山への思い
山への思い
◎ 登山は挑戦(「登山および旅行記」の一部)
人が山に求めるものはさまざまであろう。雄大な自然を求めて、あるいは里山のどこか懐かしい雰囲気を求めて山に入る人がいる。
また、未知の世界を歩きたい、絵を描きたい、写真を撮りたい、あるいは仲間との語らいを楽しみたい、瞑想にふけりたい-といった思いの人もいる。
でも、山の懐(ふところ)は限りなく広く、それらのすべてを受入れてくれる。そこには、人それぞれの山の楽しみ方があり、どれがよくて、どれが悪いということはない。
そんな中で私が登山に求めるのは、「挑戦」の対象としてである。
自分のレベルぎりぎりの山にチャレンジすることは、人の心をリフレッシュさせる。力の限界に挑み、困難を乗り越えて何かをやりとげようとすること、それは人の心を夢で満たし、わくわくさせる。それは日常の生活をも活性化する。
人生には、会社組織の歯車の一つに組み込まれて自分の努力の結果が見えないものや、先の見通しがないままに何年も粘り続けなければならないものがあるが、登山や冒険旅行では、自分の努力が成功に直接結びつくし、がんばる期間が限られていて、終わった後には快い休息が待っている。
◎ 単独行
私は、独りで山に行くのが好きだ。マイペ-スで山頂をめざす。普通、2-3時間は休まずに歩く。誰もいない山の中、山はいろいろな姿をみせる。
夏の塩見岳-森に朝日が差し込み、露を宿した木々の葉がキラキラと輝く。
飯豊連峰-初秋の暑い日差しの中、無数の、それこそ数千という赤トンボが山肌に群がる。
朝日連峰-山道に人影はない、地平線が赤く染まり、薄闇の中に山が沈む―――。これらが発する何かが心にしみ込み、心を包む。爽快さ、ものうさ、なつかしさ、深い落着き---。景色に応じて、いろいろな感情が心をよぎる。
◎ 登頂したときの喜び
山頂に立ったときに得られる満足感の大きさは、山の難しさと自分の力量との差に比例する。普通の人には易しい山でも、高齢者にとっては難しく、登ったときの満足感は大きい。逆に、普通の人にとっては難しい山でも、ハイレベルの技術を持った人には全くつまらない山に感じるであろう。
マッキンリー。それに登ることは8000峰に挑む一流の登山家にとっては足慣らし程度にすぎないが、私にとっては、全力を尽くしやっと登った山であり、その満足感は極めて大きかった。
◎ 海外登山に行ける人は少ない。私は幸運(「登山および旅行記」の一部)
海外登山には、お金と休暇と健康、それに家族の了解が必要である。
勤めている人にとっては、マッキンリーは最低でも2週間の休暇が必要であり、私は1ケ月近くの休暇を必要とした。
エベレストの場合は3ケ月が必要であり、この登頂に成功した知人は職場を辞めて参加している。
私の場合は何とかそれらの条件を満たすことができた。
日本には、登れる力が充分あるのにこれらの条件が整わず、海外の山に行けないという人が数多くいる。今、振り返ると、そんな中で、私は本当に恵まれていたと思う。それを考えると、海外登山に行ったことを得意気に話すのはチョッピリうしろめたい気がする。
◎ 登頂に成功するには
登頂に成功するには、体力と技術のほかに、高山病対策がうまくいくこと、天候に恵まれることが必要である。その上、良き指導者(高山病対策等の)に恵まれれば更に良い。
高山病対策。それには、事前に体力をつけ、富士山に数回登るなどして、できるだけ高度に慣れておくこと(密室の入り気圧を下げて高度順化をはかる方法もあるという)、登山中はゆっくりと登ること(キリマンジャロでは自信がなくて、いつも最後を歩いていた人が登頂当日は一番で山頂に達した。
逆に前日までは飛ぶような早さで元気良く歩いていた若者が登頂当日はふらふらになってしまった)、高所への登り下りを繰り返すことで体を慣らすこと(私は小屋に着くと、その日のうちに更に数百m登って体を慣らした)、水を多く飲むこと、増血剤(鉄剤)を飲むことなどがあるが、個人の体質も関係する。効果が大きいのは前3者であろう。
成功の最後の鍵は天候に恵まれること。これは晴天を神に祈るしかない。マッキンリーでは、「悪天候で登れなかった」と言いながら下りてくる、いかにも登山のベテランと言ったたくましい外国人登山者に何人も会った。
アタックキャンプで晴天を待つのだが、食料が尽きてやむをえず下りてくるのである。夏のマキンリーで晴れる日の確率はほぼ50%であり、その他の日は吹雪いている。私の場合、アタックの日は最後まで晴天・無風という好条件に恵まれた。
◎ 仲間と行く登山
私の登山は「挑戦」である。単独行が多い。
でも、登山には仲間と一緒に行き、喜びを共有するという楽しみもある。
親しい友人と行くときは、会話も楽しい。心が解放される。
昔、登山の経験があまりない職場の仲間数人と行ったときは、山のすばらしさを知ってもらい、その人達が喜んでいるのを自分も感じ、喜びを共有した。山頂に到達し、眼前に広がる景色を一緒に眺めながら「どう、すばらしいだろう」と誇ってみたい気持になった。
最近は単独で行くことはほとんどなくなった。1年に一度行くかどうかである。
年に30回位は行くが、すべて、視覚障害の方をサポートしての登山である。でも、その人達が登山を楽しんでいるのを自分も感じ、その喜びを共有している。
視覚障害の方の感覚は晴眼者以上に鋭い。林を抜けて峰を渡る風を肌で感じる。ふわっとした土や落ち葉で埋まった道、残雪で凍った道を足で感じる。鳥の声や風の音を聞く。木の間から差し込む日差しに季節を感じる。
ときには、大きな木や小さな花に手を触れて、その感触を楽しむ。登頂できたときの「やったー」という達成感は格別のものがある。木立のない山頂では、音の反響がないので、周りに何もない天空に立ったという解放感に包まれる。仲間との会話も楽しい。そんな喜びを私も共有している。
◎ 人間の不思議さ
単独行の山は、自分のために行くものであり、人のためではない。また、自分のためと言っても、衣食住を手に入れるためではない。素人のスポ-ツは全て、そうであろう。しかも人間は、それをやり遂げたときに、涙を流すほどに感動する。また、それをみた人間も感動で胸を震わす。オリンピックでの優勝などはその最たるものである。
それは人間だけの特徴だ。ほかの動物にも、たとえば、鳥が大空を舞うのを楽しむように、運動を「楽しむ」という習性はあると思われるが、それに「全力で挑戦する」ことはないであろう。
大昔の、人が生きるために必死であった時代には、人間もこのようなことをしなかったのではないか。今は、仲間を守るためでもないし、衣食住を得るためでもない--ある意味では無益な行為に、人は敢えて挑戦する。ときには命を懸けて。
人間社会が生み出してきた文化というものの意味がここにはあるように思う。衣食住が満ち足りたとき、人が求めるものは? なぜ求めるか? スポ-ツ、絵画、音楽に共通するのは、何かすばらしいことをやり遂げる喜びである。
それに参加しない者にも、観戦し、鑑賞するという楽しみがある。また、絵画、音楽には、物事の意味を解釈するという楽しみもある。人間は生きることを充実させるために、これらを行う。


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