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日記に見る「私の青春」

 

 日記に見る「私の青春」

 中学1年から20歳代前半まで日記を書いていたが、それが棚の隅から見つかった。書き始めたきっかけは、国語の先生から「毎日、日記をつけて、提出するように」という宿題が出されたことによる。

 几帳面な私は毎日、書いた。中学2年になり、宿題として書く必要はなくなったが、それでも書くことが習慣になって、高校時代、大学時代と書き続け、書くことをやめたのは結婚をして、新しい人生に踏み出すことが決まった頃である。

 日記を読み返してみると、書かれている出来事のほとんどは忘れていて、全く記憶になく、新鮮だった。もし、この日記が無かったら、これらの記憶は永遠に失われていたことであろう。

 以下に、少年期から青年期へと成長する頃の日記の一部を掲げてみた。甘くて、ほろ苦い青春の日々の思い出である。 

 

<なぜ、日記を書くのか>

1953年(昭和28年)9月4日(高校1年・15歳)

 同級の芝田君が「おれも日記を書いているんだ。書くのって、なかなかいいな-」と云うので、「どこがいいんだ」と聞くと、「書くことで自分の思いや考えをまとめることができるし、自分の思ったことがはっきりとつかめるんだ」と云った。僕もそれには同感だったが、他にも、日記を書くとよいことが沢山あると思った。

 まず第一に、思い出の記録が残ることである。自分が大きくなって、今書いている日記を読んだら、どんなに楽しいことだろう。次に、何かいやなことがあっても日記にあらいざらいぶちまけると、気がせいせいするということ。まだ他にも、いろいろある。

 

<高校生になっても、魚取りに夢中。勉強は少しだけ>

◎1953年(昭和28年)7月12日(高校1年・15歳)

 昨日、期末試験が終わり、きょうから試験休み。さて、何をしようか。まずは、小学校時代からの友達、尾幡、川辺、保谷、萩原の4人と、自転車で多摩川を渡り、二子玉川のプールへ。今年、最初の水泳。天気が曇りで、寒くてたまらず、2回しかプールに入らずに帰ってきた。

 夕方まで、めちゃぶつけ(集団でゴムボールをぶつけあう遊び)。夜は花火を買ってきて、一度に火をつけたり、土に埋めて爆発させたりして遊んだ。寝たのは10時頃。

◎同年7月13日(高校1年)  

 近所の子は学校に行った。僕は試験休みで、午前中は小さい子とめんこ。昼からは、学校から帰ってきた「てーちゃん」、「たけしちゃん」と魚取り。川崎堀(農業用水路)へと流れ落ちる土管の出口を網でしゃくって、小さい魚を10匹位取った後、上流の丸い小さなダムに行き、大きいのを5匹取った。 

◎翌日の14日

 昼前に「解析」の宿題を半分ほどやって、午後は網を持って、家から20分の平瀬川の下流へと魚取りに。川の水が引いて浅くなっていたので、ふな、なまず、うなぎ、はやなどいろいろな魚が取れて、暗くなるまで夢中で取った。

◎その翌日の15日

 「解析」の宿題の残りを終わらせて、午後はまた、魚取り。前日と同じ3人で平瀬川へ。3日間、連続である。

 川底は石がゴロゴロしており、岸辺には夏草が生い茂る。岸辺でも、水の深さがももまであるようなところに魚が多いので、ズボンを濡らしながら、そこまで入って魚を取った。大きな玉網を下流に置いて、生い茂る夏草の中を足で追うのだ。取れたのは、ふな、なまず、うなぎ、げばち、ほんばや、クチボソなど。特に、うなぎは胴の太さ3cm、長さ30cmの大物である。帰りに、道ばたの子が「取れた?」と云って寄って来て、ばけつに手を入れ、「わー、うんととれたなー。うなぎもいらー」と云ったのを聞いて、魚が取れた嬉しさが倍増した。

魚取りには、小学生の頃から夢中だったが、前述のように高校生になってもそこから抜け出せずに、子供のように遊びまわっていた。

 ところで、魚取りには、いろいろな方法がある。いくつかを挙げれてみよう(2018年10月記)

 よくやったのは、近所の小川で魚を石の下へと追い込み、手掴みで採ったり、小川をせき止め水をかい出して採るという方法である。また、多摩川の急流でやったのは、「あんま釣り」という方法。1日に、はやを100匹ほど釣りあげたこともある。その道具は簡単。「細い竹の棒に2-3mの釣り糸と釣り針を付け、ウキは付けずにその竹の棒を急流の中で上下に動かす」という釣り方である。餌は、川底の石の下に付いている川虫。

 夏休みはそんな魚取りに夢中になり、午前中に家を出て、いつも帰るのは夕方だった。

 そのような魚取りの中で、一番興奮したのは、台風の接近で多摩川から近所の農業用水路(川崎堀という)に水を取り入れる水門が閉まり、その小川の水位が下がったときであるこの小川、いつもは子供の背丈ほどもあるのだが、台風が来ると足首の浅さにまでなって、魚がいっぱい採れた。小学生の頃だが、台風が接近してくるときは、学校にいても勉強に身が入らない。いつ水位が下がるか、他の子供に先を越されないかと、居ても立ってもいられなくなって、授業が終わるとすぐに家まで飛んで帰り、雨が降っていても網を持って川へと駆け出していった。小川は幅3m、深さ15cmほど。その片端に小さくて底の浅い子供用の玉網を据えて、待っていると、魚は下流に逃げようとして川の端を矢のような速さで下ってくる。黒い影が網に入ったその一瞬をとらえて網を上げるのだが、遅れると、網の底が浅いので反転して逃げてしまう。網に入ってから逃げるまでは、ほんの一瞬。その間に網を素早く上げねばならない。その一瞬に全身全霊を集中するのだ。それは「とてもわくわくした一瞬」だった。その一瞬が今でも鮮明に記憶によみがえってくる。

 また、魚は追われると30-50cmほどの大きさの石の下に隠れることが多い。こんな魚は石の下に両手を入れて掴んで採る。手を石の奥に入れたときに指先で感じる「ビビビビ」という魚の躍動感もたまらない。心が踊る一瞬だ。もっともときには、とげのある「げばち(なまずに似ている)」や「ざりがに」が潜んでいて、刺されることもあったのだが。

 その他の特記事項は鮎。ときどきいる。鮎が浅くなった川を上流へ遡るときは、川の端を水面に波を立てて進むので、「鮎だ」とすぐに分かる。鮎を採ったときの喜びは特に大きい。採れたての鮎は「すいか」の甘い匂いがする。

 

<雪に夢中。高校生なのに、まだ、子供>

◎1954年(昭和29年)1月23日(高校1年・16歳)

 工場の方から「雪が降ってきた」という声が聞こえてきたので、こたつに入って妹と本を読んでいた僕は、「雪」と聞くより早く、窓をあけた。本当にチラチラと、雪のユの字位に小さい白いものが降りだしていた。雪は、ときには動物に喜びをもたらし、元気づけるものである。雪を見たとたん、もっともっと降らないかなと、心のうちで祈った。

 夜に入ると、雪は一層、勢いを増して降りだし、「銀世界」の創作最終段階に入ったようだ。

 父と風呂に行くために外に出た。ほんとうによく降る。寒いのをものともせずに、急に嬉しくなってかけ出した。雪が長ぐつにけちらされて、球となって飛ぶ。目にも、鼻にも、耳にまでも、雪が飛び込んでくる。おもしろい、おもしろい。

 街灯の下に来ると、きれいな雪景色が見られた。雪面が光の輪の中だけ、真っ白に浮かび上がり、ふりあおぐと、どこまで高いかわからない真っ暗な空から、真っ白い雪が乱舞しながら落ちてくる。何んとも云いようがないような、気持よい感じだった。

◎同年1月25日

 3日間、雪は降りやまず、大雪となった。30cmは積もったろうか。

 学校の社会の時間、皆で「雪合戦、雪合戦」と大声で繰り返して叫ぶと、とうとう、その時間は自由時間となり、外で自由に遊べることになった。

 最初は個人個人で雪合戦。そのうちに、クラス全員が2組に分かれてやりだした。ヒュー、ヒューとみだれとぶ雪の球。ワーっと叫んで攻めよせる者。頭から雪をかぶって後退する者。ときには乱戦となる。敵に自分の投げた球が当たって、さも痛そうにしているのを見るのは、痛快だ。

 校庭のもう一方の隅では高3の生徒も雪合戦をやりだした。これも、ものすごい。校舎のガラスが何枚も割れた。5分おきに、ガチャン、ガチャンとやっている。そして最後は高3と高2の対抗戦となったが、授業終了の鐘が鳴ると、皆、教室に引き上げた。

 これに味を占めて、次の英語の時間にも、「雪合戦、雪合戦」と皆で騒ぎたて、それでも許されないと見るや、全員総立ちとなって、歓声を上げたが、担当の天ケ瀬先生は絶対に許してくれなかった。皆の不平がなかなかおさまらない中で、とうとう授業が始まったが、誰もが沈黙を守ったために、授業中の教室はシーンとしていて、いつもよりずっと静かだった。

 

<高校2年に。まだ、遊びに夢中>

◎1954年(昭和29年)3月26日(高校1年・16歳)

 高校1年の終業式。春休みの間の一日で、久々に皆に会えて嬉しかった。内山君と相撲をとり、小野沢君と腕相撲をし、長谷川君と冗談を云いあった。

 掲示板には今年の大学の入試結果が書かれており、それを見ると、東大2、東工大1、慶応2、早稲田7、中央、明治がそれぞれ十数名とあった。

 教室に入ると、成績表(通信簿)が配られた。僕は、国語、数学、英語はまあまあだったが、化学と体育が悪かった。特に体育は悪くて、5点法で「2」の成績だった。でも、期末試験の合計点で示す席次のほうは、学年で2番になっていた。

◎同年3月28日

 新規巻き直しのつもりで、勉強の新しい計画表を作り、高校2年の勉強を始めた。きょうはその第一日目。

 午前8時から11時まで「解析」の勉強。昼食後は午後3時まで英語。夜は10時まで読書。一日目は順調だった。

◎同年4月5日

 今日で春休みは終り。

 勉強については大いに反省しなければならない。

 最初の意気込みはすごかったが、結局、勉強はほとんどしなかった。

 きょうも、ベーゴマ、裏山での遊び、紙工場でのトロッコ乗りなどと、遊びで1日を過ごしてしまった。原因の一つは、計画した勉強量が多すぎたことにあるが、一番大きな原因は「遊びたくてたまらなり、我慢ができずに外に飛び出してしまうこと」にある。それほどに、どの遊びも楽しかった。

 その他の遊びでは、魚取りや魚釣りはほぼ、毎日であり、映画は週に1回は行っている。

 たとえば、4月1日には、たけしちゃんと自由が丘の武蔵野館に「クオ・ヴァデイス」を見に行った。ロバート・テイラーとデボラ・カーの主演。4時間30分におよぶローマ時代の大型歴史物語で、総天然色。すべてを忘れて見入ってしまい、見終わったときは、いっしゅんボーっとして、映画館にいるのを忘れてしまうほどだった。

 春休みの間は、勉強をほとんどしなかったが、何とかしなければー。

 

<おさななじみへの初恋?>

◎1953年(昭和28年)12月29日(高校1年・16歳)

 きょうは、今まで書きたくとも、人に見られるのが恥ずかしいために書けなかったことを書いておく。但し、この部分は秘密にして本箱に入れておこう。

 よく、友達がガールフレンドを持っているというが、それを聞くたびにいつもHさんの家のCちゃんのことを思い出して、明るい気持になる。

 小学生や中学生の頃は一緒に遊んだが、この頃は会うとあいさつをするくらいである。しかし、相手はどうだかわからないが、こちらは会うといつも胸がドキドキし、普通の少女に会うのとはちがった感じがする。そして、よく、Cちゃんと毎日、話しあえ、笑いあえ、はげましあうことが出来たら、どんなにすばらしいだろうと思う。

 お付き合いがしたい。が、機会がない。又、Cちゃんのお父さんは都庁の○○局長で、うちとは身分違いだ。でも、もし、Cちゃんにもその気があったら、身分の違いなどなんでもない。

 もしも、付き合うことが無理ならば、たった一枚でもいい、あの人の写真がほしい。

◎1955年(昭和30年)1月20日(高校2年・17歳)

 Cちゃんの弟が盲腸で入院したので、学校の帰りにお見舞いに行ったが、病院からの帰りは、ちょうどCちゃんが来ていて、「チエコ、帰るわ」と云って身仕度を始めたので、僕も一緒に帰ることにした。本当は、心の中で、毎日、こうなることを待っていたので、夢が実現したことで心がフワーっとして、うれしさで胸が一杯になった。

 外に出て、大通りを歩く。でも、恥ずかしくて声がかけられない。ただ、二人、肩を並べて無言で歩く。……と、魚屋の前でCちゃんから「おかず買ってくる。先に行ってて」と云われた。「どうしよう」、これでお別れかといっしゅんガックリしたが、でも、思い返して、追いついてくれるようにと、一人で、また、ゆっくりと歩き始めた。と、すぐに「おまちどうさま」と云ってCちゃんが追いついてきた。うれしかった。

 横町に入る。もう、人はあまり通らない。まず、僕のほうから「Cちゃん達、授業は何時間」と話しかけた。とても楽しい。あの声、あの笑顔。「高校を卒業したらどうするの」とか、「試験はどのくらいあるの」とか話し合った。何だか、心臓がとびだしそう。いつまでも話していたかったが、足はいやおうなしに進み、とうとう別れなければならなくなった。「さようなら」、「さようなら、ありがとう」。Cちゃんの姿が門に消えた。僕はそのいっしゅん、グーっと夜空にむかって深呼吸。力がもりもりとわいてきた。

◎1955年(昭和30年4月4日 高校2年・17歳)

  Cちゃんの家に遊びに行ったときに、Cちゃんから「私も好き」という意思表示があった。嬉しくて、僕の心は家に帰ってからも、一日中、ドキドキとして、落ち着かなかった。

 とりとめもなく、いろいろな思いが浮かんでくる。あの人に思われるだけの教養や人格を身につけようとか、僕にも青春のつぼみが開きつつあるとか、水をやり、手入れをして大事に育てようとか………。

 

<大学入試に失敗。駿台予備校へ>

◎1956年(昭和31年)3月30日(高校3年・18歳)

 大学の入学試験が一段落し、高校の卒業式が終わった後は、映画、魚取り、魚釣りと遊びほうけた。東大は1次試験は通ったが、2次で落ちた。同級の内山君は現役で合格。尾幡君は三井銀行に入社。柿島君はお父さんのあとを継いで、彫金の仕事に就いた。

◎同年4月9日

 横浜国大も不合格(競争率28.6倍)。

 駿台予備校四ツ谷校の午前の部に入学(競争率5.3倍)。一学期の月謝4700円、教科書代1000円、定期代3ヶ月1570円(二子新地前-四ツ谷)。

 

<東大文科一類に合格>

◎1957年(昭和32年)3月25日(浪人1年目・19歳)

 朝、父が東大の合格発表を駒場に見に行った。僕は横浜国大の入学試験があるので、横浜の会場に向かったが、父が合否の結果を親戚に電話で知らせることになっていたので、自由ケ丘の駅からその親戚に電話をすると、「たけしさん、おめでとう」というおばさんの声。「え、入っていたのですか」、僕は嬉しくて、「早く家に帰って母に知らせよう」と、思わず駅の構内をかけだした。ところが、乗った電車はいつもよりも遅い感じ。やっと二子新地の駅に着くと、今度は我が家まで多摩川の土手をかけだした。足が宙に浮くような感じ。家に着くと、窓をガラッと開けて、「入ったよ」と母に叫んだ。それ以上、何も云えない。母も「よかった。よかった」と言うだけだった。

 そう云えば、合格は父が最初に知ったわけだが、どんな気持がしたことだろう。

 

<大学生になって>

◎1957年(昭和32年)4月(大学入学1年目・19歳)からの2年間。

 大学1年のときの日常の予定表は以下の通り。

 月曜-土曜は、法律、経済、英語、独語、国語、化学、体育の講義と実習。授業終了後は、4時30分まで、剣道部に入部しての剣道。月曜と水曜の午後5時-8時はアルバイト(家庭教師)。

 日記には「人生を有意義に過ごしたい。僕は何をなすべきか」とか、「人生の目的は何か。読書によってそれを見出さねばならぬ」とか、「真剣に物事にあたるとは、思考することである」というような文字が並んでいる。

 人生論とは別に、この頃から日記によく出てくるのは「ノイローゼ」のこと。「毎日、毎日が楽しくない。人と話をするときに顔がこわばり、話がしにくくなるからだ」とある。この症状は、後で知ったが、克服しようと努力をすればするほど、深みにはまるものであり、このあと10年位、僕を苦しめることになる。10年後にようやく、これを抜け出すことができたが、それは直すのをあきらめて、「ありのままの自分で行こう」と覚悟を決めたことによる。

 日記のその他の記事を見ると、

・「中学・高校が同じ尾幡君、松浦君、横村君と伊東温泉に泊り、徹夜で麻雀」

・「大学2年の夏、尾幡君、松浦君と5日間、北アルプス・奥穂高へ(僕が雪を食べ過ぎて腹痛を起こして登頂を断念。僕が穂高小屋で2日ほど寝込んだために、お金が無くなり、松浦君が東京までお金を取りに帰ってくれた。二人にはたいへん迷惑をかけた)」

・「高校同級の小野沢君、斉田君と3人で、同じ夏の5日間、北ア(燕岳-槍-奥穂-岳沢-上高地)へ」

・「高校同級の鈴木君、長谷川君と丹沢(大蔵-塔ヶ岳-丹沢山へ。3月、雪の中、1泊2日の登山)」

・「山を征服することは一つの楽しみだ。山は征服するために登るものだ」

・「大学1年の成績は優5・良5(優・良・可の3段階評価)であり、期末試験の総得点は2751点。席次は教養学部820人中の304番だった」

・「Cちゃんの家で百人一首のカルタ会」、などとある。g

 

<Cちゃんのこと>

◎1959年(昭和34年)5月1日(大学3年・21歳)

 きのうの夜、Cちゃんと会った。彼女の会社に電話をして会いたいとさそったら、すぐに承知をして家に来てくれたのである。家族は自由ケ丘に出かけて留守。

 外に出て、多摩川の河原を散歩した。あちらに行ったり、こちらに行ったり。ジーっと虫が鳴いていて、とても静か。授業の話をしたり、友達のことを話したり…、まさに「春宵一刻、価千金」。最後は、河原の石に腰を下ろして、星あかりで光る川面を眺めながら話し合ったが、暗い中なのにCちゃんが笑うと白い歯が見えて、とても印象的であり、いつまでも、いつまでも、話していたい夜だった。

 Cちゃんからは、「私、タケシさん、着実に大人になっているという感じがするわ」、「誠実な人って好き」と云われた。

 家に戻ると父母と妹が帰っていたので、夜の11頃まで、5人でお茶を飲みながら談笑。

◎1959年5月23日

 夕方、Cちゃんが訪ねてきた。山の写真を見せながら話す。そのあと、雨の降る中を遠く南武線の久地駅の方まで歩いていき、これからのことなどを話し合った。とても楽しくて、帰って来てからも、彼女のことが頭を離れず、いつまでも寝ころんで、Cちゃんを思っていた。

◎1961年(昭和36年)3月8日(大学卒業のとき・23歳)

 日比谷公園で会い、喫茶店で話し、帰りは高津駅からCちゃんの家まで送って行った。

◎2018年10月記

 今、振り返ると、Cちゃんの温かさ、やさしさ、誠実さが改めて思い返される。

 高校2年の4月、Cちゃんからも意思表示があって、交際が始まったが、それが終りを迎えたのは大学4年を卒業する頃だった。

 原因は私にある。その頃、人と話をするときに顔がこわばって、話がしにくくなるという「ノイローゼ」が激しくなり、彼女と会っても、話がぎこちなくなったからだ。また、手紙で、その苦しさを書いたりもした。それに対して、彼女からは「どうしてよいか、混乱するばかり」との手紙が来た。そして、少しづつ、彼女の心は私から離れていった。

 お付き合いが終わったと感じたとき、彼女からもらった分厚い手紙の束をすべて燃やして、心の整理をつけた。

 今、振り返ると、そのときは絶望し、とても落ち込んだが、今では、青春時代の、何ものにも代えがたい素晴らしい思い出となって残っている。

 

<貧乏だった我が家

◎1959年(昭和34年)5月1日(大学3年・21歳)

 父と初めて競馬場に行った。父はときどき一人で行くようだが、一緒に行ったのは初めてである。行く道々、いろいろと説明をしてくれた。父のやり方は1レースに1枚(百円)しか買わず、1日に1,000円を使ったら帰るというもので、使うお金はささやかだった。また、馬券を買うときは、予想表なんか買っても無駄ということで、あてずっぽうだという。今回買ったのは、どのレースも「5-2」の1枚だけ。

 父が何を買ったかを教えてくれたので、1レース、1レースのゴールのときは、僕も思わず胸がどきどきした。

 父は、毎日、毎日、午後9時まで残業をして、帰れば寝るだけの生活だ。本当に大変だろうと思う。ときには疲れて、笑顔を見せない日があるが、きょうはとても楽しそうに見えた。1ヶ月に1度くらい、競馬に行けば息ぬきになるんじゃないだろうか。息子に同情されるのは親父の威厳にかかわるだろうが、日記の上でならいいだろう。

 もう一言。一家を経済的に支えているのは父だが、精神的に支えているのは母だ。母はいくら疲れていても明るい笑顔をたやさない。すばらしい母だ。父も立派だが、母はそれ以上だと思う。

◎同年10月14日(大学3年)

 毎月、我が家の家計は苦しい。まだ、きょうは月の半ばだが、家には最早、400円しか残っていない。

 昨夜、父が自分の友人の家にお金を借りに行ったが、向こうも借金を背負っていて借りることができず、きょうは僕が僕の友人の家に借りに行った。友人からお金を借りるのは、あまり気持のよいものではない。でも、借りなければ、明日から食べられないのだからしかたがない。友人の家に行くのは、卑屈になるなと思っても、なんとなく暗い気持になる。

 父が勤めていた会社がつぶれて以来、両親は、親戚の小さな商店(お菓子などを入れる紙の箱を作っている)に勤めて、毎日のように夜の9時まで残業をしながら働いているが、先月は、父の給料が16,000円、母が9,000円だった。もらったその日に、そこから、前借りの返済4,000円、米代3,000円、家賃3,000円、高校生の妹の月謝3,000円、保険料2,000円、貯金1,000円を払うと、あとは9,000円しか残らなかった。

 これに僕のアルバイト代3,000円と奨学金2,000円も加えてやりくりをしてきたが、きょう、14日で全部なくなってしまったのだ。

 明日からはもっと食費を節約しなけれならないようだ。

◎間借り生活(2018年10月記)

 1945年、小学校1年の時に終戦。東京大空襲で家が焼けて、新宿から溝の口に越してきたが、それ以降、祖父を含めて家族5人は6畳二間の借家で暮らした。その家はトタン屋根の染物工場の端にあり、台所とかまどは家の外。工場の屋根の下ではあるが、台所はむき出しの土の上だった。両親が夜遅くまで残業をして、帰ってくるのは夜10時頃なので、夕食は、祖父と妹と3人で、この台所で作って食べた。家族5人が寝たのは6畳一間に敷いた3枚の布団の中。私は祖父と一緒の布団で寝た。

 次いで、1955年3月(昭和30年・高校2年のとき)に、それまでの部屋を出てほしいと言われて、東急線の二子新地駅の近くで多摩川の土手の下にある借間に引っ越した。借間は6畳一間(ヒトマ)だけ。家族4人には狭すぎて、夜は布団を敷き、昼間は蒲団を片付けて生活をした。また、2m四方ほどのベニヤ板でかこった勉強部屋を庭先に作ってもらったが、隙間だらけで、冬はとても寒かった。

 でも、どんなに貧乏であっても、どんなに家が狭くとも、それをいやだと思い、苦にしたことは一度もない。なぜだろう。小学1年のときから長くその中にいたので慣れてしまったことや、遊びに忙しくて貧乏を感じる暇がなかったことなどによるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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