サンチャゴ巡礼

「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼

   「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼-

                                                              2014年5月30日-7月15日

Ⅰ.序

(写真による概要紹介) 

1646

上 San Esteban de Pravia
772

上 Popenaを過ぎて

1053上 Santanderへ、廻り道
1231

上 Comillas

150

上 San Sebastian(スペイン有数の夏の保養地。美食のまち) 

080001

上 Pasai Donibane(渡し船で対岸へ)

1367

804_2

                上 Castro Urdiales.下 Somo(サンタンデルへ)

1076_2

(参考「私のブログの記事一覧」)

 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回のサンティアゴ巡礼(フランス人の道、ル・ピュイの道、ポルトガル人の道、北の道)、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の海外登山記、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の国内登山記、④「読書の楽しみ」、「毎日、無事平穏」等の日常の思い、⑤シベリア鉄道等の海外旅行記の5つである。記事の一覧は下記をクリックするとみることができます。

 ブログ・私の登山および旅行記・記事一覧

<はじめに>

○2014年夏・76歳・「北の道」を行く。

 76歳の2014年夏(5月30日-7月15日)、スペインの海を見ながら歩きたくて、4回目のサンティアゴ巡礼に出かけた。これには、巡礼路についてのナマの情報をもう一本、ブログに書いて、これから行く方々の参考に供したいという思いもあった。歩いたのは北スペインの海岸沿いを行く「北の道」(イルン-ヒホン)とそれに続く「カミーノ・デ・ラ・コスタ(海岸の道)」(アビレス-リバデオ-バーモンデ-サンティアゴ)。全行程は820km。今回歩いたのは、そのうちの600kmである。

 前3回については、このブログに掲載した下記を参照されたい(これらの報告を見るには下線部分をクリックしてください。表示されない場合は、下線部分をコピーし、インターネットに入力すれば見ることができます)。

・2003年「スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO1 」(現在は「初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-」と改題している)
・2009年「サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)
・2012年「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼

また、今回の行くまでの経緯については下記を参照されたい。

サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)

 なお、今回は写真を多用した。この報告で重点を置いた断崖や浜辺などの海の風景のすばらしさを伝えるには、写真が最適と思ったからである。

<4回の巡礼を振り返って>

 まずは、4つの巡礼路を歩き終えたところで、改めて巡礼の魅力をまとめ、更に4つを比較しながら、それぞれの道の特徴を記してみたい。

Ⅰ.サンティアゴ巡礼とは

  エルサレムへの巡礼、ローマへの巡礼と並ぶ中世キリスト教の3大巡礼路の一つであり、最盛期の12世紀には年間50-100万人の人がヨーロッパ各地から、スペイン西北端の町「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」にある大聖堂を訪れたという。今でも、スペイン、フランス、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国に、畑や森を抜け、村や町をめぐる中世の巡礼路がそのままに残っており、聖ヤコブの墓があるサンティアゴ大聖堂を目指してこの道をたどる巡礼者の数は多く、また、年々その数が増加している。たとえば、サンティアゴにある巡礼事務所が発行した巡礼証明書の件数を見ると(発行要件は「サンティアゴ大聖堂への最後の100kmを歩いたこと。自転車の場合は200km」)、2000年5.5万人、2005年9.4万人、2009年14.6万人、2012年19.7万人、2013年21.6万人と急増しており、ハイキング気分で一部だけを歩く人、いくつかに区切って数年で一つのコースを完歩する人などを含めれば、毎年この数の数倍、あるいは数十倍の人がこの道を歩いていると思われる。

  サンティアゴに向かう主な巡礼路は12本。うちスペインに7本、フランスに4本、ポルトガルに1本ある。私はこのうち上記の4本を歩いたが、メインはもちろん「フランス人の道」と言われる巡礼路であり、2013年に巡礼証明を受けた21.6万人のうち、ここを歩いた人は15.2万人(70%)にも上る。宿も多く、ほぼ5-10kmごとにあるので、一日の行程を短くしたり長くしたりの調整が可能であり、足弱の人でも歩きやすく、初めての人にはお勧めの道と言えよう。

Ⅱ.サンティアゴ巡礼の魅力 

 サンティアゴ巡礼の魅力に惹かれて、徒歩やときには自転車でサンティアゴを訪れる巡礼者の数は前記のように急増しているが、その魅力はどこにあるのか。まず、これまでの4回の巡礼経験を基にして、私なりに感じたその魅力を紹介しておこう。

1)カミーノの最大の魅力は、世界各国から訪れた巡礼者や地元の人達と多くの出会いがあること。

・マジョルカ島から来た銀行勤めの2人連れのお嬢さん、

・小学生2人と一緒の日本の若い奥さん(元スチュワーデスとか。アルベルゲでスパゲッティを作りご馳走してくれた)、

・数日間一緒だったフランスの漁師のおじさん(携帯電話に出て、自宅の奥さんにも挨拶をする)、

・1日中、片言の英語で話しながら歩いたポルトガルの男子大学生、

・宿に着くと冷蔵庫の使い方、洗濯の仕方などを身振り手振りで親切に教えてくれた受付のおばあちゃん、

・「近所の友人も呼んで自宅で一緒に夕食を」と誘ってくれた民宿のご主人などなど、

 今でもそれらの人達を懐かしく思い出す

 なお、私はほとんどできないが、英語やスペイン語、あるいはフランス語、ポルトガル語の会話ができて、更にワインが飲めれば、出会いの楽しさは倍加すると思われる

2)特徴のある宿に泊りながら、森や川などの自然をゆっくりと鑑賞し、また、旅行会社のツアーでは訪れることがない異国の小さな町や村の雰囲気に触れるという旅である。

 たとえば宿では、

・廃村のアルベルゲ(普通のアルベルゲは2段ベットだが、ここは真っ暗な屋根裏が寝場所。天井が低くて這って動いても頭をぶつけるほどだった)、

・プールのあるジット(フランスではプールのある宿に2回ほど泊り、大好きな水泳を嬉々として楽しんだ)、

・宿の主人がバンジョーを弾いてくれるジット(食事の後、1時間ほど弾いてくれた。私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェストし、皆で一緒に歌ったが、なぜか懐かしさがこみ上げてきて、思わず涙ぐんでしまった)、

・宿泊費が無料のポルトガルの消防署(ベッドや毛布はない。借りられるのはマットだけ。それを誰もいない広い講堂の片隅に敷き、持参のレインコートをかけて寝た)、

などに泊った。

 また、小さな村では道に広がる牛の群れをドイツの若い女性とかき分けて進んだり、巡礼の最終地フィニステラでは砂山に腰を下ろして大西洋に沈む夕日となぎさに遊ぶ巡礼者を眺めたり、スペインの北の海を毎日、毎日眺めながら歩いたりした。

3)手作りの旅が楽しめる。

すべての計画を手作りで行う旅。それだけに事前の調査はたいへん。また、乗り物や宿屋の手配も自分で行うし、旅行先で何か困ったときは自分の力で解決しなければならない。手数はかかるが、それが魅力でもあり、添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

そして、出発前の数週間のワクワク・ドキドキ感はたまらない。「ワクワク」と期待で胸が膨らむ一方で、「道は分かるか」「足は痛まないか」「言葉が分からなくても意思は通じるか」などの心配は尽きず、はたしてサンティアゴまでたどりつけるだろうかと不安になることもある。日常ではめったに味わえない「ワクワク感」だ。

4)旅費が安上がり(2012年夏・100円/ユーロ)。

 ・アルベルゲ(スペインの巡礼宿。1泊5-7ユーロ。無料の場合もある。私営の場合は10ユーロ前後)や消防署(ポルトガルのみ。無料)を利用すれば、宿泊費は安上がり。フランスの宿「ジット」やポルトガルで一般的に利用するペンションやレジデンシャル(朝食付きで1千円-3千円)はやや高めだが、それでも日本の宿泊費(地方ホテルの素泊り5千円以上。山小屋1泊2食8千円以上)と比べれば極めて安い。

 ・朝と昼の食べ物(パン、バナナ、トマト、リンゴ、ハムなど)をコンビニで買えば、1食2-3ユーロ。

 ・夕食はレストランで8-10ユーロ。食材をスーパーで買い自炊をすれば更に安上がり。冷凍食品を買い電子レンジで温めてもよい。

  ・スペインの場合、夕食はレストランとして、上記で試算すれば40日間の宿代と食費の合計は800ユーロ、8万円位。

 ・このほか、航空運賃、空港までの鉄道・バス運賃、みやげ代などが必要。

5)道に迷うことはない。

 ・地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、日本で購入できる。

 ・分岐点には黄色い矢印などの道標が必ずある。

6)誰でも歩ける。

 脚力に応じて道を選べば、足弱の人(子供連れや高齢者)でも歩くことができる。

・どこから歩き始めても良い。

・1週間だけ歩いて帰ることもできる。

・一日の行程のうち、一部にタクシーやバス、あるいは電車を利用し、残りを歩くという方法もある。

・「フランス人の道」については宿と宿の距離が短く(5-10km間隔)、脚力に合わせて1日の行程を決めることが可能である。

7)英語やスペイン語・ポルトガル語などの会話ができなくとも歩くことができる。

宿の人、地元の人は外国の旅人に慣れており、宿を取ること、食事をすること、買い物をすることなどについては、ジェスチャーで意思を伝えることが可能である。

 自分で食べたい食事のメニューや旅で必要な最低限の単語をあらかじめメモして持参すれば、なおよい。

 もちろん、会話ができればもっとよい。旅の楽しさは倍加する。

8)以上のように魅力あふれる旅なので、年々、巡礼者が増加している。

サンティアゴの巡礼事務所に巡礼証明書(巡礼を終えたことを証明するもの。巡礼事務所までの最後の100kmを歩くことが必要。自転車や馬でもよい)を貰いに来た人の年間総数は、巡礼者が急増する「聖年の年(特別なお祭りがある)」を別として、1990年4,918人、2000年55,004人、2005年93,924人、2009年145,878人と大幅に増加しており(うち、アジア人は少ないながら、2005年の398人が2009年には2415人に増加)、今後、その数はますます増加すると見込まれる。

なお、聖年の年で見ると1993年99,436人、1999年154,613人、2004年179,944人、2010年272,135人となっている。

注)最新の2012年の統計では、日本の860人に対して韓国は2493人と多く、国別では11位に入っているとのことである(日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会による)。

 

Ⅲ.3つの巡礼路を比較して  

 次に、これまで行った4つの巡礼路を比較しながら、自分が見た範囲でその特徴を紹介してみたい。

<巡礼者との出会い>

 サン・ジャン・ピエド・ポーからサンティアゴへの「フランス人の道」は、巡礼者が全体の約7割を占めてたいへん多く、出会いの機会も多い。

 「ル・ピュイの道」は巡礼者の数は少ないが、巡礼者は「ジット」というフランス特有の宿を利用し食事を共にすることが一般的なので、宿で出会う巡礼者のほとんどと親しくなれる。

これに対し、「ポルトガル人の道」は巡礼者の数が少なく、また、人と親しくなれるアルベルゲが行程の後半にしかないので(前半は個室泊りのペンションを利用)、出会いの機会は前2者より少ない。

 「北の道」は巡礼者の数が「ル・ピュイの道」より多いと感じた。また、「北の道」の宿では、知らない人が数人づつで自炊し夕食を共にしたり、夕食後に集会室で雑談したりすることが一般的であり、私は参加しなかったが、参加をすればいろいろな人ともっと親しくなれたように思う。

 なお、これは私の場合だが、言葉が通じないことも出会いの機会を少なくする要因だった。今思えば、言葉がうまく通じなくとも、勇気を持って積極的に話しかけていけば、出会いの場をいくらでも増やすことは可能だったように思う。

<参考・巡礼路別巡礼者数-国籍別を含む>

 聖年の年・2010年の1年間に巡礼証明書(前述)をもらいにきた巡礼者の総数は272千人であり、うち、最も一般的な「フランス人の道」が189千人とたいへん多いのに対して、「ポルトガル人の道」を歩いた人は34千人と少ない。なお、これらは最後の100kmを歩いてサンティアゴまで到着した人の数であって、これらの道の途中だけを歩いて帰宅した人は含まないので、これらを含めればこの道を歩いている人の数はもっともっと多いと思う。

 「フランス人の道」の出発地別内訳では、サンジャン17,819人、ロンセスバジェス13,620人、セブレイロ22,057人、サリア67,869人など。全体の約半数がセブレイロとサリアを出発点としている。

また、「ポルトガル人の道」の出発地別内訳は、リスボン718人、ポルト5,894人、トゥイ18,121人などであり、リスボンから出発する人が極めて少ないこと、行程の途中から急速に増えてくること、特にスペインに入ってからの最初の都市・トゥイから歩く人が多いことなどの特徴がある。

一方、「ル・ピュイの道」については、この年にル・ピュイを出発点としてサンティアゴまで約2ヶ月の長距離を歩き通した人の統計しかないが、3,280人と、リスボンからの出発者の約4倍となっている。ル・ピュイの道を歩く人はフランス人の道よりはるかに少ないが、私のようにサン・ジャンまでの人や途中の数日間のみをハイキングする人も合わせれば、ポルトガル人の道よりはかなり多いと推定される。

 また、「北の道」を歩いてサンティアゴまで来た人は17,954人と「ポルトガル人の道」の約半分。うちイルン発が2474人とリスボン発718人の4倍弱。歩く人は少ないが、「ポルトガル人の道」のように途中から急増することはないようである。

 なお、巡礼者総数272千人の国籍別内訳は、スペイン188(単位千人。以下同じ)、ドイツ15、イタリア14、フランス9、ポルトガル8、イギリス2、アメリカ3、カナダ2、ブラジル2などであり、日本人のみの統計はないが、日本、韓国、中国等を含めたアジア全体では2,462人となっている。

景色>

景色は「北の道」が毎日のように海を見ながら歩けるので最も良い。「フランス人の道」もよい。1500mの峠を3つも越えるし、丘陵地帯では樹木の生えていない稜線を歩くことが多いので、遠望も楽しめる。

これに対し、「ポルトガル人の道」は峠越えと言っても、せいぜい標高200m-400mの高さを数回越えるだけ。しかも山林の中なので遠望は効かず、景色の良い所は少ない。

ただし、「ポルトガル人の道」はローマ時代の道や中世の道が当時の石畳や石垣とともに残るところが多いので、昔の道がどんなものだったか、その雰囲気は十分に味わうことができる。

 なお、ル・ピュイの道は丘陵の上の、樹木が少ない牧草地や畑地を行くことが多いので、景色は良い。ただし、あまり昔の道という雰囲気は残っていない。

<参考・「ポルトガル人の道」の地形>

ポルトガル人の道の前半は平地。広い畑の中の土の道や町のアスファルトの道を延々と歩くことが多く、景色が単調でやや飽きる。

後半は標高の低い丘陵地帯。ゆるやかなアップダウンを繰り返しながら、町や村、畑や林の中を行く。

ただし、丘陵地帯では、標高が低い割りに湧き水が随所にあり、川の水がきれいで、緑の水草がゆれているのが印象的だった。

<道-迷うことはないか>

1)4つの巡礼路はどれも、地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、それらが日本で購入できる上に、道標が整備されているので、迷うことはほとんどない。特に「フランス人の道」は分かりやすい。

14262)「ポルトガル人の道」も数カ所だけ分かりにくいところはあるが、全体的にはほとんど迷うことはない。

地図については下記の英語版がある。

A Pilgrim's Guide to the Camino Portugues: Lisboa, Porto, Santiago

John Brierley (ペーパーバック・208頁)

私はインターネット上で書籍販売を行う「アマゾン」でこれを入手した。615.6kmの行程を23日間で歩くように地図23枚が掲載されたもので、分岐点、舗装されている道と舗装されていない道の区分、川や橋、標高などが載っており、歩く際にはたいへん参考になった。

なお、他の二つの道の地図については、John Brierley版も発行されているが、それとは別に現地語の地図も入手可能で、それらは750kmの行程を約70枚から90枚の地図で表しており、上記地図よりは更に詳しいものである。

3)ポルトガル人の道の分岐点にも黄色い矢印など、サンティアゴへの道標がほぼ必ずある。

今回、私は何回か道に迷ったが、たいていは道標の見落としによるものである。ただし、地図が間違っていたことが1回、道標が見当たらなかったことが1回あった。それらの点は下記に具体的に書いておくので注意されたい。

●次の道標がなかなか出てこないので、道が違うことに気がついて引き返したり、また、町の人に呼び止められ「道が違っている」と教えられたりしたが、これらは道標の見落としが原因だった。

 四つ角等の曲り角に来たときに次の道標に出会わなかったら、道に迷ったのである。必ず引き返さなければならない。巡礼者用の地図には巡礼路周辺の町村や道は掲載されていないので、迷って周辺の町に入り込んだ場合は、その地図に頼ることができず、自分がどこにいるか全く分からなくなる。要注意だ。

●ご夫婦と娘さんの3人家族と一緒になり、話しながら歩いているうちに道を見失うということがあった。彼等と別れるときに「この道を行けばよい」と教えられたので道標がないのに歩いて行ったのだが、いつまで行っても次の道標が出てこず、完全に迷ってしまった。巡礼者用の地図にある町の名前を示して「ここに行くには」と何人かに聞いたが、よく分からない。結局、車で次の町まで運んでもらった。

地図が間違っていたことが1回ある。6月5日、GOLEGAの町の中心から郊外へ行こうとしたが、地図に間違いがあって、やや迷った。地図では、N-243に出るとそれを渡って細い道を直進するようになっていたが、直進しているのは広い車道であり、細い道はなかった。車を止めて2人の人に聞いてやっと分かったことだが、実際はN-243に出たら右折し、5分ほど行ってから左折して細い道に入るのが正しかったのである。

●6月9日、ALVAIAZEREに向かって歩いているときのこと、森の中の赤土と砂利の道を行くと十字路に出た。どちらへ行くか。道標がどうしても見当たらない。次いで、巡礼者の靴跡を探して道を特定しようとしたのだが、それもはっきりしない。地図上には十字路の掲載はなく、道は直進するようになっていたので思い切って直進することにした(あとで知ったが左に曲がるのが正しかった)。しかし、いくら行っても黄色い矢印に出会わない。間違ったと思い、斜面を左方に登っていくと舗装道路が見つかり、その道を行くと村に入った。巡礼路から右へかなり離れたようで、村は手持ちの地図には載っていない。どうしよう。まず、自動車関係の小さな工場のおじさんに巡礼路の地図を見せて聞いてみた。おじさんは地図を何回か書きなおして、最後に書いた地図を渡してくれたが、どうも信用できない(あとで分かったが、この地図は間違っていた。おじさんの地図の通りに行けば巡礼路からもっと離れていただろう)。更に数分行ってカフェに入り、中年の主人に聞いてみると、しっかりした地図を書いてくれた。こちらのほうが信用できそうだ。地図のとおりに30分ほど歩くと巡礼路に戻ることができた。

道については数人に聞いて、どれが正しいかを自分で判断する必要があるようだ。

<宿-どんな宿があるか>

 「ポルトガル人の道」には、ペンション(家族経営の小さなホテル)、アルベルゲ、ホテル、消防署、ユースホステルなどがある。ただし、地域的に宿の種類に偏りがあり、アルベルゲは行程の後半にしか無いし、無料の消防署に泊まれるのはポルトガルのみである。私はポルトガルでは主にペンションを利用し(消防署には2泊)、後半、スペインに入ってからはアルベルゲを利用した。

 

また、宿と次の宿の距離が遠いのもこの道の特徴である。サン・ジャン・ピエド・ポーからサンティアゴへの「フランス人の道」には、ほぼ5-10km置きにアルベルゲがあり(ただし、ピレネー越えなど、いくつか例外はあるが)、子供連れ、足弱の人などにとってたいへん歩き易いのに対し、ポルトガル人の道は、次の宿がある町までの距離が長く、1日に20-30kmを(ときには1日に34kmも)歩かないと次の宿に着かない。

 宿の形態で特徴があるのは、「ル・ピュイの道」。フランスには「ジット」というハイカーの宿が全国に存在していて、巡礼者もこれを利用するのだが、ほとんどが1泊2食付の形態で、しかも宿泊者全員が一つのテーブルを囲んで食事をとることが多く(ときには、村のたった一つの食堂に行き、全員で一つのテーブルを囲み、同じ料理を皿から分けあって食べるということもある)、アットホームな雰囲気なので、宿泊者同士はすぐに仲良くなる。これに対して、スペインやポルトガルでは食事付の宿はほとんどない。レストランに行き、一人で、あるいは仲の良い数人で食べるのが普通であり、アルベルゲで自炊することもある。

 

 以下、今回の「ポルトガル人の道」について説明する。

1)アルベルゲ 

 「アルベルゲ」はスペインにはどこにでもある一般的な巡礼宿だが、「ポルトガル人の道」では後半の行程にしか無くて、現れるのは行程の14日目、VILARINHOの町からである(そのあとは20-30km置きに必ずあり、18日目にはスペインに入る)。ポルトガルのアルベルゲは1泊は5ユーロ(Rubiaesのみ無料)。一般に2段ベットだが、Ponte de limaSantiagoで私が泊まったアルベルゲは1段ベットである。お湯のシャワー付。アルベルゲは同宿の人達と仲良くなれるというすばらしい利点があるが、ポルトガルではアルベルゲがあるのは最後の4日間だけである。

 なお、目的地のサンティアゴでは前回に宿としたアルベルゲに再び泊まった。気にいった宿なので紹介しておきたい。

1646それは中心街に3つあるアルベルゲの一つ。神学校(Seminario Menor)の2階と3階にあり、ベッド数は177。前回は大部屋(1泊12ユーロ)に、今回は個室(1泊17ユーロ)に泊った。

ここは大聖堂から徒歩15分とやや遠いが、個室があること、地下に自販機や電子レンジ、湯沸し器を備えた自炊用の食堂兼キッチンがあること、食堂にテレビがあること、連泊が可能なこと(前回、サン・ジャンのアルベルゲでは連泊が認められなかったし、また、2連泊までというアルベルゲもあった。ここでは4連泊も可。ただし、時期によって連泊の可否は異なるのかもしれない)などの特徴がある。

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 私はこの自販機でリゾットやスパゲッテイを買って電子レンジで熱し、スーパーで買ったパンや果物、ハム、牛乳、コーンフレーク、紅茶のティーバッグなどと合わせて、豪華な食事を楽しみ、そのあと、同宿の人達数十人とサッカー・ユーロ選手権決勝・イタリー・ドイツ戦を見て過ごした。

 

 

2)ペンション(家族経営の小さなホテル)

 ポルトガルでほとんどの宿泊地にあるのが、ペンション。シングルで15-30ユーロ(素泊り)。たった一人で部屋を専有し、シャワー、洗濯、テレビ観戦などができるので、アルベルゲよりはのんびりできて、旅の疲れを取るのによい。ただし、客が少ない時期だと閉まっていることがある(行程の最初の頃、AZAMBUJASANTAREMの町では予定していたペンションが閉まっていて、宿を探すのに苦労した)。それと、夕方から開くところがあったり、場合によっては隣設する同名のレストランに行けば入れてくれたり、あるいは隣の店に頼むと電話で管理人を呼んでくれたりと宿の取り方が多様なので、閉まっていても近所の人によく聞く必要がある。

 

3)ホテル 

ホテルもかなりあるが、最低でも40-50ユーロ(シングル)と宿泊費は高目である。私は他に泊るところがなくて、1度だけ利用した。

 

4)消防署

739ポルトガルのみであるが、巡礼者は「巡礼手帳」を示して消防署に無料で泊まることができる。ただし、寝るのは板貼りやタイル貼りの大広間。今回は2回泊まったが、宿泊者は私1人か、同宿1人だけ。また、貸してくれるのはマット1枚のみであり、枕、毛布はない。もちろん、シャワーもない。私はゴアテックスの雨具を身に着けて毛布なしで寝たが、6月でもやや寒かった。利用する人はシュラフを持参したほうがよいかもしれない。それと、土曜日は消防署が休みで、泊まれないということがあった。土・日が休みかを、確認してから行く必要がある。

なお、6月15日泊のALBERGARIA-a-VELHAの町では消防署に行くと近くの教会の付属施設を紹介されたが、ここも無料で、マットで寝る形式だった。

5)ユース・ホステル

2段ベッドが4ヶで、8人部屋が普通。大都市のリスボン、コインブラ、ポルトなどにある。リスボンの場合は3ヶ所あり、そのうち2ヶ所を利用したが、朝食付で15-16ユーロ。コインブラ、ポルトのそれは場所的にやや不便なので(たとえば、コインブラの場合は、町の中心から2km離れている)、利用しなかった。

 なお、リスボンのオリエンテにあるユース・ホステルは敷地がゆったりしていて建物も庭も広く、気分良く利用できるので、お勧めである。ここはオリエンテ駅から線路沿いに大通りを歩いて15分。国鉄なら普通列車でオリエンテの次の駅のそば。朝食付。夕食も有料で食べられる(5.4ユーロ)。私が利用したときの夕食は、サラダ、パン、ライス(日本の短粒種と異なり、長粒種なので、ボソボソで美味しくはないが)、魚とポテトの揚げ物、ゼリーという献立だった。

 

6)パラドールとポザーダ

 スペインには「パラドール」、ポルトガルには「ポザーダ」という豪華な国営ホテルがある。

「パラドール」は城や修道院、領主の館などを改装した中世風の豪華なもので、スペインに85ヶ所ある。料金はほとんどがシングルで100ユーロ以上。高くてなかなか泊まれないが、前々回、私は思い出のためにサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダのそれに泊まり(シングル・89ユーロ)、また、サンティアゴではパラドール内のカフェに入って、その豪華な雰囲気の一端を味わった。

一方、「ポザーダ」は41ヶ所。城や修道院を改装したもの、自然の中に立地しているもの、家庭的雰囲気のあるものなどの種類があり、巡礼路沿いではリスボン近郊、コニンブリガ近く、ポルトなどにある。私はまだ泊まったことがないが、お金と時間に余裕があれば一度は泊まってみたかったホテルである。

 <今回のあらまし>

○のんびり歩く。

 これまでの3回は全行程を歩き切ったが、今回は歳をとって足が弱ってきたこと、足を痛めた人がいてお世話をしたことなどがあって、全行程を歩くことはできなかった。

 それでも十分に満足。前3回は「挑戦する」、「全行程を歩き切る」という思いで、毎日「ともかく一歩でも前へ」とがんばったが、今回は脚力の衰えを考慮して、最初から「全行程を歩き切らなくてもよい」、「のんびりいこう」という気持で臨み、ときには巡礼路を外れ、寄り道をして旅を楽しんだ。

○何とか歩けた。

 歩き終わって思うのは「76歳という年齢で、重い荷物を背負って600kmをよく歩けた」ということ。

 1日分の食料を入れれば10kgはあったと思う。行く前は、この荷の重さではすぐに歩けなくなるのではとかなり不安だった。家で計った荷の重さは8kg。現地ではこれに1日を歩くのに必要な水と食料が加わる。500ミリリットルのペットボトル2本、アクエリアス1本、バナナ2本、トマト1ヶ、リンゴ2ヶ、パンなど。数日歩くうちに、持っていた傘を捨て、足が順調で不要になった地下足袋を捨て、本の読んだ部分や地図の歩き終わった部分などを捨てたが、まだ重かった。

 それでも30数日間、歩き続けることができたのは、脚力の衰えを実感し、1日に歩く距離を前3回の25-30kmから20km以下に抑えたこと、それと、これまでの30数年間、日本百名山や海外登山、サンティアゴ巡礼などに出かける際に常に掲げてきた「挑戦」という旗を初めて降ろし、気負いをなくして臨んだことなどによると思う。

 脚力への自信をやや回復した。

○見てきたのはスペインの北の海岸。

 「ル・ピュイの道」ではモワサック、コンク、サン・シラク・ラホピー、カオールといった中世の町とフランスの農村風景を楽しみ、「ポルトガル人の道」ではポルト、コインブラ、トマールといった美しい中世の町やアズレージョ(装飾タイル)を楽しんできたが、「北の道」の楽しみは「海」を見ることだった。

 スペイン北岸は断崖絶壁が続き、その切れ目に観光地の長い砂浜や人がほとんど訪れない寒村の砂浜がある。これが他の巡礼路にはないこの道の一番の特徴であろう。

 記憶に残った海の風景を以下にいくつか紹介する。

 崖上に幅5mほどの遊歩道が6kmにわたって続く。海側は柵越しに断崖。地元の人が散歩し、ときには自転車も通る。会う人ごとにスペイン語で「オーラ」とあいさつ。

土の急な小道を登っていくと牧草地が広がる。遥か彼方まで延々と断崖が続き、その先にきょう泊る町が見える。

 草深い巡礼路を下って行くと小さな無人の砂利混じりの砂浜に行き着いた。砂浜には誰も行ったことがないのか、手前の草むらには砂浜への踏み跡がない。

 高さ100mほどの海に突き出た小山を越えると今度は長い砂浜。2時間の砂浜歩き。多くの観光客が水着姿で散策している。重いザックを背に、靴を脱ぎ、裸足で波打ち際を歩いてみた。気持良し。

 有数の観光地「ルアルカ」が眼下に広がる。中世の雰囲気を残す小さな港町。急坂を下りて行くと、海岸通りにレストランと土産物屋が並ぶ。雰囲気のよいレストランに入って昼食。

 巡礼路を外れて廻り道をし、絶景を見物。高さ50mほどの断崖から白波の立つ岩場を見下ろしていると、目の前を数羽のカモメが崖沿いに一列になって飛んでいった。遊んでいるようだ。

 ラレドーの中心街から砂浜沿いに6kmを歩き、半島の先端へ。砂浜に腰をおろしてしばらく待っていると、小さな渡し船が砂浜に直接乗り付けた。板が渡され、巡礼者数人と自転車1台が乗り移る。

・寄り道といえば、海ではないが、「アルタミラの洞窟」(サンティリャーナ・デル・マルの近く。1-2万年前に描かれた動物の彩色画で有名。日本の教科書にも載っている)や「モン・サン・ミッシェルの大聖堂」(フランスの海辺にそびえる)も見物した。

注)スペイン北部の歴史

①8-11世紀、イスラム教徒がイベリア半島の大半を支配。この間、キリスト教徒は半島の北部に押し込められたが、いくつかの王国を建国し、レコンキスタ運動を展開(11世紀末-13世紀がこの運動もあってサンティアゴ巡礼の最盛期)。15世紀末に半島全体からイスラム教徒を駆逐。1516年、スペイン王国成立。

 なお、8-9世紀に建国された各王国の首都は当初、オビエド、パンプローナ、ハカなどだったが、その後、王国が南に発展するとともに首都はレオン、サラゴサ、トレドなど、南に移転していった。「北の道」沿いで首都になった歴史があるのはオビエドのみのもよう。

 ②「北の道」の海岸沿いの町のほとんどは中世に漁業や貿易で栄え、それぞれにおもむきのある旧市街を持つ。そして、近代に入ると、長い砂浜や美しい景色があるそのうちのいくつかが、観光都市として大きく発展した。たとえば、サン・セバスチャンは王族の保養地となり、サンタンデールは王室の夏の離宮が建設されて、発展した。

③歴史の詳細

 紀元前205年、ローマが属州ヒスパニアを設置。

 紀元1世紀、ローマがイベリア半島のほぼ全域を属州に。

 紀元313年、ローマがキリスト教を公認。

 紀元409年、西ゴート族が侵入し王国を設立。

 711年、イスラム軍により西ゴート王国滅亡。以降、11世紀前半までイスラム教徒が北部を除き、スペインを支配。

 718年、北部にキリスト教徒のアストゥリアス王国成立、レコンキスタ運動(半島からイスラム教徒を追い払う戦い)始まる。794年、オビエドを首都に定める。814年、アルフォンソ2世、サンティアゴ教会設立。910年、首都をレオンに移転。レオン王国と改称。

 820年、ナバーラ王国成立(中心はパンプローナ)。1512年まで存続し、カスティーリャ王国に併合される。

 1035年、アラゴン王国成立(中心はハカ)。1118年、サラゴサを攻略し首都とする。1137年、バルセローナ伯領と合併しアラゴン連合王国成立。15世紀後半には、バルセロナ、バレンシアまで領土を拡大。

 1037年、上記2国が合併しカスティーリャ・レオン王国成立。一時分裂後、1230年、再統一しカスティーリャ王国となる(1085年、トレド攻略。以降500年間、トレドが首都)。15世紀後半にはコルドバ、セビーリャまで領土を拡大。

 11世紀末-13世紀が、サンティアゴ巡礼の最盛期。

 1469年、アラゴンの王女とカスティーリャの王太子が結婚。後にどちらも国王となり、スペインは実質的に統合された。1492年、半島に最後に残るイスラム国家、グラナダを攻略。

 1516年、スペイン王国成立。

 1800年代初め、ナポレオンに破れ、北部も含め多くの都市が破壊される。

 1936-39年、スペイン内戦。

○巡礼旅の最大の魅力は人とのふれあい

 巡礼の最大の魅力は世界各地からの巡礼者や地元の人達と多くのふれあいがあること。今回もいろいろとふれあいがあった。

・カナダ、スペイン、ドイツの女性3人に断崖を行く廻り道を一緒に歩こうと誘われた。ドイツのサブリナさんとは何回か会っており顔見知り。オーストリアの山岳ホテルで働いており、サーフィン大好きの人。片言の英語を使って話しながら歩く。
 4人で断崖を巡った後、砂浜に着くと3人は2時間ほど泳いでいくという。誘われたが海は冷たそう。私は断って先に行くことにした。

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・宿が何回か一緒になった40歳位のアメリカ人男性から、「お前が持っているインスタンコーヒーを2袋くれないか」と言われた。「あの女性にコーヒーをおごって話がしたいんだ」とのこと。その人からは「北の道」からは遠回りになる「オビエド」という町の良さを教えられ、その町に一緒に寄り道もした。

・ベルギーの大学生2人と同宿になった。高校は同学年だったが、一人は昨年入試に失敗し大学に入ったのは1年遅い。でも前年の入試に失敗した若者は「今年の入試では一番で合格したんだ」と威張っていた。その二人とは、その後、会うたびに握手。また、バル(喫茶兼飲み屋)で一緒にサッカーW杯のベルギー戦も観戦した。

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・韓国の50代の男性。夫婦2人と友人2人の4人連れ。前回は夫婦で「フランス人の道」を歩いており、男性はキリマンジャロにも登ったという。同じ山に登ったということで意気投合。握手をしているところを記念写真に撮ったりした。

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・バーモンデのアルベルゲで、珍しく日本人男性と同宿になった。71歳の青木さん、巡礼は6回目とのこと。仕事があるので、昨年は「北の道」をヒホンまで歩き、今回はヒホンからサンティアゴを目指す。奥様とサンティアゴ巡礼に行く約束をしていたのに奥様がお亡くなりになり、お骨を抱いて巡礼をしたことがあるという。

  当日の夕食は、二人でアルベルゲの庭に出て、コンビニで買ったバナナ、リンゴ、ハムなどを食べながら、数時間の会話を楽しんだ。翌日もコンビニに食材を買いに行き、修道院のキッチンでジャガイモ入りのスープを鍋で温めて、二人で夕食。3日目の夕食は二人でレストランへ。3日間だったが、常に一緒に行動し、話がはずむ道中となった。

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・ラレド-の手前、人家がまばらな国道を歩いていると、庭で宴会をやっているおじさん達に呼び止められた。「一緒に飲んでいけ」という。ビール、タコ料理、庭の暖炉で焼いた肉などをご馳走になり、絵葉書をプレゼント。

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・多数のボランティアの方が運営するギメスのアルベルゲで、夕方の1時間、宿泊者50人が集まってミーティングがあったが、私はその中の最高齢ということで紹介され、この宿を創設した77歳の方から抱擁の祝福を受けた。また、翌朝、歩き始めると呼び止められ、肩を組んで一緒の写真に収まるということが数回あった(詳細後記)。

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・ビラルバへの丘陵超え。点々と農家あり。石垣に腰を掛けているおばあちゃんと5-6歳位の男の子に出会う。「写真を撮らせて」と頼むとうなずいてくれた。お礼に「富士山と桜」の絵葉書をプレゼント。分かれてしばらく行くと、おばあちゃんが大声で「グラシアス」と叫んでいるのが聞こえた。1698_2

・帰り、イルンに行く列車の中で近藤さんという72歳の日本人男性にお会いした。スペイン人男性と21歳の日本人男性・田辺君が一緒。

 近藤さんは英語とスペイン語が堪能。昨年、「フランス人の道」を歩く途中で知り合ったスペイン、アメリカ、スイスの人達と今年も落ち合う場所を決めて集まり、「北の道」を歩いてきており(奇遇だが、途中で宮本さん達にも会ったとのこと)、来年も同じ人達と「銀の道」を歩くことにしたという。また、彼等と旅の途中で知り合った田辺君はヨ-ロッパを2ヶ月間、単独で旅行中とのこと。2人は一緒に歩いたスペイン人の家に泊りに行くために、イルンの手前で列車を降りていった。

巡礼をしている人はとても多様。外国語が堪能であれば、外国の人達と仲良くなり、このように巡礼の楽しみを深めていくことができるのだ。


2016428追記)きょう、近藤さんから『
2013年「フランス人の道」、2014年「北の道」、2015年「銀の道」を歩いた後、今年は「ポルトガルの道」を歩くため、5/9Lisbonに向かいます』とのメールをいただいた。とても懐かしい。

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○全盲の友人が820kmを完歩。

 この旅では、視覚障害者の登山団体「六つ星山の会」の会員であり、私の友人でもある全盲の宮本博さんが、サポートの方2人と「北の道」820kmを完歩し、更にフィニステラまでの87kmを歩いた。全盲で「北の道」を完歩した人は多分、日本人としては初めてではないかと思われる。

 この快挙は、ご本人の脚力とねばり強さによるところが大きいが、その他、脚力があり、精神的にもタフな二人の方がサポート面で協力したことも大きく貢献している。適切で粘り強いサポートなくしては、達成は難しかったと思う。

 なお、私は滞在日数が短いこともあって数日間だけ皆と一緒に歩き、あとは単独で歩いた。

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<「北の道」紹介>

1.風 

(1)断崖と砂浜

 他の巡礼路にはないこの道の特徴は「海」。他の巡礼路でも「海」は見られるが、ほんの少し。ここでは全長820km(815km、830kmなど、地図によって距離は異なる)のうち、Ribadeoまでの前半620kmが海沿いの道であり、巡礼路はときには内陸に入るが、また海に戻り、海岸を歩くことが多い。

 しかも、この北の海岸は、ほぼ全域にわたって50mほどの高さから海に落ち込む崖となっているために、いたるところで断崖の絶景が楽しめる。

 また、崖が切れたところにある砂浜も良い。観光客で溢れる長い砂浜と寒村の砂浜。特に、全く無人の砂浜や数人のサーファーが点在するだけの砂浜はさびしげで魅力的。

(2)お勧めの見どころ

 私が歩いた範囲で「見どころ」をあげれば、以下の通りである。

A)まずは、海岸の崖上を行く道

①イルンを出てから初めて出会う長い崖上の道。

 Portugaleteから13kmのところ、Popenaのアルベルゲを出て森の中の長い階段を上がっていくと断崖の上に出る。ここから巡礼路は崖側に柵のある幅広の遊歩道となってOntonまで6km続くが、景色は抜群。断崖が続く海岸線がはるか遠くまで望めて、気分爽快。このように長く続く断崖の絶景に出会うのはイルンを出てから初めてのことなので、何枚も写真を撮った。ここは地元の人の散歩道でもあり、私も、普段着姿で散策している地元の女性二人や5-6人で歩く老人の一団に出会った。

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 なお、巡礼路はOntonから海岸を離れて車道を行くが、Mionoで巡礼路を外れ再び海岸沿いを行くと、昔の鉱山跡に行き着く。ここも見物するとよい。ここまで行く人はあまりいないようで、人には全く会わない。海に30mほど伸びた鉄骨の鉱石積み出し装置のほか、トロッコが通ったと思われるトンネルなどがあり、向こう側に抜ければ、崖上の台地をCastro Urdialesまで細い道が通じている

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Santanderへ、大回りの道を行く。

 GoemesからGalizanoへ。ここから巡礼路は3本に分かれる。どれもがSantander への渡し船が出るSomoの港に至るが、最短は国道を一直線に行くもので、2時間、7km。最長は大回りして海岸沿いを行くもので、約4時間。時間に余裕があったので、私は大回りの道を取った。30分で海。着いてすぐに、道を外れ牧草地に入り、崖の先端へ。右のほるか下に小さな砂浜。豆粒のように数人の人影が見え、流れこむ小川が砂浜で広がり、朝日に輝いていた。

 道に戻り、崖上の草地を進む。しばらく行くと海に突き出た断崖の上で、4人組が休んでいた。中年の男性三人と女性一人。一緒に腰を降ろし、持ってきた家族の写真を見せたりして談笑。お菓子をもらった。

 最後は長い砂浜歩き。散歩する人、サーフィンを楽しむ人等、人多し。靴を脱ぎ、波打ち際を歩く。

 Somoの船乗り場着。カフェで4人と一服。やや大きな船でSantanderへ。

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③巡礼路を外れてビューポイントへ。ColombresとLlanesの間

 ColombresとLlanesの間、Vidiago(ヒディアゴ)の辺りで巡礼路を外れ、海岸に向かう。 地図にLlanesに向かう回り道(ビューポイントの印あり)が載っていたためだ。まずは大きな砂浜に出る。突き出た岩の上にはレストラン、その裏手の断崖の下には砂利混じりの砂浜、とても景色のよいところで、更に断崖沿いを進むと、岸から数mの海中に、高さ20m、長さ30mほどの岩山があり、説明する大きな看板が立っていた。この後も海中に突き出たいくつかの岩山に会う。この辺りは公立の自然公園になっているのかも。景色のよいところがいくつもあった。

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④早朝、無人の砂浜を歩く。

 Bibadesellaから6kmでSan Esteban de Leces。そこのアルベルゲに泊り、翌日、巡礼路を村に下りると長い砂浜。早朝で無人。砂利の多い波打ち際へ。はるか遠くまで白波が打ち寄せ、朝日に輝いていた。

いったん台地に上がり、向こう側の崖下を見下ろすと今度は小さな弓なりの砂浜。そこには豆粒のように、サーフィンを楽しむ黒い人影が二つ。

 更に先へ。海辺に高さ100mの岩山があった。スペインの海辺はどんなところかもっと探ってみたいと思い、巡礼路を離れて、海辺側に回り込んでその岩山を登ってみた。でも道はだんだんはっきりしなくなり、いばらの中に踏み込んで進むようになる。道は赤土の急な登り。荷はずしりと重い。滑りやすいが、草木は茨だらけなので、掴むところがない。落ちればかなり下まで転落しそう。かなり上まで苦労して登ったところで、結局、「こんなところで命を落としても」とあきらめた。元の道を下って引き返すのもたいへん。調子に乗りすぎたようだ。

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⑤同宿の女性3人と巡礼路を外れ、断崖を行く。

 Soto del Barcoを過ぎNalon川を渡るとすぐに、巡礼路を外れて右へ1.5km入る。そこが港町・San Esteban de Pravia(前述のSan Esteban de Lecesとは別)。砂浜がないためか、観光客は少なく、静な町である。アルベルゲに宿泊。

 翌日、巡礼路に戻るつもりだったが、同宿の女性3人に誘われて海沿いに断崖上の道をいくことにした(冒頭で紹介済)。アップダウンはあるが、歩きやすい幅2-3mの土の道。ところどころに整備された見晴台。眼下の松林越しに岩に砕ける白波。はるか遠くまで断崖の海岸線が望めて、景色は素晴らしかった。

B)長い砂浜が海水浴場となっている観光地

San Sebastian 

 中世に栄えた貿易都市。2012年の人口はサンタンデールと並ぶ19万人。ビルバオの35万人をはるかに下回るが、「北の海岸」第一の夏の高級リゾート地。半円型の湾と全長2kmの海水浴場を持ち、湾の両端の丘上にある展望台からの景色はすばらしく、「カンタブリア海の真珠」と言われている(特に夜景がよい)。19世紀にはハプスブルク家の王妃マリア・クリスティーナが保養地として利用するようになったという。また、「ヨーロッパの美食の都」として食べ物が美味しいことでも有名。

 私達は長い砂浜沿いに整備された遊歩道の人混みの中を散策した後、湾の左先端にあるケーブルカーでモンテ・イゲルドの丘に登り(3€)、広大な湾の風景を楽しんだ。

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Castro Urdiales

 紀元1世紀、進出してきたローマの植民地に。中世にはカスティーリャ王国に属し漁業と貿易で栄えた。湾内にヨットハーバー、長い岸壁など。湾の先端にはゴシック様式のサンタ・マリア教会(13-15世紀に建設)、サンタ・アナ城(13世紀に建設)があり、遠くからも望めて、湾に風情を添えている。また、教会の裏側は断崖で、眼下に白波が砕ける。この辺りの岩場の散策もお勧め。

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Laredo

 車道を歩いて行くと崖下にLaredoの街が広がる。広々とした展望。はるか遠くに弓なりに長い砂浜。下りて行くと旧市街。左に少し行くと修道院があり、その中にアルベルゲがあった(後述)。

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San Vicente de la Baruqera

 丘陵を越えてくると、眼下に大きな川。石造りで幅広の長い橋が架かり、車道がはるか対岸の町に延びている。そこがSan Vicenteの町。人口は5千人弱と少ないが、海岸沿いにはレストランとバルが並ぶ。背後は丘。丘の下が旧市街。丘の上には教会とアルベルゲがある。丘上の遊歩道を行くと、湾内が一望でき、また流れこむ川に小舟が沢山係留されているのが望める。なお、「丘からの夜景がすばらしい。おすすめ」と青木さんから聞いていたが、うっかりして夜景見物に出るのを忘れてしまった。残念。

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Ribadesella

Nuevaを出発して12kmでRibadesella。古い町並みの中を下りて行くと旧市街が広がる。港の岸壁で一休み。今にも雨が降りそう。風もあり寒い。湾内にはカヌーを練習中の若者が数人。対岸にはヨットハーバー。早々に立ち上がり、橋を超えて、長い砂浜へ。曇天と寒さに追われて町を足早に通過してしまったが、天気のよい日に来て、旧市街や湾の先端をゆっくり見物すれば楽しいのではなかろうか。

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C)崖下の観光地

Luarca

 丘上の巡礼路を行くと、眼下に有数の観光地Luarcaが広がる。ここからの景色はすばらしい。中世の雰囲気を残す小さな港町。海岸沿いには灰色の屋根がびっしり並び、狭い湾内には漁船とヨットが一杯。港の外の、まだ湾内の左側には長い砂浜が伸びる。

 崖下へと急坂を下りて行くと、海岸通りにはレストランと土産物屋が並んでいた。一帯は狭い旧市街。10447058_878124102201832_3648136784
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 「よいところだ。是非見ていくように」と巡礼路でお会いした青木さんから言われていたが、すぐそばを通ったのに忘れていて行かなかった。ここを通ったサブリナからも「素晴らしい所だった」と言われ、行かなかったことをとても後悔している。

 巡礼路を離れ、San Esteban de Praviaから海岸線をSoto de Luinaへ向かう途中にある、崖下の港町。上から見るとオレンジ色の屋根がびっしり。

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写真:Cudillerowikipediaより)

D)渡し船

 渡し船に乗ると何故か心がはずむ。今回は3度乗った。

 Pasai Donibaneの渡し船

イルン出発後、Pasai Donibaneのアルベルゲ泊。翌朝、細長く入り込んだ湾内を向こう岸へ。小さな船で約5分、あっという間に着いてしまった。0.7€。

 港の風情がよかった。両岸は崖。こちら側は急峻な崖下に細く連なる旧市街。50mほどの高さの崖上に教会付設のアルベルゲ。細長い湾は緑の丘の間を外海に向かって遥か彼方まで伸びている。

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 LaredoからSantona

 Laredoの中心街から半島の先端へ6km、砂浜に沿って急いだ。船が出るのは9時、やっと間に合ったが、時間になっても船は来ない。砂浜に腰をおろしてしばらく待っていると、小船が砂浜に直接乗り付けた。板が渡され、巡礼者数人と自転車1台が乗り移る(前述)。対岸のSantonaまで2€。

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 SomoからSantander

 海水浴場が尽きたところが乗り場。カフェでしばらく待って、50人乗り位のやや大きな船に乗る。ほとんどの人が上甲板の長椅子へ。風が気持ち良い。向かうSantanderは大きな町。正面は長い岸壁。1kmはあろうか。背後に5-6階建ての建物がずらりと並んでいた。

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E)その他

Ribadeo

 リバデオ川を渡ってRibadeoの町に入るが、そこを通った仲間から「川の手前から見た景色が「北の道」の中では最高に素敵だった」と聞いたので、最後に紹介しておきたい。

2.道の状況

 一日で高低差200-500mを登り下りする行程が数日間続くことから他の巡礼路よりはややきついと言われているが、歩いてみて、それは違うように感じた。

 登り下りの高低差が大きいのはスタート地点のイルンからビルバオまでの数日間だけであり、歩き始めなのでややきつく感じるが、その程度の高低差は「ル・ピュイの道」や「ポルトガル人の道」にもいくつかある。むしろ、「フランス人の道」にある標高1500mの三つの峠越えのほうがはるかにきついと思われる(ただし、このうち二つは峠の頂きに宿があり、そこで泊まれるが)。

 また、「北の道」の後半は海岸線を離れ、標高500-700mの丘陵地帯に入るので、きついのではと予想していたが、こちらは一度登ってしまえば、数日間、その高さをほぼ維持して歩けるので、全体としては高低差は小さく、それほどきつくはなかった。ただし、そんな中でも、急坂を20分-30分ほど上るところがいくつかある。そこはマイペースで上ることが必要(足弱の人は疲れない範囲でゆっくりと)。

3.宿の状況

(1)概要

○他の巡礼路も含めて、宿泊費はどこも安い。スペインにはアルベルゲがあって、特に安い。

 たとえば、「北の道」で巡礼者が泊るのは、一般に公営や教会運営、あるいは地域のボランティア団体の運営などの「アルベルゲ」。1泊朝食付きで5-6€。時には無料で、募金箱に寄付するの形式のものもある。これらは地域の人達やときには他国から来た巡礼者による無償奉仕(受付や室内掃除など)で支えられており、安く泊まれるのはそのためである。

 その他、「フランス人の道」には個人営のアルベルゲもあるが、こちらは朝食付きで10-15€。

 それらが満員だったり、個室でのんびりしたかったりすれば、ペンションや二つ星ホテルに泊る。こちらは20-30€(ほとんどが朝食付)。

 なお、フランスには全国に「ジット」というハイカーの宿が存在する。巡礼路にも1日の行程に一つはあり、大部屋に一段ベッドか、2段ベッドで(ときにはプール付邸宅を開放したものや、蒙古のパオに寝るものもある)、2食付きが多く、30€前後。素泊りは8-12€。

 ポルトガルで泊るのはペンション。食事なしで15-30€。その他で特筆すべきは、ポルトガルでは巡礼者が消防署に行けば無料で泊めてくれること。私は3回利用したが、貸してくれるのはマット1枚だけで、大講堂の片隅に寝る。ただ、利用する人は少なくて、1・2回目は私だけ、3回目も2人だけだった。

 いずれにしろ、2食付きで1泊6000-9000円前後の四国巡礼と比べれば、サンティアゴ巡礼の宿泊費はかなり安い。

○「北の道」はスペインなので宿は「フランス人の道」と同様、基本的にアルベルゲ。その他、小さな村でないかぎり、二つ星ホテルやペンションもある。

 宿代は10年前に比べかなり値上がりしていた。アルベルゲの宿代は一般的には6€(5€や10€のところもある。10年前は3€)。民営だと10-15€。また、ボランテア運営では「無料。おこころざしは募金箱へ」というアルベルゲもある(募金をしない人もいるが、私は5€を入れていた)。どこもパンとコーヒーのみの朝食付。早く着くと公営の小さなアルベルゲは無人で閉まっているところが多く、受付の人がやってくるのは午後1時か、3時。

 二つ星ホテルやペンションは20-30€前後。朝食付だが、一般にパンとコーヒーのみ。家族営のペンションやバルの2階のペンションだと15€のところもあった(場所については末尾の日誌参照)。私がこれらに泊まったのは、アルベルゲを断られたときと、のんびりしたかったとき。シャワーやテレビが独占できて、疲れを取り心身のリフレッシュをするにはとてもよかった。

○統計で見る限り、「北の道」を歩く人は少ないと思われたが、実際には、予想以上に歩く人が多くて、私も午後3時過ぎに到着し、満員で数回断られたことがある(こんなときは近くにあるペンションや二つ星ホテルに泊まればよい)。

 2013年の巡礼証明書発行総件数は21.6万人(発効要件は「サンティアゴ大聖堂への最後の100kmを歩いたこと。自転車の場合は200km)」。うち、「フランス人の道」を歩いた人が15.2万人であるのに対し、「北の道」は1.3万人で「ポルトガル人の道」の3.0万人より少ない。

 ただし、歩いた感じでは「ポルトガル人の道」のほうが歩く人は少なかった。これは多分、「ポルトガル人の道」の3万人のうち、スペインに入って最初の都市Tuiから歩き始める人が0.9万人(ポルトガル側の国境の町Valencaも含めれば1.4万人)とスペインのみを歩く人が多く、ポルトガル国内を歩く人が少ないこと、ポルトガルはペンションが中心で宿泊客が分散されること、「北の道」ではGijonOviedoという途中の町までの人、その他観光気分で海沿いの途中の道のみを歩く人がかなりいること等によると思われる。

 なお、「ル・ピュイの道」(フランスの宿は夕食付きの私営「ジット」が中心)も、「北の道」ほどに宿は混雑していず、泊まれなかったという経験はない。

「北の道」は若い人が比較的多いのも特徴。

 海があること、その海で泳いだりサーフィンができることなどの影響もあるのだろうか。一人旅の30代、オーストラリア人女性に感想を聞くと「Very exciting!」と言っていた。初めての巡礼旅に「北の道」を選んだというが、海の魅力に惹きつけられたためであろう。

 それと、日本人にも3人お会いしたが、どの方も巡礼のベテランで「フランス人の道」を含めて、いくつかの巡礼路を歩いており、「北の道」が初めてという方はいなかった。「北の道」では多分、外国人の方も、いくつかの巡礼路を歩いた後でやって来た人がほとんどと思われる。「北の道」が初めてという人は珍しいようだ。

○なお、宿がどこにあるのか、いつも宿を探すのに苦労した。

宿泊地に着いて、いつも苦労したのが宿探しである。ルート概要を紹介した案内書は持っており、その町にアルベルゲ等の宿があることは分かっていたが、町の詳細な地図がないので宿の場所が分からなかった。小さな町や村では住民に聞けばすぐに分かったが、大きな町だとほとんどの人がアルベルゲの場所を知らない。そんなときは観光案内所(information turistica、地図には「i」で表示されている)の場所をまず聞き、「i」でアルベルゲの場所を聞くことにしていたが、「i」の場所を知らない人も多く、また行っても、昼休みで閉まっていたりした。そのため、町に入ってからアルベルゲに到着してホッとするまでに30分から1時間かかることがよくあった。

振り返れば、前日の宿で次の町の詳細な地図を手に入れておく、あるいは「iPod」のグーグルマップでその町の詳細な地図を調べておく、などをして、町の概要と宿の位置を頭に入れておけばよかったと反省している。

なお、MarkinaOviedoでは町の入り口でおじいさんにiの場所を聞くと、そこまで10分以上をかけて案内してくれた。特にOviedoの旧市街は複雑に入り組んでいたので、たいへん助かった。そのおじいさんには、こういう時のお礼のために持参していた日本の桜と富士の絵葉書をプレゼント。

 

(2)おすすめの宿

 泊まった宿はそれぞれに印象深いが、いくつかあげれば次の通り。

Goemesのアルベルゲ

 Goemesは人口300人の小さな村。丘の上にボランティアが運営する定員60人の大きなアルベルゲがある。部屋は10人規模、5人規模などに分かれており、食堂棟やシャワー棟なども別になっていて、ゆったりと泊まれる。また、広い敷地には礼拝堂もあり、巡礼の様子を描いた絵が数枚飾られている(写真・下記)。

 当日の宿泊は約50人。夕食前に全員が集まって広い部屋の四面の壁際に並ぶソファーや椅子に座ってミーティングがあった。私が泊まった範囲では、「フランス人の道」も含めてアルベルゲでミーティングがあったのはここだけである(全員そろっての夕食というアルベルゲも「北の道」ではここだけ)。

 ミーティングのホスト役は創設者である77歳のエルネスト神父。貧乏人をかばいすぎてキリスト教会を追放されたという逸話があると聞いたが、真偽は不明。

 スペイン語を英語とドイツ語に通訳する役に出席者の中から二人の若い女性が選ばれてスタート。まずは全員が個別にどこの国から来たかを紹介。その中で、私が76歳で今回の巡礼者中では最高齢であることもホストが紹介。更に「誕生日はいつか」などのやりとりがあって、ホストが私より6ヶ月ほど歳上であるが分かり、部屋の中央に呼び出されてホストの抱擁を受けた。のあと、山の写真を見せられ、どこの山かを皆で議論。次にホストが巡礼の意味を語ったが、その中で、日本の四国巡礼についても、壁に掛けられた「四国巡礼」を紹介する写真と文章(2m×3m位)を基に説明があった。最後にこのアルベルゲの設置経緯の説明があってミーティングを終了。この間、約1時間。

 なお、ホストは就寝時に暗い各部屋を廻り、何人かの枕元まで来て声をかけて歩いたが、私も声をかけられた一人。巡礼者へのおもてなしを実践する最高の宿と深く感じた。

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Laredoの修道院

 丘の上の国道を歩いてくると崖下にLaredoの町が広がった。遠くには広大な砂浜(前述)。

町への階段を下りていく途中でおしゃべり中のおばさん2人に聞くとアルベルゲは近くの修道院にあるという。大きな修道院。石畳の細い車道に沿って、道を圧倒するように建つ6階建て、中世風の石造りの建物。入り口の薄暗い石段を上がって分厚い木の扉の前に立ったが、鍵がかかっていて開かない。どうしようか。とりあえず呼び鈴を押すとマイクを通して声が聞こえ、「日本人」というと扉が開いた。中は更に薄暗い石畳の間。だれもいない。受付の人も現れない。先に来て泊まっていた韓国の女性が出てきて「待っていれば来る」という。しばらく待ってやっと2階から人がおりてきた。可憐な若い修道女だ。

真っ暗な階段を2階へ。受付の手続のとき、その可愛さに魅せられて「写真を撮らせて」と頼んだが、下を向いて微笑むだけで、了解はしてくれなかった。残念。とても魅力的な笑顔だったのに。そのあと、2段ベッド一つだけの落ち着いた部屋に案内された。

 夕方は建物内の大きな教会で行われたミサに宿泊者全員が出席。町の人も50人ほど参列。ほとんどが太ったおばあさんやおばさん。娘さんと一緒の人も。男性は数人だけ。町の人は皆、一人ずつ祭壇に歩み寄り、神父さんから祝福を受けていた。心が落ち着く。このミサは毎夕行われているのだろうか。

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Sobrado dos Monxesの修道院

 タクシーでMiraz経由、Sobrado dos Monxesへ。同地のサンタマリア修道院に泊る。寺院の中、回廊に沿って並ぶいくつかの部屋が泊るところ。石造り、2段ベットが並ぶ薄暗い部屋である。回廊沿いの他の部屋は粗末な食堂兼キッチンやトイレ・シャワー室など。

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 ここは1142年建立の大修道院。敷地は広大。現在使われている寺院や回廊のある中庭のほかに、奥に行くと崩れかかった大きな教会があった。見上げるとすばらしい彫刻が高い丸天井に向かって伸びている。でも天井の中央は崩れて丸い穴が空き、天空が望める。祭壇は鳩の糞だらけ。壁際にはほこりだらけの横臥した僧侶の石像。それと半分色があせたフレスコ画。どれもが往時の栄華を偲ばせて、とても魅力的だった。

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 夕方、宿泊者全員がミサに出席。ミサでは白い服を着た神父が10人ほど円形に並び、賛美歌を歌った。

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(3)その他、いくつかの宿

○ホテルと兼営のアルベルゲ

 午後3時過ぎにLlanes着。公営のアルベルゲはすでに満員だった。ホテルと兼営のアルベルゲAlbergue la Portilla」へ。宿泊15€(二段ベッド)、夕食10€、朝食5€。朝夕食はホテルのレストランでということだったので、どちらも頼む。同宿者では他に頼む人はなくて、一人だけのホテルでの夕食だったが、雰囲気がよくて、おいしくいただけた(ポテト、肉、サラダ、ワインなど)。朝食は食べ放題の果物付き。

○夕食は出前のレトルト食品で

1506Ribadesellaを過ぎ、小さな村San Esteban de Lecesのアルベルゲに泊る。6。近くに食堂がなくて、夕食は部屋に貼ってあるメニューを見て、遠くのレストランに出前を頼んだ。サラダ7.、ポテトとゆで卵6.、計14。届けられたのはどちらも銀紙の器に入った冷凍のレトルト食品で、電子レンジで温めて食べるもの。値段が高かったので陶磁器の皿に盛って温かい料理を運んでくるのではと思ったがあてが外れた。

 出前での夕食はこれまでのサンティアゴ巡礼では経験がなかったが、高い割にはやや期待はずれ。もっとも、出前を頼んだのは私だけ。他の宿泊者はスーパー等であらかじめ買ってきたものを簡単に調理して食べていた。

○夕食を持参する必要があるMirazのアルベルゲ

 BaamondeからSobrado dos Monxeまでは40km。その中間には宿泊施設がなかったが、2005年にイギリスの友の会(修道会?)がBaamondeから15kmのMirazにアルベルゲを開設した。「Albergue de peregrinos」という。

 準備編で紹介したhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~akutare/2013年にここを通った山本さんの巡礼記)によると、このアルベルゲは「収容人員24名で満室の場合は断られるので、早めに到着することが必要である。食事の提供は無く、近くにレストランは無いので夕食の材料は持参するか、途中のTienda等で購入して持参する(自炊は可能である)」とある。

 どんなところか自分の目で確かめ、報告書に書こうと思って、タクシーで立ち寄ってみた。アルベルゲは白い清潔な建物。すぐそばにはバル。ただ、アルベルゲは閉まっていて食事ができるかは確認できなかった。

 また、後日、ここに泊まった仲間に聞いたところ、「バルではサンドイッチもなくて、食事はできない。ただ、そのバルでは、料理材料としてのスパゲッティ-とそれに入れる材料は売っていて、それをアルベルゲで調理して夕食とした」とのこと。ただし、1年中バルで料理材料を売っているかは確認していない。

 いずれにしろ、調査不足で終わった。泊る場合は、事前に食事をどうしたらよいかを確認したほうがよい。

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4.「北の道」の天候

○今回は平年並で、晴天続き。

 今回は晴天続きの毎日だった。45日間の滞在中、雨に会ったのは数日のみ。インターネットで巡礼報告を見ると、昨年・2013年のこの時期は天候不順でほほ連日、雨だった。

 また、平年で見ると、スペインの6、7月は乾期であるが、「北の道」は海沿いなので、ある程度の雨はあるようだ。たとえば、内陸ではレオンに見るようにほとんど雨が降らないのに対し(6,7月の月間平均雨量は20mm、17mm)、海沿いのサンセバスチャンは65mm、63mmである。それでも7月の東京(126mm)と比べれば雨量は少ない。

○気温も平年並。東京より低い。

 前回までの巡礼路では暑さで苦しめられることが多かったので、かなり暑いと予想していたが、予想は外れた。朝方は10度前後で寒くて上着が必要だったし、昼でも20-24度までしか上がらず、晴れていても木陰で風に吹かれたり、曇り日に海辺で腰を下ろしていると寒い位だった。ただし、無風で昼の太陽を浴びればかなり暑くTシャツ一枚で充分。

 こんな気温は今年だけのことではなく、サンセバスチャンの6、7月の平均気温(6月が最低14-最高20度、7月が16-22度)に見るように、平年並と言うことができる。なお、「フランス人の道」のレオンは6月が10-24度、7月が12-27度。

<その他・あれこれ>

1.「iPod」は、たいへん便利。ただし、使える場所が限られている。

○息子から「iPod」をプレゼントされた。

 これまでパソコンと携帯電話は使っていたが、このような多機能の通信機器は使ったことがなかったし、使い方もよく分からなかった。今回、使い方を教えてもらい初めて利用。とても便利だった。それに使用料が無料なのもよかった。 

○利用したのは、音楽の録音、Eメール、テレビ電話(Face Time)、ニュース検索(ヤフー・ジャパン)、カメラ、私の撮った写真のFacebookへの掲載など。

 その他、現地の天気予報、現地の地図情報などもときどき見ていた。

○音楽については私の好きな日本の音楽を約100曲、録音して持参した。

 過去にも、サンティアゴ巡礼や海外登山、シベリア鉄道の旅などで日本の好きな音楽を聞いていたが、それらは、初め頃は録音テープと録音機を持参し、その後はCD数枚とCDプレーヤーを持参して聞いたものである。

 今回のiPod」は過去のものと比べると、手のひらに乗るほどに小型で軽く、しかも多くの曲が録音できて、とても利用しやすかった。

 倍償千恵子、鮫島有美子の「若者たち」や「学生時代」を、列車内やアルベルゲのベッドで聞いていると、友情とか、恋についての青春時代の思い出が溢れてきて、老いて乾いた心がみずみずしい感情に満たされた。また、「大黄河」(宗次郎)や「シルクロード」(キタロー)、「新世界紀行」(服部克久)を聞くと、地球の遥かかなた、無人の原野をさまよう心地がして、自分が今どこにいるのかを忘れた。ショパンの「ノクターン」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」も大好き。クラシックはまったくの素人で、よく分からないが、この二つは折にふれて聞いた。また、美空ひばりも聞いた。ひばりとは生れが同年。どの歌も好きだ。死の1年前の、伝説のワンマンショー「不死鳥コンサート」をDVDで何度か見たが、彼女の「死に臨んでも歌い続けようとする、人生にかける覚悟」をひしひしと感じ、身も心も惹き込まれたものである。

iPod」を持参したことで、「音楽って、すばらしい」と感じるひとときが過ごせた。

○できるだけ家にテレビ電話をした。

 日本時間の午後6-10時頃(スペインの午前10-午後2時頃)に電話。特に良かったのは顔が見えることと使用料が無料だったこと。

 これまでは、家と連絡を取るのに公衆電話を使用したり(1回目の巡礼)、成田空港で国際携帯電話を借りて持参したりしたが(2-3回目の巡礼)、2回目のときはは料金がどの程度になるか分からぬままに頻繁に利用したために、請求額が7万円にもなってしまい、びっくりした。それが、今回は長時間話しても タダになったのである。

○「iPod」にも不便な点がある。

 「iPodにはたいへん便利でしかも無料という大きな利点はあるものの、音楽を聞くことと写真を撮ることを除いて、利用できるのはWIFIがつながる場所という条件がある。

 スペインでWIFIを入れているのは、鉄道の大きな駅、バスの拠点駅、レストランの大部分、バルの一部、ホテル、ペンションなどと限られている。路上ではもちろん、アルベルゲもほとんどでWIFIを設置しておらず、そこでは「iPod」を利用できない。

 たとえば、昼ごろ家に連絡をしようとしても、利用できる場所がないことが多かった。この点はたいへんに不便である。ただし、現代は通信機器が急速に発展中なので、10年後にはどこででも「iPod」が使える時代が来るのではとは思っているが。

2.うっかりミス

 自分が歳を取ったと強く感じるようなうっかりミスがいくつかあった。

○列車が荷物ごと切り離されて、行ってしまった。

 サンティアゴからビルバオへ向かう途中でのことである。2両連結の列車に乗っていると途中で車両が10両ほど前に連結された。そちらにはコーヒーが飲めるビュッフェがあったので、車両を移動しコーヒーを飲みに行った。ところが、スペイン語新聞の天気欄に目を通し、車窓の風景をのんびりと楽しんだ後、後方に戻ってみると、自分の車両が消えていた。切り離されて別の方向へ行ってしまったのだ。幸いにして、パスポートと現金は身につけていたものの、その他の旅用の荷物は全部、その車両とともに消えていた。

 あわてて車掌のところへ。大柄で髯のあるおじさんだ。つたない英語で事情を説明するが、なかなか通じない。車掌は「イングリッシュ、ノー。スパニッシュ、オンリー」という。英語は分からないのだ。といってこちらはスペイン語が全く駄目。途方にくれていると、乗客の若い女性が助太刀をしてくれた。私の英語をスペイン語に訳し、車掌に伝えてくれたのだ。車掌はすぐにあちこちに電話。女性の通訳によると「荷物はおさえた。今夜中にビルバオの駅の届くようにした」とのこと。更に「次のビトリア駅で降り、バスセンターに行けば、今日中にビルバオに着ける」という。助かった。ほっとする。

 車掌は駅に着くと駅員を呼び、スペイン語で事情を説明、駅員は無言で私の腕を引っ張り、タクシー乗り場へ。タクシーの運転手に何か言うと運転手は私に何も言わずにバスセンターへ。私は言葉を発することなく、バスセンターに着いてしまった(19:30着)。車掌、通訳の女性、駅員、タクシーの運転手、スペインの人達は皆、本当に親切だった。

 当時のメモを見ると「これまで、疲れからか元気を失い、巡礼を続けられるか、やや不安になっていた。ところが、きょうは事件が勃発。何か、次から次へと事が進み、どうするかで頭が忙しく回転し、久しぶりに興奮。充実感を味わって、元気を回復した」とある。

 バス20:00発、ビルバオ21:00着。6.20€。前に泊まったアルベルゲに行くと、一晩中オープンとのことで開いていたのでチェックイン。その後、22:00頃、ビルバオの駅へ行き荷物を受け取ることができた。

 なお、日本の旅行案内には注意事項がいろいろ記載されているが、「列車が切り離されるので注意」という文言は見たことがない。旅慣れぬ人にはこんな注意も必要のようである。

○道を間違えたのに丸1日、気が付かずに歩き、宿に着いてもしばらく気が付かなかった。

 Villaviciosaから巡礼路は二つに分かれる。Gijonへ行くつもりだったが、間違ってOviedoに向かう道へ。矢印などの道標を見つけることで頭が一杯となって「道が二つに分かれること」を失念したために、道を間違ったことにまったく気が付かずにPola de Sieroの町まで歩き、アルベルゲに到着して初めてOviedoへの道を歩いてきたことに気が付いた。

○料金を払わずにレストランを出ようとした。

 サンティアゴでのこと、うっかり代金を払わずにレストランを出ようとしてマスターに呼び止められた。メモを書くのに夢中になり、書き終わってホッとして料金を払うことを忘れてしまったのだ。

3.食事はどうしていたか。

○アルベルゲに泊る人のほとんどは、朝、昼食はサンドイッチ等の手作り、夕食は自炊であり、節約志向が徹底していて、レストランに出かける人はほとんどいなかった。

○私は朝、昼はコンビニで買ったパン、バナナ、リンゴ、トマト、ときにはハム、それに缶の紅茶、ペットボトルの水などですまし、夕食はレストランでフライドポテトと卵の目玉焼き3つ、サラダを常食とした(「patata frito(フライドポテト)」「huevo frito(目玉焼き)」「ensalada(サラダ)」「jamon(ハム)」などと書いたメモを用意しておき、それを見せて注文)。10-13€。

 夕食を上記3つで押し通したのは、あるとき、店のマスターの言いなりで注文してみたら、すっぱいポテトサラダや薄切りトマトだけで緑の野菜がないサラダが出てきて、満足に食事ができなかったことがあったためである。

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○数日間、一緒に歩いた日本の仲間のうち、女性のIさんが作る毎日の夕食は味もやや和風で、とても美味しかった。材料は調味料も含めてスーパーか、コンビニで調達。それを宿のキッチンで調理する。更に割り勘で負担する材料費は、朝食代、昼食代も含めて、1日3€前後と安かった。Iさんに感謝。

 私にはできないが、このように自炊をすれば、旅費はかなり節約できると思う。

4.言葉の問題

○夕食後のアルベルゲの夜は見知らぬ者同士で話がはずむ。ほとんどの宿泊者が庭やキッチン兼談話室のテーブルを囲み、あるいは場所が足りないときは廊下の長椅子に一列に座って、就寝時までおしゃべり。スペイン語や英語、ドイツ語などが飛び交う。

 私の場合、行けば喜んでその輪に加えてくれたが、皆の会話が理解できないので何となく落ち着かず、出席しても短時間で席を外してしまい、そのうちに、最初からその輪に加わることなく、一人、誰もいない部屋で寝てしまうようになった。

 でも、部屋で寝ていると楽しそうな笑い声が聞こえてくる。さびしい、皆の輪に加わりたい---。外国語の会話が普通にできたらと痛切に感じるのはそんなときであり、4回目ともなると、その思いはますます強まった。

○外国の人と一対一で話すときは、ある程度会話が成立した。ドイツの30歳代の女性、オーストラリアの若い女性、ルーマニアのおばさん、ベルギーの若者、イギリスの中年男性など。宿で、あるいは歩きながら、つたない英語であれこれと話をした。特に歩きながらの会話は楽だった。

○宿の受付がおばさんやおばあさんの場合、英語が通じないことが何度かあった。スペイン語、オンリー。と言ってこちらはスペイン語が駄目。そばに英語が分かる宿泊客がいれば意思疎通は可能だが、おばあさん以外誰もいないときが一度あった。ホテル兼営のアルベルゲ。どちらに泊るのか、宿泊代はいくらか、朝食をつけるのか、夕食はつけるのか、なかなか意思が通じない。おばあさんはメモを書いて説明してくれたが、よく分からない。おばあさんはいらいらしてメモを丸めて捨ててしまった。どうしようか。気がついて、ザックからスペイン語・日本語辞書を取り出して、交渉再開。やっと意思疎通ができた。こんなときのために辞書は必携である。

5.持ち物

○持ち物一覧

 レインウエア、長ズボン1枚、半ズボン1枚、Tシャツ2枚(半袖シャツ兼用)、長袖シャツ1枚、フリース1枚、パンツ2枚、5本指靴下4足、軍手1組、地下足袋、ビニール敷物、インナーシュラフ、スリッパ、ツェルト、ストック、荷物の小分け袋(機内持込み用のバックを含む)。デジタルカメラ、海中電灯、交換用の電球 予備懐中電灯(100円)、単三電池6本(カメラ用、海中電灯用)、カメラ用SDカード予備、I Pod、イヤホーン、充電器、200Vアダプター、腕時計、メガネ。 

  帽子、水泳パンツ、タオル2枚、カミソリ、石鹸、お守り(娘が作ってくれたものと二人の孫のお手製のもの)、テッシュ数個、トイレットペーパー1ヶ、歯ブラシ、練歯みがき、薬(胃薬、下痢止、かぜ薬、コレステロール用の薬、疲労回復剤)、リップクリーム、カットバン(足まめに適したジョンソン社製を含む)、つめ切り、耳かき、インスタントの乾燥ごはん2袋。 

  パスポート、パスポートのコピー2枚、パスポート紛失時に新パスポート作成用写真4枚、航空券の引換証(忘れやすい)、海外保険証(忘れやすい)、現金、財布、クレジットカード、キャシュカード、名刺、メモ用手帳。 

  スペイン語の辞書、地図、コースの説明文(行った人が書いた毎日のコースの説明文、インターネットよりコピー)、必要と思われる日本の電話番号、日本の絵葉書10枚(現地でのお礼用)、文庫本(機内での読書用、新田次郎「栄光の岩壁」ほか)

○名刺代わりのコピーとおみやげを持参してよかった。

 「準備編」に書いたが、自分の家族の写真(自分がサンチャゴ巡礼に行った年などを記入)、それと富士山と槍ヶ岳、日本の桜と紅葉の風景をカラー1枚にコピーして20枚ほど持参。また、日本の絵葉書やストラップ、折り紙などをおみやげとして持参した。

 これらは、かたことの英語しかできない中で、お会いした方々とコミュニケーションをとるのにたいへん役に立った。

○娘と孫2人がそれぞれ、お守りを作ってくれた。

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○サンダルを持参すべきだった。

 宿のシャワーは大勢の人が利用し、着替える場所の床が常にビショ濡れとなっており、持参した薄い布製スリッパも濡れてしまって、パンツやズボンを履くのにたいへん苦労した。しっかりしたゴム製サンダルを持参する必要がある。

6.電車とバスの利用について

7.アルタミラの洞窟壁画とモン・サン・ミッシェルの大聖堂

<帰国後>

○後半生は好きな登山と旅を存分に味わってきた。人生の中でそれらにはどんな意味があったのか?

○「挑戦」の旗を降ろして、今後は何をするか?

・何をやるか。絵を描きたい。人生は多様、その奥は深い。知らないこと、経験していないことは無数にある。そこには貴重な何かがあるように思う。死ぬまでに出来る限り人生を味わってみたい。

・楽しみって何。

・心の底から湧き上がるほどにやりたいことはあるか。

・老いの生き方。

 

<日程詳細>

○5月30日

 巡礼に行くのは5人(女性のAさん、男性のMさん、女性のIさん、視覚障害の宮本さん、それに私)。空港に市角夫妻が見送りに来てくれた。

 成田発21:20-アブダビ着04:35(現地時間・5月31日)エティハド航空 

010○5月31日

 アブダビ発09:00-パリ着14:25 エティハド航空

 パリ・モンパルナス地区にて寿司を食べたあと、同地区の「メゾン・オランジュ」泊。(tel +33 6 17 80 23 11 parislife.information@gmail.com 素泊り約4千円)

○6月1日 

 午前中、5人でモンパルナス散策。モンパルナス12:28発の列車でイルンへ。18:20着、アルベルゲ「Albergue de Peregrinos」泊り。宿泊は無料だったが、募金箱に5€を入れる。募金をしない人、3€を入れる人など、各人まちまち。巡礼証明書(クレデンシャル)をアルベルゲで発行してもらう。

○6月2日(歩程18km)

 宮本さん、Aさん、Mさんの三人は6:50にイルンを出発。私とIさんは日本にIさんの荷物の一部を送り返すために郵便局へ。8:30の開店を待って手続き。9:00にイルンをスタート。小雨。農村を行く。峠の教会へ。雨具を脱いで一休み。寒い。ロシアの若い女性に会う。一人旅のようだ。 

 更に丘陵地帯の上を行き、小学生の一団に会う。晴れた。3人に合流しPasai Donibaneの「Hospital de Peregrinos」泊。丘の上、教会に隣接するアルベルゲ。宿泊は無料だったが、募金箱に4€を入れる。

○6月3日(10km)

 5人一緒。丘を下り、渡し船で対岸に渡る。5分で対岸へ、0.€。対岸をしばらく歩き、崖上へ急な階段を登る。丘陵の上を行くとキリスト教徒の家あり。喫茶、宿泊を無料にして巡礼者をもてなしているという。我々も茶菓の接待を受けた。更に丘陵の上を7kmほど行くと見晴らしのよいところへ。眼下に弓なりの砂浜。San Sebastianの入り口だ。まだ見えぬが、左手、半島の向こう側がSan Sebastianの中心にある長い砂浜のもよう。

 San Sebastianは「北の海岸」随一の夏の高級リゾート地(前述)。町に下りると長い砂浜とそれに沿った遊歩道は人で溢れていた。宿は砂浜を端まで歩きやや山側に入ったところにあった。

 ユースホステル兼アルベルゲの「Aterpetxe-Albergue-Youth Hostel」泊。16€。

 荷を置いてレストランで昼食。その後、Iさんと、湾の左先端にあるケーブルカー(3€)でモンテ・イゲルドの丘に登り、広大な湾の風景を楽しむ。

○6月4日(23km)

 足が弱いこともあって、Iさんと二人で先発。あとの3人はもう1泊してSan Sebastianを見物することになった。

 森の中を登り、丘陵地帯の農村を行く。小雨。途中、ドイツの女性と一緒になる。10kmほど行き、いったん、Orioの町の川岸に下りて、トルティーャとコーヒーで一服。2.5€。もう一度登り返し、5kmでZarautzへ。長い砂浜を見下ろしながら、町に下りる。

 町はずれのアルベルゲに行ったが満員。そこから10分戻った旧市街にあるペンション「TXIKI Polit」を紹介され、そこに宿泊。階下はバル兼レストラン。宿の代金は朝食付、2人で44€。夕食はレストランで豚肉の串焼き、アスパラなど、1人10€。ウエイトレスに「ナプキン」が欲しいと言ったら、私のジェスチャーが通じなかったようで、「バンドエイド」を持ってくるという「おまけ」の出来事があった。

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Zarautz 遠景

○6月5日(20km)

 宿のバルで朝食。宿から100mで砂浜へ。地図の巡礼路は町からすぐに丘を登るが、私達は車道と平行する海岸沿いの遊歩道を行く。遊歩道の下は白波が立つ岩場。後方には白波が打ち寄せる長い砂浜。遥か彼方まで朝日に輝く海面が望める。

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海岸歩きはGetariaまで。ここから巡礼路に戻り、坂を登って、丘陵地帯へ。遠くの山までぶどう畑が続く。Zumaiaの港が近づくと前方に海が望めて、眼下にはヨットハーバー。港に下り、橋を渡って公園で一休み。再び急坂を登って丘陵を行く。

 Iさんが足を痛めたため、Debaの港へあと20分の丘の上にあるペンション泊。おかみさんが部屋まで来て、夕食を作ってくれた。夕食付きで一人35

○6月6日(24km)

 宿を7:30スタート。足を痛め列車でBilbaoに先行するIさんとDebaの駅で分かれて(列車8:45発)、9:00、一人で歩き始めた。間違えて港町Mutrikuへと遠回り。そこから車道を延々と登り、巡礼路上のOlatzへ。更に丘陵地帯の森の中を行く。展望のあるところはほとんどない。

 途中、1人歩きで中年のフランス人女性と一緒になるが、フランス語なまりの英語は聞き取りにくくて、ほとんど理解できなかった。すぐに分かれる。

 そんな中で、体が急に大量の水を欲して、持っていた2Lの水を午前中に飲み干してしまった。水が欲しいが、バルや水場は全くなし。喉が渇く中、きょうの目的地Markinaへは、正面から太陽に照りつけられる中を延々と下らねばならなかった。運悪く日陰はほとんどない。暑さと喉の渇きと足の疲れで、この下りはとてもきつかった。2Lで充分と思っていたが水が足りなくなるなんて。体の調子によっては水が2L以上必要なこともあるのだ。今後は要注意。

 Markinaの入り口で水を求め、おじいさんにアルベルゲへの道をたずねると、親切にもアルベルゲまで案内してくれた。教会に付属し、宿泊は無料。案内書には「Donativo(寄付。おこころざし)」とあり、私は募金箱に5€を入れた。

 そのあと、スーパーでバナナ、パン、リンゴ、トマト、ハム、缶紅茶、水などを買い込み、広場のベンチでたっぷりと夕食を摂る。

○6月7日(25km)

 小川に沿って4kmでIruzubieta。小さな村。閉まっていたがバルが2軒。右に曲がり、坂を上がって森や畑の中を3km行くとBolibarの町。教会の前にシモン・ボリバル(Simon Bolivar)を称える記念碑が立っている。彼は19世紀の前半、南米でいくつかの共和国を建国するなど、植民地独立運動に一生を捧げた人である。彼の先祖はここの出身。先祖は16世紀に南米ベネズエラに渡り、シモンは1783年にそこで生まれている。

 町を抜け、坂を上がったところに回廊付きの大きな教会あり。天井から木製の大きな獣の首が真下を狙っていた。狼か、蛇か、よく分からない。

 丘の上の次の町でバルに入る。ベーコンやハム、卵などを挟んだボカディージョと卵のオムレツ・トルティーヤがカウンターに並んでおり、トルティーヤを皿に取って食べた。

 更に丘陵が続き、森の中を行く。森を抜けた丘の上のバルでコーヒーを飲む。巡礼者用定食8.50€の看板あり。

 途中で、イタリアで働く日本の女性に会う。イタリア人2人と一緒。Gernikaへ。アルベルゲ兼ユースホステル「Gernika Hostel」泊。20€。彼等も一緒。

 4人でレストランに行き夕食。イタリアのおじさんから「巡礼の楽しみは巡礼者同士の会話。会話ができないで、何が楽しいのか」、「電車やタクシーを使う位なら、俺は巡礼をやめて帰る」などと言われたが、かたことの英語では、うまく反論できなかった。もっと会話が上手ければと思う。

 なお、Gernikaはピカソの描いた「ゲルニカ」で有名。スペイン内戦時の1937年、ドイツ空軍により、史上初めてと言われる「都市無差別空爆」があり、大きな被害を受けた町である。町には道路に面し「ゲルニカ」のタイル製実物大レプリカが立っている。私は行かなかったが、平和博物館、議事堂など、見どころも多い。

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○6月8日(歩き21km、電車11km)

 森の中のきつい登り下りが続く。

 Lezamaから電車(私鉄)に乗りBilbaoへ。Iさんと合流。同地の「GANBARA Hostel Bilbao」泊。

○6月9日(列車でSarriaへ)

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 Iさんと列車でBilbao(9:15発)からSarriaへ(Monforte de Lemos乗換、Sarria18:32着、46.20€)。Sarriaは「フランス人の道」にある。ここから100kmでサンティアゴ。最後の100kmを歩けば巡礼証明書がもらえる。私は前に歩いているが、足を痛めたIさんに「フランス人の道」とサンティアゴ大聖堂のにぎわいを見てもらうためにやってきた。同地のアルベルゲ泊。スーパーで冷凍食品(ピラフ、魚介類等)を買い込み、宿で温めて夕食。

○6月10日(タクシーを利用)

 IさんとPortomarinへ。ここは1回目の巡礼のときに印象に残った町。丘の上にあり、眼下に広々と大きな湖面が見渡せて、開放感あふれるところ。橋を渡り長い階段を上がったところに町の入口がある。「Alberugue de Portomarin」泊。6€。

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○6月11日(タクシーとバスを利用)

 IさんとタクシーでParas de Reiへ。25€。そこでIさんと分かれ、バスでLugo経由Baamonde(「北の道」の町)へ。バス代は3.15€+2.90€。移動にバスを利用すれば意外に安いことを知った。同地の「Alberugue de Baamonde」泊。6€。バス道路沿いにあるが、周辺の家はまばらで寂しいところ。宿で日本人男性・青木さんと出会う(前述)。

○6月12日(タクシーで40km)

 10:30、青木さんとタクシーでMiraz経由、Sobrado dos Monxesへ(約40km、40€)。

 Baamondeから数分のところに、サンティアゴへ100kmの道標があり、記念撮影。次いでMirazへ。

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 インターネットで見ると「ここのアルベルゲは夕食の提供はなく、またレストランもない」とあり、後日、仲間が通るために気になっていたので立ち寄ったものである(前述)。

 Sobrado dos Monxesのサンタマリア修道院泊。寺院の中、回廊に沿って2段ベットの宿泊施設があった。ここは1142年建立の大寺院。現在使われている寺院や回廊のある中庭のほかに、奥に入って行くと崩れかかった大きな寺院がある(前述)。

 夕方、宿泊者全員がミサに出席。ミサでは白い服を着た神父が10人ほど円形に並び、賛美歌を歌った。

○6月13日(22km)

 丘陵地帯を行く。青木さんとの二人旅。話がはずんで楽しかった。

 Arzuaに到着し「フランス人の道」に合流。急に巡礼者が多くなった。私営のアルベルゲが10ヶ所ほどあったが、私は安い公営の「Albergue de Arzua」に泊る。6€。レストランでの夕食も青木さんと一緒。なお、Iさんとはここで落ち合う約束だったが、Santiagoに向かって次の宿へと進んでいて会えなかった。

○6月14日(バスで39km、Santiagoへ)

 今後の日程を考えると、「北の道」を歩いたあとでSantiagoまで来る余裕はない。1人、8:00発のバスでSantiagoへ。前にも泊った4階建の神学校の中にある「Albergue Seminario Menor」に宿を取る。12€。

 大聖堂とその周辺を散策。おみやげを物色。孫の風ちゃんにネックレス(ブルー、ホタテ貝型)、そう太にTシャツ、妻と娘に大聖堂製のネックレスなどを買う。

 Baamondeからここへは100km。これを歩いたことにすれば「巡礼証明書」が貰えるので、巡礼事務所の行列に一度は並んだが、すでに2枚もらっていることでもあり、後ろめたさもあって、やめにした。

 夕食は神学校の地下へ。ここには快適に自炊ができるキッチンがある。コーヒーやインスタント食品(パスタなど)の自販機があるほか、電熱器(これで湯が沸かせる)、電子レンジ、冷蔵庫があり、テレビ、パソコン(パソコンは有料、30分1€)があり、時間によっては売店が開く。私はそこで、パン、バナナ、トマトを買って、即席ご飯(日本から持参)、即席ラーメン(現地で購入)と一緒に食べた。

○6月15日(Santiagoから電車とバスでBilbaoへ)

 朝、思い立って大聖堂にお参り。生涯でもう来ることはないであろう。

 10:18発の列車でBilbaoへ(20:16着の予定)。49.20€。

 ところが、うっかりミスで途中下車をする羽目に(前述)。

 ミスとは、荷物を置いた車両を離れてカフェのある車両でコーヒーを飲んでいる間にMirandaの駅で二つの車両が切り離されてしまい、戻ってみたら荷物を置いた車両がなく、自分は別方向に向かっていたということである。

 すぐに車掌に連絡し、次の停車駅Vitoriaで下車しタクシーでバスセンターに行き、そこからバスでBilbaoへ行って、当日の夜遅くにBilbao駅で荷物を受け取ることができて、ほっとした。Bilbao泊。

○6月16日(地下鉄で20km、歩きで13km)

 世界遺産のBIZKAIA橋(ビツカヤ橋)が見たかったので、Bilbaoから、まず地下鉄に乗ってAreeta駅へ(1.70€)。橋はAreetaの町と対岸のPortgaleteを結んでいる。鉄骨製。吊り下げたゴンドラで車と人を運ぶもので、1893年の建設。設計したのはエッフェル塔を設計したエッフェルの弟子の一人、バスク人のアルベルト・パラシオ。この形式の運搬橋では最古のものという(いくつもあったが現存するのは8つ)。長さは160m、高さは45m、渡し賃は1人0.35€だった。

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 ゴンドラで対岸のPortgaleteに渡り(橋桁を歩いて渡る方法もあるもよう)、巡礼路に合流して歩き始める。町を抜けるとLa Arenaまでの約10kmは、行きと帰りの道を分離し、更に人と自転車をも分離した、アンツーカー仕様と見える、幅広のすばらしい遊歩道が続く。この後、こんな遊歩道には会わなかったが、日本にもあったらいいなと思うほどにすばらしかった。

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 ホテルがあるLa Arena の海水浴場に着く。更に砂浜を20分歩くとPobenaのアルベルゲ。そこに泊る。料金は無料。ただし、募金箱が置いてあり、なにがしかを入れるようになっている。私は5€を入れた。

○6月17日(9km)

 Castro Urdialesのアルベルゲ泊。

○6月18日(27km)

 Laredoは崖下に広がる街。はるか遠くに弓なりに長い砂浜。下りて行くと旧市街。修道院泊、10€(写真別記)。

○6月19日(27km)

 Guemesのアルベルゲ泊。€。(詳細別記)

○6月20日(12km。大回りし実際はもっと長く歩く。Somoからは渡し船)

 大回りの道の途中でサブリナに会う(詳細別記)。

 Santanderのアルベルゲ泊。10€。

○6月21日(電車で34km。歩き10km。別に途中からアルタミラ洞窟往復+10km)

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 Requejada駅まで電車。そこからアルタミラ洞窟のある博物館まで歩く。駅10:30スタート、博物館13:00着。

 アルタミラの見学に3時間ほどかかり疲れたので、Santillana del Marへ行く途中の村の二つ星ホテルに宿を取る。朝食付30

○6月22日(Santillana見物後、12kmを歩く)

 ホテルを出て20分、バス停があったので若者に「このバスはSantillanaへ行くか」と聞くと、「ここがそうだ」という。遠いと思っていたがSantillana del Marはホテルから意外に近かった。

 Santillanaは中世の町並みがそのまま残る小さな村。石造りの古い家はイスラム教徒に追われて逃げてきた貴族が建てたものだという。土産物屋とカフェがあちこちに。パラドールもあった。9-12世紀に建てられた「参事会教会」や16世紀に建てられた「ペラルド邸」などの内部を見たかったが、入れなかった(教会はミサ中、ペラルド邸は閉館)。30分で村を見て廻った後、観光案内所の中庭でパンとバナナの昼食。

 11:30発、丘を登って次の町へ。1時間ほど広々とした農村地帯を行く。景色よし。絶景は海岸部だけではない。

 15:30,Cobrecesの町の入り口、巡礼路沿いにふと見つけた民営の「Albergue el Pino」に泊る。おばさんの経営。15€と高かったが、新築で気持ちのよい宿だった。泊りはデンマークのお嬢さん2人と3人だけ。

○6月23日(22km)

 教会は普通、むき出しの石の壁か、白一色なのにCobrecesにある二つの教会はピンクと薄いブルー。めずらしく現代風。その前を通る。

 キャンプ場のレストランで一休み。

 丘の上に小さな教会あり。現代的なステンドグラスが気に入った。

 Comillasへ。広い海水浴場(冒頭に写真を掲載)から坂を登って町へ。古い大学とガウディが建てた教会があるところ。

 更に延々と歩き、大きな川を渡ったところにある観光地San Vicente de la Barquera のアルベルゲ泊。高台にある。ほぼ満員。10

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○6月24日(17km)

 BarqueraのバスセンターではWIFIがあり、iPod」が利用できたので、妻にテレビ電話。9時、スタート。坂を登り丘陵地帯の車道を延々と歩き、11:20、Serdio着。川を渡り、森の中を鉄道の線路沿いにUnqueraへ。ここは鉄道駅のある大きな町。前に会ったことがある一団の人達が道の向かいのバルで休んでおり、手を振っていた。町を通過し、橋を渡って急坂を上がる。眼下には川と町。休憩中にサブリナ達に追い抜かれた。すぐにColombres。でも、アルベルゲは満員。サブリナ達はどこかに宿を取ったようだ。私は1人、町を抜け国道沿いにあるバル兼ペンション「OYAMBRE」に泊る。宿泊客は2人のみで、空いている上に12と安かった。夕食は道を挟んで向かい側のホテルで食べる。(写真:Unqueraの町とColombresの宿)

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○6月25日(22km。回り道をして、実際はもっと歩く)

 Colombresから9kmのPenduelesで国道を離れ、更に2kmほど進んで巡礼路も外れ、海岸に向かう。地図にビューポイントの印がついた回り道(Llanesに向かうもの)が載っていたためである。まずは大きな砂浜に出る。Vidiago(ヒディアゴ)の辺りか。突き出た岩の上にはレストラン、その裏手の断崖の下には砂利混じりの砂浜、とても景色のよいところだった。更に断崖沿いを進むと、岸から数mの海中に、高さ20m、長さ30mほどの岩山があり、この後も海中に突き出たいくつかの岩山に出会った(前述)。

 車道に出ると、Llanesの町まであと5kmのところで、日本のスペイン大使館に勤務していたという現地の中年男性(「旗の台」に住んでいたとのこと)が車で近づいてきて、町まで送ってくれた。最初のアルベルは満員。更に車でホテルと兼営の民営アルベルゲ「Albergue la Portilla」へ。宿泊15。他にホテルの夕食10、朝食5も頼む。美味しかった。

○6月26日(17km) 

  出発し、5kmで美しい海岸へ。

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 Nuevaのペンション「Casa Principado」泊。家族経営で、外からは普通の家にしか見えない。巡礼路を歩いているときに「自動車」が寄ってきて、宿のおじさんから地図入りの名刺を渡され「泊るならここへ」と勧誘されたもの。

○6月27日(19km)

 長い砂浜のある観光地Ribadesellaを過ぎ、小さな村San Esteban de Lecesのアルベルゲ泊。6。夕食は遠くのレストランに出前を頼む。サラダ7.、ポテトとゆで卵6.、計14。届けられたのはどちらも銀紙の器に入った冷凍もの。電子レンジで温めて食べた。

○6月28日(15km。別に寄り道あり)

 7:00、スタート。村の中を下りて行くとすぐに砂利の多い無人の砂浜。波打ち際をしばらく行き、断崖の上に上がると次の砂浜が弓なりに眼下に広がる。浜辺に豆粒のような黒い人影が二つ、サーフィンを楽しんでいるようだ。巡礼路は海から離れていくが、海辺へ下りて高さ100mの岩山を回り込めば巡礼路にたどりつくのではと思って、そちらに道を取る。でも行き止まりで引き返す(前述)。

 Colungaの2つ星ホテル「Las Vegas」(1階はバル)泊、25

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○6月29日(17km)

 Villaviciosaの「Hostal el Congreso」泊、15

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○6月30日(26km)

 
 Villaviciosa
から巡礼路は二つに分かれる。Gijonへ行くつもりだったが、間違えて、Oviedoに向かう道へ。うっかりして「道が二つに分かれること」を失念していた。まったく気が付かずに、Pola de Sieroの町まで歩き、アルベルゲに到着して初めて気が付いた。同地の「Alberugue Pola de Stero」泊、5

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○7月1日(17km)

 出発時、小雨、のちに本降り、そのあと雨が上がって晴れてきた。町の郊外と言った感じの丘陵地帯を行き、後半は市街地を行く。オーストラリアから来た女性と一緒になり、歩きながら話をする。カミーノは初めてで、「北の道」をまず歩くことにしたが、この道は「とてもExcitingだ」とのこと。どうしても来たかったので、昨年は休暇をあまり取らず、休暇をためてやってきたという。彼女からもいろいろ質問があり、来た目的も聞かれたので「Challenge」と答えた。

 Oviedoの旧市街に到着。道端のおじいさんに聞くと観光案内所(「i」)まで案内してくれた。アルベルゲが開くのを待ち、荷を置いて散策。旧市街は複雑に入り組み、道が分かりにくい。まず、カテドラルを見物。次いで大きな公園を一周。それから、明朝行くバスセンターへも行ってみた。

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 途中で夕立あり。帰りに見た夕暮れのカテドラルは雨上がりの街路に街灯が映って、とても幻想的だった。

 なお、公園で遊んでいる子供たちをカメラで撮ろうとしたら、ベンチに座っていた母親から大声で「ノー」と言われて止められた。誘拐防止のためだろうか。

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○7月2日(Avilesへバス。そこから20kmを歩く)

 OviedoからバスでAvilesへ。7:20発、7:50着。巡礼路がどこにあるか分からず、人に聞きながらウロウロし、やっと探し当てたときは10:00になっていた。「北の道」に戻って、まず丘を越える。眼下に町と海岸線。丘を下りて海岸の手前の車道を行き、再び丘の上へ。12km歩いてSoto del Barco。眺めよし。眼下にNalon川、遠くに古城のような塔(Torre)

 Barcoを過ぎNalon川を渡り、すぐに巡礼路を外れて右へ1.5km入ると、そこがSan Esteban de Pravia。砂浜がないためか、観光客は少なく、静な港町。民営アルベルゲ「BOCA MAR」泊(バル兼営)。宿代13、朝食3.。ベルギーの大学1年生二人と同部屋。また、何度か会って顔見知りのドイツの女性サブリナにも再会。彼女はカナダとスペインの女性と一緒だった。

○7月3日(23km。回り道をしたので実際の距離はこれより長い)

 巡礼路に戻らず、サブリナ等3人の女性と断崖の上を行き、絶景を鑑賞した後(前述)、海水浴場で彼女達と分かれ車道を行く。しばらく行き、右へ下りるとCudilleroという美しい港町(オレンジ色の屋根が並ぶ。行った人から是非行くようにとすすめられていた)に行けたのだが、うっかりして町に下りずに先に進んでしまった。

 Soto de Luinaにあと数kmのところで犬を自動車の後部座席に乗せたおじさんに呼び止められる。「暑いから車に乗せていってあげる」という。喜んで乗った。おじさんはマドリッドの人。前の宿に車と犬を預けて次の宿まで一人で歩き、そこからタクシーで前の宿に戻るという方法で犬と一緒に巡礼中とのことだった。

 Soto de Luinaのアルベルゲ泊。ここを管理するのは近くのバル。宿泊費5€はそこで払う。また、巡礼手帳に押すスタンプもそこにある。

 就寝は2段ベッドの一段目。隣のベッドはルーマニアのおばさん。しばらくカタコトの英語で話をしたが、後日、Vilalbaで、日本人がいるとの噂を聞いて他の宿から私のところにわざわざ会いに来てくれた。少女のように活発な人だった。

○7月4日(22km)

 Cadabedoのアルベルゲ泊、5。超満員。床にマットを敷いて3人寝る。遅く着いた人はもう一軒のアルベルゲへ。

 旧知のイギリス人男性、ベルギーの2人組の若者等と同室。

○7月5日(16kmを歩いた後、電車で51kmを行く。ただし、別に寄り道もした) 

 途中、巡礼路を外れ、畑の中を海まで行ってみた。そこは断崖の上。海沿いにLuarca方向に道があるかと期待して行ったのだが、行き止まり。畑の中を先端まで行って探したが、50m下の、白波が砕ける岩場への降り口はない。北の海沿いはどこまでも道が続いていると思っていたが、場所によっては道が途切れるということを初めて知った。

 2時間の寄り道のあと、巡礼路に戻ってLuarcaまで歩く。見物、昼食後、先行する仲間3人(宮本さん、Aさん、Mさん)に合流するために電車でRibadeoへ。電車は乗降客がいない駅には止まらずに通過。降りることを車内のどのボタンで伝えるのか、不安になったが、私が降りる駅では多くの人が降りたので無事降りることができた。ここはかなり大きな都市。町の人に聞いて、Ribadeoのペンション「PRPresidente」泊。

○7月6日(27km)

 まずはゆったりと登り、尾根伝いに林の中を行く。次いでのどかな農村地帯へ下り、また登る。21km歩いてGondan着。そこのアルベルゲに泊る予定だったが、アルベルゲの周辺に人家がなく、全く人影なし。あまりに寂しげだったため、更に5km歩いてVilanoya de Lourenzaの町まで行くことにした。途中、カフェで一休み。フランスのおじさんとスペインのお嬢さん2人が一緒。次いで坂を上がって、San Xusto de Cavarcos教会へ。ここで道を間違えた。巡礼路は、教会の手前で車道を外れ左へ入るのだが、まっすぐ教会まで行き、それを越えて車道を直進してしまった。でも1時間で道は合流。そこからVilanoya de Lourenzaはすぐ。大きな町。民営アルベルゲ「O CAMINO Habitacions」に泊る。11€。

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○7月7日(延泊)

 1日遅れでやってくる3人と合流するために「O CAMINO Habitacions」にもう一泊

 昼過ぎ、彼等を迎えに出る。でも、うっかりして道を間違え、1時間も歩いたのに会えなかった。急いで町に戻り、公営アルベルゲに行ってみると3人はもう到着済。予約していたので、私が泊る民営の宿に移ってもらった。

 夕食は足利さんのお手製。とても美味しかった。

○7月8日(25km)

 4人で歩く。「Alberugue de Gontan」泊。6€。宮本さんと二人、2段ベッドが一つだけ置かれた病人や障害者用の1階入口の部屋へ。他の宿泊者は2階へ。

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○7月9日(21km。きょうで巡礼は終わり)

 4人で歩く。Vilalbaの町の入口にある「Alberugue Vilalba」泊、6€。

 同地に到着後、一人で町の中心へ。きょうが巡礼最後の日。パラドール、中央公園、バス発着所などを見て回る。

○7月10日(バスでLugoへ。Lugo見物後、列車でIrunへ)

 同行の3人は6時10分にスタート。私も7時過ぎに宿を出てVilalba発7:45のバスでLugoへ。8:45着。厚い城壁に囲まれた旧市街を見物。Lugo発10:57の列車でIrunへ。列車内で日本人男性巡礼者・近藤さんに会う(前述)。

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 Irun21:00着。出発時に泊まったアルベルゲへ。ほぼ満員だったが、幸いにして、空きあり。宿泊費は無料だが、スペイン最後の夜でもあり、募金箱に10€を入れた。

○7月11日(列車でパリへ)

 パリ行列車は地下鉄で5分行った駅から出るという。雨の中その駅へ。駅前で警官が4-5人、駅へ来る人のパスポートを検査していた。駅員はスト中で、どの事務室も無人。切符売り場の窓口も閉まっていた。でも列車は出るようだ。赤い服を着たボランティアらしき若い男女二人が切符を買おうとする人に自動販売機の利用方法を説明していた。私はLenes(レンヌ)経由モン・サン・ミッシェル行の切符を買おうとしたが、自販機では買えないとのこと。やむをえず、パリ行を買った。

 イルンのHendaye駅9:45発、パリ・モンパルナス駅15:33着。近くの二つ星ホテルに行き、宿泊料を聞くと100€とのこと。ダブルベッドしか空いていず、高過ぎる。駅に戻って、観光案内所で周辺のホテル一覧(宿泊料記載)をもらい、駅近くの最も安い二つ星ホテル「Hotel Edgar Quinet」へ。空いていたので、そこに宿泊。シングルは満室、ダブルベッドで75€。パリのホテル代は本当に高い。パリにはできれば泊まらないほうがよい。

○7月12日(列車でLenes・レンヌへ。次いでバスでモン・サン・ミッシェルへ)

 モン・サン・ミッシェルへ。大聖堂まで登り、眼下に広がる干潮時の広大な干潟を見物。干潟を歩く人が多く、アリのように見えた。現地の二つ星ホテルに泊る。87.05€、別に朝食8.5€。

 島と宿泊地を結ぶ連絡バスが夜中の1時まで運行していたので、夜10時頃、ライトに浮かぶモン・サン・ミッシェルを再度見物に。

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○7月13日(バスでレンヌへ。町を見物後、列車でパリへ) 

 9:25発のバスでLenes(レンヌ)へ。10:40着、教会等旧市街見物。テイクアウトの寿司を買い、駅のベンチで食べる。13:25発の列車でモンパルナスへ。三つ星ホテル泊、シングル80€。

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○7月14日(空路、パリ発) 

 空路、パリ発11:00-アブダビ着19:50、エティハド航空。おみやげにパリではゴディバのチョコレートを、アブダビではアラビアのチョコレートを購入。 

○7月15日(成田着) 

 アブダビ発22:05(7月14日)-成田着13:15。妻と娘が出迎え。空港にて3人で食事。

注)日誌をほぼ書き終わったのは11月。道や海岸の状況・位置などで、不確かな部分があったが、それらはインターネットの「Google Earth(世界全体の詳細な地図)によって調べ、正確な情報を入手した。

 

 

 

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サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)

<サンティアゴ巡礼「北の道」を目指して(準備編)>

(特記事項)

2014年11月、当ブログに、(実施編)として「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼を掲載しました。合わせてお読みいただければ幸いです。 下線をクリックしてください。見ることができます。

(はじめに)

 4回目のサンティアゴ巡礼を計画。「スペインの海を見ながら、北の道(Camino del Norte)を歩くこと」が目的である。

 「北の道」はスペイン北部の海岸を Irun(イルン)からSebrayo、Gijon、Ribadeoを通ってサンテイアゴ大聖堂まで歩く817.5kmの巡礼路である。2012年の巡礼証明書発行総件数は19.7万人(発効要件は「大聖堂への最後の100kmを歩くこと」。自転車の場合は200km)。うち、 「フランス人の道」を歩いた人が13.6万人であるのに対し、「北の道」ほ1.3万人と少ない(「ポルトガル人の道」は2.6万人)。なお、この巡礼路沿いには「北の道」から途中で分かれ、Oviedo、Lugoを通ってサンテイアゴまで行く「Camino Primitivo」という道もある。

 行きたいと思う理由はいくつかある。

 ① 主要な巡礼路は12本あるが(別途「ポルトガル人の道」の記事で紹介したJohn Brierley著の本による)、このうち、メインの「フランス人の道」以外は、これを日本語で詳細に紹介した本やインターネットの紀行文がほとんど無くて、私が数年前にブログに書いた「ル・ピュイの道」と「ポルトガル人の道」が、今でも少しだが読まれており(最近の30日間で、ブログのこの項への訪問者数は「ル・ピュイの道」が約200人、「ポルトガル人の道」が約100人)、時折、「役に立った」というコメントをいただく。いくつかを紹介すれば、

「スペイン・サンティアゴ巡礼の記録のサイト(ブログ)を読ませていただきました。大変有用な情報が沢山含まれていましたので、昨春、カミーノを歩く際に、ずいぶんと参考にさせていただきました。」(Hさん)

「この3月に歩く予定です。自分なりにいろいろ調べてきましたが、本当に役立つ情報が満載で、ありがたく拝読しています。」(Oさん)

「ルピュイルートについは、情報が少なく、貴日誌はとても参考になりました。」(Sさん)

「当初はサンジャンから出発する予定でしたが、貴方様のこのブログを今年の3月に読ませて頂き、ルピュイから歩くことを決意致しました。スペインの一か月とは違った意味でフランスの一か月は楽しく歩くことができました。特にLe Falzetのおばあさんの宿の食事は美味しかったです。」(Jさん)

 「田村さんのブログは、私にとって貴重なガイドブックです。…プリントして何度も読み返しております。」(Kさん)

「また読み返しています。未知の土地への一人旅。躊躇する方が多いようですが、これを恐怖と感じてやめるか、おっしゃる通り、それを魅力と感じて楽しむかでしょうね。これがなければ、海外旅行なんて面白くないですよね。」(Cさん)など。 

 また、「読みいってしまいました!巡礼路お疲れ様です!感動しました… 来年わたしもいきます。巡礼路、今から資金つくりです!失礼ながらご質問ですが、…」(Mさん)というように、ご質問も幾つかいただいた。

「私のサンチャゴ巡礼の「師匠」と呼ばせてください。」(Hさん)と、冗談を言いながら、感想を書いてくれた方もいる。

 これらを見て、「別の巡礼路を歩いて、行く人の役に立つ記録を更に一つ、ブログに書き加えたい」と思うようになった。読んでくれる人がいること、役に立って喜ばれること、これは書く者にとってたいへん刺激になる。

 なお、本やインターネットで見るサンティアゴ巡礼の記録のほとんどが日記方式であるのに対し、私は三つの巡礼路を比較しながら、「項」を分けて、道や宿の状況、見どころなど、巡礼路ごとの特徴を紹介することに重点を置いた。私の記録が読まれているのは、そんな書き方にあるのかもと密かに自負している。

② ところで、実際に行けるかどうかにはいくつか問題がある。

 まず、今、妻が膝(ヒザ)を痛めて、なかなか治らず、これが来年まで続けば一人で長期の海外旅行には行きにくい。最近かなり良くなったようだが。

 また、巡礼はスペインが乾期に入り、しかも猛暑が避けられる6月が適期と思われるが、この時期は2014年も、日本語を学ぶために嫁のアンジェラと孫のリリーが来日するかもしれない。来日が決まれば家は空けられない。

 来年の秋に行くとか、再来年77歳になってから喜寿の記念に行くとかも考えられるが。

③ 行こうと思うと日常生活に張りが出てきて、心が活性化し、何事にも前向きになれる。また、行く準備として、週に1-2回は4-8時間のロング・ウオーキングや1500m前後の水泳を行い、体力維持にも心がけ、健康にも良い。

④ 年齢的に体力・脚力の衰えがあり、巡礼路を歩けるのは今年か来年までであろう。これまではなかったことだが、一日歩いた翌日は足の疲れが抜けない。また、足の親指と薬指の付け根がよく痛くなる。更に左膝の半月板が損傷。また、胃腸が弱いし(先日も胃カメラ検査)、悪玉コレステロールの数値も異常に高い。これだけ問題を抱えていると、いつ長距離歩行ができなくなるか分からない。このあと生きられるのはせいぜい10年か。「行っておけばよかった」と後悔はしたくない。

⑤ 4回の巡礼とマッキンリー登山の記録を1冊の本にまとめて、孫に残しておきたいと思っている。人生にはこんなに楽しいこともあるのだ。それは人生を前向きにし、また苦しくて落ち込むときにはそれを乗り切る力を与えてくれる。

 (準備に入る・2013年8月16日)

6月25日に来日した息子の嫁のアンジェラと孫のリリーが8月15日にNYに帰国してから2週間が経ち、時間的にも精神的にも余裕ができた。

 さあ、4回目のサンティアゴ巡礼の準備に入ろう。まずは体力作りだ。水泳とロング・ウオーキングの再開。水泳は週1回、50分、クロールで1500mを、ウオークはとりあえず、週1回、正味5時間、20kmを目指す。来年の本番までに、8時間で25-30kmを毎日続けて歩けるだけの脚力をつけておきたい。今は20kmでもきつい。歳をとって、体力、脚力が衰えたことが原因のようだ。3回目の巡礼では何とかこれらをクリアーしたのだが。

 (久しぶりに取手-成田を歩く・9月7日)

 久しぶりに取手(戸田井橋)-布佐-房総風土記の丘-成田山新勝寺-成田駅をロング・ウオーキング。5-10分程度の休憩を4-5回入れて6時間45分で歩いた。

 最近は4-5時間歩くと疲れてしまい、歩くのが嫌になっていたが、今回は最後の1時間もそれほど疲れずに歩けた。ただ、「足の調子が戻ってきた」と嬉しくて、つい調子に乗り、後半の数時間を休憩なしで歩いたために、右足の親指の付け根を痛めてしまった。もう歳だ。無理をすると足腰に今までに経験したことがないような問題が起こる。歩くときは調子に乗らないこと、油断しないことを心がけよう。

 (サンティアゴ巡礼に行く会を結成)

 8月の始め、Aさん、Mさん、宮本さんと私の4名が集まって新橋のスペイン料理店で会食をした。私はまだ行けるか未定であるが、来年、サンティアゴ巡礼に行く会の結成式だ。

 いずれも視覚障害者登山団体「六つ星山の会」の会員。宮本さんは全盲、赤石岳(4人で)や栂海新道(3人で)を縦走した仲間だ。Aさんは60歳代の女性、胃癌のため数年前に胃の全摘出手術を受けたが、今は元気一杯で登山を楽しみ、昨年はサンティアゴ巡礼やキリマンジャロ登山にも成功した方である。その前向きの姿勢はすばらしい。Mさんは六つ星の山行で仙塩尾根から塩見岳を越えたときにご一緒した、快活でたくましい山男。

 その後、晴眼・女性の I さんが加わった。

(サンテイアゴ友の会の写真展に応募・11月)

 「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会創立5周年記念写真展」(モンベル渋谷店にて。2013年11月20-26日)に「巡礼路の子供たち」と題した写真を出展。

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(「北の道」の巡礼に行く仲間5人と秩父札所18ヶ所を巡る・11月26-27日)

 巡礼路をほぼ「北の道」に決し、晩秋、晴天の秩父路を歩いた。

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(前方に武甲山)

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(六地蔵)

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(羊山公園)

(巡礼に行く仲間と取手駅-成田山を歩く・12月25日)

 Mさん、Iさんと3人でロング・ウオーキング。取手駅7時20分スタート。利根町「徳満寺」(江戸時代、利根川の水上交通で栄えたところ)、布佐、若草橋、房総風土記の丘などを通って成田山新勝寺に17時20分着。

 (脚力作り・秋のウオーキングと水泳)

 記憶にある範囲で記録しておこう(敬称略)。

 8月27日 取手-守谷往復・5時間。9月5日 北千住・水泳1000m(孫の風ちゃんと)。7日 取手戸田井-成田・6時間45分。8日 六つ星サポート講習会・相模嵐山。10日 高田馬場・水泳1500m。12日 北千住・水泳1000m(風ちゃんと)。14日 妙義山の中腹歩き(日渡、松本克彦、上手の各氏と)。18日 松戸-下総中山の法華経寺と東山魁夷記念館。19日 北千住・水泳500m(風ちゃんと)。21日 取手戸田井-下総松崎駅(風土記の丘一周)・7時間。23日 取手-柏・あけぼの山公園(あおぞら診療所歩こう会)・4時間。25日 高田馬場・水泳1500m。27日 取手・水泳1500m。28日 関東鉄道・水海道駅-一言主神社-菅生沼-小絹駅・4時間30分。10月2日 取手・水泳1500m。3日 北千住・水泳500m(風ちゃんと)。4日 取手・水泳1000m。9日 取手戸田井-下総松崎駅(安食の寺見物、風土記の丘一周)・7時間。14日 取手戸田井-小林駅-印旛沼-甚平渡し-成田ニュータウン・8時間15分。16日 北千住・水泳1000m(風ちゃんと)。17日 小絹駅-守谷市内-芽吹大橋-東武野田線の愛宕駅・5時間30分。21日 戸頭駅-東武野田線の野田駅・5時間30分。30日 戸頭駅-柏・花野井(吉田家住宅)-柏駅・4時間。31日 柏駅-増尾-柏駅・4時間。11月1日 南柏駅-松戸駅・3時間。2日 牛久沼散策(あおぞら診療所歩こう会)・4時間。7日 取手-藤代往復・4時間。8日 北千住・水泳500m(風ちゃんと)。東京ハイキング協会の東ハイ祭に六つ星の仲間24名と参加・4時間のウオーク(喜多見-世田谷・砧公園)。14日 北千住・水泳800m(風ちゃんと)。取手-運河駅(江戸川にも足を伸す)・6時間。24日 森林公園散策(六つ星・43名)。26-27日 秩父札所巡り(サンテイアゴに行く仲間5人と。2日で1-18番札所。30km。)

 (脚力作り・年末・年始のウオーキングと水泳)

 12月8日、六つ星・忘年山行・鐘撞堂山・羅漢山ほか(66名)。23日、取手・戸田井橋-成田山。25日、上記取手駅-成田山、10時間(前記)。

 2014年1月5日、妻と取手市営プール、水泳1500m。6日、友人の尾幡と昼食後、代々木公園-明治神宮-高田馬場を歩き、夕方、六つ星役員会へ。7日、宮本さん、上手さんと新江戸川公園、椿山荘等散策、14時-17時。日、妻と取手市営プール、水泳2000m。12日、川越散策10:00-15:00(六つ星)。13日、9:40、取手・戸田井橋スタート、成田山、16:00着。16日、水泳1000m(風ちゃんと)。20日、宮本さん、上手さんと新宿駅-明治神宮-渋谷-駒場公園-渋谷、12時-16時。22日、取手-新松戸、10時30分-16時。25日、あおぞら診療所「歩こう会」、浅草七福神、10-14時。26日、北鎌倉-江ノ島-藤沢(サンテイアゴに行く仲間5人と)、8時20分-16時。

006_2 (鎌倉-江ノ島ウオーク)

2014年2月)

 8日、大雪。翌日、雪かき。12日、ウオーキング・シューズ購入。17日、パリへの航空券(5/30成田発)購入。ウオークは三郷駅-葛西臨海公園駅(7時間強)ほか、4-5時間の歩きを10回ほど。地下足袋も試した。

(「北の道」の資料を集める)

1.インターネットを通じて「北の道」を歩いた記録を見つけた。

  http://blog.goo.ne.jp/yubon_2011/e/8517a1b5f5b8fad19a6018c6b9c7e54f

.「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の山本さんが2013年6-7月に「北の道」を歩いており、彼が書いた下記の記録を教えていただいた。山本さんは友の会の5周年記念写真展に私が応募した際にお世話になった方である。

 Camino de Santiago サンティアゴ巡礼路の記録 - Biglobe

  http://www7b.biglobe.ne.jp/~akutare/ 

「ピアモンテの道、フランス人の道、フィステーラの道、Via de laPlataCamino del Norte、北の道、銀の道及びCamino Sanabresを歩いた記録.」である。 

3.インターネットを通じて、書籍販売店「アマゾン」から「北の道」のスペイン語版・案内書を購入。3,395円。詳しい地図が掲載されているが、351ページで厚さ2cmと重いのが難点。ただし、地図は別冊で添付されているので、それだけを持参すれば軽くて済む。

 Guia del Camino Norte de Santiago para peregrinos / Guide to Santiago's Northern Route for Pilgrims  著者 Anton Pombo (2010/5/30) 

  もう一つは英語版。これも318頁と厚くて重い。2285円。なお、地図は各頁にあり、別冊での地図の添付はない。

The Northern Caminos: Norte, Primitivo and Ingles (Cicerone Pilgrim Route Guides) 著者 Dave WhitsonLaura Perazzoli (2013/4/30)

(ウオーキング・シューズを買うが、型の選択に失敗したようだ)

 2月12日、宮本さんと池袋で会い、西武百貨店でロング・ウオーク用の靴を買う。アシックス製、ミズノ製等いろいろと出してもらい、1時間ほど、説明を聞きながら試し履きをして、結局、これまでの巡礼で毎回履いていたアシックス製をやめ、アサヒ製の靴を購入。また、型も大きすぎると言われて、25.5から25.0に変更。

 しかし、この選択は失敗だった。靴を慣らすために、購入後10日間ほど、ほぼ毎日2-4時間位、この靴を履いて歩いてみたが、1時間も歩くと左足の薬指の付け根の筋肉が痛くなり、痛みを我慢して歩くととても疲れた。これでは長く歩くことはできない。この10年間、この部分がときどき痛んだが、これほどに痛んだことはない。歳のせいで足が弱ったこともあろうが、靴のせいでもあるようだ。5本指の靴下を履いた上で、指の下にガーゼや綿を入れたり、カットバンをはったりして歩いてみたが、痛みは収まらない。新しい靴は2.2万円と高かったが放棄せざるをえないようだ。

800kmを歩き通せるか-今回一番の問題は足裏の痛み。2014・2・24)

 行くに当たって問題となるのは、道が分かるか、宿が見つかるか、言葉が分かるか、シュラフや上着、下着、薬、通信機器等の持ち物をどうするかなどであるが、今回一番の問題は前記の「足裏の痛み」。

 新しい靴は放棄するとして今回はどんな靴を履いていくか。

 1月初め、「ポルトガルで使い、履き古したアシックス製の靴(25.5型)」を履いて、三郷駅-葛西臨海公園駅を時速4kmで7時間30分歩いたときは、最後の頃に左薬指の付け根がとても痛んだが、一方、12月末に時速3kmで10時間、ゆっくりと取手駅-成田駅を歩いたときはそれほど痛まなかった。前3回の巡礼ではそれほど傷まず、時折痛んだ時は、ガーゼを足裏に敷いたりして痛みを和らげ何とか歩き通すことができたが、今回は大丈夫だろうか。ゆっくり歩けば何とか持ちそうな感じもするが。

 まず、靴だが、上記の擦り切れた靴を履いていくのは一つの方法。あるいは同型の新しい靴を買おうか。その他、地下足袋なども試してみよう。

 一方、痛みが出ないように、中敷きを入れたり、足指に力を入れないように歩いたり、更に、巡礼者用の杖を利用するなども検討してみよう。また、整形外科やウオーキングの団体などに「痛みの原因と治す方法」も聞いてみよう。

 5月30日発の航空券は手配した。ここまで来たのだから、とにかく、「足裏対策」に集中して取り組んでみよう。と言って冷静な判断力を失わないこと。駄目なら行くのを止めればよい。行っても、気楽に楽しむこととし、全行程を歩き通すことには固執しないようにしよう。

(挑戦する気持は抑えて)

 海外登山でも、サンテイアゴ巡礼でも、これまでは「挑戦する気持」を胸に秘め、山頂を極めること、全コースを歩きぬくことを第一に置いて頑張ってきたが、今回は上記のように76歳で足が衰えたこともあり、場合によっては100km位は電車で行こうかと気楽に考えることにした。「挑戦する」より「楽しむ」ことを第一にと気持を切り替えたのである。「挑戦する気持」を二番に下げてサンテイアゴ巡礼に臨むのは初めてのことである。

(地下足袋で歩けば足は傷まない-靴と地下足袋を交互に履くこととしよう)

 (3月2日(日)、スポーツ障害相談へ)

 よく泳ぎに行く取手市スポーツセンターにて毎週・日曜9:00-12:00、30分間500円で、専門家の先生による「スポーツ障害相談」が行われている。案内には「現在、スポーツや運動のやりすぎで、肩、肘、腰、膝等の関節痛や筋肉痛で悩んでいる方、また、運動不足で腰や膝に負担がきている方が多く、それらの悩みを解消するためにスポーツ障害相談を開設しています。」とある。

  3月2日、予約をしてこの相談に出かけ、担当の大内先生から下記の貴重な助言を頂いた。

・使い古した右靴の裏の外側がすり減っている。右足裏の薬指の付け根の「痛みの原因」は、足裏への「体重のかけ方が右に偏っていること」にある。

・体重を足裏中央にかけるようにすれば治る。それには立ったままで、ボールか座布団を両膝で強くはさむというトレーニング(1回10秒を連続して3-5回)を毎日1回から数回、行うのがよい。最低3ヶ月行えば矯正できる。

・薬指内側が痛み始めた場合は、「SORUBO製の中敷き(ただし、中央やや前にクッションが横に入ったバンドエイドタイプ・パッチタイプ)」を使用するとよい。

・地下足袋は指が広がり足裏が痛みにくいが、逆に足腰を痛めやすい。要注意。踵とつま先用の地下足袋の中敷き(SORUBO製)があるので利用するとよい。

・最近は日本の靴メーカーは日本人に合った靴(指が広がるもの)の開発を進めている。アシックスは日本製。

  原因が分かった、治し方も分かった。ありがたい。このトレーニングを続けていこう。

(3月7日・佐原・香取ウオーク)

 JR成田線滑河駅に「サンテイアゴに行く仲間5人」が集合。8時45分スタート。利根川堤を佐原へ。佐原「道の駅」でお雑煮を食べた後、旧市内見物。更に香取神社を経てJR香取駅、17時着。019 (利根川堤)

033(佐原・旧市街)

039(香取神社)

(妻の膝痛を治すために)

・妻の膝痛については、一年間医者に通ってきたが、痛みが収まることはなく、完治するかも不明のままで時間が過ぎた。また、私も妻に同行し医者に行くことはしなかったので、現状の把握が充分でない。このまま長期間、留守にするのは心配。そこで、この一ヶ月間は、妻に同行し、膝痛を治す方法を一緒に追求してみた。

我が家の2階への階段に「手すり」を取り付けた。

・初めて妻に付き添い、かかりつけの病院へ。膝痛の原因と治し方を詳しく聞いたが、要領を得なかった。これまで1年通い、痛み止めの薬を飲むほか、マッサージを受けてきたのだが、このままでは治りそうもない。医者に聞くと、これまでの方法のはかに治す方法は見つからないとのこと。手術で治す可能性を聞いたが、その病院では手術は扱っていないので分からないとのこと。その場で医師に紹介状を書いてもらい、翌日、手術可能な別の病院へ。ここでは手術は可能の由。ただし、それは最後の手段とし、これまで撮っていなかったMIRも撮って、マッサージ等を続けながら、今しばらく様子を見ることとした。

・介護保険の認定を市役所に申請。マッサージを家で受けられるなど利点があるという。

・妻は、NHKテレビの健康番組の中で医者が「膝関節症を治すには、痛くならない程度の足の運動が大事。運動が治す手段の主役であり、薬はそれを側面から助けるもの」と語るのを見て、水中ウオークに積極的に取り組むようになった。4月12日、27日、5月5日、9日などに水中ウオークに同行。ウオーク直後は少し足が軽くなると言う。なお、妻は取手スポーツセンターの水中ウオーク教室にも申込みを行った(毎週土曜50分)。

(娘と初めてのロング・ウォーク)

 同居している長女と二人でロング・ウオーク。今まで二人だけでのウオークは経験なし。生まれて初めての経験である。

 彼女は小さい時から人との関係を上手に築くことができず、今もって友達が一人もいない。英検3級や運転免許の取得、アメリカのディズニーランド、スペイン、エジプト、トルコ等のツアー旅行への単独参加など、力はあるのだが、それらは一時的な楽しみにとどまり、今は趣味がほとんどない。外を散歩する位で、昼でもベットに寝転んでいることが多い。

 私達は、彼女をどう育てるか、小さい頃からいろいろな所に相談をしてきたが、確信が持てる回答は得られなかった。そんな中で、私はしつけは大事と考え、人への対応や家での態度について、小さい時から彼女に注意をすることがよくあった。しかし、これが原因で私への拒否反応が強くなって彼女に嫌われてしまい、これまで40年近く、外出するときはいつも「お父さんが行くなら、行かない」と言われ、また、食事のときも私のそばに決して座ろうとしないという関係が続いてきた。

 ただ、私も最近は10年以上、注意をすること、批判をすることを一切しないように心掛けてきた。それがやっと実ったのかもしれない。突然、数日前「お父さん、一緒に散歩に行かない」と言われたのである。

 急なことでびっくりしたが、希望通り、いくつかのウオークに付き合った。

 以下、長女とウオーク。4月19日、御茶ノ水(昼食後)14時-銀座-新橋17時。20日、取手・戸田井橋11時-(利根川沿い)-安食16時(昼食)。23日、戸田井橋10時30分-木下ー小林-安食17時(昼食)。25日、布佐11時30分-若草大橋-成田駅18時30分。26日、自宅9時30分-守谷の運動公園14時30分(昼食)。29日、自宅14時30分-藤代駅17時。5月3日、次女一家(夫婦と孫二人)と長女と高麗の日和田山・物見山登山。16日、横山町問屋街散策。17日、戸田井橋10時30分-下総松崎18時。20日、妻、優子、次女と表参道で誕生祝いの食事(6月、長女、次女、誕生日)。24日、池袋・サンシャインシティ-我が家のお墓-私の生まれた所・新宿西五軒町-飯田橋を二人で散策。

 これからは仲良くなれそうな気がする。ウオーキングが始まって、彼女は生き生きしてきた。家事の手伝いにも前向きに取り組むようになった。彼女がどう変わるかが楽しみである。ウオークに付き合いながらじっくりと見守っていきたい。 

(サンティアゴに行く「チーム・カミーノ」の5人の仲間と)

3月25日 原宿8時-明治神宮-外苑-皇居-神田明神-東大・喫茶-六義園-古河庭園前(閉門後到着)-駒込。

4月15日 手賀沼一周・7時30分集合。将門神社、旧手賀教会等。 

4月28日 東海道ウオーク。日本橋7時-旧品川宿-川崎大師16時。

5月12日 新宿7時30分-表参道-(渋谷川に沿って)-麻布-芝公園-門前仲町(深川不動)-両国16時30分。

(息子がiPodを送ってくれた)

 これまでスマートフォンなどの電子機器には全く触れたことがなかった。未知の世界である。

 小さい機器に大量の音楽を録音し旅に持参できると聞いて、NYに住む息子に頼んだところ、「iPod」を購入し、私の好きな曲をCDから約100曲録音してくれて送ってくれた。「大黄河(宗次郎)」「新世界紀行(服部克久)」「ショパン」「倍賞千恵子」「美空ひばり」などである。これが飛行機内や宿屋で聞けるようになり、旅の楽しみが一つ増えた。これまでも、ときどき、海外にCDプレヤーとCD数枚を持参したことがあるが、重いのが難点だった。

 合わせて海外で自宅とのテレビ電話やメール送信が可能となり(ただしwi-fiがつながる場所でしか使用できない。スペインの宿にはあるというが)、これまでのように空港で携帯電話を借りて行く必要はなくなった。

(一回目のサンチャゴ巡礼のフィルムのほか、マキンリー登山や国内の登山などの写真をDVDに入力)

 依頼先:(株)フォトバンク 大阪ラボ「節目写真館」

 対象品目:36枚ネガフィルム28本(11,760円)、アルバム4冊(9,920円)ほか。

(持ち物の点検・5月20日)

 細かいものも含め、書き出して、未入手のものの入手に着手。

 レインウエア、長ズボン1枚、半ズボン1枚、Tシャツ2枚(半袖シャツ兼用)、長袖シャツ1枚、フリース1枚、パンツ2枚、5本指靴下4足、軍手1組、地下足袋、ビニール敷物、インナーシュラフ、スリッパ、ツェルト、ストック、荷物の小分け袋(機内持込み用のバックを含む)。 

 デジタルカメラ、海中電灯、交換用の電球 予備懐中電灯(100円)、単三電池6本(カメラ用、海中電灯用)、カメラ用SDカード予備、I Pod、イヤホーン、充電器、200Vアダプター、腕時計、メガネ。 

 帽子、水泳パンツ、タオル2枚、カミソリ、石鹸、お守り(娘が作ってくれたものと二人の孫のお手製のもの)、テッシュ数個、トイレットペーパー1ヶ、歯ブラシ、練歯みがき、薬(胃薬、下痢止、かぜ薬、コレステロール用の薬、疲労回復剤)、リップクリーム、カットバン(足まめに適したジョンソン社製を含む)、つめ切り、耳かき、インスタントの乾燥ごはん2袋。 

 パスポート、パスポートのコピー2枚、パスポート紛失時に新パスポート作成用写真4枚、航空券の引換証(忘れやすい)、海外保険証(忘れやすい)、現金、財布、クレジットカード、キャシュカード、名刺、メモ用手帳。 

 スペイン語の辞書、地図、コースの説明文(行った人が書いた毎日のコースの説明文、インターネットよりコピー)、必要と思われる日本の電話番号、日本の絵葉書10枚(現地でのお礼用)、文庫本(機内での読書用、新田次郎「栄光の岩壁」ほか)。

 荷の重さを計ってみた。これだけで9kgを越える。更に、毎日必要な飲み物と食品(500mlのペットボトルの水・2本、朝食・昼食用のパンとバナナ2本、リンゴ2ヶ、トマト1ヶなど)が加われば11kgは越えるだろう。高齢の身にはこれでは重すぎる。荷が重くて歩けなくなったということでは行った意味がない。中身を再検討しどれかを捨てよう。また、別に、荷の負担を軽減する方法がある。主な荷を宿や駅に数日間預け、荷を軽くして前に進むというやり方である。ポルトガルで試みた。荷はその期間歩いた後で、電車やバスで取りに戻るのであるこれを心がけよう。幸い、近くを電車が走るコースが多い。

(名刺を作り、また、家に置いておく地図を作る。5月26日)

 名刺はこれまでも作った。A4版。20枚。名前と年齢、家族の写真などを入れた。今回は富士山や槍ヶ岳の写真、日本の春と秋の美しい写真も入れて、少しだけ日本の良さをPRすることにした。巡礼路で親しくなった方やお世話になった方に渡す。相手と片言で話すときの話題作りにもなる。

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 妻に「どこまで歩いたか分かるように地図を作っておいてほしい」と言われて、歩程図を作り壁に貼った。

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 自分の登山と旅を本にまとめるための準備に入る)

 1.表題は?

  『中高年の夢「サンティアゴ巡礼とマッキンリー登山」』でよいか。

 2.目次(案)

 ○ はじめに

 孫に伝えたい。人生の楽しさ、苦しさ。

風奈、爽太、リリーへ。 何か、一生楽しめる趣味を見つけよう。心の琴線に触れるようなものが、「これだ!これをやりたい!」というものが、きっと見つかるはず。」

 Ⅰ.私の登山および旅行記

1.3回のサンティアゴ巡礼-2100kmを歩く。

1)フランス人の道(スペイン)

2)ル・ピュイの道(フランス)

3)ポルトガル人の道(ポルトガル)

4)北の道(スペイン)

3.マッキンリー・アコンカグア登山記ほか

 1)マッキンリー登頂記

 2)アコンカグア登山記

 3)キリマンジャロ登頂記

 3.国内の山への挑戦-いくつかの事例

 Ⅱ.私の山歴

 1.山への思い

 2.山に夢中になったのは40歳の頃から

 3.日本百名山は98座まで

 4.自宅の取手から日本海まで・山々を越えて

 5.登った山・一覧

 Ⅲ.六つ星山の会・視覚障害者登山

 Ⅳ.プロフィール(この項は別冊とし外部には出さない?)

 1.生い立ち

 1)幼少年期

 2)10代・20代の私を育ててくれたもの(2013年1月19日)

 3)「覚え書」から

 2.山のほか、趣味は読書と囲碁

 1)読書

 2)囲碁

 3)銭湯など

 山一人で行くのは、自分のためであり、人のためではない。また、自分のためと言っても、衣食住を手に入れるためではない。素人のスポ-ツは全て、そうであろう。しかも人間は、それをやり遂げたときに、涙を流すほどに感動する。また、それをみた人間も感動で胸を震わす。オリンピックでの優勝などはその最たるものであろう
 大昔の、人が生きるために必死だった時代には、人間もこのようなことをしなかったのではないだろうか。今は、仲間を守るためでもないし、衣食住を得るためでもない--ある意味では無益な行為に、人は敢えて挑戦する。ときには命を懸けて。
 人間社会が生み出してきた文化というものの意味がここにはあるように思う。衣食住が満ち足りたとき、人が求めるものは? なぜ求めるか? スポ-ツ、絵画、詩歌、音楽などに共通するのは、何かすばらしいことをやり遂げる喜び、それを鑑賞する喜びである。
 それに参加しない者にも、観戦し、鑑賞するという楽しみがある。また、絵画、詩歌、音楽には、物事の意味を解釈し深めるという楽しみもある。人間は生きることを充実させるために、これらを行う。 

 それは人間だけの特権だ。ほかの動物にも、たとえば、鳥が大空を舞うのを楽しむように、運動を「楽しむ」という習性はあると思われるが、それに「全力で挑戦する」ことはないであろう。

 こんな楽しみを味わうことなく一生を終わるなんて、もったいない。

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「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼


「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼
 

 

目次

Ⅰ.序

(はじめに)

(「ポルトガル人の道」の概要)

(写真による概要紹介)
Ⅱ.出発まで<準備編>

Ⅲ.「ポルトガル人の道」にはどんな宿があるか

Ⅳ.泊まった宿をいくつか紹介

Ⅴ.「ポルトガル人の道」-お勧めの見どころ-

Ⅵ.出会い

Ⅶ.その他
Ⅷ.三つのサンティアゴ巡礼を振り返って
 1.サンティアゴ巡礼の魅力
 2.3つの巡礼路を比較して
   <日程詳細>

 

Ⅰ.序

 (はじめに) 

3回目のサンティアゴ巡礼に出かけた。成田出発は2012年5月29日、帰国は7月5日、ポルトガルのリスボンからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、「ポルトガル人の道」と言われる巡礼路(615.6km)を23日間で歩いた。これはその旅の記録である。

なお、2回目までは、このブログに掲載してある下記を参照されたい(下線部分をクリックのこと)。
 ・2003年「スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO1 」(現在は「初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-」と改題している)

  ・2009年 サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)
 

 また、このあと、2014年に4回目の巡礼を行った。それについては以下を参照されたい。
 ・2014年「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼

(参考「私のブログの記事一覧」)

 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回のサンティアゴ巡礼(フランス人の道、ル・ピュイの道、ポルトガル人の道、北の道)、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の海外登山記、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の国内登山記、④「読書の楽しみ」、「毎日、無事平穏」等の日常の思い、⑤シベリア鉄道等の海外旅行記の5つです。記事の一覧は下記をクリックするとみることができます。

 ブログ・私の登山および旅行記・記事一覧

(「ポルトガル人の道」の概要)
 この道は、ポルトガルの首都・リスボンからスペインのサンティアゴまでイベリア半島の西側を北上するもので、距離は616kmである(うち、後半の115kmはスペイン国内を行く)。
 標高は低く、峠越えと言っても、せいぜい標高200m-400mの高さを数回越えるだけで、展望が効くところはあまりない。
 また、巡礼者は少ない。特にリスボンからの数日間は、6月だったためか、ほとんど人には会うことがなかった。巡礼者が増えるのはポルト辺りから。ポルトやスペイン側のトウィ(Tui)から歩き始める人が多いようだ。私はポルト-サンティアゴ-レオンを歩く人に会ったことがある。
 宿はポルトガルでは「ペンション」(夕食なし。レストランが併設されていることも)、スペインではもちろん「アルベルゲ」。宿と宿との距離は「フランス人の道」と較べるとやや長い。
 見どころは昔の雰囲気の残る道や町や村。ローマ時代の道や中世の道が当時の石畳や石垣とともに残るところが多い。
 また、高さ100mの鉄骨の橋が架かるポルト、中世創立の大学があるコインブラ、テンプル騎士団が建てた城塞(現在は修道院)のあるトマールなども大きな見どころ。
 ポルトガル名物の「アズレージョ」(青いタイル)も各所で見られる。また、コインブラで黒いマントを着た大学生の一団が国民的音楽の「ファド」を演奏しているのに出会えたらラッキーだ。

(写真による概要紹介)

・地図の左端が「ポルトガル人の道」、中央が「フランス人の道」、右が「ル・ピュイの道」001001

・多くの人との出会い

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・丘陵と村、町を通って

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・リスボンの6月はジャカランダが満開
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Ⅱ.出発まで<準備編>
(出発直前)
 海外旅行の準備をほぼ終えて、5月27日()、野田市の清水公園で孫の風奈、爽太、娘の直子と思いっきりフィールド・アスレチックを楽しんだ。パパは海外出張中。

 ファミリーコース(40ヶ所)、冒険コース(40)、水上コース(20)などがある。5-7mの高さをロープで登ったり、ロープを伝って空中を10mも渡ったり、水上に浮かんだいくつものイカダを飛んで渡ったり、と面白いものがいろいろあり、手のひらが真っ赤になるほどに一緒に楽しんだ。

 自分の子供時代の経験から、夢中になって遊ぶことが子供の心と体を育てると思っているので、孫をアスレチックや水泳、アイス・スケートなどに連れていくことがよくある。出発の2日前、充実した一日となった。

(ポルトガル人の道へ)

 74年を生きた。

若いときは、自分の人生は無限に続くように思っていたが、70歳を過ぎた今では「一生には限りがある。余生は短い」と実感するようになった。

生きられるのは、あとせいぜい10年程度であろうか。死ぬときは必ずやってくる。そんなに遠い将来ではない。最近、そんな思いがよく心に浮かぶ。

そんな中で、長く続けてきた視覚障害者登山の事務からある程度身を引いて、今は時間に余裕ができた。

チャンスだ。これまで、日本百名山やマッキンリー登山、サンティアゴ巡礼など、何かに挑戦することを大きな楽しみにして、日常を前向きに生きてきたが、「ポルトガル人の道」にも行きたいと思っていた。私の体力は下降気味であり、時間に余裕ができた今を置いてはそのチャンスはないように思う。

それと、「マッキンリー登山」と「サンチャゴ巡礼」の記録を一冊の本にまとめてみたいという思いもある。その中に「ポルトガル人の道」の記録を加えれば本の内容が一層充実する。本にする目的は「人生にはこんなにすばらしい楽しみがある、苦しいときもあろうが、人生、捨てたものではない」ということを3人の孫に書き残して伝えること、それに、マッキンリー登山やサンチャゴ巡礼を目指す人達に「登り方や歩き方」を伝えること、この二つにある。
(準備)

4月頃から準備を始めた。

 航空券(成田-マドリッド)、列車(マドリッド-リスボン)、宿(4泊分・ユースホステルが3泊)、国際携帯電話等の予約。
 歩くルートの詳細な地図、ポルトガル語辞典、ユースホステル国際会員証、巡礼手帳などの入手。

 ポルトガルについての観光案内書、ウオーキングシューズ、5本指の絹の靴下、足のマメ対策用の絆創膏、薬(胃薬、風邪薬、水虫用、バンドエイド等)の購入。

 雨具(ゴアテッックスとポンチョ)、カメラ、電池、磁石、つめ切り、耳かき、歯ブラシ、手ぬぐい、帽子、Tシャツ2枚、半ズボン1枚、着替え、文庫本数冊等の用意など。
 これらをすべてザックに詰めてみたが、荷が重い。特に地図や辞書、観光案内書なの本が重い。いずれどれかを捨てねばならないだろう。それは現地で考えよう

(地図の入手)
 まずはインターネットで「ポルトガル人の道」と入力して調べてみたが、詳しく紹介したものは見つからなかった。

 4月初め、インターネットを通じて、書籍販売の「アマゾン」で「ポルトガル人の道」を紹介した下記の本を見つけた。説明は英語。リスボン-サンテイアゴ、615.6kmを23日間で歩くように地図23枚が掲載されたものである。「スペインのフランス人の道」や「ル・ピュイの道」を紹介した本には約200枚の地図が掲載されていてたいへん判り易かった。それに較べるとこちらは地図が少なくて判りにくいが、探した中ではこれが最上だった。
 「A Pilgrim's Guide to the Camino Portugues: Lisboa, Porto, Santiago
              (John Brierley著、 ペーパーバック・208頁)

(相談会で道の詳細を聞く)
 4月13日13:20-14:20、会員になっている「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の相談会に出席。昨年「ポルトガル人の道」を歩いた坂原さんに1対1で、いろいろ教えてもらった。
・分岐には、分かりにくいが、ほぼ目印はある。ただし、ル・ピュイの道よりは分かりにくい。また、巡礼者の姿はほとんど見られない。
・サンティアゴへの黄色の矢印のほかにファティマまでは青の矢印がある。その先には逆方向への青の矢印も。ファティマはポルトガル人の聖地とのこと。
・宿が開くのが16時以降の場合もあるので、開いていなくとも待つこと。近所のバルなどで聞くとよい。

(航空券を予約)

 4月19日、航空券を予約。インターネットで調べ、更に柏市のHISに行き、格安航空券を探した。
 韓国経由リスボン行き、ヨーロッパ経由リスボン行き、同マドリード行きなどの中から、結局、一番安いアエロフロート(モスクワ経由)マドリード行・114千円(燃油代込み。帰りの日の変更可能。1回15000円)を選んだ。マドリードからバスや列車で行くほうが、飛行機でリスボンに行くよりも安いようだ。モスクワ空港でいったん降りて体を伸ばすことができるので、ヨーロッパに直行するよりは体が楽という利点もある。

(宿と夜行列車を予約)

 マドリードに22:25着なので、マドリードのホテルを予約。
 更に5月7日、列車も予約。マドリードからの夜行列車「ルシタニア」リスボン行・2等寝台(5月30日、22:25発-7:30リスボン着。HISへの支払い代金11,600円)。乗車賃は高いようだが、宿代が込みであることを考えればそれほど高くない。
 5月8日、ユースホステル協会の会員になるために、日本ユースホステル協会飯田橋分室(JR飯田橋駅に隣接するセントラルプラザ18階にある)に出かけて、会員証を入手した。これがあれば、世界中のユースホステルに泊まれる。
 ついでに受付で、リスボン到着後の2日間の宿として市内のユースホステルを予約した(1泊15ユーロ、朝食付。100円/ユーロ)。場所を示す地図も打ち出してもらった。
 帰って調べるとポルトガルにはユースホステルが44ケ所あるようだが、巡礼路沿いでは、リスボンに3ケ所あるほかは、コインブラ、ポルト位だった。
 なお、リスボンであと1泊して観光を3日間することにして、自宅のインターネットを通じてユースホステルの予約を1泊追加した。

(名刺代わりに自己紹介状を作成)

ポルトガル語で以下の自己紹介状・カラー・B4版を20枚、作成して持参することとした。家族の写真を入れたほか、日本を紹介するために富士山と槍ヶ岳、桜の角館の写真も入れた。前回、前々回も作成しており、皆に喜ばれている。紹介文は以下の通り。

(紹介文)
TAKESHI TAMURA Japao(Ibaraki Toride-city) Idade 74

Familia Mulher Filha2、Filho1、Neta2、Neto.

PassatempoAlpinismo(Mt-FujiMt-YariMt-MckinleyMt-Mont Blanc)

Igo-recreio.

Camino:2003 Saint Jean Pied de PortSanntiago de Compostela

2009 Le PuySaint Jean Pied de Port

2012 LisboaSanntiago de Compostela

(その他の準備)
・5月10日、国際携帯電話機を予約。
・5月11日、アシックス社のゴアテックス製ウォーキングシューズを購入。前回も前々回も同じものを使用した。
・5月11日、「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」を通じて巡礼手帳を入手。巡礼手帳は巡礼宿(アルベルゲ)に泊るときに必要。巡礼終了後にサンテイアゴで巡礼証明書を貰うときにも必要。以前はヨーロッパの教会で貰わねばならなかったが、「友の会」設立以降は、日本でも入手可能となった。
・5月11日、ポルトガル語辞典を探し、結局、「アマゾン」を通じて購入。ポルトガル語は全く分からない、英語もできないので、辞書は必携である。

(航空券)

5/29 成田発 12:05(アエロフロート)、 モスクワ着17:10、
モスクワ発 19:15(アエロフロート)、マドリッド着 22:25


7/4  マドリッド発 11:25(アエロフロート)、モスクワ着18:10、
モスクワ発20:00(アエロフロート)

7/5  成田着 10:20

(その他の予定)

5/29 マドリッドで宿泊 
ホテル「
HUSA CHAMARTINTel 34-91-334-4900予約済

5/30 夜行寝台列車 ルシタニア号2等 予約済 87ユーロ

     マドリッド発2225リスボン・オリエンテ駅730

5/31 ユースホステル「parque das NacoesTel 351-21892089015ユーロ」予約済。リスボン市内観光。

6/1-6/2  リスボンで連泊。リスボン観光。
 一日目:ユースホステル「
CentreTel 351-21353754116ユーロ」予約済。2日目:ユースホステル「parque das Nacoes」予約済。 

6/3  リスボンを徒歩でスタート。スペインのサンテイアゴまで23日間、650kmに出発。1日に20-30km。途中、大都市には2泊の予定。
 Lisboa(リスボン)SantaremTomarCoimbraPortoTui(スペイン)Santiago.
 
 帰りは、
サンテイアゴからマドリッドへ列車で移動。

ムの始まりⅢ.「ポルトガル人の道」には、どんな宿があるか。

 「ポルトガル人の道」には、ペンション(家族経営の小さなホテル。レジデンシャルともいう)、アルベルゲ、ホテル、消防署、ユースホステルなどの宿がある。私はポルトガルでは主にペンションを利用し、後半のスペインではアルベルゲを利用した。なお、ポルトガルでは巡礼者は無料で消防署を利用できる。私は2回利用した。

1)アルベルゲ
 

 「アルベルゲ」はスペインにはどこにでもある一般的な巡礼宿だが、ポルトガルにもある。ただし、現れるのは行程の14日目からの4日間だけで(そのあとはスペインに入る)、私は3回利用した。ポルトガルのそれは1泊5ユーロ(Rubiaesのみ無料)。一般に2段ベットだが、Ponte de limaアルベルゲは1段ベットだった。お湯のシャワー付。なお、「レジデンシャル」と表示しているところでも、宿泊費が5ユーロの安いものがある。

 

2)ペンション(家族経営の小さなホテル。レジデンシャルともいう

 ポルトガルでほとんどの宿泊地にあるのが、ペンションやレジデンシャル。シングルで15-30ユーロ(素泊り)。アルベルゲよりやや値段が高めだが、たった一人で個室を専有し、シャワー、洗濯、テレビ観戦などができるので、アルベルゲよりはのんびりできて、旅の疲れを取るのによい。ただし、客が少ない時期だと閉まっていることがある(行程の最初の頃、AZAMBUJASANTAREMの町では予定していたペンションが閉まっていて、宿を探すのに苦労した)。それと、夕方から開くところがあったり、場合によっては隣設する同名のレストランに行けば入れてくれたり、あるいは隣の店に頼むと電話で管理人を呼んでくれたりと宿の取り方が多様なので、閉まっていても近所の人によく聞く必要がある。

 

3)ホテル 

ホテルもかなりあるが、最低でも40-50ユーロ(シングル)と宿泊費は高目である。私は他に泊るところがなくて、1度だけ利用した。

 

4)消防署

   ポルトガルのみであるが、巡礼者は「巡礼手帳」を示して消防署に無料で泊まることができる。ただし、寝るのは板貼りやタイル貼りの大広間。今回は2回泊まったが、宿泊者は私1人か、同宿1人だけ。また、貸してくれるのはマット1枚のみであり、枕、毛布はない。もちろん、シャワーもない。私はゴアテックスの雨具を身に着けて毛布なしで寝たが、6月でもやや寒かった。利用する人はシュラフを持参したほうがよいかもしれない。それと、土曜日は消防署が休みで、泊まれないということがあった。土・日が休みかを、確認してから行く必要がある。

 なお、6月15日泊のALBERGARIA-a-VELHAの町では消防署に行くと近くの教会の付属施設を紹介されたが、ここも無料で、マットで寝る形式だった。

5)ユース・ホステル

 2段ベッドが4ヶで、8人部屋が普通。大都市のリスボン、コインブラ、ポルトなどにある。リスボンの場合は3ヶ所あり、そのうち2ヶ所を利用したが、朝食付で15-16ユーロ。コインブラ、ポルトのそれは場所的にやや不便なので(たとえば、コインブラの場合は、町の中心から2km離れている)、利用しなかった。

 

私はリスボンのユースホステルを日本で予約をしてから出かけた。

 日本での手続きは以下の通り。

 まず、ユースホステル協会の会員になるために日本ユースホステル協会飯田橋分室(JR飯田橋駅に隣接するセントラルプラザ18階にある)に出かけて、会員証を入手。これがあれば、世界中のユースホステルに泊まれる。

 ついでに受付で、リスボン到着後の2日間の宿として市内オリエンテのユースホステルを予約してもらい(1泊15ユーロ、朝食付)、場所を示す地図も打ち出してもらった。

 帰って調べるとポルトガルにはユースホステルが44ケ所あるようだが、巡礼路沿いでは、リスボンに3ケ所あるほかは、コインブラ、ポルトにある程度だった。

 なお、リスボンであと1泊して観光を3日間することにして、自宅のインターネットを通じて自分でユースホステルの予約をもう1泊追加した。

6)
パラドールとポザーダ

 スペインには「パラドール」、ポルトガルには「ポザーダ」という豪華な国営ホテルがある。

「パラドール」は城や修道院、領主の館などを改装した中世風の豪華なもので、スペインに85ヶ所ある。料金はほとんどがシングルで100ユーロ以上。高くてなかなか泊まれないが、前々回、私は思い出のためにサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダのそれに泊まり(シングル・89ユーロ)、また、サンティアゴではパラドール内のカフェに入って、その豪華な雰囲気の一端を味わった。

一方、「ポザーダ」は41ヶ所。城や修道院を改装したもの、自然の中に立地しているもの、家庭的雰囲気のあるものなどの種類があり、巡礼路沿いではリスボン近郊、コニンブリガ近く、ポルトなどにある。私はまだ泊まったことがないが、お金と時間に余裕があれば一度は泊まってみたかったホテルである。


Ⅳ.泊まった宿をいくつか紹介 

1)アルベルゲ 

 

(ポルトガル・6/20泊のアルベルゲ)
 BARCELOS市街に渡る橋の手前のアルベルゲ「Residencia Gallo」に泊る。5ユーロ。大部屋に2段ベットが10個。そこに8人が泊まった。
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(ポルトガル・6/21泊のアルベルゲ)

 大きな川に面したPONTE DE LIMAにあるアルベルゲ。橋を渡った向こう岸にある。素泊り5ユーロ。(写真の一枚目は宿からの眺め)

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(ポルトガル・6/22泊のアルベルゲ)
 RUBIAESは小さな村。村のはずれにある「Albergue de Rubiaes」に泊る。
 無人。夕方、管理人のおじさんがやってきて、巡礼手帳にスタンプを押してくれた。宿泊費は無料。宿泊施設はここだけなので、当日の巡礼者すべてがここに泊まった。15人位か。

イタリーとポーランドの女学生2人組と30分ほど片言の英語で話す。自己紹介のコピーを渡し、家族や登山の経歴(マッキンリーなど)を説明すると「私もそんな一生を送りたい」とのこと。日本の春と秋の風景の素晴らしさなども説明。向こうからは「ヨーロッパに来て、日本との違いで驚いたことは」という質問があったが、うまく答えられなかった(詳細、後記「出会い」参照)。

更にイタリア人2人組(一人はヴェニスの人)とも話す。イタリアにもすばらしい巡礼路があるという。トスカーナの「La Verna」からローマ近くのアリエテまでの350km。是非、来てほしいとのこと。

5時過ぎ、レストランと食料品のお店を探して人家のほとんどない車道を下っていくと、1kmほどで2つともあって、ほっと一安心。翌日の食料を買い、レストランで食事。

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(スペイン・サンティアゴのアルベルゲ)
 目的地のサンティアゴでは前回に宿としたアルベルゲに再び泊まった。気にいった宿なので紹介しておきたい。

それは中心街に3つあるアルベルゲの一つ。神学校(Seminario Menor)の2階と3階にあり、ベッド数は177。前回は大部屋(1泊12ユーロ)に、今回は個室(1泊17ユーロ)に泊った。

ここは大聖堂から徒歩15分とやや遠いが、個室があること、地下に自販機や電子レンジ、湯沸し器を備えた自炊用の大きな食堂兼キッチンがあること、食堂にテレビがあること、連泊が可能なこと(前回、サン・ジャンのアルベルゲでは連泊が認められなかったし、また、2連泊までというアルベルゲもあった。ここでは4連泊も可。ただし、時期によって連泊の可否は異なるのかもしれない)などの特徴がある。

私はこの自販機でリゾットやスパゲッテイを買って電子レンジで熱し、スーパーで買ったパンや果物、ハム、牛乳、コーンフレーク、紅茶のティーバッグなどと合わせて、豪華な食事を楽しみ、そのあと、同宿の人達数十人とサッカー・ユーロ選手権決勝・イタリー・ドイツ戦を見て過ごした。

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2)ペンション(家族経営の小さなホテル)

 ポルトガルでほとんどの宿泊地にあるのが、ペンションやレジデンシャル。シングルで15-30ユーロ(素泊り)。アルベルゲよりやや高めだが、たった一人で部屋を専有し、シャワー、洗濯、テレビ観戦などができるので、アルベルゲよりはのんびりできて、旅の疲れを取るのによい。ただし、客が少ない時期だと閉まっていることがある(行程の最初の頃、AZAMBUJASANTAREMの町では予定していたペンションが閉まっていて、宿を探すのに苦労した)。それと、夕方から開くところがあったり、場合によっては隣設する同名のレストランに行けば入れてくれたり、あるいは隣の店に頼むと電話で管理人を呼んでくれたりと宿の取り方が多様なので、閉まっていても近所の人によく聞く必要がある。


(ポルトガル・6/19泊のペンション)

 午後、歩いているとそばに車が止まり、ペンションを宣伝するビラを渡された。更に歩いていくとまた別の車が。これもペンションの宣伝だった。どちらも中年の男性。前述のジョンのガイドブックで、この町には別にアルベルゲがあることは分かっていたが、宣伝されたペンションの一つに宿泊することにした。VILARINHOの入口にあり、巡礼路からやや横道にはいったところにある。個室・素泊り10ユーロ。自宅の庭にあり、日本の民宿のように思えた。

 この家の主人は私が日本人であることを知ると「日本人が泊まるのは初めてだ」と言ってとても喜んで、「自分はポルトガル語しか分からないが、近所に英語ができる友人がいる。彼を夕食に呼ぶから、一緒に飯を食わないか。酒を飲みながら、いろいろと話をしよう」と私を誘った。こちらは疲れているうえに英語が苦手。何とか断ったら、夕食時に「今友人が来てる。どうだ、来ないか」とまた誘いに来た。こちらが断ると彼氏はがっかり。

 あとで、「疲れていようと断らずに、片言の会話でもよいから、一夜を3人で楽しく過ごせばよかった」と痛切に反省。ポルトガルのおじさんと親しく話せる千載一遇の好機を逃してしまったのだ。今回の旅の中で一番悔やまれることだった。
860 863 865 858

(コインブラ・6/11-6/12泊のペンション。看板にはレジデンシャルとある)
 ユースホステルは町の中心から2km離れたところにあり、不便なので、別の宿を取ることにして、橋を渡ってすぐのインフォメーションセンターに行くと、隣にある「Pensao Larbelo」を紹介された。1泊25ユーロ。町一番の繁華街にある。

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(ポルト・6/17-6/18泊のペンション。看板にはレジデンシャルとある。写真の4階建て建物)

 日本の観光案内書に「日本人スタッフがいる」と紹介されていた「Pensao Duas Nacoes」を携帯電話で前日に予約しておき、そこに泊まった(宿の電話予約は、今回初めての経験)。なお、ユースホステルもあったが、中心街から遠すぎて、敬遠。
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3)ホテル
 

ホテルもかなりあるが、最低でも40-50ユーロ(シングル)と宿泊費は高目である。私は他に泊るところがなくて、1度だけ利用した。

 

4)消防署

ポルトガルのみであるが、巡礼者は「巡礼手帳」を示して消防署に無料で泊まることができる。ただし、寝るのは板貼りやタイル貼りの大広間。今回は2回泊まったが、宿泊者は私1人か、同宿1人だけ。また、貸してくれるのはマット1枚のみであり、枕、毛布はない。もちろん、シャワーもない。私はゴアテックスの雨具を身に着けて毛布なしで寝たが、6月でもやや寒かった。利用する人はシュラフを持参したほうがよいかもしれない。それと、土曜日は消防署が休みで、泊まれないということがあった。土・日が休みかを、確認してから行く必要がある。

なお、6月15日泊のALBERGARIA-a-VELHAの町では消防署に行くと近くの教会の付属施設を紹介されたが、ここも無料で、マットで寝る形式だった。

(写真:
GOLEGAの消防署・6/4泊とTOMARの消防署・6/8泊)
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(ポルトガルのALBERGARIA-a-VELHAにて・消防署の紹介で泊まった教会・6/15泊)

 消防署に行ったが、断られた。でも、消防士はただ「駄目」と言っているようではなかった。ポルトガル語でいろいろと言うのだが、よく分からない。ウロウロしているとカフェの前で雑談していた数人の男性に呼び止められた。「泊まれるよ」と言っているらしい。「?」と近づいていくと、ちょうど通りかかった牧師さんに何か言ってくれた。牧師さんが私に付いてこいと手招きする。結局、「消防署には泊まれないが、代わって教会の付属施設を宿泊施設として提供しており、そこに泊まればよい。消防士も宿泊はそこを利用している。シャワーだけは消防署のものを利用するとよい」ということだった。消防署のそばに教会、その向かいに牧師宅、その隣が「Casa paroqia」という2階建てで部屋がいくつもある教会の付属施設であり、牧師さんは私をそこに案内してくれた。無料である。ただ、ベッドはなくて、他の消防署と同じように部屋にマットを敷いて寝る方式だった(毛布あり)。宿泊者は私だけ。
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5)ユース・ホステル

2段ベッドが4ヶで、8人部屋が普通。大都市のリスボン、コインブラ、ポルトなどにある。リスボンの場合は3ヶ所あり、そのうち2ヶ所を利用したが、朝食付で15-16ユーロ。コインブラ、ポルトのそれは場所的にやや不便なので(たとえば、コインブラの場合は、町の中心から2km離れている)、利用しなかった。

 
 私はリスボンのユースホステルを日本で予約をしてから出かけた。

 日本での手続きは以下の通り。

 まず、ユースホステル協会の会員になるために日本ユースホステル協会飯田橋分室(JR飯田橋駅に隣接するセントラルプラザ18階にある)に出かけて、会員証を入手。これがあれば、世界中のユースホステルに泊まれる。

ついでに受付で、リスボン到着後の2日間の宿として市内オリエンテのユースホステルを予約してもらい(1泊15ユーロ、朝食付)、場所を示す地図も打ち出してもらった。

帰って調べるとポルトガルにはユースホステルが44ケ所あるようだが、巡礼路沿いでは、リスボンに3ケ所あるほかは、コインブラ、ポルトにある位だった。

なお、リスボンであと1泊して観光を3日間することにして、自宅のインターネットを通じて自分でユースホステルの予約をもう1泊追加した。

(リスボン郊外・オリエンテのユースホステル)

このユース・ホステルは敷地がゆったりしていて建物も庭も広く、気分良く利用できるので、お勧めである。ここはオリエンテ駅から線路沿いに大通りを歩いて15分。国鉄なら普通列車でオリエンテの次の駅のそば。朝食付。別に夕食も有料で食べられる(5.4ユーロ)。私が利用したときの夕食は、サラダ、パン、ライス(日本の短粒種と異なり、長粒種なので、ボソボソで美味しくはないが)、魚とポテトの揚げ物、ゼリーという献立だった。
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(リスボン市中心部のユースホステル)
 気分転換にこちらのユースホステルにも1泊。市中心部にあり、当日、直接訪れて宿を取った。
805807808


6)
パラドールとポザーダ

 スペインには「パラドール」、ポルトガルには「ポザーダ」という豪華な国営ホテルがある。

「パラドール」は城や修道院、領主の館などを改装した中世風の豪華なもので、スペインに85ヶ所ある。料金はほとんどがシングルで100ユーロ以上。高くてなかなか泊まれないが、前々回、私は思い出のためにサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダのそれに泊まり(シングル・89ユーロ)、また、サンティアゴではパラドール内のカフェに入って、その豪華な雰囲気の一端を味わった。

一方、「ポザーダ」は41ヶ所。城や修道院を改装したもの、自然の中に立地しているもの、家庭的雰囲気のあるものなどの種類があり、巡礼路沿いではリスボン近郊、コニンブリガ近く、ポルトなどにある。私はまだ泊まったことがないが、お金と時間に余裕があれば一度は泊まってみたかったホテルである。

 


Ⅴ.「ポルトガル人の道」-お勧めの見どころ-

ポルトガルには見どころが沢山あるが、ここでは巡礼路を歩いた範囲でそれを紹介する。

<見どころⅠ-観光地> 

(ポルト)

 リスボンに次ぐポルトガル第2の大都市。14-15世紀に世界に先駆けてポルトガルが海外に進出したときの拠点都市であり、その後も貿易と商工業の中心地として栄えてきた。

ポルトガル発祥の地でもある。11世紀のこと、フランス貴族の一人(アンリ・ド・ブルゴーニュ)がそれまでの支配者であるイスラム教徒からこの地を取り戻し、更にその息子(エンリケ)が領地を広げてポルトガルの初代国王になったという歴史があり、この貴族が「ポルトガリア伯爵」を名乗ったことが「ポルトガル」という国名の由来になったとのことである。

 ポルトの見どころの第一は「ドン・ルイス1世橋」。深く切れ落ちたドウロ川に架かり、旧市街と新市街を結ぶ。1886年建造の鉄骨の橋で、2段に分かれ、上段は鉄道(メトロ)と歩道、下段は車道と歩道に利用されている。上段の橋の長さは395m、水面からの高さは100mに近く、橋上からの眺めは、23日間のこの巡礼路上では最上級の景観であった。下流に向かって右斜面には旧市街の教会や宮殿の大展望。また、眼下、100m下の右岸にはレストランやカフェ、おみやげ品店がぎっしりと並び、広場には観光客が一杯。左岸にはポートワインの工場が並び、川面には観光客の鑑賞用として、昔そのポートワインを運んでいた「ラベーロ」という舟が浮かぶ。はるか上流と下流には別の橋も。いつまで眺めていても見飽きることのない風景である。今回の旅ではサンティアゴ巡礼に5回も来たという日本人のご夫婦にお会いしたが、このすばらしさに惹かれて、うち3回はポルトに寄ったという。

「グレリコス教会」の石造りの高い塔もお勧め。是非登ってみよう。石造りで、しかも手すりのない螺旋状の階段を225段、こわごわと登り、上がりきったところが地上からの高さ76mの展望台。台上の回廊はせまい上に隙間に柵がないので、緊張して、足が地に着かない感じになるが、景色はすばらしい。茶色い屋根また屋根がはるか彼方まで広がり、ポルトの街が一望できる。

街中のあちこちにあるアズレージョ(青いタイルの壁)も見もの。まずはサン・ベント駅入口の4面を飾るアズレージョ。足を止めて見上げる人、写真を撮る人が絶えない。その他では、カテドラル、アルマス教会、サント・インデフォンソ聖堂などのアズレージョも見事である。

あと、見どころはポオリャン市場、ポルサ宮などであろうか。行かなかったが、セーラ・ド・ピラール修道院からのドン・ルイス1世橋の景観、書店リバラリア・レリョの重厚な雰囲気などもお勧めかもしれない。

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枚目までが「ドン・ルイス1世橋」と橋上からの眺め。5枚目が「グレリコス教会」からドウロ川を望む眺め。橋は見えないが、左にある

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(コインブラ) 

  丘の上に築かれた大学都市。前夜の宿・RABACALから約30km、国道沿いの道を下り、やや登り返すと突然、モンデゴ川の対岸にコインブラの町が広がる。対岸はすぐに丘。白い建物が積み重なり、その上にコインブラ大学の白い校舎が望める。すばらしい景観だ。

大学の創設は1290年。当初リスボンにあったものが、1308年に当地に移り、以降移転はあったが、1537年からここに定着したという。現在の大学は古い部分と新しい部分に分かれるが、見どころは旧大学である。

その他、1000年に近い歴史を持ついくつかの教会や修道院、それらを取り巻く公園、庶民の台所である「市場」、モンテゴ川対岸の涙の泉(王子と侍女の恋物語があり、悲劇の舞台となった泉)なども見どころ。このうち、サンタ・クルス修道院やサンタ・クルス公園では「アズレージョ」も見ることができる。

また、街頭で、大学伝統の黒いマントを羽織った学生の一団が「ファド」(ポルトガルの民族歌謡)を歌っているのに出会うことがあるが、これを聞くのも楽しみの一つであろう。
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(ローマ時代の水道橋-大学の近く) 

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(コインブラ「涙の泉」)
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(トマールのキリスト修道院・Convento de Cristo

 ポルトガル最大規模の修道院。世界遺産。12世紀にテンプル騎士団がここに城塞と修道院を築いたが、その城壁が今も残る。修道院は14世紀にキリスト騎士団のものとなり、15世紀後半に当時の騎士団長マヌエル1世(国王)が大増築を行って2倍の広さとなり、今に至っている。

 見どころは多い。まずは、テンプル騎士団が造った、ミサを行う八角形の円堂である。内部を飾る数々の彫刻と絵画が見事。次いで、エンリケ航海王子(ポルトガルの海外発展の先頭に立った人)が15世紀に増築した回廊を飾るアズレ-ジョや、スペイン国王フェリペ2世がポルトガル国王フェリペ1世として戴冠式を行ったジョアン3世の回廊、それにサンタ・バルバラの回廊(ポルトガルの海外発展を象徴する飾りがあるエマヌエル様式の窓あり)なども必見。また、院内には落ち着いたカフェがあり、ティー・タイムが楽しめる。巡礼を1日休んで訪れることをお勧めする。
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(コニンブリガの遺跡)

紀元1世紀に築かれたローマ帝国の都市の遺跡。コインブラの南15kmにあり、ローマ街道跡、二つの館跡、浴場跡などを見ることができる。巡礼路がすぐそばを通るので、巡礼のついでに見学するとよい。

 私はそばを通った日が休館日だったので、見ることができなかった。

 

(ロカ岬)

 ロカ岬はヨーロッパの最西端に位置し、バス停前の広々とした台地上には「ここに地終わり、海始まる」という詩を刻んだ高さ10mの十字架の塔が立つ。ポルトガルの詩人カモンスイが詠んだものである。また、台地の前面は高さ140mの断崖。はてしなく広がる大西洋、はるか眼下には岩に砕ける真っ白な波。海は緑に染まって見える。私は黒い岩、白い波、緑の海の絶妙なコントラストが気に入って、夢中で写真を撮った。

 それと有料で「最西端到達証明書」がもらえる。5ユーロか、10ユーロ。

当地へ行くには、リスボンからシントラへ列車で行き、駅前からバスを利用する。バス約30分。本数は1日6-8本と少ない。

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(リスボン)

私は3日間にわたり、サン・ジョルジェ城、カテドラル、発見のモニュメント、ジェロニモス修道院、エドゥアルド7世公園、グルベンキアン美術館などを見物した。

それらの解説は観光案内書に譲るが、巡礼手帳に出発の印を押してもらうのはリスボン・アルファマ地区にある「カテドラル」である。

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(サンティアゴ大聖堂・遠望)1708_2
 オブラドイロ広場から見上げる大聖堂(カテドラル)は尖塔が空に向かって高くそびえて、誠に見応えがあるが、ここでは、それを遠望できる場所を二つ紹介しておきたい。

 一つは、大聖堂から徒歩10分のフェラドゥラ公園から見たもの。3本の尖塔がすぐ近くに見えて、それを背景に記念写真を撮るのに適している。広い公園の中で、それが見えるのは1ヶ所のみ。1本の高い木とベンチがあり、そこに座ってゆっくりと眺めることができる。

   もう一つは「フランス人の道」の最終日に通るモンテ・ゴソの丘。サンティアゴへ5kmの距離にあり、遥か彼方に3本の尖塔が見える。巡礼者はここで初めて大聖堂を目にし、喜びの声をあげるので「歓喜の丘」ともいう。

尖塔とは別にここで是非見ておきたいのは、大聖堂を遠望して喜ぶ巡礼者の銅像。私は前回見落とし、今回も見るためにモンテ・ゴソの丘まで出かけたが、結局、どこにあるのか分からず、見ることができなかった。あとで聞くと、車道を行かずに、丘の草地を下って、直進はせず左方に行けば出会えるとのことだった。

 

<見どころⅡ-そのまま残る昔の巡礼路>

 「ポルトガル人の道」には、中世の巡礼者が歩いた古い道がその雰囲気のままに残っているところが多い。ローマ時代の石造りの橋や石畳と苔むした石垣が続く中世の道などであるが、これらが沢山残るのは他の二つの巡礼路にはない特徴であろう。

 それらは村の中、町の中、畑の中、森の中に残る。

 巡礼路は都会から遠く離れ、近代化の波から取り残された村を通る。屋根が崩れ落ちた農家があり、細い曲がりくねった道には人影は見当たらない。でも、昔は多くの巡礼者が歩いたことであろう。道は、四角に割った小さな石できれいに舗装され、黒光りがしている。

 町中を通る道路は普通、アスファルトで舗装されているが、ときどき石畳で舗装された古い道に出会うことがある。小さな石を敷き詰めた狭い道の両側には、道際(ミチギワ)ぎりぎりに2階建ての古い家が隙間なく並び、古びた道と家が調和した風景を作る。一方、馬車が通るメインロードだったのであろうか、大きな石を敷き詰めたローマ時代の造りと思われる道路も見かけた。

広い畑の中にも石畳の巡礼路が通る。今は人が通ることはほとんどないであろう。石の間には草が生え、緑色の道になっていた。

林の中、道の両側には、苔むして崩れかかった石垣が続いている。石垣の造り方はいろいろで、大きな石を積み上げたもの、厚さ1-2cmで細長くて平たい石を積み上げたものなど、さまざま。それにしても、なぜ、道と林の境を石垣で区切る必要があったのだろうか。日本にはあまりないことなので、ちょっと疑問を感じた。

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<見どころⅢ-アズレージョ>

 建物の外壁や内壁を飾るポルトガル伝統のタイル。ブルーが中心だが、茶色や緑、黄色のもの、あるいは多彩色のものもある。

 私が見た中では、コインブラやポルトの有名な寺院の内・外壁やポルト・サン・ベント駅入口の壁面、トマール・キリスト修道院の回廊などを飾るブルーのアズレージョが特に見事だったが、巡礼路沿いの小さな教会や家屋、道端の水飲み場、あるいは道路際の外壁、郊外の駅などにもアズレージョが見られ、これらの写真を撮って歩くのも旅の楽しみの一つとなった。

このアズレージョ、14世紀にイスラム教徒がスペインに持ち込み、スペインで大量生産が始まった後、15世紀にポルトガルがこれを輸入し、宮殿や教会に利用するようになり、更に16世紀にはポルトガルが独自のタイル生産を始めたという歴史を持つが、リスボンの国立アズレージョ美術館では、作品を見ながら、その歴史をたどることができる。

(写真:順に「トマール・キリスト修道院の回廊」、「ポルト・教会の外壁」、「ポルト・サン・ベント駅入口の壁面」、「コインブラの街路」)
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(道端のアズレージョ)
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<見どころⅣ-湧き水と川、それと花>

 ポルトガルの自然では、「湧き水」と「川面にゆれる緑の水草(ミズクサ)」が特に印象に残った。

 丘陵地帯に入ると湧き水が随所にあった。標高が400m未満の低い丘陵が続くので、行く前は、川は汚れ、濁った水が流れているものと思っていたが、それは違っていた。
 いたるところに湧き水があって、川の水はきれいで緑の水草がゆれており、魚影が川底を横切るのが見えた。

私は子供の頃、多摩川やその支流でいつも魚を取って遊んだ。
 魚を石の下に追い込んで手掴みで採り、小川をせき止めて水をかい出し、うなぎやカニを採ったりした。また、急流のあんま釣りで1日に100匹も釣ったり、足で草むらから魚を追い出して網で採ったりもした。
 夏休みはそれらに夢中になり、家に帰るのはいつも夕方だったが、そんな楽しい思い出があるので、今でも川岸に来ると魚がいないかと川をのぞき込むのがくせになっている。

ポルトガルの川で魚影を見たときはとても嬉しかった。

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 水のほかに、花や果実を見るのも楽しみだった。
(下:特に気に入った、桜に似た紫の花。リスボン)

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(原野や畑に咲く花)

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(サクランボ)

村に入ると道の両側にサクランボの木。実がたわわ。道端にも沢山落ちていた。

夢中になって拾って食べる。別のところでは、農家の人が採れたてを無料でくれた。
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<見どころⅤ-マリア像、市場、水飲み場、洗濯場など>

・巡礼路上で出会うマリア様の像は可憐なものがほとんどだったが、6月16日、SAO JOAO da MADEIRAへ向かう途中の森の中で出会ったマリア様の石像は高さ5mもあり、堂々としていて、お顔もたくましい感じがした。

・その他、コインブラ、ポルト、サンティアゴなどの町の「市場(イチバ)」、巡礼者のための水飲み場、村の洗濯場などにも異国の風情を感じた。

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(ポルトの市場)
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Ⅵ.出会い

(ドイツの元軍人のおじさんと歩く)

094 トマールのレストランで夕食のとき、隣で食事をするドイツのおじさんに話しかけてみた。Henry Holohmeyerさんといい、ハンブルクの上、デンマークに近いRendsburgに住む50歳代の元軍人。2年前にサン・ジャン-サンティアゴを歩いたが、今度はポルトガル人の道をサンティアゴまで歩くという。20年前に軍人としてポルトガルに6年間滞在していたので、この道は懐かしいとのこと。妹さんの子供が日本人と結婚して東京に住んでいるらしい。

 彼とはこのあと2日間、カフェで一緒にお茶を飲んだり、次の町で宿と夕食を共にしたが、脚力はとても強く、足は早かった。


(巡礼中のイタリア・ポーランドの女学生と会話)

1155001 イタリアの若い女性とアルベルゲで一緒になり、2段ベッドに腰をかけてしばらく話をした。ポーランドの女性も一緒。二人とも学生とのこと。イタリアの女学生はたいへん快活で、サッカーのヨーロッパ選手権で母国が勝ったことをラジオで知ると両手を挙げて大声で「やったー。今度はドイツが相手だ」と叫んでいた。

思い切って声をかけ、二人の写真を撮らしてもらったのが話をするきっかけである。

 まず、こちらから自己紹介のコピーを渡して家族の状況やマッキンリー登山等の山歴、3回のサンティアゴ巡礼の経緯などを下手な英語で説明をすると、2人からは「うらやましい。私もそんな人生を送りたい」という言葉が返ってきた。次いで「日本の自然の素晴らしさ」を説明。一方、イタリアの女学生からは「ヨーロッパに来て、日本と違う点で、一番驚いたことは何ですか」などの質問があった。

 この日以降、何度も別のアルベルゲで一緒になったが、彼女はいつも親しげに手を振って挨拶をしてくれた。

 

(カナダの女性にハグされた)

1112001  逆方向から快活でたくましい感じのおばさんがやってきた。単独行のカナダ人の女性、50歳代という。「フランス人の道」のレオンをスタートし、サンティアゴまで歩いた後、「ポルトガル人の道」をポルトまで歩くという。私は前回も何人かの「つわもの」に会った。「一人でパリから3ケ月間、サンティアゴまで歩いてきたが、帰りはサン・ジャン・ピエド・ポ-まで列車を利用し、そこからル・ピュイまで歩く」というパリのおばさん、「サン・ジャン・ピエド・ポ-とサンティアゴの間を歩いて往復した。このあと、ル・ピュイまで歩く」というドイツの青年、「住んでいる村からサンティアゴまで3ヶ月間を歩く」というドイツのおじさんなどである。今回は、レオン-サンティアゴ-ポルトというように巡礼路の良い所だけを選んで歩く人もいることを知った。 

ところで、彼女に「リスボンから歩いてきた」と言うと、別れ際に抱き寄せられ、ほほにキッスをされた。巡礼者同士の親愛のあいさつである。ちょっとびっくりした。

 (お菓子屋のおじさんからお菓子をもらった)
353_2 6月16日、OLIVEIRA de AZEMEISの町を行く。おじさんが4-5歳の可愛い女の子2人とベンチに座っていた。そばにあるお菓子屋さんのご主人のようだ。思い切って写真を撮らせてほしいと頼むと-言葉が通じないので、もちろんジェスチャーでだが-快く了解してくれた。まずはおじさんと女の子の写真を撮り、今度は自分と女の子の写真を撮ってもらう。ここは観光地ではないので、日本人などめったに来ることはないのだろう。「日本から来た」と言って、持っていた日本の絵葉書を女の子にプレゼントすると、おじさんがとても喜んで、お店のお菓子を包んで持ってきてくれた。コーヒーも飲んでいけという。ポルトガルと日本との小さな出会いである。

 思い切って声をかけてみてよかった。相手はポルトガル人。言葉が通じないので気後れがして、なかなか声をかける勇気が出なかったが、声をかければ気楽に応じてくれるのだ。

 今回の旅は巡礼者が少ないので、人と出会い、触れ合う機会があまりないが、こちらから積極的に働きかければ、触れ合う機会は増える、引っ込み思案では駄目-そんな感じを強く持った。

 

(ポルトガルの青年と話す)

2171)6月13日、MEALHADAへ向かう途中のMALA村のカフェで一休み。農家のおじさんらしき人が一人、コーヒーを飲んでいた。椅子が4-5ヶの小さな店で、ハムサンドと缶入りのリプトン紅茶で2.10ユーロ。

店を営む青年が声をかけてきた。

 どちらも英会話が不得意で、ポルトガル語の辞書も引きながら、つたない英語で話をした。となり町のANADIA大学の化学部を出たが、職がなくてこの店を開いたという。もらった名刺には「Padaria(パン屋) Nossa Senhora Das Candeias」とあり、店の奥でパンも焼いているようだ。私のほうは自己紹介のカラーコピーを渡して、家族の状況や日本の風景を説明。

 意思疎通が難しくて時間がかかり、結局、それ以上の話はできなかった。

10362)6月21日、PONTE DE LIMAへ行く途中、午後の数時間、ポルトからサンティアゴまで歩こうとしている27歳のポルトガルの青年と一緒に歩いた。  

大学は出たが定職がない、今回は生まれて初めての大旅行、パラグライダーが大好きでサッカーは嫌い、日常、イギリス人は紅茶を飲むがポルトガル人はワインを飲む、祖父は1日に1Lのワインを飲むなどの話を「かたこと」の英語で話してくれた。

「ポルトガルにはなぜ缶コーヒー等の自動販売機がないのか」と聞くと「どこにでもカフェがあるからさ。村にも必ず数店ある」とのこと。そして、冗談で自販機を揺するマネをして、「代金を機械から盗む奴がいるから」とも言っていた。

数時間も続けて現地の人と話したのは初めて。彼が何を言っているか分からないときは何度も確かめたり、また、こちらが何か言うときは頭の中でどう話すかを整理したりと頭を使ったので、周りの景色を鑑賞する余裕はなく、最後はかなり疲れてPONTE DE LIMAに到着。

「シュラフを持っているので野宿をする」と言う彼とはそこで別れた。

 

(日本人の巡礼者2組に会う)

・6月1日の朝、オリエンテのユースホステルで日本の方に声をかけられた。小野さんという郡山市の64歳の男性である。4月4日にサン・ジャン・ピエドポーをスタートし、5月7日にサンティアゴに到着。その後、列車とバスで約1ヶ月間、ポルトガルを旅してきたとのこと。その中で、ファティマ(ポルトガルの聖地)に行った5月13日はちょうど「聖母出現祭」(ファティマのお祭り)の当日で、詰めかけた大群衆に感動したとの話を伺った。また、帰国後、「初めてのカミーノでしたが、すっかり取りつかれてしまい、また、季節やコースを変えて歩きたいと思っています」というメールをいただいた。

・サンティアゴのアルベルゲでは川越市の荻野さんご夫妻にお会いした。サンティアゴ巡礼に魅せられて、最近5年間、毎年、来ているとのこと。フランスのアルルからの道がすばらしいので是非歩きなさいと進められた。その他、同じ巡礼者として話は尽きず、アルベルゲの食堂兼談話室で夜遅くまで話がはずみ、とても楽しかった。


(巡礼者を泊めるのに熱心な民宿のおじさん)

 車が通りかかり、おじさんがペンションをPRするカラーのチラシをくれた。「是非、泊まってほしい」とのこと。しばらく歩いて行くと、別の車が止まり、別のペンションのチラシをくれた。「いくら」と聞くと「10ユーロ」とのこと。自家用車でペンションのPRをする人なんて、今まで会ったことがない。この2つ、ジョンの案内地図には載っていない新しいペンションである。

 

 

(気楽な巡礼旅-マドリッドから90人の一団) 1375
 トゥイからスタートして1時間余り、マドリッドから来た団体の方々と一緒になった。毎年、希望者を集めて団体で巡礼に来ているという。今年の参加者は年齢が18歳から86歳までの90名。トゥイからサンティアゴまでは5日間の行程だが、毎日18kmを目処に歩き、その距離を歩き終わると貸切バスが迎えに来て宿舎まで運ぶとのことだった。

その一行であろう。強烈な日差しの中、5-6人のおばさんがおしゃべりをしながら歩いていた。ザックは持たず、身軽な感じ。その一人がぱっと赤い日傘を開くと、もう一人のおばさんが青い日傘を開いた。自宅から買い物にでも行くような感じ。日傘を差して歩く巡礼なんて初めて見た。こんな気楽な巡礼のやり方もあるのだ。

                          (町の人・村の人)

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(サッカーを観戦)

 今回はちょうど国別のヨーロッパ選手権が開かれているときだった。ポルトガルも、スペインも勝ち上がり、自国が出場する日は、国中、大騒ぎ。日本なら、自宅でのんびりと一人で、あるいは家族で楽しむのが普通なのに、ここでは町の人達全部がカフェの大型テレビ画面の前に集まってくる。おじいちゃんも、おばあちゃんも、あかちゃんも、子供達も一家総出である。1.5ユーロのビールを飲みながら、近所の人達とわいわい、がやがや。得点が入れば、太鼓をたたいたり、抱きあったりして大騒ぎ。私もそんな雰囲気に魅せられて、飲めないのにビールを頼み、その輪に加わった。

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(サンティアゴに到着して喜ぶ人達)

 サンティアゴ滞在中の4日間、毎日、数時間、大聖堂前のオブラドイロ広場に出かけて広場の片隅に腰を下ろし、目的地に到着して喜ぶ巡礼者を眺めて過ごした。その喜ぶ姿を自分に重ね、心に刻みつけておきたかったがためである。

 広場に入ってきた人達の多くは、まず、大聖堂の正面に立って、しばらくの間、じっと大聖堂の高い尖塔を見上げ、「やっと来た」という感慨にふける。肩を組んで見上げる夫婦も。そして、大聖堂をバックに写真を撮る。韓国の若者の一団は全員でジャンプをしたところを写真に撮った。スペインの少女の一団は肩を組んで写真を撮った。

 その後も、まだ大聖堂に入らずに、広場に座り込んだり、寝転んだりして、喜びを噛みしめる人達もいる。

~5人の家族の一団が父親を囲んでいつまでも動かない。「家族皆で、とうとう目的地までやってきた」という喜びからであろう。父親が泣いている。涙が溢れて止まらない。家族は父親が泣き止むのを静かに待っていた。

 なお、巡礼中に親しくなった人達と広場で出会わないかと期待したが、今回はフランス人のご夫婦、スペイン人のご夫婦、ドイツの中年の女性にお会いしただけだった。

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Ⅶ.その他


(お守り-娘と孫から)

 旅の間、娘と孫からもらったお守りを身に着けて歩いた。
(孫の文章)
 「じいじ、元気でいてね。わたしはじいじが帰ってくるのをたのしみににしています。ポルトガルってどんなところかわかんないから、帰ってきたらおしえてね。ふうなより」、
 「いつも水木金ようびのどれかにきて、150円くれたり、プールにいっておかねだしていっしょにおよいだり、かえりには120円でアイスかったり、かわなかったら100円のじゅーすとか150円の?をかったりしてくれてありがとう。いつもげんきでね。そうたより」
 

 娘のそれは初めての巡礼でもらったもの。すべての巡礼に持参した。
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Ⅷ.三つのサンティアゴ巡礼を振り返って

1.サンティアゴ巡礼の魅力 

 サンティアゴ巡礼の魅力に惹かれて、徒歩やときには自転車でサンティアゴを訪れる巡礼者の数(巡礼証明書の枚数による。後記)は2000年-2005年で倍増し、その後の4年間も5割増と急増している。

 その魅力はどこにあるのか。まず、これまでの3回の巡礼経験を基にして、私なりに感じたその魅力を紹介しておこう。

1)カミーノの最大の魅力は、世界各国から来た巡礼者や地元の人達と多くの出会いがあること。今でもそれらを懐かしく思い出す

 なお、私はほとんどできないが、英語やスペイン語、あるいはフランス語、ポルトガル語の会話ができて、更にワインが飲めれば、その楽しさは倍加すると思われる

2)特徴のある宿に泊りながら、森や川などの自然をゆっくりと鑑賞し、また、旅行会社のツアーでは訪れることがない異国の小さな町や村の雰囲気に触れるという旅である。

 たとえば、

・廃村のアルベルゲ(普通のアルベルゲは2段ベットだが、ここは真っ暗な屋根裏が寝場所。天井が低くて這って動いても頭をぶつけるほどだった)、

・プールのあるジット(フランスではプールのある宿に2回ほど泊り、大好きな水泳を嬉々として楽しんだ)、

・宿の主人がバンジョーを弾いてくれるジット(食事の後、1時間ほど弾いてくれた。私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェストし、皆で一緒に歌ったが、なぜか懐かしさがこみ上げてきて、思わず涙ぐんでしまった)、

・宿泊費が無料のポルトガルの消防署(ベッドや毛布はない。借りられるのはマットだけ。それを誰もいない広い講堂の片隅に敷く)

などに泊った。

 また、小さな村では道に広がる牛の群れをドイツの若い女性とかき分けて進んだり、巡礼の最終地フィニステラでは、砂山に腰を下ろして大西洋に沈む夕日となぎさに遊ぶ巡礼者を眺めたりした。

3)手作りの旅が楽しめる。

すべての計画を手作りで行う旅。それだけに事前の調査はたいへん。また、乗り物や宿屋の手配も自分で行うし、旅行先で何か困ったときは自分の力で解決しなければならない。手数はかかるが、それが魅力でもあり、添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

出発前の数週間のワクワク・ドキドキ感はたまらない。「ワクワク」と期待で胸が膨らむ一方で、「道は分かるか」「足は痛まないか」「言葉が分からなくても意思は通じるか」などの心配は尽きず、はたしてサンティアゴまでたどりつけるだろうかと不安になることもある。こんな「ワクワク感」、人生ではめったに味わえない。

4)旅費が安上がり(2012年夏・100円/ユーロ)。

 ・アルベルゲ(スペインの巡礼宿。1泊5-7ユーロ。無料の場合もある。私営の場合は10ユーロ前後)や消防署(ポルトガルのみ。無料)を利用すれば、宿泊費は安上がり。フランスの宿・ジットやポルトガルで一般的に利用するペンションはやや高めだが、それでも日本の宿泊費(地方ホテルの素泊り5千円以上。山小屋1泊2食8千円以上)と比べれば極めて安い。

  なお、アルベルゲが安いのは教会や市民の無償奉仕、巡礼者のお手伝いなどで成り立っているためである。

 ・朝と昼の食べ物をコンビニで買えば、1食2-3ユーロ。

 ・夕食はレストランで8-10ユーロ。

 ・スペインの場合、上記で試算すれば40日間の宿代と食費の合計は800ユーロ、約8万円。

 ・このほか、航空運賃、空港までの鉄道・バス運賃、みやげ代などが必要。

5)道に迷うことはない。

 ・地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、日本で購入できる。

 ・分岐点には黄色い矢印などの道標が必ずある。

6)誰でも歩ける。

 脚力に応じて道を選べば、足弱の人(子供連れや高齢者)でも歩くことができる。

・どこから歩き始めても良い。

・1週間だけ歩いて帰ることもできる。

・一日の行程のうち、一部にタクシーやバス、あるいは電車を利用し、残りを歩くという方法もある。

・「フランス人の道」については宿と宿の距離が短く(5-10km間隔)、脚力に合わせて1日の行程を決めることが可能である。

7)英語やスペイン語・ポルトガル語などの会話ができなくとも歩くことができる。

宿の人、地元の人は外国の旅人に慣れており、宿を取ること、食事をすること、買い物をすることなどについては、ジェスチャーで意思を伝えることが可能である。

 自分で食べたい食事のメニューや旅で必要な最低限の単語をあらかじめメモして持参すれば、なおよい。

 もちろん、会話ができればもっとよい。旅の楽しさは倍加する。

8)以上のように魅力あふれる旅なので、年々、巡礼者が増加している。

サンティアゴの巡礼事務所に巡礼証明書(巡礼を終えたことを証明するもの。巡礼事務所までの最後の100kmを歩くことが必要。自転車や馬でもよい)を貰いに来た人の年間総数は、巡礼者が急増する「聖年の年(特別なお祭りがある)」を別として、1990年4,918人、2000年55,004人、2005年93,924人、2009年145,878人と大幅に増加しており(うち、アジア人は少ないながら、2005年の398人が2009年には2415人に増加)、今後、その数はますます増加すると見込まれる。

なお、聖年の年で見ると1993年99,436人、1999年154,613人、2004年179,944人、2010年272,135人となっている。

注)最新の2012年の統計では、日本の860人に対して韓国は2493人と多く、国別では11位に入っているとのことである(日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会による)。

 

2.3つの巡礼路を比較して  

 次に、これまでに私が歩いた3つの巡礼路を比較しながら、自分が見た範囲で「ポルトガル人の道」の特徴を紹介したい。


景色:展望を楽しむところは少ないが、昔の雰囲気の残る道が見どころ>

景色は「フランス人の道」が最も良い。1500mの峠を3つも越えるし、丘陵地帯では樹木の生えていない稜線を歩くことが多いので、遠望も楽しめる。

これに対し、「ポルトガル人の道」は峠越えと言っても、せいぜい標高200m-400mの高さを数回越えるだけ。しかも山林の中なので遠望は効かず、景色の良い所は少ない。

ただし、「ポルトガル人の道」はローマ時代の道や中世の道が当時の石畳や石垣とともに残るところが多いので、昔の道がどんなものだったか、その雰囲気は十分に味わうことができる。

 なお、ル・ピュイの道は丘陵の上の、樹木が少ない牧草地や畑地を行くことが多いので、景色は良い。ただし、あまり昔の道という雰囲気は残っていない。

<参考・「ポルトガル人の道」の地形>

ポルトガル人の道の前半は平地。広い畑の中の土の道や町のアスファルトの道を延々と歩くことが多く、景色が単調でやや飽きる。

後半は標高の低い丘陵地帯。ゆるやかなアップダウンを繰り返しながら、町や村、畑や林の中を行く。

ただし、丘陵地帯では、標高が低い割りに湧き水が随所にあり、川の水がきれいで、緑の水草がゆれているのが印象的だった。


<道:迷うことはないか>

1)3つの巡礼路はどれも、地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、それらが日本で購入できる上に、道標が整備されているので、迷うことはほとんどない。特に「フランス人の道」は分かりやすい。
14262)「ポルトガル人の道」も、後記3)のように数カ所だけ分かりにくいところがあるが、全体的にはほとんど迷うことはない。

地図については下記の英語版がある。

A Pilgrim's Guide to the Camino Portugues: Lisboa, Porto, Santiago

John Brierley (ペーパーバック・208頁)

私はインターネット上で書籍販売を行う「アマゾン」でこれを入手した。615.6kmの行程を23日間で歩くように地図23枚が掲載されたもので、分岐点、舗装されている道と舗装されていない道の区分、川や橋、標高などが載っており、歩く際にはたいへん参考になった。

なお、他の二つの道の地図については、John Brierley版も発行されているが、それとは別に現地語の地図も入手可能で、それらは約750kmの行程を70枚から90枚の地図で表しており、上記地図よりは更に詳しいものである。

3)ポルトガル人の道の分岐点にも黄色い矢印など、サンティアゴへの道標がほぼ必ずある。
4)今回、私は何回か道に迷ったが、たいていは道標の見落としによるものである。ただし、地図が間違っていたことが1回、道標が見当たらなかったことが1回あった。それらの点は下記に具体的に書いておくので注意されたい。

●次の道標がなかなか出てこないので、道が違うことに気がついて引き返したり、また、町の人に呼び止められ「道が違っている」と教えられたりしたが、これらは道標の見落としが原因だった。

 四つ角等の曲り角に来たときに次の道標に出会わなかったら、道に迷ったのである。必ず引き返さなければならない。巡礼者用の地図には巡礼路周辺の町村や道は掲載されていないので、迷って周辺の町に入り込んだ場合は、その地図に頼ることができず、自分がどこにいるか全く分からなくなる。要注意だ。

●ご夫婦と娘さんの3人家族と一緒になり、話しながら歩いているうちに道を見失うということがあった。彼等と別れるときに「この道を行けばよい」と教えられたので道標がないのに歩いて行ったのだが、いつまで行っても次の道標が出てこず、完全に迷ってしまった。巡礼者用の地図にある町の名前を示して「ここに行くには」と何人かに聞いたが、よく分からない。結局、車で次の町まで運んでもらった。

地図が間違っていたことが1回ある。6月5日、GOLEGAの町の中心から郊外へ行こうとしたが、地図に間違いがあって、やや迷った。地図では、N-243に出るとそれを渡って細い道を直進するようになっていたが、直進しているのは広い車道であり、細い道はなかった。車を止めて2人の人に聞いてやっと分かったことだが、実際はN-243に出たら右折し、5分ほど行ってから左折して細い道に入るのが正しかったのである。

●6月9日、ALVAIAZEREに向かって歩いているときのこと、森の中の赤土と砂利の道を行くと十字路に出た。どちらへ行くか。道標がどうしても見当たらない。次いで、巡礼者の靴跡を探して道を特定しようとしたのだが、それもはっきりしない。地図上には十字路の掲載はなく、道は直進するようになっていたので思い切って直進することにした(あとで知ったが左に曲がるのが正しかった)。しかし、いくら行っても黄色い矢印に出会わない。間違ったと思い、斜面を左方に登っていくと舗装道路が見つかり、その道を行くと村に入った。巡礼路から右へかなり離れたようで、村は手持ちの地図には載っていない。どうしよう。まず、自動車関係の小さな工場のおじさんに巡礼路の地図を見せて聞いてみた。おじさんは地図を何回か書きなおして、最後に書いた地図を渡してくれたが、どうも信用できない(あとで分かったが、この地図は間違っていた。おじさんの地図の通りに行けば巡礼路からもっと離れていただろう)。更に数分行ってカフェに入り、中年の主人に聞いてみると、しっかりした地図を書いてくれた。こちらのほうが信用できそうだ。地図のとおりに30分ほど歩くと巡礼路に戻ることができた。

道に迷ったときは数人に聞いて、どれが正しいかを自分で判断する必要があるようだ。


<宿について>

・宿泊代が安いのはアルベルゲ。次いでジット、ペンションの順

 上記Ⅰの4)を参照されたい。特別なものとして、ポルトガルの消防署がある。無料。

・「ポルトガル人の道」は、巡礼者との出会いの機会は他よりやや少ない。

 まず、巡礼者の数を見てみれば、サン・ジャン・ピエド・ポーからサンティアゴへの「フランス人の道」は、他の道も含めた巡礼者数全体の約7割を占めており、たいへん多く、出会いの機会も多いと言えよう。更にこの道で巡礼者が泊まるのは「アルベルゲ」であり、これは数人から数十人が一部屋に泊る形態なので、そこでも出会いの機会がある。

 これに対し「ル・ピュイの道」は巡礼者の数が少ない。ただし、巡礼者は「ジット」というフランス特有の宿を利用し食事を共にすることが一般的なので、会食を通して他の巡礼者と親しくなれるという特徴がある。

一方、巡礼者の数が少なく(リスボン-ポルトの間は特に少なかった)、また、行程の前半は個室泊りのペンションなので他の宿泊者と顔を合わせることがほとんどなくて、出会いの機会は前2者よりは、はるかに少ないように思う(アルベルゲが現れるのはポルトガル国内では最後の4日間であり、あとはスペインに入ってから)。

 なお、私にとっては、言葉が通じないことも出会いの機会を少なくする要因だった。ただし、言葉がうまく通じなくとも、勇気を持って積極的に話しかけていけば、出会いの場をいくらでも増やすことは可能。

・それと宿から次の宿への距離が遠いことも特徴と言える。
 たとへば、サン・ジャン・ピエド・ポーからサンティアゴへの「フランス人の道」には、ほぼ5-10km置きにアルベルゲがあり(ただし、ピレネー越えなど、いくつか例外はあるが)、子供連れ、足弱の人などにとってたいへん歩き易いのに対し、ポルトガル人の道は、次の宿がある町までの距離が長く、1日に20-30kmを(ときには1日に34kmも)歩かないと次の宿に着かないことが多い。

 

<参考・巡礼路別巡礼者数-国籍別を含む>

 聖年の年・2010年の1年間に巡礼証明書(前述)をもらいにきた巡礼者の総数は272千人であり、うち、最も一般的な「フランス人の道」が189千人とたいへん多いのに対して、「ポルトガル人の道」を歩いた人は34千人と少ない。なお、これらは最後の100kmを歩いてサンティアゴまで到着した人の数であって、これらの道の途中だけを歩いて帰宅した人は含まないので、それを入れればこの道を歩いている人の数はもっともっと多い。

また、「ポルトガル人の道」の出発地別内訳は、リスボン718人、ポルト5,894人、トゥイ18,121人などであり、リスボンから出発する人が極めて少ないこと、行程の途中から増えてくること、特にスペインに入ってからの最初の都市・トゥイから歩く人が多いことなどの特徴がある。

一方、「ル・ピュイの道」については、この年にル・ピュイを出発点としてサンティアゴまで約2ヶ月の長距離を歩き通した人の統計しかないが、3,280人と、リスボンからの出発者の約4倍となっている。ル・ピュイの道を歩く人はフランス人の道よりはるかに少ないが、私のようにサン・ジャンまでの人や途中の数日間のみをハイキングする人も合わせれば、ポルトガル人の道よりはかなり多いと推定される。

 なお、巡礼者総数272千人の国籍別内訳は、スペイン188(単位千人。以下同じ)、ドイツ15、イタリア14、フランス9、ポルトガル8、イギリス2、アメリカ3、カナダ2、ブラジル2などであり、日本人のみの統計はないが、日本、韓国、中国等を含めたアジア全体では2,462人となっている。

 

<日程詳細>

 

(5月29日)

成田発12:05-モスクワ着17:10、モスクワ発19:15-マドリッド着22:25。着後、夜も遅いので安全のために、予約したホテル・チャマルティン(チャマルティン駅構内にあり)までタクシーを利用。ホテルに着くと、タクシーの運転手は、メーターが25ユーロを示しているのに、メモ書きで38ユーロを請求してきた。言葉が通じず、抗議ができない。だまされたように思うが、やむを得ず支払った。空港のタクシーでも不正をするようだ。

(5月30日)

朝はゆっくりと寝て、朝食ものんびりと味わう。ホテルの朝食バイキングはとてもおいしかった。

駅前の手荷物預かり所に荷物を預けて、市内観光へ。

まず、プラド美術館裏のレティーロ公園へ。これまでマドリッドには2度来たが、治安が悪いと聞いていたので、人通りの少ない公園には足を踏み入れなかった。でも今回は晴天で、多くの人が散策を楽しんでおり、また、こちらは何も持たずに身軽。公園に入ると緑が豊かだった。樹木の中をあちこちと散策。気持が良い。アルフォンソ12世の騎馬像が立つ池にはボートや小さな遊覧船が浮かぶ。公園の広さはNYのセントラルパークの1/4位だろうか。

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  次いでプラド美術館へ。3回目。今回初めて、「この美術館の展示はスペインの3大巨匠、エル・グレコ(16世紀に活躍)、ベラスケス(17世紀)、ゴヤ(18・19世紀)が中心であること」を知った。

 夜は中国人経営のレストランへ。街頭の看板で「すし」が食べられるとあったからだ。でも期待はずれ。小さく握った、とても酸っぱいおすしが数個で10ユーロ、ぜんぜん美味しくなかった。

その後、マドリッド・チャマルティン発2225の夜行寝台列車「ルシタニア号」(2等・87ユーロ)でリスボンへ。4人部屋。中国人と同室だった。

(5月31日)

列車はリスボンのサンタ・アポローニア駅に737着。

構内には小さなカフェ以外に店なし。その店でエスプレッソとサンドイッチの朝食(合わせて3ユーロ)を食べたあと、まずは、巡礼手帳に出発地の印をもらうために1km先の「カテドラル」を目指す。

はじめてのポルトガル、はじめてのリスボン。道の左は海のように広いテージョ河。右は見上げる斜面にビッシリと家々。急な階段のはるか上には教会の丸い屋根が望める。道路沿いには紫の花をつけたジャカランダの木があった。

「カテドラル」で印を押してもらったあと、裏庭にあるローマ時代の遺跡を見学。

そのあと、近くのサン・ジョルジェ城を見物。
  午後はカイス・ド・ソドレ駅まで歩き、列車でベレン駅へ。発見のモニュメント、ジェロニモ修道院、ベレンの塔を見物。塔のそば、林の中のカフェで一休み。

夕方、日本で予約しておいたオリエンテのユースホステルへ。オリエンテ駅で下車して探すが、分からずに通りすぎてしまい、散歩中の若い夫婦に聞くと親切にホステルのフロントまで案内してくれた(フランシスコ・フェルナンデスさん。帰国後、彼からメールあり)。

(下:最初の3枚はリスボンのサンタ・アポローニア駅前。5枚目は巡礼手帳に出発地の印をもらうために行った丘の上の「カテドラル」正面) 


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(下:広大なテージョ川の河口を望む)
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(下:サン・ジョルジェ城)
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(「発見のモニュメント」「ジェロニモ修道院」ほか)
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(6月1日)

朝、同じユースホステルに宿泊していた郡山市の小野さんという男性に声をかけられて話をする(前述)。

話したあと、「オリエンテ→ALVERCA do RIBATEJO」に出発。

ただし、74歳という年齢のこと、前回の巡礼旅から3年が経過していること、この3年間、登山に行くペースが落ちて体力が低下していることなどを考えると、荷を背負って長距離を歩く自信がなかった。そこでまず、最初の5日間は荷の半分をユースホステルに預け、荷を軽くして歩くことにした。しかも、その5日間を二つに分けた。2日間歩いたら列車でいったんオリエンテの宿に帰って一休みし、そのあと、次の3日間の行程を歩き、またオリエンテの宿に戻ることにしたのである。

きょうは巡礼初日。旧万博跡地(オリエンテは1998年にリスボン万博が行われたところ)に建つマンション群を抜け、対岸が見えないほどに幅の広いテージョ川の川岸へ。まず、岸に沿って気持ちのよい遊歩道を1時間ほど歩く。散歩をする人が多った。

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  次いでテージョ川の分流沿いに、舗装がされていない、草深い道を8kmほど歩く。舗装道路へ出たところで、工場の前に出ていた屋台で一休み。次に小さな町に入り鉄道を越え、ゴミの埋立地に入る。臭かった。これを越えて広い原野へ。人影は全くない。

1日目の目的地・ALVERCA do RIBATEJO駅に着いたが、気分転換を図るために、2日目の目的地・AZAMBUJA駅まで列車で行くことにした。

AZAMBUJA着。地図に載っていたペンションは閉まっていた。広場でたむろしていたおじさんの一人が「英語が少しできるので、案内してやろう」と宿屋らしき家を数軒回ってくれたが、どれもだめ。やっと見つかり、そのペンションに泊る。

なお、巡礼路できょう歩かなかった「カテドラル」-オリエンテの間については別途、6月6日に歩くこととした。

(6月2日)

2日目、AZAMBUJAからALVERCA do RIBATEJOまで、巡礼路を逆に歩く。

最初は国道(N-3)を7kmほど歩き、次いで国道を離れ、かなり広い車道を12km。途中、鉄道の駅の石段に座って一休み。VILAFRANCA de XIRA の町からはテージョ川沿いの舗装された約4kmの遊歩道に入る。昨夕、車窓から眺めた、まっすぐで歩きやすい遊歩道だ。終わってN-10へ戻り、目的地の駅まで6kmを行く。

ここから列車でオリエンテに戻り、ユースホステルで1泊。

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(6月3日)

朝、列車でオリエンテからAZAMBUJAへ。きょうの目的地はSANTAREM

まずは舗道を30分。次いで左に折れ、畑の中を2時間行くと、テージョ川の堤防にぶつかり、あとは延々と5時間ほど堤防沿いに行くことになる(もう片側は畑)。途中、小さな町に入ると堤防が舗装されていて、その上を歩くこともできた。

牧場で飼われているダチョウを見たり、農家の人に採れたてのサクランボをもらったりしたのも、この日。

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SANTAREMでは泊まろうと思っていたペンションが閉まっていたり、見つからなかったりで、結局、家族経営のホテルに泊った。フロントの若い奥さんに宿代を聞くと「フィフティー」とのこと。「フィフティーン」と聞き違えて、15ユーロを出すと首を振られた。50ユーロだったのだ。「え、ホテルってそんなに高いの」というのが実感。

そのあと、持っていたアルファー米を食べるのにお湯が必要で、ホテルのおばあちゃんに頼んだが、「湯が必要」の意味が理解してもらえず、結局、自分で台所に行き、ヤカンで湯を沸かすこととした。ところが、ガスの栓をひねっても火がつかない。おばあちゃんに聞くと、自動点火ではなく、マッチで火を付けるとのこと。ポルトガルの生活の近代化は遅れているのだ。お湯を沸かすだけでも、たいへんな苦労だった。

(6月4日)

丘の上の町を下りて、朝日が差す広い畑の中へ。昨日に続いて、延々と畑の中を行く。町の中のカフェで一休み。その後も畑の中。畑ばかりの景色に変化がなくて、やや飽きた。

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GOLEGAの町に着く。しかし、宿が見つからない。町中をうろうろしていたら、偶然、消防署の前に出た。日本で「ポルトガルの消防署はタダで泊まれる」と聞いていたので、消防服を着た女性に思い切って聞いてみると「泊まれる」とのこと。ホットした。ここに泊まることにする。

(6月5日)

最初、GOLEGAの町の中心から郊外へ行こうとしたが、地図に間違いがあって、やや迷った(前述)。

TOMARまで歩いて、夕方、列車でリスボンのオリエンテに戻り、前に泊まっていたユースホステルに泊る。

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(6月6日)
 シントラまで列車で行き、バスにてロカ岬へ。
 夕方、巡礼路でまだ歩いていなかった「カテドラル」-オリエンテの間を歩く。

(6月7日)
 朝、トマールまで列車で行き、巡礼を再開する予定だったが、国鉄はストライキで運休だった。オリエンテのバスターミナルに行って、トマール行の長距離バスがないかと探すが、そこにはなくて、市中心部のセッテ・リオス・バスターミナルにあるという。地下鉄でそのバスターミナルへ。しかし、夕方発のバスしかなくて、結局、この日にトマールまで行くことはあきらめた。

気分転換に市中心部の別のユースホステルに今夜の宿を取る。そのあと、エドゥアルド7世公園を散策し、更にグルベンキアン美術館で古代エジプトやギリシャの美術品、中国清朝の陶器、日本の蒔絵、15世紀以降のヨーロッパ絵画を鑑賞した。

(下:エドゥアルド7世公園)
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(6月8日)

地下鉄でオリエンテへ。更に列車でTOMARへ。「Ì」で宿を聞くと「消防署」を紹介してくれた。

消防署に荷を置き、有名なキリスト修道院などを見物。

レストランで夕食のとき、席が元ドイツ軍人のおじさんと隣合わせになり、思い切って声をかけた。サンティアゴまで行くという(前述)。

TOMARの消防署泊。

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(6月9日)
 6月5日まで、荷を軽くして5日間の行程を歩いたが、何とか歩けた。やや自信がついたので、きょうから荷をすべて持って巡礼路を歩くこととした。きょうはその第一歩である。

まず、森の中の赤土の道を行き、途中でハイウエイIC9の上を渡る。舗装道路に出たところでドイツ人のおじさんが追いついてきた。足が強くて早いようだ。一緒に喫茶店に入って一休み。店を出ると彼は先に行ってしまった。ここからは木々がまばらに茂る丘陵を越えて舗装道路が続く。いったん、N110に出て再び森の中の未舗装道へ。

ここで道に迷う。森の中の赤土と砂利の道を行くと、十字路に出たが、左折するところを直進してしまったのだ(前述)。

巡礼路に戻ってから、真直ぐの広い舗装道路を延々と歩いてALVAIAZEREに到着し、Residencial O Brazに泊った。

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(6月10日)
 6時30分スタート。小雨。村に沿って丘を登り、丘陵地帯の森の中を行く。同宿だった単独行のドイツ人男性とハンガリー人男性2人組に抜かれる。このほか、宿では中年のドイツ人女性2人組も一緒だったが、先に出発したようで、姿はなかった。

11km歩いて丘を下りるとANSIAOの町。ここにはいくつかのカフェがあり、その一つで一休み。ドイツ人女性の一人が足を痛めて足を引きずって歩いていた。この町で手当をするもよう。こちらは町を出て林の中を行く。いったん車道(N-348)に出るとカフェがあって、またコーヒータイム。次は林の中や畑の中を行くが、昔の道のままで、道端には苔むした古い石垣が続いていた。小さな村を過ぎると、今度は遥か遠くまで広がる荒野の道となり、日本では見かけないピンク、ブルーなどの花々が咲き乱れていた。

RABACAL着。博物館に隣接するResidencialに泊る。宿はここのみ。15ユーロ。この宿、着いたときは玄関に鍵が掛かっていた。前のカフェで聞くと「博物館の受付に頼むと、管理人を電話で呼んでくれる」とのこと。早速、受付の女性のところに行って頼む。管理人はすぐ来た。中はいくつも部屋があり、3つのベッドがある広い部屋を一人で利用。(下:2枚目の写真が泊った宿)

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(6月11日)

朝、一時雨。前半はまず、畑の中。小さな村を通り、山間に入って峠越え。全く人に会わず。コインブリガの遺跡(ローマ時代のもの)の脇で森が終わる。カフェで一休み。後半は小さな町や村、森の中を次々と通過。ほとんどがアスファルトの車道。ややアップダウンあり。湧き水がいくつかあって、小川には緑の川藻と魚影。国道(N-1)沿いの車道に入り、ローマ時代の水道橋をくぐって、ゆるやかに坂を上がると眼下にMondego川、向う岸の斜面にCOIMBRAの街が広がった。丘の上にはコインブラ大学の白い建物群。

COIMBRA泊。町のインフォメーションセンターで紹介された「Pensao Larbelo」に泊る。1泊25ユーロ。

(下:途中の道)

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(下:コインブラでの昼食)
 
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  (6月12日)

コインブラに連泊し、見物。

(6月13日)

6時20分、宿のおばさんに玄関の鍵を空けてもらって出発。空気はひんやりして冷たい。14-15度位か。初めは林の中。ポルトガルの青年が営むMARA村のカフェで一休み。お互いに英語が不得意。話をしようとするのだが、会話がなかなか通じない。大学を卒業したが、職がなくてカフェ兼パン屋をやっているという。

MEALHADA泊。町外れ、国道沿いにある「Pensao Oasis」に宿を取る。23ユーロ。

  (6月14日)

小さな町や村の舗装された道を行く。門柱に2匹のライオンの置物、庭に赤いマークを着けたキリストの石像などあり。
 町の中でややせまくて古い石畳がきれいに残る巡礼路に入る。古い石畳の道は、村では残るところが多いが、町の中で残っているのは珍しい。

Agueda川を渡って、AGUEDA泊。同名のレストランを経営するペンション「Pensao O Ribeirinho」に泊る。15ユーロ。(3枚目の写真は泊ったペンション)
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(6月15日)

朝の川面に緑の木々が映っていて、きれい。

坂を上がり、小さな町をいくつか通る。

ローマ時代の橋と池あり。

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ALBERGARIA-a-VELHA泊。消防署に行くと、すぐそばの教会を紹介された。そこに泊る。マットのみで、無料

鉄道の駅などを見物。線路は草ぼうぼう。やや錆びている。1日に1-2本しか列車は通らないようだ。

夕方、私が泊まる部屋に近所の子供達が数十人集まってきた。先生がキリスト教のお話をする子供集会のようだ。私はその間、邪魔にならないように外の高台で夕日を見て過ごした。

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6月16日)

最初は森の中。堂々とした、高さ5mのマリア像あり。

次いで線路の中を歩く。

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OLIVEIRA de AZEMEISの町へ。レストランで昼食。お菓子屋さんの子供と写真を撮る(前述)。


(左がお菓子屋さん)

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SAO JOAO da MADEIRA泊。町に着いて、まず、消防署を探す。何人かの人に聞きながらやっと探し当てて行ってみると、どの入口も閉まっていた。きょうは無人のようだ。通行人に聞くとお休みとのこと。「消防署にお休みがあるのだろうか。火事のときはどうするのだろう」と思ったが、仕方がない。あきらめて、結局、町のCentroに面した「Solar Sao Joao」というペンションに宿を取った。27.5ユーロ。


(6月17日)

車道から村の中の道へ。大きな公園のベンチで朝食。古い石畳の道が残っていた。

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VERGADAの町からGRIJOの町へと歩く途中で道に迷った。地元の人(娘さんとご夫婦)と道連れになり、おしゃべりをしながら歩いているうちに巡礼路を示す黄色い矢印を見失ってしまったのだ。その人達と別れるときに「そちらの道を行けばよい」と言われて指差された道を歩き始めたのだが、いくら歩いても黄色い矢印に遭遇しなかった。結局、車で通りかかった女性にGRIJOの町まで送ってもらった。

GRIJOから約9kmは森の中の石畳の道が延々と続く。石垣も崩れずに残っていた。森を抜けてからの町歩きも約2時間と長かった。やっとPORTOへ。 

携帯電話で前日に予約しておいた「Pensao Duas Nacoes」に泊る。

(6月18日)

市民市場などポルト見物。

(6月19日)

VILARINHO泊。午後、歩いているとそばに車が止まり、ペンションを宣伝するビラを渡された。更に歩いていくとまた別の車が。これもペンションの宣伝だった。どちらも中年の男性。ジョンの地図で、別にアルベルゲがあることは分かっていたが、宣伝されたペンションの一つに宿泊。個室・素泊り10ユーロ。

(6月20日)

手発して15分、車道をはずれて全長約100mの石造りの古い橋「Ponte de Zameiro」(車止めあり)を渡る。

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そのあと、ときどきは村や森を通るが、ほとんどは畑の中。畑と道の境には苔蒸した石垣が続く。多分、かっては多数の巡礼者が歩いた中世のものであろう。

目的地まであと9km、Pedra Furadaの町のレストランで昼食、6ユーロ。マスターに「ノートに日本語であいさつを書いてほしい」と頼まれて書く。このあと、道路でウルグアイ人の夫婦に会う。

BARCELOS市街に渡る橋の手前はBARCELINHOSという町。橋の手前にあるアルベルゲ(Residencia Gallo)に泊る。  

宿帳が談話室に置いてあり、それを見ると、6月17-20日の4日間に、ここを利用した人は25人。その国籍はポルトガル1、スペイン2、ドイツ7、イタリー3、ハンガリー2、スイス2、南アフリカ2、フランス1、オーストリア1、ポーランド1、スウェーデン1、アメリカ1、日本1の13ヶ国だった。巡礼者はヨーロッパを中心に世界中から来ているが(このあと、イギリス、カナダ、ブラジル、ウルグアイ、韓国等の人にも会う)、ドイツ人が多いこと、ポルトガル人が意外と少ないことなどが特徴と言えよう。また、この宿に泊る人は1日平均で6人位か。この町には他にいくつも宿があるので、1日にこの町を通過する巡礼者は10人を越えていると思われる。リスボンからの数日間と比べると、ポルト以降は、巡礼者がかなり増えているようだ。

夕方、対岸のBARCELOSへ。雄鶏伝説で有名な町(昔、無実の罪を着せられた巡礼者がいたが、雄鶏が鳴いて助かったという。みやげ店には雄鶏のマスコットが並んでいる)。岸辺の高台には15世紀の貴族の屋敷跡がある。

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小雨だったがときどき大降りになる。繁華街の店を見て歩き、「Ì」でスーパーマーケットの場所を聞いた。明日の食料の買出しである。5時頃、レストランを見つけて入ったが、7時開店と言われ、雨だったこと、宿から遠いこともあって、あきらめてアルベルゲに帰り、パン、バナナ2本、リンゴ1ヶで夕食をすませた。

(6月21日)

ちょうど木曜日。早朝のレプブリカ公園では、木曜だけ開かれる露天市が準備中で、近隣から多くの人が集まり、露天のお店を立ちあげているところだった。

町を過ぎても家が続く。教会前の広場に花びらで作った幅3m、長さ5mほどの絨毯あり。何かのお祭りだろうか。白、赤、紫などの花びらが日差しに映えて美しい。

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脇道から国道に出るところで道を間違えた。

午後、ポルトから歩き始めたポルトガルの青年と一緒になり、数時間話しながら歩く。話すといってもお互い英語が不得意なので、話がなかなか通じず、話す言葉を選んで話したり、何度も聞いて意味を確認したりしたので、たいへんに疲れた。

PONTE DE LIMA泊。サッカーのユーロ選手権準々決勝・ポルトガル対チェコの試合を部屋でゆっくり見ようと、テレビのあるペンションに泊ることにして、地図に載っているペンションに行ってみた。そこはレストラン。寝る真似をすると、店のウエイトレスがポルトガル語で何か言う。駄目と言っているようだが、理由が分からない。しばらく立ち尽くしていたが、ここはあきらめて、次のペンションへ。呼び鈴を鳴らすと、女主人が出てきたが「ここは満員」とのこと。結局、橋を渡ってアルベルゲ(5ユーロ。ベッドは1段式)に宿を取った。サッカーは町のカフェで観戦。

(6月22日)

きょうの行程は18km、宿の隣のカフェでコーヒーを飲み、8時に出発。

宿を出て、すぐ昔の石畳の道が残る畑の中を行く。マスの養殖をやっているカフェで一休み。きょうは標高400mの山越えが中心。自転車で山越えのポルトガルのおじさん二人に会い、写真を撮り合い、Eメールアドレスを交換。その他、フランス人の中年女性2人組、ドイツ人の若い女性2人組、韓国の単独行の若い女性、逆方向から来たカナダ人女性などにも会う。

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山は低いが後半は岩屑がごろごろした急登。でも、山に入ると急に元気になり、スイスイと足が前に出て何人かを追い越して登った。山は大好き。平地歩きは疲れるが、山は私に元気を与えてくれる。

山を下って、RUBIAES泊。小さな村。人家は少ない。村のはずれにある「Albergue de Rubiaes」に泊る。無人。夕方、管理人のおじさんがやってきて、巡礼手帳にスタンプを押してくれた。宿泊費は無料。宿泊施設はここだけなので、当日の巡礼者すべてがここに泊まった。15人位か。

イタリーとポーランドの女学生2人組と30分ほど片言の英語で話す。自己紹介のコピーを渡し、家族や登山の経歴(マッキンリーなど)を説明すると「私もそんな一生を送りたい」とのこと。日本の春と秋の風景の素晴らしさなども説明。向こうからは「ヨーロッパに来て、日本との違いで驚いたことは」という質問があったが、うまく答えられなかった。

更にイタリア人2人組(一人はヴェニスの人)とも話す。イタリアにもすばらしい巡礼路があるという。トスカーナの「La Verna」からローマ近くのアリエテまでの350km。是非、来てほしいとのこと。

5時過ぎ、レストランと食料品のお店を探して人家のほとんどない車道を下っていくと、1kmほどで2つともあって、ほっと一安心。翌日の食料を買い、レストランで食事。

(6月23日)

きょうは国境を越えスペインのTUIまで、歩程19.km。7時スタート。国道を離れて畑の中へ。石畳の道が延々と続く。中世から残る石畳と思われる。次は森の中へ。今度は苔むした石垣が延々と続く。終わって広い車道に出ると牛が群れる牧場があった。更に歩くとローマ時代の橋、ここでちょうど10km。サイクリングを楽しむ人達が追い抜いていった。後半は小さな町をいくつか過ぎる。

ポルトガル側最後の国境の町・VALENCAに入る。丘の上の城跡が旧市街で、道沿いに多くの土産物屋やレストランが並び、観光客で大賑わいだった。

鉄道と車道の共用で、端に歩道も通る鉄骨造りの長い橋を渡るとスペイン。きょうの宿泊地・TUI。カテドラル裏のアルベルゲに泊る。宿泊者は数十人。

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TUIから巡礼を始める人は多い。そのほとんどがスペイン人だ。なお、TUISANTIAGO間を5日間で歩くこのコースは手軽に歩けるので、短い距離を望む人にはお勧めかもしれない。

6月24日)

歩程31.kmREDONDELAへ。行程は長い。早朝7時スタート(ポルトガル時間の6時。時差あり)。まず、車道を1時間。スペイン人の親子3人など、巡礼者が急に増えたようだ。森を過ぎ、丘上の広場を越え、車道に出るとカフェあり。皆、一休み。次いで、工業団地の中を一直線に伸びる車道へ。約1時間の歩程。木陰が無くて日差しの暑さが身にしみる。足を保護するためにアスファルトを避け、道脇の草地を選んで歩く。前には単独行のドイツ人女性。この道が終わり、鉄道の上を鉄橋で越えると再び、広い車道。しばらく歩いてPORRINOの町の中心に着く。カフェで一休み。

町を抜け、丘を越え、急坂を下りて、目的地に到着。REDONDELAも大きな町。アルベルゲに泊る。宿泊者は数十人。

カフェはいたるところにあるが、夕食ができるレストランがなかなか見つからない。レストラン探しで一苦労。

(6月25日)

歩程18.kmPONTEVEDRAへ。

まず、村の中の車道を1時間。左方はるかに大きな湖が望めるところで、国道を渡る。マドリッドから来た90名の巡礼者団体がバスを下り、これから歩き始めるところにぶつかった。この団体とはこのあと数日間、後になり先になりして歩くことになる。

国道を渡って、森の中を登る。しばらく丘の中腹を歩いて、下りたところが先程見た湖の先端。1795年建設の石造りの長いSampaio橋を渡る。川面に真っ白なモーターボートが数隻浮かんでいて、美しい風景。

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昨日は日曜日で食料品の店が閉まっていたためにパンやバナナが買えず、今朝はまだ何も食べていない。やっと国道沿いのカフェへ。ここで朝食をと思っていたが、残念、閉まっていた。空腹のまま、歩き続ける。

丘に登り、森の中を通り、下りたところが湖。

ここから丘を登って下りたところに、村人が開いている2坪ほどの売店があり、そこでやっと朝食(ホットドック)にありついた。

更に進みPONTEVEDRAへ。大きな町。町の手前にあるアルベルゲには泊まらずに、町に入りペンションを探す。久しぶりにシャワー、ひげそり、洗濯などを行い、部屋でのんびりしたいためだ。まず、観光案内所「ツーリスト・オフィス」を探した。ジョンの「地図」に示された位置にはなく、更に通行人に聞いて移転したという場所にも行ってみたが、見つからなかった。結局、分からず、その近くのペンション「Casa Maruja」に宿を取った。15ユーロ。ともかく、いつも宿を探すのに一苦労だ。宿が決まらないと落ち着かない。

このあと、町を見物。ここでも、カフェが沢山ある中で、レストラン探しに一苦労。

(6月26日)

歩程23.kmCALDAS de REISまで。

Lerez川に架かる長い橋を渡ってスタート。村の教会を越え、鉄道沿いの森の中を1時間ほど進み、踏切を渡って朝食のために一休み。次は原野と畑の中の道。日差しをさえぎる物がなくて暑い。日傘を差す巡礼者のおばさんがいた。広い車道に出たが、またぶどう畑の中へ。村の広場で大きなトカゲに会う。四方から水が出ている赤い鉄製の噴水あり。

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 やっと目的地に到着。小さな石造りの橋を渡ったところにアルベルゲがあり、そこに宿を取る。そばを流れる小川が気に入った。堰で水を貯めた池があり、そこから小さな滝となって水が溢れている。中の島には緑の柳が2本、風に吹かれている。水はきれい。緑の川藻がゆれ、魚の黒い影が横切る。釣りを試みる人も。岸辺のレストランの壁にはこの風景を描いたアズレージョが飾ってあった。

(6月27日)

歩程18.kmPADRONまで。

始めの1時間は谷あいの森の中を行く。子供連れの家族も。次いで村の中、畑の中を行く。更に森の中を登って峠越え。奥多摩の山の雰囲気あり。

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町に入り、Ulla川を越えて30分で目的地。

巡礼路をはずれ、Sar川を渡ったところにあるアルベルゲに泊る。

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(6月28日)
 
歩程24.kmSANTIAGOへ。出発後、数時間は小雨が降り続く。
 
約8km歩いたところで大きな道(N-550)に出て、カフェで一休み。コーヒーだけ取って、持参のパン、バナナ、トマト、お菓子で朝食。

午後になって晴れる。道端の草むらに座って昼食。

ここから丘を越えると、谷の向こうにサンティアゴの町が広がった。目的地のサンティアゴ大聖堂の尖塔が見えないかと目を凝らすが分からなかった。
(左:はるかにサンティアゴを望む。右:サンティアゴの入口)
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 丘陵を下り、鉄道の線路を横切り、川を渡って市街地に入る。マンションが多く、現代の匂いがする大都会である。大聖堂はここからすぐかと思ったが、まだ先で更に1時間を要した。途中でレストランに寄り昼食。新市街で、旅人が寄らないせいか、マスターは旅人の扱いに慣れていず、メニューを書いた紙を見せて注文するのだが、意思がうまく通じず、結局、何を言っているか分からないマスターの言葉にうなずいて、その料理を注文した。サラダとジャガイモのみ。7ユーロ。注文したはずの紅茶と牛肉は出て来なかった。

大聖堂を取りまく旧市街に入る。両側に土産物屋やレストランが並ぶ細い路地は沢山の観光客で混雑していた。

まずは大聖堂を目指す。広い広いオブラドイロ広場、高い大聖堂の尖塔。大聖堂への階段を登り内部へ。栄光の門は工事中で、聖ヤコブの像を飾った柱は鉄柵に囲まれており、1000年の間、多くの巡礼者が指を触れ、その跡が窪みとして残っている柱には手を触れることができなかった。前回来たときは他の巡礼者にならって、この柱に手を触れ、頭を下げて旅の達成を感謝することができたのだが。それもあってか、今回はやっと到着したという感激は薄かった。

次いで巡礼事務所に行き、巡礼証明書をもらった後、しばらく街を散策。巡礼中に会った人達数人と出会い、再会を喜ぶ。
 その後、前回泊まった懐かしい神学校(Seminario Menor)に宿を取る。落ち着くので、大部屋にずらりと並ぶベッドではなく、個室とした。1泊17ユーロ(大部屋は12ユーロ)。
(左:大聖堂・祭壇の飾り。右:今回の巡礼証明書)
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(6月29)SANTIAGOに連泊。旅に出る前は、SANTIAGO到着後、西海岸のフィニステラまで3日間87kmを歩く予定でいたが、長旅の疲れがひどくて歩く気になれなかった。そこには1回目の巡礼のときにバスで行っており、今度は歩いてみようと思っていたのだが。きょうは、おみやげ選び中心。昼はレストランでパエリアを食べる。夜はコーン・フレークや牛乳、ハムなどを買い込み、地下のキッチンで自炊。
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(6月30日)

駅でマドリッド行列車を予約。

オブラドイロ広場からフェラドウラ公園へ。

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(7月1日)

「フランス人の道」を逆に歩いてモンテ・ゴソの丘へ。丘の上に立つ2人の巡礼者の銅像を見るためである。前回はその像を見逃しており、その後、日本で「手をかざして5km先の目的地にそびえるサンティアゴ大聖堂の尖塔を望み、歓喜する姿」との説明付写真を見て、是非行ってみようと思っていた。

でも、結局、設置されている場所が分からず、今回も見ることはできなかった。

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(7月2日)

きょうは夕方マドリッドに出発する日。

午前中は荷物をアルベルゲのロッカーに預けて外出。

玄関を出たところで、若い日本人女性と会う。「フランス人の道」を歩き終わり、大西洋岸の聖地ムシア(フィニステラから北へ海岸沿いに約28km)まで行くという。「アルベルゲの宿泊代は公営5ユーロ、私営7ユーロと数年前より値上がりしている」、「モンテ・ゴゾの丘にある巡礼者の銅像は、今は工事中で鉄柵に囲まれている」などの話を聞いた。

そのあと、オブラドイロ広場に行き、パラドール(スペインの最高級国営ホテル)でお茶を飲む。宿泊費は100ユーロを越えるが、コーヒーは2.40ユーロと安く、豪華な室内の一部を手軽に見ることができた。

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 あとは広場の端に座り、到着する巡礼者を見て過ごす。

午後、駅へ。16:10発で、マドリッド・チャマルティン駅21:45着の列車に乗車。

列車はスペイン中央の荒涼とした丘陵地帯を行く。ともかく広い。広大な畑と、はるか遠くまで家が一軒もない荒地の連続。富良野の比ではない。車内のコーヒースタンドに行き、窓辺に立って1時間程その景色を楽しんだ。これまでに歩いた所とは異なるスペインの別の顔を見た思いである

マドリッドでは日本人のご夫婦が経営する「EL Arbol del Japon に連泊。1泊28ユーロ。地下鉄の駅のそばで、中心街の「ソル」に近いところにある。駅に着いたのは午後11時に近く、宿のご主人が迎えに来てくれていた。

(7月3日)

スペイン観光に来ていた同宿の日本青年2人と、朝方少し話をしたあと、市内見物へ。

ティッセン・ボルネミッサ美術館を見たあと、スペインの代表的な百貨店「エル・コルテ・イングレス」に行きおみやげを買った。ちなみに、このとき買ったベルギー製のゴディバのチョコレートは、日本に帰って調べると値段がスペインの3倍(1ヶ約300円)だったので、びっくりした。

(7月4日)

地下鉄でマドリッド・バラハス空港へ。11:25発モスクワ行に搭乗。

 

 

 

 

 

 

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2012・5・29-「ポルトガル人の道」へ-3回目のサンティアゴ巡礼(準備編)

2012年5月・ポルトガル人の道・616kmへ

               -3回目のサンティアゴ巡礼(準備編)

○実施編は当ブログの<「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼>を参照されたい。 

(出発直前)

海外旅行の準備をほぼ終えて、5月27日()、野田の清水公園で孫の風奈、爽太、娘の直子と思いっきりフィールド・アスレチックを楽しんだ。パパは海外出張中。

 ファミリーコース(40ヶ所)、冒険コース(40)、水上コース(20)などがある。5-7mの高さをロープで登ったり、ロープを伝って空中を10mも渡ったり、水上に浮かんだいくつものイカダを飛んで渡ったり、と面白いものがいろいろあり、手のひらが真っ赤になるほどに一緒に楽しんだ。

 自分の子供時代の経験で、夢中になって遊ぶことが子供の心と体を育てると思っているので、孫をアスレチックのほか、プールやアイス・スケートに連れていくことがよくあるが、今回は出発直前の充実した一日となった。

(ポルトガル人の道へ)

74年を生きた。

若いときは、自分の人生は無限に続くように思っていたが、70歳を過ぎた今では「一生には限りがある。余生は短い」と実感するようになった。

生きられるのは、あとせいぜい10年程度であろうか。死ぬときは必ずやってくる。そんなに遠い将来ではない。最近、そんな思いがよく心に浮かぶ。

そんな中で、長く続けてきた視覚障害者登山の事務からある程度身を引いて、今は時間に余裕ができた。1月頃から妻が体調をくずし、一日中、妻に付き添う必要が生じて、視覚障害者登山の事務から離れたのだが、妻はその後、回復し、時間に余裕ができたのである。

チャンスだ。これまで、日本百名山やマッキンリー登山、サンティアゴ巡礼など、何かに挑戦することを一つの楽しみにしてきたが、「ポルトガル人の道」にも行きたいと思っていた。私の体力は下降傾向にあり、時間に余裕ができた今を置いてはそのチャンスはないと思われる。

それと、「マッキンリー登山」と「サンチャゴ巡礼」の記録を一冊の本にまとめてみたいという思いがあるが、その場合、ポルトガル人の道を歩いた記録を加えれば本の内容を一層充実させることができる。本にする目的は、人生にはこんなにすばらしい楽しみがある、苦しいときもあろうが、人生、捨てたものではないということを3人の孫に書き残して伝えること、それにマッキンリー登山やサンチャゴ巡礼を目指す人達に「登り方や歩き方」を伝えること、この二つにある。

(準備)

4月頃から「ポルトガル人の道」に行く準備を始めた。

 航空券(成田-マドリッド)、列車(マドリッド-リスボン)、宿(4泊分・ユースホステルが3泊)、国際携帯電話等を予約。

 歩くルートの詳細な地図、ポルトガル語辞典、ユースホステル国際会員証、巡礼手帳などを入手。

 ポルトガルの観光案内の本、15000円のウオーキングシューズ、5本指の絹の靴下、足のマメ対策の絆創膏、薬(胃薬、風邪薬、水虫用、バンドエイド等)を購入。

 雨具(ゴアテッックスとポンチョ)、カメラ、電池、磁石、つめ切り、耳かき、歯ブラシ、手ぬぐい、帽子、Tシャツ2枚、半ズボン1枚、着替え、文庫本数冊等も用意。

 これらをすべてザックに詰めてみたが、荷が重い。特に地図や辞書、観光案内書などの本が重い。いずれどれかを捨てねばならないだろう。それは現地で考えよう。

(地図の入手)

まずはインターネットで「ポルトガル人の道」と入力して調べてみたが、詳しく紹介したものは見つからなかった。

4月初め、インターネットを通じて、書籍販売の「アマゾン」で「ポルトガル人の道」を紹介した下記の本を見つけて購入。説明は英語。リスボン-サンテイアゴ、615.6kmを23日間で歩くように地図23枚が掲載されたものである。「スペインのフランス人の道」や「ル・ピュイの道」を紹介した本には地図が約200枚の地図が掲載されていてたいへん判り易かった。それに較べると、こちらは地図が少なくて判りにくいが、これが最上のものだった。

A Pilgrim's Guide to the Camino Portugues: Lisboa, Porto, Santiago

John Brierley (ペーパーバック・208頁)

(相談会で道の詳細を聞く)

4月13日13:20-14:20、会員になっている「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」の相談会に出席。昨年「ポルトガル人の道」を歩いた坂原さんが1対1で、いろいろ教えてくれた。

・分岐には、分かりにくいが、ほぼ目印はある。ただし、ル・ピュイの道よりは分かりにくい。また、巡礼者の姿はほとんど見られない。

・サンティアゴへの黄色の矢印のほかにファティマまでは青の矢印がある。その先には逆方向への青の矢印も。ファティマはポルトガル人の聖地とのこと。

・宿が開くのが16時以降の場合もあるので、開いていなくとも待つこと。近所のバルなどで聞くとよい。

(航空券を予約)

4月19日、航空券を予約。インターネットで調べ、更に柏市のHISに行き、格安航空券を探した。

韓国経由リスボン行き、ヨーロッパ経由リスボン行き、同マドリード行きなどの中から、結局、一番安いアエロフロート(モスクワ経由)マドリード行・114千円(燃油代込み。帰りの日の変更可能。1回15000円)を選んだ。マドリードからバスや列車で行くほうが、飛行機でリスボンに行くよりも安いようだ。モスクワ空港でいったん降りて体を伸ばすことができるので、ヨーロッパに直行するよりは体が楽という利点もある。

(宿と夜行列車を予約)

マドリードに22:25着なので、マドリードのホテルを予約。

更に5月7日、列車も予約。マドリードからの夜行列車「ルシタニア」リスボン行・2等寝台(5月30日、22:25発-7:30リスボン着。HISへの支払い代金11,600円)。乗車賃は高いようだが、宿代が込みであることを考えればそれほど高くない。

5月8日、ユースホステル協会の会員になるために、日本ユースホステル協会飯田橋分室(JR飯田橋駅に隣接するセントラルプラザ18階にある)に出かけて、会員証を入手した。これがあれば、世界中のユースホステルに泊まれる。

ついでに受付で、リスボン到着後の2日間の宿として市内のユースホステルを予約した(1泊15ユーロ、朝食付。100円/ユーロ)。場所を示す地図も打ち出してもらった。

帰って調べるとポルトガルにはユースホステルが44ケ所あるようだが、巡礼路沿いでは、リスボンに3ケ所あるほかは、コインブラ、ポルト位だった。

なお、リスボンであと1泊して観光を3日間することにして、自宅のインターネットを通じてユースホステルの予約を1泊追加した。

(名刺代わりに自己紹介状を作成)

ポルトガル語で以下の自己紹介状・カラー・B4版を20枚、作成して持参することとした。家族の写真を入れたほか、日本を紹介するために富士山と槍ヶ岳、桜の角館の写真も入れた。前回、前々回も作成しており、皆に喜ばれている。

TAKESHI TAMURA Japao(Ibaraki Toride-city) Idade 74

Familia Mulher Filha2、Filho1、Neta2、Neto.

PassatempoAlpinismo(Mt-FujiMt-YariMt-MckinleyMt-Mont Blanc)

Igo-recreio.

Camino:2003 Saint Jean Pied de PortSanntiago de Compostela

 2009 Le PuySaint Jean Pied de Port

2012 LisboaSanntiago de Compostela

(その他、準備)

・5月10日、国際携帯電話機を予約。

・5月11日、アシックス社のゴアテックス製ウォーキングシューズを購入。前回も前々回も同じものを使用した。

・5月11日、「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」を通じて巡礼手帳を入手。巡礼手帳は巡礼宿(アルベルゲ)に泊るときに必要。巡礼終了後にサンテイアゴで巡礼証明書を貰うときにも必要。以前はヨーロッパの教会で貰わねばならなかったが、「友の会」設立以降は、日本でも入手可能となった。

・5月11日、ポルトガル語辞典を探し、結局、「アマゾン」を通じて購入。

ポルトガル語は全く分からない、英語もできないので、辞書は必携である。

(航空券)

5/29 成田発 12:05(アエロフロート SU261

 モスクワ着 17:10

     モスクワ発 19:15(アエロフロート SU2502

     マドリッド着 22:25

7/4 マドリッド発 11:25(アエロフロート SU2501

モスクワ着  18:10

モスクワ発  20:00(アエロフロート SU264

7/5  成田着    10:20

(日程)

5/29 マドリッドで宿泊 ホテル「HUSA CHAMARTIN」予約済

 Tel 34-91-334-4900

5/30 夜行寝台列車 ルシタニア号2等 予約済 87ユーロ

マドリッド2225-リスボン(オリエンテ駅)730

5/31 リスボンで宿泊 ユースホステル「parque das Nacoes」予約済     

 Tel 351-218920890 15ユーロ リスボン観光の予定

6/1  リスボンで宿泊 ユースホステル「Centre」予約済     

 Tel 351-213537541 16ユーロ リスボン観光の予定

6/2  リスボンで宿泊 ユースホステル「parque das Nacoes」予約済     

 Tel 351-218920890 15ユーロ リスボン観光の予定

6/3  リスボンを徒歩でスタート。スペインのサンテイアゴまで23日間、650km。1日に20-30km。途中、大都市には2泊の予定。

Lisboa(リスボン)SantaremTomarCoimbraPortoTui(スペイン)Santiago.

サンテイアゴ-マドリッドは列車の予定。

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2回目のサンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

第三章 2回目のサンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

 

目次
<はじめに>
.出発
2.「ル・ピュイの道」とは
 1)サンティアゴ巡礼と「ル・ピュイの道」
 2)今回歩いた「ル・ピュイの道」の概要
.見どころ
4.宿について
 1)宿は「ジット」
 2)
ジットの泊り方
 3)印象に残った「ジット」

5.道について
6.天候と気温
7.食べ物
8.多くの人との出会い
9.コミュニケーションの実際
10.気持がなごんだとき
11.困ったこと、失敗したこと
12.その他
 13.目的地に到着して
14.パリにて
  <行程-宿泊地と歩いた距離>

<はじめに>
・71歳の夏、フランス国内のサンティアゴ巡礼路「ル・ピュイの道」を歩いてきた。歩いたのは2009年6月21日から7月20日までの30日間、フランス中部の「ル・ピュイ」から西端の「サン・ジャン・ピエド・ポ-」までの750kmである。
 2003年夏に32日間をかけて、「サン・ジャン・ピエド・ポー」から「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」まで、スペイン国内のサンティアゴ巡礼路750kmを歩いており(当ブログ別掲の「 スペイン・サンチャゴ巡礼の旅 NO1 」参照。現在は「初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-」と改題している)、これでフランスとスペインをつないだことになるが、二つを合わせた距離は、JRの東京-鹿児島間にほぼ匹敵する。

・この巡礼路は、詳細な地図(後記)が入手できる上に道しるべがほぼ完備しているので、分かりやすい。また、「ジット」という素泊り10ユーロ前後の安い宿が5-20km置きにあるので、旅費が安くてすむ。

・途中まで友人のMさんに同行を依頼。7月4日まで一緒に歩いた。あとは単独行。フランス語はもちろん、英語もほとんど分からない中で、外国人の巡礼者やインフォメーション・センターの人、ジットを管理する人などに助けられながらの旅だった。

・ツアーによる海外旅行に飽き足りない人にとってはたいへん魅力のある旅である。一人旅か、夫婦二人連れがお勧め。多人数だと、歩くスピードを合わせるのに苦労することがある。

・以下はその報告。この道を歩きたいと思っている人達に参考資料を提供すること、自分の思い出のために記録を残しておくこと、この二つを念頭に置きながら書いてみた。宿や道については、スペイン国内の巡礼路と比較しながら、その特徴を記し、また、末尾には、毎日の宿と歩いた距離を示す行程一覧も掲載した。

・行くに到った経緯と準備の様子については、当ブログ別掲の<2回目のサンティアゴ巡礼・準備編-「ル・ビュイの道」をめざして>を参照されたい。

・なお、このあと歩いた巡礼の記録についてはこのブログの下記を参照されたい。

  「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼

 「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼

2.出発
<不安を抱えながらの出発>
・71歳と6ヶ月、フランス語は全く分らず、英会話も中学生程度という中で、「道が分かるだろうか、安い宿はあるだろうか、食べ物は手に入るか、前回から6年も経ち、歩くだけの体力は残っているか」など、出発前の不安は尽きなかった。
・その他、行く直前に急に不安になったのは、パリに着いてからどうするかということ。パリのことは全く調べていなかった。空港には夜10時頃に着くが宿をどうしたらよいのか、空港や駅で仮眠するとすれば危険はないのか、空港からリヨン駅への交通手段はどうか、ル・ピュイへの切符の購入方法は、などなど、全く分からない。成田に着いてから、「フランスの旅行案内」を買って機内で調べたが、はっきりしなかった。

<空港からル・ビュイへ>
・パリには、6月19日20:45、アエロ・フロート(モスクワ経由)で到着。やや延着し、外に出てきたのは22:00頃だった。空港内はすべての店が閉まって閑散としており、レストランでの夕食はあきらめて、自動販売機でペットボトルの水を買い、残っていた機内食のパンを食べて済ました。また、経費節減のために空港の床に寝ることとした。
 建物内には椅子に腰を下ろしている人が数人。早朝の出発便を待つ人のほかに浮浪者もいるようだが、一晩中、煌々(コーコー)と電灯が灯っていて明るいので、2人で寝ている限り、あまり危険は感じなかった。ただし、床に寝ていたところ、犬を連れた警備員2人が巡回してきて、起こされてしまった。「床に寝てはいけない。椅子に座って休むように」とのこと。私達以外に床で寝ている人がいない理由が初めて分かった。
・早朝、空港内にあるSNFC(フランス国鉄)の駅へ。ル・ピュイへは、空港駅からエチエンヌ乗換えで行くことができると分かって、早速、その乗車券を購入した。TGV(新幹線)の座席指定券も含めて切符代は78.50ユーロ。
・ル・ピュイには14時に到着の予定だったが、遅れて17時となった(乗換を間違えたためである。詳細は後述)。ル・ピュイの町に出ると、晴れてはいたが、風が強くやや寒かった。インフォメーション・センターで紹介を受け、「Auberge de Jeunesses」というジットに泊まる。朝食付14ユーロ。

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<ル・ピュイにて。教会のミサに出席>
 ル・ピュイのノートルダム大聖堂「Cathe'drale Notre Dame」で午前7時から8時まで行われる早朝のミサは、ここを出発する巡礼者を祝福するための有名なミサであり、是非出席したいと思っていた。

 6月21日、6時40分、起床。食事は後にして、大聖堂のミサに出かける。中世の建物が両側から迫ってくるような、狭い石畳の坂道を上がっていくと前方の丘の上に大きな像が見えてきた。ピンク色で、高さは20m位あろうか。幼いキリストを抱くマリア様の像である。その手前が大聖堂だった。
 来ていた巡礼者は約50人。うち30人程はザックを背負っており、終わったらすぐに出発しようという人達である。祭壇には緑の衣服を羽織った神父さん、その背後にはこれも有名な「黒い聖母」の像。神父さんが祈りの言葉を述べ、皆で賛美歌を合唱。3人の女性巡礼者が出発に当たっての決意表明を述べた(フランス語なので内容は分からなかったが)。おごそかな雰囲気。次いで神父さんが一人一人に「聖なるパン」(小さなおせんべいのようなもの)を手渡し、そのあと、壇上から下りて出席者の中に入り一人一人を指差し「どこの国から来たか」を聞いた。私達も聞かれて「ジャパン」と答えたが、なんとなく誇らしかった。
 ミサの後、祭壇裏の教会の売店へ。ここでクレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプを押してもらった。これは巡礼者であることを証明するもので、泊った宿や訪問した教会ではこれにスタンプを押してもらう。歩き終わったときは、スタンプがずらりと並び、自分にとっては「宝物」と言ってもよいような、貴重な記念品になる。私はクレデンシャルを東京の「聖カテドラル教会」で発行してもらい持参したが、Mさんはここで入手した。
 余談だが、Mさんについてのエピソードを一つ。彼は「聖なるパン」を受け取るとそのままポケットに入れて席に戻ろうとしたが、これはその場ですぐに舌にのせて食べるもの。神父さんがあわてて追いかけてきて、すぐに食べるように注意していた。 ミサの後、ジットに戻り、朝食。それから第一日目のスタートを切る。

2.「ル・ピュイの道」とは
1) サンティアゴ巡礼と「ル・ピュイの道」


・キリストの十二使徒の一人・聖ヤコブ(スペイン名はサンティアゴ。フランス名はサン・ジャック)の墓が発見されたという伝説に基づき、スペイン西端の町「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」に小さな聖堂が建設されたのが9世紀。それが大聖堂へと建て替えられ、12世紀頃、この地への巡礼が最盛期を迎えた。この頃、ヨーロッパ中から年間50万人とも100万人とも言われるキリスト教徒が大聖堂を目指したという。

・今でも当時のままの巡礼路が残り、世界中からこの路を歩く人達がやってくる。特に、サン・ジャン・ピエド・ポー(フランス側の国境の町)を出発点としてサンティアゴ・デ・コンポステーラに到る路(「フランス人の道」という)を歩く人は多い。この路はピレネー山脈を越え、スペインの北部を東西に縦断するものであり、通して歩く人は年間5-10万人位だろうか。

 なお、5年、6年、11年に一回訪れる「聖ヤコブの年」(7月25日が日曜日の年。この日は聖ヤコブが殉教した日である)は特に巡礼者が多く、宿は混雑する。次は2010年。

・昔はヨーロッパ各地から多数の巡礼者が訪れた。今では歩く人は少ないが、フランス国内にも、上記の道へと続く4本の巡礼路が残っている。3本はパリ、ウェズレー、ル・ピュイをそれぞれ出発点とし、サン・ジャン・ピエド・ポーのやや手前のオスタバで1本となるもの。もう1本は南仏のアルルを出発点とし、ハカを通ってプエンテ・ラ・レイナで「フランス人の道」と合流する。

・今回歩いたのは、このうちの一本。ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-に至る「ル・ピュイの道」であり、この道を巡礼目的で歩く人は年4千人程度と思われる(宿の宿泊者名簿によると宿泊者は1日に10人程度。そこから、観光客やハイキングをしている地元の人を除く純粋の巡礼者は365日で4000人程度と判断した)。

・冒頭で述べたように、道しるべが整備されていること、詳細な地図が入手できること、安い宿がそろっていること、距離が短いこと(パリからの道はその2倍)などの特徴があり、フランス国内にある4本の巡礼路のうちでは最も歩きやすい道と言えよう。

2) 今回歩いた「ル・ピュイの道」の概要

・この道は、主に広々とした牧草地やトウモロコシ畑、ひまわり畑を歩き、ときには森の中を行くもの。そして、ときどき小さな町や村を通る。
  自然の中を行くというよりは、フランスの農村地帯を行くといったほうが当たっているであろう。森の中も歩くが、その森は村の近くにあり、ある程度、人の手が入った森である。

・行程は大きく3つに分けることができる。
(1)標高が1000m前後の丘陵地帯を行く前半、
(2)川沿いの観光地を巡る中盤、
(3)低地の農村地帯を行く後半、である。

(1)フランスの丘陵地帯

 最初の5日間は標高が1000-1300mの丘陵地帯を行く。いくつもの丘がゆったりとつながり、どの丘も登り切ったところは広大な牧草地となっている。その眺めは抜群。丘陵がうねって続き、はるか10km、20km先まで見渡せる。その中に点々と牛の群れと農家の茶色い屋根。一方、下の町から丘陵の中腹までは森。巡礼路は下の町や畑から森の中を登って、上の牧草地帯へと続いている。

 丘陵地帯は後半にも、何回か現れる。

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  丘の上は昔は森だったと思う。今は明るい牧草地で、数km置きに農家があり、いざというときは助けを求めることができるが、昔は丘の上にも森が広がり、人家は数十キロ置きに1軒しかない巡礼宿兼救護所のみだったようである。旅は困難を極めたであろう。特に標高1300m(最高地点1400m)の「オーブラック(Aubrac)の荒野越え」は難所だったと言われている。ナスビナルス(Nasubinals)の町からオーブラックの町への約9kmがそれである。今はすべてが明るい牧草地で、点々と農家があり、最高地点には無人の避難小屋まであり、気楽に歩ける(私達が通りかかったときに、この小屋に泊った男性がシュラフを乾していたのを記憶している)。私達は昼間、約3時間でこれを越えた。
(下:オーブラックの荒野越え)
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(2)中盤では巡礼路は川沿いとなり、コンク(Conques)、サン・シラク・ラホピー(St Cirq Lapopie)、カオール(Cahors)などの観光地を巡る(詳細は次記の「見どころ」参照)。

(3)終盤は標高100mくらいの低地を行く。道のほとんどは、麦畑、トウモロコシ畑、ひまわり畑、野菜畑の中を通る。
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<見どころ>

まず、見どころを紹介しよう。

1)前述のコンク、サン・シラク・ラホピー、カオールといった町の風景

① コンクは谷間の森の中に沈んだように存在する中世のまち。聖女フォワの遺骨を収めたサント・フォワ修道院が有名であり、中世には巡礼者でたいへん賑わったという(教会内の博物館に行くと、宝石で飾られた聖女フォワの遺骨の収納箱が見られる)。なお、ロマネスクの傑作と言われる教会正面のタンパン彫刻「最後の審判」も必見。
 町の雰囲気もとてもよい。森の中の巡礼路を1時間ほど下っていくと、谷底に着く手前の斜面にこの町がある。スレート葺きの古い家々が急斜面に建ち並び、その中心に修道院の3つの尖塔がそびえる。どこもが絵になる風景。観光客が沢山いた。ちょうど日本からも絵を描くことが目的の一団が来ており、思い思いに場所を選び、絵を描いている最中だった。
 巡礼路はこのあと、橋を渡り、再び森に入り、急な登りの山道へと続く。
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② サン・シラク・ラホピーの町は高さ100mの断崖の上にある。巡礼路上のBouzies の町からここへ行くには巡礼路を外れて、ロット川の川岸をしばらく歩いてから細い急な登山道を登らなければならない(別に車道もあるが)。登りは20分位か。町に着くと、まずは一番高い見晴台へ。そこは足がすくむような切り立った断崖の上。眼下の畑の中をロット川がうねり、はるかに山なみが霞む。私達は、展望を満喫した後、狭い広場にあるカフェで一休み。周囲には中世の町並みが広がっていた。
 なお、登山道入口とBouzies の町を結ぶ前述の川沿いの道も、運河沿いに崖をくりぬいた遊歩道があって(遊覧船も通る)、雰囲気がとてもよかった(登山口まで片道約1時間の歩程)。

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③ カオールは中世に川沿いの交易の中心地として賑わった町。王様が14世紀に創った美しい橋が有名だ。この橋は7つのアーチで結ばれ、真ん中と両端に高さ約20mの要塞化した3本の塔が立っているが、アーチと塔のバランスが何とも美しい。私達は、観光船に乗ってそれを鑑賞した。

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2)モワッサク(Moissac)のサン・ピエール修道院

 76本の柱が支える4辺形の美しい回廊と、教会南側入口の彫刻が有名。特に回廊は必見である。やや繊細な感じ。フランス随一の美しい回廊と言われており、庭の中央に立つ大きな松の木も回廊と調和してすばらしい(拝観料が必要。入館時間が決まっているので要注意)。また、南側入口の彫刻もロマネスク美術の傑作中の傑作と言われている。まずは入口の上にあるタンパン(半円の壁)を埋める「キリスト再臨」の彫像。キリスト、24人の長老、動物などが並ぶ。それと、タンパンを支える柱に彫られた「預言者エレミア」にも注目されたい。モワサックには7月7日に泊った。

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3)ピレネー山脈が見渡せる丘
 Arou(7/18泊) の町から Ostabat の町へは1日の行程。その途中、巡礼路は円を描くように遠回りの道を行く。近道を真っ直ぐに行けば1時間は短縮できそうだが、後記のジットの主人から「ここは見逃せないところ。近道をせずに、必ず行くように」と言われていたので、遠回りの道を取って進んだ。畑の中を延々と歩き、Hiriburiaという小さな村で一休み。顔見知りの巡礼者が7-8人休んでおり、私もその一団に合流した。彼らもこの遠回りの道を取ったのだ。なお、この村でフランスの3本の巡礼路が1本になるが、そのことを示す「ジプラルタルの碑」が立っているので見ておこう(私はうっかりして、よく見ないで通り過ぎてしまったが)。

 村は標高50m位か。そこから高さ300mの丘へと30分ほどで一気に登ると、丘の向こうにピレネー山脈の大展望が広がる。憧れの山、いつかは登ってみたいという思いに駆られた。
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 丘の上は広々とした草地で、中世に建築された小さなチャペル(高さ5m、横5m、縦7m位の建物。Chapelle de Soyarza)がポツンと建っている。
 ピレネー山脈の大展望と広々とした草地に立つ小さなチャペル、これらも見どころの一つとして挙げておきたい。

4)その他の見どころ

・オーブラックの荒野(前述。」標高1300m。所要3時間。昔は難所だったという。今は牧草地)

・ル・ピュイにて。大聖堂の奥の丘に立つピンクの聖母子像 ( ル・ピュイでは、高さ82mの岩山の上に立つサン・ミシェル・デギュイ礼拝堂を見逃したが、これも必見である。)
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・モワサック出発後、数時間、運河沿いに並木道が続く。Img_1210_2

・Estaingの町の川沿いの風景Img_0638_2
5)
サンティアゴ・デ・コンポステーラまで、ちょうど1000kmの距離にある橋」
 見どころとは言えないが、石造りの橋げたに「1000km」と彫ってある橋も紹介しておこう。ここからサンティアゴまでを歩き通す巡礼者にとっては、思わず足を止めて記念写真を撮りたくなるところである。Img_1304

4.宿について 

1)宿は「ジット」

・宿泊は主に「ジット」。一部屋に1段ベットか、2段ベッドがいくつかある宿泊施設。ハイカーのためにフランス全土のいたるところに設けられており、公的なものと私的なものがある。素泊まりで8-12ユーロ(この時点で1ユーロ135円)、2食付きで30ユーロ前後。
 なお、前回のスペインで宿とした「アルベルゲ」は無料か、3-6ユーロだったが、フランスの「ジット」はすべて有料である。ただし、アルベルゲでも、募金箱が置いてある所では3-6ユーロを入れるのが一般的。また、個人営のアルベルゲは有料で10ユーロ前後。

 その他、アルベルゲでは無料ということもあってシャワーが水という場合がかなりあったが、ジットはすべてお湯。また、アルベルゲでは山中の一軒家以外に夕食を出すところはなかったが、ジットでは全員の会食形式で夕食を出すところがかなりあった。

・ジットから次のジットまでの距離は5kmから20kmと幅がある。

・また、ジットより宿泊費が割り高だが、小さなホテルも点在している。

・2回だけ地方のホテルに泊った。ファジャック(Figeac)では2人で68ユーロ(食事なし)、ポンプ(Pomps)近郊のモーラン(Morlanne)ではシングルで泊まり36ユーロ(朝食付)だった。ちなみにパリで泊った二つ星ホテルはシングルで1泊65ユーロ(食事なし)も取られて、ジットに比べ、あまりにも高いのにびっくりした。

2)ジットの泊り方

・ほとんどのジットは予約なしで泊れた。ただし、満員の場合や休業の場合があるので、予約をしてから行ったほうがよい。私の場合、いくつかのジットには予約をしてから行ったが、予約は、同行のフランス人や前日に泊った宿の主人に、あるいはインフォメーション・センターに行って片言(カタコト)の英語でお願いした。

・大きな町でジットを探す場合は、着くとまずインフォメーション・センター(Office de tourisme という。地図では「ⅰ」の印)を探す。町の詳細な地図を持たないので、「オフィス・ツーリズモ?」と言って町の人に聞いたり、道端の地図を見たりと、言葉が通じない中で、手探りで探すのである。広い町だと、これが意外と手間取る。センターを見つけてジットの紹介を受けると、今度は地図をもらってジットを探して歩くのだが、これまた、たいへん。なかなか見つからない。疲れているのに、この二つで、町に着いてから小一時間はかかる。

 やっと探し出すと、無人の場合は、勝手に入り込みベッドを選んで荷物を置く。そのあとは、洗濯をしたり、ベッドに寝ころんだり、外の見物に出たりして過ごすが、午後6時頃には管理人が宿泊費を集めにやって来る。また、このとき、クレデンシャル(巡礼手帳)にスタンプも押してくれる。

・公共のジットの場合、入口や掲示板には予約状況や集金時間を書いたビラが張ってある。予約については、Aの部屋は予約で満員(予約者は誰々)、Bの部屋は空きが2人などとあり、Bを選んでそのビラに自分の名前を書くと、ベッドが確保できる仕組みである。Img_0751_2
 なお、インフォメーション・センターやカフェが受付場所となっているジットもあった。たとえば、Navarrenx の場合、町に入るとカフェのおばさんに呼び止められ、「ジットに泊まるのか」と聞かれたが、そこがジットの受付だった。宿泊費を払うと、部屋のナンバーを書いた切符を渡され、それを持って50mほど先のジットに行った。

 また、予約なしの場合は、泊れないこともある。私も泊まる予定のジットにやっと着いたときに、土曜日だったために「学生のリクリエーションの一団で満員」と言われて断られことがある。「一人だけなので、何とかとめてほしい。玄関の床に寝てもよいので」とジェスチャーで必死に頼んだが駄目。更に4km先のジットまで歩かされた。

3)印象に残ったジット

 このルートを歩く人のために、印象に残ったジットを紹介しておこう。
・Le Falzet(6/22泊) のジット。
 ステファン・セバスチャン(フランスの青年。5日間ほど一緒に歩く。後記参照)が電話で予約をしてくれた。Saugues の町を越えたところ、農家が数軒しかないような小さな村にある。住んでいた家をそのまま宿泊施設としたもので、のんびりできる居間(ゆったりしたソファーあり)と二つの寝室付き。ステファンと3人で泊ったが、客は私達だけ。3人は「いいね、いいね」と言いながら、ソファーに寝転んだり、日誌をつけたり、シャワーをあびたりして過ごした。夕食は母屋に住んでいる74歳のおばあちゃんがつくってくれた手料理(スープ、オムレツ、ステーキ、スパゲッティ)。2食付で宿泊費は30ユーロだった。

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Les Estrets(6/23泊) のジット。
 Aumont-Aubrac という町の4km手前、巡礼路上の小さな村にある。新築。2階が一段ベットの並ぶ部屋。1階の居間と食堂が小さなホテルと言ってもいいようにきれい。巡礼者には評判のようで、客は4組10人。夕食は全員の会食。
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・蒙古のパオに泊る(6/24泊)。
 牧草地を延々と歩いていくとぽつんと1軒の農家があり、その庭に二つのパオが建っていた。この日はここに宿泊。同宿はドイツのおじさんのみ。夕食は農家のおばさんの手作り。
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・Estaing(6/26泊) の教会付属のジット。
 路地裏の、中世からあるような古い建物がそれ。薄暗い1階が2段ベッドの並ぶ部屋と洗面所。2階が礼拝室と食堂。神父さんの家族の部屋もあるようだ。夕食は、そこに住む家族や子供も入って20人ほどでの会食。食前、食後にはお祈りもある。食後は礼拝室で30分のお祈り。私は出なかったが、Mさんは出席した。なお、神父さんから「宿泊費は無料」と言われたが、私達は募金箱に1人20ユーロを入れた。

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・ジットではないが、Les Mazuts(7/3泊) の 「Chambre d'hotes」 という宿。
  点々と農家がある丘陵地帯を歩いていくと、目指す「ホテス」があった。鉄格子の門がある大きなお屋敷である。宿泊施設には見えないため、探すのに手間取った。家族が使っていた部屋が宿泊場所に当てられており、食事も家族が日常使っている居間で食べた。普通の家庭に泊った感じである。その他、気に入ったのは裏庭のプール。早速、Mさんと二人で泳いだ。宿泊代はジットとほぼ同じ。客は10人ほど。
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Lascabanes(7/5泊) の「Gite d'etape Le Nid des Anges」という教会付属のジット。
 教会の建物の一部。畑の中に農家が点在する村の中にある。着いたときは誰もいなかった。入口の黒板には「定員17名」とあり、予約をした人10名の名前が書いてあったので、まずは「Takeshi」と書き加えた。入口には小さなカフェ兼無人スタンド。レトルト食品、果物、スナック、インスタント・コーヒーなどが置いてあり、代金を箱に入れて自分で持ち出すセルフサービス方式である。私は3時のオヤツ代わりに、ジャガイモと肉が入ったレトルト食品のカレーを持ち出し、奥の台所の電子レンジで調理をして食べた。このときがレトルト食品を食べた最初だが、空腹のせいもあって、とてもおいしかった。

 夕方になると、到着していた巡礼者が誰もいなくなった。6時からのミサに出席したようだ。私もあわてて出席。神父さんのお説教があり、巡礼者の一人が前に出て、「巡礼の決意」のような言葉(だと思うが)を述べた。次いでまた一人が出て、賛美歌を歌い、皆が合唱。次は、神父さんが前列に並ぶ出席者の足を一人一人洗い、タオルで拭く儀式。パンを一人一人の舌にのせて食べさせる儀式も あった。全体で約1時間のミサ。

 このあと、柱が黒びかりするような古い食堂で会食。食事を作り皆に配ってくれた女性が、いかにもフランスのお嬢さんという感じの人。やさしそうで、可愛くて、とても素敵だった。
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Moissac(モワサック・7/7泊)のジット。名前を確認してこなかったが、サン・ピエール教会の裏手の丘を50mほど登ったところにある。修道院風。1階は中庭と回廊。2階には多くの部屋があり、私は一人で一部屋だった。トイレ・シャワー室はタイル張りできれい。2食付き29.50ユーロ。夕方、修道院の回廊のテーブルに管理人のおばさん3人(修道尼だろうか)と巡礼者10人ほどが集まり、19:00-21:00まで2時間をかけて会食。おばさんが隣りに座り、お皿から肉やデザートを取ってくれたり、話しかけてくれた。床は石畳。足元を風が吹き抜けるので、長時間座っていると足が冷える。デザートが出て食べ終わるまでは、失礼なので食卓を離れるわけにはいかないと思い、我慢して座っていたが、かなりきつかった。翌日の朝食はパン、バター、ジャム、コーヒーのみ。朝食はどこでもこんなもの。

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・Escoubetのパオ(7/11泊)
 ジットの表示はないが、フランス語で大きな看板が出ている学校のような建物の庭にある。
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・後半は、Aire sur l'Adour(7/13泊) という町のジットの主人から「おすすめのジット」を聞いたので、そのいくつかに泊ってみた。それを以下に記す。それぞれ、特徴のあるジットである。

・まず、紹介したいのは、そのジット。「Gite d'etape prive Hospitalet Saint-Jacques」といい、斜面の上に建つ。花々が咲く広い芝生の庭が下の斜面に広がり、食堂からの眺めがとてもよい。部屋も清潔。更にジットを管理するご夫婦が上品で親切である。ジットに着くとすぐに主人から「その椅子に座って、靴と靴下を脱いで」と言われた。「?」と思っていると、バケツに水を入れて持ってきて、「足を入れろ」と言う。冷たい水に疲れた足を浸けると、とても気持良かった。終わると、彼はその水を庭の草花にかけながら「庭も喜んでいる」と言っていた。

 これから行くジットやルート(前述のピレネーが展望できる丘のことなど)について、いろいろと教えてくれたのも彼である。翌日泊まるジットに予約の電話も入れてくれた。
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Maison Marusan(7/14泊) の「Accueil a la Ferme」というジット。巡礼路上の町 Miramont-Sennsacq からルートを外れ、30分ほど歩いた村にある。村にレストランや食料品店がないので、夕食はどうしたらよいかと不安に思い、同宿のデュバル(フランス人。詳細後記)に聞いてみたが、彼も分からないと言う。ここを紹介してくれた前述のジットのご主人からは「おすすめのジット。でも、夕食は自炊」としか聞いていない。

 そのまま、夕方になる。と、ジットの奥さんがやってきて倉庫の鍵を開けてくれた。中に入ると、10列ほどの棚に天井まで「煮込んだ鴨の肉」のビン詰めと缶詰がびっしりと並んでいた。これが夕食なのだ。前にレストランで食べたことがある「うすい塩味の豆と鴨肉の煮込み」(主食になる)もある。3-4ユーロのものから、30-50ユーロ位の大ビンのものまであった。このジットはこれらの卸と即売を商売にしているようだ。

 ほかに、奥さんは畑で摘んだきゅうりやトマトを籠に入れ、パンやバナナ、リンゴと一緒に持ってきていた。

 私は4ユーロの「豆と鴨肉の煮込み」の缶詰とパンやバナナ、リンゴを買い、缶詰は皿に盛り電子レンジで温め、更に日本から持って行った「炊込みおこわ」もお湯で戻して、デュバルと分け合って食べた。

 このジット、もう一つの特徴は、塩水で温水のプールがあること。立派なシャワー室も付いていた。もちろん、私は嬉々として泳ぎ、10mの長さを何回も往復した。

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Cambarrat(7/16泊) の「Gite d'etape prive de Cambarrat」。Maslacq の町の手前で巡礼路を離れ、森の中を10分ほど登っていったところにある。周りに家はない。ご夫婦と子供2人で住んでおり、ご主人が手作りで建てたという森に囲まれた一軒家がそれである。

 この日は風の強い日。風が何度も森の木々をゆるがし、ざーっという音とともに通り過ぎていったが、それが波の音のように聞こえた。夕立あり。

 夕食後、ご主人がバンジョーを弾いてくれるのがこの宿の恒例。この日はまずは私を指差し、「あなたのために」と言って巡礼の歌を弾いてくれた。私もリクエスト。とても聞きたくなって、フォスターの「金髪のジェニー」をお願いした。後記<気持がなごんだとき>参照。
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5.道について
1) 道は分かりやすい。
・ 道については、下記のような詳しい「地図」と現地の赤と白で書かれた「道標」に頼ったが、ほとんど迷うことはなかった。
・ 地図としては「Maim Maim Dodo・Le Chemin de Saint Jacques de Compostelle・Le Puy-en-Velay / Saint-Jean-Pied-de-Port・GR65」(2009年版)というフランスで出版された本のコピーを持参し、また、ソーグという町でその本を購入して利用した(フランス語、現地で17ユーロ。ルート上の大きな町の本屋なら、どこでも売っているようだ。日本のアマゾンや丸善でも購入可能。税込みで3,665円)。これには、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポーまでの「GR65」というルートを示す89枚の地図が載っている(末尾にサブ・ルート22枚も掲載)。「GR」はフランスが国として指定した自然歩道。それはいくつもあって、それぞれに番号が付いていて、「65」はル・ピュイから昔のサンティアゴ巡礼路をたどるものである。また、これには地図ごとにジットや民宿、ホテル、キャンプ場、レストラン、カフェ、インフォメーション・センターなどの所在地と電話番号も掲載されている。ジットの電話番号が載っているので、予約をするときに利用した(ただし、留守だったり、フランス語の留守電に繋がることが多く、分かりにくかった)。

・ 一方、曲がり角の電柱や樹木には、ほぼ必ず、赤と白で表した道標が描かれている。「曲がる場合は鍵型の赤白の印」、また、「行ってはいけない道には赤白の×印」というように。なお、「GR65」「Santiago」などの文字が入った道しるべもある。
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・一部、地図とは異なる道があった。
 その1)Moissac から2km行った先で、地図上の道は運河から離れた丘の中腹を行くようになっていたが(これが昔の巡礼路であり、ごく最近まで歩かれていたもの)、赤と白の道標は運河沿いを行くように付いていた。この道のほうが近道の上に、景色も良く、歩き易かったので、皆がこの道を選択し、いつか、それが正式の巡礼路に昇格したものと思われる。
 その2)Aire sur l'Adour の町を出発してすぐのこと、大きな池のほとりで道路が崩壊しており、地図上の道が通行禁止になっていた。池を遠回りして地図上にない道を行くのだが、赤白とは異なる4-5cmの四角形の道しるべ(GR65と書いてある)が頼りだった。

2) 道の難易度
・ 私は一日平均25kmを歩いた。高低差はあまりない。また、一日に何度も登り下りを繰り返すというようなこともない。森の中を登ることがあっても、30分もすれば丘の上に出るし、丘の上に出ると通常2-3時間は、丘の上のほぼ平坦な道を歩くことになる(これらの登りでややきついのは、2日目のMonistrol d'Allier の町からの登り。それでも30分で上に着く)。

・ 昼食等の休憩時間も含めてのことだが、1時間平均の早さは3kmほどだった。朝7時にスタートして、昼過ぎの3時頃に到着するという毎日であり、午前中に半分以上を歩いてしまうので、それほどたいへんだとは思わなかった。

・ もっとも、最初は足の速い同行のMさんと歩調を合わせるのがたいへんで、やや疲れた。2人の距離が離れると走って追いついたりした。数日後には追いつくのは止めたが、いつも「追いつかねば」と思いながら歩いていたので、気持に負担があった。

・ 15日目からは単独行となり、マイペースで歩けるようになって、歩くたいへんさはあまり感じなくなった。

・ 「道は分かりやすい」、「道のほとんどは平坦」、「安い宿がある」などの点を考えれば、誰でもが歩ける道ではないかと思う。

・ ただし、私の場合、パン中心の食事が合わず、できるだけジャガイモ、バナナ、野菜などを食べて体力維持に気を使った。また、足の裏が痛み、その手当に苦労した。この二つが私にとっては、この道を歩く上で常に気を使った問題である。

6.天候と気温

・雨は少ない。
 平均降水量(mm)を見ると、7月(カッコ内は6月)は東京の247.5(170.5)に対し、パリは58.3(53.2)、ニースは15.6(35.8)であり、夏のフランスは雨が少ないと言えよう。

  今回も雨に降られたのは巡礼路で2回、パリで1回だけだった。ただし、それは1時間ほど降ると晴れ間がのぞき、また降るというような雨である。また、その雨は豪雨であり、すさまじい強風を伴い、まっ黒な雲とともにやってくる。巡礼路での私は、ゴアテックスの雨具を着け、ザックにザックカバーを着け、更に上からポンチョを羽織ってこれを迎えた(こうすればザックと背中の間に雨が入ってこない)。備えあれば憂いなし。農作業小屋の片隅で雨宿りをしている巡礼者もいたが、私は豪雨の中を気持よく歩き続けることができた。もっともこれは巡礼路でのこと。パリでは傘を持って出かけたのだが、傘を差してもずぶ濡れになるほどの豪雨に遭い、多くの観光客とともにセーヌ川の橋の下に逃げ込み、雨が止むのを待った。

・気温は東京より低い。
7月の平均気温(カッコ内は6月)は東京の25.6(23.2)度に対して、パリは20.0(17.0)度であり、サン・ジャン・ピエド・ポ-と緯度が同じニースでは22.9(19.9)度である。フランスの気温は日本より3-5度は低いと言えよう。

 6月の歩き始めはかなり寒く、朝夕は防寒着としてゴアテックスの雨具を上に羽織るほどだった。もちろん、日中も長ズボン姿である。

 7月に入ると、日差しがある日は暑くなった。ズボンを短パンに代えたが、強い日差しの下で風がないと、照り返しも加わってとても暑く、汗だくで疲れが増した。ただし、曇り空のときは涼しく、風が加われば寒さを感じることもあった。

7.食べ物

<朝食は簡単なもの>
 ときにはカフェを利用したが、ジットの朝食を利用することが多かった。パン、バター、ジャム、コーヒーだけの簡単なものである。

                                           (ジットの朝食)
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 <昼食用の食べ物の確保に気を使う>

・昼食はお店で買ったパンと水が中心。ただし、1日中、歩いても、食料品を売っているお店がないことがある。また、日曜でお店が休みのこともある(7月14日も独立記念日でお店は休み)。そのため、いつも、ザックの中に2日分くらいの昼食用の食料を入れて歩いた。

・一方、食料品店があったときには、上記のことを考慮して、パンと水のほか、バナナ、リンゴ、ときにはレトルト食品(これは、ジット到着時のおやつや夕食用)などを多めに買っておくのだが、荷が重くなって歩くのに苦労した。

  (昼食も、ときにはレストランでとった。野菜がいっぱい。)Img_1308

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<夕食のとり方>

夕食は、ジットで皆で食べる(会食)、レストランで食べる(ときには宿泊者全員で。ほとんどの場合は一人で)、コンビニで食料を買ってきてジットで食べる、のどれかだった。

・夕食を出さないジットがほとんどだが、教会付属のジットや町から離れた私的ジットの場合は夕食を出してくれる。方式は、巡礼者全員が一つのテーブルを囲み、大きな皿や鍋から同じ料理を自分の皿に分けとって食べる会食方式である。料理は、第一の皿(サラダか、スープ。スープと言っても、じゃがいもや人参が入ったものもあり、これは2杯も食べると腹一杯になる)、第二の皿(メイン・ディシュの肉料理)、第三の皿(デザート。大きな甘ったるいケーキやソフトクリームなど)の順に出てくる。また、別に無料でパンとワインが付く。ワインは飲み放題。

・会食の場合は、たっぷり2時間はかかる。この間、ワインを飲み食事をしながら、皆、楽しく歓談するのだが、もちろん、会話はフランス語である。これがフランス人一般の夕食の採り方なのだろうか。私はワインが飲めない。話が何も分からずにじっと座っているだけ。これはつらかった。フォークとナイフのほかにデザート用の小さなシャジが置いてあるので、デザートが出てくるまでは、席をはずして逃げ出す訳にはいかない。「日本人は失礼だ」などという評判を残しては日本人の名折れになるので、じっと我慢して座っていた。デザートを食べ終わり、「お先に」と言って(「ベッド」と言って寝るジャスチャーをして)、真っ先に立ち上がるのはいつも私だった。

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(写真)会食。Lascabanesの教会付属のジットにて。

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(写真)会食。Estaing の教会付属のジットにて。

 

(農家に宿泊。おばあちゃんの手作り料理)Img_0350

・レストランで夕食をとることもあった。これは大きな町だと一人だけで食べたが、小さな村の場合はレストランが一つだけで、事前に予約をして全員が一つのテーブルを囲み、前記と同じように会食方式で食べた。 (下:レストラン、一人で。10ユーロで、第一の皿、第二の皿が出た。)
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・レストランがあっても、コンビニで食材を買ってきてジットで食べることもあった。

・終盤は、レトルト食品を買い電子レンジ(ジットの自炊用台所には必ずこれがある)にかけて食べることを覚えた。たとえば、ニンジンとジャガイモと肉がたっぷり入ったカレーやリゾット(西洋風おじや。お米は長粒米だが)、スパゲティーなどのレトルト食品(1ケ、3-4ユーロ)をスーパーで買ってきて、ジットの電子レンジで温め、パン、リンゴ、トマト、ハム、キュウリなどと一緒に食べた。生たまごを3ケ購入し、目玉焼きにして食べたこともある。自分の好きなものを、大抵は誰もいない食堂で、のんびりと食べるのだが、気持が落ち着いて、これが自分には一番合っているように思えた。

 また、陶磁器製のコーヒーカップに直接水を入れ、電子レンジで沸かす方法も覚えた。これだとヤカンで湯を沸かす手間が省けて、簡単にインスタント・コーヒーや紅茶を飲むことができた。

 ただし、レトルト食品は大きな町のスーパーでしか買えない。小さな町の食料品店には無いことが多い。

・夕食ではないが、電子レンジを利用したことがある。昼間歩いているときのこと、急に大雨となり、雨宿りのために無人のジットに駆け込むと、部屋に電子レンジがあった。ちょうど昼食時だったので、持っていたレトルト食品をレンジにかけ、コーヒーも沸かして食事をした。レストラン並みの温かい食事。おいしかった。もちろん、使った食器はすべて洗って元の位置に戻したが。無人のジットにはこんな利用方法もある。本当は、管理人の家を探して許可を得る必要があったとは思うが、大雨で近所を探して歩くことができなかった。

・レストランも食料品店もないのに、夕食を出さないジットに2回泊った。夕食をどうしようかと心配していると、夕方、管理人がやってきて、ジット内の食料倉庫や大きな食料ボックスの鍵を開けて、食べ物を売ってくれた。一つのジットでは商売にしている鴨肉と煮豆のビン詰を買った(前記)。もう一つのジットでは、ハム、生たまご、パン、牛乳、肉の缶詰などを買った。

・なお、スペインのアルベルゲ(フランスのジットに当る)の場合、私が泊った範囲では夕食は出さないし、レストランでも、会食方式のものはなかった。この点はフランスとスペインの大きな違いであろう。

8.多くの人達との出会い

<「ル・ピュイの道」を歩く巡礼者は少ない>

・ル・ピュイの道について、ある1地点を通過する巡礼者の人数を推定してみると、1日に10人位、年に4000人程度と思われる。また、宿に置かれている「旅人の一言帳」から見ると、そのうち、日本人は年に1-2人であろう。

・観光地の周辺では、巡礼者のほかに日帰りや1泊2日のハイキングを楽しむフランス人をかなり見かけた。

・ル・ピュイの道を歩く巡礼者のほとんどは脚力が強く、ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-やサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す人が多かった。中には、「ドイツのふるさとから3ケ月間でサンテイアゴまで歩く」というドイツのおじさん、「一人でパリから3ケ月間でサンテイアゴまで歩いてきた。帰りはサン・ジャン・ピエド・ポ-まで列車を利用し、そこからル・ピュイまで歩く」、「主人が許してくれたの」と嬉しそうに話していたパリのおばさん、「サン・ジャン・ピエド・ポ-とサンティアゴの間を歩いて往復してきた。このあと、ル・ピュイまで歩く」というドイツの青年など、考えられないような「つわもの」もいた。その他、「自転車で車道を通って、パリから南仏のヴェズレーを経由しオスタバまで15日間でやって来た。ここからサンテイアゴまで10日間で行く予定」というフランスのおじさんにも会った。

・もちろん、毎年、区間を区切って1週間程度を歩き、数年で完歩するという人もいた。

・これを私が6年前に歩いたスペインの巡礼路と比較すると、スペインの巡礼路は、歩く人が圧倒的に多く(年間5-10万人)、また、子供連れや若者の一団もかなりいるという特徴があるが、フランスのこの巡礼路は歩く人が極端に少なく、また、歩いている人のほとんどは中高年の単独行か、夫婦2人連れだった。

<親しくなった人達>

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(写真)巡礼者
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(写真)セバスチャンと
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(写真)デュバルさん。カナダの女性と。
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(写真)皆で。

・セバスチャン
 2日目に途中の町で一緒になり、4日間、同行のMさんと3人で歩いた。フランス・ロレーヌ地方から来た26歳の青年。テントを入れた大きなザックを背負っていたが、1泊を除き一緒にジットに泊った。道々、かたことの英語で「フランスにも昔はオオカミや熊がいた」「巡礼者が増え、ジットも増えている。ほら、あれも建設中」などと話してくれた。Saint Chely-d'Aubracでお別れ。ル・ピュイへタクシーで戻り、ふるさとに帰るという。

・リアル・ロイさん
 カナダ・ケベック州の男性。68歳。カナダの奥さんによく電話をしていた。大柄で目の大きな人。7/6に泊ったLauzerte のジットでベッドが隣合わせになり、二人で町のレストランに行き夕食を共にした。かたことの英語で会話。親切な人で、宿やレストランで「タケシ、タケシ」と気を使ってくれた。足を痛め、「先に行ってくれ」と言われて別れたが、サン・ジャンまで歩き通せたのだろうか。

・デュバル・ジェラードさん
 Nogaro(7/12泊)やMaison Marusan(7/14泊)のジットなどで一緒になり、旅の最後の1日にまた会い、その日を一緒に歩いた。私は話がほとんどできないので、外国の巡礼者と歩くことを避けていたが、デュバルさんとは道中で何度も会って、だんだんと打ち解け、この日初めて、1日中、一緒に歩き、道端での昼食を共にした。背の高い、北フランスの猟師さん、68歳。家族は奥さんと娘さんの2人。漁を奥さんにまかせてやってきたという。歩くのはMoissacからサン・ジャンまで。
 ひょうきんな人で「ノー、プロブレム(問題なし)」が口ぐせ。「今夜泊る予定のジットに電話をしたが、満員のようだ」というと、「ノー、プロブレム。行けば泊れる」という具合である。
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 サン・ジャン・ピエド・ポ-では、一緒に巡礼事務所に行き、同じジットに泊った。
 翌日は駅に一緒に行き、パリ行の切符を買ってもらった。また、我が家に携帯で電話をして、妻にフランス語であいさつをしてもらったが、妻は突然「ボンジュール、マダム」と言われて、ビックリしていた。

・マリーさん
 ドイツの中年の女性。「ここに来たのは何故ですか」と聞くと「自然の中にいるのが好き。歩くのが大好き」とのこと。子供が4人、孫が5人とか。足は強いようだ。歌を歌いながら、余裕を持って歩いていた。まるで、少女のよう。前述<印象に残ったジット>Escoubetのパオ(7/11泊)の会食写真に写る金髪の人。
 お分かれのときに自分で描いた絵手紙をくれた。滞在したまち(Aire sur Ardour)の橋の風景を描き、「Aire sur Ardour 13.7.2009 Thank you to be with us.  Heide Marie Voigt」とサインを入れたものである。マリーさんも英語を少しだけ話すので、お互いに片言(カタコト)の英語で話し合っていたが、言葉がほとんど通じないのに気持が通じたということがとても嬉しかった。
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・ピーターさん
 Les Estretsのジット(6/23泊)で同宿となり、カラーコピーの自己紹介状を渡し、知り合いとなった。そのあと、いくつかのジットで同宿。サン・ジャン・ピエド・ポーの町でも会った。55歳のドイツ人男性。ドイツの故郷からサンティアゴ・デ・コンポステーラまで3ケ月をかけて歩くという。背が高くて、たくましい。自分のペースを守り、物事をきちんきちんとこなしていく。いかにもドイツの人といった感じ。歩くときは自分のペースで歩き、宿を出発するときや休憩のあとは、さっと立ち上がり、先に一人で出発してしまう。人に合わせることはない。家族は妻と息子2人。自動車工場の設計で中国に行ったことがあるという。ふだんは、ヨーロッパの低山ハイクを楽しんでいるとのこと。

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・58歳のフランスの女性
 Morianneのホテルで一緒だった。音楽家のお兄さんがその町に住んでいて、町の古城で演奏会を開いたことがあるという。ときどき道で一緒になり、サン・ジャンでまた会い、デュバルさんと3人でお茶を飲んで別れを惜しんだ。

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・マルティン・ガイさん
  フランスのマルセイユから来たご夫婦。毎年、区切って巡礼路を歩いている。今回はカオールからコンドンまで。帰国後、美しいマルセイユの風景と2人の息子さんの写真をメールで送ってきた。

・マギーさん
 スウェーデンのストックホルムから来た中年の女性。ル・ピュイからサン・ジャン・ピエド・ポ-を歩く。

・ピエールさん
 Lascabanes(7/5泊)のジットで同室となり、帰国後、下記のメールをいただいた。
(本文)
 TAKESHI,
 J'ai ete tres honore de marcher a tes cotes
 Dommage que nous n'ayons pas pu nous comprendre
 C'est un symbole fort de paix que des hommes et des femmes
 de toutes conditions, et du monde entier marchent ensemble
 dans la meme direction
 "ULTREIA" (toujours plus loin)
 Froternellement       Pierre
(翻訳した文章)
言葉の壁はありましたが、君と一緒に歩けてとても光栄でした。
世界中からやってきた、それぞれ異なる環境の中にいる男性・女性が、一  緒に同じ方向へ歩むということは、平和・安らぎの象徴です。

 ”ULTREIA”(いつでも前進)
 親愛の情を込めて  ピエール

<親切な人達>
 多くの人に親切にしてもらった。
・受付のおばあちゃん(ノガロのジットで)
 その人、英語が全く話せず、フランス語でいろいろと説明してくれたが、こちらは全然分からず、日本語で「分かんないなー」とつぶやきながら首をかしげていると、食事の取り方に絞ってジェスチャーで説明してくれた。ほぼ理解。「夕食はレストランでとること。ただし、日曜なので一軒しか開いていない。朝食は今、売る」など。そこで、朝食用のパン、牛乳、ジュースを頼むと、袋に入れて表に「takeshi…」と書いた紙を張り付けた上で、冷蔵庫のあるところへ私を連れて行き、「ここに入れておくから、朝、食べて」とジェスチャーで教えてくれた。私の自己紹介用のカラーコピーを見せると、そのおばあちゃんも自己紹介、72歳とのこと。写真を撮らせてと言うと、事務机の前でペンを持ちポーズをとってくれた。大柄で堂々としたもの。そのあと、一緒にベッド・ルームやシャワー室を案内してくれた上で、洗濯の仕方・干し方も手真似で教えてくれた。とても親切。大好きになった。
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・巡礼事務所の受付のおじさん
 最終日、デュバルさんとサン・ジャン・ピエド・ポ-の巡礼事務所に到着。当日泊るジットを確保した後、翌日夜のジットもお願いした。日にちに余裕があり、ここでもう一泊し町を見物したいと思ったからだ。私達の相手をしてくれたのは中年の男の人。責任者(おじいちゃん)に聞きにいったところ、「ノー」とのことだった。ジットは混雑しており、1泊が原則で2泊は泊れない、泊るなら料金の高いホテルへという。デュバルさんがフランス語で粘り強く交渉。と、その男性が「オーケー、明日の朝、俺のところに来い。別のジットに案内してやる」と胸をたたいてくれた。そして、翌朝、事務所の彼のところに行くと、「待っていた」というようにニコニコしながら別のジットに案内してくれた。

 このジットも、夕方になると宿を求める若い巡礼者の集団が続々とやってきて、入りきれない人達が庭にあふれ、「なるほど、1泊が原則というのももっともだ」とうなづけた。彼らはジットのおばさんに案内されて、別の宿泊場所に移っていたが、普通の民家に泊ったようである。

・フランス領・ニューカレドニア(オーストラリア大陸の近く)から歩きにきた中年の女性
 Lascabanesのジットで同宿となり、サン・ジャンまであとになり、先になりして歩いた。話をする機会はなかったが、活発そうな人。運河沿いの道で曲り角を間違えて別の道を進もうとしたとき、橋の上から大声で「こっち、こっち」と手を振って教えてくれたり、公園に差しかかると「水場はこっち」と大声で教えてくれたりと親切にしてもらった。サン・ジャンの町の街路に張り出したカフェで偶然再会し、お互いの目的達成を祝いあって握手。

9.コミュニケーションの実際
<「フレンチ、ノン、イングリッシュ、ア・リトル」>

・言葉が分からない中で、フランス語でのやりとりはジェスチャーで行い、英語の場合は片言(カタコト)で行った。

・宿の受付や一人で食べるときのレストランでは、まず、「ジャポン、タケシ、フレンチ、ノン、イングリッシュ、ア・リトル」と言ってから、かたことの英語で交渉を始めた。

<自己紹介のカラーコピーと「東京カテドラル聖マリア大聖堂」発行の「クレデンシャル」、それに絵はがき、金太郎飴などを持参>

・同行の巡礼者と話すときや、宿の受付では、持参した自己紹介のコピー(カラー)をまず渡した。これには、家族の写真やマッキンリー登頂の写真を載せ、フランス語で説明書きをつけておいたが、コミュニケーションにたいへん役に立った。できれば、春の桜の風景、秋の京都の紅葉風景などもコピーし、日本のすばらしさを紹介できたら、もっとよかったと思う。

・ 「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」を通していただいた標記のクレデンシャルはことし、日本で初めて発行されたものであり、カラー版の美しいもの。「東京カテドラル」の押印もある。巡礼路で会う人達から珍しがられて評判になり、多くの人から「見せて、見せて」と言われ、これもコミュニケーションに大いに役に立った。

・おみやげとして、富士山の絵はがき、谷中五重の塔や竜の絵が入った竹のしおり、お地蔵さんの絵の金太郎飴などを持参し、お世話になったお礼やお別れのプレゼントとして利用した。

<電話での連絡に成功>
・こんなことがあった。
 朝、出発するときにその町のインフォメーション・センターで当日の宿を予約してもらったのだが、巡礼路沿いのジットがすべて満員だったので、ルートを4kmほど外れたところにあるホテルを取ってもらった。「ルート上のポンプという町に着いたら、電話をすれば、自動車が迎えに来る」とセンターの人に言われたので、ポンプに到着後、ドキドキしながらホテルに電話をした。女性が出たので、「タケシ、アライバ(到着。電話をする前に辞書で調べておいた単語)、ポンプ(まちの名前)、ジット(ジットの前にいる)。カー、OK?(車で迎えにきてくれるか)」と言う。先方はフランス語で何か言ったが、その中に「ウイ(英語のYes)」という言葉が入っていたので、あとは分からなかったが、電話を切った。あれだけのやりとりで、はたして通じたのかという不安はあったが、ジットの前に腰を下ろし待つていると、自動車を運転しておばあちゃんがやってきた。フランス語での電話連絡に成功した瞬間である。嬉しかった。

<いつか親しくなった>
・旅の後半、畑の中を登っていくと、登り終わったところにある村で、知り合いになった巡礼者が10人ほど休んでいた。皆が「ここで一緒に休もう」と手招きをする。その中に入って草むらに腰をおろすと何か嬉しくなり、ほっとして気が休まった。親しい仲間に迎えられたという感じである。旅の前半、歩き始めの頃は、知らない外国の巡礼者の中に入るのは気が重くて避けていたのだが、いつの間にか、自分の心に変化が起こっていた。

10.気持がなごんだとき

<プール>

・プールのあるジットに2回泊り、洗濯済の下着を着て泳いだ。フランスで泳げるなんて。一つは温水で塩水のプール。思いもかけずに泳げて、嬉しくてワクワクし、短い距離を何度も往復した。

<フォスターの歌を皆で歌う>

・あるジットでのこと。夕食後、バンジョーを弾き、音楽を聞かせるジットのご主人。巡礼の歌が中心だったが、私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェスト。皆で歌っているときに、なぜか涙が滲んだ。(前述<印象に残ったジット> Cambarrat(7/16泊) の「Gite d'etape prive de Cambarrat」参照)

<風ちゃんのお守り>

・5歳の孫の風ちゃんと3歳の爽太が「お守り」を作ってくれた。旅も終盤のある日、それを開いてみると、風ちゃんのは真ん中に「じじ」を描いた絵、上のほうに「じじへ ぶじにかえってきて」、下に大文字で「じじ だいすき」とあった。爽太のは機関車トーマスの貼り絵。
 「歩くんだ」と緊張していた気持が一瞬ゆるんで、我が家にいる雰囲気を味わった。

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 11.困ったこと、失敗したこと

<一番困ったのは>

・学校の施設の一部がジットになっていたときのことだ。学校に入っていったが、ジットの部屋がどこにあるか分からずに、とまどった。教室外の廊下でも授業が行われていたので、その先生にかたことで聞いたが、授業に集中していて、相手にされない。やっとフランス語で何か言ってくれたが、全く理解できない。最後はジェスチャーで「外に出て行け」という。とほうにくれてしまった。と、巡礼路で知り合いになったご夫婦が廊下の向こうから出てきて、「こっち、こっち」と手招きをしてくれた。本当に助かった。「救われた」という感じ。

<いくつかの失敗>

・パリから目的地までの切符を買い、座席指定のTGV(フランスの国鉄SNFCが走らせている新幹線)に乗ったときのことだ。途中のリヨン駅で乗り換える必要があることを知らずにいて、乗客が全員下車してしまったのに、私達は下車をせず、がらんとした車内で、いつまでも発車を待ち続けるという失敗を犯した。
 どうもおかしいと他の車両を見に行ったら誰もいない。その間に乗り換える列車は出発してしまい、次の列車まで3時間も待つはめになった。パリで購入した切符は一つの座席番号が記入された、エチエンヌまでのTGVの通し切符だったので、「エチエンヌまで乗り換えなし行ける」と勝手に思い込んでしまったのだ。

・パリではルーブル美術館とオルセー美術館を見てからシャンゼリゼ通りを凱旋門まで歩き、更にエッフェル塔まで歩いた。行くと乗り場は数時間は待つような長蛇の列。でも、一つだけ5分待ちで入れる行列があった。それは「歩いて登る」もの。私は喜んでその切符を買い、115mの高さの中2階まで歩いて登り、パリの街の眺めを堪能した。下りも歩く。先日、東京タワーに歩いて登ったが、「今回はエッフェル塔にも歩いて登ったのだ」と思うと嬉しくなった。ところが下りてきて、満足感に浸りながら上を見上げると、275mの高さまで行くエレベーターが動いてるのが見えた。中2階からはエレベーターで275mまで上れたのだ。今さら引き返せない。ガックリ。エッフェル塔の最上部に行く機会を逃してしまった。276mまで登っていれば、どれほどのすばらしい景色が見られたことか。

・ピザ屋であることを知らずに一人でレストランに入り、「ハム入りの野菜サラダ」を注文するつもりで、ジャンボン(ハムのこと)、トマト、サラダと言ったら、馬鹿でかいピザ(ハムとトマトをトッピングしたもの)が出てきてしまった。何とか全部を食べようと、水を飲み飲み挑戦したが、塩味が効いていて半分食べるのがやっとだった。

 注文する前に、メニューの内容を知ろうと、辞書を引いて調べたのだが、簡単な辞書なので、料理の名前のほとんどが載っておらず、よく分からない。四苦八苦していると、店のマダムが寄ってきて「どうしますか」と聞かれた。これで、あわててしまったのが原因だ。あらためて、周りを見回したら、みずみずしい野菜サラダを食べている人が何人もいた。それを指差せばよかったのだが、あとの祭り。「辞書で調べて」なんて考えたのが間違いのもとだった。

12.その他

1) 足の痛み
<足の保護が巡礼成功の鍵>

・行く前はまず、どんな靴にするかで、いろいろ考えた。
 どの靴が足に合うかは人によって異なる。私の場合、前回はアディダスのハイカットのウォーキング・シューズを使用。これは私の足にピッタリだったが、すでに製造中止で今回は入手できなかった。結局、同じ会社のローカットの長距離用ウォーキング・シューズ(約15000円)を購入し、日本で何日も履いて「足が痛くならないこと」を確認した上で持参した。

・指の血行を良くするため、5本指の靴下を使用。私は普通の靴下だと、歩き始めて2時間位で右足の小指が歩けなくなるほどに痛みだすというくせがあったが、5本指の靴下だとこれが防げた。

・ひざを保護するサポーターを持参。これは役に立った。毎日歩いたので終盤はひざがやや痛み、登り坂になると右ひざが「カク、カク」としたが、サポーターを付けると、これがおさまった。その他、足のマメ専用の絆創膏(ジョンソン&ジョンソン社製)も持参し、マメができそうになるとすぐに張ったが、これを常に心がけたので、マメができることはなかった。

<私の場合、最も苦労したのは足裏と肋骨の痛み>

・最も苦労したのは足裏の痛み。多分、骨のつなぎ目だと思うが、右足の小指の付け根が痛んだ。舗装道路や突き固めた道を長く歩くと、足裏の一定の部分しか地面に着かないためと思われるが、このようなことが起きる。これに対しては、包帯を何重にも畳んで、靴下の中に入れて足裏に当てたり、石ころだらけのところや草の上をできるだけ選んで歩くという方法で痛みを和らげた。なお、痛くても包帯を1-2mmずらすと痛みが治まるということも知り、この方法も利用した。

・第二は肋骨の痛み。ザックの重みが肩から肋骨にかかったために肋骨が痛んだ(身長169cm、体重55kmというきゃしゃな体格が原因かもしれない)。ただし、不要と思われるものを捨てたあとは、その痛みはほとんどおさまった。

・それと腰の痛み。痛みは肋骨から腰にまで達した。その痛みを和らげるために、ザックをずらして背負ったり、斜めに背負ったり、前で抱えたりして歩いた。

・これらは、体の鍛え方が足りなかったこと、71歳という年齢により体力が衰えたことなどが原因と思われる。歩くとき使うのは、ももとふくらはぎの筋肉だけだと思っていたが、全身の骨と筋肉を使うということが分かった。長距離を歩くには足だけでなく、全身を鍛えておく必要があるようだ。

2) 荷を軽くするよう心掛けた。
・まず、歩き出す最初の日に、日本から持ってきていた3冊の文庫本のうち2冊を捨てた。
 3日目に最後の文庫本と予備に持ってきた柔らかな靴(足を痛めたときに履こうと思っていた)を捨てた。
 11日目、肋骨の痛みが増し、長ズボン(暑くなってきたので不要となった)、バンド、Tシャツ1枚(2枚を残す)を捨てた。
 12日目に薄い羽毛服(20年前1万円で購入。やや「ほころび」がある。ビバーク用に持参したもの)、折りたたみ傘、手ぬぐい2本を捨てた。

・残したのは、手ぬぐい1本のほか、ゴアテックスの上下の雨具(登山用、3万円のもの)、ポンチョ(頭からかぶれて、ももまでのもの。ビニール製、軽い。休憩時に敷物としても利用)、ザック・カバー、下着(速乾性のシャツ3枚、パンツ2枚など)、短パン1枚(後半は日中、これを履いて歩いた)、地図、フランス語の簡易辞書、フランス旅行案内(必要な部分のみを切り取って)、カメラ、携帯電話、メモ帳、歯ブラシなどである。

3) クレジット・カードを使い、ユーロを現金で借りる。
  旅の始めの1週間位は、手持ちの現金とトラベラーズ・チェックを使い切ったらどうしようかと不安だった。クレジット・カードを持ってきてはいたが、最初の日に駅でパリ→ル・ピュイ間の切符を買おうとしたとき、暗証番号を入れたのになぜか支払いを拒否された。帰りの切符は現金で買わざるを得ないようだ。その他、大口の買い物やホテルの宿泊費の支払いにはこのカードが使えるだろうか。このクレジット・カードが使えない場合、現金がなくなれば「万事休す」である。村での食事やコンビニでの買い物は現金なしでは難しい。旅を中止して帰国せざるを得ないだろう。毎日、それが気になった。
 とりあえず、現金に余裕があるというMさんに、お金を借りる交渉をしていると、同行していたセバスチャンが「クレジット・カードで現金が借りられるよ」と教えてくれた。一緒に郵便局に行き、まずはセバスチャンが自動支払機で実演。私がそれをまねて、手順に従って操作し、暗証番号を入力するとユーロが現金で出てきた。「なるほど。これで大丈夫」。不安がひとつ消えて何かほっとした。
 なお、後日、ホテルでのカードの支払いはOKだったが、帰りの切符はカードでの支払いを拒否された。駅で使えなかった理由は今もって不明である。

3) 日本で国際携帯電話をレンタル。
 行く前にインターネットで調べて、国際携帯電話をレンタルした。家との連絡用であり、これがあると緊急連絡が可能となり、お互いに安心していられる。もちろん、前回のスペインのようにコインやテレフォン・カードを使い、数日に一回、こちらから家に電話をするという方法でもよいのだが、そのときは公衆電話の使い方が不慣れで、うまく通じないことが何回かあった。
 ただし、今回は調子に乗って数人の友人に長電話をし、また、毎日、家に電話をしたために、使用料が47,000円にもなってしまい、帰国後、請求書を見てビックリした。せいぜい1-2万円と思っていたのだが。

4) 費用はいくらかかるか。
・37日間で20-30万円位か。うち、パリ往復の航空券は10万円(6月のモスクワ経由の場合であり、台湾やベトナムなどの乗り継ぎ便には4-6万円の安いものもある。直行便は20万円)。あとは、宿泊費(1泊8-12ユ-ロ、1000-1500円。全部で4-6万円)と3食の食費(1日、15-20ユーロ、2000-3000円)が37日分である。食費を安くあげるには、スーパーで食べ物を買って3食をそれで済ますこと(自分で調理をすることも含めて)。これなら食費は6万円位で済むであろう。このほか、目的地への列車代が1万円、到着地からの列車代が1万円。パリでは、治安に問題はあるが、宿泊費を節約するには空港の床で寝る手もある。

13.目的地に到着して

<ぼーっとした気持>
 7月20日の昼過ぎ、サン・ジャン・ピエド・ポ-に到着。
 デュバルさんと一緒である。小さな石造りの城門をくぐるとすぐに巡礼事務所。そこから50mほど先にあるジットを紹介してもらった。
 ジットに荷を置き、一人で外に出る。カフェでサンドイッチとサラダを食べながら一休み。カンカン照りの舗装道路を沢山の観光客が行き来している。照り返しで日陰も暑い。「歩き切った」とか「やったー」というような達成感はあまり湧いてこない。何も考えずに、ただボーっとして店先に座っていた。

 町の中を散策。巡礼路で親しくなった人達、数人に会う。握手、握手。
 夜、初めて日本の友人に数枚の絵はがきを書く。そこにも「感慨は湧いてこない。何もない。無の境地と言えようか」と書いた。

 翌日、町が見渡せて、ピレネー山脈も望める高台の城跡に登ってみた。風が吹き抜ける木陰の芝生で一休み。ここでも30分ほど、ただぼんやりと座っていた。

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 マッキンリーの登頂に成功したときは「アラスカ第一の高みに立った。何という爽快感。自分が風となり、はるかなる青空へと吹き抜けるような解放感にひたる。涙は湧かない。登頂できたときは感動で涙するかと思っていたが、不思議と涙は出てこない。すばらしい解放感が涙を忘れさせてしまったようだ」と書いた。

 2003年にスペインの巡礼路を歩ききってサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着したときは「行列に並び、私も栄光の門の石柱に手をふれて頭を下げた。でも、あまり感激はない。疲れはしたが、自分の力の限界を感じるほどの大きな困難に遭わなかったせいかもしれない。次いで、大聖堂の奥へ。高い天井。薄暗い大空間が広がる。何かほっとして、心と体が軽くなった感じである。「歩き続ける」という重荷から解放されたためであろう」と書いた。

 それが今回は頭の中が空白の状況で、あまり感慨が湧いてこない。 
 前回よりは、巡礼路を歩くのに慣れてしまったこと、疲れがたまっことなどが原因と思われる。ひたすら歩くだけで、旅を楽しむ余裕がなかったことにもよるであろう。

 でも、旅の楽しみは多様で、奥が深い。歩くことだけを目的とする旅から、新しい旅へと転換する時期に来たのかもしれない。

<フランスの巡礼路をスペインと比較すると>
・見方にもよるが、私はフランスのルートは景色がやや変化に乏しいように思う。スペインの750kmには、標高1500mの三つの峠越え、レオン、ブルゴスなどスペイン屈指の大都市の通過、中世の面影が残る農村の通過などがあり、景色は変化に富んでいる。これに対し、フランスは、前半は毎日、飽きるほどに牧草地の中を行き、中盤にいくつかの小さな観光都市をめぐり、後半はまた毎日、畑の中を行くというように、やや変化に乏しかった。また、農村の風景もきれいに整備された農家が多いためか、中世風というよりは現代的だった。
 もっとも、これは好きずき。「毎日が牧草地の中」というのがとても素敵だ、フランスの方がよい-という人もいるであろう。
・また、スペインは、宿泊施設である「アルベルゲ」が基本的に無料、歩いている人が圧倒的に多い、英語がある程度通じる、食べ物も入手しやすい、などの特徴がある。
・どちらがよいかといえば、何と言っても、お勧めはスペインであろう。する時期に来たのかもしれない。

<旅を楽しむには>
・余力を残して歩くこと。

 マリーさんは歌を歌いながら歩き、町に着くとスケッチを楽しんでいた。余裕たっぷり。「楽しくて、楽しくて」という感じ。
 私は、いつもと言うわけではないが、足や肋骨の痛さに耐えながら何とか目的地に着こうと歩くことがかなりあった。特に1日の行程の後半は、そうだった。これでは、すばらしい景色を楽しむ余裕がなくなってしまう。フランスを歩いているのだという「ワクワク感」も感じなくなる。
 余裕を持って歩けるだけの体力が残っているうちに、この巡礼路を歩いていれば、もっと楽しめたと思う。
 今回も、マイペースでゆっくりと、休憩時間を十分に取りながら歩けば、もっと楽しめたであろう。
・フランス語や英語が分かれば、巡礼時の楽しみは倍加する。
・そこまででなくとも、城などの遺跡やまち、教会などの歴史を事前に調べていけば、巡礼時の楽しみが増すと思う。
 注)インターネットの検索によれば、下記の記事が「ル・ピュイの道」の遺跡や歴史について詳しいようである。
「フランス巡礼路紀行(2)」http://www.geocities.jp/makt20/JunreiroFr/france2.htm

14.パリにて

<モンパルナスのホテル泊り。ルーブル美術館鑑賞>
 7月22日、ローカル線の列車でサン・ジャン・ピエド・ポ-を9:45に出発、バイヨンヌに10:58着。TGV(フランス新幹線。11:05発)に乗り換えてパリのモンパルナス駅に15:55に到着した。
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 早速、安いホテルを探して食べ物屋が軒を並べるモンパルナスの路地裏へ。数軒のホテルあり。5分ほど歩いたところに二つ星のホテルを見つけて宿を取った。先にも書いたが1泊65ユーロ(食事なし)。
 すぐに地下鉄でルーブル美術館に向かう。地下鉄の自動販売機での切符の買い方は、買っている人を横から見ていて、すぐに分かった。夕方、ルーブル着。通常の閉館は18時だが、水曜、金曜は22時に延長されており、ゆっくりと鑑賞できた。モナ・リザやミロのビーナスについては、館内の各所に展示場所の案内が出ており、人だかりがしていたが、誰もいないようなところにも、名の知られた名画が沢山掛っており、その一つ一つを見て回った。

 23日はルーブル美術館、オルセー美術館、凱旋門、エッフェル塔を巡る。
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 24日は地下鉄でサン・ミッシェル駅へ行き、数人の人に道を尋ねながら500m離れたところにあるRER(高速郊外地下鉄)のサン・ミッシェル・ノートルダム駅へ。ここでB線に乗ってドゴール空港へ。11:45離陸。

<「すし」と「うどん」>
 それまでは日本食にありつけず、日本食に飢えていたので、パリでは2日間とも夕食は「すし」、昼食は「うどん」とした。「すし」はホテルから100mのところにある小さなレストラン「HOSHI」で食べたが、お店は地元のパリっ子で満員。サラダを肴にワインを飲みながら談笑していた。「すし」の値段は1000円位。とにかく、ボリュームがあった。すし1貫が小さなおにぎりほどの大きさで、9ケのうち6ケを食べたところで満腹になり、このほかに付いていた茶碗一杯のごはんも残してしまった。「うどん」はオペラ座通りから横町に入ったところにあるお店へ。昔、職場の研修旅行でパリに来たときに、添乗員に連れていかれたことがあり、このあたりにいくつかあるのを知っていた。これも、ごはん付きで1000円位。
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16.おわりに

<Mさんとの気持のすれちがい>
・14日間、同行してくれたMさんはマラソンやウオーキングの大ベテラン。200kmマラソンなども完走しており、歩く速度がたいへん早い。

  2人の間が離れると、初めは走って追いつこうとしたが、そのうち、こちらもマイペースで歩くようになり、離れすぎると彼は腰を下ろして待っていてくれた。10分以上待たすこともかなりあり、彼もいらいらしていたのではないかと思う。泊まる宿を決めて、彼には先に宿まで行ってもらうなどの工夫をすればよかったと今は思っている。

・Mさんはレストランやカフェが嫌いだった。日本では食事はいつも簡単な物で済ましており、巡礼路でもお店で買ったもので3食を済ますことが多かった。一方、私はパン中心の食事では体がもたないと思い、昼食は、肉と野菜をおいしく食べるために、できるだけレストランを利用した。また、午後の一休みに、私はカフェに入ってコーヒーを飲むのを無上の楽しみにしていたが、彼はこれも嫌いだった。道端に腰を下ろし水を飲めばよいという考え方である。

 彼は私に数回ほどおつきあいしてくれたが、内心は入りたくなかったようだ。彼がそんな思いでいるとは全く気づかずにいて、帰ってきてから初めてそれを知ったが、現場で率直に話し合えば「一人は中で、一人は外で」などの方法で解決ができたのではないかと今は思っている。

 いずれにしろ、2人以上で歩けば、どんなに仲が良くてもすれちがいが生じる。それを乗り越えるのは率直な話し合いではないかと思う。

<体重2kg減少>
 帰国後、家での風呂は別として、20日ほど経って初めて銭湯に行った。体重を量ると55から53に2kg 減っていた。パンばかりの食事が体には負担だったということだろう。その影響が20日経っても残っていた。マッキンリー登山のときは、毎日の主食が日本から持っていった米だったので、体重がかえって増えたのだが。

<自分の人生にとって、どんな意味を持っているのか>
 今はあまり考えられない。時間が経つにつれてはっきりしてくると思う。

17.その後
<2009.9.17>
 今回の旅について、かなりの人に話をした。六つ星山の会の例会でも話す機会があった。時間が経つにつれて、「行ってきた」という充実感が強くなってくる。

<2009.11.15午後 巡礼報告会に出席>
 東京カテドラルで行われたサンティアゴ友の会主催の表記報告会に出席。巡礼に行こうと思っている約50人の方が出席し、今年前半に行った12人(私も含めて)が各人約5分で報告を行った。巡礼証明書(最後の100kmを歩けばもらえる)をもらった日本人はこの5年間で年間約100人から500人へと5倍に増えているとのこと。また、巡礼路には、私が行ったフランスの道のほかにも、名前が知られている道が10本以上あるが、北の道(スペインの北岸、海沿いを歩くもの)、銀の道(セビリア-メリダ-サラマンカ-サンテイアゴを歩くもの。VIA DE LAPLATA とインターネットに入力すると資料が見られる)について、歩いた人から話を聞き、100ページを越える詳細なルート地図が掲載された本も見せてもらった。その他、パリから歩いた人にも会った。詳細なルート地図さえ入手できれば、これらの道を私でも歩けそうだ。

 どんな分野でも、奥は深い。私の前を行く人が沢山いる。



         ≪行程-宿泊地と歩いた距離≫

<2009年6月19日>
 成田発12:00、パリ着20:45。Mさんと一緒に空港で仮眠。
<6月20日>
 パリから鉄道でエチエンヌを経てル・ピュイへ。「i」(インフォメーション・センター)の紹介で「Auberge de Jeunesses」に宿をとる。朝食付14ユーロ。夕食は広場のカフェにてフランス・パンのサンドイッチと紅茶で済ます。4.8ユーロ。
<6月21日>歩いた距離24km
 7:00-8:00、大聖堂のミサに出席。ミサから帰り、ジットで朝食の後、9時頃に巡礼への第一歩を踏み出す。
 途中、農家の若い女性が小屋掛けをしてコーヒーを売っていたので、一緒になった若い男性のステファンとそこで一休み。
 夜はSaint-Privat-d'Allierのジット泊り。
 テント泊りのステファンから「夕食を一緒に」との提案があり、町で会ったセバスチャンほか一人も入れて5人でレストランに入り、夕食。かたことの英語でサッカーやラグビーの話をするが、なかなか言葉が通じず、もどかしかった。
 なお、ルピュイからサンチャゴまでの距離は1495kmとする本が多いが、ル・ピュイの町はずれの標識には1521kmとあった。(下の一枚目の写真:遠く岩上にピンクの聖母子像が望める)

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<6月22日>28.3km
 出発して1時間30分後、眼下に見えた谷底のMonistrol d'Allierの町へ。鉄道の駅あり。ここから川を渡り、岩壁の道をジグザグに登る。30分ほど、ややきつい急登が続き、丘の上へ。
 丘を行き、Saugues(ソーグ)の町でまた、セバスチャンと会い、一緒にカフェで一休み。マダムが「日本人が店に来たのは初めて」と言っていた(これはセバスチャンが通訳してくれたもの)。次いで、平坦な森の中の道を行き、セバスチャンが予約してくれたLe Falzetのジットに宿を取る。小さな村の民宿。夕食はおばあちゃんの手料理だった。前記3<印象に残ったジット>参照。
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<6月23日>30km
 8:30発。丘陵地帯。飽きるほどに牧草地と森が続く。農家はほぼ30分おきに一軒ある程度。このあたり、フランスで最も人口密度が低い地域だと聞く。スタートして12kmで標高1200mの峠に着く。国道沿いにChapelle Saint Rochという白壁の教会あり。峠を越え途中の町でカフェへ。
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 17:30、Les Estretsのジットに到着し宿を取る。新築のジットピーターと同宿となり、用意してきたカラーコピーの自己紹介状を渡して親しくなる。彼は55歳のドイツ人男性。ドイツの故郷からサンティアゴ・デ・コンポステーラまで3ケ月をかけて歩くという。
 夕方、10人ほどで会食。私の自己紹介状がピーターから回され、皆からあれこれ話しかけられた。更に東京カテドラル発行のクレデンシャルも回覧。日本で発行されたものは珍しく、皆、興味深く眺めていた。前記3<印象に残ったジット>参照。
<6月24日>27km
 途中、道端に丸い小さな教会あり(下の写真)。
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 夕方、Rieutort d'Aubracの入口にある、巡礼路脇の、地図には載っていないジットに泊る。モンゴルのパオが宿泊場所。一棟に10人以上が車座になって眠れるもの。ピーターも泊っていた。セバスチャンは持参のテント泊。客はこの4人のみ。夕食はおばさんの手料理。大きなシェパードも一緒だった。
 翌朝、霧が出ていて、6時頃、一人で見物に出る。丘はくっきりと見えるが、下の盆地に霧がただよっていて幻想的な写真が撮れた。前記3<印象に残ったジット>参照。
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<6月25日>25km
 6.5kmでNasbinalsの町。そこからからAubracの町へ。かっては荒野で最大の難所だったところを3時間(9km)で越える。標高は高く1300mだが、今は延々と見晴らしのよい牧草地が続く。Aubracの町に入り、レストランで昼食。午後は森の中を2時間下って、Saint Chely-d'Aubrac泊り。1階が巡礼事務所、2階がジット。通りに等身大の牛の置物あり。リンゴ、バナナ、ハム、パンをコンビニで購入し、夕食とする。

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<6月26日>33km

 朝、お互いに肩を抱き合い、セバスチャンとお別れ。彼はここから出身地のロレーヌに帰るという。別れたあと、森の中を登って丘の上に。途中の村で農家の納屋をコーヒーとジュースの無人スタンドにしたものを見つけた。何をいくら飲んでも1ユーロ。ここで一休み。丘を下り、Estaingの町へ。教会付属のジット泊り。ピーターと同宿。前記3<印象に残ったジット>参照。Estaingは川沿いにある素晴らしい町。風格のある領主の館がそびえていた。
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<6月27日>24.5km
 Espeyracの「Gite d'etape commnal」 泊り。commnalとあるのは公共の宿。素泊り10ユーロ。ピーターと同宿となる。管理人が村の食料品店(フランス語で「Epicerie」という)は17時に開くと教えてくれた。夕食と翌日の朝・昼の食事分として、パン、バナナ3本、桃1ケ、リンゴ1ケ、トマト2ケ、ハム、缶ジュース2本、ヨーグルト2ケを買う。ハムを除いて6ユーロ30。ホテルに行けば夕食は12ユーロとのことだったが、行かずにこれで済ました。
<6月28日>12.5km
 森の中を30分下るとコンク(前記「見どころ」参照)。「Gite d'etape commnal」泊り。公共のジットへ。ピ-ターは教会付属のジットに泊っていた。とてもよかったとのこと。
<6月29日>24.0km
 丘に登り、延々と歩く。農家の前で腰をおろしていると、おじいさんが水飲みを持ってきてくれた。芝生に寝転がって一休み。とても気持良し。Livinhac le-Hautの町の入口にあるジット泊り。塔の中にある部屋で寝る。
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<6月30日>24.5km

 たまにはホテルに泊ってみようとFigeac(フィジャック)のホテルに泊る。セレ川沿いの宿(写真の一枚目)。素泊り2人で68ユーロ。ロゼッタ・ストーンを発見したシャンポリオンの出身地で記念館がある(写真の3枚目)。日本人のツアーに会い、宿泊地のジットで巡礼手帳に押してもらうスタンプについて、いろいろと聞かれた。
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<7月1日>23.0km(25,2kmを近道して)
 最初、近道をしてセレ川沿いの車道を8kmほど歩く。しかし、車が多いのに車道脇に歩道がなくて危険なので、本来の巡礼路に戻る。Bedoerの村でGR65を離れ、セレ川沿いのGR651の道を行く。3日後、カオールで再びGR65に合流するルートで、私が利用した「Miam Miam Dodo」という地図帳の「Plan Cele1-7」に載っていたもの。川沿いを歩きたくてこの道を選択した。この日は、Erespagnacの「Gite d'etape commnal」 泊り。隣は古い修道院。今は使われておらず、改造されて、数軒の家として利用されていた。その1軒がレストランで、オバサン手作りの15ユーロの夕食を食べる。家族も別の部屋で食べていた。
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<7月2日>30.0km(34,0kmを近道して)
 丘の上を行く巡礼路を離れ、一日中、セレ川沿いの国道を歩く。このほうが近道。この道は車が少ない。キャンプ場が数か所あり、売店やプールもあった。サイクリングを楽しむ数組に会う。川をカヌーで下る人も。川幅が広く流れが淀んだ深みでは、子供が数人、泳いだり、カヌーに乗ったりして遊んでいた。昨日、荷物の一部を捨てたせいか、体が軽くて気分がよい。気持に余裕が出てきたので、風景が楽しめた。両側には高さ数十mの岩壁がそそりたち、朝日で赤くそまる。ポプラ並木を吹き抜ける風の音、せせらぎの音、セミの声、鳥の声。Cabrerets泊り。Mさんは食べないというので、一人でレストランへ。店のおばさんはフランス語のみ。言葉が通じない。旦那も出てきてメニューを見ながらジェスチャーとかたことの英語で会話。サラダ、ジャガイモと鶏肉の炒め物、レモン・パイを注文(パンとワインは無料で付いた)。11.50ユーロ。別に紅茶が1.80ユーロ。
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<7月3日>30.0km(34kmを近道をして)
 途中、Bouziesの町からサン・シラク・ラホピーを往復(往復8km)。夕方、ジットではないが、丘陵の上にある小さな村・Les Mazuts の 「Chambre d'hotes」 という宿に泊る。大きなお屋敷の部屋が宿泊場所。素敵なプールあり。泳ぐ。2食付34ユーロ。前記3<印象に残ったジット>参照。
<7月4日>13.2km
 丘を下り、ロット川沿いの畑の中へ。畑の端のトウモロコシを踏みしめながら行く。踏み固められてはいるが、道はないに等しいほどに狭い。カオールに入り、ロット川の橋を渡ったところに交番のような小さな巡礼案内所があり、おばさんに呼び止められた。中に入り、ジュースをご馳走になり、ジット・「Gite d'etape Le Relaisdes Jacobins」の場所を教えてもらう。町の中心にあるレストランで昼食。コーヒー、パン、サラダ、メロン、ハムで9ユーロ。カオール泊り。ロット川巡りの観光船に乗る。8.5ユーロ。この町でGR65が合流する。
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<7月5日>21.3km
 Mさんは帰国。ここからは一人旅。町から崖を上がり、荒野のようなところを行く。次いで、それが麦畑に変わる。Lascabanesの教会付属のジット泊り。前記3<印象に残ったジット>参照。
<7月6日>23.0km
 6時30分スタート。ジットで同宿だった人達と後になり、先になりして、丘の上の畑の中、森の中を行く。9時頃、Montcuqのカフェで朝食。Lauzerte泊り。丘の上の大きな町。偶然にも、サン・シラク・ラホピーのカフェで同席だったフランス人夫妻と再開。握手をして一緒に写真を撮る。ジットではカナダのリアル・ロイさん(68歳男性)とベッドが隣り合せになり、レストランで一緒に夕食。 (下:1枚目、朝食。2枚目、Lauzerteの町)
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<7月7日>24.5km
 Moissac(モワサック)泊り。大きな町。丘の中腹にある修道院のようなところに宿をとる。まず、町を見物。町の中央にある大きな教会には有名な回廊があり、これを見たあと、運河沿いを散策。橋の欄干には直径2m位の花籠。道路脇には花壇。いたるところに盛り上がるように花が飾ってあった。前記3<印象に残ったジット>参照。
<7月8日>25.3km(29.3kmを近道をして)
 運河沿いの気持のよい並木道を歩く。Saint-Antoine-du-Pont-d'Arratz泊り。私を含め巡礼者5人はレストランで夕食(12.80ユーロ)。夫婦連れ2組はジットで自前の食事。(下:ジットとレストラン入口)
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<7月9日>23.5km
 Lectoure泊り。丘の上の城壁都市。「i」(インフォメーション・センター。町の人に「office de toursmeはどこ」と聞けば教えてくれる)で聞いて最初に行ったジットは満員。道路に立っていた若い男性が別のジットへの行き方を教えてくれた。着いたが、扉がピッタリ閉まっていて開かない。留守だろうか。ここが泊れないときは、どうしたらよいのだろう。不安に思いながら呼び鈴を押し続けた。と、2階の窓が開き、おばさんが顔を出し、扉を開けてくれた。気持のよい中庭に案内されて椅子に座ると、「まずは一休み」とおばさんが紅茶とクッキーを運んできてくれた。夕食はコンビニでレトルトのカレー(ジャガイモ、人参入り)を、パン、ハム、キュウリ、トマト、リンゴと一緒に買い、ジットの電子レンジで温めて食べた。カレーのジャガイモのがうかったこと。(下:インフォメーション・センター)
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<7月10日>29.0km(35.0kmを近道をして)
 Chapelle d'Adrinのあるところから川沿いの近道を取り、Condomへ。道はやや分かりにくかった。町に着いて、まず「i」を探し、そこで、学校の一室を開放した「Gite d'etape commnal」 を紹介してくれたが、このジット、探すのに手間取った(前記11<一番困ったのは>参照)。7時スタート、15時30分着。
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<7月11日>29.6km
 7時スタート。11時頃、畑の中にある一軒家のレストランで昼食。パン、サラダ、コーヒーで10ユーロ。ただし、サラダは直径30cmのボウルに大盛り。サラダが食べたかったので、喜んで全部食べた。12時過ぎ、Montreal‐de‐Gersの町の広場に着く。前夜に同宿だった人達に会い、一緒にコーヒーを飲む。ここで、ジットに予約の電話を入れたが、通じない。同席のフランス人も電話をしてくれたが、通じなかった。とにかく、あと11km先、Lamotheの村のジットを目指し、みんなと別れて出発。ところが、着いてみると、週末で学生の団体が宿泊していて満員。「一人だけ。床に寝てもよいから」と手真似で頼んだが、断られてた。しかたなく、更に4km先のEscoubetのジットへ。地図に従い巡礼路を離れ丘の上へ。ジットがなかなか見つからない。子供が沢山遊んでいる公共のプールで聞くと、引き返した所にあるという。ジットの表示はないが、フランス語で大きな看板が出ている学校のような建物がそれだった。きょうは30km以上歩いて17時20分着。疲れた。建物は学生で一杯。私の宿泊場所は庭にあるパオだった。建物付属のベランダで一休み。長椅子あり、景色よし、すずしい風が通るで、素敵な休憩場所だった。あとから、前の町で別れた4人も到着し、庭で5人で夕食。マスターが「ことし、日本人が一人泊ったよ」と言っていた。前記3<印象に残ったジット>参照。
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<7月12日>24.7km
 Nogaroのジット泊り。日曜で「i」はお休み。幸い、道端にジットの矢印が出ており、それに沿って歩いていくと「Gite d'etape」にたどり着いた(泊り9ユーロ、朝食3ユーロ)。受付は親切なおばあちゃん。前記8巡礼者の状況<親切な人達>参照。デュバルサンと初めて会う。レストランは日曜で一軒しか開いていない。そこで夕食。失敗談あり。前記11<いくつかの失敗>参照。グライダーなどの小型飛行場あり。
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<7月13日>28.2km
 Aire sur l'Adourの「Gite d'etape prive Hospitalet Saint‐Jacques」泊り。素敵なジット。管理人ご夫妻も素敵。前記3<印象に残ったジット>参照。顔なじみの人達と同宿。私はマリーさん、ニュー・カレドニアの女性と3人だけで同じ部屋となった。
<7月14日>24.8km
 Maison Marusanの「Accueil a la Ferme」というジット。プールあり。鴨肉の缶詰を買い、夕食。前記3<印象に残ったジット>参照。巡礼路上の町 Miramont-Sennsacq からルートを外れ、30分ほど歩いた村にある。
<7月15日>30.4km(徒歩のみ)
 Pompsまで徒歩。そこから迎えの車に乗り、巡礼路から6kmほど離れたMorianneのホテル「Chambre d'hotes(Mme Geyre)」泊り。朝食付36ユーロ。前記9コミュニケーション<電話での連絡に成功>参照。古城を見学後、レストランで夕食。パン、サラダ、ジャガイモ、肉、キュウリ、スポンジケーキ、アイスクリーム、ワイン、紅茶。客は私だけ。家族も同じものを別の部屋で食べていた。(下:小さなホテル)
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<7月16日>16.7km
 ホテルからPompsまで車で送ってもらう。Castillonから森の中へ。ここではじめて、道を間違えた。うす暗くて草の生い茂った森の中の分岐点で、黄色い矢印に沿って左に進んだところ、小さな村に出た。村を通って幅の広い車道へ。これを左に歩くが、いくら行っても地図にあるArthez de-Bearnの町にたどりつかない。どうもおかしい。通りかかった車を止めて聞くと、その町は後戻りした方向にあるとのこと。もう一台止めて聞くと運転手は同じ方向を指さした。納得。D269という国道に出るはずが、D233に出てしまったのだ。延々と後戻りし、更に右に進むとやっと、その町にたどり着いた。このあたり、黄色い矢印はGR65を示すものではないということである。1時間以上のロス。あとで分かったが、デュバルさんも同じところで間違えたという。このあとは順調。Cambarratの「Gite d'etape prive de Cambarrat」泊り。Maslacq の町の手前、巡礼路を離れた森の中にある。前記3<印象に残ったジット>参照。
<7月17日>24.1km
 途中10時頃、Abbaye de Sauveladeの村で、激しい雨が降り出し、ジットで雨宿り。無人だったが、電子レンジを使い、レトルトのカレーを食べて一休みする。歩き出すと、いったんは晴れ間が見え、虹が出たが、すぐに黒雲が突風を伴いやってきた。雨具を2重に着けて(ゴアテックスの雨具とビニール製のポンチョ)、身づくろい。再び激しい雨。それに負けずに歩き続ける。午後も雨止まず。Navarrenx泊り。道路際のBarでおばさんがジットの受付をやっていた。(下の右がジット)
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<7月18日>18.0km

   リヨンから歩いてきた教会の牧師さんと後になり、先になりして歩く。20m位の木の上に小屋あり。猟銃で鳥を打つための小屋とのこと。Aroueの手前で広々とした丘に出る。眺めのよいジットあり。デユバルさんが泊っていた。牧師さんもそこに泊るとのこと。Aroueの村は丘の下。私は予約してあるので、その村まで下り「Gite d'etape commnal」 に泊る。ところが、周囲に食料品店、レストランが全くない。泊り客はまだ私一人だけ。どうしよう。壁にいくつか張り紙があったので、辞書を引いて読む。簡易辞書なので分からない単語が多いが、パンや卵、スパゲッティなどの値段だけは読めた。もう1枚には管理人が宿泊費を集めにくる時間が書いてあった。集金のときに食料を売ってくれるのだろう。夕方になると、はたして、管理人のおばさんがやってきて、棚の扉と、床にある2mほどの冷蔵用ボックスを開けてくれた。パン、バター、ジャム、ハム、チーズ、生卵、缶詰のサラダを買い、ガスで目玉焼きを作り、持っていたレトルトのリゾットをレンジで温め、夕食とした。他の泊りは結局、3人連れのおばさんだけ。
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<7月19日>22.6km
 途中の村 Hiriburia でルピュイの道、パリからの道、ヴェズレーからの道が合流。3本が合流することを示す「ジブラルタルの碑」あり。
 そこから20分ほど登った丘の上の景色は抜群。ピレネーの山容が望めた。(冒頭の「見どころ」参照)
 これを下りてOstabatで泊る。町は丘の上、ジットは丘の下。夕食用の食料を持たずに到着したが、日曜のため食料品店は開いていない。一緒に泊ったおばさん3人は前日に食料品店に電話をしてパン、ハムなどをジットに届けてもらっていた。どうするか。同宿のおばさん達に聞いたが、フランス語しか話さないので、よく分からない。たまたま、ジットの入口に張ってあるチラシに目をやると、その一枚がレストランの宣伝であることに気がついた。辞書を片手に苦労して読んでみると、そのレストランでは夕食が予約制で食べられるという。早速、そこに行って食事を予約。その店は丘の上の、教会の向かいにあり、夕食は巡礼者5人での会食だった。

<7月20日>21.4km

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 デュバルさんと一緒に緑の麦畑や牧草地が広がる農村地帯を歩き、サン・ジャン・ピエド・ポーに到着(上の写真、3枚目:サンジャンの入口)。巡礼事務所で紹介を受け、事務所から数軒離れたところにあるジットへ。サン・ジャンを出発点としてサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩く人は多く、特に夏季休暇中なので、町では若者の集団が目に付いた。その他、ピレネー山脈のイバニエタ峠を越えて、ロンセスバジェスで1泊して戻ってくるハイカーもいるようだ。それらに観光客も加わって町は大混雑。
<7月21日>
   サン・ジャン・ピエド・ポー泊り。朝、パリ行の切符を買ってもらうためにデユバルさんと一緒に駅へ。途中、巡礼路で知り合ったフランス人女性と会い、3人でカフェに入り雑談。二人ともきょうの列車で故郷に帰るという。ほほにキッスを交わして、お別れ。
 それから、一人で丘の上の城跡に登り、ピレネーの山々を眺めたり、芝生に腰をおろしのんびりしたりして過ごす。昼はサン・ジャック門の傍のサンドイッチ屋さんで野菜サンドを食べる。午後はおみやげを物色。
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<7月22日>
 サン・ジャン9:45発(地方鉄道)-バイヨンヌ乗換-TGVで15:55モンパルナス着。駅から5分のホテルに泊る。地下鉄でルーブル美術館へ。夕食はモンパルナスのすし屋で。
<7月23日>
 同じホテルに泊る。ルーブル美術館、オルセー美術館、凱旋門、エッフェル塔などを歩いて巡る。エッフェル塔には歩いて登った。
<7月24日>パリ空港11:45発、モスクワ経由(乗り継ぎ17:20-19:20)。
<7月25日>成田10:00着。                  

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2回目のサンティアゴ巡礼・準備編-「ル・ビュイの道」をめざして

<2回目のサンティアゴ巡礼・準備編-「ル・ビュイの道」をめざして>

注)2009年6月21日-7月20日、この道を歩いた。「サンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道) 」 http://takesitamura.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-22f5.html に報告を掲載したので、参照されたい。

  (行こうと思う・2008年9月)
 精神的にちょっと疲れて、毎日の生き方に積極性が失われてきた。六つ星山の会(視覚障害者と共に山に登る会)の事務局を担当して10数年、事務と1-2週間おきのサポート登山を延々と続けてきたが、①最近は日程が混み合い休む暇がなかったこと、②視覚障害者登山で4泊5日の南アルプス縦走(仙丈岳-仙塩尾根-塩見岳)にサポートとして参加したときに自分が登るのがやっと。サポートどころではないと脚力の衰えを痛感したこと、③山の会でいろいろと人間関係の葛藤があり悩まされてきたことなどが原因と思われる。

 これではいけない。前向きに生きる気持を持たなければ。それには夢を持ち、実現するために努力をすることだ。
 夢。それは、ヨーロッパでの長期間のウオーキング。5年前のスペイン巡礼に続いて、フランス国内をル・ビュイからサン・ジャン・ピエド・ポーまで歩くこと。これまで何となくあこがれてきたが、その実現に一歩を踏み出してみよう。

 映画「サン・ジャックへの道」(フランス映画・日本で公開済)は兄妹3人がサンチャゴ巡礼路を歩く物語だが、その前半部分がこの路である。そこに行こうと思うと、何かワクワクしてくる。

 マッキンリー登山が決まったときや、前回のサンチャゴ巡礼に行くと決めたときも、行くまでの数ヶ月間、そんなワクワク感を味わいながら毎日を過ごした。人生では最高の瞬間がいくつかあるが、その一つが大きな夢への挑戦であろう。もう一度、そんな夢に挑戦してみたい。

 まずは行く仲間。フランス国内はスペインほどに道や宿泊施設が整備されていない。道が分からなくなったり、宿が見つからないということもあるだろう。そんなときに相談しながら一緒に歩ける、気心の知れた仲間がいたら、とても心強いのだが。

 2008年9月のある日、友人のmzさんに会ったとき、「来年の夏頃、一緒に行かないか」と誘ってみた。彼は私より10歳若い。200kmマラソンなどもやっており、一緒に行ければたいへん心強いのだが。かって、春の聖岳に連れて行ってもらい、「吉野-熊野・奥駆山行」ではテントを持ってもらった。気心が知れている。しかも、英会話が私よりはるかに上手だ。「あまり長い期間でなければOK」とのこと。まずは、ハードルを一つクリアした。

 次は体力の問題。今は70歳だが、前回64歳でスペイン国内のサンチャゴ巡礼路を歩いたときとは異なり、体力が落ちている。最近は2歳と4歳の孫の相手で忙しく、ジョギングや水泳をほとんどやらなくなった。そのせいか、胃の調子もよくない。こんな状態では前回のように毎日歩き続けることはできないだろう。体力と脚力の回復が必要だ。

 とりあえず、4日ほど朝夕5kmのジョギングを欠かさずに続けてみた。急にやったので、ももが痛い。また、妻と銀座を散歩したあと、一人で銀座から北千住まで隅田川沿いを1回も休まずに歩いてみた。3時間15分のウオーキングである。次は市内のプールで水泳を1500m。視覚障害者登山の関係では奥多摩・青梅のハイキングコースや山中湖畔・三国山へ。

 これからはこんな形で、視覚障害者登山のほかに、ジョギングと水泳、それに一回5-8時間のウオーキングを組み合わせて、巡礼路を歩き続けられるだけの力を付けていきたいと思う。

(道と宿を調べる)
 行くとなれば、まだまだいろいろと心配がある。スペイン国内では「道しるべ」がはっきりしており、道に迷うことはまずなかった。5-10kおきに無料の宿泊施設も完備していた。フランス国内ではどうだろう。

 道が分かるだろうか、安い宿はあるだろうか、食事は手に入るのか、どの程度の数の巡礼者が歩いているのだろうか。
 これらを知るために、まず、フランス国内の巡礼記録が載っている「銀河を辿る-サンティアゴ・デ・コンポステラへの道」(新評論・329頁・3200円・清水芳子著)という本を読んでみた。日本語で書いた徒歩の巡礼記録については、スペイン国内の旅行記は5-6冊あるのだが、フランス国内の巡礼記はほとんどない。

 この本は「サン・ジャックへの道」を見に行った映画館でたまたま見つけて手に入れたものである。
 フランス国内の巡礼路には北から、パリを出発点とする道、ヴェズレーからの道、ル・ビュイからの道(以上3本はサン・ジャン・ピエド・ポーに通じる)、サン・ジルの道の4本があるが、この本はル・ビュイの道を行く徒歩の旅行記(750km・37日間)である。
   
 これを読んで「GR65」を知った。「GR」はフランス国内に張り巡らされた自然歩道であり、「65号」はル・ビュイからサン・ジャン・ピエド・ポーに至るサンチャゴ巡礼路である。これをたどっていけば良いようだ。
 9月12日に都心の「八重洲ブックセンター」に行き、「GR65」が載っているル・ビュイ周辺の地図MICHELIN・No522 Region・1600円・縦横とも1m50cmほどのもの。裏面あり。フランス国内を17区分した詳細図の一つを買ってきた。
 
 家に帰ってじっくりと眺めると、ル・ビュイから「GR65」と記された点線が切れ切れに西南に伸びていた。これだ。赤インクで印を付けながらたどるが、地図が途中までしかない。数日後、もう一度、店に行きNo524No525も買い求め、その「GR65」にも赤線を付けた。

 ほとんどが国道や県道などの車道沿いにあり、道が分からない場合は、車道を歩けば次の目的地に着けるように思う。ただし、標高1000m前後のオーブラックの荒野越えは別のようだ。ともかく、これでサン・ジャン・ピエド・ポーまでの道は大まかに分かった。

 次はインターネット。ヤフーで「サンチャゴ巡礼 ル・ビュイと入力し検索すると7件がヒットしたが、徒歩の旅行記はみつからなかった。次いでGR65」で検索すると8万件がヒット。その冒頭にル・ビュイの道を行く日本人の徒歩旅行記が4件見つかった。
1)「Camino GR65-2006年夏のGR巡礼の記録」
  http://takahiroh1.cocolog-nifty.com/

TAKA(タカヒロ)さんの一人旅。7月12日福岡発、7月13日パリ経由、列車でル・ビュイへ。14日、市内観光、15日スタート。8月15日サン・ジャン・ピエド・ポー着。32日間を要す。
2)「Spiritual Path to Santiago de Compostela」                        http://hanguro.cocolog-nifty.com/james/gr65/index.html
2007年5月26日-6月30日の一人旅。

3)2003年夏「ヨーロッパ巡礼の道」1495km徒歩旅行 http://www.ne.jp/asahi/hoji/hoji/pilgrim/

  ご夫婦と友人の3人旅。奥さんは途中で帰国。2007年5月21日成田発、パリ1泊、リヨン2泊、ル・ビュイ1泊。5月26日スタート、6月29日サン・ジャン・ピエド・ポー着。期間35日間。2006年にサン・ジャン・ピエド・ポーからサンチャゴ・デ・コンポステーラまで歩いたことあり。
4)スパ&スパエッセイ‐kikiさんからhttp://www.geocities.jp/camino4321/camino/jyunreiki/mrs_kiki/essay_8_2.html
  11歳の娘さんと主婦の二人旅である。カナダ在住。ル・ビュイ1泊後、7月2日スタート。ときどきトランスバガージュ(タクシーに似たもの)を利用。7月30日サン・ジャン・ピエド・ポー着。

 これらを読んで、留意点をメモしてみよう。
 宿については、上記4件の記事により、1泊10フラン前後の「ジット(Gite d’etape)」というハイキング用の宿泊施設が全国的に、もちろん「GR65」沿いにも点在しており、巡礼者はそれを利用していることを知った。また、詳しい巡礼路の地図はル・ビュイで手に入るという。
 さあ、まずは体力と脚力の回復だ。

日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会の講演会に出席
 サンティアゴ巡礼についての写真展や講演会の情報を得ると必ず見に行く。「ル・ビュイの道」の情報を得たいということもあるが、自分が行ったときを回想し、あのときの毎日の高ぶった気持をよみがえらせ、その感慨にほんのちょっとの間、浸りたいという思いもある。

 昨年だったか、「世界遺産巡礼の道を行く・南川三治郎写真展」を東京ミッドタウンにあるフジフイルム・スクエアに見に行ったが、今回は、「相田みつを美術館」で開かれている「祈りの道-サンティアゴ巡礼の道と熊野古道・ルイス・オスカニャ&六田知弘写真展」を見に行った。

 また、そのとき、下記の講演会があることを知り、その場で申し込み聞きに行った。
・講演会:祈りの道講座「サンティアゴ巡礼」
・主催:日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会(http://www.camino-de-santiago.jp/
・日程:2009年1月24日(土)15:00-16:30
・場所:相田みつを美術館(有楽町・国際東京フォーラム地下)
・定員:40名
 
 会場はほぼ定員一杯。写真を壁に写して、スペイン国内の巡礼路の説明が約1時間あった。講師は友の会代表の森岡朋子さん。それと、質問に答えるために、巡礼を経験した友の会の会員の方も数名参加しており、自転車で行きたいという若者の質問などに答えていた。

 私はフランス国内の巡礼路の地図の入手方法について質問。そこを歩いたことのある若い男性から、その地図はインターネット上の書籍購入システム「アマゾン」で買えると教えていただいた。

 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会は2008年6月に設立された組織。巡礼に行く人に情報を提供し、相談に乗る会で、日を決めての相談会や懇親会も開いている。友の会はすでに世界15ケ国以上にあるというが、行きたい人にとって、このような会があるとたいへん心強い。早速、入会した(年会費3000円)。

(映画「Within The Way Without - 内なる道を求めて-サンティアゴ巡礼の旅」を見る)

 2009年3月14日(日)14時-16時30分、「相田みつを美術館」に表記の映画を見に行った。
 定員40名。13時から整理券を配っていたが、20分で満員。私は36番目だった。
監督:Laurence Boulting。
出演:黛まどか(春に旅する)、ミレナ(ブラジル人。夏に旅する)、ロブ(オランダ人。冬に旅する)。
黛まどか:俳人。1999年5月-7月にこの巡礼路を歩き、『星の巡礼-スペイン「奥の細道」-』を著す。巡礼路で上記監督に会い、出演の依頼を受けて、再度、スペインに渡り、この映画に出演。今回の映画会にも出席し、20分間のあいさつをされた。
内容:旅の様子を追いながら、3人の旅人の心の動きを言葉で表現したもの(それらの言葉の日本語訳が次々に画面に流れ、すべてを理解するだけの時間がなかったのは残念)。
DVDの発売:外国では発売されているが、日本語訳のついたものはまだ発売されていない。
感想:巡礼をすることの意味を考えるのにたいへん有用。私の場合は「歩くこと」「歩き通すこと」、そのことだけが目的だった。でも、今振り返ってみると、私の人生の中で、最も素晴らしい思い出の一つとなっており、思い出すと、今でも、やりとげた満足感で心が充実する。

 (クレデンシャル(巡礼手帳)の発行を依頼)

 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会が会員向けに発行を予定している「クレデンシャル」を頼んだ。作成料1000円。プラス寄付。「東京カテドラル」のスタンプを押してもらえる。

(サンティアゴ巡礼に行く人のための相談会に出席)

・2009年4月11日(土)13:00-16:30、代々木八幡区民会館にて。
・主催は日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会。
少しワクワクしながら参加。何となく心が浮き立つひとときである。参加者は12人位。別に相談を受ける方が理事長の森岡朋子さんを含めて6人ほど。
 スペインを歩くことを目的とする人がほとんどだったが、私を含めて2人がフランスのル・ピュイの道についての相談だった。実際にそこを歩いた方が2人来て、1対1で相談に乗ってくれた。
 私の相談相手は伊豫谷さん。数年前の学生のときにル・ピュイ-サンティアゴ間とヴェズレー-サンティアゴ間を歩いたという青年である。道のこと、食料のこと、電話のかけ方、宿のこと、電子辞書のことなどを聞いたが、特に知りたかったのは「道は分かりやすいか」ということである。大きな収穫があった。それは、300頁に及ぶ詳細なフランス語の案内書を見せてくれたことである。使い込んで表紙が取れかかっていたが、旅の間の出来事がメモされており、彼にとっては思い出が詰まった大切な品のようだった。
「Maim Maim Dodo・Le Chemin de Saint Jacques de Compostelle・
Le Puy-en-Velay / Saint-Jean-Pied-de-Port・GR65」。
これがその本。連続して111枚の地図が載っており、地図ごとにジットや民宿、ホテル、キャンプ場、レストラン、カフェ、インフォメーションなどの所在地が記してあった。
これさえあれば道に迷うことはない。どこで昼食を食べるか、どこで泊まるかの計画も立てられる。ル・ピュイで購入できるとのことだったが、念のために、全頁のコピーをとらせてもらった。2千円を両替して30分ほど、時間を気にしながら夢中でコピー。あっという間に3時間30分が過ぎ、伊豫谷さんに厚くお礼を言い、森岡さんにあいさつをし、4月末に奥さんとこの道を歩くという望月さんに「成功を祈ります」と言って、会場をあとにした。
帰りは土曜日で賑わう代々木公園を通って原宿まで歩き、喫茶店でひとときを過ごす。

(日本で初めて行われた「巡礼者送り出しの祝福」のミサに出席)
 下記日程で、サンティアゴ巡礼に行く人のための祝福のミサが行われた。
・2009年4月29日(水・祭日)16時より。
・東京カテドラル・聖マリア大聖堂にて。
・主催は日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会。友の会理事チェレスティーノ神父が出席。
 日本では初めてのこと。見てみたい、経験してみたいという興味本位の気持から、また、巡礼の無事を祈りたいという思いもあって出席した。
 東京カテドラルは「椿山荘」の正面入口の向かい側にある。前面に高さ62mのオベリスク風の鐘楼がそびえ、大きくて、立派な教会だった。

注)日本のカトリック教会の管轄区域は16の教区に分かれ、それぞれに司教または大司教がいて教区の母教会としての役割を果しているが、東京教区は東京カテドラルがその地位にある。なお、(大)司教が、自分の教区内にいる信徒を教え、導き、司式するための「着座椅子」をギリシャ語で「カテドラ」と言い、これがある教会を「カテドラ」教会という。

  教会に入る。広々とした薄暗い空間。内壁はコンクリートのまま。天井は高い。正面の祭壇に20-30mほどの高さで十字架が立つ。ほかには装飾がない、簡素なものである。しかし厳かな雰囲気が感じられた。
出席者は50-60人位。60-70歳代と見える年配の方がほとんど。
 歌で始まり、聖書の一節が朗読された後、「旅に出る時の祈り」があった。巡礼に行く人は全員、前に出てと言われると、出席者のほとんどが前に出た。「いつくしみ深い父よ、今より出かける私を祝福してください。私が思いがけない病気や事故に遭って周りの人に迷惑をかけることのないように、これから出会う全ての人々に感謝の心と、暖かい心遣いで接する事が出来ますように、助けてください。守護の天使に導き支えられ、無事に旅を終えて、全ての出会いと出来事においてあなたの愛を見いだす事が出来ますように。私たちの主イエス・キリストのお名前によりお願いいたします。アーメン」。
 信仰心のない私でも、このような場で旅の無事を祈っていただき、「無事に行ってこられる」という気持になった。
ミサの後、場所を移して集会室へ。ワインとパンをご馳走になりながら、私の隣にいた男性と談笑。54歳。学生時代に1年間欧州を歩いたが、巡礼路のあることは知らず、行かなかった、60歳の定年になったら是非行きたいとのこと。シベリア鉄度に乗って欧州に渡り、ル・ピュイからサンチャゴへ、更にフィニステラまで歩いてはという話になり、大いに盛り上がった。

 心がちょっと弾んだ1時間が過ぎ、その余韻を味わいながら、帰路に着く。

(2009年1-5月、ウオーキングと登山で脚力アップ)

 注)時間は休憩を除いた正味で歩いた時間。

2009年1月21日 北柏-つくばエキスプレス・おおたかの森(3時間)
                 28日 新橋-月島-お台場-レインボーブリッジ-田町(3時間)
         30日 取手-戸頭-つくばエキスプレス・柏の葉キャンパス駅(3時間)
      2月 4日 新松戸-八柱・21世紀の森-常盤台(3時間)
                   6日 取手-谷津田ミュージアム-岡発戸・市民の森-天王台(3時間)
         9日 柏-逆井-五香-常盤台(3時間)
        13日 我孫子-手賀沼-大堀川-南柏(3時間)
        19日 池袋-駒込(2時間)
        27日 柏-我孫子(2時間)
        28日 柏-南柏-五香-元山(4時間)
     3月 3日 高柳-下総中山(5時間)
         5日 取手-利根町-布佐-取手(4時間)
        12日 取手-古利根-湖北-手賀大橋(3時間30分)
        18日 取手市内・井野台-駅前-利根川土手-井野団地(2時間30分)
             新しい靴(アシックス15,000円)を買い、きょうから履いて足慣らし。
        21日 取手-湖北-下手賀沼-千葉ニュータウン-白井(5時間30分)
             新しい靴は4時間を越えると足裏や腰が痛くなる。靴のせいか?
        23日 取手-守谷往復(4時間)
            サンチャゴ巡礼のとき使用した「ぼろ靴」が履き易い。今回もこれで行くか。
        25日 取手市内「かたらいの郷」往復(2時間30分)
        26日 取手-小堀-布佐-安食-成田山・新勝寺-成田(7時間45分。別に昼食休憩等で約1時間を取った)
           8時間歩いても、足はなんとか持ちそうだ。でも、腰や背中が痛くなった。休憩のときに腰と上半身のストレッチをすること。
また、腰や背中の筋肉を鍛える必要がある。                                                                            28日 柏駅-流山電鉄・流山駅
     4月12日 我孫子-南柏(3時間)。
             南柏駅前の喫茶店でホットケーキを食べながら、花や日本家屋等、素敵な写真が掲載されている「家庭画報」を見る。

                           今回のウォーキングはこれが目的。
         16日 取手-ひたち野うしく(4時間)  
         21日 船橋-東葉高速・飯山橋。西船橋-市川大野(4時間30分)
              サンティアゴ巡礼の打合せをしながら宮崎さんと歩く。分かれてから再び歩くが、雨が降り出し中止。
         27日 取手-柏-松戸-綾瀬(7時間30分)
              拍で昼食(うどん)、北松戸でテータイム。
              松戸市内の公園で満開の「桐の花」を生まれて始めて見た。ホタルブクロに似たブルーの花。
              夕方、江戸川を渡る。思いがけず富士山と箱根の山々が正面に見えた。
       4月30日 取手-北柏、南柏-柏(4時間)
              南柏駅前の喫茶店でホットケーキを食べる。
       5月 1日 石岡-土浦(4時間30分)。
               6号国道に沿い、ただし排気ガスを避けて国道を外して歩く。
        5月 4日 品川-旧東海道・品川宿-品川区立公園-水族館-平和島競艇場-平和の森公園-                                                                                                                                                                       -旧東海道に戻る-鶴見・総持寺-国道1号線-横浜(7時間)。
               旧東海道を歩くをつもりだったが、あちこちと寄り道をしてしまった。
               品川・鶴見間の旧東海道はほぼ真っ直ぐの一本道。品川宿の青物横丁には母が若い頃から信仰していて、よく一緒に行った「荒神様」(台所の火の神様)があり、お参り。本陣跡、坂本竜馬像、芭蕉の句碑なども見ながら歩く。総持寺見物のためにこの道と分かれてしまったので、後は不明だが、ここまでの道は分かりやすかった。
                総持寺は丘の上、新緑の大樹の中、境内は広大。昔、母と来たことがある。あとは1号国道を一直線に横浜へ。11時スタート、18時30分着。
         5月 6日 成田-佐倉
                 このゴールデンウィーク、2日と3日は孫一家が泊りに来て、また5日は孫と墨田区のプールに行ったので、ウォーキングはお休み。きょうは電車で成田へ。成田から佐倉を通り、京成・ユーカリが丘駅まで歩く。予報では曇りだったが、途中何度も雨に降られた。コンビニで買った450円のカッパを着て、折りたたみ傘を差して51号国道、296号国道を歩く。田植えが終わった田んぼが緑に煙っていた。
          5月14日 我孫子駅-手賀の丘公園-天王台駅(7時間)。
                 手賀沼の対岸の村を「手賀の丘公園」まで歩き、湖岸を戻り天王台駅へ。村には、明治16年に作られた「ロシア正教の教会」(普通の農家の奥に奥行5mほどで建増ししたもの。神田のニコライ聖堂で活躍した画家・山下りんのイコンの絵-複製-が飾ってある)や「将門神社」など、思いもかけないものにめぐり合った。
          6月2日 取手-我孫子(2時間30分)
(その他、六つ星山の会・視覚障害者登山) 
     1月 4日 高尾山(4時間)
        18日 小川町・仙元山(3時間)
        25日 狭山丘陵・八国山(4時間)
     2月15日 奥多摩・鹿倉山(6時間30分)
        22日 西武線・吾野・吉田山(4時間)   
    3月7-8日 北八つ岳・縞枯山-横岳(雪山入門コース)
     4月 5日 丹沢・鐘ケ岳-日向山
        19日 相模嵐山・サポート講習会
     5月10日 奈良倉山
    15-18日 屋久島・宮之浦岳(4人、うち視覚障害者2名)2009年

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初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く-

            「私の登山および旅行記」

 

 

  (目次)

序章

 1.はじめに

 2.写真で見る旅と山のハイライト

第一部 サンチャゴ巡礼の記録 

 第一章 「サンチャゴ巡礼」とは
 
章  初めてのサンティアゴ巡礼 -フランス人の道・800kmを歩く-」
 第三章 「2回目のサンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)」

  第四章 「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼 

  第五章 「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼-

第二部 海外登山

  第一章 マッキンリー

  第二章 アコンカグア

  第三章 キリマンジャロ

第三部 国内登山

 

序章

 

1.はじめに

○ このブログを立ち上げたのは2008年の1月頃。表題を「私の登山および旅行記」として、サンティアゴ巡礼や国内・海外の登山の記録、生い立ちの記などを掲載してきた。最初に掲載したのは「初めてのサンティアゴ巡礼」、次が「マッキンリー」である。
○ 私のブログの記事は、大きく分類すれば、①4回にわたる「サンティアゴ巡礼」の記録、②マッキンリー、アコンカグア、キリマンジャロ等の「海外登山記」、③山への挑戦、視覚障害者登山、山への思い、百名山等の「国内登山記」、④「読書の楽しみ」、「生い立ちの記」、「今年の山と旅」等の「日常の思いや記録」、⑤シベリア鉄道等の「海外旅行記」の5つである。

 

記事の一覧はインターネットに「ブログ・私の登山および旅行記・記事一覧を入力すると見ることができる。
○ これまでの山と旅
 私は1977年、40歳の頃から山に夢中になり、ほぼ単独で、初めは「日本百名山」を、次いで北アの全山縦走(西穂から-親不知海岸まで。ジャンダルム、栂海新道、などを越える)、南アの全山縦走(仙塩尾根、高山裏などを含む)、北鎌尾根、転付峠越えなどを楽しみ、その一方で海外にも目を向けてツアーに参加し、

・1988年にモンブラン(ヨーロッパ)、
・1991年にキリマンジャロ(アフリカ)、
・1993年にアコンカグア(南米)、
・1996年(58歳)にはマッキンリー(北米)

と、七大陸のうち四大陸の最高峰にも遠征した。このうち、キリマンジャロとマッキンリーは登頂に成功。特にマッキンリーの登頂成功は、山が素人の私にとって、今では、生涯最高の勲章とも言える、何物にも代えがたい思い出となっている。

 これらに加えて、1989年、51歳のときに視覚障害者登山団体「六つ星山の会」に入会し、以後は毎年10回前後(多いときは20回位)、視覚障害の方々をサポートして山に登ってきた。

  他方、60歳代後半になると体力の低下を感じ始めて、重点を登山からウオーキングに移し、海外を約1ヶ月間歩くサンティアゴ巡礼を始めた。これまでに行ったのは以下の4回。

・2003年夏、スペイン「フランス人の道」(メインの巡礼路。65歳のとき)
・2009年夏、フランス「ル・ピュイの道」
・2012年夏、ポルトガル「ポルトガル人の道」
・2014年夏、スペイン「北の道」(76歳のとき)。

 

○ これらを振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。準備のときから達成するまでの「ワクワク感」、頂上に立ったときや歩き切ったときの「達成感」がすばらしい。

 今でも、それらを思い出すと何とも言えぬ「幸せな気持」で心が満たされる。

「わくわく感」は小学生の頃に「魚とり」や「百人一首」で味わったことがあるが、そんな「わくわく感」を中高年になってから再び味わえるなんて……。2016年11月記  

2.写真に見る旅と山のハイライト(写真の一部、後日挿入

 最初に第一部、第二部を通じてのハイライトをいくつか紹介する。

1)四回にわたるサンチャゴ巡礼

①「フランス人の道」
 メインの巡礼路。サンティアゴ巡礼者の7割この道をが歩く。前半は乾燥地帯を行き、後半は森の中を行く。また、三つの峠越えがある。宿が多く、歩きやすい。
(下:前半、麦畑を行く)
Sl005_012
(下:イラゴ峠)
Sl016_007_2

(下:後半、森の中を行く) Sl029_007


②「ル・ピュイの道」
 フランスの農村を歩き、四つの観光地を巡る。
 
(下:牧草地を行く)Img_0541
(下:コンク。狭い谷間にあり、森の中に沈んだように見える。絵にしたい風景) Img_0747

(下:サン・シラク・ラホピー。川岸から急な坂道を20分ほど登った高台にある)

 Img_0963
③「ポルトガル人の道」
 見どころは、4っの観光地とアズレージョ。
 
(下:ポルトガル発祥の地・ポルト)


(下:大学都市・コインブラ。大学は13世紀の創立。16世紀に現在地に移る)
190

(下:トマール。12世紀にテンプル騎士団が建てた大修道院)
813
(下:ロカ岬。ヨーロッパの最西端にあり、詩人・カモンスイの「ここに地終わり、海始まる」の碑が立つ)

(下:青いタイル-「アズレージョ」。ポルトのサン・ベンダ駅構内。教会や道路沿いにも)

415

 
431
 
152

④「北の道」
 スペインの北海岸を行く。海の景色よし。ときには渡し船に乗る。

1646_2(上:San Esteban de Pravia)

1053(上:サンタンデルへの廻り道にて)

150(上:スペイン有数の観光地・美食の都・サン・セバスチャン。巡礼路は海岸沿いを左から右へ行く)
928(上:渡し船には3回乗る)

2)海外登山
「マッキンリー」
 北極圏に近いアラスカの山。白夜の6月が登山の適期。氷点下20度以下を経験。下:山頂)

Ba001_009
(下:左、はるか眼下にBCのテント群。更に遠く中央に登ってきたカヒルトナ氷河)
Ba001_039_2
 
(下:アッタク・キャンプへ。45度の雪壁と稜線)
Ba001_037  Ba001_058_2
 



第一部 サンチャゴ巡礼の記録

(目次)

第一章 「サンチャゴ巡礼」とは

1.サンティアゴ巡礼の魅力 

 1)多くの人との出会いがある。

 2)景色や宿などの点で、添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

 3)旅費が安上がり

2.サンティアゴ巡礼とは

3.四つの巡礼路を比較して

 1)道の難易度

 2)宿の状況

 3)巡礼者の数と出会いの機会

章  初めてのサンティアゴ巡礼 -フランス人の道・800kmを歩く-」

第三章 2回目のサンティアゴ巡礼・フランス編(ル・ピュイの道)

第四章 「ポルトガル人の道」を歩いて-3回目のサンティアゴ巡礼 

第五章 「北の道」を行く-4回目のサンティアゴ巡礼-

 

第一章 「サンチャゴ巡礼」とは

 

1.サンティアゴ巡礼の魅力 

サンティアゴ巡礼の魅力に惹かれて、徒歩やときには自転車でサンティアゴを訪れる巡礼者の数は2000年-2005年で倍増し、その後の4年間でもプラス5割となり、最近も急増中である。

その魅力はどこにあるのか。まず、これまでの4回の巡礼経験を基にして、私なりに感じたその魅力を紹介しておこう。
1)多くの人との出会いがある。

カミーノの最大の魅力は、世界各国から来た巡礼者や地元の人達と多くの出会いがあること。

歩いている人達は皆、仲間意識が強く、目が合えばお互いにニッコリとほほえみ合い言葉をかけ合う。そして、数日間一緒に歩けば、もう友達のように親しくなる。更に目的地のサンティアゴに到着したときに運よく出会えると、ハグをし合い肩をたたき合って、目的達成を喜びあう。ときには、旅の終わりにスペインの自宅に招待されたり、帰国後に日本に遊びに来て、こちらの自宅に泊ったりということもある。
2)添乗員の後に付いていくだけの旅行会社まかせのツアーとは一味違った旅が味わえる。

① ツアーではほとんど訪れることのない異国の小さな町や村、あるいは畑や森や川などをめぐるほかに、アルベルゲやジットといった巡礼宿に泊まる。

たとえば、宿では、
・廃村のアルベルゲ(普通のアルベルゲは2段ベットだが、ここは真っ暗な屋根裏が寝場所。天井が低くて這って動いても頭をぶつけるほどだった)、

・プールのあるジット(フランスではプールのある宿に2回ほど泊り、大好きな水泳を嬉々として楽しんだ)、

・宿の主人がバンジョーを弾いてくれるジット(食事の後、1時間ほど弾いてくれた。私はフォスターの「金髪のジェニー」をリクェストし、皆で一緒に歌ったが、なぜか懐かしさがこみ上げてきて、思わず涙ぐんでしまった)、

・宿泊費が無料のポルトガルの消防署(ベッドや毛布はない。借りられるのはマットだけ。それを誰もいない広い講堂の片隅に敷く)

などに泊った。

② 手作りの旅、冒険の旅である。

日程や宿など、すべての計画を手作りで行う旅である。それだけに事前の調査はたいへん。また、乗り物や宿の手配も自分で行うし、旅先で何か困ったときは自分の力で解決しなければならない。手数はかかるが、それが魅力でもある。

出発前の数週間のワクワク・ドキドキ感はたまらない。「ワクワク」と期待で胸が膨らむ一方で、「道は分かるか」「足は痛まないか」「言葉が分からなくても意思は通じるか」など心配は尽きず、はたしてサンティアゴまでたどりつけるだろうかとドキドキし、不安になることもある。

こんな「ワクワク感」は人生ではめったに味わえない。
3)旅費が安上がり(100-130円前後/ユーロ)。

アルベルゲ(スペインの巡礼宿。1泊5-7ユーロ。無料の場合もある。私営の場合は10ユーロ前後)や消防署(ポルトガルの場合のみ。無料)を利用すれば、宿泊費は安上がり。ジット(フランスでハイカーが泊る宿。2食付きで20-30ユーロ)やポルトガルで一般的に利用するペンションはやや高めだが、それでも日本の宿泊費(地方ホテルの素泊りは5千円程度。山小屋1泊2食8千円程度)と比べれば極めて安い。

その他

・朝と昼の食べ物をコンビニで買えば、1食2-3ユーロ。

・夕食はレストランで8-10ユーロ。

・スペインの場合、100円/ユーロで試算すれば、40日間の宿代と食費の合計は800ユーロ、約8万円で済ますことができよう。。

・ただし、このほかに航空運賃、空港までの鉄道・バス運賃、みやげ代などが必要。
4)その他、いくつか

道に迷うことはない。
 ・地図付きの案内書が英語や現地語で発行されており、日本で購入できる。

・分岐点には黄色い矢印などの道標が必ずある。

誰でも歩ける。

 脚力に応じて道を選べば、足弱の人(子供連れや高齢者)でも歩くことができる。

・どこから歩き始めても良い。

・1週間だけ歩いて帰ることもできる。

・一日の行程のうち、一部にタクシーやバス、あるいは電車を利用し、残りを歩くという方法もある。

・特に「フランス人の道」については、宿と宿の距離が短く(5-10km間隔)、脚力に合わせて1日の行程を決めることが可能。

英語やスペイン語・ポルトガル語などの会話ができなくとも歩くことができる。

宿の人、地元の人は外国の旅人に慣れており、宿を取ること、食事をすること、買い物をすることなどについては、ジェスチャーで意思を伝えることが可能である。

自分で食べたい食事のメニューや旅で必要な最低限の単語をあらかじめメモして持参すれば、なおよい。

もちろん、会話ができればもっとよい。旅の楽しさは倍加する。

.サンティアゴ巡礼とは
1)中世キリスト教の3大巡礼路の一つ

エルサレムへの巡礼、ローマへの巡礼と並ぶ中世キリスト教の3大巡礼路の一つであり、最盛期の12世紀には年間50-100万人の人がヨーロッパ各地から、スペイン西北端の聖都・サンティアゴの、聖ヤコブの墓がある大聖堂を訪れたという。今でも、スペイン、フランス、ポルトガルなどに、畑や森を抜け、村や町をめぐる中世の巡礼路がそのままに残っており、サンティアゴ大聖堂を目指してこの道をたどる巡礼者の数は多く、また、年々その数が増加している。
2)主な道は12本

「カミーノ・デ・サンチャゴ」(「カミーノ」は「道」の意味)と呼ばれる、サンチャゴを目指す巡礼路は主なもので12本ある(スペイン7本、フランス4本、ポルトガル1本)。

メインはもちろん「フランス人の道」と言われる巡礼路であり、2013年に巡礼証明を受けた21.6万人のうち、ここを歩いた人は15.2万人(70%)にも上る。宿も多く、ほぼ5-10kmごとにあるので、一日の行程を短くしたり長くしたりの調整が可能であり、足弱の人でも歩きやすく、初めての人にはお勧めの道と言えよう。

歩くのは中世の人が歩いた道そのもの。ほとんどは土や石ころの道であるが、ときどきは、舗装された車道が昔の道の上や近くにあとから作られており、この広い車道を歩いたり、そのそばを歩いたりもする。
 また、土や石ころの旧道でも道幅は広く歩き易い。全行程のうち、ときどきは幅50cm位で草むらに隠れた道を行くが、大半は道幅が5m以上と広く、しかも、峠の場合も急な登り下りは全くない
3)サンティアゴとは聖ヤコブの意味

「サンチャゴ」は「聖ヤコブ」のこと。フランス語では「サンジャック」という。

9世紀頃、この地にキリストの12弟子の一人「聖ヤコブ」の墓が発見され(西暦44年頃エルサレムで殉教したが、遺骸がスペインに船で運ばれたという伝説がある)、10世紀頃に巡礼路が開かれた。聖都・サンチャゴの正式名称は「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」というが、これは「星の野原の聖ヤコブ」の意味(なお、天の川は「聖ヤコブの道」と呼ばれている)。
4)巡礼者数の推移

①巡礼者数推移

サンティアゴにある巡礼事務所が発行する巡礼証明書(巡礼を終えたことを証明するもの。発行条件は巡礼事務所までの最後の100kmを歩くこと。自転車や馬でもよい。自転車は200km)によれば、1990年4,918人、2000年55,004人、2005年93,924人、2009年145,878人、2013年21.6万人と急増しており、ハイキング気分で一部だけを歩く人、いくつかに区切って数年で一つのコースを完歩する人などを含めれば、毎年この数の数倍、あるいは数十倍の人がこの道を歩いていると思われる

なお、巡礼者が急増する「聖年の年(7月25日が日曜のときに聖ヤコブが殉教した。そのため、7月25日が日曜の年には特別なお祭りがある)」については、1993年99,436人、1999年154,613人、2004年179,944人、2010年272,135人となっている。今後は2021年、2027年などが「聖年の年」。

②道別の内訳

2010年の1年間に巡礼証明書(前述)をもらいにきた巡礼者の総数は272千人であり、うち、最も一般的な「フランス人の道」を歩いた人が189千人とたいへん多いのに対して、「ポルトガル人の道」を歩いた人は34千人と少ない。なお、これらは最後の100kmを歩いてサンティアゴまで到着した人の数であって、これらの道の途中だけを歩いて帰宅した人は含まないので、それを入れればこの道を歩いている人の数はもっともっと多い。

③出発地と国別の内訳

「ポルトガル人の道」の出発地別内訳は、リスボン718人、ポルト5,894人、トゥイ18,121人などであり、リスボンから出発する人が極めて少ないこと、行程の途中から増えてくること、特にスペインに入ってからの最初の都市・トゥイから歩く人が多いことなどの特徴がある。

一方、「ル・ピュイの道」については、この年にル・ピュイを出発点としてサンティアゴまで約2ヶ月の長距離を歩き通した人の統計しかないが、3,280人と、リスボンからの出発者の約4倍となっている。ル・ピュイの道を歩く人はフランス人の道よりはるかに少ないが、私のようにサン・ジャンまでの人や途中の数日間のみをハイキングする人も合わせれば、ポルトガル人の道よりはかなり多いと推定される。

なお、巡礼者総数272千人の国籍別内訳は、スペイン188(単位千人。以下同じ)、ドイツ15、イタリア14、フランス9、ポルトガル8、イギリス2、アメリカ3、カナダ2、ブラジル2などであり、日本人のみの統計はないが、日本、韓国、中国等を含めたアジア全体では2,462人となっている。
5)その他、いくつか。

・サンチャゴ巡礼のしるしは帆立貝。
 これをザックに着けて、杖をついて歩く-もっとも着けていない人もかなり見かけた。

私はサン・ジャン・ピエド・ポーの巡礼事務所から無料でもらい、ずっと着けて歩いた。
 みやげも、帆立貝をかたどったものが多い。
巡礼宿に泊るには、巡礼手帳が必要。
 「巡礼手帳」は出発地の巡礼宿や教会で簡単に入手できる。名前やパスポート番号を記入の上で交付され、泊る都度、その宿に固有の印が押される。
 宿泊場所の印がずらりと並んだ手帳は、巡礼をしたことのこの上ない記念になるので、歩く間は、パスポートと同じ位に大切であり、無くさないようにいつも注意をして歩いた。

「巡礼証明書」も後日、大切な記念となる。これはサンチャゴに到着して巡礼事務所に行くともらえるが、もらうには、最低、サンチャゴへの最後の100kmを歩くことが条件で、その証しとして巡礼手帳を提示する必要がある。
・道しるべは「青地に白いほたて貝のマーク」や「黄色い矢印」
 「青地に白いほたて貝のマーク」や「黄色い矢印」の道しるべが、家の壁や樹木等、いたるところにあるので、道に迷う恐れはほとんどない。町の中では数十mおきにある。
 私が「フランス人の道」で、道に迷ったのは4回。早朝出発で暗くて道しるべを見落としたときと、別れ道の両方に道しるべがあるときだった。両方にあるのは、先に行って合流するか、一方がアルベルゲに行くかのときである。
巡礼者用の水飲み場(「フエンテ」という)
 巡礼者用の水飲み場はまちや村の広場にたいていある。森の中にあることも。冷たい湧き水である。私は胃腸に悪いのではと注意して、常にミネラル・ウオーターを買って飲んだが、旅の途中で出会った日本の若者達はフエンテの水を飲んでいた。硬水だが(日本は軟水)、お腹は大丈夫とのこと。人によるようだ。
トイレ
 トイレは、歩いて数時間の距離に点在するまちや村のバル(喫茶店兼飲み屋。後述)にしかない。野山を歩く間は自然の中でとなる。誰もがそうしていた。
その他 
 なお、欧米の人達がこれらの旅を気楽に楽しめる背景には、巡礼路に宿泊費の極めて安い宿がそろっているだけでなく、働いている人でも1ケ月程度の長期休暇が可能という事情があるように思う。これは日本と大きく異なる点であろう

3.四つの巡礼路の比較
1)道の難易度
 歩くのにきびしい道かは、急な登り下りがあるか、宿と次の宿との距離がどれだけあるかなどによるように思う。そんな視点で見ると、
 「フランス人の道」には標高1500mの三つの峠越えがあり、きついと言えるのに対し、他は丘陵地帯の登り下りなので、それほどきつくはない。
 一方、「フランス人の道」には、ほぼ5-10km置きにアルベルゲがあり(ただし、ピレネー越えなど、いくつか例外はあるが)、歩き易いのに対し、他の三つの道は、次の宿がある町までの距離が長く、1日に20-30kmを(ときには1日に34kmも)歩かないと次の宿に着かないことが多い。
 総合的に見れば「フランス人の道」が、二つの峠の頂に宿があるということもあって、最も易しく、初心者向けと言えようか。
  歩く人が多い「フランス人の道」は、助けが必要な時にすぐに人が呼べるという点でも初心者向けであろう。

2)宿の状況 
 巡礼者が泊まる安い宿は主に、スペインでは「アルベルゲ」、フランスでは「ジット」、ポルトガルでは「ペンション」である。なお、ポルトガルでは「消防署」に無料で泊まれる。
 ① 「アルベルゲ」
 スペインで巡礼者が泊るのは、一般に公営や教会運営、あるいは地域のボランティア団体が運営する「アルベルゲ」。1泊朝食付きで5-6€。時には無料で、募金箱に寄付する形式のものもある。その他、個人営のアルベルゲもあるが、こちらは朝食付きで10-15€。ぎっしり並んだ二段ベットに寝る。
 もちろん、アルベルゲが満員だったり、個室でのんびりしたかったりすれば、ペンションや二つ星ホテルに泊る。こちらは20-30€(ほとんどが朝食付)。アルベルゲについては第2章で詳しく紹介したい。
 ② 「ジット」
 フランスには全国に「ジット」というハイカーの宿が存在する。巡礼路にも1日の行程に一つはあり、大部屋に一段ベッドか、2段ベッドで(ときにはプール付邸宅を開放したものや、蒙古のパオに寝るものもあるが)、2食付きが多く、30€前後。素泊りは8-12€。
 ③ 「ペンション」と「消防署」
 ポルトガルで泊るのは「ペンション」。個室。食事なしで15-30€。その他で特筆すべきは、ポルトガルでは巡礼者が消防署に行けば無料で泊めてくれること。私は3回利用したが、貸してくれるのはマット1枚だけで、大講堂の片隅に寝る。
 ただし、利用する人は少なくて、1・2回目は私だけ、3回目も2人だけだった。
3)巡礼者の数と出会いの機会
・「ポルトガル人の道」は、巡礼者との出会いの機会は他よりやや少ない。
・「フランス人の道」は、巡礼者数全体の約7割を占めており、たいへん多く、出会いの機会も多いと言えよう。更にこの道で巡礼者が泊まるのは「アルベルゲ」であり、これは数人から数十人が一部屋に泊る形態なので、そこでも出会いの機会がある。
・これに対し「ル・ピュイの道」は巡礼者の数が少ない。ただし、巡礼者は「ジット」というフランス特有の宿を利用し食事を共にすることが一般的なので、会食を通して他の巡礼者と親しくなれるという特徴がある。
・一方、巡礼者の数が少なく(リスボン-ポルトの間は特に少なかった)、また、行程の前半は個室泊りのペンションなので他の宿泊者と顔を合わせることがほとんどなくて、出会いの機会は前2者よりは、はるかに少ないように思う(アルベルゲが現れるのはポルトガル国内では最後の4日間であり、あとはスペインに入ってからである)。

・なお、私にとっては、言葉が通じないことも出会いの機会を少なくする要因だった。

ただし、言葉がうまく通じなくとも、勇気を持って積極的に話しかけていけば、出会いの場をいくらでも増やすことは可能。

 

4)景色

景色は「フランス人の道」と「北の道」が良い。

「フランス人の道」は1500mの峠を3つも越えるし、丘陵地帯では樹木の生えていない稜線を歩くことが多いので、展望が楽しめる。それと、大聖堂のある都市をいくつか通るほか、後半には中世の雰囲気が残るスペインの農村も通る。

「北の道」については、もちろん、人影の全く見えない寂しい海岸から、都会の賑やかな大海水浴場まで延々と続く海の風景が見どころ。

これに対し、「ポルトガル人の道」は峠越えと言っても、せいぜい標高200m-400mの高さを数回越えるだけ。しかも山林の中なので遠望は効かず、景色の良い所は少ない。ただし、この道は中世の道が当時の石畳や石垣とともに残るところが多いので、中世の町や村の雰囲気を十分に味わうことができる。また、この道には、ポルトなどの中世の都市の見物、ポルトガル名物「アズレージョ」(青いタイル)の鑑賞などの楽しみもある。

なお、「ル・ピュイの道」は丘陵の上のフランスの農村地帯を行き、樹木が少ない牧草地や畑地を行くことが多いので、展望は効くが、あまり昔の道という雰囲気は残っていない。コンクなどの観光地を巡るほかは、フランスの農村を歩けること、フランス語が聞けることが魅力であろうか。

 

第二章

 『 初めてのサンティアゴ巡礼 -「フランス人の道」・800kmを歩く- 』

                              2003年6月26日-8月4日

(この稿は「スペイン・サンティアゴ巡礼の旅 NO1-NO10」を集約し改題したものである)

 最初に写真で概要を紹介する。

<サンティアゴの大聖堂に到着して>

 「あまり感激はない。…大聖堂の奥へ。高い天井。薄暗い大空間が広がる。何かほっとして、心と体が軽くなった感じである。…遊園地を散策。子供達が嬉々として遊ぶ姿を目にしたとき、ふと、(普段の)我に返り、何故か、目頭が熱くなった。」

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(上:サンティアゴ大聖堂の入口にある「栄光の門」を支える中央の柱。柱の上には「サンティアゴ」の立像。一千年の間に数千万人の巡礼者が訪れたことと思う。彼等は到着すると、まず、この柱に手を触れて祈りを捧げた。)

(下:サンティアゴまでの最後の100kmを歩いた人がもらえる巡礼証明書。到着日と名前入り。もう一枚は巡礼手帳。毎日、アルベルゲやホテルに泊まるときに提示し、宿泊を証明する印を押して貰う。手帳は現地の教会やアルベルゲで手に入る。また、「日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会」でも発行してもらえるが、こちらはカラー版で、外国の巡礼者が欲しがる一品である。今ではどちらも私の思い出の宝物。)

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<道>(
前半は乾燥地帯、後半は森の中)

(下:旅の前半は麦畑を行くことが多い)

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(下:ヒマワリ畑)

(ビアナを望む)

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(下:眼下にアストルガ)

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(下:一日中、家のほとんどない平坦な畑の中を行くこともある。)

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(下:旅の後半は雨の多い地帯に入り、森の中を行くことが多い。)

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(下:丘陵地帯の登り下りもある)

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<宿>

(アルベルゲは2段ベッド)

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(下:「フランス人の道」はメインの巡礼路なので、アルベルゲは混むことが多い。午後の開門を待って長い行列ができることも)

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(イラゴ山中、廃村・マンハリンのアルベルゲ)

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(下:シツル・メノーの教会で一泊。祭壇の前。ぐっすり眠れた。)
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