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2008年2月

挑戦 その1 ジャンダルム

(挑戦・その1)

<西穂-ジャンダルム-奥穂-北穂・単独縦走>
1993・8・24(火)-26(木)           
                                     
 これまでの夏は毎年、思い出に残る、自分にとっては大きな山行があった。

 1990年は息子との槍ヶ岳登山、南アルプス5日間単独縦走(三伏峠-畑薙ダム)、1991年キリマンジャロ登山、1992年栂海新道3日間単独縦走(朝日岳-親不知海岸) などである。

 ことし1993年の夏も、いくつかの山に登った。

・職場の人15人と富士山へ。職場で研修中のドイツの女性Bさん、韓国の男性Fさんなども一緒だった(7.31-8.1)。
                         
・視覚障害の人3人、子供4人を含めて20人と富士山へ。全盲で高齢のSさんが前から富士に一緒に登ってほしいと強く希望していたので、さそって一緒に参加したものである(8.21-22)。

・富士の山麓・愛鷹山での、東京・京都・大阪の視覚障害者山の会の人達との交流登山に参加(8.27-29)。

・ジャンダルム単独行(8.24-27)。                    
などである。
                           
 このうち、ことしのメインは、なんといっても、ジャンダルムの単独行である。「西穂-ジャンダルム-奥穂縦走」は、一般登山の中では危険度が特に高いといわれている。
 
 山に打ちこむようになって10数年が経つが、昨年までは、「ジャンダルム」は自分の力の範囲を越えていると思って、行くつもりはなかった。それが行くつもりになったのは、ロッククライミングの練習を4回ほど積んだからである。

 これまでは、断崖にある厳しい岩場のトラバ-スと垂直に近い鎖場の下降が安全にできるか自信がなかった。
しかし、ロッククライミングを練習するうちにだんだんと「足場さえあれば、今の自分の技術で可能なはず。しかも、一般道だから、必ずしっかりした足場はある」と思えてきたのだ。

 そのほか、ことし、すぐにでも行こうと思ったのは、これからは年月が経てば経つほど体力が衰える一方であり、体力的に何時行けなくなるか分からなかったからである。

 ことしの夏は晴れの日が少なく、一度は休暇届を出したものの、天候不順でとりやめにし、結局、1ケ月近く待った後、やっと快晴との天気予報がでたので出発した。
 
 前日に上高地から西穂山荘に入る。夜は同宿の人達と「ジャンダルム縦走で危険な箇所はどこか」「どう乗り切るか」という話で盛り上がった。
 西穂山荘を出発したのは午前3:45。危険な上にロングコースなので早立ちとした。

 まだ真っ暗。快晴を約束するように満天の星空。               
荷はできるだけ軽くした。重いのはニコンのカメラと水1.5Lのみ。         
西穂まで、標準のコースタイムでは2時間半のところを2時間で歩く。

 西穂山頂からしばらくの間も、快調だった。長い鎖を掴んでの垂直に近い下降が一箇所出てきたが、難なく越えた。
最初のピークは間の岳だが、まだかと思っているうちに、気付かずに越えてしまった。
天狗岳の登りは逆層である。雑誌「山と渓谷」に載った写真で見ると、垂直に近く危険に見えたが、実際には傾斜は緩く、これも鎖を伝って簡単に登れた(写真は、ときには嘘をあたかも真実のように見せる)。

 案内書には危険と書かれているような箇所がいくつかあったが、実際に行ってみると、怖さはほとんど感じなかった。
高い断崖の上のトラバ-スが数ヶ所あったし、10-15mの垂直に近い鎖場の下降も2ケ所ほどあったが、しっかりとしたホ-ルドとスタンスが必ず見つかり、怖さは感じなかった。
下降の場合、これらを見つけるには、上体を岩から離して下を覗き込まなければならないが、それもスム-ズにやることができた。
           
 ただし、不安を全く感じなかったわけではない。西穂-奥穂の標準所要時間は6時間40分と長く、その間は、ほとんど緊張の連続だった。だんだんと疲れて、頭がボ-っとしてくると、「こんな時に事故が起こりやすいのだ」と思いはじめ、それが頭にこびりついて、なんとはなしに不安になった。
危険とはっきり分かる箇所では、神経を集中するので、不安はなくなるのだが、やや緩やかな箇所になると--そんな場所でも、つまずいたり、滑ったりすれば、転落する危険が充分あるので--不安が逆に強まる。
後半のジャンダルムのあたりで、そんな思いにかられた。

 両側が数十m切れ落ちた「馬の背」では、もう一度気をひきしめて、これを乗り越えた。そこから数分で奥穂の山頂。
ここはもう、一般ハイカーの領域であり、登山者で混み合っていた。空はあくまでも青く、8月末なのに昼の日差しが暑い。ほっと一息ついて、居合わせた人に記念写真をとってもらった。
                              
 30分で穂高山荘着。12:30である。食堂でウドンをたべる。去年も職場の人と来た懐かしいところだ。思い出がある。
さて、どうするか。北穂まで行けるか。時間は充分にある。しばらく迷った後で、「ヨシ」と行く決心をして、日差しが暑い外に出る。
13:00。涸沢岳への登りは普通なら簡単なのに、暑さと疲れが重なりきつく感じて、足が前に出ず、若い女性のハイカーに追い抜かれてしまった。

 涸沢岳からの下り口は、いきなり鎖の急下降だった。人が登ってくるので、待っていると、年輩の女性が男性にサポートされながら、やっとという様子で登ってきた。
自分も下を覗き込み、足場を確認しながら鎖につかまる。真下を見ると、遙か数百m下の涸沢のガラ場が目に入るが、自信も出てきて、それほど怖くはなかった。

 ここから数ケ所、鎖場があったが,最初のものほど急ではない。幾つかの鞍部を通過し、今度は登り。
沖縄から来たという小学6年生の一団に出会った。先生も素人とのこと。危険すぎるので、「ここから先は行かないほうがよい」と注意をする。

 16:15に北穂小屋着。小屋は小さく、満員。登山客のほとんどは外に出て、夕日に映える槍穂を楽しんでいた。

 翌日は涸沢からパノラマコースへ。初めてのコース。屏風のコルからの槍の眺めは抜群。お花畑を徳沢へ下る。林の中に、小説「氷壁」のモデルとなった「ナイロンザイル切断事件」の石碑が苔蒸して建っていた。

 帰ってみると、どの指先にも血豆ができており、2、3日で皮がむけた。

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挑戦 その2 北鎌尾根

(挑戦・その2)

<北鎌尾根と船窪乗越へ>1995年8月9日(水)夜行-16日(水) 
  
≪針の木雪渓-船窪小屋(泊)-船窪岳-烏帽子小屋(泊)-高瀬ダム-湯俣(テント泊)-北鎌沢出合(テント泊)-北鎌尾根-槍ケ岳-槍ケ岳山荘(泊)-鏡平小屋(泊)-奥飛騨温泉郷-帰京≫   

 私にとって、ことし1995年の登山のメイン・イベントは北鎌尾根である。

 多くの登山者が憧れ、登りたいと熱望しているルートのひとつに入る。あの新田次郎の小説「孤高の人」の主人公・加藤文太郎が厳冬期に遭難したところであり、また、松涛明が同じく厳冬期に、疲労で動けぬ友人を抱え遺書を書いて死んでいったところでもある。
そのためか、厳しくて危険の多いルートという印象が強い。

 私は夏にこのルートを、山岳ガイドを頼んで登った。私にとってガイドを頼んだのは初めての経験である。

 ガイドは、世界第二の高峰「K2」にも登った俵谷さん。雑誌「山と渓谷」で知って頼んだ。ガイド料は6万円。

 私のように体力と技術に不安のある者にとっては、ガイドを依頼したのは正解だったようである。これで不安感が拭われて、気持良く登ることができた。

 ところで、今回このルートを選んだのは、いくつか理由がある。

 第一の理由
 山仲間のmzさんと来年は、2-3級の岩壁を6時間ほど登り続けなければならないスイスのマッターホルンに登ろうと約束した(結局は行けなかったが)。
そのためには、国内でいくつか岩を登って訓練しておく必要がある。その訓練の最初として、このルートを選んだのである。

 第二の理由は、年に一度は自分のための登山をしたいと思っていること。

 最近は何人かの人達と一緒に山に登ることが多い。六つ星の視覚障害者をサポートして、あるいは職場の人を案内してである。

 しかし、それは自分のための登山ではない。それらとは別に、今までに登れた山よりはひとつ水準が上のところ、自分の力量から見てぎりぎり登頂が可能な山に挑戦してみたいという気持をいつも持っており、一昨年はジャンダルムに、昨年は黒部下の廊下へと挑戦した。
それが今年は北鎌尾根である。

 また、今回は、北鎌尾根の外に、単独行による船窪-烏帽子縦走も加えた。こちらは、北アルプス全山縦走を完成させるためである。これが今回の山行を企画した第三の理由

 一昨年にジャンダルム縦走、その前年に栂海新道縦走(北アルプスの北端。親不知海岸まで)を行ったことで、北アルプス全山縦走の残りは、種池小屋-船窪-烏帽子の間だけとなった。
このうち、船窪-烏帽子の間は登山道の崩壊が激しく、案内書では北アルプス縦走路中の難路とされており、今までは行くことを躊躇していたルートである。
いや、行かないつもりであった。それが、先月・7月号の「山と渓谷」に、船窪-烏帽子間はそれほど危険はないと紹介されていたので、急に行く気になった。
                    
 <北鎌尾根>
                       
 北鎌尾根はテントによる2泊3日の山行である。
先にいくつか感じたことを挙げておこう。

 道はわりとはっきりしていた。水俣川を遡る川沿いの道は笹に埋もれていて分かりにくかったが、尾根への取りつき点から上のルートは一般の登山道と同じくらいに踏み跡がはっきり付いており、案内なしでも迷うことはなさそうに思えた。

 険しさはジャンダルムと同程度。ただし、危険箇所でも鎖や梯子が一切ないこと、それとシュラフ、食料等テント泊の荷が加わるために背中のザックが重いことなどがジャンダルム縦走とは異なる。

 荷物については、テントと食料はガイドが用意し持ってくれたが、シュラフやヘルメット、ハーネス、防寒着、水(2L)などは自分で持たねばならず、ザックの重さは15kgはあったろうか。かなり重かった。
腕一本の力だけで自分の体とザックを岩の上まで引き上げねばならないところもあり、その箇所では、もう少しで手が離れそうになったほどである。

 登った結果から言えば、このルートは、岩登りのエキスパートでなくとも、体力さえあれば、ガイドなしで登攀は可能であろう。
ロッククライミングの技術に頼るところはほとんどない。ある程度の重い荷を背負って長時間歩けるだけの体力があればよい。

 ただし、私達は、独標槍の穂先への登攀では、通常のルートを行かずに、ガイドとザイルを結んで岩を直登するルートを採った。私達にロッククライミングの面白さを味わせるために、俵谷さんがサービスをしてくれたのである。

 (北鎌尾根・第一日)
 
                        
 2日前に針の木の大雪渓から登り、北アルプスでは難路と言われる船窪-烏帽子を越えてきたところである。烏帽子小屋を午前7時頃に立ち、午前11時前には高瀬ダムに下りてきた。ここで東京から来るガイドと待ち合わせることになっている。
また、山仲間のmzさんもやってくるはずだ。

 コンクリートの堰堤の上に腰を下ろして、ザックに寄り掛かり両岸に高くそびえる山を眺めながら、ゆったりした気分で皆の到着を待つ。今回山行の第一の目的は達成したのだ。
快い疲労感が全身に広がった。

 ときどき観光客を乗せてタクシーが上がってくる。
一行がやってきた。ガイドは3人。俵谷さんと知人のsaさん、それに俵谷さんの弟さん(青森の高校の先生)。客は4人。
船橋で手打ちそば屋を開いているというenさん(私と同年の57才)。冬の上高地に入り一人でテントを張るという40才代のskさん。それに、mzさんと私。
自己紹介をしあって早速出発。私にとっては今回山行の第二の目的への出発である。船窪越えの後なので、体力が続くかとやや不安があるのだが。

 きょうは湯俣荘まで。ただし、ことし7月の豪雨で、このあたり一帯はかなり被害を受けており、湯俣荘は閉鎖中とのこと。

 高瀬川沿いの車道を延々と歩く。人家は全くない。
2人の登山者とすれちがう。湯俣温泉まで遊びに行ってきたという。
湯俣荘に着く手前で橋が落ちていた。約3時間で到着。
広々した川原にはテントがいくつか。我々もテントを張る。
早速、mzさんと川原の中央を流れる清流に行く。深さは50cm位。着く前から2人で川に入ろうと話をしていたのだ。パンツひとつになり、夕日の中、澄んだ水の流れで体を洗い、ついでに頭も洗う。なにか嬉しい。日頃できないいたずらをやっている気分。水はそれほど冷たくない。

 次に、川原のあちこちに掘られた露天風呂を探検。掘ればどこからでも湯が湧くので、登山者が掘って作ったもののようだ。底に泥や湯垢がたまっているものが多く、気持ち良く入れそうなものがなかなか見つからない。
やっとひとつ見つけた。浅いので、体を横にしないと全身が温まらない。喜んで二人で入り、自動シャッターで記念写真を撮った。

 夕食のとき、他のテントの住人が一人、話に来た。「いつもは山に登るのだが、今回はここで三日ほどのんびりするためにやって来た」という。変わった人だ。持ってきた酒が底をついたので、一杯飲ませてくれないかとのこと。
そういえば、ここは山の奥の奥。人里に出るには歩いて半日はかかるであろう。下界から逃れてのんびりするには最適だ。

  ここから更に10分程歩いた川原に、熱湯がぼこぼこと湧き出したところがあり、彼はそこに露天風呂を掘ったという。何でもみてやろうと早速、mzさんと二人で出かけた。

 崖沿いに吊るされた、角柱2本で作られた桟道を行く。下は激流。今は廃道になった伊藤新道である。岸辺のかなたに硫黄の盛り上がった小山が見えた。熱湯は随所に湧いていたが、彼の掘った露天風呂は見つからない。暗くなってきたので引き返した。

 標高がまだ低いせいか、テントの中は暑くて寝苦しかった。顔だけを外に出して寝る。

 (第二日)
                         
 湯俣川、水俣川の分岐から水俣川の方を遡る。まず急斜面の笹の中を行く。道はやっと分かる程度。ときどき笹藪の中で迷う。

 次いで、千丈沢と天上沢の分岐を左の天上沢へ。
川を向岸へ渡ることになった。川幅は20m程か。深さはひざ位。深みにはまれば腰位になりそうである。

 俵谷さんが先に渡りザイルを張る。それを手で握りながら、それぞれ、登山靴をはいたまま渡る。enさんがころんで深みにはまり、胸まで濡れた。
それを見て、私は俵谷さんの弟さんが用意してくれた木の枝を杖替わりに使って慎重に渡る。幸いにしてころばなかったが、靴も靴下もグッショリ。靴下を脱いで時間を掛けて絞る。

 更に谷を遡る。また、渡渉。また、靴下を脱いで絞る。でも、結局、これは無駄なことだった。すぐ後でまた、川を渡り返すことになったからだ。今度は、渡り終わっても、靴に水を溜めたままで歩いた。

 川の淵の岩壁をトラバースするところに出る。向こうまで7-8m位か。鉄のワイヤーが岩に沿って一本渡してあるが、手掛かりとしては充分でなく、更にザイルを渡す。
しかし足掛かりの岩も滑りやすく、向こう側にトラバースするには苦労した。滑り落ちれば激流の中である。やっと渡る。他の人が渡るのを待つ間に、この難所を写真に撮ろうと何枚もシャッターを押した。

 北鎌沢出合に着く。まだ川原は広いが、水はない。予定では、ここから右に折れて2時間の急登で尾根上にある北鎌のコルまで行く予定だったが、上部に水が無さそうなので、ここで泊まることになった。

 テントを張る。まだ、午後4時。時間は早い。
焚き火をすることにして、mzさんをさそい川原に散らばる枯れ木を集めに行く。

 燃え出した火の側に皆が濡れた靴と靴下を置く。
夕食のとき、俵谷さんが、この夏、ダウラギリⅠ峰(世界で第6位の8,000m峰)に行くという話を聞いた。
昨年アコンカグアで私が世話になった労山のKさんの隊も同じ時期
に行くという。ルート工作を協同でするようである。奇遇だ。私が登山で世話になったお二人が別々の隊のリーダーとして同じ時期に海外の同じ山を目指すとは。
そういえば、saさんは、私がアコンカグアに登っていた丁度そのときに、別の隊に参加をしてベースキャンプに来ており、アコンカグアへの登頂に成功したという。また、俵谷さんとsaさんは、来年インド隊に参加し、エベレストを目指すという話も聞いた。
(なお、俵谷さんはダウラギリで登頂後に遭難し、帰らぬ人となった。ご冥福を祈る)
 
 夕食後、しばらくの間、焚き火をかこんで皆で過ごす。
enさんに手打ちそばの作り方の話を聞く。
靴下を枝に吊るして乾かす人も。

 遠くに2組がテントを張った。煙が見える。あちらでも、焚き火をしているようだ。
 
(第三日)
                         
 きょうの行程が長いために、午前4時起床、5時に出発。昨日までの行程は、北鎌への取りつき地点に達するためのものであり、きょうこそが北鎌尾根登攀の本番となる。

 広い川原から分かれ、急傾斜の北鎌沢(右俣)を約2時間で一気に登る。たどりついた尾根の上は20-30m四方の広場。「北鎌のコル」という。ここからは尾根伝いだ。
ザイルをつける。saさん、私、mzさんがひとつのザイルで結ばれた。道の両側は、はるか谷底へと落ち込んでいるが、道幅は1mはあり、踏み外す危険はほとんどない。
それに、ザイルで結ばれているので、怖さは感じない。

 快晴。深く濃い青空が広がる。朝日がまぶしい。
疲れがたまり、足が重い。休憩のたびに、アメをなめチョコレートを食べる。果物味のチューブ入りのカロリー補給食も食べた。
それらを一口食べると、また歩く力が湧いてくる。疲れがひどい時には、食べた物がすぐに活力に転化するようである。

 尾根の上の踏み跡は明瞭。普通の登山道に近い道がついている。
独標の下に到達。通常のルートを離れて直登することになった。
俵谷さんがザイルを張る間、ザックを下ろして待つ。断崖の上である。ザイルを解かれたので、急に怖くなった。
遙か数百m下に谷川が光って見える。踏み外せば、あそこまで一気に落ちるだろう。

 あとから来た一組が追い抜いていった。彼らはザイルはつけず、通常の一般ルートを行くようだ。

 3ピッチで独標の頂きに出た。こちらのルートもほとんどは急傾斜のガレ場であり、ロッククライミングを必要としたのは、取り付き点からの、数mの登り一箇所だけであった。  
はるか遠くに槍の穂先が見える。

 独標から、いくつか岩稜を越えて、北鎌平へ。ここも広い。稜線でテントを張っている中年の夫婦がいた。槍を越えた向こう側は登山者で大混雑しているので、ここに留まり静けさを楽しんでいるのだという。彼らのほかには誰もいない。

 槍の穂先へも、一般ルートを行かずに、直登ルートをとった。取り付きは高さ5m程の垂直に近い岩場。ザイルを着ける。
2m位の高さに横に走る細い裂け目に爪先を入れ、岩を抱えながら右回りに上へ登ろうとするが、上部に充分な手掛かりがなくて、なかなか乗り越せない。
背中の荷が重くて背後に引かれる。一瞬、限界だ、落ちると思ったが、爪先の位置を変えてやっと乗り越した。

 そこから穂先へはワンピッチ。頂上の祠の裏に出る。
前日のテント泊のときに、skさんが言っていた。「昔、槍に登った時に、山頂の祠の向こう側は断崖になっていると思っていたのに、そこから子供の顔がヒョッコリ飛び出しビックリしたことがある。その子は父親と一緒に北鎌尾根を登ってきたんだ。それを見てから、北鎌を登って頂上の祠の背後に顔を出してみたいとあこがれてきた」と。

 頂上は登山者で一杯。肩の小屋周辺でテント泊の予定だったが、テント場は満員である。やむなく、全員、小屋に泊まる。

 翌日は、俵谷さん等と分かれmzさんと二人だけで双六小屋から鏡平への道をたどった。

 快晴である。前日に登った北鎌尾根を眺めながら、のんびりと歩く。あそこが独標だろうか。休憩時間を多くとり、いろいろと、とりとめのない話をする。双六小屋で休憩。
この頃から雲が出はじめ、遠くで雷が鳴り出す。鏡平小屋で一泊。奥飛騨温泉へ。
午前中に到着。バス停前にある無料の村営風呂で汗を流した。満足感に満たされた。

 三つのコースを一気に回ったために、帰宅してから一週間ほどは疲れが抜けず、朝、出勤するのがけだるかった。


(追加) 
北鎌尾根に登る前の<船窪乗越から烏帽子へ>の記事を掲載します。
                            
 
ここは、北鎌尾根に行く前に縦走。
 案内書には「危険。一般登山者は立ち入らないこと」と書いてあったが、実際に行ってみて感じたのは、それほど危険な所ではないということだった。むしろ、槍穂縦走不帰ノ剣よりは易しいように思える。

 このコースは急登、急下降の連続。結局、危険なコースと言うよりは、体力勝負のコースと言える。

 景色は抜群。北アルプスで第一級の豊かなお花畑、こまくさの大群落、荒々しい断崖絶壁、眼下の高瀬ダムと遙かなる槍ケ岳のとり合わせ、池塘が点在する「烏帽子・四十八池」など見どころは多い。

 (第一日)
 新宿を夜行列車で立ち、信濃大町からバス。5:15に扇沢の登山口に着く。

 霧雨。林の中を行く。この登山が終わった後で北鎌を登るが、その用具としてシュラフ、ヘルメット、ハーネスなども持ってきたために荷は割りと重い。15kg位か。

  大沢小屋を経て、しばらく行くと針の木の大雪渓が始まる。幅は10-20m。長さは200-300m程度か。傾斜はそれほどきつくはないが、早朝の寒さのために、雪面が固く滑りやすい。アイゼンをつけて登る。

 はるか上のほう、雪渓の中で立ち止まっている人がいる。こちらが登っている間、ほとんど動かない。写真でも撮っているのだろうか。近づくと中年の男性だった。
聞いてみると、アイゼンがなくて滑落しそうなために怖くて動けないという。先ほどすれちがったのだが、はるか下を赤い雨具の女性が下りていく。

 あれは彼の奥さんで、彼女のほうが勇気があってアイゼンなしで下りていったとのこと。着けていた4本歯のアイゼンの片方を貸すことにした。差しあげると言ったのだが、どうしても返したいので住所を聞かせてほしいという。住所を教えて分かれる。

 雪渓の登りに必要とした時間は30分程度か。雪渓が終わったところで、下りてくる数組の登山者に会った。

 針の木小屋9:30着。小屋に入り、土間のストーブで暖をとる。着衣はかなり濡れており、やや寒い。座敷では数人の登山者がくつろいでいる。雨できょうは出発せず停滞を決めているようだ。

 コーヒーを飲んで30分後に出発。雨が激しくなった。蓮華岳への登山道は雨に煙り、人影はない。山頂近くはガレ場のゆるやかな斜面。

 登るにつれ、「こまくさ」がぽつぽつと見られるようになった。上に行くほど増えてくる。そして、山頂周辺は、今までに見たこともないほどの大群落。これほど「こまくさ」が多い山は他にないのではなかろうか。

  しかも、ピンク群落の中に白い「こまくさ」をひとつ見つけた。あとで案内書を見ると、蓮華岳で確認されているのは4株しかないという珍しいものだった

 雷鳥には4-5回会った。雨や曇りの日は鷹等に襲われる恐れがないために茂みから出ていることが多いと聞いた。

 山頂10:00発。ガラ場を急下降。鎖場や梯子のところは、荷が重いのでゆっくり下る。北葛乗越に12:30に下り立つ。

 依然として雨。蓮華への登りで一人とすれちがったほかは、誰とも会わないが、体調が良いので不安はない。ここから急登が始まる。荷の重さで息が切れる。

  14:00北葛山頂着。雨がやみ、ときどき青空がのぞく。
  また、下降。登り返して七倉岳山頂船窪小屋に着いたのは15:40。着衣は下着までかなり濡れていた。結局、30分の休憩を含み、10時間30分で踏破したことになる。ほぼ案内書どおりの時間である。

 (第二日)                                  
 きょうは危険の多いところをいくつか越えて烏帽子小屋まで。泊まっていた10人前後の人はすべて同じ道を行くようだ。皆、幾分か緊張している。昨夜は何人かが、小屋の主人に危険な箇所がどこか、どの程度険しいかを尋ねていた。

 5:30小屋発。眼下にテント場。それを過ぎて更に下降。左は断崖で、はるか数百m下に谷底が望める。右側のお花畑の中に道がついている。黄色、ピンク、白、青などの花々。

 船窪乗越からは急登。一人、先を行く中年の人がいた。その人も荷が重そうで、あえぎあえぎ登っていたが、立ち止まり、こちらに道を譲ってくれた。鎖場や梯子のかかった所を越えて船窪岳へは8:00着。周りに木があり、眺望はあまりない。

 ここからまた急下降。ニッコウキスゲの黄色い大群落の中を下りる。その他、いくつものお花畑。花の種類の多さ、豊かさは北アルプス屈指と思われる。

 崖のところで老人が一人休んでいる。荷が重くかなりばてているようだ。こちらも、先に不安があるのでサポートをするわけにはいかない。やむをえず追い越す。

 不動岳への登りは、しばらく左の断崖沿いの赤土の中に道が付いていた。幅30cmほどの道で、その左側に乗れば崩れそう。雨が降れば一層すべりそうだ。昨年夏に、ここで大学生が足を踏み外し、数百m下の谷底へ転落したという。

  不動岳着10:30。槍、表銀座、裏銀座、針の木の山々が周りを囲む。左下に高瀬ダム、
右後方に黒部湖。斜面にこまくさの群落。途中一緒になった人と弁当を食べる。11:00発。

 もうひとつ鞍部を越えて南沢岳に12:30着。ここからの道はゆるやか。池塘が点々と散らばり「48池めぐり」と言われる景勝地を過ぎる。すばらしい。ここには職場の誰かを案内し、このすばらしさを共有したいものだ。

 ここまでで、すれちがった登山者は数組7-8人程度。夏山登山の最盛期だが、このコースに入る人は少ない。

 縦走路から分かれ、烏帽子岳にも登る。ここまで来ると、烏帽子岳小屋から往復して登る人が多い。針金のついた急な岩場あり。

 下りてきた所で南沢岳の方から来た中年の男性と会う。聞いてみると、針の木小屋から10時間で来たという。私の足なら17-18時間はかかるところ。すごい人がいるものだ。

 烏帽子の分岐点から小屋へは30分程度。烏帽子小屋着15:00。
 結局、それほど危険な所はなかった。
がれ場をロープ伝いに登る所、鎖で下降し更に登り返す所、両側が切れ落ちた幅50cm、長さ4-5mの道、不動岳への赤土の登りなどが危険と言えば言えよう。危険の程度は荷の重さや天候の具合にも左右されるが、幸いにして天気には恵まれ、荷も、ばてるほどには重くなかった。

 小屋は超満員。高瀬ダムや野口五郎岳から来た一組50人前後の中高年中心の団体客も
数組いた。

 夕方、小屋のそばの空き地にヘリコプターが飛来。
 これで、北アルプス全山縦走はほぼ完了したことになる。残るは比較的易しい針の木-種池の間のみ

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挑戦 その3 トムラウシ

(挑戦・その3)

<十勝岳からトムラウシへ・縦走>2000年8月6-13日、mzさんと二人で

 行きは大洗より苫小牧へフェリー。6千円、雑魚寝、所要20時間。食事はバイキング方式、ただし、別料金(朝1000円、夕1600円)。お風呂はいつでも入れるし、きれいなサロンもある。広々した甲板で風に吹かれながらの船旅であり、のんびりするには最適だった。

 山は十勝・美瑛岳トムラウシ山の縦走。ルートは小屋のない最奥にあり、テントが必携。
夏の北海道の山では通常、1日、50-100組の登山者とすれ違うが、2日目は3組6人位しか会わなかった。
2日目のコースは人があまり入っていないので、道のかなりは背丈以上の熊笹にビッシリ覆われ、これを体全体で、顔も使ってかきわけて進むのが大変だった。

 長時間、むし暑い穴の中に入っているようなもの。テントはmzさんが持ってくれたが、それでも5日分の食料などで荷は重く、汗びっしょり、体はほこりだらけ、口の中もほこりだらけ。これが1時間以上続くところが数ヶ所あり、本当にまいってしまった。

 3日目にダウン。朝はいつも元気が出るはずなのに、この日は午前10時過ぎに一歩も歩けなくなった。
荷の重さと藪こぎの疲れのほかに、2日目の夕食を抜いたことも原因。テント場で水が得られず食事が作れなかったためであり、水筒にわずかに残る水で一夜を過ごした。

 今回はmzさんと一緒。彼がテントを持ってくれた。ただし、彼は朝と昼を食べないで過ごす男。食事をとらなくとも、元気一杯だった。

 また、今回はトムラウシ山頂へ40分の南沼のほとりで自然の猛威も経験した。幕営指定地ではなかったが、景色が良いうえに、疲れもあって、そこにテントを張った。
当初は、池の冷たい水で体を洗ったり、草むらに寝転んだりして快適に過ごしたが、その翌朝に低気圧に遭遇。テントを張った場所は運悪く風の通り路にあたり、翌朝から翌々朝まで強風と豪雨に見舞われた。

 外に出れば1分間も経たないうちにびしょぬれ。テントをたたんで他の場所へ移動したかったが、作業のために長時間雨にうたれれば、たちまち凍死する危険があったので、1昼夜、寝袋にくるまってじっとしているしかなかった。

 テントは吹き飛ばされそうにバタバタと音をたてる。寝袋は濡れてくるし、やや寒くなる。トイレに行くのは大仕事。都会の生活に慣れてしまうと人は野生味を失い、自然のすごさを忘れがちになるが、いったん荒れたら、自然は厳しい。人が生きるのにまず必要なのは、食物と水と濡れに強い防寒衣であることをあらためて実感した。

 次の日は朝5時半に起床。まだ風雨が強い中、テントをたたみ、縦走を続けるmzさんと分かれ、隣にテントを張っていて知り合った人と一緒にトムラウシ温泉へと下山。途中で晴れて、続々と登ってくる登山者とすれ違う。

 ほとんど休まずに4時間半で一気に山をかけおりた。トムラウシ温泉「東大雪荘」に11時過ぎに到着。帰れるとなると元気が出るものだ。しかし、3時半までバスなし。広々とした豪華な露天風呂(350円)に2回も入り、おいしい昼食(カツカレー)を食べて待つ。この建物は新設できれい。気に入った。また来たいものだ。

 なお、体重を計ると50.8kg。これまで54kgあったのだが。

 帰りは寝台特急「北斗星」に乗る。23000円。要16時間。食堂車の夕食は豪華で、7800円。でも、食べないで、おにぎりで済ませた。
 寝台で手足を充分に伸ばして眠り、食堂車で果物付きの1600円の朝食をとり、サロンカーでのんびり本を読みながら、「北海道の最奥を縦走してきた」という充実感を味わった。風雨のテントとは天国と地獄ほどの違い。

 ともかく、自然の猛威を知り、また、自分の限界を知る、すばらしい旅だった。

写真を掲載します
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/FZeKgB/photo?authkey=aSqVDVAwmIg#s5171832868344463586

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挑戦 その4 槍穂縦走

(挑戦・その4)

<槍穂縦走・単独行>2000年9月19日(火)・夜行-22日(金)

 不安定な天気が続き出発を延ばしていたが、台風一過、天気予報はやっと全国的に2日間の晴天を約束してくれた。今こそ行くチャンス。骨折で入院している母が退院してくれば行けなくなるかも、との思いもあった。

 夜の「六つ星山の会」の会議に出席した後、新宿23時発・上高地行の夜行バスに乗込む。ウィーク・デーだというのに中高年の登山者で満員。
車内はこれまでにないほどに窮屈な感じがして、体が痛く、ほとんど眠れなかった。席が窓側だったこともあるが、62才という年齢のせいもあるようだ。夜行バスに乗るのはもう止めだと強く思う。

 上高地5:50着。6:10スタート。岳沢経由・穂高岳山荘までは前穂の登頂も入れて標準で9時間30分の行程。休憩時間も必要だし、はたして暗くなる前に着けるだろうか。
遅れれば、前穂はカットしよう。いつもは持っていく大型カメラ、CD、ガスコンロ等は持たず、荷はできるだけ軽くした。

 冷気が身にしみ厚手のジャンパーを着る。河童橋にはまだ人影なし。広場に数人。穂高連峰が朝日に輝く。数年ぶりの単独行だ。気持がキュッと引き締まる。

 岳沢へ。夜行バスで苦しんだ割には体が軽く、快調に飛ばす。岳沢ヒュッテには標準で2時間30分のところを1時間45分で到着。客の姿はなく、受付に男性がポツンと1人いるのみ。

 今回は槍穂の縦走。このうち、奥穂-北穂間は数年前ジャンダルムを走破した際に歩いており、今回の目的は残りの岳沢から奥穂への登りと北穂-南岳間の大キレットの通過にある。この2つは数年前からの懸案だった。
私が好きなのは、スリルのある-しかし、技術的にはそれほど難しくない-岩場が続くルートである。
二つとも30数年前に歩いているが、どんなところだったかはほとんど憶えていない。

 大キレットは、学生時代から付き合いのあるymや今は亡きmtと一緒だった。こわくて岩場にしがみつき過ぎ、時計の表面にいくつもの傷が付いたことを憶えている。

 最近は毎年のように槍ヶ岳穂高に登っており、槍穂縦走ルートのすぐ近くにまで行くのだが、妻や知人のサポート役を務めていたために、眺めるだけで行くチャンスがなかった。行きたい思いは増すばかりで、今年の夏こそはと楽しみにしていた。

 岳沢ヒュッテでポットに湯をもらい、軽い朝食をとって出発。暗い樹間には既に霜柱があった。はしごや鎖場を上る。急ではあるが、こわくはない。
岩稜帯まで登ると太陽がまともに照りつけて暑くなった。Tシャツ1枚になり、頭に手拭いを巻く。いつものスタイル。紀美子平には標準で3時間のところを2時間20分で到着。

 空身で前穂へ。30分で11時に頂上着。まっ青な空が広がる。雲ひとつなし。槍穂の連山がクッキリと見える。
遠く、八ヶ岳、南ア、中ア、木曾御岳。その向こうに富士山がかすむ。うしろを向けば、はるかに白山。
すばらしい。気分は最高。次々と写真を撮る。更に先端に出ると涸沢小屋の赤い屋根が眼下に望めた。アッという間に30分が経ち、紀美子平に戻る。

 奥穂への吊り尾根は思っていた以上の急登。岩をよじ登る。足は前に出るのだが、息がハアハアとせわしない。空気が薄くなったせいか。暑さのせいか。3000m位の高さでは今までになかったことだが。歳のせいだろうか。

 奥穂山頂に13:50着。16:00頃と思っていたが、予定よりはだいぶ早く着いた。のんびりしていこう。岩の間に横になる。眼をつぶると日差しが暑い。
ジャンダルムの方から一人到着。岳沢から来た登山者がコースの様子をたずねているようだ。ラジオも聞こえる。50分の休憩。

 きょうはこれで終りと思いながら小屋へ下る。ところが、真下に小屋の屋根が見える鎖場まで来て、急に不安感がこみ上げてきた。
こわいと思うと体が動かなくなり、易しい岩場でも落ちることがある。明日はもっと危険なところ。大丈夫だろうか」と。

 誰かのサポートをしているときはサポートに夢中なために不安を感じることはなく、かえって体はスムーズに動くのだが。一人だと気持が揺れる。

 15:10小屋着。要した時間は正味7時間。食欲はあまりない。夕食はごはん1杯で済ます。むしょうにのどがかわく。

 2日目、5:30スタート。きょうも快晴。涸沢岳山頂で朝食。6:10、いよいよ岩場へ。昨日の不安感がかすかに胸底に残る。
危険個所に来て自信がなければ引き返せばよいのだ。まずは長い鎖を下る。足下数百m、はるかに涸沢ヒュッテ。

 高度感がすごいが、ホールド、スタンスとも充分にあり、それほど怖くはない。高齢のご夫婦と一緒になる。70才近いよう。数年前に来たという。鎖場や岩場でご主人が一生懸命に奥さんに注意を与えている。ユックリしたペース。
こちらもそれに合わせて下りながら、後の記念にと険しい鎖場の写真を撮る。広大な岩稜帯をジグザグに下りきると、あとは容易。北穂高に9:00着。暑くなってきた。

 山頂の小屋で弁当を食べる。大キレットから数人が到着。口々に「怖かった」と言う。しかし、危険な岩場を乗り切ったという思いから、その顔は晴れやか。
一人が「○○さんがそばにいたから安心感があって、乗り切れた」と言っている。それを聞きながら9:30スタート。

 はじめの1時間はボトルの足場もあったが、概して容易。ガイドブックにコース中の最大の難所とあった「飛騨泣き」はこの先。どんなところかと思いながら下る。でも、「飛騨泣き」に来て不安は消えた。

 はじめの馬の背状の岩場には太い鎖が懸かっており、足場も充分過ぎるほどにある。易しい。飛騨側をトラバースする個所も、足元は切れ落ちているものの、ホールド、スタンスがしっかりついており、特に難しいというほどではなかった。

 順調に通過。ホッとする。あとは難しいところなし。見上げるように急な岩稜帯を鉄梯子も使って上りきると、南岳小屋。13:00着。北穂から標準4時間30分のところを3時間30分で走破。危険地帯は抜けた。安堵感が広がる。50分の休憩。

 ここからはゆるやかな稜線。長ズボンの裾をひざまでまくる。体の中を風が吹き抜け、満足感に涼しさが重なる。これが山のよさ。槍ヶ岳山荘16:15着。

 一休みのあと、17:00槍ヶ岳へ。17:15山頂。先着して数人がいたが、その人達も小屋の夕食に間に合うようにと下りてしまい、広大な天空と連なる山々の中に一人残された。心が自然にとけ込む一瞬を味わった後、小屋に戻る。

 無事を伝えるために家に電話をすると、Hさんが病気の再発で亡くなったという。歳は3つ上。山小屋にいる自分となんという違い。病魔が誰を襲うかは運による。立場が逆のこともありえた。

 そのあと、小屋のテレビで、シドニーオリンピック・柔道100kg級の井上康生が金メダルを取る瞬間を見た。ふと、生きているとは何だろう?と思う。

 3日目、雲が多くなり日の出がややぼける。5:30スタート、新穂高温泉へ。初めての道。六つ星の誰かをサポートして来るかもしれない。よく見ていこう。
始めは小石が多く滑り易いカール状の斜面。人影は全くない。一気に駆け下りると、1時間ほどで森林帯。登ってくる人と初めてすれちがう。親子連れのようだ。

 槍平小屋で20分の休憩、軽食をとる。ここから滝谷避難小屋(無人。廃屋に近い)への1時間は視覚障害者にとっては難路と思われた。傾斜はないが、石が多く、直径1m前後の石の上を次々と渡らねばならない。2時間はかかりそう。

 標準6時間を正味4時間40分で新穂高温泉に10:30着。10:40発のバスで平湯温泉へ。

 乗継ぎの待ち時間を利用して、バスターミナル3Fにあった温泉に浸かる。露天風呂もある。いつもそうだが、山のあとの温泉は最高に気持がよい。

 下界の便利な生活とはかけ離れた-そして、自分の力が試される-小さな冒険は終わった。
 13:53松本発の特急あずさに乗車。

 今回の単独行は単独行としては数年間のブランクがあったにもかかわらず、スピードはまあまあだった。
しかし、帰ってからの4日間は足の筋肉痛に悩まされ、また、胃に負担がかかって唇が荒れ、治るのに1週間を要した。

 コース選択には年齢を考えての慎重さが必要な時期に来ている。

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挑戦 その5 南アルプス単独行

(挑戦・その5)

<南アルプス単独行・仙丈-塩見-蝙蝠岳-二軒小屋-転付峠>
2001.7.22(日)-26(木)


 昨年夏の槍穂縦走以来の単独行である。間ノ岳-熊の平-塩見岳の間を歩いて、南アルプス全山縦走を完成させることが今回の第一の目的。縦走路のうち、ここだけが歩いていなかった。行く直前になり欲が出て、仙丈岳-三峰岳の仙塩ルートと塩見岳-蝙蝠岳-二軒小屋-転付峠越えのルートをこれに加えた。この二つは昔から行きたいと思っていたところである。特に二軒小屋-転付峠越えには強くあこがれていた。

 天気は長期に安定するとの予報。介護をしている母を施設に預け、19日から出かけようとしたが、20-22日が連休のためにどの小屋も満員で予約ができず、出発を22日に延期した。

 新宿7:00発の特急に乗る。8:27、甲府着。駅前で、タクシーの運転手に呼びとめられた。
広河原まで4人の相乗りで、1人2500円でどうかという。承諾。バスで行けば、広河原発、北沢峠行12:30の村営バスに乗る予定だったが、タクシーのお陰で1台前の広河原10:30発に間に合った。

 登山者が多く、バスが4台も出る。そのバスを待つ間のことだ。登山センターの人がやって来て「この3日間で、3件の骨折事故が起きています。皆、中年の女の方。昨日発生した足の複雑骨折事故は、午後3時頃から大雨があり、下山を急いでいて滑ったためです。足元には十分注意を」との話があった。北沢峠11:00着。

 11:20、歩き始める。きょうは仙丈岳直下にある仙丈小屋まで、標準で4時間のコース。時間はたっぷりある。
多数の登山者が休んでいる藪沢小屋への分岐に13:20着。曇りだが、時々、日がさす。雷は無さそうなので、小屋へ向わずに仙丈岳頂上を目指すことにした。

 ゆっくり登り、15:50、山頂着。あいかわらず、霧が出たかと思うと日がさすという天気。下の小屋までは15分で行けるだろう。岩に腰をおろし、のんびりと休息。時間が遅いせいか、山頂には1組の夫婦がいるだけ。白い霧に包まれて、いつの間にか居眠りをしてしまい、ふと目覚めると、真上に青空が広がっていた。

 小屋へ。新設の仙丈小屋は満員に近かった。定員80名。食事は出ないが、カレー等のレトルト食品なら買って食べられる。こちらは持参した赤飯(乾燥米)とカップメンを食べた。
小屋の隅からマットと毛布を引き出して休んでいると、小屋の主人がやってきて「指示があるまでマットと毛布は使わないように」という。土間にあるテーブルの使い方についても指示された。うるさいこと。

 小屋に着いても、ゆっくり休息ができないとは。客よりも小屋の管理を優先させる態度には腹が立った。

 持参したカメラの電池が切れており、使い捨てカメラを買う。2600円。下界では500円位か。

 2日目、3:30起床。きょうからが本番だ。熊ノ平まで標準で9時間のロングコース。休憩を入れれば、10-11時間か。案内書を読むと、3千mの高さから2千mまで下った後、再度3千mに登り返す。

 人はあまり入っていなし、倒木で通りにくい所もあるという。普通なら2日をかけるコースを1日で行くつもりである。手ごたえがありそう。どんなところか、期待と不安が交差する。

 湯を沸かしポットに詰めて4:30スタート。遠くにまちの灯。高遠のあたりか。でも、空は明るさが増し、懐中電灯は要らない。天気は快晴。仙丈山頂にはご来光を見ようとすでに多くの人が先着していたが、こちらは先が長いので立ち止まらず、4:45、一気に下りにかかる。

 はじめはゆるやかで歩きやすい岩稜帯。途中から樹林帯。倒木は片付けられており、歩きにくいところはない。中年の男性が1人追い付いてきた。
山口から、はるばるやって来た59歳の方。毎年1度、南アルプスに登りにくるという。きょうの行程は馬の背ヒュッテから熊の平まで。アレコレと山の話をしながら歩いていると、あっという間に標高2200mの最低鞍部・野呂川越えに到着した。到着は8:50。ここから更に下れば30分で両俣小屋である。

 9:00スタート。今度は延々と3時間の登り。風がなく、むし暑くなった樹林の中を行く。さすがにきつい。ゆっくり歩いていると、60歳前後の単独行の女性に抜かれた。

 馬の背ヒュッテから三峰岳・間ノ岳を通り北岳山荘までをきょう1日で歩き通すという。すごいおばさんがいるものだ。樹林帯を抜けると、日が照り付け、暑さが増す。視覚障害者の人にとって、登るのがむずかしそうな岩場が1箇所あった。

 4人組の男性を抜く。結局、きょう会ったのはすれちがった人も含めて7-8組か。南アルプスのメインルートを外れており、さすがに登山者は少なかった。

 三峰岳着、12:20。三峰岳までの仙塩尾根コースをまとめれば、「人が少なく静寂がとりえ。道はしっかりしている。ただし、長くて単調。それに長時間の下りのあとだけに、登り返しがきつい」というところか。
心配していた雷の恐れはない。熊の平小屋へとのんびりと下り、14:10着。

 小屋は沢の水が豊かに流れる森の斜面に立つ。シーズンオフには風呂も立てるという。小屋の前は板敷きの広々したテラス。前面の谷越しに雄大な農鳥岳。それが夕日に赤く染まる。なかなか良い所だ。

 定員70名。連休が過ぎたというのに、ほぼ、満員である。すべて、中高年の人達。特にたくましいおばさん達が多い。南アも北アも、今は中高年登山が花盛りだ。まだ、まだ、増えると思われる。

 3日目塩見岳を越え塩見小屋へ。標準で4時間30分のコース。のんびりと出発準備をしていると、早朝の5:30なのに登山者が誰もいなくなった。小屋の主人に送られて私も出発。きょうも快晴である。

 初めは樹林帯。途中、岳樺の太い幹に腰をかけて朝食。樹林を抜けると北荒川岳の平坦な山頂広場。展望よし。正面に塩見岳の急峻な斜面が望まれる。次いで、お花畑。これを過ぎると、いよいよ塩見へのガラ場の急な登り。右側は断崖となり切れ落ちている。稜線に出るとすぐに蝙蝠岳への分岐。更に登り、塩見岳着11:30。しばらく、山々を見て過す。

 塩見小屋、12:30。ここも予約で満員のもよう。小屋の脇にある仮設の建物(10畳ほどの板張りのテント状のもの)に案内された。屋根はトタン。日が照りつけてとても暑いし、アブも多い。
ここに単独行の男性9人が押し込められた。布団とザックもあって、キツキツ。早く着いたので本でも読んでのんびりしようと思っていたが、それは無理だった。

 夕方まで同室の人達と雑談をして過す。日本に25年いるというアメリカ人、光岳から北岳まで縦走する人、重い写真機材を持った70歳位の新潟の人など。二軒小屋へ行く人もいた。心強い。夜は雷雨。

 4日目、3:30起床。きょうのコースが今回で最も長く、しかも人が入らないところ。標準で11時間かかる。
計画当初は行く気が無く、メインルートを通って三伏峠から伊那大島に下りるつもりだったが、山の状況を調べる中で、このルートの「道しるべ」が昨年整備されたことが分かり、行ってみる気になった。

 もう一度行きたかった二軒小屋に行けるのが最大の魅力である。塩見小屋の人に確かめると、迷う恐れはまったく無いという。

 頼んでおいた弁当(いなりずし)を受け取り、4:20スタート。さすがに風が寒く、ジャケットを着用。まずは、昨日来た道を引き返し塩見岳へ。

 黒々とした塩見の岩峰が眼前一杯に立ちはだかる。日の出。でも、ここにはまだ、日が差さない。手がかり・足がかりを確認しながら切り立った岩場を慎重に登る。
1人を抜き、西峰着、5:10。朝日を一杯に浴びて、快晴の天空の中に立つ。遠く近く、周囲はすべて山。

 悪沢岳、荒川中岳、間の岳、北岳、仙丈岳など。中央アルプスや恵那山、北アルプスも。これから行く蝙蝠岳の上には、はるかに高く富士山が望める。西峰から5分の東峰には先着2人。うち、下り始めた1人が同じコースを行く人のようだ。

 一緒になった2人と写真を撮りあい、5:30に山頂を離れる。下りに1箇所、視覚障害者にとって危険なところあり。両側が深く切れ落ちた細い道。晴眼者でも怖い。
幅は50cm、長さは10m位か。これを越え、6:10、分岐着。

 すぐに蝙蝠岳へ向かう。まずは岩の上り、下り。次いで岩畳の尾根。鞍部の前後は朝露の残る岳樺の中を行く。黄色い花が一面に咲く窪地もあった。
山頂付近は再び、砕けた岩畳の広大な尾根。歩き易い上に山々の展望が良い。

 谷を隔て大きく悪沢岳荒川中岳。このあたりが蝙蝠岳のおすすめポイントであろう。8:00、山頂着。二軒小屋に向けて先行した人がまだ休んでいるかと思ったが、その姿はない。弁当を広げて全部食べる。お茶もうまかった。


 8:30山頂発。分岐から蝙蝠岳を往復する人は多いが、ここから先はほとんど人が行かないところ。はたして、道に迷わずに行けるだろうか。
15分で展望のよい尾根が終わり、樹林帯に入る。岩や樹木に5-10m置きにペンキで大きな赤いしるしが付いており、迷う恐れは全くないようだ。
一安心。樹林の中、いくつか小さなピークを越える。

 日が差し込んでいるところを通ると、わっと羽虫の柱が立ち、全身が虫だらけになる。ただし、人が通らないためか、仙塩尾根に多かったアブはほとんどいない。迷う心配がなくなったので快調にとばし、標準で2時間30分かかるはずの蝙蝠岳-徳右衛門岳間を1時間10分で歩いてしまった。徳右衛門岳9:40着。

 ここからは急な下りの連続。足場の悪い所もある。神経を集中して駆け下りたが、さすがに1時間で足が痛くなり、林の中の倒木に腰を下ろして15分の休憩。ポットの湯でコーヒーをいれ、パンとリンゴを食べる。風が通り、心地よい。

 下る途中、登ってくる登山者に初めて出会った。徳右衛門岳でテントを張るという中高年の2人組。きょう、このコースに入ったのは私のほか、先行の一人とこの2人だけのようだ。

 更に下ると、尾根のはるか下、右にも左にも木々の間に河原が見えるようになった。あの合流点が二軒小屋
12:40、やっと林道に出る。脇を流れる清流は河原の幅が20m位の、大井川の源流である。もう、小屋は近い。時間がたっぷりあるので、水を浴びることにした。

 どうせ、こんな山奥には誰も来やしない。下着も脱いで裸になる。透きとおった冷たい流れにタオルをひたし、汗でべたつく体を洗う。この上なく気持ちよし。河原の砂場に小枝を立てて服を乾かしながら、パンツひとつでザックに腰をおろし、開放感を満喫する。
時々、日がさし、木々の緑が目に映える。風も快い。13:15まで休憩。

 13:40、二軒小屋ロッジ着。休憩も入れて9時間20分、正味では8時間弱で塩見小屋―二軒小屋間を歩いたことになる。

 ロッジの前は広々とした庭。風にそよぐ白樺の下にテ-ブルとベンチがいくつか置かれ、奥にはピンクのヤナギランが咲く。軒下にある缶ジュースの販売機に、久しぶりに人里を感じた。

 20年前にMさんと来たところ。あのときは赤石岳悪沢岳に登り、千枚小屋に泊まった後、雨の中をここに下りてきて、バスが出るのを待ちながらビショヌレの服を乾かした。
そのとき、こんな山奥にこんなすばらしいロッジがあるとはと驚かされ、以来、いつかもう一度来て泊まってみたいと思い続けてきたが、それが今、実現した。

 このロッジは静岡からバスで3時間30分、そこから更に迎えの車で1時間の山奥にある(経営するのは東海パルプの子会社・東海フォレスト)。宿泊費は1泊2食付で13千円。部屋は2段式のベッドだが、食事は10品ほど付いており、広間のレストランでとる。また、ベランダは広く、木製の寝椅子などが置かれている。

 18時の夕食まで、のんびりと過ごす。まずは昼食。広い庭に出て、持参のコンロで湯を沸かし、五目ごはん(乾燥食品)とカップメンを作る。ティーバックで入れた熱いお茶が特にうまかった。次に風呂に入る。ヒノキ風呂で、洗い場はスノコ敷き。蛇口が6つという広さ。
 
その後は、ベランダの寝椅子で持参の「真田太平記(司馬遼太郎著)」を読む。白樺の林を吹き抜ける風が快い。雲が動き、遠くに雷鳴を聞く。
昨日までの山小屋はどこも狭い上に混雑しており、午後早く着いても、のんびりすることができなかったが、このベランダには自分のほかは誰もいない。体と心が緊張から解き放たれて、フワフワとただようようだ。至福の一刻である。

 夕食後、ベッドで9:30まで本を読む。宿泊客は5人。週末は30人位が泊まるというが。

 5日目。朝食後、弁当を作ってもらい、7:30に出発。転付峠越えは自分だけ。あとの客4人は東海フォレストの送迎車で静岡側に出るという。

 天気は曇り。標高2千mの峠を目指し、整備された山道を登る。途中、峠にテントで泊まったという単独行の男性とすれちがう。転付峠、9:00着。広い林道が通っている。江戸時代のものだろうか、古びて端の欠けた石の「道しるべ」がポツンとひとつあるだけ。
どこにでもありそうな村の峠といった感じである。依然曇っており展望なし。下へ5分のところに水場あり。

 ここから1時間は林の中の下り。それからは沢筋を行く。10:30、保利沢小屋跡着。両側から山がせまって、谷が深く切れ込み、道が悪くなる。谷底まで数十mはあろうか、垂直に近い断崖の上に踏み外しそうな細い道が続く。

 危険な箇所には木や鉄の桟道が架かっているが、傾いたものが多い。大きな崖崩れで谷が埋まっている所を通過。村人が数組入って、道の修理をしていた。
昔からある峠道なので、軽く考えていたが、思いのほかに道は悪い。視覚障害の人が行く場合は、強力なサポートが絶対必要と思われる。車道着、12:00。バス停着、13:00。結局、すれちがった登山者は2人だけだった。14:29のバスでJR身延駅に出て、甲府へ。

 1年ぶりの単独行。5日間も山を歩けて大満足である。ロングコースを計画どおりに完走できた。5日目を除いて運良く晴天に恵まれ、終日、すばらしい展望が満喫できたし、恐れていた雷に遭うこともなかった。

 裸で河原の水浴びもやったし、二軒小屋にも泊まった。蝙蝠岳-二軒小屋間は道が分かるかと心配だったが、これも「道しるべ」が完備していて道に迷うことは全く無かった。体調もまあまあ。胃は不調だったが、毎日、薬を飲んで何とかもたせることができた。
脇腹がこって、やや痛んだが、痛さが増すことはなかった。歳をとり、力は衰えつつある。

 しかし、コースタイムは標準か、それ以内で歩けたし、帰ってからも疲れは残らず、足も痛くならなかった。

 まだ数年は、この程度の山歩きが出来そうに思われる。

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挑戦 その6 大峰奥駆 

(挑戦・その6)

<大峰奥駆(熊野から吉野へ)>
2002.5.1(4.30の夜行バス)-5.7mzさんと2人

 テント2泊(大森山手前と葛川辻)、無人小屋2泊(持経ノ宿、深仙ノ宿)、食事付の弥山小屋1泊、山上ガ岳山頂の宿坊1泊。  

(大満足)

 数年前に大峰奥駈の様子をNHKのテレビで見て、いつかは僧院の募集する奥駈修行に参加し、白装束の山伏姿で歩いてみようと思っていたが、今回、それを登山として実現することができた。mzさんから「連休中にどこかに行かないか」との誘いがあり、私の方からこのコースを提案した。

 そして、完走できた。しかも全行程を歩き切ったのである(NHKで見た修行は、前鬼までで、奥駈道の半分しか歩かないし、荷も軽い)。
大満足。云うことなし。体の不調に悩まされることもなく、けがをすることもなかった。
無信心な私だが、登山中は御仏が守ってくれたのかもしれない。でも、終わってみての心境は「悟り」とは無縁のようである。体も頭もボーッとして、むしろ無心に近い状態になった。

 行けたのは、しかも完走できたのは、mzさんがテントを持って一緒に歩いてくれたお陰である。単独では行けなかった。

(大峰奥駈道)

 紀伊半島のほぼ中央を南北に走る大峰山系の尾根を行く。奈良時代に役小角(エンノオヅヌ)が開いた修験の道。
鎌倉時代、室町時代に天台宗と真言宗の間で盛んになり、多数の山伏が修行のためにこの道を越えたという。

 吉野川沿いの「柳の宿」から「熊野本宮証誠殿」までに75ヶ所の霊場(山頂や岩場、宿のある広場のお堂、寺社、滝などを霊場にしている)があり、大峰75靡(ナビキ)と呼ばれる。昔は75日をかけて、この霊場のすべてで祈りをささげながら縦走したという。

(疲れた)

 帰ってきた今は、本当に疲れたと感じている。今までの山行とは疲れ方が違う。7日の間、毎日8-10時間(初日は4時間)、15-18kgの荷を背負って登り下りを繰り返したためだ。

 私にとっては、重い荷を背負い連続して1週間も歩くのは初めての体験である。6年前のマッキンリー登山では17日間をテントで過したが、吹雪の日もあって2-3日置きに休養日が入った。それが、今回は、連日歩き続けたのだ。

 厳しい山行の後によく起きる足の筋肉痛は生じなかったが、体全体に、足だけでなく、腕や首にも、重い疲れが残った。「綿のごとく疲れた」とはこのことである。
帰った翌日はお腹が空いてしかたがなかった。いくら食べても、1-2時間でまた腹が空いた。

(熊野本宮へ)

 4月30日、高速バスで池袋駅前を21:35出発。翌朝、和歌山・新宮着8:00。やや早く着いたので、8:02発の熊野本宮行きバスに間に合った。
9:20、奥駈道の出発点である熊野本宮大社着。標高約200m。雨である。すぐに歩き始める予定だったが、見合わせて喫茶店に入る。モーニングセットを頼み、新聞を読んで雨が止むのを待つが、止む様子なし。

 荷を店に置き、大社に参拝。結局、あきらめて雨の中を出発した。雨で遅れた分、2時間の道のりをカットし、タクシーで山在峠(サンザイ峠。標高265m)まで入る。12:00に歩き始める。完走できるか自信はない。せめて、弥山(ミセン)まで行ければよいのだが。

(雨)
 雨には悩まされた。初日は一日中、2日目は午前中(ときおり激しい雨)、4日目は一日中(ただし、霧雨)、5日目は朝方と、4日間も雨に遭った。

 初日は雨の中でテントを張る。下着までびしょぬれ。外でじっとしていると風が体の中を通りぬけて、たいへん寒かった。手もかじかむ。
張り終わると、すぐにテントの中で着替え。服をすべて脱ぎ、乾いて暖かな下着と上着を身に着ける。
これらはビニールで包み、大切に持ってきたものだ。これでホッと一息。シュラフに入るとけっこう暖かかった。でも、こんなことで完走できるのだろうか。ふと、不安になる。

 翌朝はこれらの乾燥した衣服はすべて脱いで、ビニールに包む。そして、きのうの濡れた下着をまた身に着け、ゴアテックスのレインウエアーを羽織る。冷たい下着が肌にベッタリと張り付いて気持が悪いが、しかたがない。歩き出せば、体が温まり寒さはなくなるはずだ。

 霧雨の中を、大森山を越え、玉置神社へ。社務所の前の参拝者用テントでコンロを出して食事。標高は約1000m。ときおり雨が激しくなり、風が吹き抜けて寒い。車でここまで上がってきた参拝者が数人通る。まだ、先は長く、気分は暗い。

 幸い、香精山の登りにかかる頃には雨がやんだ。この日は地蔵岳(別記)を越え、葛川辻でテント泊。水場は10分ほど下った谷川。

 3日目、4日目は当初はテントを予定していたが、雨に叩かれたことや、修験者用の無人の小屋が次々に現れたことがあって、それらの小屋に泊まった(持経ノ宿、深仙ノ宿)。

 でも、雨が幸いしたことが一つある。6日間で行く予定だったのが、雨でスタートが遅れたために7日をかけたことだ。そのため、前半5日間の一日平均行程が短縮されて楽になった。これも完走できた理由の一つに挙げられる。

 3日目は薄日、5日目午後と6日目は快晴、7日目は曇り。

(大峰奥駆を完走した人は少ない?)

 大峰奥駆を完走した人は少ないだろう。理由の第一は荷が重く、しかも長丁場なので体力が要ることである。歩いていて体に故障が生じたらアウトである。私
の場合は、テントをmzさんに持ってもらった上に、最後の2泊は当初から食事付きの弥山小屋山上ヶ岳宿坊泊りを予定し、持参の食料を4日分に減らして荷を軽くした。

 家で計ったが、荷は歩き始めで18kg。水2Lやガスコンロ、シュラフ、換え下着3枚、換えズボン1枚、アルファ米6食、カップラーメン4ヶ、餅4ヶ、薄い餅1袋、非常食のゼリー6本等を含む。

 mzさんはテントを含めて20kgを超えた。
なお、5日目に食料が底をつき、弥山小屋の売店で弁当や菓子類を補給。また、深仙ノ宿で一緒になったおじさんからはパン4ヶをもらって、大いに助かった。

 完走者が少ない第二の理由は、勤めを持っている場合、連続して長期の休暇を取るのが難しいことだ。最低、6日は必要。せいぜい、ゴールデンウィークか、夏休みだが、夏は暑い上に虫が多そうである。
更に、女性には不可能という理由もある。これは、途中の山上ヶ岳一帯が女人禁制のためである。

 ところで、奥駆には順峰(じゅんぶ。熊野本宮から吉野を目指す)と逆峰(ぎゃくぶ。その逆)があるが、私達の歩いた順峰を行く人は特に少ないと思われる。
順峰の場合は、低い熊野(本宮が標高約200m)から最高峰の八経ヶ岳(1915m)を目指すので、登りが多くなるためだ。その全部を順峰で歩き通す人は年間に数十人位ではないだろうか。

 これに対し、吉野-弥山(ミセン)-前鬼、前鬼-熊野(これを南部奥駆道という)など、奥駈道の半分を歩く登山者はかなりいると思われる。このうち、吉野-弥山(ミセン)-前鬼を歩く人は特に多い。
2泊で歩くのだが、山頂の宿坊と山小屋(どちらも食事付)に泊ることができて、シュラフは不要だし、食料も少なくてすむためだ。

 一方、前鬼-熊野のほうはテントを持って歩くので、前者より歩く人は少ない(足の強い人なら無人小屋と玉置神社の社務所を利用することでテントを持たずに歩けるが、この間の距離は長い)。
ゴールデンウィークなのに、今回、熊野-前鬼間ですれちがった登山者は1日に数人程度である。ただし、地蔵岳だけは下の林道に車で来て日帰りで登る人が別に10人ほどいた。

(厳しい登りは香精山の登り。厳しい鎖場は地蔵岳の下り)

 山伏の修行の場なので、道はほぼ全ての頂きを踏むように付いており、登り下りが多い。ピークを通らずに巻いてもよいのにというよう所でも巻かずに登る。3時間ほど登りが続いたり、30分登ると30分下ったり、10分で上下したりする。

 登りで特にきつかったのは玉置山から香精山への登り。30分ほどの急登が2回ある。鎖はないが、木の根や岩を掴んで登る。
荷が重いので体を引き上げるのに腕力もかなり必要だった。まだか、まだかと思うのだが、なかなか上に着かない。長く、きつい登り。疲れがたまっているのに、更なる難行(なんぎょう)が加わるのだ。

 一方、鎖場も多い。地蔵岳(香精山に隣接)の下りは特に厳しかった。その他では、断崖の上を行く釈迦ガ岳の鎖場、岩場を上下したり、へずったりする七曜岳-大普賢岳間の鎖場など。登山道をはずれた所にも、修行の場として多くの鎖場があるが、これらには寄らなかった。たとえば、大日岳の50度の岩場に懸かる33尋(66m)の1本の鎖、山上ガ岳前鬼の裏行場などである。

 地蔵岳ではまず、頂上へと直登する10mほどの急な鎖場が現れる。この鎖場は少しだけ登ってはみたものの、荷の重さもあって墜落しそうな恐怖を感じて、引き返した。
巻道から頂上へ。次は下りの鎖場。20分ほどかかる長いものである。ともかく急。鎖のほかに、木の根や岩角に掴まりながら下りる。手を離せば、はるか真下へまっ逆さまだ。しっかりした木の根がいたるところにあるので助かった。

 草原状の広々した、ゆるやかな尾根歩きもたくさんあり、天国もあれば、地獄もあるという感じだった。

(3・4日目はゆるやかな尾根歩き)

 3日目は薄日がさす天気。きつい登りは少なくて、わりと楽な行程だった。歩き始めてからの3時間は特に足が軽く感じた。
ただし、mzさんが小さな事故に遭う。下り斜面で滑って茂みにうつ伏せに倒れ、小枝で顔をえぐったのだ。大事には至らなかったが、傷は目から5mmのところで、長さは2cm、深さは2mm。危なかった。

 行仙宿(行程中、最も大きい)から平治ノ宿を経て、持経ノ宿に泊る(いずれも無人小屋)。水場は5分。私達のほかに、宿泊は3人。うち2人は吉野から来た人。ここで縦走を止めて、林道を下り、温泉に入って帰るという。

 4日目は霧雨。きょうもきつい登りは少ない。ほとんどが、草原状のゆったりした尾根歩きだった。

(体力の維持)

 体力を維持するには、食べることと寝ることだ。
疲れてくると食欲がなくなる。途中にある無人小屋で1時間前後の休憩(上記以外にも、○○宿という修験者用の無人小屋が10ヶ所位ある。中はきれい)。

 持参のコンロで湯を沸かし、暖かい飲物を作ると食欲がわく。コーヒーよりはお茶や味噌汁がよい。砂糖湯に餅を入れるのも美味い。歩いているときは、ゼリー状のエネルゲン(180カロリー)を飲む。食事の後では、ときどき胃薬。

 寝るには暖かい下着が一番。

(花)

 ピンクのつつじが見ごろ。真っ白な花を付けたオオカメノキ?も多い。これらが霧雨にかすみ、晴天のときは新緑に映える。その雰囲気を写真に撮ろうと何回か立ち止まったが、結局、うまく写すことはできなかった。

 その他ではしゃくなげ。しかし、時期が早くて花はあまり見られなかった。石楠花岳は山頂周辺をしゃくなげが覆うが、つぼみもまだの状態だった。残念。

(八経ガ岳・弥山)

 4日目、深仙ノ宿泊。無人小屋。宿泊は4人。小さくて、4人で満員。後から来た単独行の女性は隣のお堂に泊る。
5日目、霧雨。釈迦ガ岳を越えると断崖上に鎖場が続く。「両部分けの岩場」、巨岩をかいくぐる「貝摺りの岩場」などは、歩くのに夢中で気がつかずに通りすぎた。雨の岩場は、足元に注意をしながら、ひたすら歩くのみである。

 孔雀岳で単独行の東京の人に会う。2回目で、初回は大きな荷を背負い熊野側から入ったが、今回はテントなしで熊野を目指すという。
無人の楊子ガ宿で食事。午後、雨が上がり青空が見え始めた。気持も明るくなる。

 八経ガ岳に着く。近畿地方の最高峰(1915m)。日本百名山・大峰山の最高峰でもある。百名山を目指し20年ほど前に来たところ。ここからは人が多く、子供連れの家族もいる。麓の天川村から登ってきたのだ。雲は高く薄日がさす。次の頂きが弥山(ミセン。1895m)。30分の距離。山頂に山小屋が小さく、くっきりと見えた。

 弥山小屋泊り。ここまで来れば完走できそう。下着だけで寝ても暖かかった。体も気持もゆったりとくつろぎ、ぐっすりと眠る。

 一方、mzさんはテント泊り。山頂周辺はテント禁止のようだが、翌日一緒に出発するために、やむをえずテントを張った。ほかにもいくつかテント。

(夏の暑さ)

 6日目、弥山-山上ガ岳(1719m)の区間では晴天が戻った。気分も晴れる。遠く紀州の山々の重なり。
前方に大普賢から山上ガ岳に至る山並み。後方に弥山。右手に、頂上までバス道路が白く延びる大台ケ原。南側を見下ろすと新緑が広い斜面に一面に輝き見事である。

昼近くには夏の暑さとなった。下着1枚となり、頭に手ぬぐいを巻く。晴れるように祈っていたのだから、これくらいの暑さは我慢しなければなるまい。

 いくつかある鎖場を慎重に越える。急下降の鎖場では、前を行く女性が手間取り、しばらく待たされた。

(山の楽しみ方)

 山上ガ岳山頂には宿坊が5つ。私達は桜本坊に泊る。同宿は1組5人のみ。前鬼まで行くという。風呂へ。ただし、湯船に湯が沸かしてあるだけで、体は洗えない。6日間も歩いたので、お尻がすれて、すり傷ができていた。

 翌朝は5:20スタート。ここでmzさんと別れる。彼は洞川温泉に下りた。温泉にゆっくり浸かり、早めに東京を目指すという。
mzさんとは山の楽しみ方が違う。
彼は山を楽しむほうだが、私は楽しむよりは辛くても歩き通し、すべての山頂を登り切るのを好む。ピークハンターである。

 5日目の行者還岳の山頂は道をはずれて10分のところ。彼は行っても行かなくてもよいと言ったが、私は頂上を目指した。彼は、奥駆けを歩き切るとか、山頂をきわめるとかは二の次で、山の中にいることを楽しむ。
また、小屋よりはテント泊りを好む。人それぞれである。認め合いながら、一緒に山を楽しんでいる。

(吉野路は単独行)

 単独で吉野を目指す。宿坊の若い坊さんが道の様子をいろいろ親切に教えてくれた。幸い夜中の雨はあがり薄日がさす。一人ひたすら歩く。誰にも会わない。

 二蔵小屋で1時間の休憩。無人だが、立派な山小屋である。ここから四寸岩山へは1時間20分の最後の登り。ややつらい。ここを下り更に車道を歩く。12:30、やっと奥千本の金峰神社に着いた。

 俳句を作る女性の一団がいる。きょうの行程で初めて人に会った。何でも見ておこうと、荷を置いて西行庵跡へ。往復約1時間。こんな山奥に西行法師が住んでいたとは。俳人芭蕉も2度訪れたという。

 車道を下り、水分(みくまり)神社に参拝。最後は壮大な蔵王堂へ。
熊野本宮で買って登山の間ザックに差していた小さなのぼりに、蔵王堂の朱印を記念のため押してもらおうとしたが、断られた。
おもちゃには押せないという。7日間の苦業の間持ち歩き、魂が入ったものに変わっているはずなのに。

 ケーブル乗り場(標高約300m)に15:20着。結局、1時間の休憩を含め10時間を歩き通したことになる。

 トイレの鏡で見ると、髭はボウボウで、髪の毛はボサボサ、乞食そのものの姿。温泉に入れなかったので体がとても汗臭い。

 近鉄・吉野駅前の茶店に入り、おこわのおにぎりとお茶を頼む。ぼう然として、ときおり大きなため息が出る。喜びを感じる余裕なし。異様な姿だったので、店の人は敬遠し近づかない。

16:05の近鉄特急で京都へ。乗客に迷惑と思い、車中にたくさんあった手拭きタオルで体を拭き、新しい下着(ぬれないようにビニールで包み、寝る時だけ着ていたもの)に着替える。17:50京都着。新幹線を利用して家には22:00に着いた。

写真を掲載します
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/xfVSgC/photo?authkey=IfthA3qdDsM#s5171845083231453682

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私の山暦

<私の山歴>

 私が山へ行くようになったのは中学1年のときである。

 小学生の頃から裏山で遊び自然に親しんでいたこともあって、中学生になると、中学と高校が一つだった学校の山岳部に入った。
初めて行ったのは「三つ峠」。夜中から早朝にかけて登った。最後の登りが延々と階段になっていて、とても疲れたことを覚えている。富士が目の前に大きくそびえており、たいへんきれいだった。

 「上高地」にも行き、小梨平にテントを張った。キャンプファイヤ-では、上級生が酒を飲んで歌った。
山岳部は同じ学校の高校生が中心であり、彼らはたくましい兄貴に見えた。
槍ケ岳」には、上級生だけが登り、下級生は留守番。このとき梓川で泳いだが、水があまりにも冷たくて、長くは入っていられなかった。また、「焼岳」には全員で登った。

 学校祭では、教室内に木や草を持ち込み、テントを張ったが、飾るのがとても楽しかったことを覚えている。このときは上級生が4F建ての校舎の壁をザイルで下降するというイベントも行った。
                                        
 高校・大学の頃に行った山は数えるほどしかない。

 高い山は梅雨明けの7月下旬から台風前の8月上旬までしか行けないものと思っていた。
 
 小学校、中学校、高校が同じだったob君mu君とは、夏に涸沢から奥穂を目指しテント持参で登った。涸沢でのテント泊は寒かった。
翌日、雪渓の雪を食べ過ぎて体調を崩し穂高小屋でダウン。熱を出して寝込んでしまったが、宿泊費が無くて、mu君が一旦東京に帰り、金を持って戻ってきてくれた。
結局、奥穂へは登れず、2人にはたいへん迷惑をかけた。涸沢岳で写した写真は今も持っている。

 mu君om君とは、夏の裏銀座烏帽子-槍)と冬の金峰山を一緒に登った。mu君がリーダー。
無人の山小屋で薄いシュラフにくるまって寝たが、その寒かったこと。あの頃は、彼らが山のベテランであり、私はいつも連れていってもらう方だった。

 その後、彼らとのつきあいは長い。時折、4人で会い、食事をしたり、旅行をしたりして、おしゃべりを楽しんできた。
                       
 でも、今は一人欠けてしまった。mu君はもうこの世にいない。私がモンブランに行ったとき、「俺も昔、モンブランに登ろうと思って調べたことがあるんだ。一度は行ってみたいなあ」と話していたのを覚えている。
                                        
 私が多くの山に行くようになったのは40歳頃からである。10年も続けたある活動の中で消耗し、何か夢中になれるもの、自分をリフレッシュさせるものはないかと考えて、山にたどりつき、百名山を始めたのがきっかけである。

 なぜ、山に行くのか。「そこに山があるから」と言った人もいる(G・マロリー。エベレスト初登頂を目指すが、最終アタック中に行方不明)。

 私の場合は、「何かをやり遂げてみたい」からであり、ささやかな挑戦のためである。

 やり遂げること、登頂することに喜びを感じる。そのため、私の場合は自分の力の限界ギリギリと思われる山をねらってきた。
国内ではその一つがジャンダルムの単独行であり、海外ではマッキンリーだった。
素人なので、厳冬期の山や難しい岩登りは全くやらない。
 
 でも、今は違う。誰かに喜んでもらうために山に行く。「喜び」は共に味わう人がいれば倍加する。

 六つ星山の会に入ったのは50歳の頃である。百名山をほとんど達成し、それ以外の戦したい山にも挑戦し、「自分だけで楽しむ山登りはほぼ終った、これからは山を通じて、ささやかだが、誰かのお役に立ちたい」と思ったからである。

 そして、六つ星で最も充実感を味わうのは、視覚障害者の方が山頂に立って「登った」「私にも登れた」と嬉しそうにする、その笑顔を見るときである。
昔、職場の人達と一緒に登ったときも同じだ。 案内人として、「すばらしい景色を見てほしい、山の素晴らしさを経験してほしい」との思いから、それらの山を企画した。
 
 70年の人生を振り返ってみると、山には多くの思い出がある。海外登山(マッキンリーのほか、モンブランキリマンジャロアコンカグア)や100名山乗鞍岳、草津白根を除いて98山を登頂)のほかに、数年をかけて取手の家から日本海の「親不知海岸」まで山をつないで歩くこともやった(もちろん、取手-八王子間は町の中を歩いたが)。

 また、百名山のほかに単独行で、蓮華-船窪岳-烏帽子岳、黒部下の廊下、栂海新道、ジャンダルムなどにも挑戦した。

 また、いろいろな人と山に登った。思い出せば、懐かしい、懐かしい人達である。

○ まずは、職場の人達。
kaさん、knさんとmiさんと北岳
kaさん、knさんと屋久島の宮之浦岳(無人小屋に2泊)。
kaさん、kiさん、さんとは奥穂高。 
kaさん、kiさんと利尻山
yaさんとその友人と北岳鳴沢岳から針ノ木岳
・職場にいたドイツの女性や韓国の男性とは職場の人達と一緒に富士山槍が岳に登った。

○ 職場が同じで山の仲間のmzさん(ココログの作成でお世話になった。ネーム名は山崎次郎さん)とは多くの山行を共にした。
体力のある山のベテランなので、連れて行ってもらったとも言えるが、春の聖岳春の常念冬の入笠山冬の女峰山白馬唐松餓鬼岳祖母谷温泉十勝岳トムラウシ縦走熊野吉野縦走などである。北鎌尾根も一緒だった。

○ キリマンジャロ登山で同宿だったasさんには、帰国後、日和田山小川山三つ峠などに行ってロッククライミングを教えてもらった。

○ 視覚障害者の登山団体である「六つ星山の会」の人達とは、年に20-30回ある会主催の山行(関東近郊の低山が中心だが、富士山北岳太郎兵衛雲の平笠が岳など)のほかに、多くに山で視覚障害者の方をサポートした。

70歳に近い全盲のsiさん(今は80歳に近い)をabさん達とサポートして、富士山北岳奥穂高北穂高槍が岳悪沢岳赤石岳などに登った。

40歳台で脚力のある全盲のmyさんをkmさんとサポートして、悪沢岳赤石岳栂海新道酉谷山(奥多摩)、甲武信岳などに登った。

myさんとは冬の蛭ヶ岳にも登った。子供の頃に魚採りのお供をさせたkmさんと一緒である。

・同じ40歳台で全盲のszさんをサポートして、仙丈(2人だけで)、北岳kgさんもサポート)、奥穂高okさんも)に登った。

・女性で強度弱視のokさんとは、obさんとサポートをして北岳を、また、先に挙げた北穂も一緒に登った。

六つ星に入りたての頃は、弱視のknさんに誘われて数人で山に行くことが多かった。春の鹿島槍飯豊山などである。

・晴眼者だけの山行では、kbさん、tkさん達と行った百名山97番目の木曾御岳山と98番目の会津駒ヶ岳が印象に残っている。

・登山ではないが、最近2年、全盲のfyさんと奈良の桜井から柳生を、また、中仙道の贄川-奈良井-鳥居峠-南木曽を、数日をかけて歩いている。

○   家族で行った登山は数えるほどしかない。

白馬岳(息子が三歳の頃、娘2人と妻と家族5人全員で)、北八つの横岳(左同)、北海道の斜里岳(息子が小学生の頃、妻と3人で)、岩手山早池峰山(左同)、尾瀬の燧岳(左同)、槍が岳(中学生の息子と)などである。息子とは西沢渓谷(テント)、茨城の加波山にも行っている。

・近所の奥さんと妻の3人で、筑波山槍が岳奥穂高両神山に行った。
・昨年、義弟のtmさんと2人で尾瀬の燧岳に登った。

以上が私の登山の略歴である

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アコンカグア その1

南米大陸最高峰・アコンカグア(6959m)への挑戦
1993年12月25日-94年1月16日

写真および地図を掲載します。最初にこれを見ておくとイメージがわきます。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/slmNMD/photo?authkey=5FhySmcLSE8#s5171425108444348274

             
<アコンカグアの紹介>           
 
 七大陸最高峰のひとつ、南米大陸の最高峰であり、大陸の東部を縦に貫くアンデス山脈のアルゼンチン側にある。標高は6,959m。足を使って登り始めるのは2,750mからである。

 Aconcagua は、現地のアイマラ語で「石の番人(The Sentinel of Stone.スペイン語では El Centinela de Piedra)」という意味だが、その名が示すとおり、全体が岩山であり、周りの山と同様に樹木はまったく存在しない。
草花が見られるのも4,000mぐらいまでである。950 万年前までは火山として活動していたという。

 世界にある7,000m前後の山の中では、危険が少なく登りやすい、と言われている。北面のノーマル・ルートであれば、夏は雪がほとんど無いし、また、ザイルを必要とする岩場もない。

 登る場合の問題は高度順化。同じところを何度も登り下りして高度順化をはかるのだが、日数の関係もあって、人によっては完全に順化する前に登ることになる。

 また、天候も問題。夏は通常は晴天が続くが、数年に一度位の割合で天気が崩れることがあるようだ。そのときは吹雪いて一般の登山者は登れない。
幸いにして今回は2週間、晴天続きであった。

 初登頂はスイス人マシアス・ツルブリッゲンである(1897年1月14日。隊を組んで遠征し、私達も今回たどったホルコネス川を遡る。当日は単独登頂。後日、仲間も登頂)。

  また、4,200mのBCから頂上まで、普通だと2日はかかるが、過去の記録によれば、頂上までの最短記録は5時間45分である(1991年) 。
          
 わが隊では今回、SEさんが、BC・山頂間を一日で往復するワンデイ・アセンドに挑戦し成功したが、頂上に達するまでには約12時間を要したようである。また、K副隊長は、約10時間で頂上に達している(その後、C2 に一泊)。

 その他、1986年にはフランス人のグループが自転車での登頂に成功したという記録もある。
                    
                      <出発まで>
            
(やっと行けることになった!)

 5,895mキリマンジャロに登り、次は、それより高くて、しかも、登れる可能性のある山ということで、アコンカグアへ行こうと1年以上も前から考えていた。七大陸最高峰のひとつであることも目標にした理由である。
前年に行こうとしたが、「お正月に家を留守にしないで」と家族に言われて、一度は断念。今回、やっと同意を取りつけた。

 行けることにはなったが、今度は、アコンカグア行きのツアーがなかなか見つからなかった。前年にこれを主催した(株)イーストツアーは、つぶれたようだ。
そのときのツアーリーダー遠藤晴行氏に電話をしたが、ことしは別のツアー(アイランド・ピーク)に行くという。

 9月頃になり、やっといくつか見つかった。東京観光(株)のツアー、895,000 円、12月25日-1 月15日。川崎市教員登山隊の公募登山、700,000 円、12.22-1.9 。日本勤労者山岳連盟(労山)の会員登山、650,000 円、12.25-1.16。結局、最も安く、高所順応にも時間をかける労山を選んだ。             
    
 労山主催の山行に参加するには、単位山岳会への加入が条件だった。労山の事務所に電話をすると、神田に「ぶなの会」という山の会があるという。早速、リーダーのⅠさんに電話をして入会した。
                    
 次は、登山用品の準備である。冬山の装備が必要だというが、ほとんど持っていない。プラスチックブーツ(4万円)、マイナス25度まで耐えられるシュラフ(4万円)、65L のザック(3万円)、オーバーズボン(2万円)、厳冬用ズボン厳冬用上着、汗を吸わない化繊の下着、冬山用手袋、目出帽などをそろえた。労山を通すと、参加隊員はモンベルの製品が45% 引きで買えた。

 事前の体力作りにも心掛けた。それまでのトレーニングをややレベルアップし、休日の水泳は、一回が2,000m前後であったのを3,500mから、ときには5,000mに引き上げ、ウィークデーの昼や夕方にも泳ぐこととした。
休日の水泳では、自転車でプールを往復していたのをジョギングで行ったりもした(今にして思えば、トレーニングをもっと計画的に、しかもハードにやるべきだったと反省している。それが、14日間の山行の最後にスタミナ切れをまねき、後述のように呼吸困難に落ちいった一因と思われる)。
                                     
(労山隊への参加者)

 参加者は14名。うち、女性2名。年齢の最高は、私ともう一人の56才。20才代は1人、30才代は4人、あとは40-50才代である。
隊長、副隊長は、海外登山や国内冬山登山の経験が豊富なエキスパートである。
その他の人達も、冬山や岩登りの経験がある人が多く、うち数人は、ポピュラーな海外登山も経験している。
冬山の経験がなく、夏の3,000mや春秋のハイキングが中心という一般レベルの参加者は、私だけのようだった。職業は公務員5人、会社員6人など。

 KA隊長は42才、ハンテングリ7,010m登頂のほかに、いくつかの海外登山の経験者。K副隊長は52才で、ハンテングリチョー・オユー8,201mレーニン峰7,134mマッキンリー6,194mなどに登頂したわが国有数のクライマーである(Kさんはアコンカグアから帰ってすぐに、4月から2か月間の予定で、シシャパンマ8,008mに今度は隊長として挑む。今回は顧問格)。
このほかに、モンブランに登った人が4人、キリマンジャロ3人、マッターホルン1人、ネパールのカータン峰6,782m1人、ペルーのチョピカルキ峰1人などと多彩だ。

(隊による山行準備)
                           
 ○準備山行・その1 遠見尾根-五竜岳-八方尾根  13名        
           1993.11.20-21
             
                                     
 ロープウエイに乗るときにザックの重量を計ると20.5kgあった。今までに経験したことがない重さである。
それを背負い、1時間に10分程度の休憩をはさみながら、五竜山荘まで標準5時間のところを約4時間というかなりの早さで登る。
小雪。積雪は少ない。付いていくのがやっとである。最後は山道の50cm前後の段差を登るのに足がふるえた。
なんとか遅れずに到着したが、たいへん疲れた。3つのテントを張る。食事はひとつのテントに全員が集まって食べた。狭くて窮屈なことこのうえなし。夕食後、ひとりひとり自己紹介をする。

 朝、空身で五竜岳を往復。雪の急斜面を登る。急斜面の帰路はややこわかった。はしごを降りるように雪面に前向きに対し、ピッケルを雪に突き刺し、アイゼンの前歯をけりこみながら、ゆっくりと慎重に降りる。滑れば、黒部の谷底へ一直線である。

 帰りは八方尾根へ。白岩を超えると鎖場あり。唐松山荘からの下りはやけに急いだ。先頭のYAさんが何故かとばしたからである。
 夜はシシャパンマに参加予定のKU氏(58 才) 経営のロッジに泊まり山行の打合せ。

                              
 ○準備山行・その2 富士山  12名                  
           1993.12.11-12
             
                                     
 山頂まで行く予定であったが、突風が吹き荒れ危険なために、冬季閉鎖中の8合目「東洋館」の横にテントを張り、泊まる。

 テントで午後1時から翌朝の7時まで過ごす。夜の長かったこと。
 強風は夜中吹き続ける。テントがバタバタとひっきりなしに音をたてる。突風が来ると、フライシートがテントをたたき「バーン」と大きな音がする。

 外に出ると体が風で飛びそう。すぐ下は断崖である。ピッケルで支えながら用をたす。夜中に起きるには勇気がいる。NAさんが何回か起きて、テントのまわりに積もった雪をかいてくれた。

 翌日は好天。続々と冬山装備の登山者が登ってくる。おおよそ100人。

 我々は遠くに帰る人もいて、そのまま下山。登れそうだったのに残念だ。

 登山道をはづれ、凍ってツルツルの雪の斜面をアイゼンを効かしながら下りる。
 爽快だった。

 ○共同装備のパッキング作業(相模労山のオンボロ事務所にて)  8名   
           1993.12.19
                
                                     
 現地でテント生活に入ってからの食料は、すべて日本から持参する。主食は、アルファ米、餅、インスタント・ラーメンが中心。ほかに、年越しそば、おせち料理。また、行動食(昼食兼嗜好品。登山中は昼食はない。これが昼食の代わりになる)として、飴、せんべい、チーズかまぼこ、カロリーメイト、駄菓子なども持参。

 行動食は一人前づつ袋に入れた。次に、これらをテントやナベも含めて、30kg単位で梱包。海外の大きな山に行くには、こんなことをやるのだということが体験できて、なかなか面白かった。
                                     
(出発を前にしての感想)

 かなり厳しいようである。登れるだろうか。不安は尽きない。
 胃腸の調子があまりよくない。テントでの2週間、体調が維持できるだろうか。こんなに長いテント生活は経験したことがないのだが。

 登山にウエイトを置くようになって15年ぐらい経ったろうか。これまで、本格的な冬山や岩登りは、自分の力では無理と思って行くことはなかった。それが最近では、ロッククライミングの練習を始めたし、とうとう、これほどの山を目指すまでになった。
自分の力の限界を超えているような気もするのだが。でも、ここまできたら、やるしかない。ただし、あまり肩ひじをはらないように注意しょう。山頂まで登れなくても、楽しむ気持を。-出発前に記す-

(日程・実績)
 
12月25日 成田発、ニューヨーク、チリのサンチャゴ経由、
      26  アルゼンチンのメンドーサ空港へ。
      27  メンドーサにて登山手続き、食料買出し。
      28  標高2750mのプエンテデルインカのホテルへ。     
      29  登山開始。3300mのコンフランシアへ。テント泊。
      30  4200mのBCへ。
    31-9日 BCとC2(5800m)の間を3回往復し、高度順化を行う。
1月10日 頂上アタック。
      13  BC撤収、メンドーサへ。
      14  空路、メンドーサ発。
      16  成田着。

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アコンカグア その2

<登る>            

(登山開始)
 
                              
 2,750mプエンテデルインカのホテルから歩くところだが、車道の終点まで車で10分ほどの距離を運んでもらった。そこは広々とした谷。草原状の平地にテントの登山事務所がポツンと立っている。
ここまで来ると、谷の奥はるか彼方に雪をまとったアコンカグアが初めて姿を見せ、「見えた」と期待に胸がふくらむ。周囲はすべて岩山。朝日をあびて、青い空に高くそびえていた。

 今夜の泊まりである3,300mコンフレンシアに早めに着く。ガウチョ(地元のカウボーイ)がオレンジジュースを一杯づつふるまってくれた。皆のんびりする。
私は、持っていったスケッチブックを取り出し、アコンカグアの写生を始めた。アコンカグアは、前面の黒々とした大きな山の上に、ほんのすこし顔を出している。
スケッチを画き終わっても、まだ日は高い。皆は日あたりのよい斜面で昼寝中。私もマットを取り出し横になる。ガウチョが連れてきたムーラ(馬)の糞の臭いが漂う。刺のある枯れ草が皮膚を刺した。日差しは暑い。
  
 夕方になり、昼は簡単に渡れた幅4-5mの川が増水し、対岸に到着した人達が、女性も含めて、濁流に腰まで漬かりストックを頼りにしながら渡ってくる。
昼の好天で上流の氷河が融けたためだ。テントのあるこちら岸の人が何人か面白がって、わざわざ見物に行く。写真をとる人もいる。私も見物に行く。

 きょうだけは食事を地元の人に頼む。夜は、ステーキ。ガウチョが岩かげで焼いてくれた。

 それほど寒くはない。雨風の心配もなさそう。テントの中は満員なので、独りで外に出てシュラフで寝ることにした。何事も経験。異国の空の下で寝るなんて、めったにできることではない。
寝る前に、SEさんが南十字星を教えてくれた。菱形に4つの星。光は弱い。ほかにも同じような形の星がいくつかある。
一晩に何回も目が覚めて、その都度眺めた。夜半に月が出る。こうこうとして、たいへん明るい。満月のようだ。まわりの山々が夜空にくっきりと黒くそびえて見えた。この夜に見た流れ星はひとつだけ。

(BCへ)
                                
 きょうはBC(ベースキャンプ)まで。

                  
 谷を延々とさかのぼる。せまい谷間は初めだけで、あとは河原の幅が広くなる。200-300mはありそう。広々とした平地にいるような感じだ。
長時間、砂利の中を歩く。時々、氷河から流れ出た濁った川を飛び越す。水量はわずかだが、それでも幅は2-3m、深さは50cmはあり、幾筋にもなって流れている。

 時々、登山者の荷を運ぶ数頭のムーラ(馬)が追いぬいていく。
暑い。日差しは強い。
きのう食べた夕食の肉のせいだろうか、腹痛が続く。
河原の中に壊れた小屋あり。

 道は右に移り、登りにかかる。これを登ればBCだという。砂利の中の急登である。疲れた。Kさんが付き添ってくれる。息を強くはきながら登る。国内でいつも泳ぐときにやっている呼吸法だ。なんとか休まずに登りきる。
下を見ると坂の登り口でDOさんが休んでいるのが見えた。                    
そこからBCまでは、まだかなり時間がかかった。

(高度順応のために登り下りを繰り返す)
                  
 4,200mのBCにテントを張り、約10日間を高度順化のために使う。最初は4,800mを往復、次の日は5,200m(C1)を往復、次はC1 でテント泊、次は5,800m(C2)へ、またBCに戻るというやり方である。
                                                
  ゆっくりと、しかし休まずに登るのが自分の歩き方である。追い抜かれても気にしない。

 今回は、隊長の指示で、私が先頭に立ち、ゆっくりしたペースで隊全体が登ることが多かった。休憩は1時間に1度ぐらいの割合でとる。休憩だけを楽しみに、「あと少し。もう、あと少し」と思いながら黙々と登った。ザックの荷は、シュラフも含めて10kgぐらいだろうか。

 初めてC1 に泊まったときは、頭が痛くて眠れず、食欲も無くなったが、一度BCに下りて、もう一度登り返すと、今度は頭が痛くなることもなく、食事も普通に食べられた。それはC2 の場合でも同じだった。
 結局、徒歩で登った距離は累計で10,000m を越えた。            
       
(2回目のC2 )

                             
 C1とC2の間を1回往復したあと、再度C2 へ。C2 到着後、その日のうちに、6,400mをめざす。空身でゆっくりと登る。
天候はおだやか。寒くはない。真先に登り始めたが、隊の仲間に次々と追い越される。午後4時には引き返すことと指示されていたが、制限時間内に登ったのは6,200mまでだった。
斜面のはるか上に、KAさんNARさん、その更に上に、YAさんTARさんが見える。下の方からゆっくりとDOさんが登ってくる。
時間になったので、まだ少し余裕はあったが、DOさんと引き返すこととした。

 かなり下におりてきたところで、NAさんが登ってくるのに出会う。ややばてているようだ。
このあと、他の人は登り続けて、ほとんどの隊員が6,400mのコンフレンシア小屋跡まで登ったという。

 ところで、入山当初は、完登できるかどうか自信がなかったのだが、この試登の後には、「完登出来そうだ」と思えてきた。少なくとも、大クーロアール(ガレ場)のある6,800mまでは行けそうである。
問題はその後の大クーロアール。2歩登れば、1歩ずり落ち、2-3時間はかかるという。そこさえ突破できれば--。このときは、そんなことを考えた。

 この日は全員C2 に一泊。DOさんは調子が悪そうで、夕食はほとんど食べない。私は、夕食は食べたが、夜は頭が痛くて、あまり眠れなかった。これまで経験したことのない高度に長くいたせいであろう。

 翌朝は食欲なし。本日はBCに一気に下るだけ。出発するとすぐに、ほとんどの隊員は駆け下っていった。こちらは、足取りが重く、ゆっくりとしか下れず、先を行く人達はみるみる遠ざかっていく。
KA隊長が心配して途中まで付いてきてくれた。C1 から「3本槍」という岩場の脇を通り、更に下る。何かの骨が散乱している。馬がここまで上がってきて倒れたのだろうか。
KAさんに写真を撮ってもらう。皆からかなり遅れてやっとBCにたどりついた。

(アタック計画)
                             
 アタックは、体力差を勘案し、3隊に分かれて行うこととなった。
 第一隊は、BCから頂上を一日で往復する(ワンデイ・アセンドという)。SE(男・33才) 、MA( 男・29才) の2人。

 第二隊は、C2 で一泊し、翌日は山頂を往復して、BCまで下りる。男性4人(YA、NA、TAS、NAR)、女性1人(TAR)の5人である。

 第三隊は、C1 、C2 でそれぞれ一泊し、頂上往復後、C2 で泊まる。WA、DO、、それにサポート役のKA隊長の4人。

 風邪の抜けないTA氏(男性)と高山病のHA氏(女性)は登頂を断念。K副隊長は、一日で頂上を往復後に、C2 で第三隊をサポートすることとなった。
                                     
(頂上をめざして)
                            
 3回目のC2 。アタックの日の起床時間は、歩き始めてからの時間に余裕を持たせるために3時と決められた。

 一つのテントに4人ではきついので、料理用テントに一人で寝る。マイナス25度まで大丈夫というシュラフでもさすがに寒くて、ほとんど眠れない。小用に起きるが、寒さと強風がこたえる。
定刻の3時に準備を始めたが、他の3人は寝坊をして、起きてきたのは3時半だった。雪を融かして、食事をとる。

 出発は5時。外は強風が吹き荒れる。これまでにない強さだ。寒い。気温はマイナス20度位か。衣服は、上体だけで下着から羽毛服や厳寒用上着まで6枚を着用。顔は目出帽で覆い、耳まである冬季用の帽子もつけた。

 先頭を歩くように指示され、真っ暗な中を先頭で歩き始める。岩場やガラ場の中に道がついているために、ヘッドランプの明かりでは道がよく見えない。
3日前に歩いているので、それを思い出しながら登るが、ガラ場で迷う。直登したが、道を間違える。下から「こっちだ」という声がして、あせり、思わず歩くスピードが早くなる。

 そのためか、いつもと違って、急速に足が重くなり、踏み出す力が無くなってきた。国内では、こんなときは、苦しいのを我慢し、ゆっくりと休まずに登って、なんとか登りきったのだが--。

 1時間が経ち、傾斜の緩いところに出る。夜が白々と明け始め、足元もかなり明るくなった。しかし、強風がまともに吹きつけ、一層、寒さが身にこたえるようになる。
足が思うように前に出ない。このあと最低でも頂上まで4時間はかかるだろう。それだけの時間を歩けそうにない。これ以上進んでから倒れれば、皆に迷惑をかける。思い切って引き返そうと決心した。

 KA隊長からは、「あと一時間登って様子を見てからにしては」とひきとめられたが、一度ひるんだ心には、もう、その気力は残っていなかった。
独りで下り始める。息が苦しい。寒い。下るのが大変しんどい。2,3歩、歩いては立ち止まる。手の先がしびれてきた。しびれが手から腕にと上がってくる。このまま、しびれてくるとどうなるのかと恐怖心が生じた。

 下にC2 のテントは見えるのだが、なかなか近づかない。20人位のアルゼンチンの軍隊とすれちがう。訓練として登るようだ。

 やっとテントにたどりつく。テントのわきに倒れこみ、「Kさん、苦しい」と中に何回か声をかける。入口を開けるだけの気力もなかった。

 KさんとNAさんに抱えられ、テントに引っばり込まれた。酸素ボンベはKAさんが持っていったので、ここにはない。NAさんが靴を脱がしてくれる。
Kさんから、「呼吸の仕方が悪い。ゆっくり、深呼吸をするように」といわれる。苦しくなったので、ハアハアと短い呼吸をしていたのだ。
これでは酸素が肺に入りにくいのだ。気持が悪くなり、テントの外へ吐く。30分位だろうか、横になっていたら、苦しさがとれ、やっと落ち着いてきた。

 後に、Kさんから、「水筒に水を1L入れたり、沢山副食を持ったりして、荷が重すぎたポットも持参。行動食のほかに、赤飯、ゼリー、干し果物なども。ただし、全部でせいぜい3-4kg程度だったと思う) 」、「ザックの背負い紐が細く、肩に食い込み血の循環を妨げた。手袋も小さく、これも血の循環を悪くした」といわれた。
また、「これは本来の高山病とは違う」とも。注意をしていれば、防げたのかもしれない。あと、4-5時間だったのに。残念。後の「後悔」先にたたず、である。
                                     
(登山を終えて)
                             
 山頂まで行けずにBCまで戻ってきたときは、「とにかく終わった」というほっとした気持と、「やるだけはやった」という満足感で一杯だった。

 ところが、人の気持というのは変わりやすいもので、その後で、登頂に成功した人達がそのときのことを楽しそうに話しているのを聞くと、「残念だ。なんとか登りたかった」という思いで急に胸が一杯になった。

 自分に、もっと「心のたくましさ」があれば、登れたかもしれない。
 一般に海外登山の場合、日程がぎりぎりなために、一度失敗すると、その失敗の経験を生かして再挑戦するチャンスはない。
日程にあと数日の余裕があり再度アタックすれば成功していたかもしれない---。
 でも、数ヶ月たった今は、すべてが楽しい思い出となった。

(登山結果)
                               
 結局、第一隊はSEが成功、MAは翌日第2隊に合流し成功。第二隊はNA以外成功、NAは6,850mで断念。第三隊は私以外成功、私は6,000mまで(ただし、試登のときに6,200mまで達している)。

 隊全体では、14人のうち10人が登頂に成功した。他の日本隊では、先に書いた東京観光(株)の隊は、11人のうち、登頂に成功したのは5人だけだったと聞く。

(帰りは、BCからとばす)
                        
 BCからの帰りはとばした。午後になると、氷河がとけて川の水量が増え、コンフレンシアの徒渉地点が増水で渡りにくくなるためだ。必死で急ぐ。皆から遅れたが、無事徒渉。    
      

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アコンカグア その3

<登山あれこれ>            

(初めての高所登山経験) 
                        
  初めての長期間のテント生活である。今までにテントで寝たのは、国内山行でのほんの数回。しかも毎回、1-2泊である。それが今回は、高所に連続14泊。

 緑のない岩山なので、土ぼこりが舞い、衣類も、シュラフも、ほこりにまみれた。

 ときおり強い突風が吹く。隣のテントがひとつ吹き飛ばされた。銀マットが吹きあげられて、岩壁を駆け上っていく。かなり経った後、数百mの高さでキラキラと光っているのが見えた。

 連日ほぼ快晴。BCでは、昼は暑く、半袖の人もいるくらいだが、太陽が沈むと急に寒くなる。しかし、厚着をすれば、寒くはない。

 下着は一回代えたきり。空気が乾燥しているせいか、それほど気にならない。しかし、シュラフの中はさすがに臭くなった。                 
                                     
 1日に2-3回はリップクリームをぬる。ぬらないと、唇が乾燥してひび割れができ、ひどくなると痛くて食事がとれなくなる。何回か痛くなった。少し痛くなると、すぐぬるようにした。

 日中の紫外線も強い。登山口からBCまで歩くのに、顔は帽子と手ぬぐいで覆っていたが、手は日ざしにさらしたままで歩いた。2日目にはストックを持っていた右手の甲が、火傷と同じように真っ赤になり、痛くなった。

 女性は日中、日焼けを防ぐために顔をすっぽりと布でおおっている。顔に包帯を巻いているような感じで、異様だった。

(BCの日本人)
                             
 BCには約100 張りのテントがあった。そこに滞在する登山者は200 人位はいたであろう。地元・アルゼンチンの人が多かったが、ヨーロッパからもかなり来ていた。アメリカ人が少なかったようだが、英語が通じないためだという人がいた。

 この時、BCにいた日本隊は5隊。その他に、単独行の日本人が何人か来ていた。
大学を1年休学してやってきた21才の青年。3月まで休職とし、ここのほかにパタゴニアやギアナ高地も回るという30才の青年。30才から3年間で世界を一周しようという青年。彼は青年海外協力隊員としてパプアニューギニアに行っていたが、それを終えて日本に帰ったところ、文明生活に適応することができずに、再び放浪の旅に出たという。
また、62才のおばあちゃんにも会った。なんとしてもアコンカグアに登りたいと、孫のような若者一人を供に連れてBCとC1 との間を何度も往復し、高所順応に励んでいた。

 これを書いているときに、BCで会った単独行の男性の一人から、4月4日付・ウルグァイ発の絵はがきが届いた。BC撤収のときに、残った大量の食料を無料であげたお礼である。といっても、食料は隊のものだったのだが。あれから3ケ月もたっているのに、彼はまだ、南米を放浪しているようである。

 私も、放浪の旅にはたいへん魅力を感じる。でも、いったん始めたら、その魅力にとりつかれて、抜けられなくなるのではないだろうか。

 (BCの青いテント)
                          
 BCにはいくつかの青いテントが並んでいた。「飲み屋」である。夜になると登山者で満員。夜中までにぎわう。そのうるさいこと。とくに大晦日の夜はにぎやかだった。私達は、飲みにいくこともなく、いつも8時か9時には、シュラフにもぐりこんだ。

 (高山病)
                               
 BCには数日に一回位の割合で、朝がた、軍のヘリコプターが飛んでくる。いつも2機一緒だ。重い高山病にかかった人を運ぶためである。飛んでくる音が聞こえると、隊員は皆、食事中であっても、食事をほうりだしテントを飛び出していく。
他のテントからも沢山の人が飛び出してくる。皆カメラを抱えて、着陸地点の周りの小高い丘の上から見物する。

 ヘリコプターの世話にはならなかったが、わが隊でも高山病にかかった人が何人かいる。
BCに到着した日に意識不明になり、酸素吸入をうけたのはWAさん。HAさんも、それほど悪化はしなかったが、体調不良で結局最後のアタックには参加しなかった。
WAさんは、いったん数百m下山し無人の河原に一人でテントを張って一泊。体をならしてから再び登ってきて調整を続け、最後には登頂に成功した。

 その他、高山病らしきものにかかったのはYAさんと私。YAさんはC2 で泊まったときに、頭痛薬と睡眠薬を一緒に飲んで夜中に息苦しくなり、Kさんの介抱を受けた。
私は前に書いたように、アタックのときにおかしくなった。また、TAさんはメンドーサのまちでひいた風邪が、BCにいる間、直らずに、アタックを断念した。風邪は、かかった所より高い場所に留まっていては直らないという。

 こんなこともあった。C1 のテントにいたときのことである。隣のテントのスイス人が高山病でダウンし、その仲間から無線連絡を頼まれた。BCに残ったTAさんに連絡し、そこにいる彼らの仲間を探してきてもらい、仲間同士でお互いに話をさせたのである。

 なお、私達が滞在中に、他の日本隊のうちで、ヘリコプターで運ばれた人は1人、下山後に現地で入院した人は3人だった。
 
 このことは、一緒に行った南米専門の旅行会社・ポーラーエクスペディションのSAさん(彼はBCまで来て引き返し、帰りは登山口に沢山の果物を持って迎えに来てくれた)が教えてくれた。
             
 とにかく、ここでは、高山病は身の回りで日常よく起きる出来事のひとつになっている。

(食事)
                                 
 BCでの食事は、私達が張った3つのテントに囲まれた広場で食べた。

 いつも、料理のチーフはYAさん、サブはTARさん。本日の料理を何にするかを決めて、中心になって作る。その他の人も、2人にばかりまかせておいては悪いので、灯油コンロの点火やジャガイモ・人参の皮むき、肉切り、水くみ、食器洗いなどをして、できるだけ手伝う。
私は、大晦日の年越しそばをつくるのを手伝った。しかし、これは失敗。
ゆであげたそばをそのまま熱いつゆに入れ、やわらかくしてしまったうえに、苦くて固い葉(何という野菜だったか)をつゆに入れ味をおとしたのだ。作った自分でさえ、まずくて残してしまった。せっかく皆が楽しみにしていたのに---。

 朝はラーメンに餅、夕食は、いわしの缶詰をいれた炊き込みごはんやジャガイモ・人参などの入った野菜のスープである。その他、10kgに近い大きな牛肉の塊を現地で仕入れ、切り取って焼いて食べた。食事のおいしかったこと。14人もいるので、早く食べないと無くなってしまう。
2杯目は早い者勝ち。いつも、なくなってしまうのではないかとややあせりながら、競争で食べた。昼食が行動食で粗食だったせいもある。

 あと、美味しかったのは、乾燥したものを水で戻す「きなこ餅」。日本で買ったもの。一袋約300 円で8個入っている。1分で戻る。とろりとしたその味は何とも言えない。その他では、KA隊長のおすすめ品、モツの煮込みのレトルト食品だ。C2 で味わった。これもいける。

 飲み物は、コーヒー、紅茶に、梅茶、こぶ茶。大量に日本から持参した。どれもパック入りである。毎食後、どれにしょうかと選ぶのが楽しかった。意外に、甘いものよりは梅茶やこぶ茶のほうが口に合った。
                                     
 昼食は毎日、飴やクッキーだけの行動食である。これは初めての経験。その中で、チーズかまぼこ、せんべいなどはまあまあ食べられたが、クッキー類やカロリーメイトはパサパサしていて、どうも口に合わず、行動食が美味いと感じたことは一度もなかった。
国内での山行の昼食は、日帰りなら必ずおむすびを持参する。小屋泊まりなら弁当を小屋に頼む。御飯は力の源という思いがあるし、水気のある塩味の食べ物なので、この行動食に比べたら、おむすびは格段に美味しいものである。

(グループ登山のメリット)
                        
 グループ登山のメリットを次のように充分享受させてもらった。

・ 事前の渡航手続きや食料の調達を他の人にやってもらった(KA隊長が主にやってくれたようである)。

・ 英語やスペイン語を必要とする現地での入管手続きや入山手続きも自分でやらなくてすんだ(旅行会社のSAさんがやってくれた)。

・ キャンプでの食事も他の人に作ってもらった--朝などは寝ているうちに出来上がり、起こされることもあった(もっとも、いつも、ぼんやりと出来上がるのを待っていたわけではない。できるだけ手伝うようにはした)。

・ 専門知識を必要とする高所順応の計画も含めて、登山計画を作成してもらった(8千m峰にも登り、豊富な経験を持つKさんの力に負うところが大きい)。

・ 高山病にかかったとき、助けてもらった(これもKさんに依存。私も助けられた)。                                
  
一人で行くとすれば、これらは自分ですべてやらねばならないのだ。

                           
          <視覚障害者との国際交流>
         
(アコンカグアに奥さんと二人だけで登った視覚障害者のノルベルトさんにインタビュー)
                                   
 BCで視覚障害を持つオーストリア人の登山家フリュシュテック・ノルベルトさん(MR.FRUEHSTUECK NORBERT)夫妻にお会いし、いろいろ話を聞く機会を得た。
                                     
 彼は55才。スポーツマンのためのマッサージ師である。1970年に自動車事故で視力を失ったが、それまでは体操の先生をしていたという。日本体操界のオリンピック代表である小野選手を知っていると話していたので、体操の選手だったのかもしれない。奥さんともども大柄でがっちりした体格である。

 夫妻は二人だけでベースキャンプの小高い所に赤いテントを張っていた。そういう人が来ているという噂を聞いたので、隊の人に通訳を頼み、羊羹や日本のはしをおみやげとして二度ほど訪ねていった。外国の視覚障害者の方と話すのは初めてである。

 まず、山歴を聞く。
 主要なものをあげれば、1974年モンブラン、77年キリマンジャロ、83年マッターホルン、90年ブアナポトシ、91年ルウェリンゾなど。海外には数年おきに出かけているようである。今回は、エクアドルのコトパクシ(5,897m)、チンボラソ(6,267m)に登った後、こちらにやってきたという。

 このほか、オーストリア国内を中心に無数の山に登っており、その数は既に2千を超えている。今回の山行に備え、去年も70回以上の山行を試みたという。「太陽により近づくことに大きな喜びを感じる」と大きな声で話す言葉から、山にかける強い情熱がうかがえた。いつも晴眼者の奥さんと二人だけで登っているという。

 私は、視覚障害者と晴眼者が一緒に登山をする東京の「六つ星山の会」に入っている。会員は約3百名。大阪や京都にも同じような会があり、年一回の交流会も持たれているが、オーストリアにも、このような山の会があるのだろうか。「ない」との答えであった。
彼らは皆、家族や友人のサポートで山に登るという。「いままで行った海外の山で、視覚障害の登山家に会ったことがありますか」と聞いたが、これも「ノー」ということだった。日本には、「六つ星」のような山の会がいくつかあるが、視覚障害者の登山が少しは普及している国といえるのかもしれない。

 聞きにくかったが、費用の点を聞いてみた。二人でしばらく数えていたが、「1万2千ドル」(百万円強)との答えが返ってきた。往復の旅費も含め、7週間、二人で南米の山を回遊する費用である。割りと安い。ヨーロッパは南米に近いし、泊まりはテント泊が多いからであろう。

 1984年には山に関する著書も出版しており、今年も一冊書く予定だという。

 娘さんが二人おり、ひとりは京都で日本語の勉強中。そのせいであろうか、日本への関心はたいへん高く、二年後には日本に来て、是非、日本の山に登りたいとのことだった。日本の山のベストスリーやその高さを熱心に聞いていた。

 そのときに、日本の視覚障害者の方々が一緒に登山をし、懇談の機会が持てたらよいのにと思った。                             

               <旅を楽しむ>           

 好奇心が強く、何でも見てやろう、経験してみようという気持が強い。思い出になるものをできるだけ持って帰ろうという思いもある。そのために、旅先では何にでも首を突っ込む。
 今度の山行でも、いろいろなことを積極的にやってみた。

(ニューヨーク見物)
                           
 ニューヨークでの乗り継ぎでは半日ほど余裕があり、ニューヨーク見物に出かけた。長時間飛行機に乗っていて疲れていたせいか、14人のうち4人しか参加しなかったが、私は「行こう、行こう」と皆をさそったほうである。
行ったのは、DO、NA、YA、私の4人だけ。滞在時間が限られていて見物できる時間は3時間。まず、DOさんの希望でメトロポリタン美術館にタクシーを乗り着けたが、残念ながら休館。そこで、横にあるセントラルパークへ。
雪がうっすらと積もっていて、静かで美しかった。家族連れや犬を連れた人が散歩をしている。不思議な国のアリスの銅像がある。鳩が舞う。売店でパンを買う人達ーーー。危険の多いニューヨークと聞いてきたが、とても穏やかだった。

 それから摩天楼の下を歩く。ザックを背負ったままである。12月の25日なので、クリスマスのミサをしている大きな教会に入ると、司祭が入口で私達を祝福してくれた。
 エンパイア・ステイト・ビルに登る。1人3.75ドル。はるかかなたに「自由の女神」の像。

(メンドーサ見物)
                            
 アルゼンチンはスペインの植民地だったので、すべてスペイン風。その中で、登山の基地になるメンドーサは人口60万人。碁盤の目に街路が走り、街路の両側と公園には、日差しを通さないほどにうっそうと樹木が茂る。
町の中心には、幅が広くて銀座のように賑やかなサンマルティン通りがあり、銀行や商店が軒を連ねる。繁華街を少し離れたところには、いくつかの教会、公園。道路に面した家々はスペイン風。暑くて、空気が乾燥しているせいか、ややほこりっぽい。

 人々の風習が日本と違う。午後は長い昼休みがあり、商店は4時頃まで店を閉める。逆に夜は遅くまでにぎわう。午後の11時頃でもレストランは人で一杯。子供連れも多い。

 このまちでも、同じ部屋のWAさんやDOさんと出歩き、また、一人でもあちらこちらと歩き回った。到着の翌日、朝食前に、WAさんと歩いたときは、小さな売店で絵はがきを買った。
当地はスペイン語の国。店のおばさんとは話がまったく通じない。手まねで買い物をした。何事も経験と、次は喫茶店に入り、これも手まねでコーヒーを頼み、店のボーイに、飲んでいるところを写真に撮ってもらった。

 郵便局に絵はがきを出しに行ったときは、とまどった。切手を買いたいので、窓口に絵はがきを見せると、別の窓口を指さされたが、そこへ行くと、また別の窓口を指で教えられた。うろうろしていると、ちょうど運よく日本人の観光客がやってきて、出し方を教えてくれた。
切手を買うところを探していたのだが、切手は張らないで、スタンプを押して出す方式だったのである。

 昼食、夕食は全員で外に食べに出た。毎回ほとんど、ステーキ。そのステーキの大きかったこと。皆は全部たいらげたが、私は食べきれなかった。

(マスダさん)
                              
 メンドーサ郊外に住む日系人の農家。日本からアコンカグアに行く登山者がかなり世話になっているようだ。空港には、娘さんが迎えにきた。滞在手続などを頼んだのであろう。
登山に不要な荷物を預けにその家に寄ったが、マスダさんと並んでいる植村直巳、三浦雄一郎などの写真が壁に飾ってあった。 

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アコンカグア その4

<アルゼンチン紹介> 
             
 かってのスペインの植民地。1816年独立。人口3千万人で、その97% はスペイン、ポルトガル等ヨーロッパ系の移民、または、その子孫。宗教は、90% がローマン・カトリック。
主な産業は農業。牛肉、小麦、とうもろこし、バナナ、ぶどう、たばこなどを生産。また、世界第4位のワインの産地でもある。メンドーサはその中心地で、ワインの美味さは、ヨーロッパでも有名だという。

 南極に近いパタゴニア地方にあこがれる旅人は多い。60-100mの高さの氷河の先端が、湖に大音響ととも崩れ落ちるというが、その様子を是非見てみたいものだ。
隊のMAさん、HAさんは、今回の登山の帰りに日程を延長して、パタゴニア地方に更に一週間の寄り道をした。
                                    
(BCのホテル見物) 
                          
 BCから歩いて30分の距離にポツンと建っているホテルに最初に出かけて行ったのは、私とDOさん、NAさんの3人。

 風呂に入りたかった。でも、あるだろうか。途中ですれちがった外国人の登山者に、手ぬぐいをひらひらさせながら、「シャワー、OK?」と大声で聞いてみると、「OK」という返事があった。風呂はあるのだ。

 ホテルに到着。建物の外観はきれいだったが、建ったのは最近のようで、まだ内部は完全には出来上がっておらず、泊まる部屋はバラック建てに近かった。

 紅茶とスープを頼む。紅茶3ペソ(3百円)、スープ5ペソ。
 シャワーは7ペソ。久しぶりのシャワーである。でも、湯の出が悪い。湯が急に水になった。大声でボーイを呼ぶ。言葉が通じないので、ふるえるまねをして知らせる。湯は出たが、今度は熱すぎる--。

 調理場の方に行くと、シェフが出てきて、マテ茶(砂糖入りの苦い茶をパイプで吸うもの)を3人にごちそうしてくれた。

(氷河遊び)
                               
 BCを発って帰る前日、Kさんが希望者を氷河遊びに連れていってくれた。YA、NA、SE、TAR、私の5人が参加。前日までの登山の疲れが残っていたのであろうか、ゆっくり寝ていたい人が多く、意外に参加者は少なかった。

 初めは、30分歩いてホテルへ。そこから、氷河の先端に向かう。
 氷河の端は、まばらに溶けて、高さ数mの氷の塔が林立していた。その中を歩く。ピッケルでその氷塔を倒して遊ぶ。氷河の上を川が流れている。
青い大きな池がある。高さにして約10mの垂直の氷河の壁で、両手にピッケルを握りアイス・クライミングを初めて経験させてもらった。                 

(物々交換を試みる)
                           
 BCにある現地人のテントの売店に出かけていき、花の絵はがきとソーラー電卓(神田で数百円で買ったものだ)の交換も試みた。
意思が通じるかと迷ったが、これも経験と、意を決し店に入る。もちろん、相手はスペイン語なので言葉は通じない。
電卓を見せながら絵はがきを指さして「チェンジ、チェンジ」と大声でいう。店にいた女の人が奥から旦那を呼んできて相談を始めた。
こちらは今度は「ソーラー、ソーラー」と繰り返す。旦那はたいへん気に入ったらしく、商談はめでたく成功。5枚一組5ペソ(5百円)の値がついたサボテンの花の絵はがきを手に入れた。

(石集め)                                
 記念に持ち帰ろうと、石も沢山拾った。コンフレンシァからBCへの道は谷をさかのぼる。谷といっても幅は数百mはあり、広々とした河原である。そこを珍しい石を探しながら歩いた。
緑の石、黒い石、赤い石、白い石--休憩のときに探す、進行中も立ち止まっては探す。穴のあいた真っ白で小さな石を見つけた。それだけは、壊れるといけないのでティッシュに包んで別にした。

  C2 では、ゴルフボール大の穴があいた平べったくて大きな石を見つけた。1kgはありそう。ずしりと重かった。ザックに入れてBCまで運ぶ。あとで、これを知ったKさんが同じような石をもうひとつ見つけてくれたので、これもBCに持って帰った。
BCからの帰路、その重かったこと。2つとも、今、我が家の玄関に並んでいる。

 また、TARさんが、私にとっては幻となった山頂の石を記念にくれた。これも大事にしまってある。

(スケッチ)
                               
 スケッチブックを持参し、2枚のスケッチを描いた。

(CDで「大黄河」を聞く)
                        
 日本にいて、音楽を聞きながら、はるかな異国に思いをはせていると、ふと郷愁を感じる。宗次郎の「大黄河」や服部克久の「新世界紀行」を聞いているときである。ときどき、一人きりで、そんな雰囲気にひたるのが好きだ。また、ショパンのピアノ曲集などもよい。

 今回はこれらのCDをプレイヤーと一緒に持っていって、夜のテントの中で聞いた。

 テントの外では、高島さんが持ってきたマイクをつけて皆で聞いた。倍償千恵子の歌に-何の歌だったか-、涙ぐむ隊員が何人かいたようだ。

(ひげをのばす)
                             
 長期の山行になると、ひげがかなり伸びる。ひげが伸びると、すこしだけたくましくなったような気がして、何となく嬉しくなり、わざと伸ばして、撫でてみる。南アルプス縦走などで、経験したことである。

 国内の山行だと、山にいるのはせいぜい5日間ぐらいだが、今回は旅行日数を入れれば、その期間は20日にもなる。こんなに長い山行は初めてだ。ひげを伸ばすチャンスである。そう思って、ヒゲそりは持たずに出かけた。

 成田空港を出てから一度も剃らなかった。BCにいるあいだに1cmをこえ、BCにあるホテルのボーイから「ジャパニーズ・ガウチョ」(ガウチョとはカウボーイのこと)とからかわれた。

 2週間に及ぶ登山を終えてメンドーサのまちに帰り、鏡を見てがっくりした。たくましい顔になっているだろうと期待していたのに、ヒゲぼうぼうの乞食の顔が映っていたからだ。

 家まで伸ばしたままで帰り、子供に見せて自慢しようと思っていたのだか、方針変更。高島さんから手剃りのひげそりを借りて、ホテルでさっぱりと剃りおとしてしまった。

             <帰国後 雑感>            

(世界旅行)
                               
 旅行が好きで、昔から、外国旅行にあこがれていた。初めて外国に行ったのは、40才代の後半。仕事で20日間ほどヨーロッパにでかけた。次は個人でソ連へ。5泊6日のシベリヤ鉄道の旅である。地球の外周の4分の1を列車で移動し、地球の大きさを実感した。

 その頃から「山めぐりで広く世界各地を旅行しよう」と思うようになった。前回はキリマンジャロに登り、アフリカ大陸に足跡を残した。今回は南米大陸である。ニューヨークにも行き、ダウンタウンを3時間ほど散歩したので、一応は北米大陸にも足跡を残したことになる。

(日本の自然のすばらしさ)
                        
 緑にあふれているのに、どこか乾いた感じのするメンドーサのまち。日差しが強く、しかも湿度が低いせいだろうか。そのまちを一歩出ると、今度は、草木のほとんどない土ぼこりの荒野や岩山が続く。川は赤茶色の濁流。氷河の水を集めて流れる

 そんな中にいて、日本の自然のすばらしさをあらためて見直した。緑の豊かさ、みずみずしさ、それに豊かな季節感。何回か行った、あの梓川の、たっぷりとして清く澄んだ流れのすばらしさ--。日本の自然は、地球上の貴重な財産である。

(充分楽しんだ)
                             
 これだけ楽しんだのだ。これからは自分だけが楽しむ山行はできるだけ抑えて、休日はなるべく、もう少し誰かのためになるように使おう

 自分のことをつい優先してしまう私の生き方は、なかなか改められるものではないのだが。

(ほっとする)
                              
 行くまでは緊張していたが、帰国後はほっとしたためだろうか、体重が3kgふえた。めずらしいことである。この30年間、体重がふえたことはなかったのだが。

(ささやかな挑戦)
                            
 なぜ、山に行くのか。「そこに山があるから」と言った人もいる。
 私の場合は、「何かをやり遂げてみたい」からであり、ささやかな挑戦のためである。やり遂げること、登頂することには喜びが感じられる。
そのために、行く山は、自分の力の限界ギリギリのところをねらう。ここ数年で行ったのは、夏・4泊5日の南アルプス単独縦走、北ア・旭岳-親不知海岸縦走、春季・雪の3千m・聖岳、穂高・ジャンダルム、初級ロッククライミング、モンブラン、キリマンジャロなど。
これらは、力のある人にとっては容易と思われるが、私の場合は、行くときはいつも「行けるだろうか」と不安を感じながらの出発となる。
また、日本百名山や日本列島横断(茨城県取手市の自宅から、日本海への山脈縦走)にも挑戦している。

 頂上直下、「もうすこしだ」と思いながら、いかに疲れていようと、足を前にだす。上を見ながら登ると、なかなか山頂が近づかず疲れが増すので、足元だけを見て登る。
疲れがひどくなると、100歩づつ数え、その間は立ち止まらないように心に決めて登る。とにかく、がんばるだけ。

 誰でも、挑戦するものを--心をかきたて豊かにする何かを持っているであろう。それが、今は、山のようである。

(他の動物との違い)
                           
 山登りは,自分のために行くのであり、人のためではない。また、自分のためといっても、生きていく上でどうしても必要な衣食住を手に入れるためでもない。
スポ-ツは全て、そうであろう。しかも人間は、それをやり遂げたときに、涙を流すほどに感動することがある。
また、それを見た人間も感動で胸をふるわす。オリンピックでの優勝などはその最たるものであろう。それは人間だけの特徴だ。ほかの動物にも、たとえば、大空を舞う鳥のように、運動を「楽しむ」という習性はあると思われるが、それに「全力で挑戦する」ようなことはないであろう。

 大昔の、人が生きるために必死であった時代には、人間もこのようなことはしなかったのではなかろうか。仲間を守るためでもないし、衣食住を得るためでもない--ある意味では無益な行為に、人は敢えて挑戦する。

(いつか)                                
 楽しかったことも、悲しかったことも、すべての思い出は、いつか、その人の死とともに、無に帰る。それでも--いや、そうであるからこそ、人は何かを求め続ける。                 
          
<隊長、副隊長以外の隊のメンバー>          

 行くときにわが家に奥さん・子供さんと一緒に泊まったYAさん(43才)は、今夏にヒマラヤの7,000m峰の登頂をねらっており、今回はその準備山行を兼ねて参加した。料理長として活躍。

 WAさん(38才)とは行きのホテルの部屋が一緒。彼はBCに入ったときに意識不明で倒れたが、いったん下山し高所順応に務めた結果、登頂に成功した。

 DOさん(45才)とは帰りのホテルの部屋が一緒。英語が上手い。一緒にニューヨーク見物にもでかけた。オーストリアの視覚障害者にインタビューしたときも同行してもらった。
C2 では苦しそうだったが、がんばって登頂に成功。下山では力を使いはたし、BCから応援に向かった若手のサポートを受けた。

 NAさん(36才)は、隊の準備山行以外にもTARさんと冬の富士に登ってトレーニングに励んだほどの、ベテランのアルピニスト。C2 への荷上げのときに共同装備の重い荷を背負って登ったせいか(その分、私の荷は軽くなったのだが)、アタックのときはややばてて、あと一歩のところで登頂を断念した。
帰国後、すぐに「山行記」を作成し、皆に送ってくれた。後日、勤めを辞めて労山隊の一員としてエベレストに挑み、見事登頂に成功。

 TAさん(56才)は、夜間高校の先生。地域のボランティア活動にも積極的に取り組んでいる。メンドーサで昼食を食べながら、いろいろと話を聞いた。
  
 MAさん(29才)は、松本市で児童福祉の仕事をしている。隊で最も若い。荷上げやサポートでSEさんと共に活躍(初日にBCへの到着が遅れたWAさん、登頂に成功したあと疲れて下山が遅れたDOさんをサポート)。
帰りにHAさんとパタゴニアにも寄っている。オーストリアの視覚障害者に2回目のインタビューをしたときに一緒だった
。                            
 TASさん(43才)は大工さん。アコンカグアで日本から持ってきた凧をあげるのをひとつの楽しみにしていた。BCと6,400m地点で念願を2回も達成。

 SEさん(33才)はワンデイアセンドに成功した山男。テント生活のときは、熱心に星を撮影していた。
                          
 NARさん(52才)からは、ヒマラヤトレッキングの話を聞いた。荷物を持ってもらい、食事を作ってもらう大名旅行だという。写真を沢山送ってくれた。縁があり、後日、マッキンリーに一緒に登った

 TARさんは、40才代の主婦で、会社勤め。子育てが終わり、数年前から山を始めた。今回は、トレーニングのために、ザックを背負いながら家事をやったという。                                                                 
  HAさんは30才代の主婦で、写真屋に務めている。小柄ながら、足は強く、登るスピードは早い。私などとはそのスピードが違う。残念ながら体調不良で頂上には行けなかった。
 
 今、皆さんはどうしているのかな。元気で山に登っているだろうか

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マッキンリー その1

あこがれのマッキンリーへ -58才の夢を追って-
                 1996年6月1日-6月26日

写真を最初に見る場合は以下のURLをクリックしてください。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/czvcwF?authkey=AqqB6hvBMHE

<マッキンリーに行ける!>

(きっかけ)
 1996年1月11日(木)の午後、職場で仕事中のことである。
 机の上の電話が鳴った。取り上げると「Kです」という声。聞き覚えがあり、すぐに分かった。一昨年アコンカグアに連れていってもらったあのKさんからだ。

 マッキンリーに行かないかという。「エッ」、一瞬、胸が高鳴った。自分の実力ではマッキンリー登山は実現不可能な夢であり、登りに行くなどとは考えてもいなかった。そのチャンスが突然めぐってきたのだ。マッキンリーに行けるかもしれないと思うと、ドキドキした。実は、Kさんへの今年の年賀状に「実現不可能な夢かもしれませんが、マッキンリー登山の企画があったら是非知らせてください」と書いておいたのだが、その返事がすぐに来るとは---。本当に行けるのだろうか。

 63歳の女性(その人は、昨年Kさんがダウラギリに登ったときに一緒に行き、5,800mまで登ったという)からKさんに、マッキンリーに行きたいとの話があり、それなら私も一緒にどうかということで電話をくれたのである。日程を中高年向きに組むという。登頂成功の確率は、若者の多い一般のパーティーに参加するよりは高いはずだ。

  職場や家族の了解を取り付けることが先決なので即答はしなかったが、その日は一日、何かわくわくとして興奮が冷めず、仕事が手に付かなかった。

 マッキンリーは北アメリカ大陸の最高峰で標高6194m、もちろん、世界五大陸最高峰の一つである。私は50才になってから、海外の山に登りはじめ、そのうちの3つに行っているので、これが行ければ4っ目となる。もっとも、挑戦はしたものの、登頂できたのはキリマンジャロだけだが。

  私はこの山を一度見ている。1980年代のことだが、日本からヨーロッパに行く飛行機のほとんどはアラスカのアンカレッジ経由であり、私も1987年に職場の研修旅行でここを経由しヨーロッパを往復した。そのとき、機外に真っ白なマッキンリーが見え、他の乗客と一緒に興奮したことを覚えている。あのときは、海外の山に行くことなど全く考えていなかった。それから10年を経て、それに挑戦できるとは--。

 早速、以前に読んだ田部井淳子著「七大陸最高峰に立って」(小学館)とディック・バス、フランク・ウエルズ共著の「7つの最高峰(SEVEN SUMMITS)」(文芸春秋)を持ち出し、そのマッキンリーの部分を読む。荷を背負い、更に荷を積んだソリも引っ張って3日間氷河の上を歩くのだが、そこには、深いクレバスが口を開けており、時々は転落事故があるという。鼻の先がつく程に急峻な雪壁の登りがあるとも--。また、テントを吹き飛ばしかねない強風が吹くという。

 自分に登れるだろうか。ともかく、行くことができるということを前提に、体力づくりに励まねばならない。それと、5月には富士山に登って高度順化をしておこう。

 )五大陸最高峰とは、七大陸最高峰から南極大陸のビンソンマシフ(4897m。5140m 説もある) 、オセアニア大陸のカルンストンピラミッド(4884m) を除いたもの。マッキンリー(北米大陸)のほか、モンブラン(ヨーロッパ大陸。エルブルースとの説もある)、キリマンジャロ(アフリカ大陸)、アコンカグア(南米大陸)、エベレスト(アジア大陸)。

<マッキンリーに登るために-準備山行>

(泳ぐ)
 今までは一週間か二週間に一度泳ぐ程度だったが、体力をつけるために二、三日に一度は泳ぐこととした。

 ウイークデイは、昼か職場の帰りに千代田区の体育館で泳ぐ。一回に泳ぐのは、1500m から 2000m。
 休日には、取手の市民プールに行く。このときは、50分泳いでは10分休むという形で、5000m を泳ぐこともある。

 登山は持続力が勝負の分かれ目になるので、いかに早く泳ぐかは考えず、長距離をゆっくりと休まずに泳ぐように心掛けた。目安は50分で2000mを泳ぐこと。

(準備山行)
 今までに冬山に登った経験はほとんどない。数年前、ゴールデン・ウイークの燕岳と聖岳に登ったことがあり、2年前の12月にアコンカグアの準備山行として五竜岳と富士山に登ったという程度である。

  ときどき、Kさんと連絡をとるが、いつもハッパをかけられる。「君は冬山の経験がほとんどない。今からでもできるだけ、雪山のテント生活を経験し慣れておくように」と。

  決まったあとで登ったのは、赤岳(2月)、富士山(4月に2回)、奥大日岳(5月。馬場島から)、木曽駒ヶ岳(5月)など。詳細は後述する。なお、アコンカグアで一緒だったNさんと、偶然にも赤岳で会い、この話をしたのがきっかけで、彼も参加することとなった・
                     
<マッキンリーとは>


(山容)
  はじめに書いた通り、マッキンリーは標高6194m、アメリカ大陸の最高峰であり、もちろん、世界五大陸最高峰の一つでもある。アメリカのアラスカ州にあって、北緯63度に位置する。緯度が高いために、標高のわりには寒くて、空気が薄い。頂上付近は夏でも-30°になるという。登山家の植村直巳さんが、厳冬期の単独登山に挑戦し遭難した山としても有名である。

(登山の適期)
 5月末から7月始めが登山の適期。このころ毎年、世界中から約1000人の登山者がやって来る。国別ではアメリカ人が最も多く、あとはヨーロッパ人、ロシア人、韓国人、日本人等であり、そのほとんどが、我々がとったウエストバットレス・コースを登る。

(登山に要する日数)                           
 登山に要する日数は、氷河上を歩き始めてから10-20日間。高度順化を考慮せずに最短で登れば、ランディングポイント-BC間が3日、BC-ハイキャンプ間が1日、アタックが1日、ハイキャンプからランディングポイントへの下りが2日の計7日間で往復できるが、一般にはこれに荷上げの日数(それは高度順化のためでもある)と休養の日数が加わる。また、悪天候で行動ができず、日数が更に伸びることもある。

 私達の場合は、中高年であり休養日を多く取ったこともあって、下記のとおり、全体では26日間、登山では17日間を要した。

 登山期間中は、雪の上にテントを張って寝る。もちろん、風呂はない。下着も替えない。私はひげも剃らなかった。

(私達の日程)                              
 1996.6. 1 成田発、アンカレッジへ。
      6. 4 小型飛行機でランディング・ポイントに着陸。登山開始。
      6.16 マッキンリーの登頂に成功。
      6.20 ランディング・ポイントに帰着。タルキートナへ。
      6.26 成田着。

(隊の編成)
 我々の隊は6人編成。
  素人が3人。高所に強く、アコンカグアの登頂にも成功しているNさん、高所登山の経験があり、64才のがんばり屋のSさん(女性)、それに私である。

  ベテランが3人。隊長のKさんは54才。海外の高所登山について豊富な経験を持っている。50才代になって隊長として、世界に14座ある8000峰のうちの3つに登った。マッキンリーにも既に2回登っている。

 Ⅰさんも8000m峰登頂の経験者。軽井沢の高原に住みながら溶接の仕事をやっている。隊長とSさんが5000m 地点でビバークをしたときは、無線連絡を受けて必要な装備を持ち、雪の岩稜帯を飛ぶように駆け下りていった。

 Mさんは一番の若手、39才。岩と雪山について豊かな経験を持つ。登頂のときも、疲れを知らなかった。

(食料)
 20日間、6人分の食料のほとんどは日本で調達。主食は乾燥米(アルファー米といわれ、一食約200円。湯で戻して食べる)。あとはラーメン。副食も日本から乾燥食品を持参。ほかに、現地で大量の牛肉と野菜を購入。

 テントでの食事は朝・夕の2回。昼はなし。行動中は、チョコ、アメ、ゼリー、パン等の行動食を食べた。これらも現地で購入。

(登山費用)
 登山費用であるが、これは航空運賃込みでひとり50万円前後であろう。インターネットによって海外のアラスカ登山ガイドにアクセスすると、ウエストバットレスのガイド料は現地集合で3000$ とある。仲間同志が集まりガイドなしで行けば、もっと安くなると思われる。

<登 山 開 始>

(マッキンリーへの道)
 日本からアンカレッジに直行する航空便はない。ソウル経由か、アメリカの大都市経由であるが、ソウル経由のほうが近い。私達が行ったのはソウル経由である。

 海辺の都市・アンカレッジで一泊。
 スーパーで野菜牛肉等の生鮮食品を調達。それと、アラスカの有名なスポーツ用品店「REI」に行く。「REI」、この名前を私は初めて聞いたが、Kさん達は、この店に寄るのを楽しみにしていたようで、店内をくまなく見てまわり登山用品をいくつか買っていた。

 アンカレッジから、タクシーに乗って約3時間、マッキンリーの登山基地タルキートナへ。ここは、中心部に10軒ほどの店が建ち並ぶ人口300人ほどの小さな村である。みやげもの屋、宿屋、酒場、食堂、食料品ストアー、ハンバーガーショップ、スポーツ用品店などが並ぶ。

 みな木造。内部は薄暗く狭くて古びた建物(スポーツ用品店だけは最近開店した)であり、この一帯は西部劇の世界にタイムスリップしたような雰囲気がある。

 その周りには、登山を管理するレンジャー事務所、郵便局、それに駅。村のむこうにやや離れて、河原の中にオートキャンプ場がある。河原まで来ると、遠くに Mt,McKinley、Mt,Foraker(5303m) 、Mt,Hunter(4427m)の3山が並んで見える。この山域はこれら3山を中心とした独立の山塊である。早朝にひとりで散歩をしているとき、この場所を発見した。

 レンジャー事務所で入山手続きを行う。環境保護のビデオを見せられ、30分程、担当官から登山の注意事項について講義を受けた。

 エアタクシー(登山口へ行くために乗る小型飛行機。操縦士のほか3-5人が乗れる)を待つ間の泊まりは、中心部から歩いて10分ほどのところにある一軒の家の土間。行きも帰りも、ここに泊まり、他の登山者と一緒にシュラフ(寝袋)に入ってゴロ寝をした。この家がエアタクシーの会社と契約していて、泊まりは無料という。

 この家の周りは背の高い林。朝などは、新緑が日に映えてすがすがしい。この林を抜けて5分ほど行くと、氷河から濁った水を集めて流れる大河に出る。ここから見えるのはフォラカーのみ。その隣にあるマッキンリーは林に隠れて見えない。

 エアタクシーの空港は村の中心から歩いて5分のところにあり、小型飛行機を数機所有する小規模な航空会社が4社並んでいる。私達はダグ・ギーティング社に飛行を依頼。社長のダグ・ギーティングは歌手としてCDを出しており、また、村に丸太小屋風の小さなハンバーガーショップも持っている。地元では、かなりの有名人らしい。

 飛行を依頼した日、飛行場に行ったが、天候不順で飛行機は飛ばなかった。山行用の荷物をすべて持って来ていたので、飛行場の事務所に泊めてもらい床に寝て朝を待った。

 翌日は快晴。午前7時頃、ミスター・ダグ・ギーティングがはりきってやってきた。飛行OKである。

 タルキートナから登山口に飛ぶ。広大な原野を越え、氷河を越え、雪と岩の急峻な山岳の間を抜けて約30分、氷河の上(標高2134m、ランディング・ポイントと呼ばれる)に着陸する。ここから、いよいよ登山の開始。17日間に及ぶ雪上のテント生活が始まる。
                                     
(大氷河をさかのぼる)
 まず、幅4-5kmもあるカルヒートナ氷河を、BCまで正味で4日間ほどさかのぼる。20kgに近い個人装備を背負い、10kgほどの荷(テント、食料、燃料などの共同装備)を載せたソリを各人が引いて登る。

 3日目に3300m地点に到着。ここで上部のウインディーコーナー(風の強い曲がり角の意味。BCへの途中にある)への荷上げに一日を使うが、そのほかに休養日や吹雪による行動中止の日もあって、3日間を過ごす。7日目にBCへ。

 はじめの3日間は、氷河の傾斜は比較的ゆるやかだったが、BCへの最後の1日は傾斜が急でソリの引き綱が腰骨に食い込んで痛かった。
                                      
(純白の世界)
 前に登ったアコンカグア(6959m、アルゼンチン)と較べると、マッキンリーは雪と氷の世界。ほとんど全山が雪で覆われており、岩は尾根筋にわずかに露出するのみである。これに対し、アコンカグアは赤黒い岩峰の山であり、斜面は細かく割れた岩片で覆われ、雪はところどころにあるだけだった。

 4日間の氷河歩きのうち、2日目,3日目は快晴に恵まれた。
  前後左右の景色は抜群。氷河のあまりの広さに距離感を失い、数日前にそのそばを通った雪峰が、ほんの2-3時間で行けるほどの近くに見える。氷河の両側は、純白の嶺々や、いまにも崩れそうな雪壁が聳え立つ。雪壁の崩壊した部分は青白く輝くブルーアイス。その透明感のある青色が何ともいえず美しかった。

 時々、濃紺の空はるかに、赤い点、白い点となって遊覧飛行機が飛ぶ。

  遠くの山で「ドーン」という音がして、雪煙が上がる。雪崩だ。
 いままでに見たことがないような雄大な雪の世界。わくわくする。半年前には、こんなところに来られるなんて夢にも思っていなかった。

(クレバスの危険)
 写真を撮るときや小用のときは、気をつけねばならない。仲間と結んだザイルを解くと危険である。表面に積もった雪が、何十mもの深さのクレバスを隠していることがあるからだ。皆が通った跡をたどれば、それほど危険はないが、トレースを外すとクレバスに落ち込む危険がある(もっともトレースをたどっていても、ときには落ちることがあるのだが)。

 今回の山行中でも、別の隊で2人ほどクレバスに落ちて骨折したと聞く。一人はヘリコプターで運ばれ、一人は仲間につきそわれ自力で下山したという。落ちたときに、もし仲間とザイルを結んでいなければ怪我だけでは済まず、命を失う危険がある。

(歩行中の注意)
 歩行中は、クレバスに注意するほか、ザイルをアイゼンで踏まぬように常に注意しなければならない。油断をするとすぐにザイルが腰からたれ下がり、踏みつけそうになる。これを防ぐには前の人との間隔を適度にとればよいのだが。

(ウインディーコーナ-への荷上げ)
 12時スタート。はじめは雪のかなり急な斜面。それから、緩やかになり、ウインディー・コーナーに続く広々とした雪原に出る。途中、ブルーアイスが露出している所があり、その上を歩く。コーナー16時30分着。荷物をデポし、更に登り、18時45分に引き返す。テントに20時30分帰着。

 このときは吹雪いて、着衣の外側が凍った。目出帽で口と鼻を覆って登ったが、口に当たる部分は凍って板のようにカチカチになってしまった。

 隊長はそんな吹雪の中で、「アタックの時の訓練になる」と言って笑っていたが。

(アイゼンがはずれる)
  この日、荷上げから帰って、テントの側でアイゼンを外すと、片方のアイゼンが前後半分づつに分離してしまった。

 ネジがとれたのである。はっとして、心臓が高鳴った。予備のネジは持ってきていない。ネジがないと修理は不可能。登山を続けることはできない--。

 あわてた。アイゼンを脱いだあたりの雪の中を素手で必死になってかきまわす。他の場所でネジが外れた恐れもあり、それなら見つからない--。今回はオーバーシューズを着ける必要があり、自宅でネジを外しアイゼンの長さを調整したのだが、そのときにネジをきっちり締めなかったようだ。

 雪をすくっては割ってみる。ない--、あきらめかけたころ、雪の中に固い小さな金属片が見つかった。その嬉しかったこと。
 アイゼンの手入れは大事。命が懸かっている。

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マッキンリー その2

(BCへ)
 7日目、4300m のBC(ベースキャンプ)へ。朝食10時。12時スタート。重荷を背負い、ソリを引いて登る。

 ウインディーコーナーで、前回運んでおいた荷を載せる。ソリが更に重くなり、急斜面を登るときは引き綱が腰に食い込んで、痛くて本当につらかった。雪の舞う中、22時にBC着。たいへん疲れる。さすがに寒い。アイゼンを素手で外したが、そのために手先が凍え感覚がなくなってしまった。凍傷の恐れを感じ、あわてて、手を下着の中に入れてもんだ。

 それから、テントを設営。疲れた中でMさんとⅠさんが雪をとかし、夕食を作ってくれた。食べたのは24時過ぎ。もちろん、外は白夜。明るい中での夜食だった。

(テントの中で)
 翌日はBCで休養。
 目をさますと、テントの内側一面に霜がついていた。あとで聞くと、外は零下26度。シュラフの外側の生地がうっすらと凍っている。寝ている間に、吐く息が凍りついたのだ。午前6時位か。トイレに起きる。体がテントの内側にふれると、霜がさらさらと雪のようにシュラフの上に落ちた。

 外が吹雪のときに用を足しに行くと、下着の中にまで雪が舞い込む。でも、じっと我慢。これに耐えないとマッキンリーには登れないのだ。このくらいのことはなんでもない、命に係わることではない--。

 テントに帰っても、何もすることはない。また、シュラフにもぐり込み、ウトウトとする。シュラフは厳冬期用のもの。厚着をした上に毛の腹巻も着けているので、もぐって寝れば、ほどほどに温かい。

 10時を回る。稜線の上に太陽が顔を出し、テントを照らすようになると、急にテント内が温かくなり、付着した霜が解け出す。それが水滴となって流れ、テントの内側に何本もの筋を作る。まだ、食事の時間には間があるようだ。シュラフから顔を出して、水滴の流れを追う。テントの生地を伝わってゆっくりと落ちていた2本の流れが合わさると、速さを増して、ツーと流れ落ちる。

 この日は薄日がさしたり、雪がちらついたりの一日だった。太陽が出ると、テントの中の気温は上がる。午後は裸でいてもよいくらいに暑くなった。風を入れるために入口を大きく開ける。

 このような休養日は、本を読んだり、CDを聞いたりして過ごす。
 本は、井上靖の「冬の海」と今井通子の「私の北壁」を持ってきた。どちらも以前に読んで面白かったものだ。「冬の海」は柔道一筋のバンカラ学生の物語。戦前の金沢四高が出てくる。主人公の生き方の型破りで、豪快なこと。仲間に遠慮しながらも、テントの中で思わずくすくすと笑ってしまい、夢中で読み終えた。

 CDは、アコンカグアのときと同じように、「大黄河」「新世界紀行」などを持ってきた。

 でも、テントでじっとしていると、ときどき「登れるだろうか」と不安になる。「登れたら、どんなに嬉しいことか」と思いつつも、「登れる確率は20-30%ぐらいかな。たぶん駄目かも」という悲観的な気持になる。

(食事)
 テントの食事は豪華だった。我が家でも、めったにないほどのご馳走。MさんとⅠさんが担当し、工夫をしてくれたのだ。

 アンカレッジで買った牛肉を焼き肉にしてたっぷり食べたが、これが特においしかった。肉入りのカレーライスも出た。

 ほかに、なすの漬物、納豆、大根おろし、きんぴら、とろろ、じゃがいものサラダなど。これらはすべて乾燥食品であり、水で戻して食べる。
 手巻きずしも何回か。アンカレッジで買ったきゅうり、乾燥食品の納豆、ソーセージ、チューブ入りのしそ梅などを載せて巻く。これもうまかった。

 しかも、デザートには毎回、好物のプリンが出た。これは私の注文で粉末を持ってきてくれたのである。

(服装と装備)
 夜寝るときは、冬用の分厚い下着を上下とも2枚づつ着る。更にウールのシャツと薄手の羽毛服の上下を着け、その上にジャンバーを着て、ズボンをはく。もちろん、毛の靴下と毛の手袋も。それでも寒いときは、毛の腹巻も着ける。

 シュラフは-27度cに耐えられるものを持参。もちろん、シュラフカバーも。

 ハイ・キャンプでは、スリーシーズン用のシュラフを中に重ねたが、これはやや余分だった。温かいが、荷物がそれだけかさばるのだ。

 出発のときは、これら衣服の上に更に多くの装備を着けねばならず、装着に小一時間はかかる。まずは、オーバージャケットとオーバーパンツ。次に靴を履きオーバーシューズを着ける。

 頭には目出帽と高所帽、ゴーグル。更に腰にハーネス。外に出てアイゼンを装着。毛の手袋の上にはオーバー手袋も。急傾斜を登る時はユマール(20cm程の長さの昇降器具。固定ザイルに掛けて、手で握って登る。上には進むが、下にはおりない) を着ける。シュリンゲとカラビナも忘れてはならない。

 また、緩やかな下りの場合はアイゼンの代わりにオーバーシューズの上からスノーラケット(かんじき。飛行場で借りて、ソリに載せ持ってきた)を着ける。また、アタックのときは、分厚い羽毛服も着用した。

 日焼け止めクリームをぬり、唇のひび割れ防止にリップクリームをぬることも忘れてはならない。リップクリームは2-3時間おきにぬらないと、唇が割れて食事ができなくなる恐れがある。

 ランディング・ポイントとBCの間では、このほかに、ソリに荷を着け、ソリがひっくり返らないように上手に紐を掛ける仕事もある。

 そして最後に、全員がソリを間にはさんでザイルで結ばれ、両手にストックを持って(BCより上ではピッケルを手にして)出発する。
                                      
<いよいよ、アタック>

(ハイキャンプへの荷上げ。45度の雪壁を登る)
 10日目、最終キャンプ地であるハイキャンプ(5250m)への荷上げを行う。 まず、尾根筋まで。ジグザクにトレースをたどり3/4を登ると、上部は傾斜角45度の雪壁となる。200 mはあろうか。更にその上半分は雪の着かないブルーアイス。

 上がり用と下り用に2本の固定ザイルが張ってあり、これを伝ってユマールを頼りに登る。氷壁に鼻がつきそうなほどに急な登り。上から見下ろすと垂直に近く見える。これを登りきって、BCから約4時間でやっと尾根に出る。

 次は、両側の切れ落ちた岩稜帯。これを2時間行く。途中、右側のはるか下にBCのテント群が見えた。あそこまでの標高差は 600mはあろうか。大きな岩を巻いて、固定ザイルのある急斜面を登る。雪面は凍っていて固い。次いで、左側にはるか谷底まで切れ落ちた斜面をトラバースする。トレースの幅は30cmも無さそう。緊張が続く。

 6時間でハイキャンプに到着。吹雪の中、荷を雪に埋めて、BCに戻る。

(ハイキャンプに入る)
 11,12日目はBCで休養。13日目、アタック用具をすべて持ってハイキャンプへ。つらい登りを再び繰り返す。

 隊長とザイルを結んだSさんが遅れる。結局、ハイキャンプに到達できず、5000mの稜線上で、二人はビバークを強いられた。さぞ、寒かったことだろう。

(アタック)
 14日目にアタック。
 午前2時起床。4人のみで4時30分頃スタート。快晴である。私はⅠさんと1対1でザイルを組む。もう一組は、MさんとNさん。

 当初の計画では、MさんとNさんと私でザイルを組み、Ⅰさんは、ビバークをしたKさんとSさんをサポートするためにテントに残る予定だったが、私は1対1でⅠさんとザイルを組みたいと強くKさんに希望した。それは、3人で組んでいて私ひとりがダウンしたときは、全員が登れなくなる恐れがあるからだ。体力のある二人のペースではなく、自分のペースでゆっくりと登りたくもあった。

 この日、初めて分厚い羽毛服を着ける。いままではオーバーヤッケで済ませてきたが、寒さが違うということで、これを着用した。その下には厳冬期用の分厚い下着を2枚と薄手の羽毛服、それにセーターとジャンバーも着る。

 稜線上のデナリパスまでは約2時間。途中で、Ⅰさんが「足先の感覚が無くなった。凍傷になりそう」と言って、靴を脱いで足先をもむということがあったが、大事には到らなかった。

 稜線に出る。ここから私が前を歩く。Ⅰさんが、そのほうが私のペースで歩けて、登れる確率が高いと判断したからである。10m位の急斜面が一箇所あったが、それ以外は延々とゆるやかな登りが続く。そんなに苦しくはない。順調だ。

Ⅰさんが「この調子でいけば、登頂できますよ」と言ってくれた。ともかく登る。後で気がついたが、登ることに夢中で、頂上直下の稜線に出るまでは、写真を撮るのを忘れていた。

 デナリパスから4時間は経ったろうか。大きな雪原に入る。雪原の向こうの、日に輝く雪の急斜面に、はるか上方へと一筋の踏み跡が続いている。高度差は100mはありそう。雪原まで来れば頂上はすぐと本に書いてあったようだが、勘違いだった。まだ先が長いと知って、このあたりから急に疲れが出てくる。足が前に出なくなった。

 休憩をとるが、疲れで食欲がなくなり、何も食べたくない。Ⅰさんが「何か食べないと、あとで力が出なくなり、登ったはいいが、帰ることができなくなって死にますよ」と言う。

 でも、持ってきたチョコレートやパンはパサパサで食べられない。Ⅰさんが持参したドライフルーツをくれたので、それを食べる。アタック時の行動食は、共同で用意したものに頼らずに、独自に好物を用意してくればよかったと思う。

 斜面に達する。疲れきった自分に登れるだろうか。それでも、登らなければ--。ここから苦闘が始まる。ハアハアと激しく息をしながら、なんとか気力をふりしぼって、足を前に出す。一歩進むと、立ち止まって何回も深呼吸。酸素が欲しい。酸素は平地の1/3ぐらいか。

 なかなか、体に酸素が回らない。深呼吸を繰り返すと、また、歩く気になる。そして、また、一歩。これを繰り返す。斜面を登りきれば山頂のはずだ。それだけを考えながら、ともかく一歩、また一歩と登る。

 Kさんが前回登ったときは、このあたりで天候が崩れて引き返したと聞く。吹雪に巻かれホワイトアウトの状態となり、足跡や目印(数十mおきに竿か旗が立っている)が見えなくなって、感を頼りに命がけで下ったという。しかし、きょうは天気は最高。崩れる恐れは全くない。登頂にも、下山にも、いくら時間をかけてもよいのだ。

 雪原から一時間もかかったろうか。12時頃、斜面を登り切って、やっと稜線に達した。ところが、「よし、ここが山頂だ。やっと着いた」と思いながら斜面を回り込んでいくと、更にそのはるか先に、より高い純白の峰があるではないか。

ショック。ここではない、あれが山頂なのだ。しかも、そこに達するには、数十mは続くナイフリッジ(両側が鋭く切れ落ちた雪の稜線)を渡らねばならない。高度の影響だろうか、気持も悪くなった。もう、限界だ。自分には無理だ--。

 とたんに疲れが全身を覆い、ガックリと雪上に座りこんでしまった。上空は深く透きとおるような青空。はるか下の方は見渡すかぎりの雪と岩の山々。快晴、無風。日を一杯に浴びながら、頭がぐらぐらするほどの疲労感におそわれた。

 Ⅰさんに「あきらめます。もう動けません」と伝える。アーア、また駄目か。むなしさが襲ってくる。結局、アコンカグアにも、ここにも登れないのか--。

 「Ⅰさん、ひとりで登ってきてください。僕はここで待っています」と言うと、彼は「あなたをひとり残して行くわけにはいかない
先行したM・N組が下りてくるまで待ちましょう」と言って、行こうとはしない。

 1時間前に山頂に達したM・N組がナイフリッジを渡って下りてくる。豆つぶのように見えた二人がみるみる近づいてきた。山頂はあんなに近いのだ。それをぼんやりと眺めていると、ふと気分が変わった。「あんなに近いのなら、僕にも行けるかもしれない」。

 20分か30分ほど座っていて疲れがとれたためでもあろう。何か元気が出てきた(そう言えば、キリマンジャロのときもそうだった。5600mのギルマンズ・ポイントに達したときは、「もう駄目だ。ここで引き返そう」と一度は思った。

しかし、休んでいる間に地平線から太陽が顔を出して急に温かくなり、そのお陰もあって元気を回復し、結局、そこから2時間かかる最高地点、5895mのウフルピークまで登ってしまったのだ)。

 「よし、行ってみよう」。ザックを下ろす。胸のしめつけが無くなり、気持も良くなる。ザックは風で飛ばないようにⅠさんが雪の中に埋めてくれた。

 空身で気分良く、ナイフリッジへと踏みだす。30-50cm幅の雪の稜線上を行く。両側が切れ落ちているが、Ⅰさんにザイルで確保されているので、怖さは感じない。なんなく渡りきる。無風であることも幸いした。これが強風が吹き荒れていれば、転落の危険が高くなり、渡るのは難しかったであろう。

 斜面を登り、最初の頂きへ。トレースからはわずかに高さ10m程度の雪の小山に見える。そこに近づくと、トレースは更にその先へ延びていた。次の頂きへ向かう。足取りは依然として軽い。まだ先だ。その次へ。          

(登頂に成功)
 やっと山頂に達した。これ以上高いところはない。13時10分。休憩地点から45分で登ってしまった。純白のフォラカー山がはるか下に見える。その向こうには雪と岩の峰々。白くうねって見えるのは氷河であろう。その先にアラスカの原野が霞んで見える。

 山々と平行に点々と雲が浮かぶ。アラスカ第一の高みに立っているのだ。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。

 涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ。
 Ⅰさんと握手。写真を撮りあう。

(頂上を後にして下山)
 下山にかかる。
 登頂のために全力を使い果たし、下山する力はほとんど残っていなかった。

 下に向かって足を踏み出すのだから、こんなに楽なことはないはずなのに、足が前に出ない。

 何歩か歩いては立ち止まり、深呼吸を繰り返してから、また歩き出す。しかし、数分間で、また足が前に出なくなる。全く、よれよれだ。あいかわらずの快晴、無風。暑い。羽毛服を脱ぐ。

 やっと、デナリ・パスに到達。次いで急斜面をトラバース気味に下る。ここは、厳冬期に山田昇氏(エベレスト登頂者)とその仲間2人が滑落して亡くなったところだ。要注意である。立ち止まりたくなるのをこらえて下るが、何度かよろめく。歩く力を使い果たし、Ⅰさんに悪いなと思いながら休憩を申し出て、数回、休憩を取る。

 やっと、テントのある雪原の端に下り立つことができた。もう危険はない。そう感じた途端に歩く気力を失った。ザイルを解き、Ⅰさんに先に行ってもらうことにして、雪面に座り込む。心底、疲れた。もう動けない。30分は座っていたであろう。

 それから立ち上がり、ゆっくりとテントに向かう。ほんとうにゆっくりと、亀のように。背後から何人かに追い越される。この歩みでは病人と思われるかもしれない。普通なら10分のところを1時間ほど掛けてやっとテントに着く。

 Sさんが旗を持って、また、K隊長がコーヒーポットを持って迎えてくれた。コーヒーを一杯、なみなみと注いで飲む。Nさんが、私がはずしたアイゼンとピッケル、ザックを受け取ってくれた。有り難い。Ⅰさん、Mさんと握手。そのあとしばらくは、テントに入らず雪面に座りこんでボーっとしていた。

(隊長は、翌日単独登頂)
 この日同行しなかったK隊長は、翌日単独で登頂。午前4時30分に出発し、10時30分にはテントに戻ってきた。私が14時間かけたところをわずか6時間で往復してきたのだ。下りてきても、息づかいは普段どおりである。疲れた様子は全くない。「えっ、ほんとうに行ってきたの」という感じだった。

 こんなに早く行けるのは、体力があるだけでなく、高度に慣れているからだと思う。面白いので、ちょっと、自分と比較してみよう。

 私は、準備山行として、4月の末に一人で雪の富士山に登ったが、このときは5合目(佐藤小屋)から山頂までの標高差1000mを7時間で往復した。マッキンリーのアタックも標高差は1000mである。標高差だけをとれば、所要時間にそう変わりはない。何が違うかといえば、6194mと3776mの高度の違いである。高度順応が完全なら、私も、もっと早く登れたかもしれない--。

 もっとも、この山に登るには、高度順応だけでなく、どんな危険にも即座に対応できる判断力(それは豊富な経験に基づく)とすぐれた登山技術が必要であり、その点ではK隊長のレベルは抜群である。また、私達の倍近い荷を背負って長時間歩けるだけの体力、5000mの稜線上でビバークしたあとでも疲れを知らない持久力など、誰にも負けない力も備えている。

(登頂出来たのは)
 登頂出来た第一の要因は、アタックの日が一日中快晴という幸運に恵まれたこと、しかもその好天が、我々がハイキャンプに到達した日の翌日に訪れたことにある。

 登山開始から3日目にすれちがった若い2人の日本人は、天候が悪かったためにハイキャンプで5日間も食料を食いつないでねばり、その後の好天をとらえて登頂したと言っていた。また、そのころ下りてきた何人かの外人に「サミット、サクセス(成功)?」と聞いてみたが、「ノー。バッド・ウエザー(悪天)」と言う人がかなりいたのである。

 第二の要因は、高度順化が比較的うまくいったことである。登頂の日、6000m を越えたあたりでは、酸素不足のために体のだるさに悩まされたが、それ以前のテント生活では頭痛や吐き気に悩まされることはほとんどなかった。

  第三に、Kさん、Ⅰさん、Mさんというヒマラヤの高峰を経験したエキスパートがサポートをしてくれたことである。特に、Kさんはマッキンリーに既に2回登っている。今回は、それらの豊富な経験をもとにKさんが作成してくれたスケジュールに従って登った。その計画は、予定した日数の範囲内で、高山病を予防しつつ登頂の可能性を最大限に追求するというものだった。

 もちろん、Ⅰさん、Mさんのサポートも忘れてはならない。彼らのサポートがあるために、急峻な雪面の登り下りや、両側が切れ落ちた岩稜帯やナイフリッジの通過の際に、安心して行動ができた。

 そこでは一瞬のつまずきが事故につながる。私のような素人はいつ足を滑らすか分からない。それを背後から常に見守り、長時間にわたって確保のための緊張感を持続させるのは大変なことだったにちがいない。

 このほか、三人の方には、共同装備のかなりを背負ってもらい、また、Mさんには食事作りをも担当してもらった。
  第四に、私自身も過去にキリマンジャロやアコンカグアに登って高所登山に少しは慣れており、高所ではどの程度苦しいかがある程度分かっていたということもあると思われる。

<ハイキャンプからの下山>

(雪壁で転倒)
 15日目。Sさんがデナリパスまで登りたいと希望したので、K、Ⅰの2人はハイキャンプに残り、隊長の指示でM、N、田村の3人だけが先にBCに下りることとなった。
前日の登頂の疲れがかなり残っており、無事に下れるかやや不安に感じながら出発する。

 登りのときは2回に分けて荷上げをしたが、下りではそれらをまとめて背負った上に、共同装備として持ってきていた数十本の目印用旗竿もザックに差して持ったために、荷が重い。20kg以上あるようだ。快晴だが、風は強い。

 稜線に出ると、旗竿が風にあおられ、体がゆれた。ザイルで確保されているとは言え、両側が切れ落ちた稜線上では、転倒すれば3人一緒に滑落する危険がある。転倒は絶対に避けねばならない。足を開き、ふんばりながら下りる。緊張の連続--。

 次いで45度の雪壁へ。Mさんにザイルで確保された上で、固定ザイルにカラビナをかけシュリンゲを通して、自分を二重に確保する。順調に下り続けたが、固定ザイルが終わる直前の、垂直に近い4-5mの氷壁を下りるときに失敗した。前回の荷上げの帰りには、空身だったこともあって、ここは飛び下りて通過していた。

 そこで、また飛び下りたのだが、今回は荷が重すぎて前にのめってしまった。何とかなると思って気楽に飛び下りたのがいけなかったようだ。稜線では緊張し注意を集中して歩いていたのに、ここではもう大丈夫と油断したのである。

 うつ伏せのまま急斜面をずるずると滑り始め、あわててピッケルの先を雪面に突き差したが、腕が伸びきって制動がうまく効かない。夢中で腕に力を入れる。すると、1mも滑らずに、加速する前に体が止まった。

 ほっとする。うつ伏せのままの姿勢でいると、Nさんが足に絡んだザイルを解いてくれた。Mさんがそばまで下りてきて、確保の体制をしっかりとってくれたので、やっと雪面に立ち上がることができた。ほんの一瞬のことである。

 後で思うと、止まったのは、体が二重に確保されていたためのようである。

 ここを過ぎると、あとはのんびりとした下り。眼下にBC、その向こうには登ってきた大氷河が広がり、遠くハンター、ホラカーも。写真を撮りながら下っていった。

(凍傷) 
 翌日、Sさん達もBCに下りてきた。Sさんは結局、デナリ・パスにも登れなかった。私もアコンカグアの時に登れなかった経験がある。あのときのくやしさ、気分の落ちこみ--。Sさんの思いがよくわかる。

 彼女はかなり疲れていた。
 その上、指が3本、青黒く、ビーダマのように腫れていた。凍傷である。手袋は2枚着けていたが、やや薄目だったためにやられたようだ。

 隊長の指示で、まず湯で温めて様子を見る。かなりひどい。結局、隊長と2人で、医者が一人常駐しているBCの診療所に行く。

 しばらくして帰ってきたが、指を切り落とすほどの重症ではないということで、皆ほっとした。

 指を切り落とすということになれば、ヘリコプターが呼ばれ下界に運ばれるところだった。

(ソリに難渋)
 下山。BCからランディング・ポイントまで2日間の行程。
 一日目。Sさんと隊長がザイルを結び、あとの4人は別にザイルを結ぶ。6人で縦に一列になり、それぞれの間にソリをはさんで下る。

 前の人が引っ張るソリは後ろの人とも結ばれており、3番目の私は後ろのソリを引きながら、前のソリが前を行く人の足元へ滑っていかないように、また、斜面をトラバースするときは横へずり落ちないように常に気を配りながら歩かねばならなかった。

 来るときは無かったのだが、夏のために雪どけが進み、数m幅のクレバスが横に長く口を開けていた。その上に懸かった幅 3mほどのスノーブリッジを渡る。次には斜面のトラバース。後ろの人が私の後のソリをいくら引っ張ってくれても、ソリが斜め下に滑り落ちてしまい、体が谷側へと引っ張られる。

 ウインディーコーナーを越えると更に急な斜面のトラバース。後方ばかりでなく、前方のソリも斜面を横に滑り落ち、その上、引き綱が足にまとわりつく。前後二つのソリの荷重で体がよろめく。

足をふんばるのだが、谷底へと引きずりこまれそうな恐怖を感じる。雪面がブルーアイスとなって、更に怖くなり、思わず、前を行くⅠさんに「ゆっくり!」と大声で呼びかけた。それからは更にゆっくりと慎重に下る。
 
 前にテントを張った3800m地点に到着。吹雪になった。Sさんと隊長が遅れる。しばらく待ったが、なかなか下りてこないので、Ⅰさんが迎えに行く。待つ間、単独行の日本の若者がテントから出てきて、熱いコーヒーをふるまってくれた。

 後続がようやく到着。そこからはゆるやかな下り。スピードを上げて下山しようとするのだが、今度はソリに難渋した。

 どのソリもすぐにひっくり返り、それを直すのに時間をとるために、距離がなかなかはかどらない。原因は積み過ぎと荷のバランスの悪さにあるようだ。何度か積み荷を直すが、うまくいかない。かんしゃくを起こす人も。私はひっくり返っても、強引にそのまま引き続けた。その重いこと-。

 結局、予定のテント場までは行けずに、その少し前でテントを張った。
  
 最終日。はじめて、スノー・ラケット(かんじき)をつける。
 荷の積み方がよかったせいで、この日は順調に下る。
  トレースの脇のところどころには大きなクレバスが口を開けていた。
 なかなか、ランディング・ポイントに着かない。あらためて、氷河の広さを感じる。疲れてきた。休憩が待ち遠しい。

 目的地に到着したのは16時。天候不良で飛行機は飛ばないという。雪で丸いテーブルと腰掛けを作り、皆で夕食をとる。子供のいたずらのようで、何か楽しい。

  のんびりしていると、ふと爆音が聞こえた。近づいてくる。飛行機が天候の状況を偵察するためにタルキートナから飛んできたのだ。飛べるかもしれない--。あわてて、食事の後片付けをする。他のグループも荷作りを始めた。あたりは騒然となる。女性のレンジャー隊員が小屋から出てきて大声で何か叫んだ。多分、飛べるから準備をしろと言っているのだろう。

 20時頃、次々に飛行機が着陸してくる。我々も呼ばれた。まず、M、N、私の3人が乗り込む。発進---。ところが、このあと天候が再び悪化し、結局、あとの3人は取り残されて、帰着は翌朝になってしまった。

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マッキンリー その3

 <帰国へ>

(タルキートナのレストラン)
 登頂後タルキートナに帰ってから、レストラン「ラティテュード(北緯)62°」で2度ほど食べた朝食は忘れられない。

 コーヒーとトースト、サラダ、ジャガイモ、それに特大のハムが付いて7ドルである。コーヒーは飲みほうだい。特にとんかつほどの大きさの特大ハムは気に入った。これをゆったりと丸テーブルに座って食べる。食べながら、野茂投手(ドジャース)の活躍を知ろうと、英字新聞を持ってきてスポーツ欄を見るのだが、英語が苦手でよくわからない。テレビもスポーツ番組ばかり放送しているが、すべて英語。

 外は朝日があふれているのに、広い室内は窓が少なくて薄暗い。
 客は3-4人。窓際のテーブルを見ると、ふとった大男が、フライパンほどの大きさの特大のパンケーキを食べていた。アラスカでは毎日、あんなのを食べているから、ふとった人が多いのだろう。背後のやや暗いカウンターでは、森林の伐採作業員だろうか、作業着姿の髭面の男がコーヒーを飲みながら店のおかみと談笑している。

 いかにもアメリカの田舎といった雰囲気である。しかも私はマッキンリーに登頂したのだ。何か気だるく、快い疲労感の中で、その雰囲気を充分に味わいながら、コーヒーを飲む。

(アラスカ鉄道)
 帰りはアラスカ鉄道に乗る。
 駅は村の中心にある。駅舎はない。広いホームには,数人が座れる小さな待合所と鉄製のトイレがあるだけ。ホームは村と地つづきで、自動車でホームに乗り入れる人もいる。

 我々のほかに乗客がひとりやってきた。ついで、ドイツの観光客が数人、カメラを持って日陰に陣取る。列車を写そうというのである。
 ダイヤは一日に二本。我々が乗るのは13:16発だが、列車はなかなか姿を見せない。からっとした強い日差し。無数の綿毛が空中に舞う。柳のようだ。

 ジュースとスナック菓子を買ってきて、ザックに腰を掛け一服。線路に耳をあててみるが、列車の音は聞こえない。待合所では居眠りをする人も。

 Ⅰさんとはここでお別れだ。彼はもう一週間アラスカを旅するという。
 やっと列車が遠くに見えた。1時間40分の遅れである。駅に止まってはじめて、それが一両であることに気がついた。「えっ、これがアラスカ鉄道の列車なの?」。何両も連なる展望車付の豪華列車を予想していたので、あっけにとられて、一瞬、機関車だけが先にきたのかなと思う。でも、黒人の車掌が踏み台を持ってきて、乗客が降り始めた。これが待っていた列車なのだ。あわてて、荷物を運びこむ。展望車付豪華列車は別の時刻のものだった。

 車内の乗客は10人位、席はがらがらである。皆、思い思いに席につく。食堂車での食事を楽しみにしていたが、肩透かしとなった。コーヒーの販売もない。でも、車窓の景色はすばらしい。アラスカの原野、大河、はるかに雪をかぶった山々。残念ながらマッキンリーは雲の中に隠れて見えない。

 運転手は、乗客の女性とおしゃべりをしながら運転している。前をよく見て運転しているのだろうか。運転席に行ってみると、アンダーシャツ、短パン姿の大男が運転席の上に足を上げて運転中。写真を撮ろうとすると、足を下ろして恰好をつけた。いかにも、アラスカ鉄道といった雰囲気。そういえば、鉄道の遅れは日常のことで、1時間、2時間遅れはざらだと言う。
 3時間でアンカレッジに着く。
                                     
<あらためて、マッキンリとは>
            
(マッキンリー登山の特徴)
 我が国は高齢化社会をむかえつつあり、登山者も中高年が中心になってきた。

 これからは、海外登山でも中高年が増加するであろう。
 そんな人達のことも念頭に置きながら、登ってきた経験や聞いた話をもとにして、マッキンリーの特徴をあらためてまとめてみよう。

① 標高が低いわりには寒くて、空気が薄い
 これは緯度が高いことによる。同じ標高の場合、緯度が高ければ高いほど温度は低くなり、また空気は薄くなる。そのために、マッキンリーはヒマラヤの7千m峰にも匹敵すると言われており、夏でも寒く、5000mを越えると早朝の気温は-30度にもなるし、吹雪の中を行動するときは昼間でも帽子や手袋がバリバリに凍る。

 ただし、いくら寒くとも、何とか耐えられる寒さではある。行く前は、用を足すにはどうしたらよいかとか、アイゼンはワンタッチ式でないが(長い紐を鉄の環に通して締めていく仕組みである)、素手で着けられるだろうかと心配していたが、吹雪の中でも用は足せたし、アイゼンは薄い手袋をはめれば装着することが出来た。

 なお、晴れた日には、テントの中は平地の夏に近い暑さになり、テントの入口を大きく開けて風を入れねばならず、下着だけで過ごすということもあった。
 その意味では、夏と冬が同居している山とも言えよう。

② 氷雪の山である。
 それだけに、危険が多い。氷河にはクレバスが待ち受けているし、45度の雪壁を登る所や、切れ落ちた雪の斜面をトラバースする箇所もある。しかも、吹雪く日がかなりあって、ホアイト・アウト(周囲が白一色で何も見えなくなり、道を失う)の危険もある。我々は、入山から下山までの17日の間、毎日必ず仲間とザイルを結びあって歩いた。
 一方、景色は抜群。

③ 登頂の成功率は50%前後と低い
 これは、天候が安定せず、悪天が続くためである。
 アタック地点(ハイキャンプ・5250m)で吹雪が続けば、頂上へのアタックは無理である。食料が底をついたり、体力が落ちたりすれば登頂をあきらめて引き返さざるを得ない。

 このように、マッキンリーでは、登頂の可能性は天候に大きく左右される。運悪く悪天が続けば、どんなに体力があっても登頂は不可能となる。登頂率が過去90年間の平均で52%(昨年は40%)と低いのはそのためである。

④ そりを引いて登る。
 氷河上を行く最初の数日間と最後の2日間は、そりを引いて歩く。このそりが曲者。私達の場合も、そりが真っ直ぐに進まないとか、すぐに横転する、急斜面では引き綱が腰に食い込んで痛い、ということでさんざんな目に会った。荷の積み方や引き方に工夫が足りなかったようである。

⑤ 夏は白夜。
 懐中電灯は不要。夜が来ないので、行動時間に制限はない。
 天気が回復すれば、夕方に出発する人もいる。

⑥ シェルパがいない。
 ヒマラヤでは、エベレストにしろ、他の高峰にしろ、シェルパを雇い、荷を持たせて登るのが一般的であるが、マッキンリーにはシェルパがいない。荷はすべて登山者が持つことになり、それだけ荷が重くなる。ソリに荷を載せて引くことにより、背負う方の負担は軽減できるが、その分、腰に負担がかかる。

 今回は、ベテランの人達が一緒なので、共同装備はかなり持ってもらえたが、それでも、自分の荷はすべて背負ったし、共同装備の一部を自分のソリに載せて引っ張った

⑦ 日本から出発するツアーがない。
 五大陸最高峰のうちで、モンブラン、キリマンジャロ登山については、日本からのツアーが沢山あって、山の雑誌を見ればいくらでも見つかる。また、アコンカグアへのツアーもときどき雑誌に出ている。そのために、この3つの山は、登る手掛かりが全くない素人であっても、登りに行くことが可能である。

 しかし、マッキンリーへの日本からのツアーはほとんどない。数年前に、公募登山という形式で募集しているのを雑誌で一度見たくらいである。そのため、登りに行きたくとも素人には手掛かりがない(後で知ったが、アラスカの旅行会社が毎年募集している現地集合の登山ツアーはあるようだ)。

 行くには、自分で登山計画を立てるか、又は、個人的に誰かが行くという情報を掴んで、その人に頼んで一緒に連れていってもらうしかない。私の場合は、Kさんと知りあいであり、彼が声をかけてくれたので行くことができた。

 日本でツアーが組めないのは、海外からの、ガイド同伴のツアーが禁止されているためのようである(アラスカでガイドを頼むことは可。これらの点については確認していない)。

⑧ 登山のスタート地点へは小型飛行機で行く。
 小型飛行機に乗れるのはまことに楽しい。アラスカ鉄道に乗れることと合わせて、登山以外の大きな楽しみである。

(マッキンリーの登頂に成功するには)
 素人の場合は、まずは連れていってもらえる人を探すこと。
 次いで高山病対策。それには、事前に体力をつけること、登山中はゆっくり登ること、高所への登り下りを繰り返すことで体を慣らすこと、水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。

 成功の最後の鍵は天候に恵まれること。これは晴天を神に祈るしかない。

(登山中の危険とその対策)
・クレバスへの転落
 転落しても、助けられるように、仲間同志で必ずザイルを結んで歩く。

・固く凍った急斜面での滑落
 ここでもザイルが必ず必要。

・吹雪で視界が閉ざされるホアイトアウトによる道迷い
 吹雪のときは行動しないし、途中で吹雪になったときは、行動を中止する。アタックの帰りであれば、感に頼ってテントのあるところまで命がけで戻るほかはない。安全対策として、登りながら旗を立て、それを頼りに下りることもある。

・寒さと強風による凍傷
 凍傷の危険性が高い。手袋は、厚手の毛の手袋(油を抜かないもの。値段は普通の毛の手袋の数倍) の上に、ゴアテックスのオーバー手袋を着用する。しかも、凍傷を防ぐために毛の手袋は2つ用意し、アタックのときは湿気のない新品を着ける。
 また、強風に手袋を飛ばされないように注意が必要。飛ばされれば凍傷は避けられない。

・ 高山病
1000m登ったらまた下に降り、一日休養してから登り返すというように、体を高さに慣らしながら登る。荷上げのために一旦登り、それから下りてくるのは、荷を分散するほかに高度順化の意味がある。その他は前に書いた。

・ 雪崩
一日に数回は雪崩の音を聞く。ただし、遠い。コースはなだれの巣から離れたところを通っているので、それほど危険はない。数年前に、このコースのウインディーコーナー手前で雪崩に遭遇した隊があったということだが、コース内で生じるのはまれのようである。

・ 積雪
雪は一日に50-100cm積もることがあるようである。そのときは、ラッセルがきつく、歩くのに時間がかかる。ラッセルを避けるには、先頭で出発しないこと。先に出発した隊のトレースを追えば割りと楽である。それと、小型飛行機の会社で貸してくれるスノウ・ラケット(かんじき)を使うとよい。我々も、雪上での最後の一日は、これを着けて歩いたが、なかなか歩きやすかった。

(マッキンリーの記録等)

 1)初登頂
 マッキンリーの初登頂は北峰が1910年、最高点の南峰が1913年。これに対して、ヨーロッパ大陸最高峰のモンブラン初登頂は1786年であり、南米大陸最高峰アコンカグアの初登頂は1897年である。

 これらが世界の登山史の中でどんな位置をしめるのであろうか。
東西登山史考」(田口二郎著。岩波書店)を読むと、狩猟や信仰のためでなく、探検(科学的調査、地形確定、領土確定など)のための登山が始まったのは、ヨーロッパでは18世紀末(モンブラン初登頂の頃)から19世紀前半にかけてのヨーロッパ・アルプスであるという。

 これが19世紀後半にイギリス人を中心とするスポーツ登山に発展し、19世紀中には、ヨーロッパ・アルプスの未登峰がすべて登られ、この後、ヨーロッパの登山家は海外の未登峰を求めて、東はヒマラヤ、西はアメリカへと進出していったという。

上記のマッキンリーとアコンカグアの初登頂は、そのひとつの成果といえよう。一方、ヒマラヤへの進出は、第2次世界大戦後にすべての8000m峰の登頂という成果を生み出した。

  2)登山状況
 今回の登山中に出会った日本人は10組、20人ほどである。群馬労山5人、姫路山友会5人、関西の2人組、アラスカの旅行会社のツアーで来ていた2人組(夫婦だろうか。我々が吹雪の中を下山してきたときに、3300m のテント場でテントの中から首を出して話しかけてきた)、若者2人組、単独行2人など。

 マッキンリーは厳しい山であり、日本からはなかなか行けない山だと思っていたが、日本からこんなに多くの登山者が来ているとは、意外だった。また、単独行の登山者がいたのにも驚かされた。

 ところで、1994年のマッキンリーの年間登山者数は 306隊、1277人(うち、単独登山16人)であり、登頂成功者は 573人、成功率44.2% である。この年は悪天候が続いたために成功率がやや低かったもよう。平年であれば50% 前後である(以下、山と渓谷社「山岳年鑑」による)。

  登山者の内訳はアメリカ人 707人、外国人 570人。うち、日本人51人。

  また、これらのうち、ウエストバットレス・コースを登った登山者数は1067人で、うち登頂成功者は 493人、成功率は 46.2%である。

 次に、登山者数を過去の趨勢で見ると、1980年代の前半は 600-700 人の規模であったが、1987年には 800人台を、1990年には1000人台を記録し、かなり大幅に増加している。

 これらから推計すれば、過去における日本人のマッキンリー登山者数は、比率5%、1980年以前は年間10-20人と見て、累計で2000人程度であり、登頂者数は累計で1000人程度と言えようか。

  なお、南米・アコンカグアの登山者数は年間2000人前後と推定されており、マッキンリーよりは若干多いようである。やや古い統計だが、1989年末-1990年初にアコンカグアに正規に登山の申請を行った隊は 353隊1244人、うち日本人は24隊だったという。

 3)マッキンリーの天候
 マッキンリーを中心に広がるデナリ国立公園において、夏にこの山が完全に見える日は10% 前後に過ぎない。登山の適期である6月を例にとれば、完全に見える日は1993年で10%(1992年14%)であるのに対し、部分的に見える日は66%(57%)、まったく見えない日は24%(29%)となっている(デナリ国立公園内のアイルソン・ビジター・センターにおいて)。

 これを頂上アタックとの関係で見れば、完全に見える日の頂上は快晴でありアタックがしやすいと言えようが、部分的に見える日のほとんどは、頂上が強風や吹雪でアタックが難しいと思われ、アタックしやすい日はかなり少ないように思われる。

(登山家の記録から)

1)田部井淳子(女性として、世界で初めて七大陸最高峰に登る)      
 1988年 6月14日、女性3人でマッキンリーに登り彼女ともう1人が登頂に成功した。デナリパス(5550m) にテントを張る。10時40分スタート、快晴、微風の中、17時20分に頂上に達した。

 前日は、一旦はスタートしたものの、あまりの強風で前進できず、引き返している。
  この間、エベレストほか、8000m 峰10座に登頂している山田昇氏と偶然一緒のコースをたどったという。氏は8ケ月後の厳冬期にこの山に再度登り、遭難している。

なお、彼女達はBCのほかに、C1(ウエストバットレス上。4900m)、C2(ハイキャンプ) 、C3(デナリパス) とテントを張ったが、我々の場合はC1,C3 の場所には泊まらず、その日のうちに通過している。
          「七大陸最高峰に立って」(小学館)より
            
2)植村直巳(日本人初のエベレスト登頂者。1984年 2月にマッキンリー冬期単独登攀に挑戦し、登頂後、遭難)
 1970年 5月11日にエベレストに登頂。その後の1970年 8月26日、マッキンリーに単独で登頂。このときの記録は次のとおり。

 ハイキャンプ8:30発、15:15 頂上。
 雨のためにタルキートナで2日間待たされ、 8月17日にランディング・ポイントに飛ぶ。17日、18日は悪天候で同所に停滞。19日に25kgの荷を背負い出発。クレバスへの転落防止のために旗竿を腰につけて歩く。2500m 地点でツェルトに寝るが、猛吹雪で雪に埋まりかろうじて脱出。20日、21日と吹雪。同じところに雪洞を掘って停滞。22日は雪の中を磁石を頼りに3300m 地点まで登る。23日、BCへ。25日、ハイキャンプに到着。26日登頂。27日、ランディング・ポイントまで一気に下る。31日、エアタクシーでタルキートナへ帰着した。
                 「青春を山に賭けて」(文芸春秋)より

 3)ディック・バスとフランク・ウエルズ
51才と50才の素人が七大陸最高峰への挑戦を決心。フランクは、そのために映画会社ワーナーブラザーズの社長を辞職する。
 6月中旬にガイド同伴でマッキンリーへ(1ケ月前にエベレストに挑戦したが、これは失敗。後にディックのみ成功)。

 荷は一人30kg前後を背負ってランディング・ポイントをスタート。BCでは吹雪で3日間停滞。その他に1日はハイキャンプへの荷上げで使う。更にハイキャンプでも吹雪で3日間停滞し、食料が底をつく。キャンプ最後の日はキャンディーバーだけの夕食をとる。
 翌日、深雪と強風の中をアタックし登頂に成功する。ハイキャンプと山頂の往復には16時間を要した。
       「7つの最高峰(SEVEN SUMMITS)」(文芸春秋)より

(アラスカ寸描)                             
1)その歴史
 ・アラスカの土地は、アメリカが1867年にロシアから 720万$(当時のアメリカの国家予算の1/3)で買ったものだ。当時、ロシアはクリミア戦争で疲弊していたが、毛皮等の資源を捕り尽くしたという判断も加わって、この土地を手放したという。

 ・その後、アラスカでは金鉱が発見され、ノームやフェアバンクスはゴールドラッシュに湧いた。
 ・スワード、アンカレッジ、フェアバンクス間、全長 756kmのアラスカ鉄道はこの頃(1923年) に敷設された。

 ・第2次大戦中には、日本軍の上陸に備えて、カナダの中央からフェアバンクスに通じるアラスカ・ハイウエイが建設された。
 ・更に、1968年には北極海で大規模な油田が発見され、石油を太平洋側に運ぶために全長1287kmのアラスカ石油パイプラインが引かれる。

2)観光のポイント
 ・観光の目玉は自然。夏にはマッキンリーへのフライト、ホエール・ウオッチング、海にせまる大氷河へのクルーズなどが楽しめる。デナリ国立公園等ではキャンピング、トレッキングができる。アラスカの原野でフィッシング、ラフティングをやるのもよい。

  野性の熊(グリズリー)も見たいものだ。
 ・冬は何といっても、オーロラ観測。オーロラは年間日数の2/3 の確率で出現するが、見られるかどうかは天候次第という。

 ・アラスカ鉄道も魅力のひとつ。
 ・アラスカの北辺には道路が通じていない町が沢山ある。交通手段は小型飛行機。そんなまちにも行ってみたい。

<おわりに>

 50才を過ぎてから海外の山に登り始めたが、これで、五大陸最高峰のうちで、キリマンジャロ(1991年。アフリカ大陸)とマッキンリー(北アメリカ大陸)に登り、モンブラン(1988年。ヨーロッパ大陸)とアコンカグア(1993年。南アメリカ大陸)に途中まで登ったことになる。

 残るは、アジア大陸のエベレスト。しかし、これに登るのは、私には無理であろう。いつか、5千数百mのエベレストのベースキャンプまで行って、五大陸最高峰めぐりを締めくくることとしたい。

 最後に一言。いつまでも夢を見続けていたいので、付け加えておこう。
 「次は是非、8千m峰に挑戦してみたい」。世界にはエベレストを初めとして8千m峰が14座ある。その中のひとつに挑戦するチャンスがめぐってこないものだろうか。 
 無理だな---、でも、ひょっとして--。1996年夏に思う。

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