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アコンカグア その3

<登山あれこれ>            

(初めての高所登山経験) 
                        
  初めての長期間のテント生活である。今までにテントで寝たのは、国内山行でのほんの数回。しかも毎回、1-2泊である。それが今回は、高所に連続14泊。

 緑のない岩山なので、土ぼこりが舞い、衣類も、シュラフも、ほこりにまみれた。

 ときおり強い突風が吹く。隣のテントがひとつ吹き飛ばされた。銀マットが吹きあげられて、岩壁を駆け上っていく。かなり経った後、数百mの高さでキラキラと光っているのが見えた。

 連日ほぼ快晴。BCでは、昼は暑く、半袖の人もいるくらいだが、太陽が沈むと急に寒くなる。しかし、厚着をすれば、寒くはない。

 下着は一回代えたきり。空気が乾燥しているせいか、それほど気にならない。しかし、シュラフの中はさすがに臭くなった。                 
                                     
 1日に2-3回はリップクリームをぬる。ぬらないと、唇が乾燥してひび割れができ、ひどくなると痛くて食事がとれなくなる。何回か痛くなった。少し痛くなると、すぐぬるようにした。

 日中の紫外線も強い。登山口からBCまで歩くのに、顔は帽子と手ぬぐいで覆っていたが、手は日ざしにさらしたままで歩いた。2日目にはストックを持っていた右手の甲が、火傷と同じように真っ赤になり、痛くなった。

 女性は日中、日焼けを防ぐために顔をすっぽりと布でおおっている。顔に包帯を巻いているような感じで、異様だった。

(BCの日本人)
                             
 BCには約100 張りのテントがあった。そこに滞在する登山者は200 人位はいたであろう。地元・アルゼンチンの人が多かったが、ヨーロッパからもかなり来ていた。アメリカ人が少なかったようだが、英語が通じないためだという人がいた。

 この時、BCにいた日本隊は5隊。その他に、単独行の日本人が何人か来ていた。
大学を1年休学してやってきた21才の青年。3月まで休職とし、ここのほかにパタゴニアやギアナ高地も回るという30才の青年。30才から3年間で世界を一周しようという青年。彼は青年海外協力隊員としてパプアニューギニアに行っていたが、それを終えて日本に帰ったところ、文明生活に適応することができずに、再び放浪の旅に出たという。
また、62才のおばあちゃんにも会った。なんとしてもアコンカグアに登りたいと、孫のような若者一人を供に連れてBCとC1 との間を何度も往復し、高所順応に励んでいた。

 これを書いているときに、BCで会った単独行の男性の一人から、4月4日付・ウルグァイ発の絵はがきが届いた。BC撤収のときに、残った大量の食料を無料であげたお礼である。といっても、食料は隊のものだったのだが。あれから3ケ月もたっているのに、彼はまだ、南米を放浪しているようである。

 私も、放浪の旅にはたいへん魅力を感じる。でも、いったん始めたら、その魅力にとりつかれて、抜けられなくなるのではないだろうか。

 (BCの青いテント)
                          
 BCにはいくつかの青いテントが並んでいた。「飲み屋」である。夜になると登山者で満員。夜中までにぎわう。そのうるさいこと。とくに大晦日の夜はにぎやかだった。私達は、飲みにいくこともなく、いつも8時か9時には、シュラフにもぐりこんだ。

 (高山病)
                               
 BCには数日に一回位の割合で、朝がた、軍のヘリコプターが飛んでくる。いつも2機一緒だ。重い高山病にかかった人を運ぶためである。飛んでくる音が聞こえると、隊員は皆、食事中であっても、食事をほうりだしテントを飛び出していく。
他のテントからも沢山の人が飛び出してくる。皆カメラを抱えて、着陸地点の周りの小高い丘の上から見物する。

 ヘリコプターの世話にはならなかったが、わが隊でも高山病にかかった人が何人かいる。
BCに到着した日に意識不明になり、酸素吸入をうけたのはWAさん。HAさんも、それほど悪化はしなかったが、体調不良で結局最後のアタックには参加しなかった。
WAさんは、いったん数百m下山し無人の河原に一人でテントを張って一泊。体をならしてから再び登ってきて調整を続け、最後には登頂に成功した。

 その他、高山病らしきものにかかったのはYAさんと私。YAさんはC2 で泊まったときに、頭痛薬と睡眠薬を一緒に飲んで夜中に息苦しくなり、Kさんの介抱を受けた。
私は前に書いたように、アタックのときにおかしくなった。また、TAさんはメンドーサのまちでひいた風邪が、BCにいる間、直らずに、アタックを断念した。風邪は、かかった所より高い場所に留まっていては直らないという。

 こんなこともあった。C1 のテントにいたときのことである。隣のテントのスイス人が高山病でダウンし、その仲間から無線連絡を頼まれた。BCに残ったTAさんに連絡し、そこにいる彼らの仲間を探してきてもらい、仲間同士でお互いに話をさせたのである。

 なお、私達が滞在中に、他の日本隊のうちで、ヘリコプターで運ばれた人は1人、下山後に現地で入院した人は3人だった。
 
 このことは、一緒に行った南米専門の旅行会社・ポーラーエクスペディションのSAさん(彼はBCまで来て引き返し、帰りは登山口に沢山の果物を持って迎えに来てくれた)が教えてくれた。
             
 とにかく、ここでは、高山病は身の回りで日常よく起きる出来事のひとつになっている。

(食事)
                                 
 BCでの食事は、私達が張った3つのテントに囲まれた広場で食べた。

 いつも、料理のチーフはYAさん、サブはTARさん。本日の料理を何にするかを決めて、中心になって作る。その他の人も、2人にばかりまかせておいては悪いので、灯油コンロの点火やジャガイモ・人参の皮むき、肉切り、水くみ、食器洗いなどをして、できるだけ手伝う。
私は、大晦日の年越しそばをつくるのを手伝った。しかし、これは失敗。
ゆであげたそばをそのまま熱いつゆに入れ、やわらかくしてしまったうえに、苦くて固い葉(何という野菜だったか)をつゆに入れ味をおとしたのだ。作った自分でさえ、まずくて残してしまった。せっかく皆が楽しみにしていたのに---。

 朝はラーメンに餅、夕食は、いわしの缶詰をいれた炊き込みごはんやジャガイモ・人参などの入った野菜のスープである。その他、10kgに近い大きな牛肉の塊を現地で仕入れ、切り取って焼いて食べた。食事のおいしかったこと。14人もいるので、早く食べないと無くなってしまう。
2杯目は早い者勝ち。いつも、なくなってしまうのではないかとややあせりながら、競争で食べた。昼食が行動食で粗食だったせいもある。

 あと、美味しかったのは、乾燥したものを水で戻す「きなこ餅」。日本で買ったもの。一袋約300 円で8個入っている。1分で戻る。とろりとしたその味は何とも言えない。その他では、KA隊長のおすすめ品、モツの煮込みのレトルト食品だ。C2 で味わった。これもいける。

 飲み物は、コーヒー、紅茶に、梅茶、こぶ茶。大量に日本から持参した。どれもパック入りである。毎食後、どれにしょうかと選ぶのが楽しかった。意外に、甘いものよりは梅茶やこぶ茶のほうが口に合った。
                                     
 昼食は毎日、飴やクッキーだけの行動食である。これは初めての経験。その中で、チーズかまぼこ、せんべいなどはまあまあ食べられたが、クッキー類やカロリーメイトはパサパサしていて、どうも口に合わず、行動食が美味いと感じたことは一度もなかった。
国内での山行の昼食は、日帰りなら必ずおむすびを持参する。小屋泊まりなら弁当を小屋に頼む。御飯は力の源という思いがあるし、水気のある塩味の食べ物なので、この行動食に比べたら、おむすびは格段に美味しいものである。

(グループ登山のメリット)
                        
 グループ登山のメリットを次のように充分享受させてもらった。

・ 事前の渡航手続きや食料の調達を他の人にやってもらった(KA隊長が主にやってくれたようである)。

・ 英語やスペイン語を必要とする現地での入管手続きや入山手続きも自分でやらなくてすんだ(旅行会社のSAさんがやってくれた)。

・ キャンプでの食事も他の人に作ってもらった--朝などは寝ているうちに出来上がり、起こされることもあった(もっとも、いつも、ぼんやりと出来上がるのを待っていたわけではない。できるだけ手伝うようにはした)。

・ 専門知識を必要とする高所順応の計画も含めて、登山計画を作成してもらった(8千m峰にも登り、豊富な経験を持つKさんの力に負うところが大きい)。

・ 高山病にかかったとき、助けてもらった(これもKさんに依存。私も助けられた)。                                
  
一人で行くとすれば、これらは自分ですべてやらねばならないのだ。

                           
          <視覚障害者との国際交流>
         
(アコンカグアに奥さんと二人だけで登った視覚障害者のノルベルトさんにインタビュー)
                                   
 BCで視覚障害を持つオーストリア人の登山家フリュシュテック・ノルベルトさん(MR.FRUEHSTUECK NORBERT)夫妻にお会いし、いろいろ話を聞く機会を得た。
                                     
 彼は55才。スポーツマンのためのマッサージ師である。1970年に自動車事故で視力を失ったが、それまでは体操の先生をしていたという。日本体操界のオリンピック代表である小野選手を知っていると話していたので、体操の選手だったのかもしれない。奥さんともども大柄でがっちりした体格である。

 夫妻は二人だけでベースキャンプの小高い所に赤いテントを張っていた。そういう人が来ているという噂を聞いたので、隊の人に通訳を頼み、羊羹や日本のはしをおみやげとして二度ほど訪ねていった。外国の視覚障害者の方と話すのは初めてである。

 まず、山歴を聞く。
 主要なものをあげれば、1974年モンブラン、77年キリマンジャロ、83年マッターホルン、90年ブアナポトシ、91年ルウェリンゾなど。海外には数年おきに出かけているようである。今回は、エクアドルのコトパクシ(5,897m)、チンボラソ(6,267m)に登った後、こちらにやってきたという。

 このほか、オーストリア国内を中心に無数の山に登っており、その数は既に2千を超えている。今回の山行に備え、去年も70回以上の山行を試みたという。「太陽により近づくことに大きな喜びを感じる」と大きな声で話す言葉から、山にかける強い情熱がうかがえた。いつも晴眼者の奥さんと二人だけで登っているという。

 私は、視覚障害者と晴眼者が一緒に登山をする東京の「六つ星山の会」に入っている。会員は約3百名。大阪や京都にも同じような会があり、年一回の交流会も持たれているが、オーストリアにも、このような山の会があるのだろうか。「ない」との答えであった。
彼らは皆、家族や友人のサポートで山に登るという。「いままで行った海外の山で、視覚障害の登山家に会ったことがありますか」と聞いたが、これも「ノー」ということだった。日本には、「六つ星」のような山の会がいくつかあるが、視覚障害者の登山が少しは普及している国といえるのかもしれない。

 聞きにくかったが、費用の点を聞いてみた。二人でしばらく数えていたが、「1万2千ドル」(百万円強)との答えが返ってきた。往復の旅費も含め、7週間、二人で南米の山を回遊する費用である。割りと安い。ヨーロッパは南米に近いし、泊まりはテント泊が多いからであろう。

 1984年には山に関する著書も出版しており、今年も一冊書く予定だという。

 娘さんが二人おり、ひとりは京都で日本語の勉強中。そのせいであろうか、日本への関心はたいへん高く、二年後には日本に来て、是非、日本の山に登りたいとのことだった。日本の山のベストスリーやその高さを熱心に聞いていた。

 そのときに、日本の視覚障害者の方々が一緒に登山をし、懇談の機会が持てたらよいのにと思った。                             

               <旅を楽しむ>           

 好奇心が強く、何でも見てやろう、経験してみようという気持が強い。思い出になるものをできるだけ持って帰ろうという思いもある。そのために、旅先では何にでも首を突っ込む。
 今度の山行でも、いろいろなことを積極的にやってみた。

(ニューヨーク見物)
                           
 ニューヨークでの乗り継ぎでは半日ほど余裕があり、ニューヨーク見物に出かけた。長時間飛行機に乗っていて疲れていたせいか、14人のうち4人しか参加しなかったが、私は「行こう、行こう」と皆をさそったほうである。
行ったのは、DO、NA、YA、私の4人だけ。滞在時間が限られていて見物できる時間は3時間。まず、DOさんの希望でメトロポリタン美術館にタクシーを乗り着けたが、残念ながら休館。そこで、横にあるセントラルパークへ。
雪がうっすらと積もっていて、静かで美しかった。家族連れや犬を連れた人が散歩をしている。不思議な国のアリスの銅像がある。鳩が舞う。売店でパンを買う人達ーーー。危険の多いニューヨークと聞いてきたが、とても穏やかだった。

 それから摩天楼の下を歩く。ザックを背負ったままである。12月の25日なので、クリスマスのミサをしている大きな教会に入ると、司祭が入口で私達を祝福してくれた。
 エンパイア・ステイト・ビルに登る。1人3.75ドル。はるかかなたに「自由の女神」の像。

(メンドーサ見物)
                            
 アルゼンチンはスペインの植民地だったので、すべてスペイン風。その中で、登山の基地になるメンドーサは人口60万人。碁盤の目に街路が走り、街路の両側と公園には、日差しを通さないほどにうっそうと樹木が茂る。
町の中心には、幅が広くて銀座のように賑やかなサンマルティン通りがあり、銀行や商店が軒を連ねる。繁華街を少し離れたところには、いくつかの教会、公園。道路に面した家々はスペイン風。暑くて、空気が乾燥しているせいか、ややほこりっぽい。

 人々の風習が日本と違う。午後は長い昼休みがあり、商店は4時頃まで店を閉める。逆に夜は遅くまでにぎわう。午後の11時頃でもレストランは人で一杯。子供連れも多い。

 このまちでも、同じ部屋のWAさんやDOさんと出歩き、また、一人でもあちらこちらと歩き回った。到着の翌日、朝食前に、WAさんと歩いたときは、小さな売店で絵はがきを買った。
当地はスペイン語の国。店のおばさんとは話がまったく通じない。手まねで買い物をした。何事も経験と、次は喫茶店に入り、これも手まねでコーヒーを頼み、店のボーイに、飲んでいるところを写真に撮ってもらった。

 郵便局に絵はがきを出しに行ったときは、とまどった。切手を買いたいので、窓口に絵はがきを見せると、別の窓口を指さされたが、そこへ行くと、また別の窓口を指で教えられた。うろうろしていると、ちょうど運よく日本人の観光客がやってきて、出し方を教えてくれた。
切手を買うところを探していたのだが、切手は張らないで、スタンプを押して出す方式だったのである。

 昼食、夕食は全員で外に食べに出た。毎回ほとんど、ステーキ。そのステーキの大きかったこと。皆は全部たいらげたが、私は食べきれなかった。

(マスダさん)
                              
 メンドーサ郊外に住む日系人の農家。日本からアコンカグアに行く登山者がかなり世話になっているようだ。空港には、娘さんが迎えにきた。滞在手続などを頼んだのであろう。
登山に不要な荷物を預けにその家に寄ったが、マスダさんと並んでいる植村直巳、三浦雄一郎などの写真が壁に飾ってあった。 

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