キリマンジャロ登頂記
キリマンジャロ登頂記 1991年8月3日(土)-8月14日(水)
(山頂・ウフルピーク・5896m。写真4枚)
(下:山頂のお鉢のふち「ギルマンズ・ポイント」・5682mにたどり着いた後、ふちを巡って最高点へ。あと、2時間。)
(下:山頂のお鉢のふち「ギルマンズ・ポイント」から、キボハットへの下山路を見下ろす。疲れて足が前に出ない。)
(下:初日、歩き始める。最初は森の中)
(左の奥にキリマンジャロ。中央はマウエンジ峰5151m。)
(3日目は岩と砂の広々とした砂礫帯を行く)
(下:最後の小屋・キボハット・4700m。ここから真夜中に山頂を目指す)
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/FEsqqJ?authkey=NfRzvrK2-YA
<はじめに>
アトラストレック社のツアーに参加。インド航空を使ったので、インドのボンベイ(現・ムンバイ)で1泊し(帰りも1泊)、ケニヤのナイロビ空港へ。そこからマイクロバスで大草原を越え、キリマンジャロのあるタンザニアに入る12日間の旅である。
参加者12名のほかに旅行社から添乗員が1名同行し、登山中も世話をしてくれた。
キリマンジャロはたいへんゆったりした山であり、岩登りや雪山等の登山技術を全く必要としない。
また、登山中はすべての荷物を現地雇いのポーターが持ってくれるので、重い高山病にならなければ、6000mに近い高さがあるが、誰にでも登れる山である。日本の登山店の人に言わせれば「あの登山は本来の登山とは言えない。荷物を持ってもらい、3度の食事を作ってもらう優雅な大名旅行だ」とのこと。
ただし、高山病との闘いという点では間違いなく登山である。
<登頂の日>
前日は午後7時に就寝。小屋は暖かい。ぐっすり眠り、午後11時に起床。
登頂当日、一行13人と現地のガイド5人は真夜中の0時30分にキボ・ハット(4700m)を出発した。
同宿した約100人の登山客(登山を終えた人はここには泊まらないので、すべてが頂上を目指す人)の中では早くスタートしたほうである。真っ暗。月はない。
登山口からここまでの3日間は、平地を歩くようなゆるやかな登山道だったが、ここからは富士山と同じような、小さく砕けた岩でざらざらした斜面をジグザグに登る。
上や下で懐中電灯の光がいくつもチラチラしている。1時間位は順調に登ったが、だんだん足が重くなり、10分ほどの休憩を何回かとる。
ゴアテックスの雨具兼防寒着を着けていたが、すごく寒くて震えが止まらない。マイナス10度位か。赤道直下だったので、防寒対策を軽視したのはまずかった。
日本から持ってきた薄いダウンのジャケットも着る。それでも寒い。しかも、腹痛が始まる。緊張のためだろうか、それとも高山病対策の利尿剤を飲んだせいだろうか。
ツアー仲間の女性が一人、寒がっている。男性は皆、衣服や水筒の入ったザックを自分で持って登ったが、女性はザックをガイドに預けて、空身で登る人が多かった。
その女性はガイドと暗闇の中ではぐれ、ダウンの上着を取り寄せることができないという。とりあえず、私のザックに入っていたトレーニングウエアを貸す(この後、2007年に行った女性の話では、今は、お金を払えば山頂まで同行する専用のガイドが雇えるということだ。帰りの斜面では、そのガイドは、疲れて動きが鈍った彼女を抱えるようにして下ろしてくれたとのことである)。
3時間を過ぎる頃から、歩くのがきつくなった。懸命に足を前に出す。空気が薄い。皆にやっと付いていく。とにかく寒い。
ガイドが「あと40分」という。岩場になった。
やっと「ギルマンズ・ポイント(5682m)」に着く。ふらふらである。最後の40分の何と長かったことか。
ここは山頂のお鉢の一角。とりあえず、お鉢の端までたどりついた。
疲れた。「お鉢の向こう側にある最高点のウフル・ピークに行くのはあきらめよう」と思う。そこまで行く気力を完全に失ってしまった。
13人のうち、11人が到着。6時5分。まだ、日の出前。
ところが、30分ほどそこで休んでいたときのことである。ご来光を迎え、マウエンジ峰の左手の雲の中から太陽が顔を出した。
ぱっと日がさす。暖かい太陽の光を浴びて、体が急に温かくなり、再びウフル・ピークを目指す気力が湧いてきた。太陽が私に元気を与えてくれたのである。
9人がチーフガイドのリビングストン氏に先導されて出発。お鉢のふちを歩き始める。初めはゆったりした下り。元気よく歩く。しかし、登りにかかると急に苦しくなり、また、足が重くなる。
登山道には雪はないが、お鉢の外側の、やや下の斜面にはぶ厚い万年雪が見える。厚さは20-30m位か。
日が昇り更に暖かくなる。苦しい。ともかく一歩一歩、懸命に足を前に出す。延々と2時間近くを経過。ピークに出て、登りきったと思ったが、まだ山頂ではなかった。
平らなところには出たが、山頂は平地のはるかな彼方。やっと山頂にたどり着き、「ウフル・ピーク(5896m)」の標識の下に倒れ込む。
私は3番目に着いた。昨日までは元気で、先頭に立っていた若い男性2人は、私が着いたあとにふらふらで到着。彼らは、登頂ができたら乾杯をしようと缶ビールを持ってきていたが、気分がすぐれず、それを飲むことはできなかった。
ビックリしたのは、前日までは登れるかと誰よりも不安がり、いつも後方を歩いていたもう一人の若い男性がトップで到着したことである。最も弱いと見られていたのに、トップで登頂するとは。登山では、毎日ゆっくりとマイペースで歩くことが成功の鍵のようだ。
添乗員も入れて8人がウフル・ピークの登頂に成功。
記念写真を撮ったあと、2時間をかけてギルマンズ・ポイントに戻る。午前10時、遅れていた女性2人がガイドと一緒に登ってきた。
結局、ギルマンズ・ポイントまでは全員が登頂したことになる(聞くところでは、一般にギルマンズ・ポイントまで行ける人は全体の2/3、ウフル・ピークまでは1/3という。我がグループの登頂率はかなり高いほうに入るようだ)。
ここからはザラザラな急斜面の下り。はるか下に今朝出発したキボ・ハットの屋根が見え、疲れていない人は飛ぶように駆け下りていく。私もガイドに促され駆けおりたが、すぐに動けなくなった。
下りなのに足が前に出ない。高山病だろうか。何とか、一歩だけ足を出す。また、一歩を。そんな形で、休み休み、ゆっくりと下りていった。
この日はキボ・ハットを通過し、ホロンボ・ハット(3720m)まで下る。13時着。
<全行程>
1991年 (現地時間)
8月3日 成田 12:20発 インド航空
インド・ボンベイ 22:00着 セントール・ホテル泊。
4日 ボンベイ 16:00発 出発まで、ツアー仲間と周辺散策。
ケニア・ナイロビ 19:20着 ジャカランダ・ホテル泊。
5日 ナイロビ 9:00発 大型ジープで草原を走る。遠くにキリンやダチョウを見る。
タンザニア・マラング 16:00着 キボ・ホテル泊。
8月6日
晴れ。車でマラング・ゲートの登山事務所(1800m)へ。9時着、9時40分登山開始。現地のガイド5人と約20人のポーターが一緒。
現地でのあいさつは「ジャンボ」(こんにちは)、「ポレポレ」(ゆっくり)など。密林の中、平地に近い広々とした道を行く。3時間でマンダラ・ハット(2727m)へ。宿泊。3時のティー・タイムはビスケット。
宿泊施設は2段ベットで4人用の三角屋根の小屋。太陽電池使用。
食事は大きなメインハウスで。固い肉、牛タン、スパゲッティー、バナナ、パン、野菜いため。
8月7日
8時スタート。晴れ。30分で密林を抜け平地に近い草原へ。初めて、雪を頂くキリマンジャロを望む。
延々とゆるやかな道。ポーターが作ってくれた昼食のサンドイッチを食べたりしながら、のんびりとした気分で歩く。14時40分、ホロンボ・ハット(3720m)着。高所順応のために更に仲間数人と1時間ほど登る(ここに2泊して高度順応をはかるツアーもあるもよう。そのほうが登頂の確率は上がる)。
8月8日
8時10分スタート。晴れ。傾斜のゆるい荒野を行く。初めは草があったが、後半は草もない砂礫帯(固い砂漠のようなところ。サドルという)になる。曇って寒い。
14時30分にキボ・ハット(4700m)着。
また、晴れる。皆は寝ていたが、高所順応のため、一人で5000mの黄色い標識のある所まで登る。15時50分着。このまま、頂上まで行けそうに思えるほどに快調で、登頂への自信が湧いてくる。周囲には全く人影なし。
マウエンジ峰が夕日をあびて赤く輝く。小屋まで20分で駆け下りた。
8月9日
登頂日。詳細は上記のとおり。登頂後、ホロンボ・ハット(3720m)へ。
10日
5時45分起床。7時30分スタート。雨。マラング・ゲート着11時。
登頂の日にやっとギルマンズ・ポイントまでたどりついた女性の一人が、体力を使い果たした模様で、夕方になって到着。車でアルーシャへ。
マウントメルー・ホテル泊。
11日
車でナイロビへ。タンザニアからケニアに国境を越えところには、みやげ物を売る現地の人が一杯。しつこくまとわりつかれる。ナイロビでは高級レストランで肉の昼食。市内見物。
20:45発 インド航空。
12日
ボンベイ 5:15着。市内観光。セントール・ホテル泊。
8月13日 ボンベイ15:15発。14日 成田 8:30着。
<その他いくつか>
(高山病対策)
よく言われていることだが、次のようなことが考えられる。
1)行く前に富士山に登り、高所に慣れておく。私は7月に3回登った。日本には有料だが、高所を経験できる施設もあるもよう。
2)登山が始まったら、どんなに元気でも、ゆっくりと歩く。苦しくなったら、深呼吸をし、酸素を充分にとる。
3)宿泊地に着いたら、当日中に1時間程度登っておく。
4)水を充分に飲む。
5)利尿剤を飲む。ただし、胃には負担となるが。
(奇遇・添乗員のSさんとの出会い)
奇遇だったが、添乗員のSさんは、私の知人と知り合いだった。
それが分ったのはキボ・ホテルで私の知人に絵ハガキを出そうとしたときのこと。
たまたま、そばにいたSさんがその宛名を見て「その人、僕の親友」と言うのである。びっくりした。
私の知人というのは、私が仲人をしたKさんのことである。小さい頃、多摩川で魚とりに行くときは、いつも彼をお供に連れて歩いた。そのKさんがSさんの親友とは。
二人は若いころに同じ山岳会に入って山に行った仲間だが、今も付き合いがあるという。
SさんはK2にも挑戦し、山頂直下数百mの地点にまで達した山のベテランである。
帰国後、3人で懇親の機会を持ったが、SさんはKさんの結婚式に参加していたということも分かった。
(インドを見る)
旅の途中、インドに立ち寄りその実態をほんの少し見て、衝撃を受けた。何という貧しさ。
ボンベイは大都会なのに、貧しい人達が溢れていた。中心街に通じる車道の所々にゴミの山があり、その中から何かを拾おうと群がる子供達。ビルの壁に添って黒いビニールをテント状に張って暮らす人達。ビニールシートの上では赤ん坊が寝ていた。
赤信号で車が止まると、物乞いがどっと寄ってきて手を差し出す。公園には、働き口がないのか、若者が生気のない顔でずらっと座っている。
2008年の今もそうなのだろうか。その後、中国、タイ、ベトナム等を旅したが、これほどの貧困には出会わなかった。
世界は広い。
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