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2008年4月

シベリア鉄道

シベリア鉄道

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(下:ハバロフスク駅)
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(下:バイカル湖手前。景色がよく見えるように窓を拭く)

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(上:バイカル湖。5月初め。列車は湖岸すれすれを2時間走る)

(下:アジアとロシアを分けるウラル山脈の線路わきに立つ真っ白なオベリスク。車窓から)

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(食堂車:朝食は目玉焼きに黒パン、それに炭酸水とブドウ液がついた。昼と夜は肉が少々とボルシチというスープに黒パン。ボルシチには普通、身が入っているはずだが、何も入っていない。黒パンだけが食べ放題。最後はコーヒーか、チャイ(紅茶)。生野菜は三切れほどのキュウリが一度出ただけ。貧しい食事だった。)Image32

(下の2枚:駅で食べ物を買う)Image03

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 (ハバロフスク散策。アムール川)Image2 

(市場)Image4

(モスクワ:泊ったホテル・レーニン廟・地下鉄エスカレーター)
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(レストランで話をしたロシア人夫妻)
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シベリア鉄道の旅の写真を掲載します。イメージをつかむことができますので最初に見てください(クリックは1回で。しばらく待つと写真が現れます)。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/CcyssK?authkey=L32Bn1FkDcY

(はじめに) 
 50歳になった記念に憧れの「シベリア鉄道」に乗った。
この鉄道はウラジオスットクモスクワ間、全長9300kmを結ぶもので、全線開通は1904年(明治37年)である。

 私が行った頃は、日本海に面する始発駅ウラジオスットクは軍港となっており、外国人が入れなかったために、そこから鉄道に乗ることはできず、鉄道で2日かかる内陸部のハバロフスクが出発点となった。
ソビエト連邦が崩壊する3年半前の1988年4月29日-5月8日10日間名古屋(空路)-ハバロフスク(1泊)-列車(5泊6日)-モスクワ(1泊)-(空路・機中泊)-ハバロフスク(1泊)-名古屋という行程で、参加者は16名(うち添乗員1名)、旅行代金は31万円のツアーだった。

 列車に乗った距離は8531km、地球の円周が約4万kmなので、そのほぼ5分の1の長さを列車に乗って味わったことになる。飛行機で飛ぶのとは違って、何となく地球の大きさを感じることができる旅だった。

 乗った車両は上下4つの寝台があり、鍵のかかる個室。私の同室は、朝日新聞の記者、自動車雑誌の編集者、製薬会社の研究員といった人達である。その他では、日本中の全ての鉄道に乗ったとか、機関車を写真で撮りまくり、とうとうシベリア鉄道を撮りにきたというマニアの人も参加していた。

 また、このツアーに何回か申込んだが、参加者不足で成立せず、今回初めて参加できたと嬉しそうに話す若いご夫婦もいた。

(車窓の景色)
 6日間、ただ列車に乗っているだけだが、車窓の眺めや人との交流、駅での買い物などで、退屈することは全くなかった。

 まずは、窓の外を流れる景色である。どこまでも続くシベリアタイガ(永久凍土を覆うマツやモミなどの針葉樹を主体とした大森林帯)は有名。その他、直径が数mもあるような白い雪の固まりがいくつも流れていく川、夕日に輝く広大な原野、工場があるのか、黒くくすんだ小さな町、白樺とポプラの林、石炭や木材、トラックなどを積んですれ違う長い貨物列車、「ダーチャ」という宿泊ができる小屋が付いた市民農園が並ぶ畑など。

 線路わきには1kmごとにモスクワまでの距離を示す白い標識(キロ・ポスト)が現れる。通路やデッキに立って、持参のカセットテープで、ロシアの合唱団が歌うロシア民謡や「遠くへ行きたい」のマンドリン演奏、倍賞千惠子の「さくら貝のうた」などを聞きながら、いつまでも、いつまでもそれらを眺めていた。

 そんな景色の中で、ハイライトがいくつかある。 
最大の見せ場はバイカル湖バイカル湖は、周囲632km、最深1620m、最大幅79km、湖としては世界最大、透明度も世界一の細長い湖である。1996年には世界自然遺産に登録されている。

 ハバロフスクからモスクワ行きの旅客列車は1日1本。列車は午後の1時-3時頃、ときには湖岸から10m位のところを通りながら、延々と2時間ほど走る。といっても、湖のほんの一部をかすめる程度であるが。

 バイカル湖が近づくと、まず乗客がやることは窓拭きである。直前のウランウデの駅で仲間同士が肩車をして薄汚れた窓を外側から拭く。景色が見たいが、寒いので、長い間、窓を開けておくことができないためだ。

 湖が見えてくると興奮が高まる。この季節、湖は凍っており、湖岸は真っ白な氷の塊で埋まっていた。小さな村を通過。氷上に黒い人影。釣り人か。
湖面は、はるか遠くまで、白く凍った部分と透明でブルーに凍った部分がまだらに広がる。曇っているため、対岸は全く見えない。列車の窓を開け、夢中で写真を撮る。
車掌に「寒い。乗客が風を引く。早く閉めろ」と言われた。客車の中は1両ごとに石炭ストーブが置かれ、暖かくなっているのだ。

 湖岸を離れ、人口60万人の都市イルクーツクへ。モスクワ発北京行きの列車とすれ違った。

 景色で第二のハイライトはウラル山脈の峠に立つ石碑の側を通過する時である。それは真っ白なオベリスク。高さは10m位か。アジアとヨーロッパの境界を示すもので、東面にアジア、西面にヨーロッパと、ロシア語で書かれている。
列車はこの側を一瞬にして通過するが、乗客はみんな、窓を開け、写真機を砲台のように一列に並べ、通過する一瞬を待って、シャッターを切る。

 このほか、モスクワに近づくと、ロシア正教の本山と言われる聖セルギー三位一体修道院(1340年代の創建)が林の向こうに見えてくる。白い城壁に囲まれて色とりどりの寺院が林立し、金色の丸屋根と青い五層の鐘楼が望める。

(列車にて)

・車掌さんとの交流
 列車は18両編成とか。食堂車のほか、我々の乗る1等寝台車(個室。4人一部屋のほかに2人一部屋のものもある)と、地元の人が乗る2等寝台車(仕切りがない)があり、それぞれに乗客係兼車掌が乗っていた。すべて女性。

 我が車両にもリュドミーラマルガリータの2人が乗車。毎日、午前と午後にチャイをサービスしてくれた。また、列車が駅を出るときは、すべての車掌が旗を片手に各車両のデッキから身を乗りだし、危険の有無や乗客の乗り残しに備えていた

 私は、二人にサインをしてもらった「シベリア横断鉄道-赤い流星「ロシア号」の旅」(NHK取材班)という本を、今も大切に保存している。この本はNHKが1982年2月12日に放映した「シベリア鉄道-9,000キロ8日間の旅」(ビデオあり)を取材したときの記録を書いたものである。

・駅での買い物
 6日間で途中39の駅に停車した。停車時間は10分-15分。どの駅にも、農家のおばさん風の太った女性が数人、パンや牛乳、ゆで卵、ゆでたジャガイモ、野菜の酢漬け、花などを売りにきており、ここでおやつを買うのも楽しかった。たいていは1ヶ、1本、一盛りが1ルーブル(220円)。

 出発時間となっても駅のアナウンスや車掌の笛はない。列車は音もなくゆっくりと走り始め、みんなはあわてて、デッキに飛び乗る。

・食堂車
 食事はいつも食堂車(ロシア語で「PECTOPAH」)でとった。給仕をしてくれたのは、やさしそうな太ったおばさん。
朝食は目玉焼きに黒パン、それに炭酸水とブドウ液がついた。昼と夜は肉が少々とボルシチというスープに黒パン。ボルシチには普通、身が入っているはずだが、何も入っていない。黒パンだけが食べ放題。最後はコーヒーか、チャイ(紅茶)。生野菜は三切れほどのキュウリが一度出ただけ。貧しい食事だった。

 これに比べて、日本の食事の何と贅沢なことか。日本の豊かな果物と野菜をシベリヤに輸出して売ったら飛ぶように売れるのではないだろうか。もっとも、あれから20年経った今では列車の食事もかなり改善されているとは思うが。

(ソ連を知る)
 ソ連のほんの一部だが、この目で見て、知ることができた。

・物の不足
ハバロフスクでは、町を歩いていると子供達が多勢寄ってきて、ボールペン、ガム、タバコなどをねだる。若者が声をかけてきて、タバコや電卓がないかと聞かれたこともある。また、列車のデッキで音楽のテープを聞いていると、若者が寄ってきて、カセットをルーブル貨幣で買いたいと言う。日本ではどこでも安く手に入る日用品が極度に不足していることを実感した。

 一方、野菜や果物も不足気味。入ったスーパーにはジャガイモと玉ネギだけが置いてあり、生野菜や果物がない。市場や街頭では売ってはいるが、高い。パンが1ヶ20円なのに、小さなリンゴが1ヶ220円、キュウリが1本250円もした。

・秘密主義
 秘密主義といった雰囲気がいたるところで感じられた。 
たとえば、列車の走行中、外を見せないように窓の覆いを下ろすことがあった。 
また、途中の駅で降りて写真を撮っていると、外套を着た警察官風の人にジロリとにらまれた。監視をしているようだ。
 
 市場に行って、果物や花が並んだところを写真に撮っていると、数人のおばさんが「写真を撮ってはダメ」というジェスチャーをしながら寄ってきた。
川を渡る鉄橋の両岸には必ず監視所があり、兵士が銃を持って立っていた。
 これらはソ連の暗い一面である。

(モスクワ見物)
 30階以上はある豪華な「ホテル・コスモス」に宿泊。外国人と金持ち専用のようで、玄関の出入りは厳重に管理されており、我々は宿泊カードを示して出入りした。

 市内ツアーでは、赤の広場聖ワシリー寺院レーニン廟クレムリンモスクワ大学などを見て回る。
赤の広場の一郭にある黒い大理石風のレーニン廟の前には衛兵が二人立っていた。このあたりをレーニンが歩いたのだと思うと、胸にぐっとくるものがあった。

 夜は同室の朝日の記者と二人でモスクワの地下鉄を乗りにいった。エスカレーターは褐色。駅は大理石造り。宮殿のように豪華。

 夜は民族料理のお店「アラグビ」へ。隣に座った若いロシア人夫妻から声をかけられ、住所を書いてもらい一緒に写真を撮った。
翌朝も同室の人と二人で散歩。団地を通り、ソコーリニキ文化と休息公園へ。
公園内の道は舗装されていない。土のまま。その道を通って近くの駅へと急ぐ通勤の人達。白樺の新緑と白い幹が朝日に映えてとても美しかった。

(大河・アムール川)
 アムール川、別名・黒竜江は、モンゴルに端を発する延長4444km、長さが世界で8番目の大河であり、ハバロフスクでは対岸・中国までの河幅が3kmにも達する。

 名古屋から空路、ハバロフスクの「インツーリストホテル」に夕方到着。早速、ホテルの裏手のアムール川に散歩に出た。対岸が見えないくらいに広い。船着場からは沢山の舟が発着。船は市民の交通の足のようだ。釣りをする少年に会う。なまずを釣っていた。

 翌朝は川岸を上流にジョギング。町を抜け、点在する農家のほうまで駆けていったが、犬に吠えられ、びっくりして引き返した。そういえば、ハンガリ-ブダペストでも、ジョギングをしたことがある。

(おわりに)
骨太で、あら削りのロシアの風土」、「親切で暖かいロシア人」というのが旅の印象である。
ふと気がついて、インターネットで調べてみると、私が乗ったハバロフスク-モスクワ間の当時の1等寝台料金は約30,000円(2等15,000円)と聞いたが、今では1等224,000円(2等123,000円)とある。ずいぶん高くなったものだ。それだけロシア経済が成長したということだろうか。
夢の一つ。列車でヨーロッパまで旅をしてみたい。

 明治37年に開通して以来、この列車に乗ってヨーロッパまで旅をした日本人もかなりいたことと思うが、私も「北京-モスクワ-ベルリン」などを列車で走ってみたい。2008年4月の今、北京-モスクワ間は1等131,000円(2等84,000円)、モスクワ-ベルリン間は1等53,000円(2等39,000円)とある。

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山への思い

山への思い(08/04/03)

◎ 登山は挑戦(「登山および旅行記」の一部)
 人が山に求めるものはさまざまであろう。雄大な自然を求めて、あるいは里山のどこか懐かしい雰囲気を求めて、人は
山に入る。
 また、未知の世界を歩きたい、絵を描きたい、写真を撮りたい、あるいは仲間との語らいを楽しみたい、瞑想にふけりたい-といった思いの人もいるであろう。
  でも、山の懐(ふところ)は限りなく広く、それらすべての人を受入れてくれる。そこには、人それぞれの山の楽しみ方があり、どれがよくて、どれが悪いということはない。

  そんな中で私が登山に求めるのは、「挑戦」の対象としてである。
 自分のレベルぎりぎりの山にチャレンジすることは、人の心をリフレッシュさせる。力の限界に挑み、困難を乗り越えて何かをやりとげようとすること、それは人の心を夢で満たし、わくわくさせ、更に日常の生活をも活性化させる。

 人生には、会社組織の歯車の一つに組み込まれて自分の努力の結果が見えてこないものや、先の見通しがないままに何年も粘り続けなければならないものがあるが、登山や冒険旅行では、自分の努力が成功に直接結びつくし、がんばる期間が限られていて、終わった後には快い休息が待っている。

 視覚障害者登山でも視覚障害の方の「挑戦する気持」にはできるだけ応えるようにし、個人的に依頼があれば、北岳、槍ヶ岳、穂高岳などの高所登山にもかなり出かけたが、それは、視覚障害の方が頂上に立って喜ぶのを見ると、自分も嬉しくなるからだった。喜びを共にするということであろうか。

◎ 単独行
 私は、独りで山に行くことが好きだ。マイペ-スで山頂をめざす。普通、2-3時間は休まずに歩く。誰もいない山の中、山はいろいろな姿をみせる。
  夏の塩見岳-森に朝日が差し込み、露を宿した木々の葉がキラキラと輝く。
  飯豊連峰-初秋の暑い日差しの中、それこそ無数の赤トンボが山肌に群がる。
  朝日連峰-山道に人影はない、地平線が赤く染まり、薄闇の中に山が沈む―――。

  それらが発する何かが心にしみ込み、心を包む。爽快さ、ものうさ、なつかしさ、深い落着き---。景色に応じて、いろいろな感情が心をよぎる。

◎ 登頂したときの喜び
 山頂に立ったときに得られる満足感の大きさは、山の難しさと自分の力量との差に比例する。普通の人には易しい山でも、高齢者にとっては難しく、登ったときの満足感は大きい。逆に、普通の人にとっては難しい山でも、ハイレベルの技術を持った人には全くつまらないと感じるであろう。

 マッキンリー。それに登ることは8000m峰に挑む一流の登山家にとっては足慣らし程度にすぎないが、私にとっては、全力を尽くしやっと登った山であり、その満足感は極めて大きかった。

山々と平行に点々と雲が浮かぶ。アラスカ第一の高みに立っているのだ。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。

 涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ。」(「マッキンリー登頂記」より)

◎ 海外登山に行ける人は少ない。私は幸運(「登山および旅行記」の一部)
 海外登山には、お金と休暇と健康、それに家族の了解が必要である。
勤めている人にとっては、マッキンリーは最低でも2週間の休暇が必要であり、私は1ケ月近くの休暇を必要とした。
エベレストの場合は3ケ月が必要であり、この登頂に成功した知人は職場を辞めて参加している。

 私の場合は何とかそれらの条件を満たすことができた。
 日本には、登れる力が充分あるのにこれらの条件が整わず、海外の山に行けないという人が数多くいる。今、振り返ると、そんな中で、私は本当に恵まれていたと思う。それを考えると、海外登山に行ったことを得意気に話すのはチョッピリうしろめたい気がする。

 ◎ 登頂に成功するには
 登頂に成功するには、体力と技術のほかに、高山病対策がうまくいくこと、天候に恵まれることが必要である。その上、良き指導者(高山病対策等の)に恵まれれば更に良い。

 高山病対策。それには、①事前に体力をつけ、富士山に数回登るなどして、できるだけ高度に慣れておくこと(密室の入り気圧を下げて高度順化をはかる方法もあるという)、②登山中はゆっくりと登ること(キリマンジャロでは自信がなくて、いつも最後を歩いていた人が登頂当日は一番で山頂に達した。逆に前日までは飛ぶような早さで元気良く歩いていた若者が登頂当日はふらふらになってしまった)、③高所への登り下りを繰り返して体を慣らすこと(私はキリマンジャロでは小屋に着くと、その日のうちに更に上へと数百mほど登って体を慣らすということをした)、④水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。

 成功の最後の鍵は天候に恵まれること。これは好天を神に祈るしかない。マッキンリーでは、「悪天候で登れなかった」と言いながら下りてくる、いかにも登山のベテランと言ったたくましい外国人登山者に何人も会った。アタックキャンプで晴天を待つのだが、食料が尽きてやむをえず下りてくるのだ。

 夏のマキンリーで晴れる日の確率はほぼ50%であり、その他の日は吹雪いている。私の場合、アタックの日は最後まで晴天・無風という好条件に恵まれて登頂に成功した。

 ◎ 仲間と行く登山
 私の登山は「挑戦」であり、これまでは単独行が多かった。
 でも、登山には仲間と一緒に行き、喜びを共有するという楽しみもある。
  親しい友人と行くときは、会話も楽しい。心が解放される。
  昔、登山の経験があまりない職場の仲間数人と行ったときは、山のすばらしさを知ってもらい、その人達が喜んでいるのを自分も感じ、喜びを共有した。山頂に到達し、眼前に広がる景色を一緒に眺めながら「どう、すばらしいだろう」と誇ってみたい気持になった。

 最近は単独で行くことはほとんどなくなった。1年に一度行くかどうかである。
年に30回位は行くが、ほとんど、視覚障害の方をサポートしての登山である。でも、その人達が登山を楽しんでいるのを自分も感じ、その喜びを共有している。

 視覚障害の方の感覚は晴眼者以上に鋭い。林を抜けて峰を渡る風を肌で感じる。ふわっとした土や落ち葉で埋まった道、残雪で凍った道を足で感じる。鳥の声や風の音を聞く。木の間から差し込む日差しに季節を感じる。
 ときには、大きな木や小さな花に手を触れて、その感触を楽しむ。登頂できたときの「やったー」という達成感は格別のものがあるようだ。木立のない山頂では、音の反響がないので、周りに何もない天空に立ったという解放感に包まれる。仲間との会話も楽しい。そんな喜びを私も共有している。

 ◎ 人間の不思議さ
 単独行の山は、自分のために行くものであり、人のためではない。また、自分のためと言っても、衣食住を手に入れるためではない。素人のスポ-ツは全て、そうであろう。しかも人間は、それをやり遂げたときに、涙を流すほどに感動する。また、それをみた人間も感動で胸を震わす。オリンピックでの優勝などはその最たるものであろう。

 それは人間だけの特徴だ。ほかの動物にも、たとえば、鳥が大空を舞うのを楽しむように、運動を「楽しむ」という習性はあると思われるが、それに「全力で挑戦する」ことはないであろう。
 大昔の、人が生きるために必死であった時代には、人間もこのようなことをしなかったのではないか。今は、仲間を守るためでもないし、衣食住を得るためでもない--ある意味では無益な行為に、人は敢えて挑戦する。ときには命を懸けて。

 人間社会が生み出してきた文化というものの意味がここにはあるように思う。衣食住が満ち足りたとき、人が求めるものは? なぜ求めるか? スポ-ツ、絵画、音楽に共通するのは、何かすばらしいことをやり遂げる喜びである。
 それに参加しない者にも、観戦し、鑑賞するという楽しみがある。また、絵画、音楽には、物事の意味を解釈するという楽しみもある。人間は生きることを充実させるために、これらを行う。

 ◎ 私にとって登山の意味(2013年追記)

1.1977年、40歳の頃から山に夢中になり、初めは日本百名山を、次いで栂海新道や船窪-烏帽子、北鎌尾根、更に自宅から親不知海岸までの縦走に挑戦しながら、マッキンリー等の海外登山も楽しみ、また、1989年に六つ星に入会後は視覚障害の方をサポートして毎年10回前後、山に登ってきた。

 3回のサンティアゴ巡礼を含めて、これらを振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。挑戦するときの「ワクワク感」、頂上に立ったときの「達成感」、それらを思い出すとき、何とも言えぬ「幸せ感」に心が満たされる。

2.経済同友会終身幹事の品川正治氏が死に臨んで 「私はまもなく世を去る。後の世代の方々には、憲法9条を守りつづけ、日本の平和、アジアの平和、そしてアメリカを含め世界の平和の先頭に立っていただきたいと願うばかりである」(2013年11月16日・朝日・夕刊)と記した。彼は戦争の悲惨さを経験し、戦争の愚かさを生涯訴え続けたという。

 自分の生き方にはそれとは大きなギャップがある。「社会のために」というよりは「自分のために」という生き方だった。社会を変える活動には35年間携わってきたが、最初の10年間を除いては、ほんの少し自分の力を使っただけであり、優先したのは「山」や「旅」という自分の楽しみであった。

  宮沢賢治は言う、「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」と。そのとおりだと思う。

 でも、自分が死に臨んだときに第一に願うことは、世界の平和ではなく、多分、家族と孫の幸せだと思う。スポーツや芸術の面で、一生を通じてやりたい楽しみを持つこと、夢中になれる楽しみを持つこと、それは生き方を前向きにし、また困難を乗り越える力になると思う。孫には、その一つが「山」や「旅」であることを伝えたいと思っている。

3.冒頭に「山への挑戦は日常の生活をも活性化させる」と書いたが、私の登山は生活を活性化させるためではない。仲間と行く場合、サポートとして行く場合などは異なるが、単独行で行く場合の目的は登山そのものを楽しむためであり、「日常生活の活性化のために行く」などということは全く念頭にない。

 自分の力で登れるかどうか、力の限界ギリギリの山に挑戦し、登頂すること、それが楽しいからであり、心がワクワクするからである。サンティアゴ巡礼も同じだ。

  今、ふり返ってみると本当に沢山の山に登ったものである。それは自分の人生にとって、どんな意味があったのだろうか。

 意味はあったかと言えば、 「楽しかった」の一言に尽きる。生きていて楽しかった-それでよい。「人生、満足」という充実感を感じている。

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