« 初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く- | トップページ | マッキンリー その2 »

マッキンリー その3

 <帰国へ>

(タルキートナのレストラン)
 登頂後タルキートナに帰ってから、レストラン「ラティテュード(北緯)62°」で2度ほど食べた朝食は忘れられない。

 コーヒーとトースト、サラダ、ジャガイモ、それに特大のハムが付いて7ドルである。コーヒーは飲みほうだい。特にとんかつほどの大きさの特大ハムは気に入った。これをゆったりと丸テーブルに座って食べる。食べながら、野茂投手(ドジャース)の活躍を知ろうと、英字新聞を持ってきてスポーツ欄を見るのだが、英語が苦手でよくわからない。テレビもスポーツ番組ばかり放送しているが、すべて英語。

 外は朝日があふれているのに、広い室内は窓が少なくて薄暗い。
 客は3-4人。窓際のテーブルを見ると、ふとった大男が、フライパンほどの大きさの特大のパンケーキを食べていた。アラスカでは毎日、あんなのを食べているから、ふとった人が多いのだろう。背後のやや暗いカウンターでは、森林の伐採作業員だろうか、作業着姿の髭面の男がコーヒーを飲みながら店のおかみと談笑している。

 いかにもアメリカの田舎といった雰囲気である。しかも私はマッキンリーに登頂したのだ。何か気だるく、快い疲労感の中で、その雰囲気を充分に味わいながら、コーヒーを飲む。

(アラスカ鉄道)
 帰りはアラスカ鉄道に乗る。
 駅は村の中心にある。駅舎はない。広いホームには,数人が座れる小さな待合所と鉄製のトイレがあるだけ。ホームは村と地つづきで、自動車でホームに乗り入れる人もいる。

 我々のほかに乗客がひとりやってきた。ついで、ドイツの観光客が数人、カメラを持って日陰に陣取る。列車を写そうというのである。
 ダイヤは一日に二本。我々が乗るのは13:16発だが、列車はなかなか姿を見せない。からっとした強い日差し。無数の綿毛が空中に舞う。柳のようだ。

 ジュースとスナック菓子を買ってきて、ザックに腰を掛け一服。線路に耳をあててみるが、列車の音は聞こえない。待合所では居眠りをする人も。

 Ⅰさんとはここでお別れだ。彼はもう一週間アラスカを旅するという。
 やっと列車が遠くに見えた。1時間40分の遅れである。駅に止まってはじめて、それが一両であることに気がついた。「えっ、これがアラスカ鉄道の列車なの?」。何両も連なる展望車付の豪華列車を予想していたので、あっけにとられて、一瞬、機関車だけが先にきたのかなと思う。でも、黒人の車掌が踏み台を持ってきて、乗客が降り始めた。これが待っていた列車なのだ。あわてて、荷物を運びこむ。展望車付豪華列車は別の時刻のものだった。

 車内の乗客は10人位、席はがらがらである。皆、思い思いに席につく。食堂車での食事を楽しみにしていたが、肩透かしとなった。コーヒーの販売もない。でも、車窓の景色はすばらしい。アラスカの原野、大河、はるかに雪をかぶった山々。残念ながらマッキンリーは雲の中に隠れて見えない。

 運転手は、乗客の女性とおしゃべりをしながら運転している。前をよく見て運転しているのだろうか。運転席に行ってみると、アンダーシャツ、短パン姿の大男が運転席の上に足を上げて運転中。写真を撮ろうとすると、足を下ろして恰好をつけた。いかにも、アラスカ鉄道といった雰囲気。そういえば、鉄道の遅れは日常のことで、1時間、2時間遅れはざらだと言う。
 3時間でアンカレッジに着く。
                                     
<あらためて、マッキンリとは>
            
(マッキンリー登山の特徴)
 我が国は高齢化社会をむかえつつあり、登山者も中高年が中心になってきた。

 これからは、海外登山でも中高年が増加するであろう。
 そんな人達のことも念頭に置きながら、登ってきた経験や聞いた話をもとにして、マッキンリーの特徴をあらためてまとめてみよう。

① 標高が低いわりには寒くて、空気が薄い
 これは緯度が高いことによる。同じ標高の場合、緯度が高ければ高いほど温度は低くなり、また空気は薄くなる。そのために、マッキンリーはヒマラヤの7千m峰にも匹敵すると言われており、夏でも寒く、5000mを越えると早朝の気温は-30度にもなるし、吹雪の中を行動するときは昼間でも帽子や手袋がバリバリに凍る。

 ただし、いくら寒くとも、何とか耐えられる寒さではある。行く前は、用を足すにはどうしたらよいかとか、アイゼンはワンタッチ式でないが(長い紐を鉄の環に通して締めていく仕組みである)、素手で着けられるだろうかと心配していたが、吹雪の中でも用は足せたし、アイゼンは薄い手袋をはめれば装着することが出来た。

 なお、晴れた日には、テントの中は平地の夏に近い暑さになり、テントの入口を大きく開けて風を入れねばならず、下着だけで過ごすということもあった。
 その意味では、夏と冬が同居している山とも言えよう。

② 氷雪の山である。
 それだけに、危険が多い。氷河にはクレバスが待ち受けているし、45度の雪壁を登る所や、切れ落ちた雪の斜面をトラバースする箇所もある。しかも、吹雪く日がかなりあって、ホアイト・アウト(周囲が白一色で何も見えなくなり、道を失う)の危険もある。我々は、入山から下山までの17日の間、毎日必ず仲間とザイルを結びあって歩いた。
 一方、景色は抜群。

③ 登頂の成功率は50%前後と低い
 これは、天候が安定せず、悪天が続くためである。
 アタック地点(ハイキャンプ・5250m)で吹雪が続けば、頂上へのアタックは無理である。食料が底をついたり、体力が落ちたりすれば登頂をあきらめて引き返さざるを得ない。

 このように、マッキンリーでは、登頂の可能性は天候に大きく左右される。運悪く悪天が続けば、どんなに体力があっても登頂は不可能となる。登頂率が過去90年間の平均で52%(昨年は40%)と低いのはそのためである。

④ そりを引いて登る。
 氷河上を行く最初の数日間と最後の2日間は、そりを引いて歩く。このそりが曲者。私達の場合も、そりが真っ直ぐに進まないとか、すぐに横転する、急斜面では引き綱が腰に食い込んで痛い、ということでさんざんな目に会った。荷の積み方や引き方に工夫が足りなかったようである。

⑤ 夏は白夜。
 懐中電灯は不要。夜が来ないので、行動時間に制限はない。
 天気が回復すれば、夕方に出発する人もいる。

⑥ シェルパがいない。
 ヒマラヤでは、エベレストにしろ、他の高峰にしろ、シェルパを雇い、荷を持たせて登るのが一般的であるが、マッキンリーにはシェルパがいない。荷はすべて登山者が持つことになり、それだけ荷が重くなる。ソリに荷を載せて引くことにより、背負う方の負担は軽減できるが、その分、腰に負担がかかる。

 今回は、ベテランの人達が一緒なので、共同装備はかなり持ってもらえたが、それでも、自分の荷はすべて背負ったし、共同装備の一部を自分のソリに載せて引っ張った

⑦ 日本から出発するツアーがない。
 五大陸最高峰のうちで、モンブラン、キリマンジャロ登山については、日本からのツアーが沢山あって、山の雑誌を見ればいくらでも見つかる。また、アコンカグアへのツアーもときどき雑誌に出ている。そのために、この3つの山は、登る手掛かりが全くない素人であっても、登りに行くことが可能である。

 しかし、マッキンリーへの日本からのツアーはほとんどない。数年前に、公募登山という形式で募集しているのを雑誌で一度見たくらいである。そのため、登りに行きたくとも素人には手掛かりがない(後で知ったが、アラスカの旅行会社が毎年募集している現地集合の登山ツアーはあるようだ)。

 行くには、自分で登山計画を立てるか、又は、個人的に誰かが行くという情報を掴んで、その人に頼んで一緒に連れていってもらうしかない。私の場合は、Kさんと知りあいであり、彼が声をかけてくれたので行くことができた。

 日本でツアーが組めないのは、海外からの、ガイド同伴のツアーが禁止されているためのようである(アラスカでガイドを頼むことは可。これらの点については確認していない)。

⑧ 登山のスタート地点へは小型飛行機で行く。
 小型飛行機に乗れるのはまことに楽しい。アラスカ鉄道に乗れることと合わせて、登山以外の大きな楽しみである。

(マッキンリーの登頂に成功するには)
 素人の場合は、まずは連れていってもらえる人を探すこと。
 次いで高山病対策。それには、事前に体力をつけること、登山中はゆっくり登ること、高所への登り下りを繰り返すことで体を慣らすこと、水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。

 成功の最後の鍵は天候に恵まれること。これは晴天を神に祈るしかない。

(登山中の危険とその対策)
・クレバスへの転落
 転落しても、助けられるように、仲間同志で必ずザイルを結んで歩く。

・固く凍った急斜面での滑落
 ここでもザイルが必ず必要。

・吹雪で視界が閉ざされるホアイトアウトによる道迷い
 吹雪のときは行動しないし、途中で吹雪になったときは、行動を中止する。アタックの帰りであれば、感に頼ってテントのあるところまで命がけで戻るほかはない。安全対策として、登りながら旗を立て、それを頼りに下りることもある。

・寒さと強風による凍傷
 凍傷の危険性が高い。手袋は、厚手の毛の手袋(油を抜かないもの。値段は普通の毛の手袋の数倍) の上に、ゴアテックスのオーバー手袋を着用する。しかも、凍傷を防ぐために毛の手袋は2つ用意し、アタックのときは湿気のない新品を着ける。
 また、強風に手袋を飛ばされないように注意が必要。飛ばされれば凍傷は避けられない。

・ 高山病
1000m登ったらまた下に降り、一日休養してから登り返すというように、体を高さに慣らしながら登る。荷上げのために一旦登り、それから下りてくるのは、荷を分散するほかに高度順化の意味がある。その他は前に書いた。

・ 雪崩
一日に数回は雪崩の音を聞く。ただし、遠い。コースはなだれの巣から離れたところを通っているので、それほど危険はない。数年前に、このコースのウインディーコーナー手前で雪崩に遭遇した隊があったということだが、コース内で生じるのはまれのようである。

・ 積雪
雪は一日に50-100cm積もることがあるようである。そのときは、ラッセルがきつく、歩くのに時間がかかる。ラッセルを避けるには、先頭で出発しないこと。先に出発した隊のトレースを追えば割りと楽である。それと、小型飛行機の会社で貸してくれるスノウ・ラケット(かんじき)を使うとよい。我々も、雪上での最後の一日は、これを着けて歩いたが、なかなか歩きやすかった。

(マッキンリーの記録等)

 1)初登頂
 マッキンリーの初登頂は北峰が1910年、最高点の南峰が1913年。これに対して、ヨーロッパ大陸最高峰のモンブラン初登頂は1786年であり、南米大陸最高峰アコンカグアの初登頂は1897年である。

 これらが世界の登山史の中でどんな位置をしめるのであろうか。
東西登山史考」(田口二郎著。岩波書店)を読むと、狩猟や信仰のためでなく、探検(科学的調査、地形確定、領土確定など)のための登山が始まったのは、ヨーロッパでは18世紀末(モンブラン初登頂の頃)から19世紀前半にかけてのヨーロッパ・アルプスであるという。

 これが19世紀後半にイギリス人を中心とするスポーツ登山に発展し、19世紀中には、ヨーロッパ・アルプスの未登峰がすべて登られ、この後、ヨーロッパの登山家は海外の未登峰を求めて、東はヒマラヤ、西はアメリカへと進出していったという。

上記のマッキンリーとアコンカグアの初登頂は、そのひとつの成果といえよう。一方、ヒマラヤへの進出は、第2次世界大戦後にすべての8000m峰の登頂という成果を生み出した。

  2)登山状況
 今回の登山中に出会った日本人は10組、20人ほどである。群馬労山5人、姫路山友会5人、関西の2人組、アラスカの旅行会社のツアーで来ていた2人組(夫婦だろうか。我々が吹雪の中を下山してきたときに、3300m のテント場でテントの中から首を出して話しかけてきた)、若者2人組、単独行2人など。

 マッキンリーは厳しい山であり、日本からはなかなか行けない山だと思っていたが、日本からこんなに多くの登山者が来ているとは、意外だった。また、単独行の登山者がいたのにも驚かされた。

 ところで、1994年のマッキンリーの年間登山者数は 306隊、1277人(うち、単独登山16人)であり、登頂成功者は 573人、成功率44.2% である。この年は悪天候が続いたために成功率がやや低かったもよう。平年であれば50% 前後である(以下、山と渓谷社「山岳年鑑」による)。

  登山者の内訳はアメリカ人 707人、外国人 570人。うち、日本人51人。

  また、これらのうち、ウエストバットレス・コースを登った登山者数は1067人で、うち登頂成功者は 493人、成功率は 46.2%である。

 次に、登山者数を過去の趨勢で見ると、1980年代の前半は 600-700 人の規模であったが、1987年には 800人台を、1990年には1000人台を記録し、かなり大幅に増加している。

 これらから推計すれば、過去における日本人のマッキンリー登山者数は、比率5%、1980年以前は年間10-20人と見て、累計で2000人程度であり、登頂者数は累計で1000人程度と言えようか。

  なお、南米・アコンカグアの登山者数は年間2000人前後と推定されており、マッキンリーよりは若干多いようである。やや古い統計だが、1989年末-1990年初にアコンカグアに正規に登山の申請を行った隊は 353隊1244人、うち日本人は24隊だったという。

 3)マッキンリーの天候
 マッキンリーを中心に広がるデナリ国立公園において、夏にこの山が完全に見える日は10% 前後に過ぎない。登山の適期である6月を例にとれば、完全に見える日は1993年で10%(1992年14%)であるのに対し、部分的に見える日は66%(57%)、まったく見えない日は24%(29%)となっている(デナリ国立公園内のアイルソン・ビジター・センターにおいて)。

 これを頂上アタックとの関係で見れば、完全に見える日の頂上は快晴でありアタックがしやすいと言えようが、部分的に見える日のほとんどは、頂上が強風や吹雪でアタックが難しいと思われ、アタックしやすい日はかなり少ないように思われる。

(登山家の記録から)

1)田部井淳子(女性として、世界で初めて七大陸最高峰に登る)      
 1988年 6月14日、女性3人でマッキンリーに登り彼女ともう1人が登頂に成功した。デナリパス(5550m) にテントを張る。10時40分スタート、快晴、微風の中、17時20分に頂上に達した。

 前日は、一旦はスタートしたものの、あまりの強風で前進できず、引き返している。
  この間、エベレストほか、8000m 峰10座に登頂している山田昇氏と偶然一緒のコースをたどったという。氏は8ケ月後の厳冬期にこの山に再度登り、遭難している。

なお、彼女達はBCのほかに、C1(ウエストバットレス上。4900m)、C2(ハイキャンプ) 、C3(デナリパス) とテントを張ったが、我々の場合はC1,C3 の場所には泊まらず、その日のうちに通過している。
          「七大陸最高峰に立って」(小学館)より
            
2)植村直巳(日本人初のエベレスト登頂者。1984年 2月にマッキンリー冬期単独登攀に挑戦し、登頂後、遭難)
 1970年 5月11日にエベレストに登頂。その後の1970年 8月26日、マッキンリーに単独で登頂。このときの記録は次のとおり。

 ハイキャンプ8:30発、15:15 頂上。
 雨のためにタルキートナで2日間待たされ、 8月17日にランディング・ポイントに飛ぶ。17日、18日は悪天候で同所に停滞。19日に25kgの荷を背負い出発。クレバスへの転落防止のために旗竿を腰につけて歩く。2500m 地点でツェルトに寝るが、猛吹雪で雪に埋まりかろうじて脱出。20日、21日と吹雪。同じところに雪洞を掘って停滞。22日は雪の中を磁石を頼りに3300m 地点まで登る。23日、BCへ。25日、ハイキャンプに到着。26日登頂。27日、ランディング・ポイントまで一気に下る。31日、エアタクシーでタルキートナへ帰着した。
                 「青春を山に賭けて」(文芸春秋)より

 3)ディック・バスとフランク・ウエルズ
51才と50才の素人が七大陸最高峰への挑戦を決心。フランクは、そのために映画会社ワーナーブラザーズの社長を辞職する。
 6月中旬にガイド同伴でマッキンリーへ(1ケ月前にエベレストに挑戦したが、これは失敗。後にディックのみ成功)。

 荷は一人30kg前後を背負ってランディング・ポイントをスタート。BCでは吹雪で3日間停滞。その他に1日はハイキャンプへの荷上げで使う。更にハイキャンプでも吹雪で3日間停滞し、食料が底をつく。キャンプ最後の日はキャンディーバーだけの夕食をとる。
 翌日、深雪と強風の中をアタックし登頂に成功する。ハイキャンプと山頂の往復には16時間を要した。
       「7つの最高峰(SEVEN SUMMITS)」(文芸春秋)より

(アラスカ寸描)                             
1)その歴史
 ・アラスカの土地は、アメリカが1867年にロシアから 720万$(当時のアメリカの国家予算の1/3)で買ったものだ。当時、ロシアはクリミア戦争で疲弊していたが、毛皮等の資源を捕り尽くしたという判断も加わって、この土地を手放したという。

 ・その後、アラスカでは金鉱が発見され、ノームやフェアバンクスはゴールドラッシュに湧いた。
 ・スワード、アンカレッジ、フェアバンクス間、全長 756kmのアラスカ鉄道はこの頃(1923年) に敷設された。

 ・第2次大戦中には、日本軍の上陸に備えて、カナダの中央からフェアバンクスに通じるアラスカ・ハイウエイが建設された。
 ・更に、1968年には北極海で大規模な油田が発見され、石油を太平洋側に運ぶために全長1287kmのアラスカ石油パイプラインが引かれる。

2)観光のポイント
 ・観光の目玉は自然。夏にはマッキンリーへのフライト、ホエール・ウオッチング、海にせまる大氷河へのクルーズなどが楽しめる。デナリ国立公園等ではキャンピング、トレッキングができる。アラスカの原野でフィッシング、ラフティングをやるのもよい。

  野性の熊(グリズリー)も見たいものだ。
 ・冬は何といっても、オーロラ観測。オーロラは年間日数の2/3 の確率で出現するが、見られるかどうかは天候次第という。

 ・アラスカ鉄道も魅力のひとつ。
 ・アラスカの北辺には道路が通じていない町が沢山ある。交通手段は小型飛行機。そんなまちにも行ってみたい。

<おわりに>

 50才を過ぎてから海外の山に登り始めたが、これで、五大陸最高峰のうちで、キリマンジャロ(1991年。アフリカ大陸)とマッキンリー(北アメリカ大陸)に登り、モンブラン(1988年。ヨーロッパ大陸)とアコンカグア(1993年。南アメリカ大陸)に途中まで登ったことになる。

 残るは、アジア大陸のエベレスト。しかし、これに登るのは、私には無理であろう。いつか、5千数百mのエベレストのベースキャンプまで行って、五大陸最高峰めぐりを締めくくることとしたい。

 最後に一言。いつまでも夢を見続けていたいので、付け加えておこう。
 「次は是非、8千m峰に挑戦してみたい」。世界にはエベレストを初めとして8千m峰が14座ある。その中のひとつに挑戦するチャンスがめぐってこないものだろうか。 
 無理だな---、でも、ひょっとして--。1996年夏に思う。

|

« 初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く- | トップページ | マッキンリー その2 »

マッキンリー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く- | トップページ | マッキンリー その2 »