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南米大陸最高峰・アコンカグア(6959m)への挑戦

1993年12月25日-94年1月16日

     南米大陸最高峰・アコンカグア(6959m)への挑戦

       - 6200m地点で高山病のために登頂を断念-

 

   注)本稿はブログに当初掲載の「アコンカグア NO1-NO4」を集約し改題したものである。

(登山口・2900m)

Image0006 (前方の白い山がアコンカグア)

(3800m)

(4800m)

Image0013

(上:5000m付近)

(5200m・C1)

Image0010

(上:ニーデ・ド・コンドル - 標高5400mにある広大な台地)
(下:6200m付近)

Al003_063

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写真および地図を掲載します。最初にこれを見ておくとイメージがわきます(クリックは1回で。しばらく待つと写真が現れます)。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/slmNMD/photo?authkey=5FhySmcLSE8#s5171425108444348274            

(参考「私のブログの記事一覧」)

 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回のサンティアゴ巡礼(フランス人の道、ル・ピュイの道、ポルトガル人の道、北の道)、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の海外登山記、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の国内登山記、④「読書の楽しみ」、「毎日、無事平穏」等の日常の思い、⑤シベリア鉄道等の海外旅行記の5つです。記事の一覧は下記をクリックするとみることができます。

 ブログ・私の登山および旅行記・記事一覧

<アコンカグアの紹介>           
 
 七大陸最高峰のひとつ、南米大陸の最高峰であり、大陸の東部を縦に貫くアンデス山脈のアルゼンチン側にある。標高は6,959m。車が入るのは2,750m地点まで。ここから登り始める。

 Aconcagua は、現地のアイマラ語で「石の番人(The Sentinel of Stone.スペイン語では El Centinela de Piedra)」という意味だが、その名が示すとおり、全体が岩山であり、草花が見られるのも4,000m位までで、それ以上は周りの山と同様に樹木はまったく存在しない。950 万年前までは火山として活動していたという。

 世界にある7,000m前後の山の中では、危険な箇所が少なくて登りやすい、と言われている。北面のノーマル・ルートであれば、夏は雪がほとんど無いし、また、ザイルを必要とする岩場もない。

 登る場合の問題は高度順化。同じところを何度も登り下りして高度順化をはかるのだが、日数の関係もあって、人によっては完全に順化する前に登ることになる。

 また、天候も問題。夏は通常は晴天が続くが、数年に一度位の割合で天気が崩れることがあるようだ。そのときは吹雪いて一般の登山者は登れない。
 幸いにして今回は2週間、晴天続きであった。

 初登頂はスイス人マシアス・ツルブリッゲンである(1897年1月14日。隊を組んで遠征し、私達も今回たどったホルコネス川を遡る。当日は単独登頂。後日、仲間も登頂)。

  また、4,200mのBCから頂上まで、普通だと2日はかかるが、これまでの最短記録は5時間45分である(1991年) 。
          
 わが隊では今回、SEさんが、BC・山頂間を一日で往復するワンデイ・アセンドに挑戦し成功したが、頂上に達するまでに約12時間を要したようである。また、K副隊長は、約10時間で頂上に達している(その後、C2 に一泊)。

 その他、1986年にはフランス人のグループが自転車での登頂に成功したという記録もある。
                    
                      <出発まで>
            
(やっと行けることになった!)

 5,895mキリマンジャロに登り、次は、それより高くて、しかも、登れる可能性のある山ということで、アコンカグアへ行こうと1年以上も前から考えていた。七大陸最高峰のひとつであることも目標にした理由である。
 前年に行こうとしたが、「お正月に家を留守にしないで」と家族に言われて、一度は断念。今回、やっと同意を取りつけた。

 行けることにはなったが、今度は、アコンカグア行きのツアーがなかなか見つからなかった。前年にこれを主催した(株)イーストツアーは、つぶれたようだ。
 そのときのツアーリーダー遠藤晴行氏に電話をしたが、ことしは別のツアー(アイランド・ピーク)に行くという。

 9月頃になり、やっといくつか見つかった。東京観光(株)のツアー、895,000 円、12月25日-1 月15日。川崎市教員登山隊の公募登山、700,000 円、12.22-1.9 。日本勤労者山岳連盟(労山)の会員登山、650,000 円、12.25-1.16。結局、最も安く、高所順応にも時間をかけるという労山を選んだ。             
    
 労山主催の山行に参加するには、単位山岳会への加入が条件だった。労山の事務所に電話をすると、神田に「ぶなの会」という山の会があるという。早速、リーダーのⅠさんに電話をして入会した。
                    
 次は、登山用品の準備である。冬山の装備が必要だというが、ほとんど持っていない。プラスチックブーツ(4万円)、マイナス25度まで耐えられるシュラフ(4万円)、65L のザック(3万円)、オーバーズボン(2万円)、厳冬期用ズボン厳冬期用上着、汗を吸わない化繊の下着、冬山用手袋、目出帽などをそろえた。労山を通すと、参加隊員はモンベルの製品が45% 引きで買えた。

 事前の体力作りも心掛けた。それまでのトレーニングをややレベルアップし、休日の水泳は、一回が2,000m前後であったのを3,500mに、ときには5,000mに引き上げ、ウィーク・デーの昼や夕方にも泳ぐこととした。
 休日の水泳では、自転車でプールを往復していたのをジョギングで行ったりもした(今にして思えば、トレーニングをもっと計画的に、しかもハードにやるべきだったと反省している。それが、14日間の山行の最後にスタミナ切れをまねき、後述のように呼吸困難に落ちいった一因と思われる)。

 (事前3ケ月間の体力作り一覧)
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(労山隊への参加者)

 参加者は14名。うち、女性2名。年齢の最高は、私ともう一人の56才。20才代が1人、30才代が4人、あとは40-50才代である。また、隊長、副隊長は、海外登山や国内冬山登山の経験が豊富なエキスパートであり、その他の人達も、冬山や岩登りの経験がある人が多く、うち数人は、ポピュラーな海外登山も経験している。
 冬山の経験がなく、夏の3,000mや春秋のハイキングが中心という一般レベルの参加者は、私だけのようだった。職業は公務員5人、会社員6人など。

 KA隊長は42才、ハンテングリ7,010m登頂のほかに、いくつかの海外登山の経験者。K副隊長は52才で、ハンテングリチョー・オユー8,201mレーニン峰7,134mマッキンリー6,194mなどに登頂したわが国有数のクライマーである(今回は顧問格として参加。このあと、すぐにシシャパンマ8,008mに遠征し登頂に成功。後年、エベレストにも登頂)。
 このほか、モンブランに登った人が4人、キリマンジャロ3人、マッターホルン1人、ネパールのカータン峰6,782m1人、ペルーのチョピカルキ峰1人などと多彩だった。

(隊による山行準備)
                           
 ○準備山行・その1 遠見尾根-五竜岳-八方尾根  13名        
           1993.11.20-21
             
                                     
 ロープウエイに乗るときにザックの重量を計ると20.5kgあった。今までに経験したことがない重さである。
 それを背負い、1時間に10分程度の休憩をはさみながら、五竜山荘まで標準5時間のところを約4時間というかなりの早さで登る。
 小雪模様。積雪は少ない。付いていくのがやっとであり、最後は50cm前後の段差を登るのに足がふるえた。
 なんとか遅れずに到着したものの、たいへん疲れた。3つのテントを張る。食事はひとつのテントに全員が集まって食べた。狭くて窮屈なことこのうえなし。夕食後、ひとりひとり自己紹介をする。

 朝、空身で五竜岳を往復。雪の急斜面を登る。急斜面の帰路はややこわかった。はしごを降りるように雪面に前向きに対し、ピッケルを雪に突き刺し、アイゼンの前歯をけりこみながら、ゆっくりと慎重に降りる。滑れば、黒部の谷底へ一直線である。

 帰りは八方尾根へ。白岩を超えると鎖場あり。唐松山荘からの下りはやけに急いだ。先頭のYAさんが何故かとばしたからである。
 夜はシシャパンマに参加予定のKU氏(58 才) 経営のロッジに泊まり山行の打合せ。

                              
 ○準備山行・その2 富士山  12名                  
           1993.12.11-12
             
                                     
 山頂まで行く予定であったが、突風が吹き荒れ危険なために、冬季閉鎖中の8合目「東洋館」の横にテントを張り、泊まる。

 テントの中で午後1時から翌朝の7時まで過ごす。夜の長かったこと。
 強風は夜中吹き続け、テントがバタバタとひっきりなしに音をたてる。突風が来ると、フライシートがテントをたたき「バーン」と大きな音がする。

 外に出ると体が風で飛びそう。すぐ下は断崖である。ピッケルで支えながら用をたす。夜中に起きて外に出るのはたいへん。NAさんが何回か起きて、テントのまわりに積もった雪をかいてくれた。

 翌日は好天。続々と冬山装備の登山者が登ってくる。おおよそ100人。
 我々は遠くに帰る人もいて、そのまま下山。登れそうだったのに残念だ。
 登山道をはづれ、凍ってツルツルの雪の斜面をアイゼンを効かしながら下りる。爽快だった。

 ○共同装備のパッキング作業(相模労山のオンボロ事務所にて)  8名   
           1993.12.19
                
                                     
 登山中のテント生活の食料は、すべて日本から持参する。主食は、アルファ米、餅、インスタント・ラーメンなど。ほかに、正月を迎えるための年越しそばとおせち料理。また、行動食として、飴、せんべい、チーズかまぼこ、カロリーメイト、駄菓子なども持参(昼食兼嗜好品。登山中は昼食はない。これが昼食の代わりになる)。

 行動食は一食ごとに一人前づつ袋に入れた。次に、これらをテントやナベも含めて、30kg単位で梱包。海外の大きな山に行くには、こんなことをやるのだということが体験できて、なかなか面白かった。
                                     
(出発を前にしての感想)

 今回の登山はかなり厳しいようである。登れるだろうか。不安は尽きない。
 登山にウエイトを置くようになって15年ほどになるが、登山は素人。山の登り方を誰かに習ったことはない。普通の登山については長く単独登山の経験を積む中で、服装や持ち物、危険への対応の仕方等をある程度覚えたが、本格的な冬山や岩登りについては全く経験がない。
 それに胃腸の調子があまりよくない。テントでの2週間、体調が維持できるだろうか。こんなに長いテント生活は経験したことがないのだが。

 自分の力の限界を超えているような気もする。でも、ロッククライミングの練習も始めたし、ここまできたら、やるしかない。ただし、あまり肩ひじをはらないように注意しょう。山頂まで登れなくても、楽しむ気持を。-出発前に記す-

(日程・実績)
 
12月25日 成田発、ニューヨーク、チリのサンチャゴ経由、
      26  アルゼンチンのメンドーサ空港へ。
      27  メンドーサにて登山手続き、食料買出し。
      28  標高2750mのプエンテデルインカのホテルへ。     
      29  登山開始。3300mのコンフランシアへ。テント泊。
      30  4200mのBCへ。
    31-9日 BCとC2(5800m)の間を3回往復し、高度順化を行う。
1月10日 頂上アタック。
      13  BC撤収、メンドーサへ。
      14  空路、メンドーサ発。
      16  成田着。

<登る>            

(12月29日、登山開始)
 
                              
 2,750mプエンテ・デル・インカのホテルから歩くところだが、車で10分ほどの車道の終点まで運んでもらった。そこは広々とした谷間。草原状の平地にテントの登山事務所がポツンと立っている。
 ここまで来ると、谷の奥はるか彼方に雪をまとったアコンカグアが初めて望めた。「見えた」と期待に胸がふくらむ。周囲はすべて岩山。朝日をあびて、真っ青な空に高くそそり立っていた。

 今夜の泊まりである3,300mコンフレンシアに早めに着く。ガウチョ(地元のカウボーイ)がオレンジ・ジュースを一杯づつふるまってくれた。
 皆、のんびりと過ごす。私は、持っていったスケッチブックを取り出し、アコンカグアの写生を始めた。アコンカグアは、前面の黒々とした大きな山の上に、ほんのすこし顔を出している。
 スケッチを画き終わっても、まだ日は高い。皆は日あたりのよい斜面で昼寝中。私もマットを取り出し横になる。ガウチョが連れてきたムーラ(馬)の糞の臭いが漂う。刺のある枯れ草が皮膚を刺して痛い。日差しが暑かった。
  
 夕方になり、昼は簡単に渡れた幅4-5mの川が増水し、対岸に到着した人達が、女性も含めて、濁流に腰まで漬かりストックを頼りにしながら渡ってくる。昼の好天で上流の氷河が融けたためだ。テントのあるこちら岸の人が何人か面白がって、わざわざ見物に行く。写真をとる人もいる。私も見物に行った。

 きょうだけは食事を地元の人に頼む。夜は、ステーキ。ガウチョが岩かげで焼いてくれた。

 それほど寒くはない。晴れていて雨の心配はなさそう。テントの中は満員なので、独りで外に出てシュラフで寝ることにした。何事も経験。異国の空の下で寝るなんて、めったにできることではない。
 寝る前に、SEさんが南十字星を教えてくれた。菱形に4つの星。光は弱い。ほかにも同じような形の星がいくつかある。
 一晩に何回も目が覚めて、その都度、南十字星を眺めた。夜半に月が出る。こうこうとして、たいへん明るい。満月のようだ。まわりの山々が夜空にくっきりと黒くそびえて見えた。この夜に見た流れ星はひとつだけ。

(12月30日、BCへ)
                                
 きょうはコンフレンシアから4,200mのBC(ベースキャンプ)まで。               
 谷を延々とさかのぼる。せまい谷間は初めだけで、あとは河原の幅が広くなる。200-300mはありそう。広々とした平地にいるような感じだ。
 長時間、河原の砂利の中を歩く。時々、氷河から流れ出た濁った川を飛び越す。水量はわずかだが、それでも幅は2-3m、深さは50cmはあり、幾筋にもなって流れている。

 時々、登山者の荷を運ぶ数頭のムーラ(馬)が追いぬいていく。
 暑い。日差しは強い。
 きのう食べた夕食の肉のせいだろうか、腹痛が続く。
 河原の中に壊れた小屋あり。

 道は右の川岸に移り、登りにかかる。これを登ればBCだという。砂利の中の急登。疲れが増す。Kさんが付き添ってくれた。息を強くはきながら登る。国内でいつも泳ぐときにやっている呼吸法だ。なんとか休まずに登りきった。
 下を見ると坂の登り口でDOさんが休んでいるのが見えた。                    
 登りきったところからBCまでは、まだ時間がかなりかかった。

(下:BC)Image0005 

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Image07_2      (BCにて。山頂はこの岩壁のはるか背後にあり、岸壁を左から回り込んで行く

(高度順応のために登り下りを繰り返す)
                  
 4,200mのBCにテントを張り、約10日間を高度順化のために使う。最初は4,800mを往復、次の日は5,200m(C1)を往復、次はC1 でテント泊、次は5,800m(C2)へ、またBCに戻るというやり方である。
                                                
  ゆっくりと、しかし休まずに登るのが自分の歩き方である。
 高度順応中は、隊長の指示で、私が先頭に立ち、隊全体がゆっくりしたペースで登ることが多かった。休憩は1時間に1度ぐらいの割合でとる。休憩だけを楽しみに、「あと少し。もう、あと少し」と思いながら黙々と登った。ザックの荷は、シュラフも含めて10kg位だったと思う。

 初めてC1 に泊まったときは、頭が痛くて眠れず、食欲を失ったが、一度BCに下りて、もう一度登り返すと、今度は頭が痛くなることもなく、食事も普通に食べることができた。それはC2 の場合でも同じ。

 結局、高度順応中に徒歩で登った高さを累計すると10,000m を越えた。

(高度順応のためのスケジュール表。実際とはやや異なる)

Dsc00738            
       
(2回目のC2 )

 C1とC2の間を1回往復したあと、再度C2 へ。C2 到着後、その日のうちに高所順応のため、全員で6,400m地点を目指した。
 天候はおだやか。寒くはない。空身でゆっくりと登る。真っ先に登り始めたが、隊の仲間に次々と追い越された。斜面のはるか上に、KAさんNARさん、その更に上に、YAさんTARさんが見える。下の方からはゆっくりとDOさんが登ってくる。
 午後4時には引き返すように指示されており、制限時間内に私が登ったのは6,200mまで。時間になったので、まだ少し余裕はあったが、DOさんと引き返すこととした。かなり下に下りてきたところで、NAさんが登ってくるのに出会う。ややばてているようだ。

 これ以外の人達は登り続けて、6,400mのコンフレンシア小屋跡まで登ったという。

 ところで、入山当初は、完登できるかどうか自信がなかったが、この試登の後は、「完登出来そうだ」と思えてきた。少なくとも、大クーロアール(ガレ場)のある6,800mまでは行けそうに感じた。
 問題はその後の大クーロアール。2歩登れば、1歩ずり落ち、登るのに2-3時間はかかるという。そこさえ突破できれば--。このときは、そんなことを考えていた。

 この日は全員C2 に一泊。DOさんは調子が悪そうで、夕食はほとんど食べない。私は、夕食は食べたが、夜は頭が痛くて、あまり眠れなかった。これまで経験したことのない高度に長くいたせいだろう。

 翌朝は食欲なし。本日はBCに一気に下るだけ。出発するとすぐに、ほとんどの隊員は駆け下っていった。こちらは、足取りが重く、ゆっくりとしか下れず、先を行く人達はみるみる遠ざかっていった。
 KA隊長が心配して途中まで付いてきてくれる。C1 から「3本槍」という岩場の脇を通り、更に下ると、散乱している何かの骨に出会った。馬がここまで上がってきて倒れたのだろうか。KAさんに写真を撮ってもらい、更に下り、皆からかなり遅れて、やっとBCにたどりついた。

(アタック計画)
                             
 アタックは、体力差を勘案し、3隊に分かれて行うことになった。
 第一隊は、BCから頂上を一日で往復する(ワンデイ・アセンドという)。SE(男・33才) 、MA( 男・29才) の2人。

 第二隊は、C2 で一泊し、翌日は山頂を往復して、BCまで下りる。男性4人(YA、NA、TAS、NAR)、女性1人(TAR)の5人である。

 第三隊は、C1 、C2 でそれぞれ一泊し、頂上往復後、C2 で泊まる。WA、DO、、それにサポート役のKA隊長の4人。

 風邪の抜けないTA氏(男性)と高山病のHA氏(女性)は登頂を断念。K副隊長は、一日で頂上を往復後に、C2 で第三隊をサポートすることとなった。
                                     
(頂上をめざして)
                           
 1月9日に3回目のC2入り 。翌日はいよいよ頂上アタックの日だ。起床時間は、歩き始めてからの時間に余裕を持たせるために午前3時と決められた。

 前夜、一つのテントに4人で寝たが、さすがにきつい。それに私の足が疲れのためか、ときどき「ピクン」とけいれんして他の人の足にぶつかるので迷惑と思い、夜中にそのテントを出て、料理用テントに移り一人で寝た。マイナス25度まで大丈夫というシュラフに入っていたが、一人だとさすがに寒くて、ほとんど眠れない。小用に起きると、寒さと強風がこたえた。
 眠れないまま、定刻の午前3時に起床。他の3人は寝坊をして、起きてきたのは3時半だった。朝食を準備。隊長から雪を取ってくるように言われてテントんの外へ出たが、睡眠不足と寒さで自分の動きが重く感じられた。雪を融かして、食事をとる。

 出発は5時。外に出ると、これまでにない強さで強風が吹き荒れていた。とても寒い。気温はマイナス20度位か。衣服は、上体だけでも下着から羽毛服や厳寒用上着まで6枚を着用。顔は目出帽で覆い、その上に耳まである冬季用の帽子もつけた。

 先導するように言われて、真っ暗な中を先頭で歩き始める。岩場やガラ場の中の道のため、ヘッドランプの明かりでは道がよく分からない。
 3日前に歩いているので、それを思い出しながら登ったが、ガラ場で迷う。直登したが、道を間違えてまた元に戻る。下から「こっちだ」という声がして、あせって、思わず歩くスピードが早くなった。

 睡眠不足と寒さとあせりのためであろう。いつもと違って、急速に足が重くなり、踏み出す力が無くなってきた。国内では、こんなときは、苦しいのを我慢して、ゆっくりと休まずに登り、なんとか登りきったのだが--。

 1時間が経ち、傾斜の緩いところに出る。夜が白々と明け始め、足元もかなり明るくなった。しかし、強風がまともに吹きつけ、一層、寒さが身にこたえるようになった。
 足が思うように前に出ない。気分も悪くなった。このあと最低でも頂上まで4時間はかかるだろう。それだけの時間を歩けそうにない。これ以上進んでから倒れれば、皆に迷惑をかける---。思い切って引き返そうと決心した。

 KA隊長からは、「あと一時間登って様子を見てからにしては」とひきとめられたが、一度ひるんだ心には、もう、その気力は残っていなかった。
 単独で下り始める。息が苦しい。寒い。下るのが大変しんどい。2,3歩、歩いては立ち止まる。手の先がしびれてきた。しびれが手から腕へと上がってくる。このまま、しびれてくるとどうなるのかという恐怖心も生じた。

 下にC2 のテントは見えるのだが、なかなか近づけない。20人位のアルゼンチンの軍隊とすれちがった。訓練として登るようだ。道わきの岩に寄りかかってやり過ごす。

 やっとテントにたどりついた。テントのわきに倒れこみ、「Kさん、苦しい」と中に何回か声をかける。入口を開けるだけの気力もなかった。

 KさんとNAさんに抱えられ、テントに引っばり込まれた。酸素ボンベはKAさんが持っていったので、ここにはない。NAさんが靴を脱がしてくれる。
 Kさんから、「呼吸の仕方が悪い。ゆっくりと深呼吸をするように」と言われた。苦しくなったので、ハアハアと短い呼吸をしていたが、それでは酸素が肺に入りにくいのだ。
 気持が悪くなり、テントの外へ吐く。
 30分位だろうか、横になっていたら、苦しさがとれて、やっと落ち着いてきた。

 後に、Kさんから、「水筒に水を1L入れたり、沢山副食を持ったりして、荷が重すぎた(ポットも持参。行動食のほかに、赤飯、ゼリー、干し果実なども。ただし、全部でせいぜい3-4kg程度だったと思う) 」、「ザックの背負い紐が細く、肩に食い込み血の循環を妨げた。手袋も小さく、これも血の循環を悪くした」と言われた。
 また、「これは本来の高山病とは違う」とも。注意をしていれば、防げたのかもしれない。あと、4-5時間だったのに。残念、無念! 「後の後悔」先にたたず、である。
                                     
(登山を終えて)
                             
 山頂まで行けずにBCまで戻ってきたときは、「とにかく終わった」というほっとした気持と、「やるだけはやった」という満足感で一杯だった。

 ところが、人の気持というのは変わりやすいもので、その後で、登頂に成功した人達がそのときのことを楽しそうに話しているのを聞くと、「残念だ。なんとか登りたかった」という思いで急に胸が一杯になった。

 自分に、もっと心のたくましさ」があれば、登れたかもしれない。
 一般に海外登山の場合、日程がぎりぎりなために、一度失敗すれば再挑戦できるチャンスはめぐってこない。
 日程にあと数日の余裕があり再度アタックすれば失敗の経験を生かして成功したかもしれない---。
 でも、数ヶ月たった今は、すべてが楽しい思い出となった。

(登山結果)
                               
 結局、第一隊はSEさんが成功、MAさんは翌日第2隊に合流し成功。第二隊はNAさん以外成功、NAさんは6,850mで断念。第三隊は私以外成功。私は6,000mまで(ただし、高度順応のときに6,200mまで達している)。

 隊全体では、14人のうち10人が登頂に成功した。他の日本隊では、先に書いた東京観光(株)の隊は、11人のうち、登頂に成功したのは5人だけだったと聞く。

(帰りは、BCからとばす)
                        
 BCからの帰りはとばした。午後になると、氷河がとけて川の水量が増え、コンフレンシアの徒渉地点が増水で渡りにくくなるためだ。必死で急ぐ。皆から遅れたが、無事徒渉。    

<登山あれこれ>            

(初めての高所登山経験) 
                        
  初めての長期間のテント生活だった。今までにテントで寝たのは、国内山行でのほんの数回。しかも毎回、1-2泊である。それが今回は、高所に連続14泊。

 緑のない岩山なので、土ぼこりが舞い、衣類も、シュラフも、ほこりにまみれた。

 ときおり強い突風が吹く。BCで隣のテントがひとつ吹き飛ばされた。銀マットが吹きあげられて、岩壁を駆け上っていく。かなり時間が経った後、数百mの高さで岩壁に張り付きキラキラと光っているのが見えた。

 連日ほぼ快晴。BCでは、昼は暑く、半袖の人もいるくらいだが、太陽が沈むと急に寒くなる。しかし、厚着をすれば、寒くはない。

 下着は一回代えたきり。空気が乾燥しているせいか、それほど気にならない。しかし、シュラフの中はさすがに臭くなった。                 
                                     
 1日に2-3回はリップクリームをぬる。ぬらないと、唇が乾燥してひび割れができ、ひどくなると痛くて食事がとれなくなる。何回か痛くなった。少し痛くなると、すぐぬるようにした。

 日中の紫外線も強い。登山口からBCまで登るのに、顔は帽子と手ぬぐいで覆っておいたが、手は日ざしにさらしたままで歩いた。2日目にはストックを持っていた右手の甲が、火傷と同じように真っ赤になり、痛くなった。

 女性は日中、日焼けを防ぐために顔をすっぽりと布でおおっている。顔に包帯を巻いているような感じで、異様だった。

(BCの日本人)
                             
 BCには約100 張りのテントがあった。そこに滞在する登山者は200 人位はいたであろう。地元・アルゼンチンの人が多かったが、ヨーロッパからもかなり来ていた。アメリカ人は少なかったようだが、英語が通じないためだという人がいた。

 この時、BCにいた日本隊は5隊。その他に、単独行の日本人が何人か来ていたが、ほとんどは登山ではなく旅が目的の人だった。
 大学を1年休学してやってきた21才の青年。3月まで休職とし、ここのほかにパタゴニアやギアナ高地も回るという30才の青年。30才から3年間で世界を一周しようという青年。彼は青年海外協力隊員としてパプアニューギニアに行っていたが、それを終えて日本に帰ったところ、文明生活に適応することができずに、再び放浪の旅に出たという。
 また、62才の日本のおばあちゃんにも会った。なんとしてもアコンカグアに登りたいと、孫のような若者一人を供に連れてBCとC1 との間を何度も往復し、高所順応に励んでいた。

 これを書いているときに、BCで会った単独行の男性の一人から、4月4日付・ウルグァイ発の絵はがきが届いた。BC撤収のときに、残った大量の食料を無料であげたお礼である。といっても、食料は隊のものだったのだが。あれから3ケ月もたっているのに、彼はまだ、南米を放浪しているようである。

 私も、放浪の旅にはたいへん魅力を感じる。でも、いったん始めたら、その魅力にとりつかれて、抜けられなくなるのではないだろうか。

 (BCの青いテント)
                          
 BCにはいくつかの青いテントが並んでいた。「飲み屋」である。写真のテントには日本語で「御食事処」とある。夜になると登山者で満員。夜中までにぎわう。そのうるさいこと。とくに大晦日の夜はにぎやかだった。私達は、飲みにいくこともなく、いつも8時か9時には、シュラフにもぐりこんだ。Al003_073_2

 (高山病)
                               
 BCには数日に一回位の割合で、朝がた、軍のヘリコプターが飛んでくる。いつも2機一緒だ。重い高山病にかかった人を運ぶためである。飛んでくる音が聞こえると、隊員は皆、食事中であっても、食事をほうりだしテントを飛び出していく。
 他のテントからも沢山の人が。皆カメラを抱えて、着陸地点の周りの小高い丘の上から見物する。

 ヘリコプターの世話にはならなかったが、わが隊でも高山病にかかった人が何人かいる。
BCに到着した日に意識不明になり、酸素吸入をうけたのはWAさん。HAさんも、それほど悪化はしなかったが、体調不良で結局最後のアタックには参加しなかった。
 WAさんは、いったんBCから数百m下山し無人の河原に一人でテントを張って一泊。体をならしてから再び登ってきて調整を続け、最後には登頂に成功した。

 その他、高山病らしきものにかかったのはYAさんと私。YAさんはC2 で泊まったときに、頭痛薬と睡眠薬を一緒に飲んで夜中に息苦しくなり、Kさんの介抱を受けた。
 私は前に書いたように、アタックのときにおかしくなった。また、TAさんはメンドーサのまちでひいた風邪が、BCにいる間、直らずにアタックを断念した。風邪は、かかった所より高い場所に留まっていては直らないという。

 こんなこともあった。C1 のテントにいたときのことである。隣のテントのスイス人が高山病でダウンし、その仲間から無線連絡を頼まれた。BCに残ったTAさんに連絡し、そこにいる彼らの仲間を探してきてもらい、仲間同士でお互いに話をさせたのである。

 なお、私達が滞在中に、他の日本隊のうちで、ヘリコプターで運ばれた人は1人、下山後に現地で入院した人は3人だった。
 
 このことは、一緒に行った南米専門の旅行会社・ポーラーエクスペディションのSAさんが教えてくれた(彼はBCまで来て引き返し、帰りは登山口に沢山の果物を持って迎えに来てくれた)。
             
 とにかく、ここでは、高山病は身の回りで日常よく起きる出来事のひとつになっている。

(食事)
                                 
 皆で食事をするのは朝と夜だけで、昼は登山中のことが多く、各自に渡された行動食を好きな時に食べた。

 BCでの朝と夕食は全員が集まり、隊の3つのテントに囲まれた小さな広場でとった。
 このときはいつも、料理のチーフはYAさん、サブはTARさん。二人が本日の料理を何にするかを決めて、中心になって作る。その他の人も、2人にまかせておいては悪いので、灯油コンロの点火やジャガイモ・人参の皮むき、肉切り、水くみ、食器洗いなどをして、できるだけ手伝った。
 私は、大晦日の年越しそばをつくるのを手伝った。しかし、これは大失敗。
 ゆであげたそばをそのまま熱いつゆに入れて、やわらかくしてしまったうえに、苦くて固い葉(何という野菜だったか)をつゆに入れて汁の味を苦くしたのだ。作った自分でさえ、まずくてしてしまった。せっかく皆が楽しみにしていたのに---。

 BCの食事は、味付けと取り合わせが上手だったうえにお腹も空いていたので、とてもおいしかった。たとえば、朝食はラーメンに餅、夕食はいわしの缶詰をいれた炊き込みごはんとジャガイモ・人参などの入った野菜のスープだ。その他、10kgに近い大きな牛肉の塊を現地で仕入れておき、何回にも分け切り取って焼肉として食べた。14人もいるので、おかずは早く食べないと無くなってしまうし、ごはんの2杯目も早い者勝ち。いつも、なくなってしまうのではないかとややあせりながら、競争で食べた。昼食が行動食であり粗食だったせいもある。

 あと、美味しかったのは、乾燥したものを水で戻す「きなこ餅」。日本で買ったもので、一袋に8個入って約300 円。1分で餅に戻る。とろりとしたその味は何とも言えない。その他では、KA隊長おすすめの、モツの煮込みのレトルト食品。C2 で味わった。これもいける。

 飲み物は、コーヒー、紅茶に、梅茶、こぶ茶。大量に日本から持参した。どれもパック入。毎食後、どれにしょうかと選ぶのが楽しかった。意外に、甘いものよりは梅茶やこぶ茶のほうが口に合った。
                                     
 昼食は毎日、飴やクッキーだけの行動食である。これは初めての経験。その中で、チーズかまぼこ、せんべいなどはまあまあ食べられたが、クッキー類やカロリーメイトはパサパサしていて、どうも口に合わず、行動食がおいしいと感じたことは一度もなかった。
 日本での山行では、昼食は日帰りなら必ずおむすびを持参するが、御飯は力の源という思いがあるし、水気のある塩味の食べ物なので、今回の行動食に比べたら、それは格段においしいとあらためて感じた。

(グループ登山のメリット)
                        
 グループ登山のメリットを次のように充分享受させてもらった。

・ 事前の渡航手続きや食料の調達は自分でやらなくて済んだ(KA隊長が主にやってくれたようである)。

・ 英語やスペイン語を必要とする現地での入管手続きや入山手続きも自分でやらなくてよかった(旅行会社のSAさんがやってくれた)。

・ キャンプでの食事も他の人に作ってもらった--朝などは寝ているうちに出来上がり、起こされることもあった(もっとも、いつも、ぼんやりと出来上がるのを待っていたわけではない。できるだけ手伝うようにはしたが)。

・ 専門知識を必要とする高所順応の計画も含めて、登山計画を作成してもらった(8千m峰にも登り、豊富な経験を持つKさんの力に負うところが大きい)。

・ 高山病にかかったとき、助けてもらった(これもKさんに依存)。                                
  
一人で行くとすれば、これらは自分ですべてやらねばならないのだ。

                           
          <視覚障害者との国際交流>
         
Al003_129001                                    

 BC(ベースキャンプ)で、視覚障害の外国人登山家夫妻が来ていると聞いたので、我が隊の二人の方に通訳を頼み、羊羹や日本のはしをおみやげにして、夫妻の赤いテントを二度ほど訪ねた。

 男性はフリュシュテック・ノルベルトさん(MR.FRUEHSTUECK NORBERT)、オーストリア人、55才。スポーツマンのためのマッサージ師である。1970年に自動車事故で視力を失ったが、それまでは体操の先生をしていたという。日本体操界のオリンピック代表である小野選手を知っていると話していたので、体操の選手だったのかもしれない。奥さんともども大柄でがっちりした体格である。

 海外登山の経歴を聞くと、晴眼者の奥さんと二人で1974年モンブラン、77年キリマンジャロ、83年マッターホルン、90年ブアナポトシ、91年ルウェリンゾなどに登っており、今回は、エクアドルのコトパクシ(5,897m)、チンボラソ(6,267m)に登った後、こちらにやってきて、アコンカグアの登頂にも成功したという。

 また、このほかにも、オーストリア国内を中心に無数の山に登っており、その数は既に2千を超えているとのこと。今回の山行に備え、去年も70回以上の山行を試みている。「太陽により近づくことに大きな喜びを感じる」と大きな声で話す言葉から、山にかける強い情熱がうかがえた。。

 私は、視覚障害者と晴眼者が一緒に登山をする東京の「六つ星山の会」に入っている。会員は約3百名。大阪や京都にも同じような山の会があり、2年一回の全国交流会も持たれているが、オーストリアにも、このような山の会があるのだろうか。「ない」との答えであった。
 彼らは皆、家族や友人のサポートで山に登るという。「いままで行った海外の山で、視覚障害の登山家に会ったことがありますか」と聞いたが、これも「ノー」ということだった。日本には視覚障害者の登山組織があり、ある程度、視覚障害者登山が普及しているといえるかもしれない。

 聞きにくかったが、今回の7週間にわたる南アメリカ周遊登山の費用を聞いてみた。二人でしばらく数えていたが、二人で「1万2千ドル」(百万円強)との答えが返ってきた。割りと安いように思う。ヨーロッパは南米に近いし、泊まりはテント泊が多いからであろう。

 1984年には山に関する著書も出版しており、今年も一冊書く予定だという。

 娘さんが二人おり、ひとりは京都で日本語の勉強中。そのせいであろうか、日本への関心はたいへん高く、二年後には日本に来て、是非、日本の山に登りたいとのことで、日本の山のベストスリーやその高さを熱心に聞いていた。

 彼らが日本に来たときには、日本の視覚障害の方々が一緒に登山をし、懇親の機会が持てたらよいなと思う。 

(帰国後、雑誌「山と渓谷」に投稿)

Dsc00746                             

               <旅を楽しむ>           

 私は好奇心が強く、何でも見てやろう、経験してみようという気持が強い。思い出になるものをできるだけ持って帰ろうという思いもある。そのために、旅先では何にでも首を突っ込む。
 今度の山行でも、いろいろなことを積極的にやってみた。

(ニューヨーク見物)
                           
 ニューヨークでの乗り継ぎでは半日ほど余裕があり、ニューヨーク見物に出かけた。長時間飛行機に乗っていて疲れていたせいか、14人のうち4人しか参加しなかったが、私は「行こう、行こう」と皆をさそったほうである。
 行ったのは、DO、NA、YA、私の4人だけ。滞在時間が限られていて見物できる時間は3時間。まず、DOさんの希望でメトロポリタン美術館にタクシーを乗り着けたが、残念ながら休館。そこで、横にあるセントラルパークへ。
 公園は雪がうっすらと積もっていて、静かで美しかった。家族連れや犬を連れた人が散歩をしている。不思議な国のアリスの銅像がある。鳩が舞う。売店でパンを買う人達ーーー。危険の多いニューヨークと聞いてきたが、とても穏やかだった。

 それから摩天楼の下を歩く。ザックを背負ったままである。12月の25日なので、クリスマスのミサをしている大きな教会に入ると、司祭が入口で私達を祝福してくれた。
 エンパイア・ステイト・ビルに登る。1人3.75ドル。はるかかなたの海の中に「自由の女神」の像。

(メンドーサ見物)
                            
 アルゼンチンはスペインの植民地だったので、すべてスペイン風。その中で、登山の基地になるメンドーサは人口60万人。碁盤の目に街路が走り、街路の両側と公園には、日差しを通さないほどにうっそうと樹木が茂る。
 町の中心には、幅が広くて銀座のように賑やかなサンマルティン通りがあり、銀行や商店が軒を連ねる。繁華街を少し離れたところには、いくつかの教会、公園。道路に面した家々はスペイン風。暑くて、空気が乾燥しているせいか、ややほこりっぽい。

 人々の風習は日本と違う。午後は長い昼休みがあり、商店は4時頃まで店を閉める。逆に夜は遅くまでにぎわう。午後の11時頃でもレストランは人で一杯。子供連れも多い。

 このまちでも、同じ部屋のWAさんやDOさんと出歩き、また、一人でもあちらこちらと歩き回った。到着の翌日、朝食前にWAさんと歩いたときは、小さな売店で絵はがきを買った。
当地はスペイン語の国。店のおばさんとは話がまったく通じない。手まねで買い物をした。何事も経験と、次は喫茶店に入り、これも手まねでコーヒーを頼み、飲んでいるところを店のボーイに頼み、写真に撮ってもらった。

 郵便局に絵はがきを出しに行ったときは、とまどった。切手を買いたいので、窓口に絵はがきを見せると、別の窓口を指さされたが、そこへ行くと、また別の窓口を指で教えられた。うろうろしていると、ちょうど運よく日本人の観光客がやってきて、出し方を教えてくれた。
切手を買うところを探していたのだが、切手は張らないで、スタンプを押して出す方式だったのである。

 昼食、夕食は全員で外に食べに出た。毎回ほとんど、ステーキ。そのステーキの大きかったこと。皆は全部たいらげたが、私は食べきれなかった。

(下:メンドーサ)
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 注)アルゼンチン紹介 
             
 かってのスペインの植民地。1816年独立。人口3千万人で、その97% はスペイン、ポルトガル等ヨーロッパ系の移民、または、その子孫。宗教は、90% がローマン・カトリック。
 主な産業は農業。牛肉、小麦、とうもろこし、バナナ、ぶどう、たばこなどを生産。また、世界第4位のワインの産地でもある。メンドーサはその中心地で、ワインの美味さは、ヨーロッパでも有名だという。

 南極に近いこの国のパタゴニア地方にあこがれる旅人は多い。60-100mの高さの氷河の先端が、海に大音響ととも崩れ落ちるというが、その様子を是非見てみたいものだ。
 隊のMAさん、HAさんは、今回の登山の帰りに日程を延長して、パタゴニア地方を更に一週間見て回った。
 

(マスダさん)
                              
 メンドーサ郊外に住む日系人の農家。日本からアコンカグアに行く登山者がかなり世話になっているようだ。空港には、娘さんが迎えにきた。滞在手続などを頼んだのであろう。
 登山に不要な荷物を預けにその家に寄ったが、マスダさんと並んでいる植村直巳、三浦雄一郎などの写真が壁に飾ってあった。

                           
(BCのホテル見物) 
                          
 BCから歩いて30分の距離にポツンと建っているホテルに最初に出かけて行ったのは、私とDOさん、NAさんの3人。

 風呂に入りたかった。でも、あるだろうか。途中ですれちがった外国人の登山者に、手ぬぐいをひらひらさせながら、「シャワー、OK?と大声で聞いてみると、「OK」という返事があった。風呂はあるのだ。

 ホテルに到着。建物の外観はきれいだったが、建ったのは最近のようで、まだ内部は完全には出来上がっておらず、泊まる部屋はバラック建てに近かった。

 紅茶とスープを頼む。紅茶3ペソ(3百円)、スープ5ペソ。
 シャワーは7ペソ。久しぶりのシャワーである。でも、湯の出が悪い。湯が急に水になった。大声でボーイを呼ぶが、言葉が通じないので、ふるえるまねをして知らせると、湯は出たが、今度は熱すぎる--。

 調理場の方に行くと、シェフが出てきて、マテ茶(砂糖入りの苦い茶をパイプで吸うもの)を3人にごちそうしてくれた。

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(氷河遊び)
                               
 BCを発って帰る前日、Kさんが希望者を氷河遊びに連れていってくれた。YA、NA、SE、TAR、私の5人が参加。前日までの登山の疲れが残っていたのであろうか、ゆっくり寝ていたい人が多く、意外に参加者は少なかった。

 初めは、30分歩いてホテルへ。そこから、氷河の先端に向かう。
 氷河の端は、まばらに溶けて、高さ数mの氷の塔が林立していた。その中を歩き、ピッケルでその氷塔を倒して遊ぶ。
 氷河の上を小川が流れ、青い大きな池がある。その側の高さにして約10mの垂直の氷壁で、両手にピッケルを握りアイス・クライミングを初めて経験させてもらった。

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(物々交換を試みる)

                           
 BCにある現地人のテントの売店に出かけていき、花の絵はがきとソーラー電卓(神田で数百円で買ったものだ)の交換も試みた。
 意思が通じるかと迷ったが、これも経験と、意を決し店に入る。もちろん、相手はスペイン語なので言葉は通じない。
 電卓を見せながら絵はがきを指さして「チェンジ、チェンジ」と大声でいう。店にいた女の人が奥から旦那を呼んできて相談を始めた。
 こちらは今度は「ソーラー、ソーラー」と繰り返す。旦那はたいへん気に入ったらしく、商談はめでたく成功。5枚一組5ペソ(5百円)の値がついたサボテンの花の絵はがきを手に入れた。

(石集め)                                
 記念に持ち帰ろうと、石も沢山拾った。コンフレンシァからBCへの道は谷をさかのぼる。谷といっても幅は数百mはあり、広々とした河原だ。そこを珍しい石を探しながら歩いた。
緑の石、黒い石、赤い石、白い石--休憩のときに探す、進行中も立ち止まっては探す。穴のあいた真っ白で小さな石を見つけた。それだけは、壊れるといけないのでティッシュに包んで別にした。

  C2 では、ゴルフボールの大きさの穴があいた平べったくて大きな石を見つけた。2kgはありそう。ずしりと重かった。ザックに入れてBCまで運ぶ。あとで、これを知ったKさんが同じような石をもうひとつ見つけてくれたので、これもBCに持ち帰った。
 BCからの帰路、その二つの石の重かったこと。2つとも、今は我が家の玄関に並んでいる。

 また、TARさんが、私にとっては幻となった山頂の石を記念にくれた。これも大事にしまってある。

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(スケッチ)
                               
 スケッチブックを持参し、2枚のスケッチを描いた。コンフレンシアから見たアコンカグアとBCから見たMt・クエルノである。

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(CDで「大黄河」を聞く)
                        
 日本にいて、宗次郎の「大黄河」や服部克久の「新世界紀行」を聞きながら、はるかな異国に思いをはせていると、ふと郷愁を感じる。。ときどき、一人きりで、そんな雰囲気にひたるのが好きだ。また、ショパンのピアノ曲集などもよい。

 今回はこれらのCDをプレイヤーと一緒に持っていって、夜のテントの中で聞いた。

 テントの外では、高島さんが持ってきたマイクをつけて皆で聞いた。倍償千恵子の歌に-何の歌だったか-、涙ぐむ隊員が何人かいたようだ。

(ひげをのばす)
                             
 長期の山行になると、ひげがかなり伸びる。ひげが伸びると、すこしだけたくましくなったような気がして、何となく嬉しくなり、わざと伸ばして、撫でてみた。南アルプス縦走などで、経験したことである。

 国内の山行だと、山にいるのはせいぜい5日間ぐらいだが、今回は旅行日数を入れれば、その期間は20日にもなる。こんなに長い山行は初めてだ。ひげを伸ばすチャンスである。そう思って、ヒゲそりは持たずに出かけた。

 成田空港を出てから一度も剃らなかった。BCにいるあいだに長さは1cmをこえ、BCにあるホテルのボーイから「ジャパニーズ・ガウチョ」(ガウチョとはカウボーイのこと)とからかわれた。

 2週間に及ぶ登山を終えてメンドーサのまちに帰り、鏡を見てがっくりした。たくましい顔になっているだろうと期待していたのに、ヒゲぼうぼうの乞食の顔が映っていたからだ。

 家まで伸ばしたままで帰り、子供に見せて自慢しようと思っていたのだか、方針変更。高島さんから手剃りのひげそりを借りて、ホテルでさっぱりと剃りおとしてしまった。

 

             <帰国後 雑感>            

(世界旅行)
                               
 旅行が好きで、昔から、外国旅行にあこがれていた。初めて外国に行ったのは、40才代の後半。仕事で20日間ほどヨーロッパにでかけた。次は個人でソ連へ。5泊6日のシベリヤ鉄道の旅である。地球の外周の4分の1を列車で移動し、地球の大きさを実感した。

 その頃から「山めぐりで広く世界各地を旅行しよう」と思うようになった。前回はキリマンジャロに登り、アフリカ大陸に足跡を残した。今回は南米大陸である。ニューヨークにも行き、ダウンタウンを3時間ほど散歩したので、一応は北米大陸にも足跡を残したことになる。

(日本の自然のすばらしさ)
                        
 緑にあふれているのに、どこか乾いた感じのするメンドーサのまち。日差しが強く、しかも湿度が低いせいだろうか。そのまちを一歩出ると、今度は、草木のほとんどない土ぼこりの荒野や岩山が続く。川は赤茶色の濁流。氷河の水を集めて流れる。
 そんな中にいて、日本の自然のすばらしさをあらためて見直した。緑の豊かさ、みずみずしさ、それに豊かな季節感。何回か行った、あの梓川の、たっぷりとして清く澄んだ流れのすばらしさ--。日本の自然は、地球上の貴重な財産だと感じた。

(充分楽しんだ)
                             
 これだけ楽しんだのだ。これからは自分だけが楽しむ山行はできるだけ抑えて、休日はなるべく、もう少し誰かのためになるように使うようにしよう。
 自分のことをつい優先してしまう私の生き方は、なかなか改められるものではないのだが。

(ほっとする)
                              
 行くまでは緊張していたが、帰国後はほっとしたためだろうか、体重が3kgふえた。めずらしいことである。この30年間、体重がふえたことはなかったのだが。

(ささやかな挑戦)
                            
 なぜ、山に行くのか。「そこに山があるから」と言った人もいる。
 私の場合は、「何かをやり遂げてみたい」からであり、ささやかな挑戦のためである。やり遂げること、登頂することには喜びが感じられる。
 そのために、行く山は、自分の力の限界ギリギリのところをねらう。ここ数年で行ったのは、夏・4泊5日の南アルプス単独縦走、北ア・旭岳-親不知海岸縦走、春季・雪の3千m・聖岳、穂高・ジャンダルム、初級ロッククライミング、モンブラン、キリマンジャロなど。
 これらは、力のある人にとっては容易と思われるだろうが、私の場合は、行くときはいつも「行けるだろうか」と不安を感じながらの出発となる。
 また、日本百名山や日本列島横断(茨城県取手市の自宅から、日本海への山脈縦走)にも挑戦している。

 頂上直下、「もうすこしだ」と思いながら、いかに疲れていようと足を前に出す。上を見ながら登ると、なかなか山頂が近づかず疲れが増すので、足元だけを見て登る。
 疲れがひどくなると、100歩づつ数え、その間は立ち止まらないように心に決めて登る。とにかく、がんばるだけ。

 誰でも、挑戦するものを--心をかきたて豊かにする何かを持っているであろう。私にとっては、それが、今は、山のようである。

(他の動物との違い)
                           
 山登りは,自分のために行くのであり、人のためではない。また、自分のためといっても、生きていく上でどうしても必要な衣食住を手に入れるためでもない。
 スポ-ツは全て、そうであろう。しかも人間は、それをやり遂げたときに、涙を流すほどに感動することがある。
 また、それを見た人間も感動で胸をふるわす。オリンピックでの優勝などはその最たるものであろう。それは人間だけの特徴だ。ほかの動物にも、たとえば、大空を舞う鳥のように、運動を「楽しむ」という習性はあると思われるが、遊びでそれに「全力で挑戦する」ようなことはないであろう。

 大昔の、人が生きるために必死であった時代には、人間もこのようなことはしなかったのではなかろうか。仲間を守るためでもないし、衣食住を得るためでもない--ある意味では無益な行為に、人は敢えて挑戦する。

(いつか)                                
 楽しかったことも、悲しかったことも、すべての思い出は、いつか、その人の死とともに、無に帰る。それでも--いや、そうであるからこそ、人は何かを求め続ける。                 
          
<隊長、副隊長以外の隊のメンバー>          

 行くときにわが家に奥さん・子供さんと一緒に泊まったYAさん(43才)は、今夏にヒマラヤの7,000m峰の登頂をねらっており、今回はその準備山行を兼ねて参加した。料理長として活躍。

 WAさん(38才)とは行きのホテルの部屋が一緒。彼はBCに入ったときに意識不明で倒れたが、いったん下山し高所順応に務めた結果、登頂に成功した。

 DOさん(45才)とは帰りのホテルの部屋が一緒。英語が上手い。一緒にニューヨーク見物にもでかけた。オーストリアの視覚障害者にインタビューしたときも同行してもらった。
C2 では苦しそうだったが、がんばって登頂に成功。下山では力を使いはたし、BCから応援に向かった若手のサポートを受けた。

 NAさん(36才)は、隊の準備山行以外にもTARさんと冬の富士に登ってトレーニングに励んだほどの、ベテランのアルピニスト。C2 への荷上げのときに共同装備の重い荷を背負って登ったせいか(その分、私の荷は軽くなったのだが)、アタックのときはややばてて、あと一歩のところで登頂を断念した。
帰国後、すぐに「山行記」を作成し、皆に送ってくれた。後日、勤めを辞めて労山隊の一員としてエベレストに挑み、見事登頂に成功。

 TAさん(56才)は、夜間高校の先生。地域のボランティア活動にも積極的に取り組んでいる。メンドーサで昼食を食べながら、いろいろと話を聞いた。
  
 MAさん(29才)は、松本市で児童福祉の仕事をしている。隊で最も若い。荷上げやサポートでSEさんと共に活躍(初日にBCへの到着が遅れたWAさん、登頂に成功したあと疲れて下山が遅れたDOさんをサポート)。
帰りにHAさんとパタゴニアにも寄っている。オーストリアの視覚障害者に2回目のインタビューをしたときに一緒だった
。                            
 TASさん(43才)は大工さん。アコンカグアで日本から持ってきた凧をあげるのをひとつの楽しみにしていた。BCと6,400m地点で念願を2回も達成。

 SEさん(33才)はワンデイアセンドに成功した山男。テント生活のときは、熱心に星を撮影していた。
                          
 NARさん(52才)からは、ヒマラヤトレッキングの話を聞いた。荷物を持ってもらい、食事を作ってもらう大名旅行だという。写真を沢山送ってくれた。縁があり、後日、マッキンリーに一緒に登った

 TARさんは、40才代の主婦で、会社勤め。子育てが終わり、数年前から山を始めた。今回は、トレーニングのために、ザックを背負いながら家事をやったという。                                                                 
  HAさんは30才代の主婦で、写真屋に務めている。小柄ながら、足は強く、登るスピードは早い。私などとはそのスピードが違う。残念ながら体調不良で頂上には行けなかった。
 
 今、皆さんはどうしているのかな。元気で山に登っているだろうか

 

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