のようである。宿に着いても同じことだった。旧市街や教会をできるだけ見物しようと、歩き廻ることが多かった。
ブルゴス、レオンのような大都市だと、疲れた足を引きずって4-5時間は歩きまわった。これも、今思えば、そこに2泊でもしてゆっくり見物すれば、感慨もより深まったように思う。

<サンチャゴ到着>
 7月29日。快晴。歩くのはきょうが最後。民家が点々とある丘陵地帯を行く。サンチャゴの手前4kmにモンテ・デ・ゴソの丘。丘の上からサンチャゴ大聖堂の尖塔が望めるとのことだったが、遠くの森と一体となってしまい、確認できなかった。横にいたイギリス人女性にも聞いてみたが、「分からない」とのこと。
 丘の麓に広大な宿泊施設あり。
 (下:モンテゴソの丘。1000床もあるというアルベルゲ)

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 丘を下りて市内に入り、レストランで昼食。更にザックを背負ったまま、大聖堂に向かう。年1回の大祭がある7月25日は過ぎていたが、聖堂前の広場や店が並ぶ路地裏には観光客があふれていた。
 やっと到着。まずは大聖堂の中へ。入口を入るとすぐに有名な「栄光の門」とそれを支える一本の石柱。中世以来、数千万人の巡礼者がヨーロッパ中から歩いてきて、この石柱に手をふれ祈りをささげた-、その場所に来たのだ。キリスト教を信仰する欧米の人々にとっては、すべての罪が許され、神への感謝と目的を成し遂げたという感激で心が満たされるところである。
 行列に並び、私も石柱に手をふれて頭を下げた。でも、あまり感激はない。疲れはしたが、自分の力の限界を感じるほどの大きな困難に遭わなかったせいかもしれない。
 並んでいた人に写真を撮ってもらう。
 (下:サンティアゴの像が架かる「天国の門」と巡礼者が手を触れる石柱。私も手を触れた。本稿の冒頭にある写真も参照された)

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 次いで、大聖堂の奥へ。高い天井。薄暗い大空間が広がる。何かほっとして、心と体が軽くなった感じである。
「歩き続ける」という重荷から解放されたためであろう。正面に金色に輝く聖サンチャゴの像。更に奥へ進むと、この像の背後へと石段が続いていた。
 列に並んで石段を上がり、一人一人、等身大よりやや大きな聖人の像の後ろから肩越しに手をまわして像を抱く。傍らで、司祭が聖サンチャゴを描いた小さなお札をくれた。
 聖堂を出て次に向かったのは数分のところにある巡礼事務所。巡礼を終えたことを証明する巡礼証明書をもらうためである。薄暗い2階に上がると数人が並んでいた。100km以上歩いたことを示す巡礼手帳を示し名前入りの証明書をもらった。嬉しい。早速、近くの店で保管用の筒を買い、大切に保管することにした。
 きょうはアルベルゲ泊り。丘の上にある神学校の3・4階がアルベルゲである。 
荷を置き、公園へ。遊園地を散策。子供達が嬉々として遊ぶ姿を目にしたとき、ふと、我に返り、日本にいるときのような普段の自分を感じた。毎日、あまりにも歩くのに夢中で、自分を感じる余裕がなかったようだ。何故か、目頭が熱くなった。

<完走できたのは>
 800kmを完走。
 行く前は不安が多く、まさか完走できるとは思わなかったが。足がよくもったものだと思う。最後の4・5日間は、一晩寝ても足の張れが引かず、ひざと足の裏をかばいながら歩いた。特に、足の裏は骨にひびが入ったように痛むことがあった。

 何とか完走できた理由としては、次のようなことが考えられる。

a)足にまめができず、ひざも歩けないほどには痛くならなかったこと
 これは次の対策を取ったためである。
ひざのサポーターを必ず着用し、また、5本指の靴下を履き、ひざや足の指が痛まないように予防したこと。
痛くなりかかると早めに手入れをしたこと。たとえば、まめができそうになるとばんそうこうを張り、また、足の裏が痛くなるとすぐに靴下を2重にした。普段は5本指のものを1枚だけ履いたが、そのほうが指が痛まないためである。
歩く前と後に入念にストレッチ体操をしたこと-歩いた後は疲れきって到着するので、ストレッチは省くこともあったが-。
休憩時には靴と靴下を脱いで足を休ませたこと、などである。

 周りの人の中には、ひざを痛めたり、足の裏の前半分に大きなまめができたりして、脱落する人が何人もいた。たいていは準備不足か、注意不足のせいである。
 たとえば、スペインの人は普通の運動靴やサンダル(足首を縛るひもが付いたもの)を履いており、日本の若者も、しっかりしたウオーキングシュ-ズを履いている人はいなかった。
 また、ひざのサポーターを持たない人がほとんどだった。一方、歩き始めの元気一杯のときに、1日40-50kmを歩いてまめをこしらえ、更に歩き続けてドクターストップになる人もいた。


b)食べ物が自分に合ったせいか、体調が維持できたこと
 初めの頃、疲れてお腹が痛くなったときに、サラダと目玉焼きとポテトフライを食べたら、急に気分が良くなった。
それ以来、昼と夜はこれを常食としたが、それが食欲と体調を維持できた大きな要因のように思う。逆に、そのためだが、この旅ではスペイン料理のメインとも言うべき「肉」と「魚」の料理はほとんど口にすることがなかった。


c)荷を軽くしたこと。
 最初、ザックの重さは15kg位あった。1500m前後の峠越えが3つあるが、これを日本の登山と同じだと思い、登山なみの準備をしてきたためである。
日本の登山では場所や季節にもよるが、装備不足が命に係わることがあるので、いつも充分に装備を持つようにしていた。
 この荷を持って、ピレネー山脈のイバニエタ峠(標高1057m)を越え、4日目のパンプローナまで歩いたが、さすがに疲れた。
と、その日の宿泊先で会ったアメリカ人(35歳。教師)から、「目的を達成しようと思うなら、荷を軽くしなさい」と、荷を捨てる身振りを交えて、忠告された。
 荷の重さにはまいっていたので、これをすぐに実践。寒くはないので、まず、寝袋(シュラフ)を捨てる-シュラフカバーだけ残す(これで充分。ただし、巡礼者のほとんどはシュラフを持っていた。6月のこの暖かさは今年だけかもしれない)。
 ついで、小説本3冊のうちの2冊を捨て、上着のシャツとズボンも4着づつあったのを、2着だけにする。
足が痛くなったときのためにと持ってきた地下たびも捨てた。靴下も5足を3足に。非常用食料として持ってきたアルファー米(わかめご飯)6袋は2袋に。3種類の足のサポーターは、1種類がひざにぴったりで常用しはじめていたので、残りは捨てた。
 その他、辞書やスペイン案内も、不要部分を割いて捨てた。CDプレーヤーとフロッピーは-異国の空で聞く「新日本紀行」や「大黄河」は最高で、マッキンリー登山にも持っていったものだったが-、家に送り返した。
 とにかく、カミーノの道は峠でも、国道が近くを通っていることが多く-遠くても数kmしか離れていない-、しかも、巡礼者がほとんど途絶えることなく通るし、夜は10時まで明るいので、遭難の恐れはまずない。そのため、日本の山のような装備は必要ないのだ。

 <困ったこと>
 食事で困ったことは次の項で書くとして、一つは、ラ・コルーニャで宿の鍵(5階のフロアーから外に出る鍵)が開かずに、外に出られなくなったことである。
 このときは管理人が開けに来るのをしばらく待っていたが、来そうもないので、5Fの隣りの部屋で寝ていた若いスペイン女性をノックをして起こし(最初は眠そうにして部屋に戻ってしまった。
1時間後に再び起す)、身振りで苦境を訴え、2時間後に脱出することができた(別に出口があった。その女性と一緒にエレベーターで1Fに下り、スペイン語で住人と交渉してもらい、やっと外に出してもらった。この間、私は一言も喋らず、身振りだけで奮闘)。
 また、銀行が閉まっている日曜日に、手持現金がなくなったので、クレジッドカードかトラベラーズチェックでホテルに泊まろうとして、宿泊を断られたことがある。
 多分、満員だったのだろう。この村(ブルゲーテ村)には、アルベルゲはないし、あとは安いホステルだけ。でもそこに泊るには現金が必要。空のさいふとトラベラーズチェックを見せて、身振りで苦境を訴えると、ホテルの主人や従業員が寄ってきて、ワイワイ言う。
 でも、何を言っているのか分からない。こちらも「私はどうしたらいいの」というスペイン語を知らないので、どうしたらよいかを聞くことができない。ややパニックに陥ったが、結局、現金払いのホステルに泊ることにした。
 翌朝6時の出発を9時に延ばし、銀行が開いたらトラベラーズチェックを現金に換えて支払えばよいということに気が付き、朝、現金を入手し支払いを済ませたのだ。

<とまどったこと>
 困ったというほどではないが、生活習慣の違いにとまどうことがいくつかあった。
 たとえば、銀行が早く閉まるので(大都市で午後2:30。まちでは午前中だけのことも。私が着くのは午後の3時-5時頃)、トラベラーズチェックをお金に換えることが難しく、また、銀行があってもトラベラーズチェックの両替を扱っている銀行が少なく(同じ銀行でも扱わない支店があって、時間内に着いても何軒もの銀行を回らなければならない)、現金を持っていないと、ともかく不安だった。
 買物でもとまどった。午後は(1時頃から-6時頃まで)、バルを除いて、ほとんどの店がいったんは店を閉める。そのため、宿泊地に到着しても、6時過ぎまでは食べ物が買えずに困った。初めの頃は事情が分からずに、開いている店がないかとまちの中をうろうろと歩き回ったものである。

<言葉の問題>
 私はスペイン語はできないし、英語も小学生の「かたこと」レベルである。それでも何とか、自分の意思を伝えながら旅を続けることができた。
 意思を伝えるには、英語が通じる場合は「かたこと」の英語を使い(文章にする能力はなく、知っている単語をいくつか並べただけであるが)、また、英語が通じないときはスペイン語の辞書を引いたり、簡単なスペイン語を覚えたりして、それを使った。もちろん、ジェスチャーも大いに役立った。

(その1:交流)
 まずは、巡礼路を歩く人達との会話。ほとんどのスペイン人は英語が話せないが、イギリス人やアメリカ人のほか、フランス人やドイツ人、スイス人などは英語を話せる人が多かったので、その人達とは「かたこと」の英語で話をした。
 たとえば、「どこの国の人ですか」(from where country?)、「歳はいくつですか(your age?)」、「スタートは何日ですか、どこからですか(first start when? where?)」、「巡礼に来た理由は何ですか(why camino?)」「職業は何ですか(teacher or doctor or?)-職業という英語が分からなかったので、具体的に職業を並べて聞いてみた-」といった具合である。
 また、言葉が通じなくとも態度で親愛の情を表し、多くの人達と親しくなった。道中では何度か一緒になる人がいるが、私はおじさん達に再会すると、よく、「やあ、また会いましたね」という気持を表情で示しながら、体を抱き肩をたたきあったし、青年達とも固い握手を交わした。
また、そんな中で、親しくなったスペインの2人のお嬢さんは、別れるときに私を抱いて両ほほにキッスをしてくれた。

(その2:食事)
 言葉で一番の問題は食事。
初め、バルやレストランに入るには勇気が要った。なにしろ、メニューがスペイン語なので、入っても、どうしてよいか分からない。初めの数日間は入るのが怖かった。でも、何事も前に出なければ解決しないと自分を励まし、思い切って入ることにした。
 バルの場合は、割と簡単だった。カウンターに食べ物(ボカディージョやトルティーヤのような軽食)が並んでいるので、欲しいものを指させばよいのだ。
これがレストランとなるとそうはいかず、スペイン語で注文しなければならない。初めのうちは、注文するものをあらかじめ決めておき、辞書にある単語に線を引いて注文をしていたが、そのうちに、いくつかの単語を覚えて使うようになった。
 覚えたのは、アグア・ミネラル(ミネラルウォーター)、ペケニヤとグランデ(小さい・大きい)、カフェ・ソロとカフェ・コンレチェ(ミルクなしのコーヒーとミルクたっぷりのカフェ・オレ)、テ(紅茶)、エンサラダ・ミクスタ(缶詰のフィッシュをまぶした、大皿に山盛りのサラダ。レタス、トマト中心)、ウエボス・フリトー(卵の目玉焼き)、パタタス・フリトー(フライド・ポテト)、パン(フランスパン)、トースタ、クロワサン、トルティーヤ(スペイン風オムレツ)、パエリヤ(魚介類と野菜の炊き込みごはん)、ソパ(スープ)、それに、ウノ(一つ)、シ・ノ(イエス・ノー)などである。
 このうち、ウエボス・フリトー、パタタス・フリトー、エンサラダ・ミクスタの三つは昼と夜の常食。前にも書いたが、最初の頃、体調がすぐれないときに食べたら急速に体調が回復したことがあり、それ以降はこればかりを食べるようになった。
 また、パエリヤも何回か食べたが、これがある店は店頭に日本語も入った共通のポスターが張ってあり、分かりやすかった(無い店が多い)。
ソパも何回か頼んだ。セブレイロ峠のレストランのラーメン風スープ(細いスパゲッティが入ったもの)、カルボアの村のホテルで飲んだ豆のスープ、サンチャゴのしゃれたレストランで飲んだカニの入ったスープなど、どれもたいへん美味しかった。
 このほか食べたのは、リンゴ、モモ、スモモ、バナナなどの果物。これらはコンビニで直接カウンターに持っていけばよかったので、名前は覚えなかった。

 そんな中、レストランでは困ったことが何回かある。

☆ カストロヘリスのレストラン
 カストロヘリスのレストランで「ペレグリノ・メヌー」という巡礼者向けの定食セットを注文したときのことだ。
メインの食べ物はメニューの中から選ぶようになっており、ウエイトレスの若い娘さんがスペイン語で一生懸命に説明してくれるのだが、まるで分からない。
 あせっているのか、娘さんの可愛い顔は真っ赤。こちらが辞書を差し出しても、それを見ることもなく、早口で説明を続ける。メニューに書いてある単語を辞書で引いてみたが載っていない。
こんなときは、何が出てくるか分からないが、メニューを適当に指さして頼むほかない。

☆ アストルガ
 アストルガでは、こんなこともあった。レストランは午後8時に開くのが普通だが、アルベルゲの周りだと、もっと早いところもある。
あるレストランの入口に開店は7時と書いてあるので、入っていくと、ウエイトレスの娘さんがだめだという。
こちらは「7時を過ぎたよ」と時計を指すのだが、こわい顔でにらみつけて何か言う。どうしてなのか全然分からない。こんなときは、退散するしかない。

☆ ナヘラにて-「7」の意味
 また、ナヘラに着いた日の午後、バル兼レストランに入ったときのことである。メニューを見たいので「メヌー」と言ったが、持ってこない。店のおばさんが何か言っている。
 数字を言っているようだ。紙に「7」の字を書いて持ってきた。「メヌー」は定食セットをも意味するので、「定食セットは7ユーロ。それを食べるか」と言われたのだと理解し、「OK」と答える。
 ところが、どうも様子が変。そのあと何度かやりとりをし、やっと間違いに気がついた。「今はバルの時間でカウンターに並んだものしかない。午後7時からがレストランの時間。メニューを見せて注文をとるのはそれから」ということだったのだ。


☆ ポンフェラーダ
 ポンフェラーダでは中華料理の店を見つけた。久しぶりにごはんが食べられると勇んで入ったのだが、英語が通じない。
中国人風のウエイトレスとマスターは純粋のスペイン人のようで英語は話せないという。「ライス」というが、分からない。
 「ハポン(日本人)」と言いながら、手でご飯と茶碗の形を示すが、それでも駄目。辞書は持っていなかった。メニューの一覧を見ると「Arroz」という単語の付いたメニューがいくつか並んでいる。「Arroz」はお米かも。
 白いご飯なら、一番安いやつだ。思い切ってそれを注文してみると大当たりだった。茶碗に山盛りのご飯が運ばれてきた。あとはメニューに写真入りで載っていたワンタンと肉野菜いためを注文。


(その3:その他)
☆ まちの人とすれ違うときは、覚えたてのスペイン語であいさつをした。覚えたのは、「オラ」(朝昼夜、いつでも使える挨拶のことば)、「ボナディアス」(おはよう)の二つ。
☆ また、ホテルでは英語が通じた。もっとも会話が必要なのは、「シングルで1泊いくらですか(single one-night how much?)」「電話はどこですか(telephone where?)」と聞くとき位だが。
☆ ホステルでは英語は通じない。フランスの国境を越えたバルカロスでは、宿のおばさんにスペイン語が話せないことを身振りで伝えると、「フランス語なら、どうだ」と聞かれた。この辺りは、スペイン語でなければ、フランス語という世界であり、英語は完全に圏外だった。
☆ 駅で鉄道の切符を買うときは紙に書いて示したし、バスの切符は行き先を言えば簡単に買えた。サンチャゴでは、バスセンターの切符売り場が閉まっていて、うろうろしていると、おばさんが英語のできる人のところへ連れていってくれた。バスで直接買えばよいとのことだった。
☆ また、買物のときは、買いたいものを指でさし、買いたい数を指で示す。たとえば、ハムを1ユーロ買いたいときは、ハムを指さしながら1ユーロを見せる。
果物などは自分で取って計ってもらう。自分で秤に載せ、出てきたシール(品物に付いている番号を押すと値段が記入される)を貼ってカウンターに持っていく店もある。
☆ 巡礼の道を確認するときは、「カミーノ?」とひとこと言えば、誰もが親切に教えてくれる。
ある朝、きょうは長距離を歩かねばと暗いうちから歩きだし、まちを出たところで道標を見落とした。
別の道をしばらく歩くが、次の道標が見えてこない。不安に感じていると、真っ暗な中、前方に車のヘッドライトが見えた。
手を挙げて車を止め「カミーノ?」と聞くと運転していた青年が丁寧に正しい道を教えてくれた。

 大きなトラブルがあれば困ったであろうが、たいしたトラブルがなかったので、まあ、何とか言葉の問題はクリヤーできた。

 それと言葉の問題である程度安心して旅が出来たのは、先に述べたような事前の準備(西和・和西辞書を持参したこと、知人からスペイン在住の日本の人を紹介してもらったこと、更に、言葉が通じず、旅をすることがむずかしければ、すぐに帰ってくることとし、航空券は帰りの便が変更可能なものとしたこと)などが背景にあったからである。

<思い出・その他>
☆ 名刺
 名刺代わりに、自分と家族を写した写真のカラーコピー(B5版)を20枚、白黒コピーを30枚ほど持参。自分の年令、語学の程度、登山の経歴(マッキンリー、キリマンジャロ、富士山などに登ったこと)、趣味、家族構成などもスペイン語で書き入れた。
 道中で仲良くなった数十人の人達にこれを配ったが、話題作りにはたいへん役に立った。
 また、後日、この名刺を見たという人にも何人か会い、巡礼をする人達の間で話題になっていることを知った。

☆ 写真
 撮った写真は約1000枚。初めは景色を撮るのに夢中だったが、数日すると関心はもっぱら「人」に移った。巡礼をする人、村の老人、かわいい子供達などである。
 これらの人を前から写すときは必ず承諾を得て撮った。
 「三銃士」のダルタニアン風の青年が目に付いたので、一枚撮った。でも、背が高くて、金髪を垂らし、青い目のキリストのような雰囲気を持つ青年については、何とか撮りたいと思ったが、機会がなくて、とうとう撮り損ねてしまった。
 写真機は2度買換えた。午後の酷暑の中を持ち歩いたせいか、日本から持参した小型で高価な写真機が数日で壊れ、韓国・サムスン社製の安いものを買った。しかし、これも壊れ、再度日本製のものを購入。これも、フィルムを押さえるピンがはずれたが、自分で直した。写真機が何度も壊れるなんて珍しいことである。

☆ 天気
 通り雨に数回出遭っただけで、天候には恵まれた。大西洋に近いサンチャゴを含むガリシア地方は雨が多いところと聞いたが-雨で霞むサンチャゴの風景は有名-、そこでも雨に遭わなかった。運が良かったのだろう。
 逆に、太陽の日差しがたいへん暑かった。午後は10分も帽子なしで歩けば倒れてしまうような感じ。サングラスも眩しさを防ぐのに役立った。
また、日没は午後10時頃なので、8時頃までは西日が暑く、町を散歩するときは日陰を選んで歩いた。6月というのにこの暑さ。ヨーロッパを襲った熱波の影響かもしれない。

☆ 電話
 我が家へはほぼ2日おきに電話。また、人見さんにも数日おきに電話をして状況を伝えた。一緒に行けなかった小林さんにも数回電話。六つ星の人や友人の尾幡にも1-2回電話した。
 利用したのは主にKDDIの国際テレホンカード(成田で購入)。カードの表面を削って出た番号をダイヤルすれば繋がった。カードを差込む必要はなくて、受話器をはずしダイヤルするだけでよい。
 コインでも電話をしたが、電話機が壊れていて掛からないのにコインを飲込まれたり、留守電に掛かってコインを損したりと、やや不便だった。
 行く前にレンタルで携帯電話を持参することを検討したが、これは高くてやめにした。

<歩き終えて>
 人生を充分に楽しんだ。
 この旅の感想を深めるには、絵や詩歌で感性を磨くこと、読書で思索を深めること。
 わくわくするような旅行は、もう無さそうだ。
 さて、これからは。

 

< 行 程 >

<6月26日>
 成田発21:55。
<6月27日>
 
日本からマドッリドへの直行便はない。空路、パリを経由しマドッリドへ。更に空路、パンプローナへ。
11:50着。タクシーに乗り、日本で予約しておいたホテルに向かう。ホテルに荷を置き旧市街を見物。更に歩くと建物の壁に巡礼者のための「道しるべ(青い貝のマーク)」があった。
 しばらくそれをたどって歩く。こうやって歩くのだと思うと心がはずんだ。次いで、城壁の下にある公園へ。中世の橋も渡ってみた。後日、パンプローナへ入るときに再び渡るはずの橋である。
 アルベルゲにも寄る。管理人はおじいさん。巡礼手帳をもらう。壁にタクシーの電話番号と各地への料金表が張ってあったので写しとった。バス・センターへ。スペイン東端・ロンセスバリエスへのバスは1日、1本、18:00のみ。これでは1日遅れるし、サン・ジャン・ピエド・ポーには行けない。バスはやめることにした。
 スペイン語が分からないので、バルやレストランには入りずらい。結局、夕食は、小さな店でパンとバナナとリンゴを買い、ホテルに帰って食べた。夜中に激しい腹痛。飲みなれぬ栄養剤を飲んだためか。胃薬の「正露丸」を飲み、朝には納まった。

<6月28日。歩程8km> 
 ホテルでタクシーを頼み、フランスのサン・ジャン・ピエド・ポーへ(2時間、85ユーロ。途中、今夜の宿・バルカロスのホステルに荷物を預ける)。サン・ジャンの巡礼事務所で受付。
巡礼のしるしである「ほたて貝」を無料でもらった。おみやげ店で先端に可愛い熊の付いた杖を買い、バルカロスまで3時間の道のりを歩く。足が痛くなることがなくて一安心。出発前に怪我した足の後遺症は大丈夫かもしれない。
 ホステルは仏西国境を越えたところにある。一つ星。宿の主人から「スペイン語が駄目なら、フランス語でどうか」と聞かれるほどにフランスに近い。夕方は、おばあちゃんが一人で留守番。英語は全く通じない。
 試しに宿のレストランでセットメニュー(セットの定食)を頼んでみた。メイン料理は選ぶようになっていたが、辞書を引いてもメニューの中味が分からないので、適当に注文すると豚肉の煮物が山のように出てきた。おばあちゃんが煮込んだのだろう。食べ切れずに半分以上残す。宿代25ユーロ、夕食10ユーロ。
 なお、サン・ジャン・ピエド・ポーからのピレネー越えには二つのルートがあり、私は行かなかったが、バルカロスを通らずに一日掛かりで延々といくつかの峰を越える道のほうが山の雰囲気があり、お勧めのようである。

<6月29日。15km> 
 きょうはピレネー山脈・イバニエタ峠越え。はじめは国道歩き。かなり歩いてから、国道をはずれ、村を通り、山道に入る。林の中の薄暗くて細い道。道幅は1mもない。昔の人はこんな道を歩いたのだ。
 いったん国道に出て再び山道。道を覆う草にはとげがあり、足がふれると痛い。イバニエタ峠に立つと風が強かった。
頂きにローランの石碑。高さ5m。峠には国道を車で来た人達が数組。アメリカ人の老夫婦が「ありがとう」「こんにちは」と声を掛けてきた。峠から国道をはづれ、約30分、山道をロンセスバリエスに下る。教会中心の小さなまち。青空が広がり、景色良し。車で来た大勢の観光客がバルでお茶を飲んでいた。

 更に国道沿いに、気持のよい林の中をブルゲーテ村へ。バルに入り、カウンターにあったサンドイッチ(トルティーヤをはさんだもの。コーヒ-も入れて4.5ユーロ)を指差して注文。
 アルベルゲなし。ホテルを断られホステル泊(前述。一つ星)。たくましいおばさんに迎えられる。部屋の壁には十字架のキリスト像。キリストを見ながら寝についた。宿代14ユーロ。朝食3ユーロ(パンとコーヒー)。峠越えで体の数ヶ所を虫に刺されていた。


<6月30日。19km>

 始めは牧場の中を行く。森を通り国道に出てバルでパンの朝食。また、森の中へ。ここからは山道。日本人の墓あり。2年前にここで亡くなったとのこと、64歳とある。

 ズビリ町着。初めてアルベルゲに泊る。びっしりと並んだ2段ベッドへ。マットは人型に窪み、上に乗るとギシギシと揺れる。一度は荷を解いた一組の老夫婦が泊るのをやめて出て行った。シャワーは水。これがアルベルゲかとやや驚いたが、このあと泊まったアルベルゲは、全てこれよりはマシだった。別にホステル数軒あり。

 とりあえず、足の調子は良い。まちを歩きまわったが、バルも食料品店もすべて閉まっていて、食べ物が手に入らずに困った。6時にやっと開く。明日から食べ物の確保には注意しなければと思う(なお、これはズビリだけのこと。この後は、どのまちでもバルは午後も開いており、食事に困ることはなかった)。


<7月1日。25km>

 
森と畑の中を行く。国道に出て、バルでパンの朝食。国道を歩き、また脇道へ。川沿いの公園のベンチで靴をぬぎ一休み。
 道は国道を横切り、谷の上に続く。ログローニュまで行くというスペイン人夫妻と一緒になる。道は大きく右に曲がり、橋を渡り、町へ。
 町を抜けパンプローナへ。川を渡り、坂を登るとパンプローナ。アルベルゲはまだ閉まっていた。
 市内にある、もう1軒のアルベルゲを探して、町の人に聞きながら行ったり来たりしたが、分からない。

 前夜一緒だった女性の一団が「あと3km。次のまちのアルベルゲまで歩こうよ」と私に声をかけて通り過ぎる。重い荷を背負い疲れていたが、結局、隣町のシツル・メノーまで歩く。
 教会のアルベルゲ泊り。中年のスペイン人兄弟と辞書を片手に話をしてみた。スペインに進出していた鈴木自動車の工場が不景気で閉鎖され失業中とのこと。辞書では詳しい話はできなかった。

 バルで夕食。辞書に線を引き、店のおやじに「卵焼き」を頼む。パンとコーヒーと合わせて5.5ユーロ。その後、翌日の行動食を手に入れるために20分ほど歩いて新市街に行き、果物、水等を買う。夜は教会の祭壇の前に並ぶベッドが寝床。落着いてぐっすりと眠れた。


<7月2日。20km>

 朝食はアルベルゲのキッチンで卵焼きを作って食べた。このアルベルゲでは卵やパン、果物が無料で提供される。

 プエンテ・ラ・レイナまで荷物を別送できると知って、車で荷の半分を運んでもらう。麦畑の中を延々と歩いて行くと羊の大群が通り、こちらが道から押し出されそうになった。

 峠へ。中世の巡礼者の行列に会う。等身大の鉄製の像。荷が重かった昨日よりは余裕ができて景色が楽しめる。

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 プエンテ・ラ・レイナの第2アルベルゲ泊り。広々として気持よし。
宿舎内のレストランで夕食。フライドポテト、サラダ、パン、紅茶、ヨーグルトで7.5ユーロ。

 なお、アルガ川にかかる橋をプエンテ・ラ・レイナと言い、レイナ王妃が造った橋の意味である。中世の建造。


<7月3日。22km>

 出てまもなく、蛇口から無料・無制限でワインが飲める水飲み場があったが、知らずに通過。残念。丘の上に古城。
その下の村のバルで休憩。次いでローマ時代のアーチ橋あり。スペイン・マジョルカ島から来た2人連れの女性としばらく歩く。

 エステーリャのアルベルゲ泊り。エステーリャは中世風の都会である。アルベルゲで手伝いながら滞在中の、ひざを痛めた日本の若い女性(千明-チギラ-春美さん)に会う。
 回廊のある庭付きの教会、まちが見渡せる高台の教会などを見物。川では子供達がカヌーで遊んでいた。写真を撮るために川岸へ。草の中を歩くと皮膚に小さい「とげ」が刺さってチクチクと痛かった。スペインの野草には「とげ」があるものが多いようだ。広場のレストランでパエリヤを食べる。

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<7月4日。21km> 

 歩き出してすぐのホテルで朝食。暑い太陽に照らされながら麦畑の中を延々と歩く。休みたくとも日陰なし。やっと、高さ5mほどの家畜用乾し草があり、その陰で一休み。

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 更に1時間ほど歩くと、涼しい松林があった。誰もがここで大休止。セミの声も涼しげ。
 そのあと、暑い中を歩き、やっと中世のまち、ロス・アルコスに到着。

 最初に目についた民営アルベルゲに泊る(別に公営アルベルゲあり)。小さな食品店の2階。
 泊りは4人。バルセロナの女性とドイツ人のおじさん(64歳とのこと。奥さんは45歳で、6歳と10歳の子供があると聞いてびっくり)、それとエステーリャで会った日本のお嬢さん。

 豆とにんじんの入ったサラダとパスタの夕食を食べながら、西独と日独の二つの辞書を片手に雑談をした。その後、女性2人とバルへ。宿代6ユーロ、夕食6ユーロ。

(ここがアルベルゲ)Sl008_016_2

<7月5日。30km> 

 出発してすぐに道を間違えた。別方向へも矢印があったためである。車で通りかかった人が教えてくれた。
麦畑を行く。4人組の青年に勧められ、道端で一緒に一休み。アメリカ人、カナダ人、イギリス人など。「かたこと」でマッキンリーの話をする。

 丘陵を下り、国道を越える。背の高い黒人の巡礼者(男性)に会う。スペインの人。ビアナのまちへ。コンビニでパンと果物を買い、まちの広場で昼食。土曜日のせいか、人出が多い。子供達も遊んでいる。

 ベンチには数人の巡礼者。自転車で来た二人連れのたくましいおばさん(スペインの人)とあいさつ。
 同じく自転車で来たオランダ人医師と話す。更に歩いて、ログローニョの旧市街のアルベルゲ泊り。

 玄関前の広場に3m四方のタイル張りの池があり、数人が足を水に漬けて楽しんでいた。涼しそう。受付に利用料無料のパソコンあり。
インターネットを使い、ローマ字で近況を書いて家に送ってみたが、結局、家には届かなかった。ログローニョは大都会。新市街にある繁華街は人出で混雑していた。夕食はコンビニで買ってきたものを川沿いの公園で食べる。

<7月6日。28km>

 ログローニョ郊外にある広大な公園を通過。大きな池あり。かなりの市民が散歩を楽しんでいた。

 畑の中を長時間歩く。暑い。ナヘラのアルベルゲ泊り。旧市街の教会の隣りがアルベルゲ。
 うしろは赤土の山。丘に登り夕日に照らされた町を見下ろす。足に大きなまめを作って停滞していた日本人の若い女性に会う。翌朝、朝食のビスケット・パン・コーヒーは無料。

<7月7日。21km> 

 丘陵地帯の麦畑を行く。サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダのパラドール泊り。89ユーロ。パラドールには一度泊ってみたかった。
暑さのせいかカメラが壊れ、新しく買う(韓国・サムソン社製。59ユーロ)。フラッシュがつかず、おかしいと思って、撮ったフィルムをこの町で現像に出したら写っていなかったのだ。

 ナヘラにヒゲソリと歯ブラシを忘れ、スーパーに買いに行く。

<7月8日。23km> 

 国道は丘陵の低い所をほぼ真直ぐに伸びているが、巡礼路は麦畑の中を右に左にと曲がり、村を越え、丘を越える。

 ペロラドのアルベルゲ泊り。民営(別に地域で運営する通常のアルベルゲもある)。きれいな庭あり。宿泊者は20人位か。ベッドは空きあり。宿の記念帳に日本語で感想を書く(後日、これを読んだという日本人に会った)。広場のレストランでパエリヤを食べる。午後7-10時の広場は暑さが一段落し、家族連れ、子供達、老人で賑わう。

(アルベルゲの庭)
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 手に入れた行程表(27日間で全行程を歩くというもので、毎日どこまで歩けばよいかが記入されている)を見る。
一日40km歩く日も数日あるが、これで行けばきょう以降、6日の余裕がある。40kmを2日に分けて歩くとしても、完走できそうだ。
やっと先が見えてきた。

<7月9日。24km> 

 
ビリャフランカ・モンテ・デ・オカのまちを越えると森の中の登り。これを抜けると、丘の上は広々した無人の台地。
松林・樫林があるが、道が広くて、歩いているところまでは影が届かず、ほとんど日陰なし。暑い中を延々と数時間歩く。

 疲れた。台地を下り、サンファン・デ・オルテガのアルベルゲ泊り。中世風の建物。人家数軒の小さな村。バル1軒のほか、店なし。
ナヘラで会った日本の女性やドイツの老人と宿の前のベンチで雑話(女性はドイツ語ができた)。
1ユーロのコインの模様が発行した国によって違うことを教えてもらう。手元のコインを調べると、スペイン、フランス、オランダ、ポルトガルなどのコインが見つかった。

 出発前に読んだ本によれば、教会でソパ・デ・アホ(ニンニクのスープ)のサービスがあると書いてあったが、私は忘れていて寝てしまった。

<7月10日。26km> 

 台地の森の中を行く。朝は深い霧。高さ5mほどの十字架が霧に霞む。丘陵を下りると、はるか遠く、平野にブルゴスのまちが広がる。
まちに入ってから大聖堂に行き着くまでが長かった。川沿いの公園の中を延々と歩き、散歩をしている多くの市民とすれ違う。

 ブルゴスのホテル泊り。撮りためたフィルム、CDプレーヤー、壊れたカメラ等を日本に郵送。

 ここから60kmほど山中に入ったところに、回廊が世界一美しいと言われるサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院があり、行きたかったが、バスが1日1本で(行くのは夕方。帰るのは朝)、往復に2日かかるのであきらめた。

 午後7時、Hさん夫妻がバヤドリッドから会いに来てくれた。バルで、バル特有のつまみをとり、10時頃まで話をする。

注)
H(人見)さんは、VALLADOLIDでワインの日本への輸出を扱う「BUDOYA」を経営している方。

<7月11日。10km>

 昨日寝たのが遅かったので、8時30分スタート。ブルゴス市内のバルで朝食。お城やアルベルゲを見物した後、タルダホスへ。
12時30分着。日差しが暑い。アルベルゲの受付が3時半なので、ホステルの看板のない安宿に泊ることとした。

 宿代10ユーロ。疲れがたまっていたので、3時間ゆっくりと昼寝。窓からの風が心地よい。

<7月12日。30km> 

 台地上の麦畑を延々と歩く。家なし。尽きたところに村。小さな薄暗いバルでボカディージョを食べる。
店のおやじが、ひたいにワインを注ぎ、口で受けて飲むという芸を得意げに披露してくれた。更に車道を歩く。人も車も通らない。
木陰のある車道に20分ほど寝ころび休憩。暑い中、カストロヘリス着。

 ザックの中の水はお湯になっていた。ここは頂きにお城がある丘の麓の町。アルベルゲ2軒あり。小高いところにあるアルベルゲに泊る。夕立あり。ホテルのきれいなレストランで夕食。 


<7月13日。26km> 

 丘陵を登り、麦畑の中を延々と歩く。小さな教会あり。無料でコーヒーの接待を受ける。接待役は僧と少年の二人。
幅10mほどの川沿いを行く。フロミスタ着。疲れたのでホテルに泊る(32ユーロ。アルベルゲの隣り)。

 それまでに何回か会った日本の中年男性も泊っていた。ここは現代の小さなまちといった雰囲気。屋根の低い現代風の家屋が十字路の車道沿いにまばらに広がる。ホテルのレストランで夕食。


<7月14日。21km>

 カリオン・デ・ロス・コンデスのアルベルゲ泊り。広場に面した教会の隣り。
サンチャゴ巡礼の詳しい案内書(英語版)を見つけて2冊買い、郵便で家に送った。
店が並ぶ中世風の狭い路地や川沿いの公園を散歩。大きなバルは賭けトランプに興じる老人達で一杯。マドリッドの日本大使館に勤めていたという老人が「ハポン(日本)、ハポン」と話しかけてきた。

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 昼と夜の食事は広場の前の小さなバルで食べる。スペイン語を知らない外国の巡礼者のために、アルバムのような分厚い写真入りのメニューが用意してあり、注文し易かった。

 7日前に買ったカメラがまた壊れ、新しいのを買った。今度はオリンパス社製。ともかく、写真は大切な記念。必ず、毎日、通りすぎる風景を写していこう。
 

<7月15日。40km>

 4時に起きて4時半に歩き始める。暗いため、まちの出口で道しるべを見過ごし、道を間違えた。
車の運転手に道を聞いて引き返す。丘陵地帯の麦畑の中を行く。初めの17km(4時間30分)は、ほぼ真直ぐな道で、家なし。起きるのが早かったせいか、頭がボーッとして、あまりに広々した風景に目まいを感じる。歩くのがいやになった。

 道の途中、あと数kmのところで、休んでいた女性に「まちはまだか」と聞くと、遠くを指差し、英語で「ほら、教会の塔が見えるでしょ。あれがまちよ」という。畑のはるか彼方。私には、いくら目をこらしても、その塔が見えなかった。

 黒雲が近づく。雷鳴も。広い丘陵地帯での雷は怖い。通り雨のあと、日がさす。鉄道を越えたところでサアグンに到着。雨が激しくなった。
アルベルゲ泊り。部屋は教会の天井を仕切って作られていた。40kmを歩いたのはきょうが初めて。

 
<7月16日。36km>

 広大な麦畑の中を行く。一本道。男4人の一組(フランス人3人とイタリア人1人)と女4人の一組(スペイン人)に抜かれた。
欧米人の足は早く、いつも抜かれる。

 マンシージャ・デ・ラス・ムラス着。城壁で囲まれた中世の町。きれいなホステル泊り。アルベルゲとあるが、ホステル。部屋の壁とベッドは真紅(別の部屋は白)で統一され、レストランはお城の中のような雰囲気。お勧めの宿である。マスターは髭のおじさん。宿代40ユーロ、夕食のセットメニューは8.75ユーロ。

約1時間、城壁に沿って町を一周。教会の煙突にコウノトリの巣を見つけた。この巡礼路ではときどきコウノトリの巣に出会う。

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<7月17日。20km>

 レオンのアルベルゲ泊り。アルベルゲを運営する教会のミサに出席。
大聖堂(壁面の上部全面がスペイン第一といわれる数百枚のステンドグラスで飾られている)、イシドロ教会、カーサ・デ・ロスポティーネス(ガウディ作の建物。現在は金融会社)などを見物。(写真:大聖堂、ガウディ作の建物、パラドール)

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<7月18日。25km>

 国道沿いにいくつかのまちを通る。ホスピタル・デ・オルビゴまで行く予定だったが、疲れたので、手前の町-サン・マルティン・デル・カミーノのアルベルゲ泊り。スペイン人夫婦と娘2人の4人連れと一緒になる。

 ここは国道沿いの小さな町。しばらく昼寝。胃痛に悩まされたが、国道沿いのバル兼レストランで目玉焼きとポテトフライ、ミックスサラダを食べて元気回復。
 
 スペインではどこでもそうだが、喫茶と食事は待遇が区別されており、ここでは注文するとバルの奥にある小さな部屋に通された。
別に部屋がないときでも、食事の場合は必ず、テーブルに真白な紙を敷いてくれる。

 ミネラルウオーターと果物を買いに小さな店へ。開いていなかったが、近所のおばさんが2階に声を掛けると開けてくれた。


<7月19日。23km>

 いくつかの町を通り、丘の上にあるアストルガへ。アルベルゲ泊り。中世風の大きなまち。大聖堂とガウディ作の司教館あり。
司教館のステンドグラスがシンプルで気に入った。

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<7月20日。29km>

 いくつかのまちを抜け丘陵を登ると、峠の手前にラバナル村。ほとんどの人はここに泊るもよう。
私はやや高級なレストランで食事をし、更に車道伝いに峠へ。峠にフォンセバドン村(標高1440m)。廃村に近いが、宿とレストランあり。
レストランには、テレビの取材で来た壇ふみとマスター(ひげのおじさん)の写真が飾ってあった。私もマスターと写真を撮る。
  
 廃村となったマンハリンまで更に1時間歩き、アルベルゲに泊る。皆が通る道をはずれて、山越えの道を取ったために、途中にあった有名なフェロー山の十字架を見逃す。

<7月21日。22km>

 深い霧の中、山を下る。下りたところがエルアセボ村。バルで朝食。更に下る。
 テントを張って羊を放牧中のおじいさんに会う。木の幹に写真が一杯張ってあった。各国から送られてきた記念写真のようだ。

 峠を下り、町を抜ける。ポンフェラーダのアルベルゲ泊り。郵便を出す。古城見物。テンプル騎士団の城。 

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ちょっと離れた鉄道の駅も見に行った。中華料理店でごはんを食べる。郵便局へ行こうとして偶然見つけたもの。
 この旅で中華料理店に入ったのは2回目。白いごはんを口にしたのは、この1回だけである。 

<7月22日。23km>


 まちを通り、丘を越える。日本人の若い男性に会う。小さなザック一つの身軽な姿。日陰で休憩のときに大きなスモモをあげ一緒に食べる。

 ビヤフランカ・デル・ビエルソのアルベルゲ泊り。丘を下りたところの、山に囲まれた美しい町。観光地のようだ。
石造りの中世の建物が並ぶ「水の道」を歩き、広場へ。佐山香織さん親子に会う。丁度、広場のテーブルで親子3人、絵はがきを書いていた。一緒にお茶を飲む。

 町の手前のサンチャゴ教会には「許しの門」がある(サンチャゴまで行き着けない人でも、ここまで到達できれば、罪が許されるという)。


<7月23日。28km>

 谷間の川に沿って進む。ほかに丘越えの道もあるもよう。セブレイロ峠の入口で、ホテルの車で到着した佐山さん親子に会う。彼等はここから歩くという。高所にサラシン城。峠までは、ゆったりした、長い長い登り。

 峠の頂上にあるセブレイロ村のアルベルゲ泊り。私は午後3時に着いたが、佐山さん親子が着いたのは午後8時。
 まだ明るかったが、1000mの標高だと、外はさすがに寒くなり、防寒具を必要とした。 
 ケルト人居住家屋が博物館として公開されおり、これを見物した後、レストランで夕食。スパゲッテイ入りのスープがラメーンのようで、とてもうまかった。


<7月24日。36km>

 早朝に出発、峠を下る。昨日、部屋が一緒だったブラジル人夫妻やポルトマリンで同宿だった若いブラジル人姉弟、マンハリンで同宿だったフランス人とスイス人の中年の二人連れを見かける。

 車道沿いのゆるやかな下り。農家のおばあちゃんから、砂糖をまぶした薄いトルティーヤを買い、次の農家の庭先では野イチゴを買う。
(トルティーヤを買う)
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 自転車の一団が勢いよく追い越していく。峠から5時間30分の下りが終わり、小さなまちを過ぎると、今度は森の中の登り。
明るい丘の上に出る。
午前中は多くの巡礼者が歩いていたが、今は人影が全く見られない。ほとんどの人が手前のまちで宿を取ったようだ。午後の2時-5時が一番暑い。

 頭がくらくらする。サリアまで行くつもりだったが、疲れた上に足が痛くなったので、4km手前のカルボアのアルベルゲに泊ることとした。
周りに家のない一軒屋。夕食をとるため、夕日を浴びながら20分歩いて畑の中に建つお城のようなホテルへ。

 受付には人がいないし、客の姿もない。直接、厨房へ行くと、おばさんが2人いた。セットメニュー(定食)を注文。いんげん豆のスープ、焼豚、川魚の焼いたもの、サラダ、季節の果物で9ユーロ。一人だけで優雅に、中庭の、花を飾ったテーブルで食べる。
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<7月25日。25km>

 4kmを歩いて都市・サリアで朝食。そこを出てから、中世風の村を次々と通過。
 牛に道をふさがれて、ドイツの娘さんが通れずに困っていた。私が杖で追いながら2人で群れの中へ。たくましい角を持つ雄牛に間近かでじーっと見つめられると、さすがに怖かった。


 景色が美しい湖畔のまち・ポルトマリンのホテルに泊る。まちで偶然、日本の若者に会う(関雄介君と渡辺君)。
 別々に日本からやって来た3人が同じ町の同じ広場に居合わせるなんて、めったにないことだ。路上のカフェでしばらく話す。

 
<7月26日。24km>


 初めは森の中。森を抜け、丘に上ると畑が広がる。道端で四つ葉のクローバーを見つけた。探し始めて数分のこと。幸運が舞い込み、完走が保証されたようでうれしかった。

 目的地まで200kmのあたりから500m置きに石造りの道しるべが建っていた。きょうはあと100kmの道しるべに出会う。もちろん、記念撮影。
            (あと100kmの石碑。落書き多し。下段は95.5kmのもの)
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 バルセロナの青年と歩いている関さんに会い、しばらく一緒に歩く。通り雨。青年が「ガリシアの雨は5分でやむよ」と教えてくれたが、そのとおりにすぐやんだ。

 野原に屋台が出ていたので、そこで3人でお茶とし、ガリシアのお菓子を食べる。
 彼等の足は早い。2人には先に行ってもらい、ゆっくりとパラス・ド・レイへ。

 町の手前にオート・キャンプ場あり。疲れたのでホステルに泊ろうと探したが、なかなか見つからない。
 前を行く若い外国の女性も見つけているようだ。やっと探しあて、一緒に中へ。宿のおばさんに聞くと1泊24ユーロとのこと。私は泊ることにしたが、その女性は「高すぎる」と言って出て行った。

 お金を切り詰めながら旅をしている人は多いようだ。宿の前の広場にバイクの大集団。

 夜、教会でミサを見学。緑の式服を着た牧師さんが真紅の聖書を手に祈りをささげる。巡礼者が多数出席。若い女性や中年の男性がそっと涙を拭いていた。

 
<7月27日。28km>


 途中、小都市のメリ-デ゙を通過。丁度、お祭りの最中。
 レストランで昼食後、雑踏の中を歩く。衣類やじゅーたん、籠などを売る露店が沢山並ぶ。教会にも寄る。アルスーアまで歩き、ホステル泊り。
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 偶然、佐山さん親子も隣室に泊っていた。果物と飲物を差し入れ。明日はお互いにアルカ・デ・ピノのアルベルゲに泊ろうと約束した。


<7月28日。20km>

 道は丘に上り、森と畑の中を行く。朝霧のかなたに太陽。歩いている途中で一緒になったスペインのおじさんにかたことの英語でなぜここに来たかを聞いてみると、「森が好きだから。いろいろの人と知り合いになれるから」とのこと。
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 連続して2時間歩くと足の裏がとても痛くなる。靴を脱ぎ大休止。注意しよう。

 アルカ・デ・ピノのアルベルゲ12時30分着。国道沿い。目的地に近く、巡礼者で大混雑。1時の受付開始を待ち、約100人が行列していた。

 昨日の打合せどおり、佐山さんも泊る。周りの人がうらやましがるような、豪華な夕食を作りご馳走してくれた。

<7月29日。20km>

 歩くのはきょうが最後。丘陵を行く。歩く人は多い。サンチャゴ空港が近くのようで、飛行機の爆音が聞こえる。目的地の4km手前にモンテ・デ・ゴソの丘。道を外れ、頂上へは2-3分で登れた。

 高さ10mの鉄製の彫刻あり。大聖堂の尖塔が望めるとのことだったが、遠くの森と一体となっていて、確認できなかった。
 娘にもらったお手製のねずみのぬいぐるみと山の会の上手さんにもらったお守りの鈴を前景に入れて写真を撮る。

 車道沿いにサンチャゴ・デ・コンポステーラへ。まずはレストランで食事。その後、荷を背負ったまま大聖堂へ(前述)。
 サンチャゴ・デ・コンポステーラのアルベルゲに宿を取る。神学校の3・4階にあるアルベルゲ。

 再び大聖堂へ。聖堂前の広場で若い男女の二人連れに再会。座り込んで大聖堂をスケッチしていた。大いに喜んで写真を撮り合う。
 そのあと、レストランではスペインのおじさんに再会。サンチャゴに迎えに来ていた奥さんを紹介された。

 パラドールのカフェでお菓子と紅茶を楽しみ、公園を散歩。子供達で賑わう遊園地あり。

 
<7月30日>
 

 バスでフィニステラへ(別名、フィステラ。ポルトガル語読み?)。一人でスペインのバスに乗るのは初めて。

 バス・センターでどう乗るか分からずにうろうろしたが、案内の人にかたことの英語で教えてもらい、やっと乗車。
途中、いくつかの町で数分の停車あり。各人トイレやバルへ。バスは海に近づく。長く続く白砂の海岸線がすばらしかった。港のホステル泊り。25ユーロ。
 
(フィニステラの町)
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  バスの中で、つくば大学生の後藤浩文君に会う。パンプローナから歩き始めたが、まめをつくってカストロヘリスでダウンし、あとはバスで来たという。

 テレビで「世界ふしぎ発見」を見たのがきっかけとのこと。一緒に岬の先端まで歩く。ここにも貝のマークの道標。
巡礼路はここまで来ているのだ。二人で岬の岩場を海辺まで下りていったが、危険を感じ途中で引き返す。10分は下りたろうか。はるか下、岩場の先端に古びた旗が立っていた。
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 誰もが休むところからは見えないので、この旗を見た人は少ないだろう。ほとんど人が行かない岬の最西端を踏んだことになる。満足。

 彼は「いつか再挑戦して完走する」と言い残し、バスでサンチャゴに帰って行った。

 港に帰ってレストランで夕食。定食セットのメインは肉か魚を選ぶもので、魚を頼むと大きな白身の煮魚が出てきた。
食事で魚を頼んだのは初めて。夕方、大西洋に沈む夕日を見にビーチ(浜辺)に行く。すばらしい日没(サンセット)。来てよかった。


<7月31日>

 早朝、ホステルのそばのアルベルゲを見に行く。
管理人は日本人の若者。そこではサンチャゴ-フィニステラ間・90kmを歩いたことを証する証明書を出しており、歩いてはいないが、特別に私の名前を入れて一枚作ってくれた。

 サンチャゴの証明書は巡礼者の名前を手書きするが、ここではパソコンに名前を入力して打出す。緑を基調としたカラー刷りのものだ。うれしかった。

 バスでフィニステラから大観光地ラ・コルーニャへ。バスセンターでおばさんから「宿があるよ」と声をかけられ付いて行った。
ホステル泊り。25ユーロ。海岸沿いに、お城、高い塔、水族館、人が一杯の海水浴場等を見て歩く。宿を出たのが午前12時、帰ったのは午後の11時。疲れた。
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<8月1日> 

 朝、鍵が開かずに部屋を出られないというハプニングがあった(前述)。

 バスでラ・コルーニャからサンチャゴ・デ・コンポステーラへ(ホテル泊り)。

 サンチャゴに着くと、あちこちとお店を観て歩き、おみやげを買った。大聖堂の中のお店が、品物がそろっていて質も良さそうだったので、ほとんどをそこで買う。巡礼者の像、教会のミニチュア、カード、ポスターなどで171ユーロ。

 前に会った、ハスキーボイスのカナダの若者に大聖堂前の広場で再会。途中で仲良くなったのか、女の子と一緒だった。固い握手を交わす。
 更に切符を買いに行った駅で72歳の日本人女性に会う。宿で眠れなかったりして、全行程は歩ききれなかったとのこと。


<8月2日>

 
確実に帰りの飛行機に乗れるように、マドリッドには離陸前日の8月2日に着くようにした。サンチャゴからマドリッドへはスペインの特急列車・タルゴで約8時間(9:54発。マドリッド・チャマルティン駅17:35着)。日本の田舎の車窓風景は優しくてみずみずしいのだが、ここでは岩の多い荒涼とした景色が続く。

 到着後、駅の周辺を歩いて安いホステルを探すが、高級ホテルしかない。荷が重い。結局、84ユーロで駅構内の4つ星ホテルに泊ることとした。夕方、まちを散歩。公園前の広場には不良風の若者達がたむろ。取り囲まれて物を盗られることもあると聞いたので、注意をして、にぎやかなところだけを歩く。

 前に書いたⅠさん(石田信子さん。全盲。六つ星山の会会員)が盲導犬と一緒に一人旅でスペインに来ているとのことだったので、彼女の携帯に電話をしてみると、スペイン国境に近いフランスの町・ハカのホテル泊まっていた。「外はお祭りで楽しい」とのこと。


<8月3日> 

 飛行機の出発は19:25。おみやげも入った大きな重いザックと杖を持ってどこに行こうかと迷ったが、美術館のクロークに預けることができると気が付いて、ソフィヤ王妃芸術センターとプラド美術館に行くこととした。

 丁度、無料鑑賞の日。まず、ソフィヤ王妃芸術センターで有名なピカソの「ゲルニカ」を鑑賞。これは数年前マドリッドに来たときに見逃していたもの。次にプラド美術館に入り館内を一周。
 あのときも見たゴヤ、ベラスケス、エル・グレコなどの絵に再会した。


<8月4日> 

パリ経由で、夕方18:00、成田着。

<資 料>

下記1と2は「きょうはどこまで歩くか。どこのバルで休憩するか。何日間で、どこまで歩くか」などを検討するのに、たいへん役に立った。なお、「道しるべ」はいたるところにあるので迷うことはなく、そのためだけなら地図の必要はない。

(スペイン語版)

資料1.「ロンセスバリエス(スペイン東端)-サンチャゴ(スペイン西端)を27日間で歩く場合の行程表」(距離と標高の記入あり。別添)

資料2.「ロンセスバリエス-サンチャゴ間のすべてのまちと村の一覧」
(アルベルゲ、バル、食料品店、銀行等の有無を記入。別添)

資料3.「GUIA PRACTICA DER PEREGRINO
-EL CAMINO DE SANNTIAGO-」
発行・アメリカ・EVEREST社・264頁(現地で入手。詳細な地図付き)


(英語版)

資料4.「The Pilgrim Route to Santiago - A PRACTICAL GUIDE」
                                                Antonio Vinayo Gonzalez
発行・スペイン・Edilesa社・287頁(現地で入手)


(日本語版)

資料5.「スペイン巡礼の旅」(田沼武能・矢野純一著)

            1997年1月発行・NTT出版(株)・237頁

資料6.「星の旅人-スペイン・奥の細道」(黛まどか著)
            2000年11月発行・(株)光文社・181頁

資料7.「スペイン巡礼の道を行く」(米山智美、古財秀昭著)
            2002年4月発行・東京書籍(株)・151頁

資料8.「サンティアゴ巡礼の道」(壇ふみ、池田宗弘、五十嵐見鳥ほか著)
2002年6月発行・(株)新潮社・とんぼの本・127頁

資料9.「(週刊・世界遺産・NO65)サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」
2002年2月発行・(株)講談社・34頁

資料10.「星の巡礼」(パウロ・コエーリョ著) 新潮文庫

資料11.「銀河を辿る-サンティアゴ・デ・コンポステラへの道-」(清水芳子著)
              2003年6月発行・(株)新評論・329頁

資料12.「サンティアゴ巡礼へ行こう!歩いて楽しむスペイン」(中谷光月子著)
              2004年11月発行・(株)彩流社・282頁

資料13.「スペイン巡礼史-地の果ての聖地を辿る」(関 哲行著)
      2006年2月発行・(株)講談社・講談社現代新書・252頁

資料14.「ぶらりあるき サンティアゴ巡礼の道」(安田知子著)
2006年5月発行・芙蓉書房出版・158頁

資料15.フランス映画「サン・ジャックへの道」(2007年に銀座シネスイッチほかで封切。DVDの販売あり)

資料16.「世界遺産巡礼の道を行く-カミーノ・デ・サンティアゴ(写真集)」(南川三治郎著)2007年12月発行・玉川大学出版部・128頁

資料17.「聖地サンチャゴ巡礼の旅-日の沈む国へ」(フランシスコ・シングル編著)
2008年10月発行・(株)エンジン・ルーム・発売・ぴあ(株)・247頁・1800円

資料18.「聖地サンティアゴ巡礼 世界遺産を歩く旅」(日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会著)2010年1月28日発行・ダイヤモンド社・142頁・1900円<一言紹介:友の会の「公式ガイドブック」・詳細な地図中心>

資料19.「世界遺産 サンティアゴ巡礼路の歩き方」(監修:日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会。写真・文:南川三治郎)2010年2月1日発行・(株)世界文化社・135頁・1900円<一言紹介:写真中心>

資料20.「巡礼コメディ旅日記」(ハーベイ・カーケリング著)2010年6月18日発行・みすず書房・368頁・2730円<一言紹介:ドイツのベストセラーの日本語訳>

<追記>

1.日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会(2009年1月30日記)

 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会(http://www.camino-de-santiago.jp/)は2008年6月に設立された。巡礼に行く人に情報を提供し、相談にのる会である。日を決めての相談会や懇親会もある。友の会はすでに世界15ケ国以上にあるというが、行きたい人にとって、このような会があるとたいへん心強い(個人年会費3000円)。

 

 

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コメント

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投稿: 木村 隆 | 2011年1月 5日 (水) 13時35分

スペイン・サンティアゴ巡礼の記録のサイト(ブログ)を読ませていただきました。
大変有用な情報が沢山含まれていましたので、昨春、カミーノを歩く際に、ずいぶんと参考にさせていただきました。
現在、私も、自分の巡礼記を、上記のサイト「喜忙楽閑」 (http://henro.life.coocan.jp/) の中に、ひとつのトピックスとして加えようと考えています。
そこで、「私の登山および旅行記」のサイトを、私のサイトからリンクさせていただきたいと考えています。
もし、お差し支えなければ、リンクの許可をいただきますよう、お願い申し上げます。

取り急ぎ・・・。
Hide@Kasugai,Aichi

投稿: Hide | 2014年1月31日 (金) 22時37分

スペイン・サンティアゴ巡礼の記録のサイト(ブログ)を読ませていただきました。
大変有用な情報が沢山含まれていましたので、昨春、カミーノを歩く際に、ずいぶんと参考にさせていただきました。
現在、私も、自分の巡礼記を、上記のサイト「喜忙楽閑」 (http://henro.life.coocan.jp/) の中に、ひとつのトピックスとして加えようと考えています。
そこで、「私の登山および旅行記」のサイトを、私のサイトからリンクさせていただきたいと考えています。
もし、お差し支えなければ、リンクの許可をいただきますよう、お願い申し上げます。

取り急ぎ・・・。
Hide@Kasugai,Aichi

投稿: Hide | 2014年1月31日 (金) 22時39分

また読み返しています。
未知の土地への一人旅。躊躇する方が多いようですが、これを恐怖と感じてやめるか、おっしゃる通り、それを魅力と感じて楽しむかでしょうね。これがなければ、海外旅行なんて面白くないですよね。

投稿: cycloo | 2014年4月11日 (金) 12時27分

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