マッキンリー

あこがれのマッキンリーへ -58才の夢を追って-

あこがれのマッキンリーへ -58才の夢を追って-
                 1996年6月1日-6月26日

   注)本稿はブログに当初掲載の「マッキンリー NO1-NO3」を集約し改題したものである。 

<山頂に立って>
(山頂:「やっと山頂に達した。……はるかなる青空へと吹き抜けるような開放感。涙は湧かない。登頂できた時は感動で涙するかもと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい開放感が涙を忘れさせてしまったのだ」)

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 <山頂直下>

(下:山頂が見える。山頂へ、あと、50分。後ろが私。池田さんとザイルで結ばれて。成沢さん写す。)

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(下:登ってきた尾根を山頂から見下ろす)

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<登山開始前後>

(飛行機で登山口へ。)

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(機上から。)

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(下:氷河上に着陸。ランディング・ポイント、2134m。ここから登山開始)

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(ランディング・ポイントにある管理事務所)

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(下:広い氷河をさかのぼる。幅は2-3kmはあろうか。傾斜はゆるい。)

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(下:2泊目。BC2。登ってきたカヒルトナ氷河を見下ろしながら夕食)Image0008

(下:3500m地点で一休み)

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(下:3泊目。3800m地点・BC3のテント)

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(下:4300mにあるBCを出て、傾斜45度の雪壁を登る。

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(雪壁を登り終えて一休み)
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(BCを見下ろす。雪原の中央、細かい点がBCのテント。右端に登ってきたカヒルトナ氷河が見える。)

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(雪壁を登り終えて、HCへ)Ba001_043

(下:HCに続く尾根。両側は深い谷底へ切れ落ちている。)
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(5250mのアタックキャンプ。ハイキャンプ・HCともいう。)

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写真の詳細を最初に見る場合は以下のURLをクリックしてください(クリックは1回で。しばらく待つと写真が現れます)。
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/czvcwF?authkey=AqqB6hvBMHE

(参考「私のブログの記事一覧」)

 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回のサンティアゴ巡礼(フランス人の道、ル・ピュイの道、ポルトガル人の道、北の道)、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の海外登山記、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の国内登山記、④「読書の楽しみ」、「毎日、無事平穏」等の日常の思い、⑤シベリア鉄道等の海外旅行記の5つです。記事の一覧は下記をクリックするとみることができます。

 ブログ・私の登山および旅行記・記事一覧

以下、本文。

<マッキンリーに行ける!>

(きっかけ)
 1996年1月11日(木)の午後、職場で仕事中のことである。
 机の上の電話が鳴った。取り上げると「近藤です」という声。聞き覚えがあり、すぐに分かった。一昨年アコンカグアに連れていってもらったあの近藤さんからだ。

 マッキンリーに行かないかという。「エッ」、一瞬、胸が高鳴った。自分の実力ではマッキンリー登山は実現不可能な夢であり、登りに行くなどとは考えてもいなかった。そのチャンスが突然めぐってきたのだ。マッキンリーに行けるかもしれないと思うと、ドキドキした。実は、近藤さんへの今年の年賀状に「実現不可能な夢かもしれませんが、マッキンリー登山の企画があったら是非知らせてください」と書いておいたのだが、その返事がすぐに来るとは---。本当に行けるのだろうか。

 63歳の女性(その人は、昨年近藤さんがダウラギリに登ったときに一緒に行き、5,800mまで登ったという)から彼に、マッキンリーに行きたいとの話があり、それなら私も一緒にどうかということで電話をくれたのである。日程を中高年向きに組むという。登頂成功の確率は、若者の多い一般のパーティーに参加するよりはかなり高いはずだ。

  職場や家族の了解を取り付けることが先決なので即答はしなかったが、その日は一日、何かわくわくとして興奮が冷めず、仕事が手に付かなかった。

 マッキンリーは北アメリカ大陸の最高峰で標高6194m、もちろん、世界五大陸最高峰の一つである。私は50才になってから、海外の山に登りはじめ、そのうちの3つには行っているので、これが行ければ4つ目となる。もっとも、挑戦はしたものの、登頂できたのはキリマンジャロだけだが。

  私はこの山を一度見ている。1980年代のことだが、日本からヨーロッパに行く飛行機のほとんどはアラスカのアンカレッジ経由であり、私も1987年に職場の研修旅行でここを経由しヨーロッパを往復した。そのとき、機外に真っ白なマッキンリーが見え、他の乗客と一緒に「マッキンリーだ」と興奮したことを覚えている。あのときは、海外の山に行くことなど全く考えていなかった。それから10年を経て、それに挑戦できるとは--。

 早速、以前に読んだ田部井淳子著「七大陸最高峰に立って」(小学館)とディック・バス、フランク・ウエルズ共著の「7つの最高峰(SEVEN SUMMITS)」(文芸春秋)を持ち出し、そのマッキンリーの部分を読んでみた。荷を背負った上に荷を積んだソリも引っ張って、最初の数日間は氷河の上を歩くのだが、そこには、深いクレバスが口を開けており、時には転落事故があるという。鼻の先がつく程に急峻な雪壁の登りがあるとも--。また、テントを吹き飛ばしかねない強風が吹くという。

 自分に登れるだろうか。ともかく、行くことができるということを前提に、体力づくりに励まねばならない。それと、5月には富士山に登って高度順化をしておこう。

 )五大陸最高峰とは、七大陸最高峰から南極大陸のビンソンマシフ(4897m。5140m 説もある)とオセアニア大陸のカルンストン・ピラミッド(4884m) を除いたものであり、マッキンリー(北米大陸)、モンブラン(ヨーロッパ大陸。エルブルースとの説もある)、キリマンジャロ(アフリカ大陸)、アコンカグア(南米大陸)、エベレスト(アジア大陸)の五つの山である。

<マッキンリーに登るために-準備山行>

(泳ぐ)
 今までは一週間か二週間に一度泳ぐ程度だったが、体力をつけるために二、三日に一度は泳ぐことにした。

 ウイーク・デイは、昼か、職場の帰りに千代田区の体育館で泳いだ。一回に泳ぐのは、1500 から 2000m。
 休日には、取手の市民プールに行く。このときは、50分泳いでは10分休むという形で、5000m を泳ぐこともあった。

 登山は持続力が勝負の分かれ目になるので、いかに早く泳ぐかは考えず、長距離をゆっくりと休まずに泳ぐように心掛けた。目安は50分で2000mを泳ぐこと。

(準備山行)
 今までに冬山に登った経験はほとんどない。数年前のゴールデン・ウイークに燕岳と聖岳に登ったことがあり、2年前の12月にアコンカグアの準備山行として五竜岳と富士山に登ったという程度である。

  ときどき、Kさんと連絡をとるが、いつもハッパをかけられる。「君は冬山の経験がほとんどない。今からでもできるだけ、雪山のテント生活を経験して慣れておくように」と。

  マキンリーが決まったあとで登ったのは、赤岳(2月)、富士山(4月に2回)、奥大日岳(5月。馬場島から)、木曽駒ヶ岳(5月)などである。なお、アコンカグアで一緒だった成沢さんと、偶然にも赤岳の坊主小屋で再会し、この話をしたのがきっかけで、彼も参加することとなった。
                      
<マッキンリー登山のあらまし>

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(山容)
  はじめに書いた通り、マッキンリーは標高6194m、アメリカ大陸の最高峰であり、もちろん、世界五大陸最高峰の一つでもある。アメリカのアラスカ州にあって、北緯63度に位置する。緯度が高いために、標高のわりには寒くて、空気が薄い。頂上付近は夏でも-30°になるという。登山家の植村直巳氏が、厳冬期の単独登山に挑戦し遭難した山としても有名である。

(登山の適期)
 5月末から7月始めが登山の適期。このころ毎年、世界中から約1000人の登山者がやって来る。国別ではアメリカ人が最も多く、あとはヨーロッパ人、ロシア人、韓国人、日本人等であり、そのほとんどが、我々がとったウエストバットレス・コースを登る。

(登山に要する日数)                           
 登山に要する日数は、氷河上を歩き始めてから10-20日間。高度順化を考慮せずに最短で登れば、ランディングポイント-BC(4300m)の間が3日、BC-ハイキャンプ間が1日、アタックが1日、ハイキャンプからランディングポイントへの下りが2日の計7日間で往復できるが、一般にはこれに荷上げの日数(荷揚げ後、いったん下のキャンプへ下りる。それは高度順化のためでもある)と休養の日数が加わる。また、悪天候で行動ができず、日数が更に伸びることもある。

 私達の場合は、中高年であり休養日を多く取ったこともあって、下記のとおり、全体では26日間、氷河上に下り立ってからの登山では17日間を要した。

 登山期間中は、雪の上にテントを張って寝る。もちろん、風呂はない。下着も替えない。私はひげも剃らなかった。

(私達の日程)                              
 1996.6. 1 成田発、アンカレッジへ。
      6. 4 小型飛行機でランディング・ポイントに着陸。登山開始。
      6.16 マッキンリーの登頂に成功。
      6.20 ランディング・ポイントに帰着。タルキートナへ。
      6.26 成田着。

(登山費用)

 登山費用であるが、私の場合、飛行機代、ホテルとテントの宿泊代(全食事付)などを含めて約50万円。インターネットによってアラスカ登山(ガイド付き)に英文でアクセスすると、ウエストバットレス・コースのガイド料はアラスカ集合で3000$ とある。仲間同志が集まってガイドなしで行けば、もっと安くなると思われる。
(隊の編成)
 我々の隊は6人編成。
  素人が3人。高所に強く、アコンカグアの登頂にも成功している成沢さん、高所登山の経験があり、64才のがんばり屋の下の本さん(女性)、それに私である。

  ベテランが3人。隊長の近藤さんは54才。海外の高所登山について豊富な経験を持っている。50才代になって隊長として、世界に14座ある8000峰のうちの3つに登った。マッキンリーにも既に2回登っている。

 池田さんも8000m峰登頂の経験者。軽井沢の高原に住みながら溶接の仕事をやっている。隊長と下の本さんが5000m 地点でビバークをしたときは、無線連絡を受けて必要な装備を持ち、雪の岩稜帯を飛ぶように駆け下りていった人である。

 宮崎さんは一番の若手、39才。岩と雪山について豊かな経験を持つ。登頂のときも、疲れを知らなかった。

(食料の調達)
 20日間の、6人分の食料のほとんどは日本で調達。主食は乾燥米(アルファー米といわれ、一食約200円。湯で戻して食べる)。あとはラーメン。副食も日本から乾燥食品を持参。ほかに、現地で大量の牛肉と野菜を購入。

 テントでの食事は朝・夕の2回。昼はなし。行動中は、チョコ、アメ、ゼリー、パン等の行動食を食べた。これらは現地で購入。

<登 山 開 始>

(マッキンリーへの道)
 日本からアンカレッジに直行する航空便はない。ソウル経由か、アメリカの大都市経由であるが、ソウル経由のほうが近い。私達が行ったのはソウル経由である。

 まず、海辺の都市・アンカレッジで一泊。
 スーパーで野菜・牛肉等の生鮮食品を調達。それと、アラスカの有名なスポーツ用品店「REI」に行く。「REI」、この名前を私は初めて聞いたが、近藤さん達は、この店に寄るのを楽しみにしていたようで、店内をくまなく見てまわり登山用品をいくつか買っていた。

 アンカレッジから、タクシーに乗って約3時間、マッキンリーの登山基地タルキートナへ。ここは、中心部に10軒ほどの店が建ち並ぶ人口300人ほどの小さな村である。みやげもの屋、宿屋、酒場、食堂、食料品ストアー、ハンバーガーショップ、スポーツ用品店などが並ぶ。また、村はずれには飛行場があり、小型飛行機が登山客や観光客をマッキンリーに運んでいる。

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 ここの建物はみな木造。内部は薄暗く、狭くて古びており(スポーツ用品店だけは最近開店した、きれいな店だった)、この一帯は西部劇の世界にタイムスリップしたような雰囲気があった。

 その周りには、登山を管理するレンジャー事務所、郵便局、それに駅。村のむこうにはやや離れて、河原の中にオートキャンプ場がある。河原まで来ると、遠くに Mt,McKinley、Mt,Foraker(5303m) 、Mt,Hunter(4427m)という真っ白な3山が並んで見える。この山域はこれら3山を中心とした独立の山塊のようだ。早朝にひとりで散歩をしているときに、この場所を発見した。

 レンジャー事務所で入山手続きを行う。環境保護のビデオを見せられ、30分程、担当官から登山の注意事項について講義を受けた。

 エアタクシー(登山口へ行くために乗る小型飛行機のこと。操縦士のほか3-5人が乗れる)を待つ間の泊まりは、中心部から歩いて10分ほどのところにある一軒の家の土間。行きも帰りも、ここに泊まり、他の登山者と一緒にシュラフ(寝袋)に入って土の上にゴロ寝をした。この家がエアタクシーの会社と契約していて、泊まりは無料とのこと。

 この家の周りは背の高い林。朝などは、新緑が日に映えてすがすがしい。この林を抜けて5分ほど行くと、氷河から濁った水を集めて流れる大河に出る。ここから見えるのはフォラカーのみ。その隣にあるマッキンリーは林に隠れて見えない。
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(下の写真:上流に行くとマッキンリーが見える。3つの山の右端がマッキンリー。)

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 エアタクシーの空港は村の中心から歩いて5分のところにあり、小型飛行機を数機所有する小規模な航空会社が4社並んでいる。私達はダグ・ギーティング社に飛行を依頼。社長のダグ・ギーティングは歌手としてCDを出しており、また、村に丸太小屋風の小さなハンバーガーショップも持っている。地元では、かなりの有名人らしい。

 飛行を依頼した日、飛行場に行ったが、天候不順で飛行機は飛ばなかった。山行用の荷物をすべて持って来ていたので、飛行場の事務所に泊めてもらい床に寝て朝を待つ。
 天候不順が続けば何日も足止めになるのだが、幸いにして、翌日は快晴。午前7時頃、ミスター・ダグ・ギーティングがはりきってやってきた。飛行OKだという。

 タルキートナから登山口に飛ぶ。飛行機は広大な原野を越え、氷河を越え、雪と岩の急峻な山岳の間を抜けて約30分で、氷河上にある「ランディング・ポイント」と呼ばれる登山基地(標高2134m)に着陸した。ここから、いよいよ登山開始だ。17日間に及ぶ雪上のテント生活が始まる。
                                     
(大氷河をさかのぼる)
 まず、幅2-3kmもあるカヒルトナ氷河を、BCまで正味で4日間ほどさかのぼる。20kgに近い個人装備を背負い、10kgほどの荷(テント、食料、燃料などの共同装備)を載せたソリを各人が引いて登る。

 3日目に3300m地点に到着。ここで上部のウインディーコーナー(風の強い曲がり角の意味。BCへの途中にある)への荷上げに一日を使うが、そのほかに休養日や吹雪による行動中止の日もあって、結局、このテントでは3日間を過ごした。7日目にBCのテントに入る。

(ウインディー・コーナ-への荷上げ)
 4300mのBCに入る前に、前述のように3800m地点のテントから途中のウインディー・コーナーまで荷揚げを行った。

 昼の12時スタート。はじめは雪のかなり急な斜面。それから、緩やかになり、ウインディー・コーナーに続く広々とした雪原に出る。途中、ブルーアイスが露出している所があり、その上を歩く。コーナーに16時30分着。荷物をデポし、高度順応のために更に登り、18時45分に引き返す。テントには20時30分帰着。
 このときは一日中、吹雪いていて、着衣の外側が凍った。目出帽で口と鼻を覆って登ったのだが、口に当たる部分は凍って板のようにカチカチになってしまった。
 隊長はそんな吹雪の中でも、「アタックの時の訓練になる」と言って笑っていたが。

(BCへ)
 7日目、4300m のBC(ベースキャンプ)へ向かう。朝食10時。12時スタート。重荷を背負い、重いソリを引いて登る。
 ウインディーコーナーに着くと、前回運んでおいた荷もソリに載せたので、ソリが更に重くなった。出発からのはじめの3日間は、氷河の傾斜は比較的ゆるやかだったが、BCへの最後の1日は傾斜が急でソリの引き綱が腰骨に食い込んで、痛くて本当につらかった。
 雪の舞う中、22時にBC着。たいへん疲れる。さすがに寒い。アイゼンを素手で外したが、そのために手先が凍えて感覚がなくなってしまった。凍傷の恐れを感じ、あわてて、手を下着の中に入れてもんだ。

 それから、テントを設営。疲れた中で宮崎さんと池田さんが雪をとかし、夕食を作ってくれた。食べたのは24時過ぎ。もちろん、外は白夜。明るい中での夜食だった。

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(純白の世界)
 前に登ったアコンカグア(6959m、アルゼンチン)と較べると、マッキンリーは雪と氷の世界。ほとんど全山が雪で覆われており、岩は尾根筋にわずかに露出するのみである。これに対し、アコンカグアは赤黒い岩峰の山であり、斜面は細かく割れた岩片で覆われ、雪はところどころにあるだけだった。

 4日間の氷河歩きのうち、2日目,3日目は快晴に恵まれた。
  前後左右の景色は抜群。氷河のあまりの広さに距離感を失い、数日前にそのそばを通った雪峰が、ほんの2-3時間で行けそうなほどに近く見えた。氷河の両側には、純白の嶺々や、いまにも崩れそうな雪壁が聳え立ち、雪壁の崩壊した部分はブルーアイスで、青白く輝いている。その透明感のある青色が何ともいえずに美しかった。

 時々、濃紺の空はるかに、赤い点、白い点となって遊覧飛行機が飛ぶ。

  遠くの山で「ドーン」という音がして、雪煙が上がる。雪崩だ。
 今までに見たことがないような雄大な雪の世界。わくわくする。半年前には、こんなところに来られるなんて夢にも思っていなかった。

(クレバスの危険)
 写真を撮るときや小用のときは、気をつけねばならない。仲間と結んだザイルを解くと危険である。表面に積もった雪が、「深さが何十m、何百mもあるクレバス」を隠していることがあるからだ。皆が通った跡をたどれば、それほど危険はないが、トレースを外すとクレバスに落ち込む危険がある(もっともトレースをたどっていても、ときには落ちることがあるのだが)。小用のときでもザイルは解かない。女性もそうしていた。

 今回の山行中も、別の隊で2人ほどクレバスに落ちて骨折したと聞く。一人はヘリコプターで運ばれ、一人は仲間につきそわれ自力で下山したという。落ちたときに、もし仲間とザイルを結んでいなければ怪我だけでは済まず、命を失う危険がある。
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(歩行中の注意)
 歩行中は、クレバスに注意するほかに、ザイルをアイゼンで踏まぬように常に注意をしなければならない。ザイルを傷つけると切れやすくなるからだ。
 油断をするとすぐにザイルが腰からたれ下がり、踏みつけそうになる。これを防ぐには前の人との間隔を適度にとればよいのだが。

(アイゼンがはずれる)
  ウインディー・コーナ-への荷上げの日、荷上げから帰って、テントのそばでアイゼンを外しているときのことだ。片方のアイゼンが前と後の半分づつに分離してしまった。
 真ん中のネジが抜けたのである。はっとして、心臓が高鳴った。予備のネジは持ってきていない。ネジがないと修理は不可能。登山を続けることはできない--。

 あわてた。アイゼンを脱いだあたりの雪の中を素手で必死になってかきまわす。他の場所でネジが外れた恐れもあり、それなら見つからないが--。今回はオーバーシューズを着ける必要があり、自宅でネジを外しアイゼンの長さを調整したのだが、そのときにネジをきっちり締めなかったようだ。

 雪をすくっては割ってみる。ない--、あきらめかけたころ、雪の中に固い小さな金属片が見つかった。その嬉しかったこと。
 アイゼンの手入れは大事。命が懸かっている。

(テントの中で)
 翌日はBCで休養。
 目をさますと、テントの内側一面に霜がついていた。あとで聞くと、外は零下26度。シュラフの外側の生地がうっすらと凍っている。寝ている間に、吐く息が凍りついたのだ。午前6時位か。トイレに起きる。体がテントの内側にふれると、霜がさらさらと雪のようにシュラフの上に落ちた。

 外が吹雪のときに用を足しに行くと、下着の中にまで雪が舞い込む。でも、じっと我慢。これに耐えないとマッキンリーには登れないのだ。このくらいのことはなんでもない、命に係わることではない--。

 テントに帰っても、何もすることはない。また、シュラフにもぐり込み、ウトウトとする。シュラフは厳冬期用のものだ。厚着をした上に毛の腹巻も着けているので、もぐって寝れば、ほどほどに温かい。

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 10時を回る。稜線の上に太陽が顔を出し、テントを照らすようになると、急にテント内が温かくなり、付着した霜が解け出す。それが水滴となって流れ、テントの内側に何本もの筋を作る。まだ、食事の時間には間があるようだ。シュラフから顔を出して、水滴の流れを追う。テントの生地を伝わってゆっくりと落ちていた2本の流れが合わさると、速さを増して、ツーと流れ落ちる。

 この日は薄日が差したり、雪がちらついたりの一日だった。太陽が出ると、テントの中の気温は上がる。午後は裸でいてもよいくらいに暑くなった。風を入れるために入口を大きく開ける。

 このような休養日は、本を読んだり、CDを聞いたりして過ごす。
 本は、井上靖の「北の海」と今井通子の「私の北壁」を持ってきた。どちらも以前に読んで面白かったものだ。「北の海」は柔道一筋のバンカラ学生の物語。戦前の金沢四高が出てくる。主人公の生き方の型破りで、豪快なこと。仲間に遠慮しながらも、テントの中で思わずくすくすと笑ってしまい、夢中で読み終えた。

 CDは、アコンカグアのときと同じように、「大黄河」「新世界紀行」などを持ってきた。

 でも、テントでじっとしていると、ときどき「登れるだろうか」と不安になる。「登れたら、どんなに嬉しいことか」と思いつつも、「登れる確率は20-30%ぐらいかな。たぶん駄目かも」という悲観的な気持にもなる。

(食事)
 テントの食事は豪華だった。我が家でも、めったにないほどのご馳走。MさんとⅠさんが担当し、工夫をしてくれたのだ。

 アンカレッジで買った牛肉を焼き肉にしてたっぷり食べたが、これが特においしかった。肉入りのカレーライスも出た。

 ほかに、なすの漬物、納豆、大根おろし、きんぴら、とろろ、じゃがいものサラダなど。これらはすべて乾燥食品であり、水で戻して食べる。
 手巻きずしも何回か。アンカレッジで買ったきゅうり、乾燥食品の納豆、ソーセージ、チューブ入りの「しそ梅」などを載せて巻く。これもうまかった。

 しかも、デザートには毎回、好物のプリンが出た。これは私の注文で、粉末を買ってきてテント場で作ってくれたものである。

(服装と装備)
 夜寝るときは、冬用の分厚い下着を上下とも2枚づつ着る。更にウールのシャツと薄手の羽毛服の上下を着け、その上にジャンバーを着て、ズボンをはく。もちろん、毛の靴下と毛の手袋も。それでも寒いときは、毛の腹巻も着ける。

 シュラフは-27度cに耐えられるものを持参。もちろん、シュラフカバーも。

 ハイ・キャンプでは、スリーシーズン用のシュラフを中に重ねたが、これはやや余分だった。温かいが、荷物がそれだけかさばるのだ。

 出発のときは、これら衣服の上に更に多くの装備を着けねばならず、装着に小一時間はかかる。まずは、オーバージャケットとオーバーパンツ。次に靴を履きオーバーシューズを着ける。
 頭には目出帽と高所帽、ゴーグル。更に腰にハーネス。外に出てアイゼンを装着。毛の手袋の上にはオーバー手袋も。急傾斜を登る時はユマール(20cm程の長さの昇降器具。固定ザイルに掛けて、手で握って登る。上には進むが、下にはおりない) を着ける。シュリンゲとカラビナも忘れてはならない。

 また、緩やかな下りの場合はアイゼンの代わりにオーバーシューズの上からスノーラケット(かんじき。飛行場で借りて、ソリに載せ持ってきた)を着ける。アタックのときは更に、分厚い羽毛服も着用した。

 日焼け止めクリームをぬり、唇のひび割れ防止にリップクリームをぬることも忘れてはならない。リップクリームは2-3時間おきにぬらないと、唇が割れて食事ができなくなる恐れがある。

 ランディング・ポイントとBCの間では、このほかに、ソリに荷を着け、ソリがひっくり返らないように上手に紐を掛ける仕事もある。

 そして最後に、全員がソリを間にはさんでザイルで繋がり、両手にストックを持って出発する(BCより上ではソリはなしで、ピッケルを手にして)。
                                      
<いよいよ、アタック>

(ハイキャンプへの荷上げ。30度の雪壁を登る)
 10日目、最終キャンプ地であるハイキャンプ(5250m)への荷上げを行う。 まず、尾根筋まで。ジグザクにトレースをたどり3/4を登ると、上部は傾斜が最大45度の雪壁となる。200 mはあろうか。更にその上半分は雪の着かないブルーアイス。

 上がり用と下り用に2本の固定ザイルが張ってあり、これを伝ってユマールを頼りに登る。氷壁に鼻がつきそうなほどに急な登り。上から見下ろすと垂直に近く見える。これを登りきって、BCから約4時間でやっと尾根に出る。

 次は、両側の切れ落ちた岩稜帯。これを2時間行く。途中、右側のはるか下にBCのテント群が見えた。あそこまでの標高差は 600mはあろうか。大きな岩を巻いて、固定ザイルのある急斜面を登る。雪面は凍っていて固い。次いで、左側にはるか谷底まで切れ落ちた斜面をトラバースする。トレースの道幅は30cmも無さそう。滑れば終わり。ザイルでサポート役の池田さんと繋がってはいるが、緊張が続く。

 BCから6時間でハイキャンプに到着。吹雪の中、荷を雪に埋めて、BCに戻る。

(ハイキャンプに入る)
 11,12日目はBCで休養。13日目、アタック用具をすべて持ってハイキャンプへ。つらい登りを再び繰り返す。

 隊長とザイルを結んだ下の本さんが遅れる。結局、ハイキャンプに到達できず、5000mの稜線上で、二人はビバークを強いられた。さぞ、寒かったことだろう。

(アタック)
 14日目にアタック。
 ビバーク中の隊長から「4人だけで先に登るように」との指示があり、4人で午前2時に起床し、4時30分にスタート。快晴である。私は池田さんと1対1でザイルを組む。もう一組は、宮崎さんと成沢さん。

 当初の計画では、宮崎さんと成沢さんと私でザイルを組み、池田さんは、ビバークをした2人をサポートするためにテントに残る予定だったが、私は1対1で池田さんとザイルを組みたいと強く近藤さんに希望した。それは、3人で組んでいて私ひとりがダウンしたときは、全員が登れなくなる恐れがあるからだ。体力のある二人のペースではなく、自分のペースでゆっくりと登りたくもあった。

 この日、初めて分厚い羽毛服を着ける。いままではオーバーヤッケで済ませてきたが、寒さが違うということで、これを着用した。その下には厳冬期用の分厚い下着を2枚と薄手の羽毛服、それにセーターとジャンバーも着用。

 デナリパスを登り稜線上に達するまでは約2時間。途中で、池田さんが「足先の感覚が無くなった。凍傷になりそう」と言って、靴を脱いで足先をもむということがあったが、大事には到らなかった。

 稜線に出る。まだ、登山者の姿はない。私達がきょうの一番乗り。
 ここから私が前を歩く。池田さんが、そのほうが私のペースで歩けて、登れる確率が高いと判断したからである。10mほど続く急斜面が一箇所あったが、それ以外は延々とゆるやかな登りが続く。そんなに苦しくはない。順調だ。宮崎・成沢組ははるか先を行き、もう姿は見えない。

 池田さんが「この調子でいけば、登頂できますよ」と言ってくれた。ともかく登る。後で気がついたが、登ることに夢中で、頂上直下の稜線に出るまでは、写真を撮ることを忘れていた。

 デナリパスの上の稜線に出てから4時間は経ったろうか。大きな雪原に入る。雪原の向こうの、日に輝く雪の急斜面に、はるか上方へと一筋の踏み跡が続いている。高度差は100mはありそう。雪原まで来れば頂上はすぐと本に書いてあったようだが、勘違いだった。まだ先が長いと知って、このあたりから急に疲れが出てくる。足が前に出なくなった。

 休憩をとるが、疲れで食欲がなくなり、何も食べたくない。池田さんが「何か食べないと、あとで力が出なくなり、登ったはいいが、帰ることができなくなって死にますよ」と言う。

 でも、持ってきたチョコレートやパンはパサパサで口に入らない。池田さんが持参したドライフルーツをくれたので、それを食べる。アタック時の行動食は、共同で用意したものに頼らずに、独自に好物を用意してくればよかったと思う。

 斜面に達する。疲れきった自分に登れるだろうか。それでも、登らなければ--。ここから苦闘が始まる。ハアハアと激しく息をしながら、なんとか気力をふりしぼって、足を前に出す。一歩進むと、立ち止まって何回も深呼吸。酸素が欲しい。酸素は平地の1/3ぐらいか。

 なかなか、体に酸素が回らない。深呼吸を繰り返すと、また、歩く気になる。そして、また、一歩。これを繰り返す。斜面を登りきれば山頂のはずだ。それだけを考えながら、ともかく一歩、また一歩と登る。

 近藤さんが前回登ったときは、このあたりで天候が崩れて引き返したと聞く。吹雪に巻かれホワイトアウトの状態となり、足跡や目印(天候が崩れそうな場合は、数十mおきに赤い布をつけた竿を立てながら登る)が見えなくなって、感を頼りに命がけで下ったという。しかし、きょうは天気は最高。崩れる恐れは全くない。目印も不要で、赤布の竿は途中に置いてきた。登頂にも、下山にも、いくら時間をかけてもよいのだ。

 雪原から一時間もかかったろうか。12時頃、斜面を登り切って、やっと稜線に達した。ところが、「よし、ここが山頂だ。やっと着いた」と思いながら斜面を回り込んでいくと、更にそのはるか先に、より高い純白の峰があるではないか。

 ショック。ここではなくて、あれが山頂なのだ。しかも、そこに達するには、数十mは続くナイフリッジ(両側が鋭く切れ落ちた雪の稜線)を渡らねばならないようだ。高度の影響だろうか、気持も悪くなった。もう、限界だ。自分には無理だ--。

 とたんに疲れが全身を覆い、ガックリと雪上に座りこんでしまった。上空は深く透きとおるような青空。はるか下の方は見渡すかぎりの雪と岩の山々。快晴、無風。日を一杯に浴びながら、頭がぐらぐらするほどの疲労感におそわれた。

 池田さんに「あきらめます。もう動けません」と伝える。アーア、また駄目か。むなしさが襲ってくる。結局、アコンカグアにも、ここにも登れないのか--。

 「池田さん、ひとりで登ってきてください。僕はここで待っています」と言うと、彼は「あなたをひとり残して行くわけにはいかない。先行した宮崎・成沢組が下りてくるまで待ちましょう」と言って、行こうとはしない。

 山頂に達した二人組がナイフリッジを渡って下りてくる。豆つぶのように見えた二人がみるみる近づいてきた。山頂はあんなに近いのだ。それをぼんやりと眺めていると、ふと気分が変わった。「あんなに近いのなら、僕にも行けるかもしれない」と。

 20分か30分ほど座っていて疲れがとれたためでもあろう。何か元気が出てきた(そう言えば、キリマンジャロのときもそうだった。5600mのギルマンズ・ポイントに達したときは、「もう駄目だ。ここで引き返そう」と一度は思った。しかし、休んでいる間に地平線から太陽が顔を出して急に温かくなり、そのお陰もあって元気を回復し、結局、そこから2時間かかる最高地点、5895mのウフルピークまで登ってしまったのだ)。

 「よし、行ってみよう」。ザックを下ろす。胸のしめつけが無くなり、気持も良くなる。ザックは風で飛ばないように池田さんが雪の中に埋めてくれた。

 空身で気分良く、ナイフリッジへと踏みだす。30-50cm幅の雪の稜線上を行く。両側が切れ落ちているが、池田さんにザイルで確保されているので、怖さは感じない。なんなく渡りきる。無風であることも幸いした。これが強風が吹き荒れていれば、転落の危険が高くなり、渡るのは難しかったであろう。

 斜面を登り、最初の頂きへ。トレースからはわずかに高さ10m程度の雪の小山に見える。そこに近づくと、トレースは更にその先へ延びていた。次の頂きへ向かう。足取りは依然として軽い。まだ先だ。その次へ。          

(登頂に成功)
 やっと山頂に達した。これ以上高いところはない。13時10分。休憩地点から45分で登ってしまった。純白のフォラカー山がはるか下に見える。その向こうには雪と岩の峰々。白くうねって見えるのは氷河だ。その先にアラスカの原野が霞んで見える。

 山々と平行に点々と雲が浮かぶ。アラスカ第一の高みに立っているのだ。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。
 涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ。
 池田さんと握手。写真を撮りあう。

(頂上を後にして下山)
 下山にかかる。
 登頂のために全力を使い果たし、下山する力はほとんど残っていなかった。

 下に向かって足を踏み出すのだから、こんなに楽なことはないはずなのに、足が前に出ない。

 何歩か歩いては立ち止まり、深呼吸を繰り返してから、また歩き出す。しかし、数分間で、また足が前に出なくなる。全く、よれよれだ。あいかわらずの快晴、無風。暑い。羽毛服を脱ぐ。

 やっと、デナリ・パスの上に到達。次いで急斜面をトラバース気味に下る。ここは、厳冬期に山田昇氏(エベレスト登頂者)とその仲間2人が滑落して亡くなったところだ。要注意である。立ち止まりたくなるのをこらえて下るが、何度かよろめく。歩く力を使い果たし、ザイルを結ぶ池田さんに悪いなと思いながら休憩を申し出て、数回、休憩を取る。

 やっと、テントのある雪原の端に下り立つことができた。もう危険はない。そう感じた途端に歩く気力を失った。ザイルを解き、池田さんに先に行ってもらうことにして、雪面に座り込む。心底、疲れた。もう動けない。30分は座っていたであろう。

 それから立ち上がり、ゆっくりとテントに向かう。ほんとうにゆっくりと、亀のように。背後から何人かに追い越される。この歩みでは病人と思われるかもしれない。普通なら10分のところを1時間ほど掛けてやっとテントに着く。

 下の本さんが旗を持って、また、近藤隊長がコーヒーポットを持って迎えてくれた。コーヒーを一杯、なみなみと注いで飲む。成沢さんが、私がはずしたアイゼンとピッケル、ザックを受け取ってくれた。有り難い。皆と握手。そのあとしばらくは、テントに入らず雪面に座りこんでボーっとしていた。

(隊長は、翌日単独登頂)
 この日同行しなかった隊長は、翌日単独で登頂。午前4時30分に出発し、10時30分にはテントに戻ってきた。私が14時間かけたところをわずか6時間で往復してきたのだ。おりてきても、息づかいは普段どおりである。疲れた様子は全くない。「えっ、ほんとうに行ってきたの」という感じだった。

 こんなに早く行けるのは、体力があるだけでなく、高度に慣れているからだと思う。面白いので、ちょっと、自分と比較してみよう。

 私は、準備山行として、4月の末に一人で雪の富士山に登ったが、このときは5合目(佐藤小屋)から山頂までの標高差1000mを7時間で往復した。マッキンリーのアタックも標高差は1000mである。標高差だけをとれば、所要時間にそう変わりはない。何が違うかといえば、6194mと3776mの高度の違いである。高度順応が完全なら、私も、もっと早く登れたかもしれない--。

 もっとも、この山に登るには、高度順応だけでなく、どんな危険にも即座に対応できる判断力(それは豊富な経験に基づく)とすぐれた登山技術が必要であり、その点では近藤隊長のレベルは抜群である。また、私達の倍近い荷を背負って長時間歩けるだけの体力、5000mの稜線上でビバークしたあとでも疲れを知らない持久力など、誰にも負けない力も備えている。

(登頂出来たのは)
 登頂出来た第一の要因は、アタックの日が一日中快晴という幸運に恵まれたこと、しかもその好天が、我々がハイキャンプに到達した日の翌日に訪れたことにある。

 登山開始から3日目にすれちがった若い2人の日本人は、天候が悪かったためにハイキャンプで5日間も食料を食いつないでねばり、その後の好天をとらえて登頂したと言っていた。また、そのころ下りてきた何人かの外人に「サミット、サクセス(成功)?」と聞いてみたが、「ノー。バッド・ウエザー(悪天)と言う人がかなりいたのである。

 第二の要因は、高度順応が比較的うまくいったことである。登頂の日、6000m を越えたあたりでは、酸素不足のために体のだるさに悩まされたが、それ以前のテント生活では頭痛や吐き気に悩まされることはほとんどなかった。

  第三に、ヒマラヤの高峰を経験した三人のエキスパートがサポートをしてくれたことである。特に、近藤さんはマッキンリーに既に2回登っている。今回は、それらの豊富な経験をもとに彼が作成してくれたスケジュールに従って登った。その計画は、予定した日数の範囲内で、高山病を予防しつつ登頂の可能性を最大限に追求するというものだった。

 もちろん、池田さん、宮崎さんのサポートも忘れてはならない。彼らのサポートがあるために、急峻な雪面の登り下りや、両側が切れ落ちた岩稜帯やナイフリッジの通過の際は、安心して行動することができたのだ。
 そこでは一瞬のつまずきが事故につながる。私のような素人はいつ足を滑らすか分からない。それを背後から常に見守り、長時間にわたって確保のための緊張感を持続させるのは大変なことだったにちがいない。
 このほか、三人の方には、共同装備のかなりを背負ってもらい、また、宮崎さんには食事作りをも担当してもらった。

  四に、私自身も過去にキリマンジャロやアコンカグアに登って高所登山に少しは慣れており、高所ではどの程度苦しいかがある程度分かっていたということもあるように思う。

<ハイキャンプからの下山>

(雪壁で転倒)
 15日目。下の本さんがデナリパスまで登りたいと希望したので、近藤、池田の2人はハイキャンプに残り、隊長の指示で宮埼、成沢、田村の3人だけが先にBCに下りることとなった。
 前日の登頂の疲れがかなり残っており、無事に下れるかやや不安を感じながら出発する。

 登りのときは2回に分けて荷上げをしたが、下りではそれらをまとめて背負った上に、共同装備として持ってきていた数十本の目印用旗竿もザックに差して持ったために、荷が重かった。20kg以上あるようだ。快晴だが、風は強い。

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 稜線に出ると、旗竿が風にあおられ、体がゆれた。ザイルで確保されているとは言え、両側が切れ落ちた稜線上では、転倒すれば3人一緒に滑落する危険がある。転倒は絶対に避けねばならない。足を開き、ふんばりながら下りる。緊張の連続--。

 次いで傾斜45度の雪壁へ。宮崎さんにザイルで確保された上で、固定ザイルにカラビナをかけシュリンゲを通して、自分を二重に確保する。順調に下り続けたが、固定ザイルが終わる直前の、垂直に近い4-5mの氷壁を下りるときに失敗した。前回の荷上げの帰りには、空身だったこともあって、ここは最後の1mの高さを飛び下りて通過していた。

 そこで、また飛び下りたのだが、今回は荷が重すぎて体が前にのめってしまった。何とかなると思って気楽に飛び下りたのがいけなかったようだ。稜線では緊張し注意を集中して歩いていたのに、ここではもう大丈夫と油断したのである。

 うつ伏せのまま急斜面をずるずると滑り始め、あわててピッケルの先を雪面に突き差したが、腕が伸びきって制動がうまく効かない。夢中で腕に力を入れるが、止められない。 
 でも、少し滑っただけで止まった。それは前述のように最初から体がザイルで二重に確保されていたからだ。
 ほっとする。うつ伏せのままの姿勢でいると、成沢さんが足に絡んだザイルを解いてくれた。更に宮崎さんがそばまで下りてきて、確保の体制をしっかり取ってくれたので、やっと雪面に立ち上がることができた。ほんの一瞬のことだった。
 ザイルで確保されていなければ、数十m下に口を開けていた深いクレバスへと一直線に滑っていき、飲み込まれてしまったことだろう。制動の技術は大切だとあらためて痛感。ある程度、練習はしていたのだが。

 ここを過ぎると、あとはのんびりとした下り。眼下にBC、その向こうには登ってきた大氷河が広がり、遠くハンター、ホラカーの山々も。写真を撮りながら下っていった。

(凍傷) 
 翌日、下の本さん達もBCに下りてきた。彼女は結局、デナリ・パスにも登れなかったという。私もアコンカグアの時に登れなかった経験がある。あのときのくやしさ、気持の落ちこみ--。下の本さんの思いがよくわかる。

 彼女はかなり疲れていた。
 その上、指が3本、青黒く、ビーダマのように腫れていた。凍傷である。手袋は2枚着けていたが、やや薄目だったためにやられたようだ。
 隊長の指示で、まず湯で温めて様子を見る。かなりひどい。結局、隊長と2人で、医者が一人常駐しているBCの診療所に行く。
 しばらくして帰ってきたが、指を切り落とすほどの重症ではないということで、皆ほっとした。
 指を切り落とすということになれば、ヘリコプターが呼ばれ下界に運ばれるところだった。

(ソリに難渋)
 下山。BCからランディング・ポイントまで2日間の行程。
 一日目。下の本さんと隊長がザイルを結び、あとの4人は別に一組でザイルを結ぶ。6人で縦に一列になり、それぞれの間にソリをはさんで下る。

 前の人が引っ張るソリは後ろの人とも結ばれており、3番目の私は後ろのソリを引きながら、前のソリが前を行く人の足元へ滑っていかないように、また、斜面をトラバースするときは横へずり落ちないようにと、常に気を配りながら歩かねばならなかった。

 来るときは無かったのだが、夏のために雪どけが進み、ところどころに数m幅のクレバスが横に長く口を開けていた。その上に懸かった幅 3mほどのスノーブリッジを渡る。次には斜面のトラバース。後ろの人が私の後のソリをいくら引っ張ってくれても、ソリが斜め下に滑り落ちてしまい、体が谷側へと引っ張られる。

 ウインディーコーナーを越えると更に急な斜面のトラバース。後方ばかりでなく、前方のソリも斜面を横に滑り落ち、その上、引き綱が足にまとわりつく。前後二つのソリの荷重で体がよろめく。

 足をふんばるのだが、谷底へと引きずりこまれそうな恐怖を感じる。雪面がブルーアイスとなって、更に怖くなり、思わず、前を行く池田さんに「ゆっくり!」と大声で呼びかけた。それからは更にゆっくりと慎重に下る。
 
 前にテントを張った3800m地点に到着。吹雪になった。下の本さんと隊長が遅れる。しばらく待ったが、なかなか下りてこないので、池田さんが迎えに行く。待つ間、単独行の日本の若者がテントから出てきて、熱いコーヒーをふるまってくれた。

 後続がようやく到着。そこからはゆるやかな下り。スピードを上げて下山しようとするのだが、今度はソリに難渋した。

 どのソリもすぐにひっくり返り、それを直すのに時間をとるために、距離がなかなかはかどらない。原因は積み過ぎと荷のバランスの悪さにあるようだ。何度か積み荷を直すが、うまくいかない。かんしゃくを起こす人も。私はひっくり返っても、強引にそのまま引き続けた。その重いこと-。

 結局、予定のテント場までは行けずに、その少し前でテントを張った。
  
 最終日。はじめて、スノー・ラケット(かんじき)をつける。
 荷の積み方がよかったせいで、この日は順調に下る。
  トレースの脇のところどころには大きなクレバスが口を開けていた。
 なかなか、ランディング・ポイントに着かない。あらためて、氷河の広さを感じる。疲れてきた。休憩が待ち遠しい。

 目的地に到着したのは16時。天候不良で飛行機は飛ばないという。雪で丸いテーブルと腰掛けを作り、皆で夕食をとる。子供のいたずらのようで、何か楽しかった。Ba001_007
  のんびりしていると、ふと爆音が聞こえた。近づいてくる。飛行機が天候の状況を偵察するためにタルキートナから飛んできたのだ。飛べるかもしれない--。あわてて、食事の後片付けをする。他のグループも荷作りを始めた。あたりは騒然となる。女性のレンジャー隊員が小屋から出てきて大声で何か叫んだ。多分、飛べるから準備をしろと言っているのだろう。

 20時頃、次々に飛行機が着陸してくる。我々も呼ばれた。まず、宮崎、成沢、私の3人が乗り込む。発進---。ところが、このあと天候が再び悪化し、結局、あとの3人は取り残されて、帰るのは翌朝になってしまった。

<帰国へ>

(タルキートナのレストラン)
 登頂後、タルキートナに帰ってから、レストラン「ラティテュード(北緯)62°」で2度ほど食べた朝食は忘れられない。
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 コーヒーとトースト、サラダ、ジャガイモ、それに特大のハムが付いて7ドルである。コーヒーは飲みほうだい。特にとんかつほどの大きさの特大ハムは気に入った。これをゆったりと丸テーブルに座って食べる。食べながら、野茂投手(ドジャース)の活躍を知ろうと、英字新聞を持ってきてスポーツ欄を見るのだが、英語が苦手でよくわからない。テレビもスポーツ番組ばかり放送しているが、すべて英語。

 外は朝日があふれているのに、広い室内は窓が少なくて薄暗い。
 客は3-4人。窓際のテーブルを見ると、ふとった大男が、フライパンほどの大きさの特大のパンケーキを食べていた。アラスカでは毎日、あんなのを食べているから、ふとった人が多いのだろう。背後のやや暗いカウンターでは、森林の伐採作業員だろうか、作業着姿の髭面の男がコーヒーを飲みながら店のおかみと談笑していた。

 いかにもアメリカの田舎といった雰囲気である。しかも私はマッキンリーに登頂したのだ。何か気だるく、快い疲労感の中で、その雰囲気を充分に味わいながら、特大ハムを食べコーヒーを飲む。

(アラスカ鉄道)
 帰りはアラスカ鉄道に乗る。
 駅は村の中心にある。駅舎はない。広いホームには,数人が座れる小さな待合所と鉄製のトイレがあるだけ。ホームは村と地つづきで、自動車でホームに乗り入れる人もいる。
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 我々のほかに乗客がひとりやってきた。ついで、ドイツの観光客が数人、カメラを持って日陰に陣取る。列車を写そうというのである。
 ダイヤは一日に二本。我々が乗るのは13:16発だが、列車はなかなか姿を見せない。からっとした強い日差し。無数の綿毛が空中に舞う。柳のようだ。

 ジュースとスナック菓子を買ってきて、ザックに腰を掛け一服。線路に耳をあててみるが、列車の音は聞こえない。待合所では居眠りをする人も。

 池田さんとはここでお別れ。彼はもう一週間アラスカを旅するという。
 やっと列車が遠くに見えた。1時間40分の遅れである。駅に止まってはじめて、それが一両であることに気がついた。「えっ、これがアラスカ鉄道の列車なの?」。何両も連なる展望車付の豪華列車を予想していたので、あっけにとられて、一瞬、機関車だけが先にきたのかなと思う。でも、黒人の車掌が踏み台を持ってきて、乗客が降り始めた。これが待っていた列車なのだ。あわてて、荷物を運びこむ。展望車付豪華列車は別の時刻のものだった。

 車内の乗客は10人位で、席はがらがらである。皆、思い思いに席につく。食堂車での食事を楽しみにしていたが、肩透かしとなった。コーヒーの販売もない。でも、車窓の景色はすばらしい。アラスカの原野、大河、はるかに雪をかぶった山々。残念ながらマッキンリーは雲の中に隠れて見えなかった。

 運転手は、乗客の女性とおしゃべりをしながら運転している。前をよく見て運転しているのだろうか。運転席に行ってみると、アンダーシャツ、短パン姿の大男が運転席の上に足を上げて運転中。写真を撮ろうとすると、足を下ろして恰好をつけた。いかにも、アラスカ鉄道といった雰囲気。そういえば、鉄道の遅れは日常のことで、1時間、2時間遅れはざらだと言う。
 3時間でアンカレッジに着く。

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<あらためて、マッキンリとは>
            
1.マッキンリー登山の特徴
 我が国は高齢化社会をむかえつつあり、登山者も中高年が中心になってきた。

 これからは、海外登山でも中高年が増加するであろう。
 そんな人達のことも念頭に置きながら、登ってきた経験や聞いた話をもとにして、マッキンリーの特徴をあらためてまとめてみよう。

① 標高が低いわりには寒くて、空気が薄い
 これは緯度が高いことによるもので、同じ標高の場合は、緯度が高ければ高いほど温度は低くなり、また空気は薄くなる。たとえば、赤道直下のキリマンジャロと比べると、標高は約6000mとほぼ同じだが、マッキンリーのほうが空気が薄くて、寒さも極端であり、標高が5000mを越えると夏でも早朝の気温は-30度にもなるし、吹雪の中を行動するときは昼間でも帽子や手袋がバリバリに凍る。

 ただし、いくら寒くとも、何とか耐えられる寒さではある。行く前は、用を足すにはどうしたらよいかとか、アイゼンはワンタッチ式でないが(私のは長い紐を鉄の環に通して締めるもの)、素手で着けられるだろうかと心配していたが、吹雪の中でも用は足せたし、アイゼンも薄い手袋をはめれば装着することが出来た。

 なお、晴れた日には、テントの中は平地の夏に近い暑さになり、テントの入口を大きく開けて風を入れねばならず、下着だけで過ごすということもあった。
 また、頂上アタックの日は快晴無風だったために、一日中、寒さを感じることはなく、下山のときはむしろ暑くて、分厚い羽毛服を脱いだほどだった。
 その意味では、夏と冬が同居している山とも言えようか。

② 氷雪の山である。
 登山ルートの中で、岩が露出しているところは尾根筋の一部のみであり、ほとんどは雪に覆われている。また、上部に行くと、ルート上の雪面がかたくツルツルに凍っているところがかなりある。全山、氷雪の山と言ってよいであろう。
 それだけに危険は多い。氷河にはクレバスが待ち受けているし、傾斜45度の雪壁を登る所や、滑れば数百mは滑落するような雪の急斜面をトラバースする箇所もある。しかも、吹雪く日がかなりあって、ホアイト・アウト(周囲が白一色で何も見えなくなり、道を失う)の危険もある。我々は、入山から下山までの17日の間、登山中は必ず仲間とザイルを結びあって歩いた。
 一方、真っ白で雄大な景色は抜群。

③ 登頂の成功率は50%前後と低い
 これは、登山適期の6月は吹雪く日がひと月の半分はあると言われているように、天候が安定せず、また、悪天が続くことがあるためである(後記の「マッキンリーの天候」参照)。
 アタック地点(ハイキャンプ・5250m)で吹雪が続けば、頂上へのアタックは無理である。食料が底をついたり、体力が落ちたりすれば登頂をあきらめて引き返さざるを得ない。

 このように、マッキンリーでは、登頂の可能性は天候に大きく左右される。運が悪くて悪天が続けば、どんなに体力があっても登頂は不可能。登頂率が過去90年間の平均で52%(昨年は40%)と低いのはそれが大きな要因のようである。

④ そりを引いて登る。
 氷河上を行く最初の数日間と最後の2日間は、そりを引いて歩く。このそりが曲者。私達の場合も、そりが真っ直ぐに進まないとか、すぐに横転するとか、急斜面では引き綱が腰に食い込んで痛いということで、さんざんな目に会った。荷の積み方や引き方に工夫が足りなかったようである。

⑤ 夏は白夜。
 懐中電灯は不要。夜が来ないので、行動時間に制限はない。
 天気が回復すれば、夕方に出発する人もいる。

⑥ シェルパがいない。
 ヒマラヤでは、エベレストにしろ、他の高峰にしろ、シェルパを雇い、荷を持たせて登るのが一般的であるが、マッキンリーにはシェルパがいない。荷はすべて登山者が持つことになり、それだけ荷が重くなる。ソリに荷を載せて引くことにより、背負う方の負担は軽減できるが、その分、腰に負担がかかる。

 今回は、ベテランの人達が一緒なので、共同装備はかなり持ってもらえたが、それでも、自分の荷はすべて背負ったし、共同装備の一部を自分のソリに載せて引っ張った。

⑦ 日本から出発するツアーがない。
 五大陸最高峰のうちで、モンブラン、キリマンジャロ登山については、日本からのツアーが沢山あって、山の雑誌を見ればいくらでも見つかる。また、アコンカグアへのツアーもときどき雑誌に出ている。そのために、この3つの山は、登る手掛かりが全くない素人であっても、登りに行くことが可能である。

 しかし、マッキンリーへの日本からのツアーはほとんどない。数年前に、公募登山という形式で募集しているのを雑誌で一度見たくらいである。そのため、登りに行きたくとも素人には手掛かりがない(後で知ったが、アラスカの旅行会社が毎年募集している現地集合の登山ツアーがあるようだ)。

 行くには、自分で登山計画を立てるか、又は、個人的に誰かが行くという情報を掴んで、その人に頼んで一緒に連れていってもらうしかない。私の場合は、近藤さんと知りあいであり、彼が声をかけてくれたので行くことができた。

 日本でツアーが組めないのは、海外からの、ガイド同伴のツアーが禁止されているためのようである(アラスカでガイドを頼むことは可。これらの点については状況はよく分からない)。

⑧ 登山のスタート地点へは小型飛行機で行く。
 小型飛行機に乗れるのはまことに楽しい。アラスカ鉄道に乗れることと合わせて、登山以外の大きな楽しみである。

⑨ その他、冒頭に記したことを再掲する。
(山容)
  マッキンリーは標高6194m、アメリカ大陸の最高峰であり、もちろん、世界五大陸最高峰の一つでもある。アメリカのアラスカ州にあって、北緯63度に位置する。緯度が高いために、標高のわりには寒くて、空気が薄く、頂上付近は夏でも-30°になるという。
(登山の適期と登山者数)
 5月末から7月始めが登山の適期。このころ毎年、世界中から約1000人の登山者がやって来る。国別ではアメリカ人が最も多く、あとはヨーロッパ人、ロシア人、韓国人、日本人等であり、そのほとんどが、我々がとったウエストバットレス・コースを登る。
(登山に要する日数)                           
 登山に要する日数は、氷河上を歩き始めてから10-20日間。高度順化を考慮せずに最短で登れば、ランディングポイント-BC(4300m)の間が3日、BC-ハイキャンプ間が1日、アタックが1日、ハイキャンプからランディングポイントへの下りが2日の計7日間で往復できるが、一般にはこれに荷上げの日数(荷揚げ後、いったん下のキャンプへ下りる。それは高度順化のためでもある)と休養の日数が加わる。また、悪天候で行動ができず、日数が更に伸びることもあるし、悪天だと飛行機が飛ばず、数日待つこともある。
 私達の場合は、中高年であり休養日を多く取ったこともあって、下記のとおり、全体では26日間、氷河上に下り立ってからの登山では17日間を要した。

2.マッキンリーの登頂に成功するには
 素人の場合は、まずは連れていってもらえる人を探すこと。
 次いで高山病対策。それには、事前に体力をつけ、また、富士登山等で高度に慣れておくこと、登山中はゆっくりと登ること、高所への登り下りを繰り返すことで体を慣らすこと、水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。

 成功の最後の鍵は天候に恵まれることにあるが、これは晴天を神に祈るしかない。

3.登山中の危険とその対策
・クレバスへの転落
 転落しても、助けられるように、仲間同志で必ずザイルを結んで歩く。

・固く凍った急斜面での滑落
 ここでもザイルを結んでおくこと。またが必ず必要。

・吹雪で視界が閉ざされるホアイトアウトによる道迷い
 吹雪のときは行動しない。また、途中で吹雪になったときは、行動を中止する。アタックの帰りであれば、感に頼ってテントのあるところまで命がけで戻るほかはない。安全対策として、登りながら旗を立て、それを頼りに下りることもある。

・寒さと強風による凍傷
 凍傷の危険性が高い。手袋は、厚手の毛の手袋(油を抜かないもの。値段は普通の毛の手袋の数倍) の上に、ゴアテックスのオーバー手袋を着用する。しかも、凍傷を防ぐために毛の手袋は2つ用意し、アタックのときは湿気のない新品を着ける。
 また、強風に手袋を飛ばされないように注意が必要。飛ばされれば凍傷は避けられない。

・ 高山病対策
 1000m登ったらまた下に降り、一日休養してから登り返すというように、体を高さに慣らしながら登る。荷上げのために一旦登り、それから下りてくるのは、荷を分散するほかに高度順化の意味がある。その他は前に書いた。

・ 雪崩
 一日に数回は雪崩の音を聞く。ただし、遠い。コースはなだれの巣から離れたところを通っているので、それほど危険はない。数年前に、このコースのウインディーコーナー手前で雪崩に遭遇した隊があったということだが、コース内で生じるのはまれのようである。

・ 積雪
 雪は一日に50-100cm積もることがあるようである。そのときは、ラッセルがきつく、歩くのに時間がかかる。私達の場合、ラッセルはベテランの隊員がやってくれた。先に出発した隊員のトレースを追えば割りと楽である。それと、小型飛行機の会社で貸してくれたスノウ・ラケット(かんじき)を使うと歩きやすい。我々も、雪上での最後の一日は、これを着けて歩いたが、なかなか歩きやすかった。

4.マッキンリーの記録等

 1)初登頂
 マッキンリーの初登頂は北峰が1910年、最高点の南峰が1913年。これに対して、ヨーロッパ大陸最高峰のモンブラン初登頂は1786年であり、南米大陸最高峰アコンカグアの初登頂は1897年である。

 これらが世界の登山史の中でどんな位置をしめるのであろうか。
東西登山史考」(田口二郎著。岩波書店)を読むと、狩猟や信仰のためでなく、探検(科学的調査、地形確定、領土確定など)のための登山が始まったのは、ヨーロッパでは18世紀末(モンブラン初登頂の頃)から19世紀前半にかけてのヨーロッパ・アルプスであるという。

 これが19世紀後半にイギリス人を中心とするスポーツ登山に発展し、19世紀中には、ヨーロッパ・アルプスの未登峰がすべて登られ、この後、ヨーロッパの登山家は海外の未登峰を求めて、東はヒマラヤ、西はアメリカへと進出していったという。

 上記のマッキンリーとアコンカグアの初登頂は、そのひとつの成果といえよう。一方、ヒマラヤへの進出は、第2次世界大戦後にすべての8000m峰の登頂という成果を生み出した。

  2)登山状況
 今回の登山中に出会った日本人は10組、20人ほどである。群馬労山5人、姫路山友会5人、関西の2人組、アラスカの旅行会社のツアーで来ていた2人組(夫婦だろうか。我々が吹雪の中を下山してきたときに、3300m のテント場でテントの中から首を出して話しかけてきた)、若者2人組、単独行2人など。

 マッキンリーは厳しい山であり、日本からはなかなか行けない山だと思っていたが、日本からこんなに多くの登山者が来ているとは、意外だった。また、単独行の登山者がいたのにも驚かされた。

 ところで、1994年のマッキンリーの年間登山者数は 306隊、1277人(うち、単独登山16人)であり、登頂成功者は 573人、成功率44.2% である。この年は悪天候が続いたために成功率がやや低かったもよう。平年であれば50% 前後である(以下、山と渓谷社「山岳年鑑」による)。

  登山者の内訳はアメリカ人 707人、外国人 570人。うち、日本人51人。

  また、これらのうち、ウエストバットレス・コースを登った登山者数は1067人で、うち登頂成功者は 493人、成功率は 46.2%である。

 次に、登山者数を過去の趨勢で見ると、1980年代の前半は 600-700 人の規模であったが、1987年には 800人台を、1990年には1000人台を記録し、かなり大幅に増加している。

 これらから推計すれば、過去における日本人のマッキンリー登山者数は、比率5%、1980年以前は年間10-20人と見て、累計で2000人程度であり、登頂者数は累計で1000人程度と言えようか。

  なお、南米・アコンカグアの登山者数は年間2000人前後と推定されており、マッキンリーよりは若干多いようである。やや古い統計だが、1989年末-1990年初にアコンカグアに正規に登山の申請を行った隊は 353隊1244人、うち日本人は24隊だったという。

 3)マッキンリーの天候
 マッキンリーを中心に広がるデナリ国立公園において、夏にこの山が完全に見える日は10% 前後に過ぎない。登山の適期である6月を例にとれば、完全に見える日は1993年で10%(1992年14%)であるのに対し、部分的に見える日は66%(57%)、まったく見えない日は24%(29%)となっている(デナリ国立公園内のアイルソン・ビジター・センターにおいて)。

 これを頂上アタックとの関係で見れば、完全に見える日の頂上は快晴でありアタックがしやすいと言えようが、部分的に見える日のほとんどは、頂上が強風や吹雪でアタックが難しいと思われ、アタックしやすい日はかなり少ないように思われる。

5.登山家の記録から

1)田部井淳子(女性として、世界で初めて七大陸最高峰に登る)      
 1988年 6月14日、女性3人でマッキンリーに登り彼女ともう1人が登頂に成功した。デナリパス(5550m) にテントを張る。10時40分スタート、快晴、微風の中、17時20分に頂上に達した。

 前日は、一旦はスタートしたものの、あまりの強風で前進できず、引き返している。
  この間、エベレストほか、8000m 峰10座に登頂している山田昇氏と偶然一緒のコースをたどったという。氏は8ケ月後の厳冬期にこの山に再度登り、遭難している。

なお、彼女達はBCのほかに、C1(ウエストバットレス上。4900m)、C2(ハイキャンプ) 、C3(デナリパス) とテントを張ったが、我々の場合はC1,C3 の場所には泊まらず、その日のうちに通過している。
          「七大陸最高峰に立って」(小学館)より
            
2)植村直巳(日本人初のエベレスト登頂者。1984年 2月にマッキンリー冬期単独登攀に挑戦し、登頂後、遭難)
 1970年 5月11日にエベレストに登頂。その後の1970年 8月26日、マッキンリーに単独で登頂。このときの記録は次のとおり。

 ハイキャンプ8:30発、15:15 頂上。
 雨のためにタルキートナで2日間待たされ、 8月17日にランディング・ポイントに飛ぶ。17日、18日は悪天候で同所に停滞。19日に25kgの荷を背負い出発。クレバスへの転落防止のために旗竿を腰につけて歩く。2500m 地点でツェルトに寝るが、猛吹雪で雪に埋まりかろうじて脱出。20日、21日と吹雪。同じところに雪洞を掘って停滞。22日は雪の中を磁石を頼りに3300m 地点まで登る。23日、BCへ。25日、ハイキャンプに到着。26日登頂。27日、ランディング・ポイントまで一気に下る。31日、エアタクシーでタルキートナへ帰着した。
                 「青春を山に賭けて」(文芸春秋)より

 3)ディック・バスとフランク・ウエルズ
51才と50才の素人が七大陸最高峰への挑戦を決心。フランクは、そのために映画会社ワーナーブラザーズの社長を辞職する。
 6月中旬にガイド同伴でマッキンリーへ(1ケ月前にエベレストに挑戦したが、これは失敗。後にディックのみ成功)。

 荷は一人30kg前後を背負ってランディング・ポイントをスタート。BCでは吹雪で3日間停滞。その他に1日はハイキャンプへの荷上げで使う。更にハイキャンプでも吹雪で3日間停滞し、食料が底をつく。キャンプ最後の日はキャンディーバーだけの夕食をとる。
 翌日、深雪と強風の中をアタックし登頂に成功する。ハイキャンプと山頂の往復には16時間を要した。
       「7つの最高峰(SEVEN SUMMITS)」(文芸春秋)より

6.アラスカ寸描                             
1)その歴史
 ・アラスカの土地は、アメリカが1867年にロシアから 720万$(当時のアメリカの国家予算の1/3)で買ったものだ。当時、ロシアはクリミア戦争で疲弊していたが、毛皮等の資源を捕り尽くしたという判断も加わって、この土地を手放したという。

 ・その後、アラスカでは金鉱が発見され、ノームやフェアバンクスはゴールドラッシュに湧いた。
 ・スワード、アンカレッジ、フェアバンクス間、全長 756kmのアラスカ鉄道はこの頃(1923年) に敷設された。

 ・第2次大戦中には、日本軍の上陸に備えて、カナダの中央からフェアバンクスに通じるアラスカ・ハイウエイが建設された。
 ・更に、1968年には北極海で大規模な油田が発見され、石油を太平洋側に運ぶために全長1287kmのアラスカ石油パイプラインが引かれる。

2)観光のポイント
 ・観光の目玉は自然。夏にはマッキンリーへのフライト、ホエール・ウオッチング、海にせまる大氷河へのクルーズなどが楽しめる。デナリ国立公園等ではキャンピング、トレッキングができる。アラスカの原野でフィッシング、ラフティングをやるのもよい。また、 野性の熊(グリズリー)も見たいものだ。

 ・冬は何といっても、オーロラ観測。オーロラは年間日数の2/3 の確率で出現するが、見られるかどうかは天候次第という。

 ・アラスカ鉄道も魅力のひとつ。
 ・アラスカの北辺には道路が通じていない町が沢山ある。交通手段は小型飛行機。そんなまちにも行ってみたい。

<おわりに>

 50才を過ぎてから海外の山に登り始めたが、これで、五大陸最高峰のうちで、キリマンジャロ(1991年。アフリカ大陸)とマッキンリー(北アメリカ大陸)の山頂に登り、モンブラン(1988年。ヨーロッパ大陸)とアコンカグア(1993年。南アメリカ大陸)には途中まで登ったことになる。

 五大陸で最後に残るのは、アジア大陸のエベレスト。しかし、これに登るのは、私には無理であろう。いつか、5千数百mのエベレストのベースキャンプまで行って、五大陸最高峰めぐりを締めくくることとしたい。

 最後に一言。いつまでも夢を見続けていたいので、付け加えておこう。
 「次は是非、8千m峰に挑戦してみたい」。世界にはエベレストを初めとして8千m峰が14座ある。その中のひとつに挑戦するチャンスがめぐってこないものだろうか。 
 無理だな---、でも、ひょっとして--。58歳、1996年夏に思う。

(帰宅して)

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マッキンリー その2

(BCへ)
 7日目、4300m のBC(ベースキャンプ)へ。朝食10時。12時スタート。重荷を背負い、ソリを引いて登る。

 ウインディーコーナーで、前回運んでおいた荷を載せる。ソリが更に重くなり、急斜面を登るときは引き綱が腰に食い込んで、痛くて本当につらかった。雪の舞う中、22時にBC着。たいへん疲れる。さすがに寒い。アイゼンを素手で外したが、そのために手先が凍え感覚がなくなってしまった。凍傷の恐れを感じ、あわてて、手を下着の中に入れてもんだ。

 それから、テントを設営。疲れた中でMさんとⅠさんが雪をとかし、夕食を作ってくれた。食べたのは24時過ぎ。もちろん、外は白夜。明るい中での夜食だった。

(テントの中で)
 翌日はBCで休養。
 目をさますと、テントの内側一面に霜がついていた。あとで聞くと、外は零下26度。シュラフの外側の生地がうっすらと凍っている。寝ている間に、吐く息が凍りついたのだ。午前6時位か。トイレに起きる。体がテントの内側にふれると、霜がさらさらと雪のようにシュラフの上に落ちた。

 外が吹雪のときに用を足しに行くと、下着の中にまで雪が舞い込む。でも、じっと我慢。これに耐えないとマッキンリーには登れないのだ。このくらいのことはなんでもない、命に係わることではない--。

 テントに帰っても、何もすることはない。また、シュラフにもぐり込み、ウトウトとする。シュラフは厳冬期用のもの。厚着をした上に毛の腹巻も着けているので、もぐって寝れば、ほどほどに温かい。

 10時を回る。稜線の上に太陽が顔を出し、テントを照らすようになると、急にテント内が温かくなり、付着した霜が解け出す。それが水滴となって流れ、テントの内側に何本もの筋を作る。まだ、食事の時間には間があるようだ。シュラフから顔を出して、水滴の流れを追う。テントの生地を伝わってゆっくりと落ちていた2本の流れが合わさると、速さを増して、ツーと流れ落ちる。

 この日は薄日がさしたり、雪がちらついたりの一日だった。太陽が出ると、テントの中の気温は上がる。午後は裸でいてもよいくらいに暑くなった。風を入れるために入口を大きく開ける。

 このような休養日は、本を読んだり、CDを聞いたりして過ごす。
 本は、井上靖の「北の海」と今井通子の「私の北壁」を持ってきた。どちらも以前に読んで面白かったものだ。「北の海」は柔道一筋のバンカラ学生の物語。戦前の金沢四高が出てくる。主人公の生き方の型破りで、豪快なこと。仲間に遠慮しながらも、テントの中で思わずくすくすと笑ってしまい、夢中で読み終えた。

 CDは、アコンカグアのときと同じように、「大黄河」「新世界紀行」などを持ってきた。

 でも、テントでじっとしていると、ときどき「登れるだろうか」と不安になる。「登れたら、どんなに嬉しいことか」と思いつつも、「登れる確率は20-30%ぐらいかな。たぶん駄目かも」という悲観的な気持になる。

(食事)
 テントの食事は豪華だった。我が家でも、めったにないほどのご馳走。MさんとⅠさんが担当し、工夫をしてくれたのだ。

 アンカレッジで買った牛肉を焼き肉にしてたっぷり食べたが、これが特においしかった。肉入りのカレーライスも出た。

 ほかに、なすの漬物、納豆、大根おろし、きんぴら、とろろ、じゃがいものサラダなど。これらはすべて乾燥食品であり、水で戻して食べる。
 手巻きずしも何回か。アンカレッジで買ったきゅうり、乾燥食品の納豆、ソーセージ、チューブ入りのしそ梅などを載せて巻く。これもうまかった。

 しかも、デザートには毎回、好物のプリンが出た。これは私の注文で粉末を持ってきてくれたのである。

(服装と装備)
 夜寝るときは、冬用の分厚い下着を上下とも2枚づつ着る。更にウールのシャツと薄手の羽毛服の上下を着け、その上にジャンバーを着て、ズボンをはく。もちろん、毛の靴下と毛の手袋も。それでも寒いときは、毛の腹巻も着ける。

 シュラフは-27度cに耐えられるものを持参。もちろん、シュラフカバーも。

 ハイ・キャンプでは、スリーシーズン用のシュラフを中に重ねたが、これはやや余分だった。温かいが、荷物がそれだけかさばるのだ。

 出発のときは、これら衣服の上に更に多くの装備を着けねばならず、装着に小一時間はかかる。まずは、オーバージャケットとオーバーパンツ。次に靴を履きオーバーシューズを着ける。

 頭には目出帽と高所帽、ゴーグル。更に腰にハーネス。外に出てアイゼンを装着。毛の手袋の上にはオーバー手袋も。急傾斜を登る時はユマール(20cm程の長さの昇降器具。固定ザイルに掛けて、手で握って登る。上には進むが、下にはおりない) を着ける。シュリンゲとカラビナも忘れてはならない。

 また、緩やかな下りの場合はアイゼンの代わりにオーバーシューズの上からスノーラケット(かんじき。飛行場で借りて、ソリに載せ持ってきた)を着ける。また、アタックのときは、分厚い羽毛服も着用した。

 日焼け止めクリームをぬり、唇のひび割れ防止にリップクリームをぬることも忘れてはならない。リップクリームは2-3時間おきにぬらないと、唇が割れて食事ができなくなる恐れがある。

 ランディング・ポイントとBCの間では、このほかに、ソリに荷を着け、ソリがひっくり返らないように上手に紐を掛ける仕事もある。

 そして最後に、全員がソリを間にはさんでザイルで結ばれ、両手にストックを持って(BCより上ではピッケルを手にして)出発する。
                                      
<いよいよ、アタック>

(ハイキャンプへの荷上げ。45度の雪壁を登る)
 10日目、最終キャンプ地であるハイキャンプ(5250m)への荷上げを行う。 まず、尾根筋まで。ジグザクにトレースをたどり3/4を登ると、上部は傾斜角45度の雪壁となる。200 mはあろうか。更にその上半分は雪の着かないブルーアイス。

 上がり用と下り用に2本の固定ザイルが張ってあり、これを伝ってユマールを頼りに登る。氷壁に鼻がつきそうなほどに急な登り。上から見下ろすと垂直に近く見える。これを登りきって、BCから約4時間でやっと尾根に出る。

 次は、両側の切れ落ちた岩稜帯。これを2時間行く。途中、右側のはるか下にBCのテント群が見えた。あそこまでの標高差は 600mはあろうか。大きな岩を巻いて、固定ザイルのある急斜面を登る。雪面は凍っていて固い。次いで、左側にはるか谷底まで切れ落ちた斜面をトラバースする。トレースの幅は30cmも無さそう。緊張が続く。

 6時間でハイキャンプに到着。吹雪の中、荷を雪に埋めて、BCに戻る。

(ハイキャンプに入る)
 11,12日目はBCで休養。13日目、アタック用具をすべて持ってハイキャンプへ。つらい登りを再び繰り返す。

 隊長とザイルを結んだSさんが遅れる。結局、ハイキャンプに到達できず、5000mの稜線上で、二人はビバークを強いられた。さぞ、寒かったことだろう。

(アタック)
 14日目にアタック。
 午前2時起床。4人のみで4時30分頃スタート。快晴である。私はⅠさんと1対1でザイルを組む。もう一組は、MさんとNさん。

 当初の計画では、MさんとNさんと私でザイルを組み、Ⅰさんは、ビバークをしたKさんとSさんをサポートするためにテントに残る予定だったが、私は1対1でⅠさんとザイルを組みたいと強くKさんに希望した。それは、3人で組んでいて私ひとりがダウンしたときは、全員が登れなくなる恐れがあるからだ。体力のある二人のペースではなく、自分のペースでゆっくりと登りたくもあった。

 この日、初めて分厚い羽毛服を着ける。いままではオーバーヤッケで済ませてきたが、寒さが違うということで、これを着用した。その下には厳冬期用の分厚い下着を2枚と薄手の羽毛服、それにセーターとジャンバーも着る。

 稜線上のデナリパスまでは約2時間。途中で、Ⅰさんが「足先の感覚が無くなった。凍傷になりそう」と言って、靴を脱いで足先をもむということがあったが、大事には到らなかった。

 稜線に出る。ここから私が前を歩く。Ⅰさんが、そのほうが私のペースで歩けて、登れる確率が高いと判断したからである。10m位の急斜面が一箇所あったが、それ以外は延々とゆるやかな登りが続く。そんなに苦しくはない。順調だ。

Ⅰさんが「この調子でいけば、登頂できますよ」と言ってくれた。ともかく登る。後で気がついたが、登ることに夢中で、頂上直下の稜線に出るまでは、写真を撮るのを忘れていた。

 デナリパスから4時間は経ったろうか。大きな雪原に入る。雪原の向こうの、日に輝く雪の急斜面に、はるか上方へと一筋の踏み跡が続いている。高度差は100mはありそう。雪原まで来れば頂上はすぐと本に書いてあったようだが、勘違いだった。まだ先が長いと知って、このあたりから急に疲れが出てくる。足が前に出なくなった。

 休憩をとるが、疲れで食欲がなくなり、何も食べたくない。Ⅰさんが「何か食べないと、あとで力が出なくなり、登ったはいいが、帰ることができなくなって死にますよ」と言う。

 でも、持ってきたチョコレートやパンはパサパサで食べられない。Ⅰさんが持参したドライフルーツをくれたので、それを食べる。アタック時の行動食は、共同で用意したものに頼らずに、独自に好物を用意してくればよかったと思う。

 斜面に達する。疲れきった自分に登れるだろうか。それでも、登らなければ--。ここから苦闘が始まる。ハアハアと激しく息をしながら、なんとか気力をふりしぼって、足を前に出す。一歩進むと、立ち止まって何回も深呼吸。酸素が欲しい。酸素は平地の1/3ぐらいか。

 なかなか、体に酸素が回らない。深呼吸を繰り返すと、また、歩く気になる。そして、また、一歩。これを繰り返す。斜面を登りきれば山頂のはずだ。それだけを考えながら、ともかく一歩、また一歩と登る。

 Kさんが前回登ったときは、このあたりで天候が崩れて引き返したと聞く。吹雪に巻かれホワイトアウトの状態となり、足跡や目印(数十mおきに竿か旗が立っている)が見えなくなって、感を頼りに命がけで下ったという。しかし、きょうは天気は最高。崩れる恐れは全くない。登頂にも、下山にも、いくら時間をかけてもよいのだ。

 雪原から一時間もかかったろうか。12時頃、斜面を登り切って、やっと稜線に達した。ところが、「よし、ここが山頂だ。やっと着いた」と思いながら斜面を回り込んでいくと、更にそのはるか先に、より高い純白の峰があるではないか。

ショック。ここではない、あれが山頂なのだ。しかも、そこに達するには、数十mは続くナイフリッジ(両側が鋭く切れ落ちた雪の稜線)を渡らねばならない。高度の影響だろうか、気持も悪くなった。もう、限界だ。自分には無理だ--。

 とたんに疲れが全身を覆い、ガックリと雪上に座りこんでしまった。上空は深く透きとおるような青空。はるか下の方は見渡すかぎりの雪と岩の山々。快晴、無風。日を一杯に浴びながら、頭がぐらぐらするほどの疲労感におそわれた。

 Ⅰさんに「あきらめます。もう動けません」と伝える。アーア、また駄目か。むなしさが襲ってくる。結局、アコンカグアにも、ここにも登れないのか--。

 「Ⅰさん、ひとりで登ってきてください。僕はここで待っています」と言うと、彼は「あなたをひとり残して行くわけにはいかない
先行したM・N組が下りてくるまで待ちましょう」と言って、行こうとはしない。

 1時間前に山頂に達したM・N組がナイフリッジを渡って下りてくる。豆つぶのように見えた二人がみるみる近づいてきた。山頂はあんなに近いのだ。それをぼんやりと眺めていると、ふと気分が変わった。「あんなに近いのなら、僕にも行けるかもしれない」。

 20分か30分ほど座っていて疲れがとれたためでもあろう。何か元気が出てきた(そう言えば、キリマンジャロのときもそうだった。5600mのギルマンズ・ポイントに達したときは、「もう駄目だ。ここで引き返そう」と一度は思った。

しかし、休んでいる間に地平線から太陽が顔を出して急に温かくなり、そのお陰もあって元気を回復し、結局、そこから2時間かかる最高地点、5895mのウフルピークまで登ってしまったのだ)。

 「よし、行ってみよう」。ザックを下ろす。胸のしめつけが無くなり、気持も良くなる。ザックは風で飛ばないようにⅠさんが雪の中に埋めてくれた。

 空身で気分良く、ナイフリッジへと踏みだす。30-50cm幅の雪の稜線上を行く。両側が切れ落ちているが、Ⅰさんにザイルで確保されているので、怖さは感じない。なんなく渡りきる。無風であることも幸いした。これが強風が吹き荒れていれば、転落の危険が高くなり、渡るのは難しかったであろう。

 斜面を登り、最初の頂きへ。トレースからはわずかに高さ10m程度の雪の小山に見える。そこに近づくと、トレースは更にその先へ延びていた。次の頂きへ向かう。足取りは依然として軽い。まだ先だ。その次へ。          

(登頂に成功)
 やっと山頂に達した。これ以上高いところはない。13時10分。休憩地点から45分で登ってしまった。純白のフォラカー山がはるか下に見える。その向こうには雪と岩の峰々。白くうねって見えるのは氷河であろう。その先にアラスカの原野が霞んで見える。

 山々と平行に点々と雲が浮かぶ。アラスカ第一の高みに立っているのだ。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。

 涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ。
 Ⅰさんと握手。写真を撮りあう。

(頂上を後にして下山)
 下山にかかる。
 登頂のために全力を使い果たし、下山する力はほとんど残っていなかった。

 下に向かって足を踏み出すのだから、こんなに楽なことはないはずなのに、足が前に出ない。

 何歩か歩いては立ち止まり、深呼吸を繰り返してから、また歩き出す。しかし、数分間で、また足が前に出なくなる。全く、よれよれだ。あいかわらずの快晴、無風。暑い。羽毛服を脱ぐ。

 やっと、デナリ・パスに到達。次いで急斜面をトラバース気味に下る。ここは、厳冬期に山田昇氏(エベレスト登頂者)とその仲間2人が滑落して亡くなったところだ。要注意である。立ち止まりたくなるのをこらえて下るが、何度かよろめく。歩く力を使い果たし、Ⅰさんに悪いなと思いながら休憩を申し出て、数回、休憩を取る。

 やっと、テントのある雪原の端に下り立つことができた。もう危険はない。そう感じた途端に歩く気力を失った。ザイルを解き、Ⅰさんに先に行ってもらうことにして、雪面に座り込む。心底、疲れた。もう動けない。30分は座っていたであろう。

 それから立ち上がり、ゆっくりとテントに向かう。ほんとうにゆっくりと、亀のように。背後から何人かに追い越される。この歩みでは病人と思われるかもしれない。普通なら10分のところを1時間ほど掛けてやっとテントに着く。

 Sさんが旗を持って、また、K隊長がコーヒーポットを持って迎えてくれた。コーヒーを一杯、なみなみと注いで飲む。Nさんが、私がはずしたアイゼンとピッケル、ザックを受け取ってくれた。有り難い。Ⅰさん、Mさんと握手。そのあとしばらくは、テントに入らず雪面に座りこんでボーっとしていた。

(隊長は、翌日単独登頂)
 この日同行しなかったK隊長は、翌日単独で登頂。午前4時30分に出発し、10時30分にはテントに戻ってきた。私が14時間かけたところをわずか6時間で往復してきたのだ。下りてきても、息づかいは普段どおりである。疲れた様子は全くない。「えっ、ほんとうに行ってきたの」という感じだった。

 こんなに早く行けるのは、体力があるだけでなく、高度に慣れているからだと思う。面白いので、ちょっと、自分と比較してみよう。

 私は、準備山行として、4月の末に一人で雪の富士山に登ったが、このときは5合目(佐藤小屋)から山頂までの標高差1000mを7時間で往復した。マッキンリーのアタックも標高差は1000mである。標高差だけをとれば、所要時間にそう変わりはない。何が違うかといえば、6194mと3776mの高度の違いである。高度順応が完全なら、私も、もっと早く登れたかもしれない--。

 もっとも、この山に登るには、高度順応だけでなく、どんな危険にも即座に対応できる判断力(それは豊富な経験に基づく)とすぐれた登山技術が必要であり、その点ではK隊長のレベルは抜群である。また、私達の倍近い荷を背負って長時間歩けるだけの体力、5000mの稜線上でビバークしたあとでも疲れを知らない持久力など、誰にも負けない力も備えている。

(登頂出来たのは)
 登頂出来た第一の要因は、アタックの日が一日中快晴という幸運に恵まれたこと、しかもその好天が、我々がハイキャンプに到達した日の翌日に訪れたことにある。

 登山開始から3日目にすれちがった若い2人の日本人は、天候が悪かったためにハイキャンプで5日間も食料を食いつないでねばり、その後の好天をとらえて登頂したと言っていた。また、そのころ下りてきた何人かの外人に「サミット、サクセス(成功)?」と聞いてみたが、「ノー。バッド・ウエザー(悪天)」と言う人がかなりいたのである。

 第二の要因は、高度順化が比較的うまくいったことである。登頂の日、6000m を越えたあたりでは、酸素不足のために体のだるさに悩まされたが、それ以前のテント生活では頭痛や吐き気に悩まされることはほとんどなかった。

  第三に、Kさん、Ⅰさん、Mさんというヒマラヤの高峰を経験したエキスパートがサポートをしてくれたことである。特に、Kさんはマッキンリーに既に2回登っている。今回は、それらの豊富な経験をもとにKさんが作成してくれたスケジュールに従って登った。その計画は、予定した日数の範囲内で、高山病を予防しつつ登頂の可能性を最大限に追求するというものだった。

 もちろん、Ⅰさん、Mさんのサポートも忘れてはならない。彼らのサポートがあるために、急峻な雪面の登り下りや、両側が切れ落ちた岩稜帯やナイフリッジの通過の際に、安心して行動ができた。

 そこでは一瞬のつまずきが事故につながる。私のような素人はいつ足を滑らすか分からない。それを背後から常に見守り、長時間にわたって確保のための緊張感を持続させるのは大変なことだったにちがいない。

 このほか、三人の方には、共同装備のかなりを背負ってもらい、また、Mさんには食事作りをも担当してもらった。
  第四に、私自身も過去にキリマンジャロやアコンカグアに登って高所登山に少しは慣れており、高所ではどの程度苦しいかがある程度分かっていたということもあると思われる。

<ハイキャンプからの下山>

(雪壁で転倒)
 15日目。Sさんがデナリパスまで登りたいと希望したので、K、Ⅰの2人はハイキャンプに残り、隊長の指示でM、N、田村の3人だけが先にBCに下りることとなった。
前日の登頂の疲れがかなり残っており、無事に下れるかやや不安に感じながら出発する。

 登りのときは2回に分けて荷上げをしたが、下りではそれらをまとめて背負った上に、共同装備として持ってきていた数十本の目印用旗竿もザックに差して持ったために、荷が重い。20kg以上あるようだ。快晴だが、風は強い。

 稜線に出ると、旗竿が風にあおられ、体がゆれた。ザイルで確保されているとは言え、両側が切れ落ちた稜線上では、転倒すれば3人一緒に滑落する危険がある。転倒は絶対に避けねばならない。足を開き、ふんばりながら下りる。緊張の連続--。

 次いで45度の雪壁へ。Mさんにザイルで確保された上で、固定ザイルにカラビナをかけシュリンゲを通して、自分を二重に確保する。順調に下り続けたが、固定ザイルが終わる直前の、垂直に近い4-5mの氷壁を下りるときに失敗した。前回の荷上げの帰りには、空身だったこともあって、ここは飛び下りて通過していた。

 そこで、また飛び下りたのだが、今回は荷が重すぎて前にのめってしまった。何とかなると思って気楽に飛び下りたのがいけなかったようだ。稜線では緊張し注意を集中して歩いていたのに、ここではもう大丈夫と油断したのである。

 うつ伏せのまま急斜面をずるずると滑り始め、あわててピッケルの先を雪面に突き差したが、腕が伸びきって制動がうまく効かない。夢中で腕に力を入れる。すると、1mも滑らずに、加速する前に体が止まった。

 ほっとする。うつ伏せのままの姿勢でいると、Nさんが足に絡んだザイルを解いてくれた。Mさんがそばまで下りてきて、確保の体制をしっかりとってくれたので、やっと雪面に立ち上がることができた。ほんの一瞬のことである。

 後で思うと、止まったのは、体が二重に確保されていたためのようである。

 ここを過ぎると、あとはのんびりとした下り。眼下にBC、その向こうには登ってきた大氷河が広がり、遠くハンター、ホラカーも。写真を撮りながら下っていった。

(凍傷) 
 翌日、Sさん達もBCに下りてきた。Sさんは結局、デナリ・パスにも登れなかった。私もアコンカグアの時に登れなかった経験がある。あのときのくやしさ、気分の落ちこみ--。Sさんの思いがよくわかる。

 彼女はかなり疲れていた。
 その上、指が3本、青黒く、ビーダマのように腫れていた。凍傷である。手袋は2枚着けていたが、やや薄目だったためにやられたようだ。

 隊長の指示で、まず湯で温めて様子を見る。かなりひどい。結局、隊長と2人で、医者が一人常駐しているBCの診療所に行く。

 しばらくして帰ってきたが、指を切り落とすほどの重症ではないということで、皆ほっとした。

 指を切り落とすということになれば、ヘリコプターが呼ばれ下界に運ばれるところだった。

(ソリに難渋)
 下山。BCからランディング・ポイントまで2日間の行程。
 一日目。Sさんと隊長がザイルを結び、あとの4人は別にザイルを結ぶ。6人で縦に一列になり、それぞれの間にソリをはさんで下る。

 前の人が引っ張るソリは後ろの人とも結ばれており、3番目の私は後ろのソリを引きながら、前のソリが前を行く人の足元へ滑っていかないように、また、斜面をトラバースするときは横へずり落ちないように常に気を配りながら歩かねばならなかった。

 来るときは無かったのだが、夏のために雪どけが進み、数m幅のクレバスが横に長く口を開けていた。その上に懸かった幅 3mほどのスノーブリッジを渡る。次には斜面のトラバース。後ろの人が私の後のソリをいくら引っ張ってくれても、ソリが斜め下に滑り落ちてしまい、体が谷側へと引っ張られる。

 ウインディーコーナーを越えると更に急な斜面のトラバース。後方ばかりでなく、前方のソリも斜面を横に滑り落ち、その上、引き綱が足にまとわりつく。前後二つのソリの荷重で体がよろめく。

足をふんばるのだが、谷底へと引きずりこまれそうな恐怖を感じる。雪面がブルーアイスとなって、更に怖くなり、思わず、前を行くⅠさんに「ゆっくり!」と大声で呼びかけた。それからは更にゆっくりと慎重に下る。
 
 前にテントを張った3800m地点に到着。吹雪になった。Sさんと隊長が遅れる。しばらく待ったが、なかなか下りてこないので、Ⅰさんが迎えに行く。待つ間、単独行の日本の若者がテントから出てきて、熱いコーヒーをふるまってくれた。

 後続がようやく到着。そこからはゆるやかな下り。スピードを上げて下山しようとするのだが、今度はソリに難渋した。

 どのソリもすぐにひっくり返り、それを直すのに時間をとるために、距離がなかなかはかどらない。原因は積み過ぎと荷のバランスの悪さにあるようだ。何度か積み荷を直すが、うまくいかない。かんしゃくを起こす人も。私はひっくり返っても、強引にそのまま引き続けた。その重いこと-。

 結局、予定のテント場までは行けずに、その少し前でテントを張った。
  
 最終日。はじめて、スノー・ラケット(かんじき)をつける。
 荷の積み方がよかったせいで、この日は順調に下る。
  トレースの脇のところどころには大きなクレバスが口を開けていた。
 なかなか、ランディング・ポイントに着かない。あらためて、氷河の広さを感じる。疲れてきた。休憩が待ち遠しい。

 目的地に到着したのは16時。天候不良で飛行機は飛ばないという。雪で丸いテーブルと腰掛けを作り、皆で夕食をとる。子供のいたずらのようで、何か楽しい。

  のんびりしていると、ふと爆音が聞こえた。近づいてくる。飛行機が天候の状況を偵察するためにタルキートナから飛んできたのだ。飛べるかもしれない--。あわてて、食事の後片付けをする。他のグループも荷作りを始めた。あたりは騒然となる。女性のレンジャー隊員が小屋から出てきて大声で何か叫んだ。多分、飛べるから準備をしろと言っているのだろう。

 20時頃、次々に飛行機が着陸してくる。我々も呼ばれた。まず、M、N、私の3人が乗り込む。発進---。ところが、このあと天候が再び悪化し、結局、あとの3人は取り残されて、帰着は翌朝になってしまった。

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マッキンリー その3

 <帰国へ>

(タルキートナのレストラン)
 登頂後タルキートナに帰ってから、レストラン「ラティテュード(北緯)62°」で2度ほど食べた朝食は忘れられない。

 コーヒーとトースト、サラダ、ジャガイモ、それに特大のハムが付いて7ドルである。コーヒーは飲みほうだい。特にとんかつほどの大きさの特大ハムは気に入った。これをゆったりと丸テーブルに座って食べる。食べながら、野茂投手(ドジャース)の活躍を知ろうと、英字新聞を持ってきてスポーツ欄を見るのだが、英語が苦手でよくわからない。テレビもスポーツ番組ばかり放送しているが、すべて英語。

 外は朝日があふれているのに、広い室内は窓が少なくて薄暗い。
 客は3-4人。窓際のテーブルを見ると、ふとった大男が、フライパンほどの大きさの特大のパンケーキを食べていた。アラスカでは毎日、あんなのを食べているから、ふとった人が多いのだろう。背後のやや暗いカウンターでは、森林の伐採作業員だろうか、作業着姿の髭面の男がコーヒーを飲みながら店のおかみと談笑している。

 いかにもアメリカの田舎といった雰囲気である。しかも私はマッキンリーに登頂したのだ。何か気だるく、快い疲労感の中で、その雰囲気を充分に味わいながら、コーヒーを飲む。

(アラスカ鉄道)
 帰りはアラスカ鉄道に乗る。
 駅は村の中心にある。駅舎はない。広いホームには,数人が座れる小さな待合所と鉄製のトイレがあるだけ。ホームは村と地つづきで、自動車でホームに乗り入れる人もいる。

 我々のほかに乗客がひとりやってきた。ついで、ドイツの観光客が数人、カメラを持って日陰に陣取る。列車を写そうというのである。
 ダイヤは一日に二本。我々が乗るのは13:16発だが、列車はなかなか姿を見せない。からっとした強い日差し。無数の綿毛が空中に舞う。柳のようだ。

 ジュースとスナック菓子を買ってきて、ザックに腰を掛け一服。線路に耳をあててみるが、列車の音は聞こえない。待合所では居眠りをする人も。

 Ⅰさんとはここでお別れだ。彼はもう一週間アラスカを旅するという。
 やっと列車が遠くに見えた。1時間40分の遅れである。駅に止まってはじめて、それが一両であることに気がついた。「えっ、これがアラスカ鉄道の列車なの?」。何両も連なる展望車付の豪華列車を予想していたので、あっけにとられて、一瞬、機関車だけが先にきたのかなと思う。でも、黒人の車掌が踏み台を持ってきて、乗客が降り始めた。これが待っていた列車なのだ。あわてて、荷物を運びこむ。展望車付豪華列車は別の時刻のものだった。

 車内の乗客は10人位、席はがらがらである。皆、思い思いに席につく。食堂車での食事を楽しみにしていたが、肩透かしとなった。コーヒーの販売もない。でも、車窓の景色はすばらしい。アラスカの原野、大河、はるかに雪をかぶった山々。残念ながらマッキンリーは雲の中に隠れて見えない。

 運転手は、乗客の女性とおしゃべりをしながら運転している。前をよく見て運転しているのだろうか。運転席に行ってみると、アンダーシャツ、短パン姿の大男が運転席の上に足を上げて運転中。写真を撮ろうとすると、足を下ろして恰好をつけた。いかにも、アラスカ鉄道といった雰囲気。そういえば、鉄道の遅れは日常のことで、1時間、2時間遅れはざらだと言う。
 3時間でアンカレッジに着く。
                                     
<あらためて、マッキンリとは>
            
(マッキンリー登山の特徴)
 我が国は高齢化社会をむかえつつあり、登山者も中高年が中心になってきた。

 これからは、海外登山でも中高年が増加するであろう。
 そんな人達のことも念頭に置きながら、登ってきた経験や聞いた話をもとにして、マッキンリーの特徴をあらためてまとめてみよう。

① 標高が低いわりには寒くて、空気が薄い
 これは緯度が高いことによる。同じ標高の場合、緯度が高ければ高いほど温度は低くなり、また空気は薄くなる。そのために、マッキンリーはヒマラヤの7千m峰にも匹敵すると言われており、夏でも寒く、5000mを越えると早朝の気温は-30度にもなるし、吹雪の中を行動するときは昼間でも帽子や手袋がバリバリに凍る。

 ただし、いくら寒くとも、何とか耐えられる寒さではある。行く前は、用を足すにはどうしたらよいかとか、アイゼンはワンタッチ式でないが(長い紐を鉄の環に通して締めていく仕組みである)、素手で着けられるだろうかと心配していたが、吹雪の中でも用は足せたし、アイゼンは薄い手袋をはめれば装着することが出来た。

 なお、晴れた日には、テントの中は平地の夏に近い暑さになり、テントの入口を大きく開けて風を入れねばならず、下着だけで過ごすということもあった。
 その意味では、夏と冬が同居している山とも言えよう。

② 氷雪の山である。
 それだけに、危険が多い。氷河にはクレバスが待ち受けているし、45度の雪壁を登る所や、切れ落ちた雪の斜面をトラバースする箇所もある。しかも、吹雪く日がかなりあって、ホアイト・アウト(周囲が白一色で何も見えなくなり、道を失う)の危険もある。我々は、入山から下山までの17日の間、毎日必ず仲間とザイルを結びあって歩いた。
 一方、景色は抜群。

③ 登頂の成功率は50%前後と低い
 これは、天候が安定せず、悪天が続くためである。
 アタック地点(ハイキャンプ・5250m)で吹雪が続けば、頂上へのアタックは無理である。食料が底をついたり、体力が落ちたりすれば登頂をあきらめて引き返さざるを得ない。

 このように、マッキンリーでは、登頂の可能性は天候に大きく左右される。運悪く悪天が続けば、どんなに体力があっても登頂は不可能となる。登頂率が過去90年間の平均で52%(昨年は40%)と低いのはそのためである。

④ そりを引いて登る。
 氷河上を行く最初の数日間と最後の2日間は、そりを引いて歩く。このそりが曲者。私達の場合も、そりが真っ直ぐに進まないとか、すぐに横転する、急斜面では引き綱が腰に食い込んで痛い、ということでさんざんな目に会った。荷の積み方や引き方に工夫が足りなかったようである。

⑤ 夏は白夜。
 懐中電灯は不要。夜が来ないので、行動時間に制限はない。
 天気が回復すれば、夕方に出発する人もいる。

⑥ シェルパがいない。
 ヒマラヤでは、エベレストにしろ、他の高峰にしろ、シェルパを雇い、荷を持たせて登るのが一般的であるが、マッキンリーにはシェルパがいない。荷はすべて登山者が持つことになり、それだけ荷が重くなる。ソリに荷を載せて引くことにより、背負う方の負担は軽減できるが、その分、腰に負担がかかる。

 今回は、ベテランの人達が一緒なので、共同装備はかなり持ってもらえたが、それでも、自分の荷はすべて背負ったし、共同装備の一部を自分のソリに載せて引っ張った

⑦ 日本から出発するツアーがない。
 五大陸最高峰のうちで、モンブラン、キリマンジャロ登山については、日本からのツアーが沢山あって、山の雑誌を見ればいくらでも見つかる。また、アコンカグアへのツアーもときどき雑誌に出ている。そのために、この3つの山は、登る手掛かりが全くない素人であっても、登りに行くことが可能である。

 しかし、マッキンリーへの日本からのツアーはほとんどない。数年前に、公募登山という形式で募集しているのを雑誌で一度見たくらいである。そのため、登りに行きたくとも素人には手掛かりがない(後で知ったが、アラスカの旅行会社が毎年募集している現地集合の登山ツアーはあるようだ)。

 行くには、自分で登山計画を立てるか、又は、個人的に誰かが行くという情報を掴んで、その人に頼んで一緒に連れていってもらうしかない。私の場合は、Kさんと知りあいであり、彼が声をかけてくれたので行くことができた。

 日本でツアーが組めないのは、海外からの、ガイド同伴のツアーが禁止されているためのようである(アラスカでガイドを頼むことは可。これらの点については確認していない)。

⑧ 登山のスタート地点へは小型飛行機で行く。
 小型飛行機に乗れるのはまことに楽しい。アラスカ鉄道に乗れることと合わせて、登山以外の大きな楽しみである。

(マッキンリーの登頂に成功するには)
 素人の場合は、まずは連れていってもらえる人を探すこと。
 次いで高山病対策。それには、事前に体力をつけること、登山中はゆっくり登ること、高所への登り下りを繰り返すことで体を慣らすこと、水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。

 成功の最後の鍵は天候に恵まれること。これは晴天を神に祈るしかない。

(登山中の危険とその対策)
・クレバスへの転落
 転落しても、助けられるように、仲間同志で必ずザイルを結んで歩く。

・固く凍った急斜面での滑落
 ここでもザイルが必ず必要。

・吹雪で視界が閉ざされるホアイトアウトによる道迷い
 吹雪のときは行動しないし、途中で吹雪になったときは、行動を中止する。アタックの帰りであれば、感に頼ってテントのあるところまで命がけで戻るほかはない。安全対策として、登りながら旗を立て、それを頼りに下りることもある。

・寒さと強風による凍傷
 凍傷の危険性が高い。手袋は、厚手の毛の手袋(油を抜かないもの。値段は普通の毛の手袋の数倍) の上に、ゴアテックスのオーバー手袋を着用する。しかも、凍傷を防ぐために毛の手袋は2つ用意し、アタックのときは湿気のない新品を着ける。
 また、強風に手袋を飛ばされないように注意が必要。飛ばされれば凍傷は避けられない。

・ 高山病
1000m登ったらまた下に降り、一日休養してから登り返すというように、体を高さに慣らしながら登る。荷上げのために一旦登り、それから下りてくるのは、荷を分散するほかに高度順化の意味がある。その他は前に書いた。

・ 雪崩
一日に数回は雪崩の音を聞く。ただし、遠い。コースはなだれの巣から離れたところを通っているので、それほど危険はない。数年前に、このコースのウインディーコーナー手前で雪崩に遭遇した隊があったということだが、コース内で生じるのはまれのようである。

・ 積雪
雪は一日に50-100cm積もることがあるようである。そのときは、ラッセルがきつく、歩くのに時間がかかる。ラッセルを避けるには、先頭で出発しないこと。先に出発した隊のトレースを追えば割りと楽である。それと、小型飛行機の会社で貸してくれるスノウ・ラケット(かんじき)を使うとよい。我々も、雪上での最後の一日は、これを着けて歩いたが、なかなか歩きやすかった。

(マッキンリーの記録等)

 1)初登頂
 マッキンリーの初登頂は北峰が1910年、最高点の南峰が1913年。これに対して、ヨーロッパ大陸最高峰のモンブラン初登頂は1786年であり、南米大陸最高峰アコンカグアの初登頂は1897年である。

 これらが世界の登山史の中でどんな位置をしめるのであろうか。
東西登山史考」(田口二郎著。岩波書店)を読むと、狩猟や信仰のためでなく、探検(科学的調査、地形確定、領土確定など)のための登山が始まったのは、ヨーロッパでは18世紀末(モンブラン初登頂の頃)から19世紀前半にかけてのヨーロッパ・アルプスであるという。

 これが19世紀後半にイギリス人を中心とするスポーツ登山に発展し、19世紀中には、ヨーロッパ・アルプスの未登峰がすべて登られ、この後、ヨーロッパの登山家は海外の未登峰を求めて、東はヒマラヤ、西はアメリカへと進出していったという。

上記のマッキンリーとアコンカグアの初登頂は、そのひとつの成果といえよう。一方、ヒマラヤへの進出は、第2次世界大戦後にすべての8000m峰の登頂という成果を生み出した。

  2)登山状況
 今回の登山中に出会った日本人は10組、20人ほどである。群馬労山5人、姫路山友会5人、関西の2人組、アラスカの旅行会社のツアーで来ていた2人組(夫婦だろうか。我々が吹雪の中を下山してきたときに、3300m のテント場でテントの中から首を出して話しかけてきた)、若者2人組、単独行2人など。

 マッキンリーは厳しい山であり、日本からはなかなか行けない山だと思っていたが、日本からこんなに多くの登山者が来ているとは、意外だった。また、単独行の登山者がいたのにも驚かされた。

 ところで、1994年のマッキンリーの年間登山者数は 306隊、1277人(うち、単独登山16人)であり、登頂成功者は 573人、成功率44.2% である。この年は悪天候が続いたために成功率がやや低かったもよう。平年であれば50% 前後である(以下、山と渓谷社「山岳年鑑」による)。

  登山者の内訳はアメリカ人 707人、外国人 570人。うち、日本人51人。

  また、これらのうち、ウエストバットレス・コースを登った登山者数は1067人で、うち登頂成功者は 493人、成功率は 46.2%である。

 次に、登山者数を過去の趨勢で見ると、1980年代の前半は 600-700 人の規模であったが、1987年には 800人台を、1990年には1000人台を記録し、かなり大幅に増加している。

 これらから推計すれば、過去における日本人のマッキンリー登山者数は、比率5%、1980年以前は年間10-20人と見て、累計で2000人程度であり、登頂者数は累計で1000人程度と言えようか。

  なお、南米・アコンカグアの登山者数は年間2000人前後と推定されており、マッキンリーよりは若干多いようである。やや古い統計だが、1989年末-1990年初にアコンカグアに正規に登山の申請を行った隊は 353隊1244人、うち日本人は24隊だったという。

 3)マッキンリーの天候
 マッキンリーを中心に広がるデナリ国立公園において、夏にこの山が完全に見える日は10% 前後に過ぎない。登山の適期である6月を例にとれば、完全に見える日は1993年で10%(1992年14%)であるのに対し、部分的に見える日は66%(57%)、まったく見えない日は24%(29%)となっている(デナリ国立公園内のアイルソン・ビジター・センターにおいて)。

 これを頂上アタックとの関係で見れば、完全に見える日の頂上は快晴でありアタックがしやすいと言えようが、部分的に見える日のほとんどは、頂上が強風や吹雪でアタックが難しいと思われ、アタックしやすい日はかなり少ないように思われる。

(登山家の記録から)

1)田部井淳子(女性として、世界で初めて七大陸最高峰に登る)      
 1988年 6月14日、女性3人でマッキンリーに登り彼女ともう1人が登頂に成功した。デナリパス(5550m) にテントを張る。10時40分スタート、快晴、微風の中、17時20分に頂上に達した。

 前日は、一旦はスタートしたものの、あまりの強風で前進できず、引き返している。
  この間、エベレストほか、8000m 峰10座に登頂している山田昇氏と偶然一緒のコースをたどったという。氏は8ケ月後の厳冬期にこの山に再度登り、遭難している。

なお、彼女達はBCのほかに、C1(ウエストバットレス上。4900m)、C2(ハイキャンプ) 、C3(デナリパス) とテントを張ったが、我々の場合はC1,C3 の場所には泊まらず、その日のうちに通過している。
          「七大陸最高峰に立って」(小学館)より
            
2)植村直巳(日本人初のエベレスト登頂者。1984年 2月にマッキンリー冬期単独登攀に挑戦し、登頂後、遭難)
 1970年 5月11日にエベレストに登頂。その後の1970年 8月26日、マッキンリーに単独で登頂。このときの記録は次のとおり。

 ハイキャンプ8:30発、15:15 頂上。
 雨のためにタルキートナで2日間待たされ、 8月17日にランディング・ポイントに飛ぶ。17日、18日は悪天候で同所に停滞。19日に25kgの荷を背負い出発。クレバスへの転落防止のために旗竿を腰につけて歩く。2500m 地点でツェルトに寝るが、猛吹雪で雪に埋まりかろうじて脱出。20日、21日と吹雪。同じところに雪洞を掘って停滞。22日は雪の中を磁石を頼りに3300m 地点まで登る。23日、BCへ。25日、ハイキャンプに到着。26日登頂。27日、ランディング・ポイントまで一気に下る。31日、エアタクシーでタルキートナへ帰着した。
                 「青春を山に賭けて」(文芸春秋)より

 3)ディック・バスとフランク・ウエルズ
51才と50才の素人が七大陸最高峰への挑戦を決心。フランクは、そのために映画会社ワーナーブラザーズの社長を辞職する。
 6月中旬にガイド同伴でマッキンリーへ(1ケ月前にエベレストに挑戦したが、これは失敗。後にディックのみ成功)。

 荷は一人30kg前後を背負ってランディング・ポイントをスタート。BCでは吹雪で3日間停滞。その他に1日はハイキャンプへの荷上げで使う。更にハイキャンプでも吹雪で3日間停滞し、食料が底をつく。キャンプ最後の日はキャンディーバーだけの夕食をとる。
 翌日、深雪と強風の中をアタックし登頂に成功する。ハイキャンプと山頂の往復には16時間を要した。
       「7つの最高峰(SEVEN SUMMITS)」(文芸春秋)より

(アラスカ寸描)                             
1)その歴史
 ・アラスカの土地は、アメリカが1867年にロシアから 720万$(当時のアメリカの国家予算の1/3)で買ったものだ。当時、ロシアはクリミア戦争で疲弊していたが、毛皮等の資源を捕り尽くしたという判断も加わって、この土地を手放したという。

 ・その後、アラスカでは金鉱が発見され、ノームやフェアバンクスはゴールドラッシュに湧いた。
 ・スワード、アンカレッジ、フェアバンクス間、全長 756kmのアラスカ鉄道はこの頃(1923年) に敷設された。

 ・第2次大戦中には、日本軍の上陸に備えて、カナダの中央からフェアバンクスに通じるアラスカ・ハイウエイが建設された。
 ・更に、1968年には北極海で大規模な油田が発見され、石油を太平洋側に運ぶために全長1287kmのアラスカ石油パイプラインが引かれる。

2)観光のポイント
 ・観光の目玉は自然。夏にはマッキンリーへのフライト、ホエール・ウオッチング、海にせまる大氷河へのクルーズなどが楽しめる。デナリ国立公園等ではキャンピング、トレッキングができる。アラスカの原野でフィッシング、ラフティングをやるのもよい。

  野性の熊(グリズリー)も見たいものだ。
 ・冬は何といっても、オーロラ観測。オーロラは年間日数の2/3 の確率で出現するが、見られるかどうかは天候次第という。

 ・アラスカ鉄道も魅力のひとつ。
 ・アラスカの北辺には道路が通じていない町が沢山ある。交通手段は小型飛行機。そんなまちにも行ってみたい。

<おわりに>

 50才を過ぎてから海外の山に登り始めたが、これで、五大陸最高峰のうちで、キリマンジャロ(1991年。アフリカ大陸)とマッキンリー(北アメリカ大陸)に登り、モンブラン(1988年。ヨーロッパ大陸)とアコンカグア(1993年。南アメリカ大陸)に途中まで登ったことになる。

 残るは、アジア大陸のエベレスト。しかし、これに登るのは、私には無理であろう。いつか、5千数百mのエベレストのベースキャンプまで行って、五大陸最高峰めぐりを締めくくることとしたい。

 最後に一言。いつまでも夢を見続けていたいので、付け加えておこう。
 「次は是非、8千m峰に挑戦してみたい」。世界にはエベレストを初めとして8千m峰が14座ある。その中のひとつに挑戦するチャンスがめぐってこないものだろうか。 
 無理だな---、でも、ひょっとして--。1996年夏に思う。

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